Japanese Legend

2017年7月10日、「東京気質の系譜」がつくった日本のモダニズム。
2014年2月20日、1938年ヨーロッパからの帰路、船上で亡くなられた嘉納治五郎翁の亡骸がなぜ「五輪旗に包まれて帰国した」のか。
2014年2月8日、Z-BoysのShogo Kuboからハーフパイプの平野歩夢まで、日本人横乗りライダーの40年。「写真」が追いつけないほどの平野君の「ビジョン」。
2013年12月27日、イチローの関節の可動域の尋常でない広さを可視化するための「モノクロ化」の魔法。モノクロ化できない「WBC決勝タイムリー」。
2013年9月2日、空を飛ぶ夢。
2013年2月4日、「自分の型を持つ」ということ。
2013年2月3日、「人と違うことをする」ということ。

July 11, 2017




江東区越中島の三商、東京都立第三商業高等学校は、1928年創立時「東京府立第三商業學校」といい、卒業者には加島祥造北村太郎田村隆一と、同人誌『荒地』に集う詩人をごっそり輩出している。

こうした「東京の歴史の古い学校、とりわけ『下町の学校の出身者』から、特定の文学者グループが輩出されている例」は、以下にみるように、かつて「いくつのグループ」が存在した。(逆にいえば、そうした例は歴史の浅い学校にはあまりみられない)

俯瞰したまとめを最初に強引にしておくと、「東京出身の文学者」は、「日本における近代的な自我の成立」に深く関わり、「東京出身者の文化的ネットワーク」はこれまで、小説、詩、映画、マンガなどに張り巡らされてきた。


府立三中・純文学ライン
「芥川龍之介ー堀辰雄ー立原道造」にみる東京気質


思潮社から出ている『立原道造詩集』のあとがきで、自身も「東京出身」の小説家・詩人である中村真一郎氏がこんなことを書いている。(以下、個人名における敬称を極力略す)
日本の近代文学の成熟期における、三人の文学者を、一本の系譜として理解するという考え方は、未だ常識にはなっていないように思われる。

中村が指摘した「つながりのある3人」とは、芥川龍之介堀辰雄立原道造である。彼らは全員が両国の府立三中(=府立三高、現在の都立両国高校)出身で、中村は3人すべての全集の編纂に関わった。

「府立三中出身の文学者」は他に、半村良石田衣良山口恵以子小池昌代などがおり、またパンチョ伊東の出身校でもある。

パンチョさんが「舶来の文化であるMLB」に惹かれたことがけして偶然ではないことは、この記事に挙げた東京出身者のかなりの数が「海外文化の紹介」に携わった経歴をもつことから明らかだが、ここでは書ききれない。稿をあらためたい。

また、日本橋の呉服屋の長男として生まれた鈴木清順の映画『けんかえれじい』『ツゴイネルワイゼン』にみる東京っぽいモダンさとか、後述の小林信彦の後輩でもある大藪春彦の原作を下に清順が映画化した『野獣の青春』などにも触れたいところだが、とても書ききれない。これも記事をあらためる。ひとつだけ書くと、清順ムービーは難解なのではなく、東京人お約束の「ハードボイルド」なのだ。そこさえわかれば簡単に楽しめる)


中村によれば、芥川は自著『僕の友だち二三人』において、自分と堀辰雄との共通点を「東京人、坊ちゃん、詩人、本好き」と明言しているらしく、中村はこんな意味の指摘もしている。
いずれも「東京の下町出身」である3人の文学者の「生涯の主題」には、「生来の環境からいかに超出し、独立した人格を形成するか」という共通性があった。

簡単にいえば、「3人の共通テーマ」は、泥臭さの充満した下町に突如出現した秀才が、下町の暮らしとは切り離された近代的な人格を形成しようとした、ということだろう。


「泥臭い下町から、近代的な人格への脱出」という点だけみると、なにも東京出身者だけにあてはまるわけではなく、「田舎を捨てて東京に上京し、大成した文学者」にだってあてはまると、考えたい人もいるだろう。
だが、中村が、地方での暮らしや地縁血縁をまるっきり捨てて上京して創作に励んだ「上京組」と、古い人間関係の中にあって独立した人格を形成するという難しさを抱えこんだ「東京出身者」とでは、文学の創作における方向性というものは180度違ってくると判定したように、ブログ主も、地方からの上京者と東京出身者が同じ境遇、同じセンスの持ち主だとは到底考えられない。
例えば、「上京組」の島崎藤村田山花袋が「自然主義作家」になったのに対し、反自然主義といわれた芥川をはじめ「東京出身者」が上京組と違った文学的進路をとるという中村の意見のほうが、はるかに的を射ている。


府立三商・詩人ライン
「加島祥造ー北村太郎ー田村隆一」にみる東京気質


冒頭にあげたツイートにある東京都立第三商業高等学校は、創立時東京府立第三商業學校といい、「三商」と略される。(注:「三中」はいわゆるナンバースクールだが、三商はそうではない)
この学校の出身者である加島祥造、北村太郎、田村隆一の3人が揃って参加していたのが、『荒地』という詩の同人誌であり、タイトルの『荒地』はT・S・エリオットの1922年の詩からとられた。


荒地同人の鮎川信夫三好豊一郎など、関係者の大多数がそろって「東京出身者」である点だけでなく、この詩人グループの人間模様には、非常に狭く、かつ錯綜しているという特徴がある。
例えば、田村隆一の最初の妻は鮎川信夫の妹であり、その鮎川の妻はかつて加島祥造の恋人であった人物であり、また北村太郎と田村隆一の妻が恋愛関係にあったこともある。

