マトモな21世紀のためのロジカル・エクササイズ

2018年9月30日、「樹木希林さん夫妻に愛を発見するとホッとする現象」と、「確かめることを止めた関係」の差。
2018年9月9日、セリーナ・ウィリアムズと、アメリカの大手スポーツメディアの一部の記者、会場の観客は、「負けた理由」がセリーナ自身にあることを潔く認め、勝者を讃えない恥知らずな行為の数々を謝罪すべき。
2018年9月4日、計算上あと10年で海面下に没する関西国際空港。
2018年8月27日、社会における「連続性」の意義 〜 同性愛、引きこもり、ロリコンなどの「非連続性」と比較しつつ
2018年4月6日、「人間とチンパンジーの遺伝子は99%同じ。チンパンジーの健康な食生活を真似ましょう」とかいう「奇怪なロジック」。極端すぎる健康感にひそむ強い自己嫌悪。
2018年2月15日、「人は気持ちの切り替えなどできない。だが、『変換』はできる」 〜 平野歩夢の言葉から学ぶ、アスリートのためのメンタル・トレーニングの第一歩。
2018年1月7日、自由の『価格』。
2017年8月31日、「共産主義にかぶれた無責任な若者たちが行った、気まぐれな国家機密の漏洩」が開いた「核武装による均衡」の時代と、「言葉でできたミサイル発射行為」が織りなす異常な風景。
2017年8月26日、「不完全なのが当たり前」と考えるべき現場主義の情報論。
2017年8月3日、「外国人力士に、年寄名跡や一代年寄になるチャンスを与えないのは、憲法14条1項の平等原則に反す」とかいう、デタラメな論理。
2017年7月10日、「東京気質の系譜」がつくった日本のモダニズム。
2017年6月7日、80年代前期文化にとっての「6月4日」。激しさと静寂のルーツ。
2016年12月7日、駅前商店街の衰退と、周回遅れのモータリゼーションでハンドルを握るようになった高齢ドライバーの関係にみる、日本の高齢者の「質的変化」
2016年12月6日、高齢者の無謀運転が毎日のようにニュースになる理由。〜身にしみて理解されていない日本の高齢者の「質的変化」
2016年11月19日、「行動による一撃」という論理に反対する。
2016年11月17日、「回転」に特徴をもつ人間の身体と、「直進するボールのスピードや制御」を要求するベースボールというスポーツの関係を明確化する
2016年11月11日、「トランプ以前」の世界 〜 安さ追求による国内雇用の海外移転にすら気づけなかった人々
2016年8月10日、イチローの英語能力についてのくだらない論議に決着をつけるための「折り鶴理論」による日米言語文化比較。
2016年6月25日、EU離脱を後から愚痴るイギリスの若者を見て世界中の若者が思い知っておくべき、グローバリズムと雇用の関係。
2016年4月30日、「罪悪感と寄進」の世界史 〜 十字軍、マックス・ウェーバー、フォルクスワーゲン。
2015年10月26日、コンセプチュアルなハーメルンの笛 「近代ドイツ神話主義」の終焉。
2015年8月14日、結局日本の広告デザイン界をコネに頼った実力のないパクリ・デザイナーであふれかえらせる結果になった「長年の広告タニマチ企業サントリーの責任」。
2015年8月10日、2020東京五輪の不安点はカネではなく「デザイン」。デザインワークで表現すべきは、「日本の再構築」。
2015年8月6日、「田舎のクルマ優先の交通ルールは、都市ではまったく通用しないこと」に似ている二段モーションの議論。
2015年8月4日、coastal upwelling(沿岸湧昇)によって、「イルカのストランディング」と「沿岸でのサメ出没」が同じ海岸で起こるメカニズムを説明してみた。
2015年5月14日、「デマ」は常に「真実」よりも目に触れやすい場所に置かれ、見えやすい、という事例。 〜 カズハゴンドウイルカのストランディングに関するデマと科学の差
2015年4月18日、イチローの 『マトリクス・スライド2』 でわかった、「プロと呼ばれる人間であるために必要な条件」。
2015年1月27日、人間の自我の構造は「ちくわ」のような外部との連続性を保った開放構造であり、けして「密閉された缶」ではない。
2015年1月23日、いま流行っていると聞く『21世紀の資本』という本の「読まれ方」の、ちょっと理解できかねること。
2014年12月8日、『父親とベースボール』番外編 オリジナルにあった彩色が大英博物館で100数十年にわたって秘密裏に削られていた「エルギン・マーブル」の一部がロシア・エルミタージュ美術館で公開。
2014年9月13日、「姿勢」が、ジャーナリズムだ。
2014年9月7日、田舎のマクドナルドにこそ、コンセントをたくさんつけるべき 〜 比例するアメリカの「人口集中」と「ネット環境の充実」
2014年9月3日、朝日新聞は、「言論の封殺が公然と行われる可能性を、自らの手で開いたこと」について、公式の場で謝罪すべきである。
2014年8月4日、誰もが読めていない「空き家の増加」というニュースの本質〜日本における「文字読み文化」の衰退
2014年7月14日、なぜ「漁港にある寿司屋なら間違いなく旨い、とは言えない」のか、そして、なぜ「地方の若者が都会で寿司屋や野球選手になる」のかについて。
2014年6月23日、「友達の誰より先にフェンダーを買った子供がプロになりやすい」現象と、ベースボール
2014年1月20日、Wood & Sea. 今年からはこれでいく。
2013年11月5日、「8万人収容のモンスターレベルの陸上競技場」を、「8万人収容のフットボール場」と同列に語っている国立霞ヶ丘陸上競技場建て替え話の馬鹿馬鹿しさ。
2013年10月29日、国立霞ヶ丘陸上競技場は、「同じ場所で建て替える」などという二番煎じのお茶をさらに温め直すような発想を止め、違う場所に新設すべき。
2013年5月24日、他人の不幸や失敗に安易に同情を示さないこと。日本とアメリカの習慣の違い。
2013年3月15日、WBCの開催意義は「世界での野球の成長ぶりをたしかめること」にある。優勝国を決めること、ではない。
2013年1月27日、マラソンブームに便乗した、あまりにもずさんな「富士山マラソン」から、「日本の新しい景観美」に至る、長い道のり。
2012年6月11日、「見えない敵と戦う」のが当り前の、ネット社会。

October 01, 2018

樹木希林さんのご葬儀に前後して、たぶんかなり型破りな関係だろうと想像されてきたご主人との夫婦関係について、生前のやりとりの一部が公開され、世間で感動を呼んでいるようだ。

ブログ主には、世間の人たちと、希林さんの娘さんは、外からは理解しにくかった2人の奇妙な夫婦関係に「愛が存在することを発見して、ようやくホッとした」、というふうに見えた。



この記事でブログ主が言いたいことは、その「愛が存在することを確かめることでようやく安堵する現象」は、とても人間的ではあるものの、始末に負えない、人間特有の悪癖だ、ということだ。


後でわかったことだが、実際には、彼ら夫婦の間には、周囲にわかるかどうかは別にして、当初から「彼らなりのカタチでの恋愛や夫婦関係」があったようだ。

だが、希林さんの娘さんを含め、世間には、彼らにある種の「不安(人によっては嫌悪感)を覚えた人たち」がたくさんいた。
希林さんの娘も含めた世間が、希林さん夫妻の不思議な夫婦関係に、不安を覚えたり、人によっては嫌悪を抱いたりした理由は、おそらく「愛がないのに、関係だけ維持している」、「ああいうのは愛とはいえない」などといったネガティブな感情であり、それらをひとくるめに言えば、「先入観」である。



このケースで、人がなぜ不安を覚えるか。
人は、愛がたしかに存在することを確かめずにいられないという、非常に強い欲求から逃れられないからだ。



この「確かめずにいられない欲求」の一端について、女性向けアダルトビデオを制作しているという牧野江里さんという方が、「セックス」という切り口から、ある意味岡崎京子の漫画を文章にしたような秀逸な文章にまとめていらっしゃる。

参照:セックスは愛を確かめる行為ではない?エロメンから学ぶエクスタシーに達する方法|AM

牧野さんが不思議に思ったことを自分なりに受け止めて書きなおすと、人は「愛を確かめる行為こそセックスだ」と思いたがる。だが実際のセックスにおいては、相手の性感帯もわからないまま愛をたしかめようとするような、ある意味で無謀で乱暴な行為が頻繁に行われもする。
その結果、人は不幸なセックスを繰り返しながら、別れと出会いを繰り返す。
(この「愛」という部分は「幸福」といいかえてもいい。「セックスでこそ幸福が確かめられる」と思い込んでいる人がたくさんいるにもかかわらず、その方法論はといえば、「出たとこ勝負」だったりするのである)


ブログ主の今回の問題意識に換算してみよう。
すべての「出発点」は、これだ。

人は「愛というものの存在を確かめずにいられない」。


確かめずにいられない、確かめないと不安になる、と、いうのなら、確かめればいい、ただそれだけの話だ。

だが、現実にはどうか。
確かめない」で、不安だけ抱える、のである。
あるいは「不用意に、不手際だらけの手法で確かめようとして、関係を壊す」のである。


そういうことになってしまう理由はいくつか考えられるが、そのひとつが、「外部からは、そこに愛が存在することが簡単に確かめられないような人間関係」のケースだ。

例えば、「子供から見た、親の夫婦関係」がまさにそうだ。

ブログ主だけの理解かもしれないが(笑)、「恋愛感情も含め、夫婦の関係というものは、親子関係とは、まったく異質、まったく異次元のもの」であり、「子供から、両親の人間関係が見えるわけがないし、まして理解できるはずもない」のである。

だが、不思議なことに、そういう事例に出会うことは、まずない。「理解させるべき」「理解できるはず」「理解したい」「確かめたい」「理解したら美しい」、そんな安易なヒューマニズムのオンパレードで、人は洗脳されていく。

だからやたらと確かめたがる。


確かめないと、どうなるのか。
確かめない関係は可能なのか。


樹木さんなら、たぶんこう言うと思う。

「確かめたら、どうなのよ。あの人、家に帰ってくるの?(笑)
帰ってくるような人だったら、アナタ、うれしい?(笑)」


だから、ブログ主は言うのである。
あれは「恋」だ。と。

確かめることを放棄する(放棄させられる)ことから始まったロックな関係に、常識など通用しない。そのことはご当人が誰より理解していたはずだ。そういう関係にあてはめる言葉がない。「恋」とでも呼ぶほかない。




ちなみにブログ主は、両親が愛し合っていたかどうかとか、気にしたことがほとんどない。そのことで失った人間関係の感覚もある一方、そのことでしか得られなかった感覚もある。そのことは、自分自身が一番よくわかっている。

damejima at 07:05

September 10, 2018

年をとると、怒りっぽくなる人がいる。

想像だが、自分の体が若いときのように言うことをきいてくれなくなったり、周囲が自分のことを年寄り扱いすることで、周囲の自分への評価の低さと、まだまだ若いつもりでいる自分のセルフイメージが、実はまったく一致していないことに気づかされて、それが気にいらないのかもしれない。

とはいえ、自分の責任を認めたがらない人間、自分の衰えを認めようとしない人間には、厳しい言葉をちゃんと発しておかないと、モノゴトは真っ直ぐにならない。でないと、モノゴトは間違ったまま、曖昧なまま、固定され、歴史になってしまうのである。それは間違っている。

だから自分は、モノゴトをきちんとしておきたいから、あえて以下のような「四角い、尖った言葉」を書くことを自分に課してきた。



テニスの2018全米オープン女子決勝におけるセリーナ・ウィリアムズの行動は見苦しいものだった。
たとえ彼女が試合後の表彰式で、あまりにも礼儀をわきまえない、無礼な観客に勝者を讃えるよう訴えたとしても、だからといって、セリーナ自身の試合中の見苦しい態度を「帳消し」にできると、自分はまったく思わない。


この試合中にセリーナに行われた「3度の警告」は、
それぞれ以下の理由による。

禁止されているコーチによる試合中の選手への助言
ラケットの破壊
レフェリーへの暴言

警告それぞれに、合理的かつ明確な理由があったことは、明らかなのである。

参考
かつてテニス界のスターだったマルチナ・ナブラチロワの意見
Opinion | Martina Navratilova: What Serena Got Wrong - The New York Times

元女子プロテニス選手で現在はNBCリポーターのメアリー・カリロの意見
NBC Sports' Mary Carillo: Serena Williams Acts Like a Bully


アメリカの大手スポーツメディアのMLB担当記者たちなどは、「審判があまりにもクソ野郎だったから、自分たちのスターであるセリーナが負けた」という趣旨のツイートを試合直後からしていたが、それは根本的に間違った認識であり、審判にも、大坂なおみにも、謝罪が必要な無礼さである。


大坂なおみが全米オープンに勝った理由は単純だ。大坂なおみが、かつて女王だったセリーナを上回る、正確で、ゆるぎないプレーをしたからだ。言葉をかえれば、若い選手の理知的でクールなプレーが、ヴェテランの「慢心」に打ち勝ったといってもいい。

以下のゲームスタッツにみられるように、彼女の勝利には1点の曇りもない。大坂なおみは「勝つべくして勝った」のであり、「セリーナが審判に不利な判定を受けたから、勝つはずのない大坂なおみに勝利がころがりこんだ」のでは、まったくない。ありえない。




相手のチカラを凌駕することで合理的に得られた大坂なおみの順当な勝利のあと、不合理で不条理な罵声を浴びせる形となった会場の恥知らずな観客のブーイングには、なんの合理性もない。それどころか、それはある種のレイシズムですらある。


