デイブ・ニーハウス

2013年3月1日、「イチローは僕のヒュミドールなんだ」 〜 マイク・モースだけにしかわからない「『イチローのいるシアトル』の甘く、ほろ苦い香り」
2011年12月16日、ダフ・マッケイガン、ガンズ・アンド・ローゼスのシアトル公演で、オープニングアクトだけでなく、本公演にも飛び入り参加。
2011年4月8日、シアトル開幕戦。デイブ・ニーハウス トリビュート、「ホワイトシューズ」の日。
2011年1月7日、名GMパット・ギリック氏と、彼のお気に入りの名二塁手ロベルト・アロマーの同時殿堂入り。そしてイチロー。
2010年11月15日、デイブ・ニーハウスにとっての「ラスト・マリナーズ」。

March 02, 2013

Davidoff Humidor No.6Davidoff Humidor No.6


2002年に亡くなられたパンチョ伊東さんの体調は2000年頃にはすでにかなり思わしくないものだったようだが、9月1日にホワイトソックスの本拠地、「新しいほう」のコミスキー・パークを訪れた、と記録にある。(パンチョ伊東のメジャーリーグ通信)本当に野球が好きで好きでたまらない方だったことがよくわかる。頭が下がる。

球場では試合前、旧知の間柄のホワイトソックスオーナー、Jerry M. Reinsdorf (ジェリー・ラインズドルフ。1936年ニューヨーク・ブルックリン生まれ。マイケル・ジョーダンが所属したシカゴ・ブルズのオーナーとしても有名)に偶然出会い、スイートルームに招かれて葉巻を勧められたという。
たとえMLBの球団オーナーになるような富豪であっても 『旧知の友人』 で 『気軽にスイートに招かれる』 というのが、パンチョさんのMLB人脈の無尽蔵さを物語る。感心するほかない。


2000年9月にパンチョさんが訪れたコミスキー・パークというのは、今でいうと、USセルラー・フィールドだ。というのも、1910年開場した旧コミスキー・パークが1991年に取り壊され、新たに建設されたホワイトソックスの本拠地は2003年まで旧球場と同じ『コミスキー・パーク』を名乗ったからだ。
だが、古くからの熱狂的なMLBファン、enthusiastであるパンチョさんが2000年9月の記事でUSセルラーを「コミスキー・パーク」と呼んでいらっしゃるのをあらためて見ることのほうが、かえって時代の「匂い」がリアルに感じられて、とてもいい。やはり時は移り変わるものなのだと、かえって時のうつろいが身にしみる。

2000年のホワイトソックスは、主砲フランク・トーマスの復活などもあって、約40年ぶりのワールドシリーズ進出か、と騒がれたほどの好調ぶりで地区優勝を果たすことになるのだが、ア・リーグ・ディヴィジョンシリーズ(ALDS)で、ワイルドカードでポストシーズン進出してきたシアトルに3連敗してしまい、世界制覇の野望は潰えてしまった。
(ちなみに、ホワイトソックスの日本語版Wikiにシアトルに負けたのが「リーグチャンピオンシップ」、つまりALCSであるかのような記述があるが、間違っている 2000 League Division Series - Seattle Mariners over Chicago White Sox (3-0) - Baseball-Reference.com

この翌年、2001年には、メジャー移籍したイチローセーフコで行われたMLBオールスターに出場することになった(イチローがランディ・ジョンソンから内野安打を打ち、盗塁したゲーム)が、体調の思わしくないパンチョさんは現地観戦できなかった。コミッショナー、バド・セリグはオールスター当日、パンチョさんからプレゼントされた黄色のネクタイをしめていた、という。



2002年オールスターは7月9日にミラー・パークで行われ、イチローも2年連続で先発出場しているわけだが、パンチョさんはイチロー2年目のオールスターの5日前、7月4日に亡くなっている。おそらく天国のブリーチャーから熱心に観戦なさったことだろうと思う。

Bleacher


ジェリー・ラインズドルフは、パンチョさんにすすめた葉巻の銘柄について、こんなことを言っている。
「キューバの上物は手に入らないが、
このドミニカ産もいいんだぜ」
となると、ラインズドルフのすすめた葉巻は、キューバ産の代表ブランド、コイーバ(Cohiba)やモンテクリスト(Montecristo)ではなく、キューバ産に比肩するドミニカ産葉巻で、1990年に生産拠点をキューバからドミニカ共和国に移したプレミアム・シガー、ダビドフ(Davidoff)だっただろう、ということになる。