このように『荒地』における人間関係はかなりドロっとした「濃厚な」ものだったわけだが(人間関係の濃さだけみると、近代的どころか、まさに「下町そのもの」なのが面白い)、反面、そうした「濃い関係にある文学者の一群」の存在があればこそ生み出された、「文化上の成果」があった。

それは「海外文学の紹介」だ。

かつて早川書房の編集者だった宮田昇(宮田も東京出身)は、著書『戦後「翻訳」風雲録―翻訳者が神々だった時代』において、「明治時代に学者の専売特許だった翻訳という仕事に、第二次大戦後、「翻訳のプロ」が登場したことで、海外文化の紹介が飛躍的に進んだ」という意味のことを指摘した。

そうした「翻訳のプロ」が多数同時に育った理由のひとつに、東京生まれの早川書房創業者早川清が、たまたま詩人加島祥造の兄の同級生だったことがある。
早川は、上に列挙した「非常に狭く濃い人間関係の中にうごめいている荒地の詩人たち」を翻訳家として起用したから、『荒地』の詩人の多くが翻訳家として活躍できる道が開かれた。このことで、詩人に特有のシャープな感性が翻訳文学に特有のドライでモダンなタッチを生みだして、多くの海外作家が日本で愛読されるきっかけを作ったのである。(早川書房以外にも、下訳に稲葉明雄などを使って結果的に多くの翻訳者を養成した宝石の宇野利泰のような例もある)
『荒地』関係者が翻訳した海外作家は、エラリー・クイーン、コナン・ドイル、アガサ・クリスティ、ウィリアム・S・バロウズ、フォークナー、エド・マクベイン、リング・ラードナー、グレアム・グリーン、ヘミングウェイ、T・S・エリオット、ルイス・キャロル、ロアルド・ダール(=ティム・バートンがジョニー・デップ主演で映画化した『チョコレート工場の秘密』の原作者)など、とても数え切れない。

『荒地』の詩人と早川書房をめぐる人間模様に登場する人物は、その大多数が「東京出身者」で占められている。芥川龍之介の三中ラインが「純文学系」だとすれば、『荒地』の三商ラインは「エンタテイメント系」とでもいうことになる。
東京出身の詩人に特有の「コハダの寿司を食うような作風」が、中原中也寺山修司のような地方出身の上京詩人に特有の「これでもかとバターを使ったフランス料理を食うがごとき壮大なロマン主義」とはまったく相容れないものであることにも触れたいわけだが、とてもこの短文では書ききれない。これについても稿を改める。


小林信彦にみる「ハードボイルド系東京気質」と
溝口正史、江戸川乱歩などの非・東京系文学


小林信彦は日本橋の老舗和菓子屋の倅であり、芥川の師匠にあたる夏目漱石の『吾輩は猫である』に散りばめられたユーモアについて、「落語がわかってないとまったく楽しめない」と断言するほどの熱心な落語ファンでもあるわけだから、芥川龍之介系の典型的な「東京の下町出身の純文学者」のひとりになっていてもおかしくなかったし、また、複雑な生い立ちを持った東京出身者のひとりである堤清二が詩人を志したように、『荒地』に参加するような「詩人」になっていてもおかしくはなかった。

だが彼は、そのどちらにもなれなかったし、ならなかった。

東京高等師範学校附属高等学校(現在の筑波大附属高校)に進んだ小林は若い頃になかなか人に才能をみせつける機会に恵まれず、いろいろと苦労をした。『ヒッチコックマガジン』の編集長の職も、宝石の多くの関係者が断った挙句、小林にようやくお鉢が回ってきたものだ。
後に小林は、当時黎明期にあったテレビに進出することで、文学偏重のきらいがある編集者の世界とは一線を引き、ようやく多彩な才能を世間に披露できる機会を得た。



小林はかねてから「下町嫌い」を公言してきたわけだが、「徒党を組むこと」を嫌う彼は、古くからあった東京モダニズムの「流れに乗る」ことを嫌ったに違いない。
江戸の落語だけでなくコテコテの関西ギャグにも造詣が深い小林は、東京の文壇の傘下にある編集者とは一線を画して、恩師江戸川乱歩同様に、関西の作家の才能をいちはやく評価し、溝口正史への入れ込みをはじめ、小松左京筒井康隆山田風太郎など、「関西出身作家」の作品を高く評価してきた。(とはいえ、小林が愛してやまない日活のアクション映画などは、明らかに東京テイストそのもので、関西テイストではないし、名作オヨヨ大統領シリーズもしかり)
小林と親交があり、小林のお気に入り作家のひとり、ダシール・ハメットのコンチネンタル・オプものの長編『血の収穫』(=黒澤明の映画『用心棒』の下案となった小説)の訳もある稲葉明雄も関西出身だ。(とはいえ、稲葉の師匠である宇野利泰は神田区生まれの東京人。その宇野にチャンスを与えたのも、小林にチャンスを与えた人物でもある名プロデューサー江戸川乱歩)

小林の内面に、東京出身者にしては特異ともいえる独特のシニカルなメンタリティが醸成された理由は、若い頃に苦労させられ、周囲の東京人たちとぶつかり続けた思い出の苦さが影響しているものと思われる。
逆にいえば、狭い世界にうごめく東京の編集者の世界で揉まれて、シニカルで孤独感に苛まれる性格が醸し出されたからこそ、笑いとハードボイルドという異ジャンルを得意技にできたのだろう。
ちなみに大藪春彦は小林の大学の後輩でヒッチコックマガジンの寄稿者のひとりだが、もしも大藪の書くようなハードボイルドのヒーローがドライでなかったら、とても読む気にはなれない。