また、試合後のプレス・カンファレンスにおいても、数多くのハラスメントがあったことも忘れてはならない。

栄光ある勝者である大坂なおみに、自滅したセリーナ・ウィリアムズの乱れたふるまいについてコメントするよう、記者たちは執拗に求め、大坂なおみが答えに窮し涙まで流す事態となったことは、言うまでもなく「釣り竿の先にエサを垂らし、大坂なおみがうっかりセリーナに対して批判や暴言をするのを待っているような、悪質な行為」はスポーツマンシップとは完全に無縁のものだ。
また、大坂なおみの「名前」について故意に間違え、何度もゲームの内容と無縁な、愚鈍な質問を繰り返した「最前列の男性記者」などは、新たに誕生した若き女王を見下す尊大な態度、記者としてアスリートに対するリスペクトに欠けた無礼きわまりない態度を、謝罪すべきだ。


なお、今回の大坂なおみが発した sorry という単語について、sorry という単語には「残念です」という軽い意味の場合がある、などと、したり顔で解説しているハワイ大学教授(たぶん日本人)のコメントを見たが、まったく現場の空気をわかってないとしか言いようがない。

そんな辞書的な、進学塾とか高校の教員が中学生相手に受験英語を指導するような紋切り型の解説では、輝かしい勝利者であるはずの大坂なおみが「試合後に何度となく流した涙の説明がつかない」し、また、彼女が「セリーナがグランドスラムを24回勝つことをみんなが期待していたことは、わかってました」と発言したことの「辻褄」がまるであわない。

大事なのは彼女の発言が「どんな感情から発せられたか」、であって、辞書上の解釈など、どうでもいい。今回の勝利が自分の描いていた夢にはほど遠い「後味の悪い決着」をしたことで、心に傷を負った大坂なおみが、事態に一定の距離をおいて、「いやー、残念ですなぁ」などと、ババくさいコメントなど、するわけがない。

大坂なおみは「20歳」で、「当事者」なのである。

文脈と、事態の流れから判断して、sorry という単語の背景に流れている「感情」とは、「残念でした」などという大人びた態度ではなく、なんにでもすぐ謝ってしまう、なんとも「日本人的」な「ごめんなさい」の感情である。



この試合の後味の悪さをつくった原因は、セリーナ・ウィリアムズの間違ったふるまいと、ふるまいの間違いと自分自身が原因である敗北を素直に認めない態度であり、ブーイングした観客の無礼なふるまいであり、一部のメディアの尊大なふるまいだ。
実力はあるが、20歳の、まだナイーブな勝者にネガティブな感情を抱かせたことについて、衰えつつあるオバサンのセリーナ・ウィリアムズ、礼儀と程遠い行動をしておいて無反省な現場の観客、事態の全体像をまったく把握してないクセにセリーナを持ち上げてきたメディアの古い価値観にとらわれて審判批判をしたニューヨークあたりの頭の固いスポーツライターは、大坂なおみに謝罪すべきである。






米ボストン・グローブ
Rules are rules, and Serena Williams went too far this time - The Boston Globe

英タイムズ
Serena has joined the MeToo victims’ cult | Comment | The Times

ニュージーランド・ヘラルド
Peter Williams: Serena Williams' tantrum after Naomi Osaka loss was calculated, cynical and selfish - NZ Herald

英テレグラフ
Serena Williams is not just a bad loser – her dominance of tennis is over

英スカイ・スポーツ
Serena Williams' sexism claims in US Open final are 'unjustified', says Greg Rusedski | Tennis News | Sky Sports

米フェデラリスト
Why Serena Williams Would Probably Have Lost The U.S. Open Anyway

damejima at 09:57

September 05, 2018

世界初の本格的な海上埋め立て空港である関空が水没した。

「海上空港」だからこそ、アクセスに「」が必要であり、その橋が壊れたことは、「空港へのアクセス方法そのものが喪失した」ことを意味している。それは当然ながら、空港にたくさんの人が「取り残される」こと、そして同時に、救助も「遅れる」ことを意味する。
これは、福島の原発事故において、電源が喪失し、原子炉を冷却する方法が喪失したことでメルトダウンが引き起こされたのと、意味はまったく同じだ。


水没の理由は、以下のブログが非常に明快に指摘してくれている。
関西空港の水没は起こるべくして起きた。〜地盤沈下が招いた標高1.4mの滑走路〜 - イケてる航空総合研究所
とある別サイトでは、関空の工法について、「海底の軟弱地盤を強化して護岸工事を行い、土砂で埋め立てるといった順で進められました。現在でも地盤沈下は止まってはいませんが、一部だけでなく均一に沈下するよう設計されているため、トラブルとは無縁です」とあるが、先のブログによれば、今回の滑走路水没の理由は「地盤沈下」にある。こういう「ちゃんと数字を示した上で、はっきりモノを言う態度」は非常にいい。


1994年開港以来、2018年までの平均沈下量は「3.43m」だという。ならば関空のA滑走路は「これまでもずっと年平均14センチ程度、沈下し続けてきた」ことになる。

なので、最も低い位置の標高が「たった1.4m」しかないA滑走路は、理屈の上では、あと10年で「海面下」になる計算になる。そうなると、関西国際空港のA滑走路は、海面より低い、いわゆる「ゼロメートル地帯」ならぬ「ゼロメートル滑走路」になることになる。


もちろん、こうした事態が管理会社によって今後も放置されるわけではない。なんらかの対策が講じられることだろう。

だが、問題なのは、「5年くらいのサイクルで護岸を高くし続ける、とか、地盤を上げ続けるといった地盤沈下対策が、それも定期的に、必要になる」ということだ。

そのコストはたぶん、けして少なくない金額になる。


ちなみに、関空の管理会社は「関西エアポート株式会社」という企業であり、筆頭株主は、オリックス株式会社が40%、フランスの空港運営会社であるヴァンシ・エアポート40%である。(なぜまたフランスの会社が日本の空港の、と、当然思うわけだが、航空業界に詳しくないのでよくわからない)


それにしても、これまで地盤沈下がわかっていなかった、2017年に一気に3メートル地盤沈下してしまいました、というのならともかく、関空が年々地盤沈下していることに多くの関係者は気づいていたはずだ。(ちなみに、ブログ主はこの事件が起きるまで知らなかった)

ならば、今回の高潮のような被害が発生する可能性はあらかじめ予測されていなければならないし、対策もとられていなければならない。


自分は関西国際空港になんの利害もない第三者であり、今回の高潮被害についてもなんの利害もない第三者だが、もし自分が今回の高潮でなんらか大きな被害を受けた立場だったなら、迷うことなく空港の管理のずさんさを批判し、必要なら損害賠償を求めて訴える。


いずれにせよ、地盤沈下が止まらないというのは、「その場所の地盤そのものが定常的に流出するか、沈下する状態にある」という意味だ。
もちろん、地震による液状化が起きれば沈下スピードはさらに上がる。近畿圏では近年いくつかの大地震が起きているのだから、関空でも液状化が起きていた可能性がないとはいえない。

関空はおそらくは今後とも地盤沈下から逃れることはできない空港だ。本来なら、空港の再開を安易に急ぐより、根本的なところでA滑走路の地盤そのものを改修すべきだろうが、関係者がどういう判断を下すのか、ちょっと見ものである。

damejima at 16:28

August 28, 2018

以下のツイートについて、ブログでもう少し足りない言葉を付け足しておきたい。




まず最初に注釈。

大嫌いな言葉のひとつに、「持続可能な」というモノの言い方がある。
この記事での「連続性」という造語においては、「持続可能な開発」だの、「持続可能な環境」だのという意味は、まったく、これっぽっちも、含まれない。注意して読んでほしい。強く明記しておく。


「持続可能な」というモノの言い方は、ひとえに「1970年代世代と、いまだにその影響下にある人々が、みずからの思考やの破綻を誤魔化すときに、使ってきた方法」のひとつで、実際には、単なる「妥協点の模索」という曖昧な意味しか持たず、厳密な定義など存在しない。
例えば70年代までにあった過剰なエコロジーブームと先進国における環境に配慮しない開発は、両者が両者とも限界を示した。そのため、彼らはしかたなく、ただ環境保護だけ、または、ただ開発だけに走るのではない「妥協点」を、ちょっと耳障りのいいスローガンとして示してみた、ただそれだけにすぎない。これはいわば「道端の交通標識」に過ぎず、中身は何もない。

80年代以降もエコロジストは、持続可能という言葉と社会批判を場面に応じて都合よく使い分けてきたが、それは、エコロジストの主張では世界がうまく回っていかないことが判明したために作り出した「新しいカラクリ」であり、それは「70年代まで大流行していた左翼思想に、まったく現実性がないことが、80年代以降判明した現象」に似た意味でしかない。



さて、ここから本題。

社会には、「連続性」が不可欠だ。

ここでいう「連続性」とは、最初に書いた「持続可能な」などという陳腐な話ではない。
人間という生物の生存維持シェルターである「社会」は、「連続性そのもの」であり、「連続性」は社会が自己再生産能力を有する連続性をもったシェルターであるための絶対条件である。

この「連続性」は、どこにでもある平凡な家庭、どこの国にもある企業が持つ連続的な「自己再生産能力」をだいたい意味する。
親が子を産み、育て、人が再生産されるプロセスがあるからこそ、社会は「連続性」を維持できている。その単純だか崇高な事実の重要性については、他人と議論する必要など、まったく感じない。



しかしながら、ツイッターでも例を挙げたように、残念なことに、現代社会は多くの「非連続性」に侵食され続けている。


例えば「同性愛」である。
この現象が「社会の平凡さに、どれほど依存して成り立っているか」は、議論を必要としない。たとえその同性愛カップルがどれほど文化的であろうと、関係ない。彼らが「社会の連続性にどっぷりと依存し、連続性の恩恵を受けていること」にまったく変わりはない。


ただ、なにも同性愛や同性婚を撲滅すべしなどと、物騒なことを主張しているわけではない。
そうではなく、「あなたがたは『社会の平凡な連続性』に依存して成り立っているだけの浮草にすぎないこと」を自覚して行動すべきであり、権利ばかり振りかざしてもらっては困る、自分たちのコミュニティにばかり籠らず、『連続性』に明確な形で貢献すべきだ」と言いたいだけである。

だから社会維持の方法論のひとつとして、ブログ主は「同性婚と一般の結婚とは社会的に意味が違うよ」ということを明確に示す制度があっていいと考える。

もう少し具体的に言えば、「ある意味の『差額』みたいなものを徴収させてもらいますよ」というアイデアが存在するほうが、社会的には正しいと思う、ということだ。

例えば、同性愛カップルがあえて養子をとって自分たちの子供として育ててくれるとしたら、国や自治体は「よく決意してくれました」と応援する意味で支援金を贈って支えるべきだと思うし、逆に、同性婚は認めるが「同性婚税」のようなものを別途納入してもらうという自治体があってもいい。他にも、一定のボランティア参加を義務づけて地域社会への参加や交流を促すとか、アイデア次第で、いろいろ「同性婚者の社会の連続性への貢献を義務化する制度」を考えられると思うのだ。

そういう過程で自治体ごとに「制度の違い」ができてくれば、アメリカの州ごとの制度の違いに対する人々の反応と同じで、より負担の緩い自治体に行きたい人はそこに引っ越せばいい。全国のすべての制度がすべて同じである必要など、どこにもない。個人の多様性は最大に認めるべきと主張するが、自治体の多様性は絶対に認めない、全国一律の制度が必要だ、などというワガママきわまりない発想につきあう必要などまったくない。
同性婚の人たちが集中して活性化する自治体が出現すればそれはそれでいいし、そのことが災いして人口が減少し衰退する自治体があれば、それはそれで結果を受け入れるしかない。


「連続性」の侵食の例は、他にも数多くある。

例えば「引きこもり」は、かつての「家庭を持つ」という当たり前のように思われ、実行されてきた幸福の尺度から距離を置く現代的な現象のひとつだ。
もちろん、人が「引きこもり」になるからには、何かやむにやまれない事情があってのことだろう。だが、だからといって、それも文化のひとつだ、しかたない、などと認めるのでなく、ある種の「病」と判定すべきであり、社会の連続性に復帰してもらう方法を模索してもらうべき、というのがブログ主の考えだ。


また、「老人中心社会」も、やはり社会の「連続性」を損っている。

若い世代に「老人のための費用負担」ばかりさせ、他方では、老人ばかりが資産を抱え込んでいて、オレオレ詐欺にばかりひっかかり、クルマを運転すればアクセルとブレーキすら踏み間違え、他人を轢き殺す、というような社会は、やはりどうかしている。
若い世代にこそ、身を立てるための十分なチャンス、例えば教育、技能習得、起業のための資金など、さまざまなチャンスを与え、若い世代の疲弊をもっと真剣に、そして全力で、防止すべきだ。


ロリコン」とかいう現象も、「連続性の侵食」とけして無縁ではない。


結婚できない神父が同性の少年にセクハラするのは、もちろん犯罪だが、見方を変えれば、これほど「社会の平凡な連続性から遠いところにある行為」もない。

ロリコンというのは、「国際的な精神疾患の診断基準にも記載のある『性嗜好障害(パラフィリア)』のひとつで、れっきとした医学的な診断名」らしいが、ロリコンの追い求めるエデンの園は、カトリックの神父が密かに行ってきた悪事と同じくらい、その人を「社会の平凡な連続性から遠ざけている」と思うのである。
(また、あるロリータ趣味の女性のブログによれば、「ロリータは絶望的なほど、男ウケが悪い」らしいが、「社会の平凡な連続性から遠ざけている」という意味では、ロリコン男とロリータ趣味の女性には、どこかしら共通点みたいなものがあるのかもしれない)


ここに書いたことはどれも真っ当な論理の帰結に過ぎない。こんな単純な話を読んで、ウヨクだの保守だのとレッテルを貼るのは他人の勝手だが、そんな間違ったレッテルなど、ブログ主にはまったく関係ないし、気にとめる理由などない。