Davidoff Aniversario - No.2

高級な葉巻の保管については、乾燥によるヒビ割れや、湿り気による青カビを防ぐために、humidorと呼ばれる専用箱に入れられ、湿度が70%前後に保たれる。(ちなみに香水を保管する箱を、高級葉巻の保管箱であるhumidorになぞらえて、Fで始まる綴りに変え、fumidorと呼ぶこともあるらしい)


今シーズン、三角トレードでナショナルズからシアトルに出戻ったマイク・モースだが、彼は元をただせば、パンチョさんがコミスキー・パークを訪れた2000年にホワイトソックスに入団している選手だ。(2000年6月19日に行われたアマチュアドラフト3巡目。全体82番目。パンチョさんが稀代のMLB通なのはいうまでもないが、シカゴ入団当時のモースの存在に気づいていたかどうかまではわからない)
3rd Round of the 2000 MLB June Amateur Draft - Baseball-Reference.com

そのモースがシアトルに来たのは、2004年6月27日にシカゴのモース、ミゲル・オリーボ、ジェレミー・リードと、シアトルのフレディ・ガルシア、ベン・デービスという3対2のトレード。そして、2009年6月28日にライアン・ランガーハンズとの1対1のトレードでナショナルズへ移籍した。
モースのシアトルにおけるキャリアのかなりの部分は、タコマでのマイナー暮らしで、メジャーでの出場試合数はわずか107ゲーム、打席数にして337打席でしかない。
モースがシアトルでの不遇時期に何を思っていたかはよくわからないが、少なくとも彼がナショナルズで開花した形になってから、三角トレードで古巣に凱旋したとき、彼がかつてシアトルに在籍した2004年から2009年までずっとチームの主力だった選手は、もう誰ひとり残っていなかった。(モースの在籍期間にフェリックス・ヘルナンデスが本当にエースといえる活躍をしたのは2009年のわずか1年だけでしかないし、2009年にシアトルに来た外様のフランクリン・グティエレスは「モースにとって、シアトルの匂いのする選手」ではないはず)


最初に挙げた文章を、どう訳せば、モースの使った Humidor という言葉の香りが損なわれずに済むか。


直訳すれば、「イチローは、僕に必要不可欠な湿めり気なんだ」とか、「イチローは、高級葉巻がクオリティを保つのに必要な『適度な湿度』をキープしてくれる宝箱的な存在の選手だ」とかいうことになる。
もっと意訳するなら、「自分がかつてシアトルにいた時代に嗅いだ あの『かつてのシアトル・マリナーズらしい香り』は、いま『イチロー』という存在の中に封印されている。その香りは常に僕に自分自身のかつてのシアトル時代を思い起こさせる」、とでもいうようなことになる。
シアトルでマイナー暮らしの長かったモースにとって、メジャー移籍直後からずっと目覚ましい活躍をし続けていたイチローは、いつかは自分もあんな風に第一線に立って活躍するんだという目標、あるいは、マイナー暮らしに耐えながら自分に対する自信を見失わないための支柱だっただろうと思う。

2001年のオールスターには8人もの選手がシアトルから選ばれ、さらにスターティングメンバーに4人もの野手が選ばれている。(イチロー、ブーン、オルルッド、エドガー)
モースは、シカゴで「強かった時代のシアトル」を知り、さらに「イチローのいるシアトル」にやってきて、やがて巣立ち、そして「イチローのいないシアトル」に戻ってきた。モースにとって、「イチローのいるシアトル」こそが「彼にとってのシアトル」なのは当然だ。
(ついでに言えば、それは2010年11月に亡くなったデイブ・ニーハウスにとっても同じだったはずだ。かつてブログに書いたように、「イチローのいるシアトル」こそが、「彼にとっての最後のマリナーズ」だった。 Damejima's HARDBALL:2010年11月15日、デイブ・ニーハウスにとっての「ラスト・マリナーズ」。

とすれば、最初の文章は、「イチローは僕にとって、僕がかつてのシアトルに感じた香りを封じ込めておいてくれる葉巻の箱のような存在なんだ」とか、軽く訳しておくだけでいいかもしれない。だが、それではモースがせっかく「ヒュミドール」という言葉を使って漂わせたかった「甘い想い出が発酵したときにだけ生じる、独特のかぐわしさ」や、モースがシアトルでの不遇時代に味わった「自分史における、ほろ苦さ」の微妙な感覚は消えうせてしまう。
匂いが消えてしまえば、シガーは台無しになる。もちろんジャック・ズレンシックの作った「匂いの消えうせたシアトル」は、「台無しになった後のシガー」だ。