総じて言えば、小林が志向したミステリー、ハードボイルド、ユーモアは、「早川書房系列のミステリーのどこか奥底に隠されている純文学志向」とは一線を画したエンタテイメント色があるように見える。そのことは、ここでは詳しくは触れられないが、関西人である横溝正史との直接対談によって編纂された『横溝正史読本』にみる小林信彦の激しい入れ込みにもハッキリと現れている。

横溝正史の『新青年』は、1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表雑誌の一つであり、都市のインテリ青年層の間で人気を博したといわれている。
執筆者は、溝口に加え、小林を宝石にスカウトした江戸川乱歩夢野久作稲垣足穂など多士済々だが、西日本を中心にした「地方出身者」が多数を占めている点で、東京人による『荒地』とはスタンスが100%異なる。
『新青年』はいわば「関西版モダニズム」であり、『新青年』における「モダニズムの濃さや匂い」は、東京出身者ばかりで占められた「芥川龍之介、堀辰雄、立原道造ライン」の「東京の純文学系モダニズムの濃度や匂い」や、同じく東京出身者によって形成された「『荒地』の詩人集団のもつモダニズムの濃度や匂い」とは、「明らかに別種の濃さや匂い」をもっている。このことは彼らの作品それぞれを読めば誰にでもわかる。(宮田昇が『荒地』同人の舞台裏を皮肉っぽく書いて出版しているわけだが、これも、彼らの「表の顔」が豪快洒脱なのに対して、「裏の顔」が案外みみっちいことを指摘したいのだろう)


本来なら、近しい作風を持って同時期にデビューした、下北沢生まれの岡崎京子と文京区の向丘高校出身の桜沢エリカの作品に共通に流れている「東京気質」など、東京出身者の文化的ネットワークの例をもっと挙げておきたいわけだだ、挙げだすとキリがない。
残念ながら、この拙いブログで「純文学、推理小説、ミステリー、ハードボイルド、映画、マンガにいたるまでの膨大な分野における『東京出身者の創造したモダニズム』の特徴」をマトモに扱うことなど、とてもとてできない。手にあまる。機会があればまた多少なりとも断片に触れてはいきたいが、壮大な詳しい解析作業はどこかの誰かにまかせたい。

ただ、記事を閉じる前に、ちょっとした誤解を正しておきたい。
漫画『サザエさん』の風景は、(特に地方の人に)古い東京っぽさの代表だと思われがちだが、あれは実際には山の手の暮らし、それもステレオタイプであって、下町のそれではない。というのも、『サザエさん』の作者長谷川町子は東京出身ではないから、古い下町の暮らしを実体験してはいないからだ。
東京らしさという点でいえば、松本大洋が『鉄コン筋クリート』で描いた「町の風景」のほうが、よほど「東京らしさ」を再現できている。
ただ、長谷川の師である田河水泡は本所生まれのチャキチャキの江戸っ子であり、その妻・高見沢潤子も、やはり神田生まれの東京人である小林秀雄の妹だったりする。漫画家になる前は落語作家でもあった田河の描く空間には、古い東京人特有のやや硬質な質感が残されている。


最後にもうひとつ。
宮崎駿は映画『風立ちぬ』において、同じ東京出身の作家・堀辰雄の存在をバックボーンにしているわけだが、その宮崎自身も「東京出身」である。
そのことを加味してあらためて宮崎の作品群をながめると、彼の「芸風」の奥底には東京のモダニズム特有の「風」が吹いていることに気づく。(その風は、かつてはっぴいえんどの曲などにも吹いた。はっぴいえんども、大瀧詠一をのぞく全員が東京出身者で、洋物の音楽を日本向けに焼きなおした「ある種の翻訳家」でもある)
それと同時に、宮崎が、東京モダニズムの基本風味に、「東京郊外の中央線に吹く風の特有の匂い」をつけ加えて料理していることが、なんとなく伝わってくる。
この「東京郊外の中央線界隈に吹く風の匂い」を言葉で説明するのは非常に難しい。たとえとして言えば、忌野清志郎(忌野は中央線の通っている中野区生まれで、中央線沿線の国分寺育ち)の歌詞に流れる、パンクっぽい荒れたルックスの奥底に流れている「口ごもりがちな、世渡りのうまくない、東京っぽい優しさ」のことである。(「世渡りがうまくない」という表現は中村真一郎の東京人評にある言葉だが、これは、小林信彦から忌野まで含めた東京人特有の特徴でもある)




damejima at 19:00

February 21, 2014

2020年に東京で夏季オリンピックが開催されることになったが、これは東京で何回目のオリンピックか、おわかりだろうか。

正解は「3回目」だ。

というのも、
1964年の第18回夏季オリンピックと、2020年に行われる予定の第32回夏季オリンピック以外に、第二次大戦を前に中止された1940年の第12回東京オリンピックが「みなし開催」としてカウントされるからだ。(つまり、オリンピックの開催回数は、開催自体が決定していれば、たとえ中止されても開催回数としてカウントされ、リセットされない)
1940年東京五輪を返上する至急電開催が予定されてた東京オリンピックの返上決定を各国宛に打電した至急電の現物(1938年公文書) via 大会返上 - 歴史公文書探究サイト『ぶん蔵』 BUNZO