こんな当たり前のことをまったく突き詰めもせず、将来の日本を考えもせずに、自虐史観、コミュニズム、ジャーナリズム、エコロジーなど、そのときどきの流行の社会観に浮かれて、非連続性ばかり称揚してきた能無しの世代の人間たちが、どれほど馬鹿で、どれほど文化人ぶった、カッコつけのアホウばかりだったか、呆れるばかりである。



社会は、ひとつの生き物だ。

人間の個体と同じで、病をこじらせると元気がなくなる。「連続性」の大事さに配慮もせず、どこかで習い知っただけの新しい考え、新しい趣味、新しい流行とやらに熱中して、社会を病気にするのはもうやめてもらいたい。

社会はもっと、ごく普通であることの意味を評価すべきだし、ごく平凡な笑顔のある家庭の重要さを認めるべきだ。

damejima at 18:06

April 07, 2018

糖質制限」という言葉、近年本当によく聞く言葉のひとつだ。

要するに、肥満とか現代病の主な原因は「糖質」にあるので、可能な範囲で止めよう、ということらしい。
この話の真偽を論じること自体は、このブログの主旨ではないので置いておく。ブログ主が「共感できない。アホか」と感じるのは、この手の話によく出てくる「人間とチンパンジーの遺伝子は99%同じ。だからチンパンジーの健康な食生活を真似ましょう」とかいう「奇怪なロジック」と、そこから導きだされる健康法だ。(以下、「人間とチンパンジーの遺伝子は99%同じ」という説を、「99%共通説」と略す)



まず最初に、以下の例文を読んでもらおう。
人間とチンパンジーのDNAは99%一致するというのは本当なのか? - GIGAZINE
記事によると、「99%共通説」は、人間のゲノム25%とチンパンジーのゲノム18%の間に存在する「DNAの大きな違い」を故意に無視し、残りのDNA、つまり「似ていると最初からわかっているDNA」だけ比較して出された「まやかしの数字」であるといい、(この話が本当なら)「99%共通説」そのものが眉唾なデタラメということらしい。


次に、以下のサイトを読んでもらおう。
遺伝子の99%が同じでも、人間とチンパンジーの消化器官の構造は違う
長い話を簡単にまとめると、「消化器官の構造が、人間とチンパンジーとで大きく異なる」ということだ。
もう少し詳しく書くと、草食中心で生きていく動物には、食物を長い時間腸内にとどめておくための「長くて大きい腸」、または「体内で発酵を行う器官」が必要になる。
チンパンジーは消化器官の「50%程度」が大腸で、草食に適している。だが人間の大腸は消化器官の「20%程度」にすぎず、構造として「草食動物とライオンのような肉食動物の中間」あたりにあたる。つまり人間の消化器官は、チンパンジーよりはるかに「肉食寄り」にできているのである。


次に、「脳の進化と食物の関係性」に触れてみる。
脳の栄養 〜ブドウ糖(砂糖)とトリプトファンを中心として〜|農畜産業振興機構
簡単にまとめると、脳の発達度合いは、人間とチンパンジーとで大きく異なっていて、チンパンジーの脳は約400グラムで、摂取カロリーの10%しか消費しないが、人間の脳は約1250グラムで、チンパンジーの3倍の重さであり、摂取カロリーの約25%、酸素とブドウ糖の摂取量の約24%を消費している。
脳はブドウ糖など多くのエネルギーを必要とする臓器であるが、ことに脳が巨大に進化したホモ・サピエンスの場合には、「大食漢な臓器」である脳を健全な状態に維持するためには、それ相応の量の、カロリー、酸素、ブドウ糖が必要不可欠なのである。


3つの話を勝手にまとめてみる。
草食動物は、食物である草の分解に長時間をかけるため、消化器官が独特の構造をしている。ホモ・サピエンスの消化器官の場合は、「草食動物よりずっと短時間で食物を分解する構造」になっており、「草食・肉食の併用に向いた形態」といえる。
また、人類の脳はチンパンジーよりはるかに巨大であり、常に「一定量のカロリーとブドウ糖」を必要としている。
トータルにいえば、人類とチンパンジーとは、異なる進化経験してきたために、身体の構造や生活習慣に異なった部分が数多くある。人間とチンパンジーは「食生活も異なるのが自然だ」といえる。


人類は進化の過程で、消化器官の変化や脳の巨大化など、身体の変化を経験してきたが、それにともなって「草食から狩猟への移行」によって「食生活を変化させること」を選択したようだ。
ホモ・サピエンス独特の身体のしくみである「脳」が、食生活によって摂取するエネルギーやブドウ糖のかなりのパーセンテージを消費する「大食漢」であることを考えると、この「草食から狩猟への移行」には合理性がある。
つまり、人間の暮らしにおいて「脳の発達による巨大化と、食生活が草食から遠ざかる方向に進んだことは、平行して起きた」のである。



さらに話をすすめる。

ジャレ・ド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』でも触れられているが、人類は、数十万前とか数百万年前に「草食から狩猟への移行」を経験したあと、1万数千年だか前に、こんどはさらに「農耕生活への移行」を経験した。

脳と穀物栽培のどちらが卵でどちらがニワトリかといえば、人間の脳の発達は1万年前どころではなく、何十万年、何百万年とかいう話だから、「穀物を食べるようになったから、脳が発達した」のではない。
むしろ、「巨大な脳が要求する多大なエネルギー需要を満たすためもあって、人類は必死に狩りに明け暮れる暮らしをおくっていたが、あるとき、農耕という『安楽なエネルギー獲得方法』を発見し、そちらに移行した」と考えるほうが、理にかなっている。

皮肉なことに、この「狩猟から農耕への移行」によって、人類の脳は「人間の進化史上、初めて縮小を経験した」ようだ。というのも、「2万数千年前まで存在したネアンデルタール人の脳容量は、現代人より10%程度大きい」ようなのだ。
と、いうことは、農耕への移行で穀物を豊富に食べられるようになって、人間は、縮小ではないにしても、少なくとも「脳をもっともっと巨大化させるという進化を選択しなくなった」ということになる。(今ではスマホやコンピューターの出現で、もっと「縮小」するかもしれない 笑)


おおまかにまとめると、以下のようになる。
・人間の食生活は、草食寄りのチンパンジーと違って、「草食と肉食の中間形態」にあって、草食だけで生きていけるようにはできていない
・巨大化していく脳をかかえながら、人類は必死に「狩猟による肉食」などを発達させ生き延びてきた
・1万数千年前あたりに「農耕」という新しいエネルギー獲得法を発見した(そのことはジャレ・ド・ダイアモンドによれば世界の地域格差が生じた原因である)
・農耕の開始によって、人間の脳の巨大化はむしろ止まった
・農耕という新しいエネルギー源の発見は、他方で人間にガンなどの成人病、肥満や虫歯など、あらゆる現代病をもたらした
・だが、だからといって現在でも人類のカラダは「草食オンリーでも生きていける」ようには、まったくできていない


農耕の開始以降の糖質の摂りすぎが人類の食生活がかかえる大問題なのは確かだとしても、だからといって人間のカラダの仕組みがたった1万年やそこらで変わるわけではない。
消化器官が草食動物と異なる人類は、草だけ食べる生活はできない。脳がデカすぎる人類は、ブドウ糖の大好きな脳に十分な栄養が来なくなって、メンタルがやられることもあるから、糖質の摂取を全面的にやめるわけにもいかない。肉食を敵視する考えの人もいるらしいが、人類のカラダが肉食向きというのも事実で、それをすぐに変えることはできない。


こうして人類の食生活の変化の歴史をざっと並べてみると、ヴィーガンとかヴェジタリアンとかいう話をする以前の問題として、現代の人間の食生活に異論をとなえるだけでなく、極端すぎる健康感を他人におしつけたがる人たちのメンタルには、どこか「強烈な自己嫌悪」、とりわけ「自分の身体に対する嫌悪感」が充満していて、それが自分の容姿や食生活への強い否定につながっているように思えてならないのだが、どうだろう。

はっきり言わせてもらって、ブログ主は個人の自己嫌悪が人間の文化を発展させ、進化させるとは、まったく思わない。食生活を改善する以前に、自分のメンタルを健康にしたほうがいいと思う。


人間はうまいものをうまく食う。
そのためにこそ、必死に脳を使う。
本来そういう動物なのだ。

damejima at 23:41

February 16, 2018



あまり、というか、
ほとんど日本人スポーツライターを褒めた記憶がない。

だが珍しく、このインタビュアーはなかなかいいと思う。いろいろと考えさせられるものを引き出すことに成功している。



スポーツではよく、「気持ちの切り替えが大事だ」などという。
だが、その言葉がどれだけ無意味か、このインタビューを読んでわかった。


わかったことの最も大事な要点は、こうだ。
実は、人は「感情」を切り替えることができない。


なぜなら
一度発生した「強い感情」は、簡単には消去できない
からだ。(だからこそ「クール」という価値がある)


多くの感情、特に、怒りや悲しみ、極度の欲求や緊張といった、「ヘビーな重さをもつ感情」は心に溜まりやすい。人の心という「泉」の底には、そうした「残渣」や「澱(おり)」が日々たまっていく。「ストレス」とは、心に溜まった「ゴミの重さ」のことだ。
ことにトップアスリートは「他人と競うこと、果てしない緊張の場面に晒され続けることが当たり前にあるような、特殊な生活を強いられる人種」なので、よけいに心のゴミがたまりやすい。


多くの人は、激しすぎる怒りや、強すぎる悲しみなど、「鉛のように重い感情」に晒されると、カラダ全体が泉の底に沈んでしまう。
そうならないよう、周囲の人は「気持ちを切り替えろ」などと言葉を発したがるわけだが、繰り返しになるが、そのアドバイスは実は無意味だ。感情を消去しようと思えば思うほど、その感情はむしろアタマをもたげてきてしまうことが少なくない。


だが、「感情の消去」を目指すのではなく、
別の形に変換して、放置してしまう」のなら、
どうだろう。

よほど、やりやすい。
できもしない「消去」を目指して、かえって疲れるのではなく、「変換」すること。そのほうが簡単なのだ。


これが、誰かが平野君の言葉を引き出してくれたことで「わかったこと」だ。ありがとう。メンタルに傷を負っている社会人や学生にも、この記事を贈りたい。

damejima at 18:41

December 31, 2017

最初に結論を書いておこう。

自由にはもともと「価格」がある。
このことを出発点にすべきだ。


こうハッキリ書くと必ず、「何を言うか。自由は誰にでも与えられているべき無料の権利だ。」などと、教科書みたいなことを言いたがる人間がいることだろう(笑)どこで誰に教えこまれたのか知らないが、自分のアタマで考えない人間に限って、そういう安易なヒューマニズムで描いた絵空事を主張したがる。


近代という時代は、「中世の価値観を払拭して、新たな価値を築くことに必死になった時代」であり、新たな価値感の創設こそ、他のなににもかえがたい、偉業の中の偉業ともてはやされた時代だった。
「自由」も、実は、「近代に創設された価値のひとつ」であり、音楽や絵画、小説などの芸術作品から、精神分析、経済理論、社会学、共産主義にいたるまで、「価格や価値による支配から、人間を解放すると息巻く主張」は、近代に掃いて捨てるほど数多く現れた。また、この耳ざわりのいい「自由」という言葉を、多くの人から共感をかちとる、ただそれだけの目的で利用する人間も多数登場した。


「自由ついての議論」は、近代に最も熱心に議論され、最も重要な問題のひとつだが、では、その議論が明晰で正しいものだったか、というと、実は、まったくそうではない。

むしろ、「自由についての議論」の大半は、実は、そのほとんどが「ぼやけた、緩慢な議論」ばかりであり、そもそも議論の中心が最初からズレてもいる

例えば多くの人は、自由という問題の核心が、「いかにすれば全員に無料で自由を保障できるか」などという、「無料の自由の実現」にあるのではないというような、議論のポイントをきちんと教えられてはこなかった。

そのため多くの人はいまだに、「自由という言葉はとても耳ざわりがいい。自由というからには、『無料』に違いない。自由はタダであり、タダであるべきものだ」などと、自分勝手に思い込んでいる。


だが、そうした「自由に価格があるべきではない」などという話は、論理的なものではない。むしろ、単なるエスカレートした思い込み、夢物語、生半可な正義感にすぎない。
そして、そうした「生半可な正義感」こそが近代の歴史において非常に多くの間違いを引き起こしてきたにもかかわらず、その一方で「自由は無料であるべき」という主張こそが真にラディカルな態度だ、などと、間違った評価が非常に数多くなされてきた。



例をあげて考えてみる。

たしかに世界には教育や医療が無料の国がある。
では、それらは「個人が価格から自由になれた例」のひとつだろうか。


まったく違う。

教育や医療といったサービスの無料化は、サービスのコストを「個人が負担する」かわりに、「国家の負担」、あるいは、国債という形で「将来の国民の負担」にきり変えた、ただそれだけのことにすぎない。
そうした手法が可能なのは、例えば国家に石油のような「特別に利潤の大きい収入源」が確保されている場合や、赤字国債発行によって税収不足を長期的にまかなっても破綻しないでいられる財政状態の国のみに限られる。
(発展途上国で、急激すぎる自由へのチャレンジが、むしろ長期独裁へのトリガーを引いてしまう例は多々ある。それは、なんの財政的支柱もなく、収入源が確保されてもいないのに、民衆へのサービスの急激な拡大に一気に踏み出してしまうことによって、国家財政の破綻と経済の大混乱をまねき、その混乱鎮圧を名目に独裁が開始されることに、原因のひとつがある。つまり「安易なヒューマニズムが独裁を手招きする」のである)