結局、Humidorは、Humidorだ。そのまま味わうしかない。
そんな気がする。

伊東さん。それでいいっスよね。

damejima at 07:17

December 18, 2011

去年の6月に行われたイチローとケン・グリフィー・ジュニアのダブル・ボブるヘッド・デーにふらりと現れたダフ・マッケイガンは、シアトル出身で、ガンズ・アンド・ローゼスのオリジナルメンバー。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年6月18日、イチローとグリフィーのダブル・ボブルヘッド・デーにふらりとやってきた元ガンズ・アンド・ローゼスのダフ・マッケイガンは「レイカーズが大嫌いなんだ」と言った。

16日シアトルのキーアリーナ(KeyArena)で行われたガンズ・アンド・ローゼズのシアトル公演で、オープニング・アクトを務めたダフ・マッケイガンが、ガンズのパフォーマンスにもジョイント。
ダフが去年のガンズのロンドン公演にが飛び入り参加して17年ぶりの共演を果たしたのに続くハプニングを、ダフの出身地であるシアトル公演にも期待した地元ファンに応えた。さっそくYoutubeのほうに動画が上がったが、削除される前に見ておくべし。
来年ガンズはロックの殿堂入りが予定されているが、そのときのギグにダフが参加することになるのは、このジョイントぶりを見るかぎりは、ほぼ決定的と思われる。

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シアトル市街地の北にあるキーアリーナ(旧シアトル・センター・コロシアム ネーミングライツを持っているKeyBankはクリーブランドに本拠を置く銀行)は、以下の地図のB。南にあるセーフコ・フィールドは、地図のAで、セーフコからキーアリーナは3マイル弱。




ちなみに、セーフコ・フィールドの南側の道路はエドガー・マルチネスの名前がつけられた「エドガー・マルチネス・ドライブ」だが、西側の道路は1st Ave. Southという名称だが、亡くなったデイブ・ニーハウスを弔う意味で、Royal Brougham Wayと「エドガー・マルチネス・ドライブ」に挟まれた部分が臨時に「デイブ・ニーハウス・ウェイ」と呼ばれている。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年4月8日、シアトル開幕戦。デイブ・ニーハウス トリビュート、「ホワイトシューズ」の日。

セーフコ・フィールドと「デーブ・ニーハウス・ウェイ」

Safeco Field


まったく、ガンズにも、ダフ・マッケイガンにも関係ない話だが、キーアリーナは、かつてNBAシアトル・スーパーソニックスの本拠地だったわけだが、スーパーソニックスのオクラホマシティ移転により、メインの「テナント」を失い、KeyBankはネーミングライツに関する契約を更新しないことを決定している。
このため、キーアリーナはやがて名前をかえることになる。
Name change coming to KeyArena | Public Spaces | Queen Anne News
NBA、NFL、MLBの1シーズンのホームゲームの数を考えると、例えばフットボールの1試合当たりの観客動員数がいかに多くとも、ホームゲームの試合数そのものが少ない。
そういったことを考えると、年間ゲーム数の多い「野球」というスポーツが、いかにスタジアムの経営・維持にとって効率のいい「テナント」かがわかる。
ちなみに、セーフコ・フィールドのオーナーは、Washington-King County stadium authority。ネーミングライツ契約は、シアトル地元の保険会社Safecoと2019年までの20年総額4000万ドルで、1年あたり200万ドル。(この契約額について、日本語Wikiには「20年180万ドル」と書かれている(笑)こんな書き方では「1年あたり9万ドル」と誤認されかねない。英語資料では大抵の場合、年200万ドルという数字になっている)

damejima at 07:21

April 09, 2011

 
デイブ・ニーハウス メモリアル

さぁ、待ちに待ったシアトルの開幕デーがやってきた。
ファンは、スタジアムの観客の靴の色にご注目。

始球式は、デイブの奥さん、マリリン・ニーハウス

My Oh My!
White Shoes
!


シアトル・マリナーズ オーガニゼーションからの「お願い」
Mariners to honor late Hall of Fame broadcaster Dave Niehaus at home opener | Mariners.com: News
Seattle recording artist Macklemore will also perform his "My Oh My" song, which was written in memory of Niehaus shortly after his death last November. Fans are encouraged to wear white shoes as a lighthearted tribute to Niehaus and his unique sense of fashion.