1940年の幻の東京五輪で予定されていたマーク図案(左の画像)
1940年の幻の東京オリンピックで予定されていたマークのデザイン案

1940年の東京オリンピック開催がなぜ中止に至ったのか。その詳しい経緯は他サイトでも見て、自分なりに検証してみてもらいたい。(中止に至った原因は戦争のためとかいう単純な説明だけで終わる話でもない。なぜなら中止すべきという意見は外国だけでなく、日本国内にもあったからだ)
少なくとも、1940年のオリンピック招致の成功に尽力された人物が、日本人初のIOC委員(1909年就任)だった嘉納治五郎翁であったことは、ぜひ知っておいてもらいたいと思う。
日本人の歴代IOC委員:国際オリンピック委員会 - Wikipedia


「1940年の幻の東京オリンピック」がどういう開催を目指していたかについての詳細な資料は、例えば英語版Wikiに掲載されているリンクが詳しい。当該Wikiのページ下段にある "References" という項目にリンクがあるが、リンク先のpdf(英語)がなかなかいいのである。(http://library.la84.org/6oic/OfficialReports/1940/OR1940.pdf ブログ注:リンク先がpdfであるため、直リンを避けておいた)
1940 Summer Olympics - Wikipedia, the free encyclopedia
このpdfには、開催にこぎつけるまでの詳しい経緯、招致する日本側の主要メンバーの氏名や写真、さらには、予定されていた競技スケジュールの全てまでもが、資料としてきちんとまとめられている。さらに、エジプトのカイロで開かれた1938年のIOC総会の帰路、シアトルで乗船した氷川丸の船上で客死された嘉納治五郎翁のご遺体がオリンピック旗に包まれて横浜に戻ってこられたときの写真まで掲載されている。よくぞこれだけ集めたものだ。

カイロから横浜に戻った嘉納治五郎氏の亡骸


嘉納治五郎翁を、「昔の柔道家のひとり」くらいに思ってる人が多いかもしれない。

だが、翁は日本人初のIOC委員で、「日本のスポーツの父」というべき存在であり、1940年のオリンピック招致成功も氏の功績なのである。シアトルから横浜に向かう船上で亡くなり、無言の帰国となって故国に戻ってきたご遺体が五輪旗に包まれているのは、翁の悲願であった東京での夏季五輪の招致成功に対するリスペクトを示している。

1940年の幻の札幌冬季五輪で予定されていたメダルデザイン注:1940年の夏季五輪招致の成功においては、実は札幌での冬季五輪招致にも成功していて、もし実現していれば夏・冬の五輪同時開催だったのである。(画像は、1940年幻の札幌冬季五輪で予定されていたメダルデザイン。札幌市公文書館所蔵)
夏季同様、冬季五輪も中止され、幻の開催となったが、第二次大戦後の1972年に再度招致に成功し開催された。1964年東京五輪で使われた駒沢陸上競技場も、戸田漕艇場も、元をただせば、実は「幻の1940年東京五輪」で予定されていた競技会場であるように、日本で開催に至った1964年と1972年の2つのオリンピックには、かつて幻に終わった「1940年の2つのオリンピック」の「遺伝子」が受け継がれているのである。



日本でもこの1940年のオリンピック招致成功が日本における初めてのオリンピック招致成功だったことを知っている人自体が減ってしまっているわけだが、1940年の五輪招致成功は、日本初どころか、「アジアで初」、そして「有色人種の国として初」という、とてつもない偉業だったのであり、このことはもっと多くの人に認識され、記憶されていい事実だと思う。

考えてみてほしい。
嘉納治五郎翁がオリンピック招致を成功させた「1930年代」という時代は、欧米以外の「独立国」自体が今よりはるかに少ない時代なのである。
欧米以外の「独立国」がそもそも少ないこの時代に、さらにIOCの国内委員会(=今の日本でいうところのJOC)をもつ独立国は、日本、中華民国(台湾)、アフガニスタン程度しかなかった。
これらの国以外にも、英領インド、米領フィリピンなど、欧米以外でIOCの国内委員会をもつ「地域」はほんのわずかにあったが、それらはいずれも1930年代当時はまだ「独立国」ではなかった。(インド独立は1947年。フィリピン独立は1946年)


つまり、当時は、欧米以外の世界の大半、とりわけアフリカとアジアは、「独立国」ではなく、「植民地」だったのである。

(ブログ注)そしてもちろん、1940年の東京オリンピック開催が決定した1930年代末、アメリカ国内にはまだアフリカ系アメリカ人の公民権運動などまったく存在していない。1940年代の第二次大戦時どころか、1950年の朝鮮戦争時のアメリカ軍においてすら、従軍するアフリカ系アメリカ人に対する人種差別は存在した。(参照例:Tuskegee Airmen


そんな「世界がまだ自由になれなかった時代」にあって、欧米以外の、それも、「アジア」の、「有色人種」の、しかも「独立国」が、「IOCの国内委員会」を持ち、IOCに委員を送り出していること、それ自体がいかに凄いことだったか。

そうした日本のスポーツがまだまだ困難だった時代に、嘉納翁は夏季オリンピック招致に成功しているのである。
翁の考えるスポーツの未来がどのようなものだったか、翁がオリンピック開催を通じてどんなことを目指しておられたのか、きちんと知りたくなってくる。

少なくとも世界中のスポーツ関係者に記憶し続けてもらいたいと思うことは、「オリンピックにおける有力アスリートの大半が欧米各国で占められてきた冬季オリンピックでの各種競技(フィギュア、スノーボード、カーリングなど)、あるいは、夏季競技のフェンシング(太田雄貴 注:フェンシングは夏季五輪の競技種目から一度も外れたことのない伝統ある種目のひとつ)や、馬術(西竹一)、ソフトボールなど、「欧米各国が長らくメダルを独占・寡占してきた競技」において、どれほど多くの日本人アスリートが壁に立ち向かい、風穴を開けてきたことか、ということだ。
つまり、日本のアスリートがオリンピックで残してきた足跡のある部分は、まさにオリンピックというスポーツイベントが、単に欧米だけの専有物ではなく、真の国際イベントとして近代化するための重要なステップだったのである。