さらに言えば、教育費や医療費が「国家の負担」にきりかわった社会システムにおいては、個人はもはや何も負担しないで済むのか。

これも違う。

たとえ教育費や医療費が「見た目だけ無料」になっても、その維持には「財源」が必要であり、石油産出国ででもない限り、財源は「個人や企業が負担する税」だ。
言い換えれば、教育や医療の無料化は、正確にいえば、サービス維持コストの徴収方法が、直接徴収から間接徴収に変わるだけにすぎないのである。たとえ教育や医療を直接負担しなくなったとしても、個人は間接的に「税という形のコスト」を支払わなければならない。

そして、悪いことに、教育や医療が無料になれば、決まって経営の効率やスキルの低下、社会のモラルの低下が起こり、社会における「コネの影響力」は著しく強いものになり、汚職や賄賂といった犯罪が蔓延することが避けられない。こうした効率悪化やコネの悪影響が蔓延した社会においては、当然ながら税率は本来の負担割合より「ムダに高く」設定しなければ社会のサービスシステムが維持できない。

そして、サービス無料化の実現は、国家機関に権力を集約させることも意味する。
日本も含め民主的なシステムのトレーニングを長年受けてきた国ならともかく、例えば中国のインターネット統制や南北朝鮮の無責任さを見ればわかることだが、民主的なシステムが未発達な国では、往々にして権力の集中を維持するために個人の自由が犠牲になる
つまり、強い国家集権的システムのもとでは、個人は、単に高額な税を負担させられるだけではなくて、「ある意味のシステム維持コストとして、『あたかも税金を徴収するように、個人の自由を国家に徴収されてしまう』」ことになる。



趣味。健康。財産。移動。主張。レジャー。恋愛。「自由」といわれても、何を思い浮かべるかは、ひとりひとり、かなり違うはずだ。だが、気をつけてもらいたい。そのうち、どのひとつをとってみても、「無料なもの」、「タダで維持できそうなもの」など、無いのだ。

そう言い切る根拠は簡単だ。むつかしくない。
自由というものは、もともと無料化することができない
からだ。

「時間」という無形の存在が「宇宙の発生」以来ずっと特別な存在であり、あらゆるモノが時間と切り離して思考することができないのと同じように、「近代の発生」とともに生産され続けてきた「価値意識」である「自由」には、「もともと近代という時代の最大の特徴のひとつである『価格』が、不可分の存在として付随している」のである。
(ちなみにそれは、カネさえあれば人は自由だ、とか、カネがあってもヒトは自由にはなれない、とか、そういうアホなヘリクツとは無関係であり、また、自由さえ得れば近代という時代から自分だけ抜け出せるわけでもない)


なぜ近代の人間が「安易なヒューマニズム」を振り回すに至ったか。

それは「自由と価格の不可分な関係」を、あえて無視しようとする、あるいは、知らないために起こる。

安易なヒューマニズム、無意味なくせに耳ざわりだけがいい軽い主張に耳を貸すべきではない。そういう雲をつかむような主張をして、それだけで生きているようにみせかけている人間にはたいてい隠しておきたい収入源があるものだ。

自由がタダで手に入る社会を夢みる、なんてことを出発点にした議論などに、もはや何の意味もない。

damejima at 22:18

September 01, 2017



日本の国土の上空をミサイルが通過するこの異常な時代にあって、官房長官に「ある程度、金委員長側の要求に応えるような働きかけはしないのか?」などと質問する度を越したアホがジャーナリストを気取るような、キチガイじみた時代である。

ブログ主は、もし近い将来に、東京新聞記者・望月が、中国や北朝鮮などから資金提供を受けた宣伝協力者、あるいは工作員、あるいは内通者とわかったとしても、特に驚かない。
なぜそんな三流スパイ小説まがいのことを懸念するのかといえば、第二次大戦後の暗号解読や情報公開によって明らかになったさまざまな「事実」によって、英国やアメリカの、それも戦時の政権や情報機関の内部においてすら、「欧米向けの宣伝活動の従事者」、「内通者」、「スパイ」が、少なからず実在していた実例があるからだ。以下のエピソードはそのほんの一部にすぎないが、これらは作り物の小説でも、映画でもない。


第二次大戦前後の英米におけるスパイ事件で、まずアタマに入れるべきは、Venona projectだろう。(ベノナ・プロジェクトは単に「ベノナ」と表記される場合も多い。また「ヴェノナ」という表記も多数あり、検索に工夫が必要)
Venona project - Wikipedia
アメリカで1943年から30年以上にわたって続けられたベノナ・プロジェクトの目的は、当時の米国内にいたソ連スパイと、ソ連との間で交わされる暗号電文に使われていた "one-time pad" (ワンタイム・パッド)と呼ばれる「使い捨ての暗号化方式」の解読によって、「スパイの実在を確定すること」にあった。
one-time pad は現代のネット取引で使われている「ワンタイム・パスワード」の前身にあたり、ベノナ・プロジェクトで解読に成功した文書の多くは、いまもウェブ上で公開されている。

ベノナ・プロジェクトの最も大きな成果は、「疑惑」を「事実」に変えたことだ。
原爆製造情報の流出を筆頭に、アメリカから外部への情報漏洩については、アメリカ国内にいる多数のソ連スパイの関与が指摘され続けていたが、その実在の証明はいまひとつ不確かなものであり、また、当時のマスメディアはスパイ疑惑の追及に対して「冤罪」を主張して抵抗していた。
だが、ベノナ・プロジェクトによってアメリカ国内はもとより、当時の政権の中枢にすらソ連のスパイが実在していたことが証明され、また、スパイ疑惑に抵抗する当時のマスメディアの冤罪キャンペーンにも、コミンテルンやソ連の誘導や資金提供があったことが後年の検証で判明した。
(また、この記事では触れきれないが、第二次大戦前のアメリカ国内には「見た目に中国支援者にみえる有力者」が多数いて、中国支援のロビー活動や反日世論の喚起を熱心に行っていたが、ベノナ・プロジェクトによって、そうした当時のアメリカ国内の中国支援団体の主要人物の多くがソ連のスパイだったことがわかっている)


具体的事例に移ろう。
ベノナ・プロジェクトの暴いた代表事例といえば、
ローゼンバーグ事件だろう。

これは、アメリカのユダヤ人夫妻ジュリアス・ローゼンバーグJulius Rosenberg)とエセル・グリーングラス・ローゼンバーグ(Ethel Greenglass Rosenberg)が原爆製造情報をソ連に売りわたしていたスパイ事件だ。
夫妻の情報源は、アメリカの原爆開発地であるロスアラモス国立研究所で働いていた妻エセルの実弟デイヴィッド・グリーングラス(David Greenglass)であり、この男も夫妻同様にソ連のスパイだった。

夫妻は1951年に死刑判決を受けたが、判決を不当と主張する左翼系マスコミなどによってアメリカ政府を非難するプロパガンダが行われた結果、「プロパガンダに乗った多くの著名人」が冤罪を訴えたことでも有名になった。(サルトル、コクトー、アインシュタイン、ロバート・オッペンハイマー、ハロルド・ユーリー、ネルソン・オルグレン、ブレヒト、ダシール・ハメット、フリーダ・カーロ、ディエゴ・リベラ、ピカソ、フリッツ・ラング、教皇ピウス12世などなど)
だが結果的には、ベノナ・プロジェクトによる暗号解読によって「ローゼンバーグ事件が事実だった」ことが判明。また、冷戦終結後に公表されたソ連の内部文書や証言によって、ローゼンバーグ事件における左翼系マスメディアのプロパガンダそのものが、ソ連が関与した「ステマ」だったことすら明らかになったらしい。


さらにもうひとり、ベノナ・プロジェクトで判明したソ連のスパイに、元・財務次官補ハリー・ホワイトHarry Dexter White)を挙げないわけにはいかない。

ローゼンバーグ夫妻と同じユダヤ系アメリカ人で、ボストン生まれのハリー・ホワイトは、ハーバード大学の大学院を経てフランクリン・ルーズヴェルト政権の財務次官補の要職についた。
彼は、在米日本資産の凍結を支持した人物であり、また、第二次大戦直前の1941年、米国から日本への最後通牒となった、いわゆる "Hull note" (ハル・ノート)の原案となったモーゲンソー私案を作成した、まさにその人物である。
ハリー・ホワイトは1943年から始まったベノナ・プロジェクトによってスパイ疑惑を指摘され、1948年に米下院非米活動委員会に召喚されたが、疑惑を否定。そのわずか3日後、毒性のある植物であるジギタリスの大量服用による心臓麻痺で急死している。


ソ連のスパイだったハリー・ホワイトが「ハーバード卒」だったことは、わざと明記しておいた。それには以下のような理由がある。

第二次大戦当時、中華民国総統だった時代の蒋介石の周辺にたくさんのハーバード卒業生がいたといわれるように、第一次と第二次の大戦間には、英国ケンブリッジ大学、米国ハーバード大学など、英米の有名大学卒業生に非常に多くの「共産主義信奉者」「左翼思想にかぶれた若者たち」がいたことがわかっているからである。

以下を読んでもらえばその責任の一端がわかると思うが、第二次大戦後の「核兵器の時代」、つまり「相互の核武装を前提にした東西均衡」の発端は、大戦前後の混乱期に多発した「共産主義を信んじこんだ無謀で無責任な各国の若者たちによる、原爆などの国家機密の漏洩」に原因のひとつがある。


例えばケンブリッジ・ファイブCambridge Five)と呼ばれたイギリスの集団は、1930年代にケンブリッジ大学で共産主義を信奉するようになったグループで、主犯格キム・フィルビーKim Philby)は、ソ連のスパイでありながら、同時になんとイギリスの諜報機関の次期長官候補ですらあった。
同じように、ケンブリッジ・ファイブのメンバーはその一流大学卒の経歴を生かし、イギリス外務省、情報機関MI6やSIS、国営放送BBCなど、国家機密や情報に直接関わりをもつ要職につき、ソ連のスパイとして、イギリスとその同盟国の情報を大量にソ連に手渡したとされている。

広島と長崎に投下された原爆を製造したアメリカのマンハッタン計画で、原水爆製造に深く関与した元ドイツ人クラウス・フックスKlaus Fuchs)も、ソ連のスパイだった西側欧米人のひとりだが、このクラウス・フックスがアメリカからイギリスに移って以降にもたらした原爆製造情報をソ連に流していたのは、ケンブリッジ・ファイブのひとり、ドナルド・マクリーンDonald Maclean)だった。
ケンブリッジ・ファイブの容疑は1950年代に露見しかかったが、主犯格キム・フィルビーがメンバーに通報したために、メンバーの大半がソ連に亡命し、処罰をまぬがれた。マクリーンも1951年に亡命、ソ連共産党に入党して財産を与えられ、モスクワで死去している。



次に、赤いジャーナリスト、エドガー・スノーEdgar Snow)を挙げておこう。

エドガー・スノーはミズーリ大学とコロンビア大学の出身で、気まぐれに出かけた世界旅行のついでに中華民国に長期滞在したのをきっかけに中国専門ジャーナリストになった。1937年になると、毛沢東を神格化し、毛沢東による中国革命を賛美する中国宣伝本 "Red Star Over China" 『中国の赤い星』を出版。当時の欧米や日本の「知識人気取り」の間で「必読本」として扱われ、一世を風靡したようだ。いいかえると、この書籍を読んだ若い知識人気取りが共産主義にかぶれる原因のひとつをつくった。

だが、日本人として忘れてはならない彼の著作は、なんといっても1941年出版の "The Battle for Asia" 『アジアの戦争』だろう。
南京事件を報道した "The Battle for Asia" は、後に「南京で日本軍が30万人を虐殺した」という歪曲情報を固定する「宣伝戦略」の中心材料となった。

スノーが著作を書くにあたっては、接触がJDサリンジャー並みに難しかった毛沢東がインタビューを許すかわりに、「果てしない数の原稿の書き直し」をさせられていたことがわかっている。同様の「書き直し作業」は、 "Red Star Over China" のみならず、エドガー・スノーの第二次大戦時の著作の大半にみられるようだ。
つまり、スノーは言われるがまま、「宣伝文」を書かされていた、ということだ。後年の検証で、エドガー・スノーが南京大虐殺に関する一次情報を扱う立場になかったことなど、彼の著作の信憑性には多数の疑問がつきつけられている。
またスノーの著作によって神格化していた毛沢東の実像についても、例えばユン・チアンとジョン・ハリデイによる『マオ 誰も知らなかった毛沢東』など、近年の検証によって当時の実態が明らかにされつつある。
「 『マオ』が伝える中国の巨悪 」 | 櫻井よしこ オフィシャルサイト



また、エドガー・スノーに似た、アメリカの中国共産党専門のジャーナリストに、アグネス・スメドレーAgnes Smedley)がいる。

スメドレーは、毛沢東に会うチャンスを与えてもらうかわりに「宣伝のための作文」を書かされていたエドガー・スノーに似て、1940年前後に、当時内戦状態にあった国民党と共産党の双方から取材して記事を書かせてもらえるチャンスに恵まれたことで一躍有名になった。
だが、1950年に下院非米活動委員会から召喚状が発せられたスメドレーは、その日にロンドンに飛んで、召喚に応じることなくその夜に急死した。これは非米活動委員会から召喚され3日後に突然死亡したハリー・ホワイトとまったく同じ展開であり、スメドレーも、ハリー・ホワイト同様に、冷戦終結後の情報公開によって「コミンテルンから資金援助を受けて欧米向けの宣伝活動に従事していた」ことが判明した。