マリナーズからデイブ・ニーハウスへの感謝を表す動画
Baseball Video Highlights & Clips | Mariners thank broadcaster Dave Niehaus - Video | Mariners.com: Multimedia


デイブ・ニーハウス トリビュートに関する記事
If You're Headed To The Mariners Home Opener, Please Wear White Shoes - The Daily Drip - SB Nation Seattle
The Seattle Mariners have asked fans attending Friday night's home opener to wear white shoes. Dave Niehaus was known for his casual attire and the white shoes are meant as a tribute. So, if you have white shoes, wear them. If you don't, buy a pair, borrow a pair or paint your shoes white. I don't care how you do it, just show up to Safeco Field in your best white shoes.

Mariners | What you need to know about Mariners' home opener | Seattle Times Newspaper

デイブ・ニーハウス トリビュート 開幕デーの「白い靴」

開幕ゲームを控えたセーフコのフェンス


セーフコ・フィールドの東側の通り、すなわち、1st Ave. Southの、Royal Brougham WayとEdgar Martinez Drive Southに挟まれた部分が、一時的にDave Niehaus Wayと名づけられ、通りを示すサインも変えられている模様。
下のグーグル・マップのセーフコの左側の通りが、臨時の「デイブ・ニーハウス・ウェイ」。

デイブ・ニーハウス・ウェイ
臨時のデイブ・ニーハウス・ウェイ


大きな地図で見る


Baseball Video Highlights & Clips | Opening Day ceremony at Safeco Field - Video | MLB.com: Multimedia
10年連続ゴールドグラブ表彰式
イチロー10年連続ゴールドグラブを祝うセレモニーにかけつけたエドガー・マルチネス







damejima at 07:26

January 08, 2011

たぶん去年亡くなった名物アナウンサーデイブ・ニーハウスさんも草葉の陰で喜んでいらっしゃることだろう。
元マリナーズGMでもあるパット・ギリック氏と、カル・リプケンや、オマル・ビスケールとのコンビで知られる名二塁手ロベルト・アロマーがそろって殿堂入りを果たした。今年は春から非常に目出度い。

Pat Gillick - Wikipedia, the free encyclopedia

2011 Hall of Fame Voting - Baseball-Reference.com


日本のマリナーズ・ファンは誰もが知っている話だが、ギリック氏はマリナーズに来る前に、トロント・ブルージェイスのGMとして、地区優勝5回、2年連続ワールドチャンピオン、またボルチモアのGMとして地区優勝するなど、既に大きな成功をおさめていた。
マリナーズのGMになってからも、チームをシーズン勝利数のMLBレコード116勝を記録するような強豪にし、また、マリナーズの年間観客動員数を当時のMLBトップにもしており、さらに最近ではフィラデルフィアのGMとしてワールドチャンピオンになっているわけで、彼のGMとしての手腕の素晴らしさは言うまでもない。


ブルージェイズは、MLBがチーム数を増やした1977年のエクスパンジョンで、マリナーズなどとともにできた新しいチームなわけだが、ブルージェイズでの前任GMは、あのビル・バベジの兄のピーター・バベジ(苦笑)。ピーター・バベジ時代のトロント・ブルージェイズは創設されたばかりで、創設翌年の78年から3年連続100敗以上、82年まで6シーズン連続の最下位を記録している。
もちろん、マリナーズでのギリックの後任は、ピーターの弟の、あのビル・バベジなわけで、名伯楽ギリックはどういうわけかバベジ兄弟と縁が深い(笑)

創設されたばかりの球団はどうしても負けてばかりの時期を経験するものだが、ギリックは(どこかの兄弟と違って 笑)新興球団を2つ渡り歩いて、どちらでもきちんと実績を残しているのだがら、その足跡には本当に文句のつけようがない。



もともとスカウト出身のギリックが、良い選手を見つけてくるケタはずれの才能を持っていたことは有名なわけだが、今年90%以上もの高い記者得票率でギリックと同時に野球殿堂入りを果たした名二塁手ロベルト・アロマーを90年冬にトロントに獲得してきたGMは、まさにギリック、その人だ。
このときの2対2のトレードでトロントが放出したのは、かつて.322打ったことのあるトニー・フェルナンデスと、89年にホームラン王になったフレッド・マグリフの主軸打者2人だから、ギリックはこのトレードによほどの自信があったに違いない。

さかのぼってみると、ギリックは、シアトルではマイク・キャメロンなどと交換にケン・グリフィー・ジュニアを放出しているし、またフィラデルフィアでもジム・トーミを放出している。
つまりギリックは、「実は盛りを過ぎた強打者に早めに見切りをつける」のが非常に上手い人なのである。