だからこそ、嘉納翁が1940年のオリンピック招致の成功で達成していた「西洋の壁を破る努力」は、幻のオリンピックとして忘却されるべきではないし、いまも昔と変わらず、ほかならぬ東洋の日本において継承され続けていると、自負と自信をもっていえる。


いうまでもないことだが、
かつて1940年のオリンピックを招致するスピーチで、「日本が遠いと言う理由で五輪が来なければ、日本が欧州の五輪に出る必要はない」とまで妥協なしに言い切ったという嘉納治五郎翁は、押しも押されぬJapanese Legendなのである。

第3代IOC会長バイエ=ラトゥールと会談する日本のIOC委員・副島道正
(写真)第3代IOC会長アンリ・ド・バイエ=ラトゥール氏と会談して説得にあたる日本のIOC委員・副島道正氏(副島氏は日本で4人目にあたるIOC委員。会談会場となったHotel Aldonは、ベルリンの高級ホテル。日本側が五輪招致に費やした費用は当時の円で90万円以上といわれている)
ベルギー出身のバイエ=ラトゥールは、当時ヨーロッパを覆いつつあったファシズムの圧力にも屈せずIOCの運営にあたった人物だが、当時の日本のスポーツ関係者はラトゥール氏を1936年に日本に招くなどして、正面から説得を試み、正々堂々と開催への同意をとりつけている。事態を打開し、不可能とも思える偉業を達成できたのは、現代のようにIOC委員に対する接待などではなく、粘り強い交渉によるものだ。

damejima at 03:58

February 09, 2014

Shogo Kubo
(キャプション)ボードの裏側にクロスする形で書かれた "Dog Town" という文字が見える。1967年に閉園したサンタモニカのPacific Ocean Parkを、ローカルの人たちは "Dog Town" と呼び、Z-Boysのメンバーたちの遊び場のひとつだった。

-------------------------------------------

実をいうと、この写真、いつも見ているのである(笑)
たぶん見ない週はないと思う。

そして、見るたびに毎回毎回
「カッコいい・・・・!!」と、
脳がため息をつく。何度見ても、色褪せたことがない。

しかも何度見ても、見るたびに、スケートボードのタイヤがプールの壁を駆け上がっていくときのベアリングの軋む音すら「聞こえる」のである。

写真を見ることは、趣味のひとつといっていいくらい好きだ。だが、見るたびに毎回カッコいいと思える写真なんて、多くない。古いボールパークの写真もよく見ているが、だからといって、カッコいいという感情だけで見ているわけではない。資料として見ている部分もある。
ところがこの写真は、見るたびに、ただひたすらカッコいいとしか思えないで眺めているのである。

-------------------------------------------

被写体は、Shogo Kubo(=久保祥吾さん)という方だ。
1975年にカリフォルニアでできた伝説のスケートボードチーム、Z-Boysのオリジナルメンバーで、スケートボード・レジェンドのひとりだ。
Z-Boys - Wikipedia, the free encyclopedia

Z-boysにおけるShogo KuboのキャラクターZ-Boysのメンバーには「それぞれのロゴマーク」があり、これはShogo Kuboさんを表すロゴ

Z-Boysがどういう存在だったかについては、門外漢が言うウロ覚えの間違った話を聞くより、ネットでカッコいい写真を漁ってもらうなり、Z-BoysのメンバーStacy Peraltaが作った映画 "Lords of Dogtown" でも見てもらうなりして調べてもらったほうがいい。

ひとつだけ言えることは、スケートボーダーやサーファー、スノーボーダーをはじめとする「横乗り系スポーツのライダー」に、「翼」を与え、空中を飛べるきっかけのひとつを作ったのが、Z-Boysだということだ。
(もっと具体的にいうなら、彼らが空いている家庭用のプールの滑らかなフェイスを利用してスケーティングするテクニックを開拓したことで、横乗りスポーツのスピード感やトリックの可能性が急激に拡大された。それまでのスケートボーディングはスローに行うフィギュアスケートのようなものだった)

-------------------------------------------

ただ、あらかじめ断っておきたい。
Z-Boysのスケーティングのスピード感は、「写真」から想像するのと、「動画」で見るのとで、まったく違う。というのは、当時のスケートボーダーの実際の速度は、「写真から想像するイメージ」よりも、「ずっと遅い」からだ。

しかし、写真で切り取ったスピードが動画よりはるかにスピーディーに見えるという事実こそが、むしろZ-Boysのスケーティングの「クリエイティビティ」を如実に表現してくれているといえる。

なぜなら、Z-Boysが表現したのは可能性という意味の「刹那」だからだ。

-------------------------------------------

仮に速度というものに、「静止画的スピード」と「動画的スピード」があるとする。

「動画的スピード」というものは、テクノロジーの発達によって、ほかっておいてもどんどん「速く」なっていく。例えば、自動車の最高速度というものは、テクノロジーの発達によって年々早くなっていく。
では、速度の向上によって、よりクルマが静止画で見ても速く見えるようにはなっていくかというと、そうはならない。
むしろ、今のクルマは、昔のクルマより物理的な速度では速く走れるが、それと静止画で見ると、速くなったように見えないどころか、まるで止まっているかのように見えることすらある。

瞬間瞬間でみると、かえって最高速度が今よりずっと遅かった時代の流線型のクルマが全力疾走する姿のほうが、速く見える。

「静止画的スピード」が、「動画的スピード」(別の言い方をするなら「物理的な速度」)を凌駕し、はるかに「速く見える」ことは、人間の歴史において往々にしてあるのである。