なお、南京事件自体を初めて世界に発信したのは、エドガー・スノーではなく、イギリスのマンチェスター・ガーディアン特派員、ハロルド・J・ティンパーリHarold John Timperley)だが、このティンパーリにしても、スメドレーと同様、国民党中央宣伝部顧問の肩書きがあり、その著作群が中国国民党中央宣伝部の意をうけて発行されたものである疑いをもたれている。



もちろん、ここに書いた数々の話題の真偽を、どう確かめ、どう判定するかは、読む人の自由であり、ブログ主の関わるところではない。
少なくとも言いたいことは、「情報」というものが「意図的に作られ」、世論というものが「意図的に操作される」ことなど、かつても、今も、けして珍しくない、ということ、そして、そういうスパイ小説まがいの行為について「それは陰謀論ってやつですね(笑)」と笑い飛ばして無視できる時代は、残念ながらとっくの昔に終わった、ということだ。

官房長官への記者会見という公式の場所で、堂々と異常な質問を繰り返す東京新聞記者の異常さは、まさに「言葉でできたミサイルを日本に向けて飛ばす行為」としか、言いようがない。



また蛇足だが、日本の戦後史の評価についても、いい機会だから自分で調べてみることをお勧めしたい。
ハル・ノートを起草して日本を戦争に追い込んだハリー・ホワイトや、南京事件の歪曲報道に関わったエドガー・スノーやハロルド・ティンパーリの足跡から、「第二次大戦前後の国際世論がどれほど、中国やソ連、コミンテルンなどによって誘導されていたか、そして、その情報の歪曲が、これまで日本の国益をどれほど損なってきたか」考えるべきだ。


共産主義かぶれの人間は、とかく核の時代を批判したがる。だが、むしろ聞きたいのは、核による危険な均衡の時代の『開幕』に、あなたがたは関与してこなかったと本当にいえるのか、ということである。

damejima at 16:00

August 27, 2017

2001年イチローがMLBデビューしたことで築かれたシアトルのシーズン記録116勝を塗り替えるかもしれない今シーズンのドジャースだが、その原動力は編成部長アンドリュー・フリードマンだと思っている。

そのフリードマンのよく知られた言葉のひとつに、「情報はいくらあってもいい」というのがあるが、この言い方は「誤解」を招きやすい。「情報を集めれば集めるほど、勝てる」などという「間違った理解」を生みやすいからだ。情報の多さが勝ち負けを決めるなら、誰も苦労などしない。(もちろんフリードマン自身、そんな意味では言ってないと思う)



「現場」にとって、情報は重要なのはたしかだ。
だが、情報が多ければ多いほど「対策や戦術がパーフェクトになる」わけではない。

むしろ大事なのは、以下の鉄則だ。
情報は常に不完全だ」という前提で戦う


災害」を例に考えてみる。


ブログ主が東日本大震災から学んだことのひとつは、災害の被害規模を決定する要因は、過去と現代とでは異なる、ということだった。
かつては地震の震度やマグニチュード、台風の風速や暴風圏の広さがそのまま被害規模を決定していたが、現代では、天変地異のパワーが被害規模とイコールとは限らない。
むしろ、ブログ主がみるかぎり、東日本大震災の未曾有の惨事の被害規模を決めたファクターは地震の大きさではなく、「情報の混乱と寸断」にあるとしか思えなかった。


例えば台風だが、昭和の時代には室戸台風や伊勢湾台風のような「数千人もの死者が出た事例」があった。だが近年になると、物理的な被害はまだまだ防ぎきれないにしても、こと人的被害についてだけいうなら、「対処のしかた次第で、その大半を防止できる可能性」は高い。「防災技術や情報共有メディアの発達した現代」においては、災害の被害規模は、必ずしも「天変地異の規模だけ」で決定されるのではなくて、「避難や情報供給の成功不成功」によっても決まるのである。

この話をもっと一般化していえば、「避難と対策さえ的確なら、災害の被害は多少は抑え込める可能性がある」ということであり、逆にいえば「避難や対策が失敗なら、被害はより拡大する」ということでもある。


ここでちょっと横道にそれる。

これはあまり気がつかれないことだが、
「災害」という現象の最大の特徴は、実は、災害そのものが『避難や対策を妨げるように働く』ことなのである。むしろ、これこそが災害の怖さの本質と言っていい。

例えばだが、洪水や津波で押し寄せる大量の水で溺死の危険に晒されることは誰でもわかっている。
だが、家のまわりが大量の水であふれかえっている状況になったら、簡単には避難できなくなる。つまり、「大量の水によって、生命の危険がさし迫っていることがわかっていても、避難自体ができない状況が、広範囲に、かつ同時に生まれる」のであり、これこそが災害という事象の「現代的な怖さ」なのだ。
もちろん、災害対策を実行する立場の人々にとっても、災害は、情報伝達、分析、決断、人材や資材の移動など、あらゆる面でのスピードや的確さなど、あらゆる対策の妨げになる。

これは地震や火事などでも同じだ。
地震の激しい揺れそのものが多数の人命を奪うというよりも、揺れによって家屋や道路などあらゆるものが破壊され、精神的にも萎縮してしまい、「避難も対策も困難になる状況」が多くの生命を危険にさらすのである。

災害という現象は「人を避難させないように、その場に釘付けにする」という、とてもやっかいな特徴をもっている。「避難もできず、かといって対策もとれない状況」が生まれることで、災害の被害は拡大する。現代における災害、特に人命の危険という点で怖いのは、災害時の自然現象そのものより、むしろ「避難」と「対策」の両面が長時間にわたって妨げられ続けることにある。


では、福島原発のメルトダウンはどうだったか。
この未曾有の惨事の直接的な原因は、「冷却のための電源が喪失したこと」だが、ブログ主は、もしこの事故が「平常時」に起きていたら、おそらく「結果はまったく違ったものになった」のではないかと考えた。
つまり、「情報がスピーディーかつ正確に伝わるための障害も混乱もない」という意味での「平常時」においては、「冷却のための電源が喪失した」という「情報」はおそらく、もっとスピーディーに伝達され、もっと的確に分析され、より正しく決断され、対策のための人材と資材がもっと適所に配置されたのではないか、と思うわけだ。


だが、福島原発で実際に起こったのは
メルトダウン」という最悪の事態だった。

詳しい経緯を知っているわけではないが、「冷却のための電源の喪失」という非常事態が、情報の伝達、分析、決断、人材や資材の配置など、「情報管理のあらゆる面でミスを発生させていたこと」はなんとなく推定できる。


では、情報が多ければ多いほど、対策は万全になったのか。
そうではない。と、ブログ主は思う。本当に必要だったのは、「欠けている情報下での決断」だったはずだ。

・災害の現代的な怖さは、自然現象の規模そのものよりも、水、雨、風、火、揺れなどの自然現象が、家屋の倒壊や道路の寸断などと重なって、「避難」と「対策」の両方が著しく、かつ広範囲に妨げられる点にある

・災害対策の妨げになるのは、とりわけ「情報の流れが決定的かつ大規模に阻害されること」だが、それが災害の本質そのものである以上、「情報の阻害をゼロに抑えこむこと」は不可能。非常時に情報収集にばかり気をとられることは、むしろ対策の実行の妨げになる可能性が高い

・ゆえに、災害のような非常時においては、むしろ「情報の欠如」を前提に行動すべき



現場」というものは、多くの場合、「情報が不完全」なのが当たり前なのだ。そういう場所においては「情報が多ければ多いほど、対策はより万全になる」なんていうタテマエは何の意味もなさない。このことをもっとよく考えるべきだ。

自然災害だらけの国、日本でさえ、人は災害においてこそ、パーフェクトな情報収集が必要だなどと思い込みやすい。
自治体の災害担当者などにしても、責任感からか何か知らないが、おそらくそういう思い込みを根強く持っているにちがいないから、災害を目の前にすると、ついついこんなことを考えてしまう。
情報の正確でスピーディーな集約
的確な分析
正確な決断
効率的な資材や人材の調達と配置

だが、実際に起こることは、まったく別の事態だ。
情報網の寸断や消滅
情報の不足や遅れ、デマの流布による混乱
決断の遅れや誤り
資材や人材の不足、配置ミス
避難手段の欠如
無駄な行動の多発


「現場」というものは、常に「情報が不完全な状態」にある。このことを忘れて、情報をパーフェクトにそろえないかぎり何も決断できないような組織を作るなら、そんな不安定で役たたずの組織は「現場」ではまったく機能しない。

例えば、「災害時に情報管理を完璧にこなせるシステム」なんてものを大金かけて構築しようとしている人がいるとしたら、そんなもの、非常時に役に立つわけがない。
また、大学の情報論の教授が、「いかに情報を完璧に収集し、完璧に行動するか」だけを論じるなら、そんな議論は何の役にも立たない。
また、もし災害の現場で「何やってるんだ! 完璧な情報を早くもってこい!」と、大声で怒鳴り散らしている管理者がいたら、そんアホウこそ「最も現場に必要ない人間」だ。(実際、東日本大震災時の首相菅直人はおそらくそういう風に行動したに違いない)


いつも思うことだが、『24』のようなアメリカのドラマは、シナリオとして、とてもよくできている。

というのは、時々刻々と変わる現場、情報の錯綜、「現場」と「管理者」との情報のズレ、現場の変化についていけず判断ミスを繰り返す頑迷な管理者、自分だけ正確な現状を理解している「主人公」が判断を躊躇している「組織」にどう対応すべきか、など、緊急時の「現場」に起こるさまざまなシークエンスの大半が、「情報の不完全性を前提に」描かれているからだ。
こういうドラマはえてして、無理すぎる設定、辻褄のあわないエピソード、キャストの都合によるシナリオの変更など、細かいミスが数多くあるわけだが(笑)、そういう制作上のいい加減さはともかくとして、「非常時に起こる情報のズレ、ギャップ、断片化など、非常時の情報収集に起こる混乱ぶりを描くことによってのみ表現できる、現代的なリアルさ」が、この「情報混乱時代」に生きる視聴者を飽きさせない理由だと思う。




damejima at 20:34

August 05, 2017




上に挙げたツイッターでの質問に対する「答え」にたどり着くための「道筋」となる記事を書きとめておいた。ここに書いたことが糸口になって、とめどなく垂れ流され続けているマスメディアのウソに流されない「自分なりの考え」をまとめるきっかけにしてもらえたら幸いである。
とはいえ、これを読んでもまだ理解できないようなら、あなたの知性は危険水域にあるとは思う。こんな簡単なロジックすら理解できないようでは、「国家という集団維持システム」の大事さも、「グローバリズムのまやかし」も、理解することはできない。


憲法というルールの性格は、
国ごとに異なる」という点にひとつの特長がある。

いいかえると、
憲法は世界共通ルールではない

当然ながら、
日本の憲法が、同時に、世界共通ルールでもあるべき「義務」など、まったく存在しない

そして、「国ごとのルール」である憲法においては、「それぞれの国に所属する(あるいは所属を宣誓した)国民だけがルールの対象」なのだ。

したがって、
外国人は「憲法の対象外」だ。


にもかかわらず、だ。
憲法が大事だとか、心にも無いことを言いたがる輩に限って、「国家という枠組み」を軽視したがる。憲法というルールは、「国家という単位を前提にして成立しているルール」なのだから、それはどう考えても「矛盾」である。
国家は大嫌いだが憲法だけが好き、それも、憲法の「ごく一部分だけ」が好きで、憲法の嫌いな部分は死んでも守らない、などというのは、「子供じみた好き嫌い」に過ぎない。外部からどんな新しい概念を持ち込んで矛盾をごまかそうとしても、そんなものは詭弁でしかない。


さて、
最初に挙げた設問でいう「憲法」とは、
もちろん「日本国憲法」を意味している。


では、
「日本国憲法」は外国人に適用されるだろうか。
答えは簡単だ。

外国人には適用されない


憲法の項目には「外国人にも適用されうる条項」があると主張したがる人がいるが、そういう詭弁を耳にして勘違いしてはならない。

憲法の条項には、国際的な共通の理解のもとにある人道などの範疇内にあるものもある。だが、それは単に「異なる2つのルールがオーバーラップしている部分がある」という意味に過ぎない。
オーバーラップしているからといって、そのことによって「日本国民だけに適用されるはずの日本の憲法のすべてが、外国人全員にも適用される」わけではない。そんなこと、ありえない。


また、これもいうまでもないことだが、「日本の憲法は、外国人全員の権利や義務を保証する責務を負っている」という意味にも、まったくならない
くり返して言わせてもらうが、「あらゆる国の憲法と同じく、日本の憲法は、全世界をカバーするルールではない」のだ。当然のことだ。ゆえに
日本の憲法が「日本という国家が全世界の人々に対して義務を負うと、宣言している」わけでもなければ、全世界の人々に権利の保証を公約した、わけでもない。
のである。
(国際条約があるだろ、などと、「例外を示したつもり」になる人もいるだろうが、国際条約は単に「批准した国々の間の取り決め」に過ぎない。批准していない国にはなんの拘束力もない)


さらに、間違ってはいけないことがある。以下のようなことだ。
「日本国憲法が外国人全員に適用されるかどうか」という問題と、「日本にたまたま滞在しているだけの外国人に、国際的な了解が成立している範囲での人権が存在するか」という問題とは、イコールではない。それどころか、まったく別の話だ。
ということだ。

この点で、前後の歴史において世の非常に多くの「人権を錦の御旗にしてきたブログ、メディア、SNS、外国人組織などが、「問題のすりかえ」を行って、日本に損害を与えてきた。その手口は、まさに上に挙げた「論点の意図的なすりかえ」によるものだ。


「たとえ」を挙げてわかりやすくしてみる。

旅行で日本に来た外国人ツーリストがいた、とする。

いうまでもないが、その人間に「人権がまったくない」わけがない。そんなことは、ありえない。
しかしながら、世界レベルで了解されている国際的な人権が外国人ツーリストにもあるからといって、「日本国憲法が定める国民の権利や義務」が外国人にも適用されるかどうかというと、それはまったく別次元の話だ。こんなことがわからないようでは、アタマがおかしいと言われてもしかたがない。