トロントでのアロマーは、移籍してきた91年以降、6年も連続してゴールドグラブを受賞し、92年には初の3割を打ってシルバースラッガー賞も初受賞した。若いアロマーがGMギリックの期待通りの活躍をみせたことなどもあって、ブルージェイズは92年、93年と、2年連続してワールドチャンピオンになった。


95年以降ギリックは、こんどはボルチモアのGMになったわけだが、95年のシーズン後にブルージェイズからFAになったアロマーをボルチモアに獲得してきて、名遊撃手カル・リプケンと黄金の二遊間を組ませた。つまり、ギリックは、グリフィー・ジュニアやトーミは思い切りよく手放したが、アロマーはむしろ手元に置きたがったわけだ。
ギリックのボルチモアは、1996年にワイルドカードを獲得し、1997年には地区優勝している。



何が言いたいかというと(笑)、要は、そのギリックがシアトルにGMとして君臨していた時代に、彼の眼力にかなったのが「イチロー」という選手だ、ということ。

ギリックの眼鏡にかなって活躍し、ついに殿堂入りを果たした名選手ロベルト・アロマー同様に、イチローの殿堂入りも、もはや確実といわれているわけで、キャリア通算10回のゴールドグラブを獲得したアロマーが2004年を最後に引退した今となっては、イチローが2011年シーズンに11回目のゴールドグラブを獲得して、回数でもアロマーを抜くことだろう。
これもなにかの縁とか、偶然とかいうより、名伯楽ギリックに言わせれば「必然的な出来事」であり、彼の眼力には狂いがなかった、ということなのだろうと思う。

Potential Hall of Fame players take stage in 2011 | MLB.com: News

創立時以来のマリナーズ観客動員数推移グラフ






damejima at 05:22

November 16, 2010

このところ、これまでのシアトル・マリナーズの球団としてのハイライトをベスト10として動画にまとめたものを何度となく見た。この10個のシーンを自分の「野球の宝物」として挙げた人が、いったい何を感じながら選びだしたのか、感じとってみたいと思った。

かなりの回数見た。
だが正直、わからない。
だから何も書けない。なにか書くのはやめにしておこうと思った。

ただ、動画を見ながら、心の中に一箇所、そこだけいつも避けて通る場所のような感じがあるのは感じていた。そのネガティブな印象に触れることに、なんとなくためらいがあった。


それはこういうことだ。

言いづらいことだが、その動画は何度見ても、そこにある10個のシーンの連続に、どう言えばいいか、「今につながるもの」という感覚が湧いてこない。

ひとつひとつのシーンが劇的でない、というのではない。個々のシーンは計り知れないほど素晴らしい。
だが強く伝わってくるのは、それぞれのシーンの感動ではけしてなく、むしろ「何か大事なものが終わりを告げた後で、もう帰れない場所を見て感じるような、「モノ悲しさ」。祭りの後の感覚、とでもいえばいいか。
たとえ10個の場面が素晴らしいものであっても、こういう風に繋げてしまうと、そこには、そこはかとなく「死に絶えた動物の骸(むくろ)のようなイメージ」が生まれてきてしまう。その冷えたイメージがぬぐいされない。ハイライトであり、ベスト10なのだから、本来そこには海面がきらめくような「生のエネルギー」が感じられていいはずだが、遠くで鳴る汽笛を聞くような遠さがある。
繰り返し痛感させられるのは、「現在のシアトルマリナーズがいかに、さまざまな繋がりを喪失した、死んだ場所なのか」ということだ。
この動画から感じられる感覚にはどこか、帰ることのない過去を懐かしむ「老い」の感覚がある。この動画の底に感じる「遥か彼方を想いやる、やるせない心象」は痛々しい。だから、何度見ても、見ている自分からエネルギーが吸い取られていくばかりで、エネルギーをもらえる感じにはならない。


だいぶ時間がたって、ようやく
書くのがためらわれた理由がなんとなくわかってきた。

もしかすると、このベスト10をチョイスしたデイブ・ニーハウスが、シアトル・マリナーズに深い思い入れを持てた時代は、もしかすると、もうずいぶん前に終わっていたのではないか。もしかすると、シアトルの古き良き時代を知る彼が、近年も変わらず熱心に仕事をこなしていながら、実は「古き良きマリナーズの匂い」を嗅ぎ取って癒されたのは、「イチローだけ」だったのではないか、そんな気がしてきた。
ある時期以降のデイブは「イチロー」だけが、彼と「彼のマリナーズ」を繋ぐ唯一の「橋」であり、唯一の「未来への希望」だったのではないか。