-------------------------------------------

なぜ、「静止画的スピード」が、「動画的スピード」を凌駕することがあるのか。Z-Boysの例でちょっと考えてみた。

Z-Boysを撮った写真に写っているのは、「スピード」だけでない。
単なるスポーツ写真を越えた、「彼らの日常のライフスタイルの『自由さ』」、「彼らに聞こえているはずの『音』」、「彼らが仲間に向ける『スマイル』」がそこにはあって、静止画だというのに見る者の文字通り五感にありありと訴えてくる。(例えば以下に挙げたリンク先の写真。どれもこれも素晴らしい)
THE UNLOCKING OF AMERICA’S CEMENT PLAYGROUND | DOGTOWN & Z-BOYS | Bar Hopper Challenge.com

つまり、Z-Boysのスケーターたちを撮った静止画には、彼らが表現しようとしている「刹那」が写っているのだ。そして、その「刹那」には、ものすごく多彩な「未来で花開く可能性」が詰め込まれている。それが見る人にハッキリ伝わってくる。(実際、当時の彼らがプールでのスケーティングで産みだした技術のほとんどは、現在のスケートボード、サーフィン、スノーボードをはじめとする「横乗り系スポーツ」に継承されて、さらなる発展が続けられている)

つまり、手作りコンピューターをガレージで発売した若き時代のスティーブ・ジョブズに見えていた「ビジョン」が未来の可能性に溢れていたのと同じように、当時のZ-Boysに見えていた「ビジョン」には「未来で花開く多彩な可能性」がひそんでいた、ということだ。
そうした「ビジョン」が、人間の目に「静止画のスピード感」として映るのではないか。
(こうした「ビジョン」は、必ずしも「動画的スピード」では判別できない。例えば、ジョブズの発売した初期のパソコンは「経済性という視点だけからしかみない人」には、幼稚すぎるガラクタにしかみえなかった)

Z-Boysのみせてくれた「新しいビジョン」は、「人間に翼を与える行為」だったといっていいと思う。

-------------------------------------------

Ayumu Hirano
Ayumu Hirano

これらは、ソチ五輪でスノーボード・ハーフパイプに出場し、有力なメダル候補になっている若き天才平野歩夢君の写真だ。
引用しておいて言うのもなんだが、残念なことに、ここに挙げた2枚の写真も含めて、ネットに流通している写真のほとんど全部が、彼の「スケール感」、彼の「スピード感」をまるで表現しきれていない。平野君のプレーを一度でも見たことがある人は理解できると思うが、彼の「キレ」はこんなもんじゃない。

最初に引用したShogo Kuboの写真と見比べてみてもらいたい。明らかに40年前のShogo Kuboの写真のほうが、はるかに「スピード感」に溢れている。


なぜこんなことが起きるのだろう。
可能性はいくつかある。

1)平野君の「現在」にはまだ、この記事で説明してきた「静止画的スピードによってしか表現できない、未来ビジョン」が欠けている。

2)フォトグラファー側に、平野君の凄さを静止画で表現しきるために必要な、新しい技術、新しいテクノロジーがまったく備わっていない。

3)スノーボードがうまくないフォトグラファーが撮っている

4)平野君は、とうとう出現した「動画的スピード感でしか表現できないアスリート」である。

選択肢の1番が「わざと挙げたもの」であることは、もうおわかりだろう。ブログ主としては、2番から4番を、「平野君を撮った写真にロクなのがない理由」として挙げておきたい。


ならば、かつてZ-Boysを撮った人が、なぜあんな素晴らしい写真を撮れたのか。それについては自分なりに把握している。

それは、撮影者が、普段からZ-BoysでShogo Kuboと一緒に遊んでいる誰かであり、一緒に遊び、同じ時代を生きていた仲間が撮ったから撮れたのだと思う。
仲間は、例えばShogoがプールのどこで、どういうトリックを見せ、どこで最もカッコいいと感じるかを、同時に感じとることができる。そうした「ビジョンの共有」が存在しなければ、「決定的な刹那」にシャッターを切ることなんてできない。

少なくとも、今まで平野君を撮ってきた人たちはまだ、「平野君が感じているビジョン」をきちんと共有できていないと思う。




damejima at 17:38

December 28, 2013

デジタル技術の発達のおかげで、写真は誰でも撮影後にいじれるようになった。例えば、「モノクロ化遊び」も色データを廃棄することで簡単にできる。
(もちろんカラー画像のモノクロ化にも、輝度変換など、いろいろなテクニックがあるわけだが、ライカ風を狙った写真の大半がトーンが甘くなって単に「眠いだけの写真」になるように、中間トーンを数多く出せば出すほど良くなる、とは全く思わない。かつてのパンクロック系画像のように、中間調のまるで無いベタっとした色彩のほうが、かえって印象を強める場合もある)


モノクロ化」は手間のかからない単純な遊びだが、それは単なるトーンダウンでも、グレードダウンでもない。
「モノクロ化」はむしろ、元の映像がキャッチしようとした「決定的瞬間」の内部に潜在的に存在している「撮影者のボンヤリした意図」、「被写体の動き」、「被写体の主張」を、よりエッジの効いた形で削り出して、印象をより強めたり、曖昧な撮影意図を可視化したりできる。場合によっては、モノクロ化によってカラーだったとき以上の何かを写真に宿らせることに成功することすらある。