例えば、日本の「伝統的な」銭湯には、「全員が全裸で風呂に入る」という日本独自の文化習慣、日本独自のルールがある。このルールは、酔っ払いなどの不心得な人を除外すれば、「入浴者全員が守るべき日本のルール」だ。

では、もし「銭湯を経験したい外国人ツーリスト」が、「自分の出身国では、全裸になった自分を他人の視線に晒す文化はない」と理由をつけて、番台で「水着で銭湯に入らせろと、大声を挙げてゴネた」としたら、どうだろう。

それは、許されない

もちろん、もしその外国人ツーリストが「他人の目の前で全裸入浴を強制された」のだとしたら、それは明らかに「人権問題そのもの」だが、それはまったく別の話だ。いうまでもない。

日本の伝統的な銭湯で外国人に「裸になりたくない」と声高に主張されても、いい迷惑だ。日本には、「他人の目の前で全裸になって入浴したくない人」や、「日本式の入浴と異なる文化のもとで育った人」には、他に無限の「選択肢」がある。また、異なる選択肢を利用・検索するための情報元も無数にある。
日本の銭湯では、「日本人か外国人かを問わず、全裸での入浴が求められる」のは当然のことだし、外国人にも全裸での入浴を求めることは人権の侵害ではない。(むしろ、「国籍を問わないドメスティックなルール」だからこそ、「平等に」全裸での入浴を求めるのだ)


さらに、ここも大事なことだが、「日本の銭湯に入る」という行為は、別の観点からいえば「銭湯という日本文化を受け入れる」という意味である。
もし「日本の文化を受け入れない狭量な人間」が、日本の文化を味わいたいという美名(または言い訳)のもとで、自分だけが水着で銭湯に入ろうと主張してゴネるとしたら、それは自分個人の価値観の「強要」であり、土足が許されない日本の家庭に「土足であがる」ようなものである。

日本の文化という家を土足で踏みにじること」は許されない。


上記の「たとえ」だけでも話の大半は終わっているが、
もう少しだけ本来の話をしておく。


「日本国民であることによって生じる、自由、権利、義務」には、「外国人を対象としないもの」、あるいは「外国人の場合は内容に制限がもうけられるもの」が複数ある

例えば以下のようなものだ。(以下がすべてではない)
参政権
出入国の自由
政治活動の自由
社会保障を受ける権利


このことは、逆にいえば、どんな国であれ、「外国人については、その国の憲法が規定する自由、権利、義務などが、まったく適用されない、あるいは、一定の制約が生じるのが、あたりまえなのだ」という意味でもある。
この「外国人には、その国の憲法が適用されない」という原則は、憲法というルールがもともと「その国の国民にのみ適用されるルールであること」から生じているだけの話だ。それは、日本の憲法が「世界的な平等の原則にそむくものであること」を意味していない。また、もしそういう批判があったとしても、それは単なる「いいがかり」に過ぎない。


ここからは余談だが、上で書いた「憲法が規定する、外国人を対象としない自由や権利の数々」をみるだけでも、戦後の日本の憲法がいかに「蚕食」されてきたかがわかる。(そして、日本の憲法の蚕食を意図的に行ってきたのは、日本の憲法を見た目だけありがたがっているようにみせかけてきた「護憲派の人々」でもある)

例えば「外国人に対する生活保護」である。
日本では憲法の規定に基づく社会的な保護機能を受ける権利は、「日本国民だけのもの」であって、「外国人」にはその権利が最初から存在していない。法的に当然のことだ。「外国人に対する生活保護が不法であること」は、とっくに最高裁で認定されてもいる。
ところが、この「本来あってはならない、あるはずのない利益を、なんの負担もなく、タダで享受している外国人」が、「日本にびっくりするほどたくさんいる」のである。

他にも例はまだまだたくさんある。
外国人の政治活動の自由や、国会議員の二重国籍の問題だ。

これも、外国人に対する生活保護供与と同様で、「外国人の政治活動の自由」など最初からない。外国人には政治献金すら許されていない。また、謝蓮舫のような二重国籍は、国会議員に認められていない。
これらのルールは国家としての治安上の意図によるものであって、日本だけがそういうシステムをとっているわけではない。それは、日本にナショナリズムが蔓延しているからでもなければ、日本人が多様性を認めないからでもないし、日本が人権後進国だからでもない。
日本に限らず「国家」という社会維持システムにおいては、国会議員に特別な地位が与えられ、守られると同時に、国会議員たるにあたっての資質に制限も加えられいてる。それは「その国の国籍を有しており、その国だけのために粉骨砕身で奉仕することを誓約した者」だからだ。そうでない「怪しげな者」が国会議員職に就くことなど許されない。


マスメディアや人権派と自称する人たちの「都合のいい説明」を鵜呑みにしてはいけない。
戦後、彼らは、片方では、憲法を守れと声高に叫んできたクセに、他方では、憲法に規定されてもいない外国人の「なんの根拠もない権利」を怒声をもって主張することで、憲法の遵守義務を怠り、憲法の根幹を蚕食してきたのである。
憲法を蚕食しているくせに、都合がいいときにだけ都合のいいことを言っているだけの人間たちが、都合のいいときに持ち出してくるのが憲法という「便利な言葉」だということだ。最初に挙げたのは、そのいい例だ。


もちろん白鵬は、親方になりたければ、日本文化を受け入れる意味で「帰化」という道をみずから選択するだろうし、帰化したあとも、相撲という文化における「親方システム」を遵守するだろう。彼が、水着で銭湯に入らせろと番台でゴネるような人物とは思えない。

にもかかわらず、である。すすんで帰化しようとしている人物の話題すら、日本を貶めるネタにしようとする、頭のおかしな人間がいる。

彼らの主張の「狙い」は結局のところ「ひとつしかない」ということが、この記事に書いたからもわかるはずだ。
彼らがやりたいのは、「日本人だけに規定されている憲法などの法的な自由や権利を、外国人にも認めろ」という意味ですらない。つまるところ彼らが主張していること、やってきたことは、タダ乗りさせろ、好きなようにやらせろ、ということにすぎない。

たいがいにしろと、言いたい。

damejima at 06:15

July 11, 2017




江東区越中島の三商、東京都立第三商業高等学校は、1928年創立時「東京府立第三商業學校」といい、卒業者には加島祥造北村太郎田村隆一と、同人誌『荒地』に集う詩人をごっそり輩出している。

こうした「東京の歴史の古い学校、とりわけ『下町の学校の出身者』から、特定の文学者グループが輩出されている例」は、以下にみるように、かつて「いくつのグループ」が存在した。(逆にいえば、そうした例は歴史の浅い学校にはあまりみられない)

俯瞰したまとめを最初に強引にしておくと、「東京出身の文学者」は、「日本における近代的な自我の成立」に深く関わり、「東京出身者の文化的ネットワーク」はこれまで、小説、詩、映画、マンガなどに張り巡らされてきた。


府立三中・純文学ライン
「芥川龍之介ー堀辰雄ー立原道造」にみる東京気質


思潮社から出ている『立原道造詩集』のあとがきで、自身も「東京出身」の小説家・詩人である中村真一郎氏がこんなことを書いている。(以下、個人名における敬称を極力略す)
日本の近代文学の成熟期における、三人の文学者を、一本の系譜として理解するという考え方は、未だ常識にはなっていないように思われる。

中村が指摘した「つながりのある3人」とは、芥川龍之介堀辰雄立原道造である。彼らは全員が両国の府立三中(=府立三高、現在の都立両国高校)出身で、中村は3人すべての全集の編纂に関わった。

「府立三中出身の文学者」は他に、半村良石田衣良山口恵以子小池昌代などがおり、またパンチョ伊東の出身校でもある。

パンチョさんが「舶来の文化であるMLB」に惹かれたことがけして偶然ではないことは、この記事に挙げた東京出身者のかなりの数が「海外文化の紹介」に携わった経歴をもつことから明らかだが、ここでは書ききれない。稿をあらためたい。

また、日本橋の呉服屋の長男として生まれた鈴木清順の映画『けんかえれじい』『ツゴイネルワイゼン』にみる東京っぽいモダンさとか、後述の小林信彦の後輩でもある大藪春彦の原作を下に清順が映画化した『野獣の青春』などにも触れたいところだが、とても書ききれない。これも記事をあらためる。ひとつだけ書くと、清順ムービーは難解なのではなく、東京人お約束の「ハードボイルド」なのだ。そこさえわかれば簡単に楽しめる)


中村によれば、芥川は自著『僕の友だち二三人』において、自分と堀辰雄との共通点を「東京人、坊ちゃん、詩人、本好き」と明言しているらしく、中村はこんな意味の指摘もしている。
いずれも「東京の下町出身」である3人の文学者の「生涯の主題」には、「生来の環境からいかに超出し、独立した人格を形成するか」という共通性があった。

簡単にいえば、「3人の共通テーマ」は、泥臭さの充満した下町に突如出現した秀才が、下町の暮らしとは切り離された近代的な人格を形成しようとした、ということだろう。


「泥臭い下町から、近代的な人格への脱出」という点だけみると、なにも東京出身者だけにあてはまるわけではなく、「田舎を捨てて東京に上京し、大成した文学者」にだってあてはまると、考えたい人もいるだろう。
だが、中村が、地方での暮らしや地縁血縁をまるっきり捨てて上京して創作に励んだ「上京組」と、古い人間関係の中にあって独立した人格を形成するという難しさを抱えこんだ「東京出身者」とでは、文学の創作における方向性というものは180度違ってくると判定したように、ブログ主も、地方からの上京者と東京出身者が同じ境遇、同じセンスの持ち主だとは到底考えられない。
例えば、「上京組」の島崎藤村田山花袋が「自然主義作家」になったのに対し、反自然主義といわれた芥川をはじめ「東京出身者」が上京組と違った文学的進路をとるという中村の意見のほうが、はるかに的を射ている。


府立三商・詩人ライン
「加島祥造ー北村太郎ー田村隆一」にみる東京気質


冒頭にあげたツイートにある東京都立第三商業高等学校は、創立時東京府立第三商業學校といい、「三商」と略される。(注:「三中」はいわゆるナンバースクールだが、三商はそうではない)
この学校の出身者である加島祥造、北村太郎、田村隆一の3人が揃って参加していたのが、『荒地』という詩の同人誌であり、タイトルの『荒地』はT・S・エリオットの1922年の詩からとられた。


荒地同人の鮎川信夫三好豊一郎など、関係者の大多数がそろって「東京出身者」である点だけでなく、この詩人グループの人間模様には、非常に狭く、かつ錯綜しているという特徴がある。
例えば、田村隆一の最初の妻は鮎川信夫の妹であり、その鮎川の妻はかつて加島祥造の恋人であった人物であり、また北村太郎と田村隆一の妻が恋愛関係にあったこともある。

このように『荒地』における人間関係はかなりドロっとした「濃厚な」ものだったわけだが(人間関係の濃さだけみると、近代的どころか、まさに「下町そのもの」なのが面白い)、反面、そうした「濃い関係にある文学者の一群」の存在があればこそ生み出された、「文化上の成果」があった。

それは「海外文学の紹介」だ。

かつて早川書房の編集者だった宮田昇(宮田も東京出身)は、著書『戦後「翻訳」風雲録―翻訳者が神々だった時代』において、「明治時代に学者の専売特許だった翻訳という仕事に、第二次大戦後、「翻訳のプロ」が登場したことで、海外文化の紹介が飛躍的に進んだ」という意味のことを指摘した。

そうした「翻訳のプロ」が多数同時に育った理由のひとつに、東京生まれの早川書房創業者早川清が、たまたま詩人加島祥造の兄の同級生だったことがある。
早川は、上に列挙した「非常に狭く濃い人間関係の中にうごめいている荒地の詩人たち」を翻訳家として起用したから、『荒地』の詩人の多くが翻訳家として活躍できる道が開かれた。このことで、詩人に特有のシャープな感性が翻訳文学に特有のドライでモダンなタッチを生みだして、多くの海外作家が日本で愛読されるきっかけを作ったのである。(早川書房以外にも、下訳に稲葉明雄などを使って結果的に多くの翻訳者を養成した宝石の宇野利泰のような例もある)
『荒地』関係者が翻訳した海外作家は、エラリー・クイーン、コナン・ドイル、アガサ・クリスティ、ウィリアム・S・バロウズ、フォークナー、エド・マクベイン、リング・ラードナー、グレアム・グリーン、ヘミングウェイ、T・S・エリオット、ルイス・キャロル、ロアルド・ダール(=ティム・バートンがジョニー・デップ主演で映画化した『チョコレート工場の秘密』の原作者)など、とても数え切れない。

『荒地』の詩人と早川書房をめぐる人間模様に登場する人物は、その大多数が「東京出身者」で占められている。芥川龍之介の三中ラインが「純文学系」だとすれば、『荒地』の三商ラインは「エンタテイメント系」とでもいうことになる。
東京出身の詩人に特有の「コハダの寿司を食うような作風」が、中原中也寺山修司のような地方出身の上京詩人に特有の「これでもかとバターを使ったフランス料理を食うがごとき壮大なロマン主義」とはまったく相容れないものであることにも触れたいわけだが、とてもこの短文では書ききれない。これについても稿を改める。