なぜって、イチローには、エドガー・マルチネスの匂いがある。マイク・キャメロンの匂い、ブレット・ブーン、オルルッド、ダン・ウィルソン、さまざまな匂いがする。そしてイチローを含めた2001年あたりのマリナーズの選手には、エドガー、ケン・グリフィー・ジュニア、ジェイ・ビューナー、マイク・ブラワーズ、ルイス・ソホ、90年代のマリナーズの「残り香」がする。ジョージ・シスラーの記録を破ったイチローをおずおずと取り囲んだ人の輪にも、そこはかとない残り香はあった。


この「匂い」、どういえばいいか。
内側に独特の熱感をはらんでいて、芯は非常に強いが、表面はしなやかで、ベタつきのない、独特の「匂い」。

誰かひとりだけ、この「匂い」に最もあてはまるプレーヤーを挙げろ、といわれたら、迷わず、「エドガー・マルチネス」と答える。
デイブ・ニーハウスの死について、ジェイ・ビューナーはIt is like I am losing a Dad.「父親を失ったようなもの」と述べているが、選手で言えば、まさにエドガー・マルチネスにはそういう「父親的な匂い」がある。ヤンキースの、あのイタリア系の「兄ちゃん」イメージとも、エンゼルスの多国籍なイメージとも違う、独特のシアトルの風土のような「匂い」。

イチローは、「デイブ・ニーハウスの愛したマリナーズ」という家族の「最後の子供」、「末っ子」なのではないか。


バベジがいじくり倒し、ズレンシックがいじくり倒した今のマリナーズには、あの「独特の匂い」は、もうどこにもない。選手も残っていない。そこにあるのは、ただの「残骸」だ。もう家族でもなんでもない残骸を、彼らはいじくって遊んでいる。今のシアトル・マリナーズには「生きものだけが持つ、独特の熱感」がない。
そこにあるのは「温度のない無機物」である。



かのデイブ・ニーハウスの死に際して、こういう話を書くべきではないし、書く人などいないのではないか。心の底でそう感じながら動画を見るものだから、どうも筆が進まない。このことに気づくのに時間がかかった。

普通、追悼なら、彼の有名なフレーズでもいくつか挙げ、彼の有名なナレーションの動画か肉声のリンクでも挙げておけば、無難に話を済ませられる。それはわかっていたが、そんな誰でもやりそうなことをやって、何になるというのだろう。


どう書けば真意を上手く表現できるか、よくはわからない。

もし、あなたがミュージシャンか作家だとする。あなたがベスト盤や全集を出す、ということは、どういう意味になるか。
ベスト盤を出す、ということは、そのミュージシャンが音楽史に残る素晴らしい仕事をしたという評価が定着した、という意味でもある一方で、別の言い方をすれば、「その人の時代は終わった」とみなす、という寂しい意味でもある。

デイブ・ニーハウスが、球団ハイライトのベスト10上位とみなした出来事は、ほとんどがチームの出来事、つまり、レギュラーシーズンの優勝やディヴィジョン・シリーズの勝利だ。(2位に選ばれたギーエンのバントも、あくまでチームのワイルドカード決定の一貫としてとらえるべきプレー。バントそのものが凄いわけではない)
個人プレーヤーの出来事で上位に来るのは、5位に挙げられたイチローのシーズン安打記録で、これが個人記録としてはランキングの最高位に挙げられている。



そう。
デイブ・ニーハウスの愛したマリナーズは、イチローを終幕として、消滅しつつあったのだと思う。デイブ・ニーハウスが愛した1995年のシアトルを、かいつまんで書いてみる。



ランディ・ジョンソンが3対2のトレードでモントリオールからシアトルに来たのは1989年だ。シアトルはランディを獲得するかわり、左腕マーク・ラングストンをモントリオールに放出した。
ランディは最初から大投手だったわけではなく、しばらくは奪三振も多い一方で、酷いノーコン投手でもあったことは一度書いた。彼の才能を真に開花させたのは、いまはテキサス・レンジャーズの社長になった大投手ノーラン・ライアンやトム・ハウスとのシーズンオフにおける交流と指導の賜物でもある、という主旨の話だ。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年1月6日、豪球ノーコン列伝 ランディ・ジョンソンのノーコンを矯正したノーラン・ライアン。 ノーラン・ライアンのノーコンを矯正した捕手ジェフ・トーボーグ。 捕手トーボーグが投球術を学んだサンディ・コーファクス。