イチローのプレーを例にとると、たいていの場合、モノクロにすることで、よりプレーの素晴らしさがわかる写真になることが多い。

というのも、イチローのプレー写真は、モノクロ化によって視覚的な情報量を制限し、余分な情報を捨てることで、プレーの瞬間の肉体的な動き、特に、肩や股関節といった「関節」の「可動域の異常な広さ」が、ファンの想像をはるかに超えるレベルであることが、カラーで見る場合よりはるかに鮮明に「意味」として映し出されるからだ。


イチローの関節の可動域の広さ(モノクロ)
まるでジャガーかチーターの疾走を思わせるような
しなやかな股関節の動き


イチローの関節の可動域の広さ>
肩関節の異常なまでの可動域の広さと
空中での信じられないボディコントロール


2012年5月17日クリーブランド戦イチロー ファインプレー
2012年5月17日クリーブランド戦。素晴らしい跳躍の高さだが、プレーと関係ない部分でいくら高く跳べたとしても、意味はない。外野手は走り高跳びの選手ではないのだ。イチローが「捕る瞬間に最も高く跳躍できる選手」であることに、最も重要な意味がある。



ただ、あらゆる写真を「モノクロ化」で遊べるか、というと、そうでもない。どういうわけか、どこをどうやってもモノクロ化で印象を上げられない写真がある。

イチローの場合、WBCの決勝タイムリーの写真がそうだ。

WBCイチロー決勝タイムリー
(キャプション)2枚の写真から、イチローがバットヘッドの出を、高速シャッターで撮られた写真で確かめないとわからないほど、ほんのわずか遅らせて、ヘッドが過剰に効きすぎてひっかけた打球になるのを避けつつスイングしていたことが明瞭に伝わってくる。
動画と違い、2枚の写真の間には「何も無い」。だが、われわれの「脳」はきちんと2つの瞬間を繋ぐ「何か」を補完し、瞬間と瞬間を空中で繋ぎ合わせて、永遠の動画に変えてみせる。


WBCにおけるイチローばかりは、カラーバランス、トーンカーブ、コントラスト、明るさ、レベル、彩度。データのどこを、どういじってみても、モノクロ化するより、「カラー」のままにしておいたほうが、全然いい

参考)

WBCイチロー決勝タイムリー



「モノクロ化できない原因」はハッキリしている。
WBCのユニフォームの赤色だ。このユニフォームにおける「」には、それを省略してしまうことができない「何か」がある。

イチローには赤色のユニフォームが似合わないという、まことしやかな意見がある。だが、この写真をみれば、そんなこと、あるわけがない。「彼に似合う赤」を着ればいい。それだけのことだ。



蛇足でいっておくと、モノクロ化してもカッコよく見えない選手、アスリートというのも、数多くいる。その多くは、その選手のプレーの質、その選手の存在自体が平凡で、その選手にしか存在しない「きわだった個性」を持たないのが原因だ。

歴史に残るアスリートには、美術館に飾られてもまったくおかしくない、際立った「スタイル」がある。
だからモノクロ化が映えるのである。
Damejima's HARDBALL:Japanese Legend

damejima at 09:36

September 03, 2013

宮崎駿(Hayao Miyazaki)


天の光はすべて星』 (The Lights in the Sky Are Stars, 1952) というフレデリック・ブラウンの作品がある。「なぜ人は空を飛びたいと熱望するのか」について、全てが語り尽くされていると思えるほどの作品だ。
ならば、『天空の城ラピュタ』から『風立ちぬ』に至るまでの宮崎駿による「空を飛ぶ作品群」を見る必要はないのか。

The Lights in the Sky are Stars


飛ぶ教室』(Das fliegende Klassenzimmer, 1933)という1933年発表の児童文学作家エーリヒ・ケストナーの作品がある。劇中劇として、教師と生徒たちが飛行機に乗り、ヴェスビアス火山、ギゼーのピラミッド、北極などを巡る夢の旅が描かれている。
これまた、空を飛ぶことについて描いた名著だが、ならば、『飛ぶ教室』から20年ほどして書かれた1952年のフレデリック・ブラウンの『天の光はすべて星』は読む必要がなく、さらに時代が下った『天空の城ラピュタ』から『風立ちぬ』に至るまでの宮崎駿による「空を飛ぶ作品群」を見る必要もないのか。

飛ぶ教室(エーリヒ・ケストナー, 1933)

たとえ古今集に恋の歌があるからといって、1000年たとうが、何年たとうが、人が恋の病を語りたがる気持ちが失せるわけはない。

わざと極論を言ってしまえば、とは永遠に「恋の歌」のことを指すのであり、そして物語とは永遠に「空を飛びたいという願い」のことを意味する、と思うのである。(児童文学翻訳の大家、神宮輝夫氏のいう「物語」と「ものがたり」の違い等については、ここで書き切ることはできない。諸資料によって各自研究されたい)



ここから先の部分を加えて終わるかどうか、非常に迷ったが、こんな時代だ、やむをえない。つまらない蛇足をつけ加えておくことにした。読みたくない人は読む必要はない。自分でも、こんな話は読みたくもないが、しかたがない。


ケストナーの『飛ぶ教室』、フレデリック・ブラウンの『天の光はすべて星』、宮崎駿の『風立ちぬ』と、3つの作品を並べてみると、そこに、「3つの作品に共通してあるもの」がある反面、「それぞれが少しずつ異なっている部分」があることに気づく。

違っているのは、
その時代その時代の「テクノロジー」である。


「空を飛ぶためのテクノロジーがまだあまりハッキリしていない時代」に空を飛ぶ夢を描く行為と、今の時代に空を飛ぶ夢を描くのでは、背景にあるテクノロジーは全く違う。たとえ話でいうと、ケストナーにはリニアモーターカーやコンピューターの匂いがまるでしないが、宮崎駿には、ほんの微かにだが、香っている。