小林信彦にみる「ハードボイルド系東京気質」と
溝口正史、江戸川乱歩などの非・東京系文学


小林信彦は日本橋の老舗和菓子屋の倅であり、芥川の師匠にあたる夏目漱石の『吾輩は猫である』に散りばめられたユーモアについて、「落語がわかってないとまったく楽しめない」と断言するほどの熱心な落語ファンでもあるわけだから、芥川龍之介系の典型的な「東京の下町出身の純文学者」のひとりになっていてもおかしくなかったし、また、複雑な生い立ちを持った東京出身者のひとりである堤清二が詩人を志したように、『荒地』に参加するような「詩人」になっていてもおかしくはなかった。

だが彼は、そのどちらにもなれなかったし、ならなかった。

東京高等師範学校附属高等学校(現在の筑波大附属高校)に進んだ小林は若い頃になかなか人に才能をみせつける機会に恵まれず、いろいろと苦労をした。『ヒッチコックマガジン』の編集長の職も、宝石の多くの関係者が断った挙句、小林にようやくお鉢が回ってきたものだ。
後に小林は、当時黎明期にあったテレビに進出することで、文学偏重のきらいがある編集者の世界とは一線を引き、ようやく多彩な才能を世間に披露できる機会を得た。



小林はかねてから「下町嫌い」を公言してきたわけだが、「徒党を組むこと」を嫌う彼は、古くからあった東京モダニズムの「流れに乗る」ことを嫌ったに違いない。
江戸の落語だけでなくコテコテの関西ギャグにも造詣が深い小林は、東京の文壇の傘下にある編集者とは一線を画して、恩師江戸川乱歩同様に、関西の作家の才能をいちはやく評価し、溝口正史への入れ込みをはじめ、小松左京筒井康隆山田風太郎など、「関西出身作家」の作品を高く評価してきた。(とはいえ、小林が愛してやまない日活のアクション映画などは、明らかに東京テイストそのもので、関西テイストではないし、名作オヨヨ大統領シリーズもしかり)
小林と親交があり、小林のお気に入り作家のひとり、ダシール・ハメットのコンチネンタル・オプものの長編『血の収穫』(=黒澤明の映画『用心棒』の下案となった小説)の訳もある稲葉明雄も関西出身だ。(とはいえ、稲葉の師匠である宇野利泰は神田区生まれの東京人。その宇野にチャンスを与えたのも、小林にチャンスを与えた人物でもある名プロデューサー江戸川乱歩)

小林の内面に、東京出身者にしては特異ともいえる独特のシニカルなメンタリティが醸成された理由は、若い頃に苦労させられ、周囲の東京人たちとぶつかり続けた思い出の苦さが影響しているものと思われる。
逆にいえば、狭い世界にうごめく東京の編集者の世界で揉まれて、シニカルで孤独感に苛まれる性格が醸し出されたからこそ、笑いとハードボイルドという異ジャンルを得意技にできたのだろう。
ちなみに大藪春彦は小林の大学の後輩でヒッチコックマガジンの寄稿者のひとりだが、もしも大藪の書くようなハードボイルドのヒーローがドライでなかったら、とても読む気にはなれない。

総じて言えば、小林が志向したミステリー、ハードボイルド、ユーモアは、「早川書房系列のミステリーのどこか奥底に隠されている純文学志向」とは一線を画したエンタテイメント色があるように見える。そのことは、ここでは詳しくは触れられないが、関西人である横溝正史との直接対談によって編纂された『横溝正史読本』にみる小林信彦の激しい入れ込みにもハッキリと現れている。

横溝正史の『新青年』は、1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表雑誌の一つであり、都市のインテリ青年層の間で人気を博したといわれている。
執筆者は、溝口に加え、小林を宝石にスカウトした江戸川乱歩夢野久作稲垣足穂など多士済々だが、西日本を中心にした「地方出身者」が多数を占めている点で、東京人による『荒地』とはスタンスが100%異なる。
『新青年』はいわば「関西版モダニズム」であり、『新青年』における「モダニズムの濃さや匂い」は、東京出身者ばかりで占められた「芥川龍之介、堀辰雄、立原道造ライン」の「東京の純文学系モダニズムの濃度や匂い」や、同じく東京出身者によって形成された「『荒地』の詩人集団のもつモダニズムの濃度や匂い」とは、「明らかに別種の濃さや匂い」をもっている。このことは彼らの作品それぞれを読めば誰にでもわかる。(宮田昇が『荒地』同人の舞台裏を皮肉っぽく書いて出版しているわけだが、これも、彼らの「表の顔」が豪快洒脱なのに対して、「裏の顔」が案外みみっちいことを指摘したいのだろう)


本来なら、近しい作風を持って同時期にデビューした、下北沢生まれの岡崎京子と文京区の向丘高校出身の桜沢エリカの作品に共通に流れている「東京気質」など、東京出身者の文化的ネットワークの例をもっと挙げておきたいわけだだ、挙げだすとキリがない。
残念ながら、この拙いブログで「純文学、推理小説、ミステリー、ハードボイルド、映画、マンガにいたるまでの膨大な分野における『東京出身者の創造したモダニズム』の特徴」をマトモに扱うことなど、とてもとてできない。手にあまる。機会があればまた多少なりとも断片に触れてはいきたいが、壮大な詳しい解析作業はどこかの誰かにまかせたい。

ただ、記事を閉じる前に、ちょっとした誤解を正しておきたい。
漫画『サザエさん』の風景は、(特に地方の人に)古い東京っぽさの代表だと思われがちだが、あれは実際には山の手の暮らし、それもステレオタイプであって、下町のそれではない。というのも、『サザエさん』の作者長谷川町子は東京出身ではないから、古い下町の暮らしを実体験してはいないからだ。
東京らしさという点でいえば、松本大洋が『鉄コン筋クリート』で描いた「町の風景」のほうが、よほど「東京らしさ」を再現できている。
ただ、長谷川の師である田河水泡は本所生まれのチャキチャキの江戸っ子であり、その妻・高見沢潤子も、やはり神田生まれの東京人である小林秀雄の妹だったりする。漫画家になる前は落語作家でもあった田河の描く空間には、古い東京人特有のやや硬質な質感が残されている。


最後にもうひとつ。
宮崎駿は映画『風立ちぬ』において、同じ東京出身の作家・堀辰雄の存在をバックボーンにしているわけだが、その宮崎自身も「東京出身」である。
そのことを加味してあらためて宮崎の作品群をながめると、彼の「芸風」の奥底には東京のモダニズム特有の「風」が吹いていることに気づく。(その風は、かつてはっぴいえんどの曲などにも吹いた。はっぴいえんども、大瀧詠一をのぞく全員が東京出身者で、洋物の音楽を日本向けに焼きなおした「ある種の翻訳家」でもある)
それと同時に、宮崎が、東京モダニズムの基本風味に、「東京郊外の中央線に吹く風の特有の匂い」をつけ加えて料理していることが、なんとなく伝わってくる。
この「東京郊外の中央線界隈に吹く風の匂い」を言葉で説明するのは非常に難しい。たとえとして言えば、忌野清志郎(忌野は中央線の通っている中野区生まれで、中央線沿線の国分寺育ち)の歌詞に流れる、パンクっぽい荒れたルックスの奥底に流れている「口ごもりがちな、世渡りのうまくない、東京っぽい優しさ」のことである。(「世渡りがうまくない」という表現は中村真一郎の東京人評にある言葉だが、これは、小林信彦から忌野まで含めた東京人特有の特徴でもある)




damejima at 19:00

June 08, 2017




1976年6月4日マンチェスターで行われたセックス・ピストルズの世界で初めてのギグに居合わせた観客が、「たった40人ほど」だったことは有名なエピソードだ。



その「世界で最初にセックス・ピストルズをライブで見た、ほんのわずかな無名の観衆」はその後、多くが有名ミュージシャンやレコード会社経営者になった。シンプリー・レッドのミック・ハックネル。ザ・スミスのモリッシー。ジョイ・ディヴィジョンニュー・オーダーのバーナード・サムナー、ピーター・フック。バズコックスのハワード・ディヴォート、ピート・シェリー、などのミュージシャン。ジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー、ザ・ドゥルッティ・コラムなどを世に送り出したファクトリー・レコードの社長の故トニー・ウィルソン、ファクトリー・レコードのプロデューサーでジョイ・ディヴィジョンを手がけた故マーティン・ハネット。

注:
この伝説のライブの「観客数」は詳細に判明しているわけでもない。いずれにしても「40人程度だった」ことは間違いないが、「伝説」に正直に従って「42人」とするサイトがある一方、その日その場所に間違いなくいたと「自称」する著作 "I Swear I Was There" で儲けたDavid Nolanなどは「35人から40人」と書いている。
ただ、日本のサイトで「イアン・カーティスが6月4日のピストルズのギグ会場にいた」とされていることについては事実誤認の可能性がある。ジョイ・ディヴィジョンは、「6月4日」のライブで衝撃を受けたバーナード・サムナー、ピーター・フックがバンド結成を呼びかけてできたバンドで、7月20日にライブを見て衝撃を受けた故イアン・カーティスはこのバンドに「後から」参加している。「後から参加した」カーティスがピストルズを最初に見たのが6月4日ではなく7月20日とするほうが、事実として整合性がある。


「6月4日以降の出来事」について面白いのは、この伝説のライブに居合わせてミュージシャンを志した人間たちがその後に到達した音楽スタイルが、教祖であるピストルズと同質の「激しさを売りにした音楽」でなく、むしろ全く異なるニュー・ウェーヴや和製英語でいうネオアコなど、「静寂化と洗練をめざした音楽」のルーツになったことだ。

例えば、ピストルズのライブに影響されて作られたファクトリー・レコードが手がけたジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー、ザ・ドゥルッティ・コラムなどのバンドは、そのどれもがピストルズと同じ「激しさを売り物」にしたオリジナルパンクではなく、むしろ、「静寂化と洗練に向かう流れ」を作りだしたポスト・パンクやニュー・ウェーヴのルーツになっている。ファクトリー・レコードが後年、ミカド、イザベル・アンテナ、ソフト・ヴァーディクト、タキシードムーンなど「洗練を主張する音楽」を世界に送り出したベルギーのクレプスキュールと提携したのも頷ける。
シンプリー・レッドのミック・ハックネルも、ピストルズに影響されて始めたパンクバンドでは成功せず、成功したのはソウル色の強いシンプリー・レッドだし、ザ・スミスにしてもネオアコ代表バンドのひとつであり、どちらもピストルズ流の「激しさ」とは程遠い。


つまり、「激しさ」を売り物にしたピストルズの演奏ぶりを最初に見てインスパイアされた「40数人の反応」とは、必ずしも「セックス・ピストルズを真似た激しさ」を希求したわけではなかったということだ。
むしろ、「激しさ」が売り物のピストルズのデビュー時の衝撃が、パンクそのものの流行を生んだだけでなく、結果的に「パンク以降にやってくる静寂化と洗練への流れ」をも生んだ。そこが面白い。

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さて、「激しさが静けさのルーツになる」という事例を見たわけだが、蛇足として1976年6月4日という「日付のもつ意味」について触れてみる。


1976年の少人数のライブで世界に衝撃を与えたセックス・ピストルズが「終わる」のは、ジョニー・ロットンがツアー中に脱退した1978年、あるいはシド・ヴィシャスがオーバー・ドーズで死亡した1979年だが、このことでわかる大事なことは、ピストルズというバントが「1970年代後期のバンド」だということだ。
ピストルズと並んで成功したパンクバンドザ・クラッシュにしても、ピストルズを見て衝撃を受けたミック・ジョーンズがジョー・ストラマーなどとバンドを始めたのが同じ「1976年」であるように、「パンクは1970年代後期にできた音楽」であって、その発祥は80年代ではない。(とはいえ、パンク文化の「質」は明らかに70年代的ではない)


ところが、日本では多くの人が「パンクは80年代文化の象徴のひとつ」とか思いこんでいる。それはどうしてか。

80年代前半、欧米では「70年代中頃に誕生したセックス・ピストルズ」はとっくに消滅し、「ピストルズなどパンクロックの衝撃から生まれてきた、硬軟とりまぜた文化」が繁茂しはじめるわけだが、日本では遅れて1980年前後にようやくパンクが一気に輸入され、その影響を受けた日本のバンド(あるいは「パクった」バンド)が「限られた厚みの特定ファン層」を形成した。

この、80年代前期の日本に「輸入パンク文化経験をきっかけに形成されたマイナー文化群にどっぷりつかった、限られたファン層」が、80年代前期限定の「インディーズ」と呼ばれる文化層だ。

例えば、バンド名自体がピストルズ由来のアナーキーのデビューも、シーナ&ロケッツの東京上京も、同じ「1978年」の出来事だが、インディーズの情報網に彼らが本格的に登場するのは80年代に入ってからなのだ。
アナーキーの曲にパンクの大御所クラッシュの曲を日本語でもじっただけの曲があるように、当時のインディーズの有名楽曲には日本でまだ知られていない英語オリジナル曲に、ただ日本語歌詞をのせただけの安易な曲も散見され、必ずしも当時の日本の輸入パンクはオリジナルな存在ではなかった。逆にいえば、「その独特の激しさを真似せずにいられない」くらい、「パンクに最初に触れたときのインパクト」は、「6月4日のライブを見た42人」と同様に破壊的な衝撃だったわけだ。


この「80年代前期限定の文化クラスター」は、音楽ではパンクだけではなく、グラムもポスト・パンクもネオアコもニュー・ウェーヴも、音楽以外では、ヴィヴィアン・ウエストウッドもポスト・モダニズム哲学も、フィリップ・K・ディックもバロウズも、なにもかもを、非常に短期に、しかも「一緒くたに」吸収した。
つまり、輸入元の欧米では順序をもって発展してきた文化群を、80年代前期の日本では、一気に、それも腹いっぱいになるまで「詰め込んだ」のであり、アニメ文化やオタク文化にしても、ルーツはこの「ガツガツと貪欲に文化を吸収した、大食いの時代」にある。