1995年のレギュラーシーズンは、シアトルと、カリフォルニア・エンゼルス(アナハイムに移転する前のエンゼルス)が、ともに78勝66敗でシーズンを終え、キングドームでワンゲームプレーオフが行われることになった。
このワンゲームプレーオフ、先発が因縁めいていた。シアトルがランディ・ジョンソン、エンゼルスはランディの交換相手になった元シアトルのマーク・ラングストン
このときラングストンは、移籍先のモントリオールからさらにエンゼルスに移っていて、奇しくもシアトル初の地区優勝がかかったこの重いゲームで、エンゼルス側の先発となったのである。

Vince Coleman LF
Luis Sojo SS
Ken Griffey CF
Edgar Martinez DH
Jay Buhner RF
Mike Blowers 3B
Tino Martinez 1B
Dan Wilson C
Joey Cora 2B

October 2, 1995 California Angels at Seattle Mariners Box Score and Play by Play - Baseball-Reference.com

7回表まで1-0、シアトルが1点リードするクロスゲーム。7回裏に、シアトルが満塁のチャンスをつくり、2番ショートのLuis Sojoルイス・ソホ、後にWBCベネズエラ代表監督を2度つとめることになる)が、ここで走者一掃のツーベース。守備がもたつく間にソホ自身も生還し、一挙に4点をたたき出して、シアトルは試合の大勢を決めた。シアトルは初の地区優勝に輝いた。

1995年レギュラーシーズンは、エドガー・マルティネスが2度目のア・リーグ首位打者、2度目のシルバースラッガー賞と、球団史上初となる最優秀指名打者賞。ランディ・ジョンソンが4年連続4度目となる最多奪三振のタイトルと、球団史上初となる最優秀防御率。ルー・ピネラが球団史上初となる最優秀監督賞。
ここまで一度も地区優勝したことがなかったシアトルだが、明らかにいつ優勝してもおかしくない才能が集まっていて、ポテンシャルが一気に開花したシーズンだった。


1995年の熱はまだ終わらない。

初の地区優勝を達成したシアトルが、ディヴィジョンシリーズで対戦したのはヤンキース。ヤンキースタジアムでの連敗の後、地元キングドームで連勝し、勝負は10月8日キングドームでのGame 5にもつれこんだ。このゲームに勝ったほうがディヴィジョン・シリーズに勝利する。
ワンゲームプレーオフではルイス・ソホが2番だったが、ポストシーズン打撃好調なスイッチヒッター、ジョーイ・コーラが2番に戻り、ソホは7番に下がった。また併殺が多く、ポストシーズン打撃不調のマイク・ブラワーズを9番に下げている。

1995 ALDS Game 5
Vince Coleman LF
Joey Cora 2B
Ken Griffey CF
Edgar Martinez DH
Tino Martinez 1B
Jay Buhner RF
Luis Sojo SS
Dan Wilson C
Mike Blowers 3B

試合はシアトルが8回まで4-2で負けていた。だが、8回裏にケン・グリフィー・ジュニアのソロホームランなどで同点に追いつく。ここでシアトルは、Game 3で先発して勝利し、連敗を止めたランディ・ジョンソンを9回表からロングリリーフに注ぎ込んだ。
ランディ・ジョンソンが9回表を無失点に抑えると、その裏シアトルがマリアーノ・リベラから1死2塁のチャンスを作った。だが、ヤンキースはマリアーノ・リベラにケン・グリフィー・ジュニアを敬遠させて塁を埋めておいてジャック・マクドーウェルに継投、後続を抑え込んだ。
そして延長11回表、シアトル頼みの綱のランディが3イニング目に1点を奪われてしまう。絶体絶命だ。だがその裏の攻撃で、ジョーイ・コーラ、グリフィー・ジュニアの連打でノーアウト1塁2塁のチャンスをつくり、DHエドガー・マルチネスに打席が回ってきた。
この大事な場面で、エドガーはレフト線を破る。2点タイムリー・ツーベースだ。シアトル、劇的な逆転サヨナラ勝ち。2連敗の後、ヤンキースを3タテして、シアトルはALCSに進出した。
このエドガー・マルチネスの逆転サヨナラ2点タイムリー・ツーベースは、後にThe Doubleと呼ばれることになった。ポストシーズンのエドガーのバッティングは、チームトップの10打点、打率.571、OBP.667、SLG 1.000 OPS 1.667と、驚異的なものだった。