それでも宮崎駿にとって、映画は、空を飛ぶためのテクノロジーを描くことではない。彼は「空を飛びたい」という素朴な願いを描くことを諦めない。
彼は常に、どうやったら今のこの「空を飛ぶためのテクノロジーがハッキリわかってしまっている時代」に生きる我々の心に、「空を飛ぶ夢」を呼び覚ますことができるか、という、なかなか困難な問題に挑戦し続けてきた。

だが、テクノロジーというのはひとつのイデオロギーであって、常にファンタジーに罵声を浴びせかける。『風立ちぬ』についても、技術史や戦争史からみた視点で批判したい人は、それこそ掃いて捨てるほどいるわけだが、その人たちが語っているのはイデオロギーであって、ファンタジーではない。


物語とは、「空を飛ぶ夢」なのである。
宮崎が『風立ちぬ』で描いた堀越二郎は、実際の堀越二郎ではない。宮崎が描こうとしたのは、イデオロギーが大勢を占め、常に世界を左右する時代の渦中にあって、それでも「ファンタジーを守り抜こうとする行為」の「はかなさ」、そして「強さ」だと思う。


以下、文字で言われないとわからない人たちのために書いておこう。

ファンタジーとは何だ。

恋すること。そして
空を飛ぶこと。だ。

これらがファンタジーでないなら、
いったい何がファンタジーだというのか。


愛するものを守り抜こうとする素朴なファンタジーそれ自体を、それこそ根っ子から否定し尽くそうとしてきたイデオロギーの存在に、我々はもう気づいている。それなのに、それを言葉で説明しないとわからない人が増えすぎたのは、本当に不幸なことだ。なぜこんな当たり前のことを説明しておかなければならないようになったのか。不幸な時代に生きているもんだ、と、自分でもよく思うことがある。

damejima at 01:49

February 05, 2013

十二代目 市川團十郎


大鵬


忌野清志郎


イチロー


Ichiro 2


Hideo Nomo


「道を極め、自分の型をもつに至る」、ということと、
「型にはまる」「型にとらわれる」ということの違いは、
よく勘違いされ、混同されてもいる。

型にはまらないことは、型を持たない、という意味にはならない。むしろ、往々にして、道を極めた達人は、その人しか持ちえない独特の型を持つに至っていることが多い。

血気さかんな若いとき、「型にとらわれたくない」「個性を大事にしたい」と考えることは、よくある。
では、若いから型にはまらないのか、個性的なのか、というと、そんなことはない。というのも、若さはとかく型に流されやすいからだ。若く青臭い芸は、型にとらわれ、型苦しい。若さとは、他人と同じであることに安住し、群れて泳ぎたがる雑魚である、という意味でもある。若さを安易に可能性や個性に結びつける考え方そのものは、「年寄りじみた、型にはまった思考」でしかない。
気ままにやっていさえすれば、自分というものにたどりつけるわけではない。かえって、昔からある型を丹念になぞり続けるような、ひどく単調で、面白くもなんともない修練を淡々と積み重ねることでしか、自分の型に至る道が開けないこともある。


つまるところ、「型に学びながらも、埋没することなく、さらに自分だけの型をもつに至る」というちょっと矛盾した行為を、どうしたら実現できるか、という問いは、「自由」というものをいかにしたら獲得できるか、という問いに、とてもよく似ている。


日本の文化にとって、型というものがもつ様式美は非常に重要なものだ。そして、それは同時に「日本には独特の自由の様式がある」という意味でもある。
日本の文化に携わる人たちは最初、単調な修練の連続によって意図的に型にとらわれることからコトを始めるわけだが、その後、型の奴隷のまま終わるか、それとも、自分の型や自由をもち、モノになるかは、誰にもわからない。


自分の型をもつことができた人を、何人見ることができるか。これは、自分が生きて死ぬまでの、長いような、それでいて短いような暮らしがどれだけ潤いのあるものになるか、という点で、非常に重要だと思う。

自分だけの限られた世紀において、自分だけの型を持つに至った存在、Legendを目にすることができたなら、それは無上の喜びというものだし、出現してくれてありがとうと言いたくなる。

Copyright © 2013 damejima. All Rights Reserved.

damejima at 19:27

February 04, 2013

Think Differentなランナー

Here’s to the crazy ones.
The ones who see things differently. - Steve Jobs

damejima at 01:15
ハワイ移民150周年
No Ichiro, No watch.

Play Clean
日付表記はすべて
アメリカ現地時間です




Twitterボタン

アドレス短縮 http://bit.ly/
2020TOKYO
think different
 
  • 2014年10月31日、PARADE !
  • 2013年11月28日、『父親とベースボール』 (9)1920年代における古参の白人移民と新参の白人移民との間の軋轢 ヘンリー・フォード所有のThe Dearborn Independent紙によるレッドソックスオーナーHarry Frazeeへの攻撃の新解釈
  • 2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史)
  • 2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史)
  • 2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史)
  • 2013年6月1日、あまりにも不活性で地味な旧ヤンキースタジアム跡地利用。「スタジアム周辺の駐車場の採算悪化」は、駐車場の供給過剰と料金の高さの問題であり、観客動員の問題ではない。
  • 2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。
  • 2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。
  • 2012年6月29日、『父親とベースボール』 (1)星一徹とケン・バーンズに学ぶ 『ベースボールにおける父親の重み』。



Categories
ブログ内検索 by Google
Google

livedoorブログ内検索
Thank you for visiting
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

free counters

by Month