The Double (Seattle Mariners) - Wikipedia, the free encyclopedia

1995 League Division Series - Seattle Mariners over New York Yankees (3-2) - Baseball-Reference.com


どうだろう。
感情を交えず、事実をかいつまんで書いただけだが、当時のプレー、応援するファンの姿に、なにか「熱」「匂い」「繋がり」を感じないだろうか。

「デイブ・ニーハウスが愛したマリナーズ」は、
こういうマリナーズなのだ、と思うのだ。

ドラマティックな展開で勝ち進んだのだから、そりゃ熱気があって当たり前だとか、言われてしまえばそれまでだが、そういうことを言いたいわけではない。
どう言えば言いたいことが伝わるのかよくわからないが、エドガー・マルチネスやダン・ウィルソンが、2001年にイチローが入団するまで大切に守って運んできてくれたのは、こういう「90年代の家族っぽい熱気」だったのだと、今にして思う。

ドラマチックな好プレーを集めた動画なら、どこにでもある。
だが、「家族の写真集」のような懐かしみを覚えるハイライト集は、なかなか無い。
「昔の家族の写真集」を見て思うのは、その家族だけが懐かしむことのできる華やかな追憶であり、また、その仲のよすぎる家族が、やがて老い、すこしずつバラバラになり、やがて時が止まっていく、センチメンタルな感情である。


動画は、YoutubeのDave Niehaus Top 10 Mariners Momentsというタイトルの動画で、オリジナルタイトルは"30 Years of Memories"となっている。デイブ・ニーハウスのチョイスによるシアトル・マリナーズの10のハイライト集である。
ハイライトだから、という先入観を抜きに虚心に見てもらうと、どこかに、カーペンターズの音楽の奥底に秘められた悲しみにも似たようななにかが、見えない部分にずっしりと横たわって身動きがとれない感じが、わかってもらえるのではないかと期待している。
YouTube - Dave Niehaus Top 10 Mariners Moments


10位
ケン・グリフィー・ジュニア
8試合連続ホームラン(1993年7月28日)

9位
ゲイロード・ペリー
通算300勝(1982年5月6日)
「通算300勝を達成した時にはボールに歯磨き粉をつけて投げていた」と告白した有名なスピットボーラー。

8位 
2人のノーヒッター
ランディ・ジョンソン(1990年6月2日)
クリス・ボジオ(1993年4月22日)

7位
3人のサイクルヒット
ジェイ・ビューナー(1993年6月23日 延長14回)
アレックス・ロドリゲス(1997年6月5日)
ジョン・オルルッド(メッツ時代1997年9月11日、シアトル時代2001年6月16日)
A・ロッドのサイクルヒット達成は、21歳10ヶ月で、MLB史上5番目の若さ。オルルッドはMLB史上26人しかいない複数回のサイクルヒット達成者。
Hitting for the cycle - Wikipedia, the free encyclopedia

6位
ケン・グリフィー・ジュニア、シニア
親子アベックホームラン(1990年9月14日)

5位
イチロー
ジョージ・シスラーのシーズン最多安打記録を更新(2004年10月1日)個人記録としては、これがこのランキングの最高位。

4位
球団史上初の地区優勝(1995年)

3位
シーズン116勝
イチローの入団した2001年シーズン116勝はMLBタイ記録。球団史上初となるコミッショナー特別表彰。

2位
カルロス・ギーエン
サヨナラセーフティバント(2000年10月8日)
これによりワイルドカードが決定。進出したALDSではシカゴ・ホワイトソックスをスイープした。

1位
The Double by エドガー・マルチネス
(1995年10月8日)



よくイチローのことを孤高だという人がいる。
だが、イチローを孤高に「させてきた」のは、イチローではない。
むしろイチローほど、自分の所属する場所が熱気に包まれ、繋がりと匂いをとり戻す瞬間に焦がれ、飢えを感じてきたプレーヤーはいないはずだ。
かつてこのチームにあった熱。一体感。匂い。いいかえれば「エドガー・マルチネスに象徴される何か」は、選手と関係のないところで年月とともに剥ぎ取られ、解体され、失われていったが、その中で、むしろイチローだけがプレーヤーとして、その「匂い」を必死に守り抜いてきたことは、この動画から明らかに感じとることができる。

トム・クルーズが主演した2003年の映画「ラスト・サムライ」では、滅び行く武士道の最後の残滓は、日本人ではなく外国人ネイサン・オールグレン(トム・クルーズ)に受け継がれた。
日本からMLBにやってきたイチローの成功は、まさに「ラスト・サムライ」の全く裏返しを行くストーリーであり、デイブ・ニーハウスにとってイチローは、いわば「ラスト・マリナーズ」だったのではないか。そう思うのである。

デイブ・ニーハウス






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