「80年代前期限定インディーズ」が貪欲に吸収した輸入文化から築いた80年代前期文化の質は、「70年代までのアングラ」と質的に異なる。
ここまで書いてきたことでわかるように、「70年代アングラ」と「80年代前期のインディーズ」を瞬時に区別する方法があるとするなら、おそらく80年代前半文化の牽引役である「パンクを通過したかどうか」にかかっていると思われる。簡単にいえば、つげ義春は前者で、大友克洋松本大洋は後者だ、というような意味だ。

ただ、80年代前期育ちの人だからといって、その人が当時のインディーズ文化を経験しているとは限らない。
岩村暢子という方が『日本人には二種類いる』というなかなか興味深い本を書いておられるわけだが、どんな時代でもそうだが、「インディーズ文化にどっぷりつかる経験をしなかった人たち」はどんな時代にも存在する。そういう人たちはおそらく「同世代にインディーズ文化が存在していることにまったく気づかないまま、同じ時代を過ごした」のである。
また、「80年代前期限定文化クラスター」の存在によって、日本における「80年代前期」と「80年代後期」はまったく異質なものになっていることも覚えておくべきだろう。80年代後期文化には「パンクの影」はまったくない。


「80年代前期の文化アイテム」には、エリック・サティ趣味のように、静寂と洗練を追及し、パンクの激情とはなんの関係もないように見えるものも少なからずある。
だが、その底流に「パンク的な、なにか」が流れていることはけして少なくない。なかなか説明が難しいが、わかる人にはわかると思う。

damejima at 09:10

December 08, 2016

地方都市の駅前などによく、衰退した商店街がある。「シャッター通り」とか「シャッター商店街」などと呼ばれるものだ。

こうした「駅前商店街の衰退」が、無謀運転をする高齢ドライバーの出現日本の高齢者の「質的変化」と、どう関係するか。日本中の駅前商店街の全てを調べて歩くわけにもいかないので、ロジックのみで推察してみた。


「シャッター商店街」というのは、なかなかに不思議な現象だ。なぜなら、「衰退」というからには、「駅前商店街が繁栄できた時代があった」という意味だからだ。

これは今の広大な駐車場をもつ郊外型ショッピングモール全盛時代からみると、なんとも理解しにくい。「商店街」とは「商店と商店が隙間なく軒を並べている場所」なのだから、ほとんどの場合、「広い駐車場」など存在しないからだ。

東京のような過密都市なら、駅前商店街の繁栄が今でも成り立つケースがあることは理解できる。なぜなら駅の近隣に「徒歩や自転車で買い物に来る客」や「駅の日常的な利用者」が「大量にいる」からだ。

わからないのは、地方都市の駅前商店街だ。
なぜ、かつて「広い駐車場を持たないにもかかわらず、繁栄できた時代があった」のか。


単純に考えれば、それはやはり「かつては駅近くに十分な数の客がいたから」だ。
もう少し詳しく書けば、「その地域の最も主要な駅の駅前商店街に、徒歩自転車で来れる距離」、あるいは、「その駅に、バス電車などの公共交通機関を使って短時間に通ってこれる、近接した市町村」に、「それなりの数の住民」がいて、主要駅の駅前商店街は近くに住んでいる人々を相手にしているだけで、「たとえ駐車場がなくても商売できた時代」が、たぶんあったのだ。


では、なぜ地方都市の駅前で
「駐車場がなくても商売できた時代」は終わったのか。

モータリゼーション、クルマの低価格化、郊外農地の宅地転用、広大な駐車場をもつ郊外型ショッピングモールやロードサイド店の進出など、さまざまスプロール化の理由が考えられる。だが、駐車場がなくても商売できた時代が終わった理由を追求することはこの記事の主題ではないし、そんな記事はどこにでも転がっているので、そこの分析は省略させてもらうことにする。


理由はともかく、「公共交通機関が集約された駅前に立地し、駐車場をもたない商店街でも繁栄できた時代」は終わり、「郊外に立地し、広大な駐車場をもつモールの時代」になった。そのことで、どんな影響が人々の暮らしにあったのか。

ひとつには、地方住民は、若者だろうと高齢者だろうと、買い物客は全員がいやおうなくクルマに乗らなくてはならなくなったということがある。ここに、高齢ドライバーがあらゆる場所に出現しだした理由のひとつがある。

遠まわしな話になったが、結局何が言いたいかというと、
高齢者が昔からクルマをひとりで運転して出かけていたわけではなく、むしろ、後期高齢者ですら、誰も彼も毎日運転する「クルマ依存生活」が普通になったのは、実は、「ごく最近のこと」なのではないか
ということだ。


いうまでもなく、高齢化社会が到来する前から高齢者はいた。
だが当時、彼らが必要な買い物は、駅前商店街のような「家の近くの商店」で済ませることができたり、家族や親戚や友人の誰かがかわりに買ってきてくれたり、家の近くの畑で作ったりできたため、高齢者自身が、毎日、それも単独でハンドルを握って買出しに行くようなことをせずに済んでいたのではないか。

だが、前の記事でも書いたように、地方の家族制度は西日本を起点に崩壊が始まり、息子・娘は都市に出たまま故郷に戻らなくなる。高齢の両親は田舎のムダに広い家(あるいは都市の、息子・娘と離れた場所)に住んだまま、単身高齢者、あるいは、高齢夫婦という形で「ポツンと」暮らすようになる。(だからといって、高齢世帯全体が経済的に困窮しているという意味ではない。むしろ、事実は「まったく逆」だろう)
前の記事:2016年12月6日、高齢者の無謀運転が毎日のようにニュースになる理由。〜身にしみて理解されていない日本の高齢者の「質的変化」 | Damejima's HARDBALL

そうこうするうちに、駅前商店街が衰退して郊外型ショッピングモールの時代になると、自宅と「目的の場所」(例えばショッピングモール、病院など)の間をつないでいる交通機関が、クルマ以外存在しない地方都市住民が、急激かつ大量に生み出される。
そして、やがてその「クルマだけが頼りという地方住民」の中に、大量の「後期高齢者ドライバー」が出現する。すると、ブレーキとアクセルを踏み間違えた高齢ドライバーによる死亡事故の多発が、当たり前のように社会問題化しはじめるわけだ。


もっと言えば、高齢者のみならず地方都市の住民全員が「クルマ依存」になったのであり、それはある意味で、遅れてやってきた「周回遅れのモータリゼーション」(© damejima)といえる。

だが、地方都市は、自分の町がこの「周回遅れのモータリゼーション」の渦中にあることに気づいていない

都市の道路というものは、直線になるように整備され、住宅の隅切りなども徹底され、見通しがよく、また、運転者のモラルも高い。

だが、田舎道は直線にできていないし、隅切りもされない。見通しが悪く、ドライバーのモラルも低い。
道路構造の近代化と交通モラルの近代化が「放置」され、渋滞や飛び出しへの対処、歩行者や自転車との共存、交差点に面した住宅の隅切り、狭い駐車場での駐車テクニックなどといった、「都市の道路やドライバーなら、当たり前の話として、とっくの昔に対処し終わっている事態」について、地方都市はロクな準備をしていない。
そんな田舎の整備されていない道路に過度なスピードで突っ込めばすぐに事故につながるわけだが、そんなことおかまいなしに、曲がりくねった道を、運転のおぼつかないドライバーが運転するスピードオーバーの軽自動車が行き交い、渋滞、違反、事故を繰り返して、空気を排気ガスまみれにしている。それが、今の田舎の現実だ。

健康面でも、地方の人間ほど「クルマ依存によって、足腰が弱っている」可能性もある。もしかすると地方都市の「歩かない」高齢者はいまや、都会の「歩くのが当たり前」の高齢者より、足腰が弱いかもしれない。そして、人の足腰の弱さは、その「街の弱さ」そのものだ。

こうした事態はまぎれもなく、日本の高齢者の「質的変化」のひとつである。


さて、以下は蛇足で、「バス路線の駅前中心主義の馬鹿馬鹿しさ」について書く。

1958年封切 『駅前旅館』(キャプション)1958年封切の映画『駅前旅館』。原作は井伏鱒二の小説「駅前旅館」。「駅前」という単語に意味があった昭和の遺物。


本来なら、シャッター商店街をかかえる地方都市が時代の変化に応えてやるべきことといえば、「古い駅前中心主義」を一度完全に捨てることだったはずだ。

具体例を挙げれば、ショッピングモールの真横にその地方都市最大の総合病院を作り、役所もバス会社もモールの真横に移転し、モールを起点・終点とする小型循環バスを数多く配備して、都市内を可能な限り網羅するように走らせるのが、合理的発想というものだ。「後期高齢者にできるだけ運転させない街づくり」のためには、それくらいやってしかるべきだ。

だが、現実の地方都市でそうしたシンプルな合理性が実現しているとは、到底思えない。青森駅前の再開発ビル「アウガ」の失敗でわかるように、実際に地方都市がやっているのは、あいもかわらずの陳腐な駅前再開発にすぎない。
だが、ここまで書いたことからわかる通り、駅前再開発なんてものを劇的に成功させる可能性があるのは、いまや「鉄道駅それぞれに、駅の周囲にに密集した住民を維持できている東京だけ」なのであって、数十年遅れのクルマの時代に突入した地方都市で、駅前再開発が成功することなど、そもそもありえない。

にもかかわらず、おそらく融通のきかない地方のバスはいまだに「駅前を起点にした、それも大型バスを使った非効率な路線」を数多く組んだまま、赤字と排気ガスを垂れ流し続けているに違いない。地方バス会社のそうした「怠慢さ」は、危険な高齢ドライバーの氾濫を許す遠因になっている。

もし「駅前」という場所がそんなに大事ならば、駅前復権のために必要なのは、駅前ロータリーでも、無駄な植栽でも、コーヒーの不味い喫茶店でも、暇つぶしばかりしている駅前タクシーでもなく、「広大な駅前駐車場」だ。実際、駅前に駐車場が広がっている駅は大都市郊外にはよくある。
だが、地方ではそういう思い切った駅前改善策も実現しない。かといって、寂れた駅前に集約した無駄なバス路線も減らさない。それが、身動きのとれない地方都市の「挙動の遅さ」「勘違い」というものだ。

いいかえると、「あらゆる挙動が遅く、かつ、核心を突かない」のが、地方都市という場所の欠陥なのだ。そういう無駄だらけで、やるべきことをやらない「地方」という場所に、国が補助金を注ぎ込むのは本当に馬鹿げている。

damejima at 18:43

November 26, 2016

65歳以上人口と75歳人口の比較

上のグラフは「65歳〜74歳人口」と「75歳以上人口」を比較したものだ。この2つの数字はたいていの場合、積み上げグラフとして「上下に並べて」表示されているために、関係がもうひとつよくわからないので、作り直してみたのである。
(元資料:2050年には1億人割れ…日本の人口推移をグラフ化してみる(高齢社会白書:2016年 - ガベージニュース

こうしてデータを作り直してみて初めてわかることは、
来年以降、2017年から2025年頃にかけて、
日本の高齢者の中身は 「質的」 に大きく変わる
ということだ。

もう少し具体的に書くと、こうなる。
2017年から2018年頃にかけて
「75歳以上人口」が初めて「65歳〜74歳人口」を追い越す。

2025年以降になると、高齢者のコアは、減少傾向に転じる「65歳〜74歳人口」ではなく、なおも横ばい状態が続く「75歳以上人口」に移る。
ということだ。


「なんだ、そんなことか。後期高齢者って言葉、知らないの? わかってるよ、それくらい。」と、思うかもしれない。
(ちなみに、「後期高齢者」という単語に、「この言葉は礼儀を欠いている」と怒ってる人がいるようだが、この単語はもともと人口学や老年学の学術用語らしい。お間違えなきよう)

だが、ブログ主は
「いやアンタ、わかってるつもりになってるだけで、事態の深刻さが全然身にしみてわかってない」と、言わせてもらう。


簡単にいえば、
社会の高齢化自体にも、ヒトと同じように、「前期」と「後期」があるのだ。

いつのまにか「高齢ドライバーがブレーキとアクセルを踏み間違えて、人を轢き殺した」だの、「高齢ドライバーが高速道路を10数キロも逆走した」だのというニュースが毎日のように流れるようになったことは、けして偶然などではないのである。

言いかえると、いまや日本は「想定外の行動をする人間に出くわす危険性を、常に予想していなければならなくなった時代」であり、「ブレーキとアクセルを踏み間違えて、他人を轢いてしまう高齢者が、毎日どこにでも出現する時代」こそ、本当の意味での「衰え」が社会問題となる「後期の高齢化社会」なのだ。
このやっかいな「後期の高齢化社会」に比べれば、「日本が1980年代から2000年代までに経験した高齢化社会」、つまり、「65歳から74歳の人が多かった、前期の高齢化社会」など、まだまだ牧歌的だっただろうと思う。

「本当の意味での『肉体的精神的な衰え』が、社会のあらゆる面に問題として突出する時代」が、この「75歳以上だらけになっていく、後期の高齢化社会」の「意味」なのだ。

この「意味」を、ほとんどの人が甘くみていた。


さて、以降は「おまけ」だ。

高齢化社会の「内部」で起きてきた「質的変化」について、他にもいくつか例を挙げてみる。我々は高齢化社会の「内部」で起きていることについては案外知らないのだ。

以下の図で、赤い点は「高齢単身世帯」と「高齢者夫婦のみで暮らす世帯」を表わす。左が1995年(平成7年)、右が2005年(平成17年)だ。最初に挙げたグラフでいうと、「1995年から2005年までの10年間」は「まだ65歳から74歳までの人口が、75歳以上人口より多かった、『前期の高齢化社会』」にあたる。
図から、高齢世帯の「中身」は、西日本と東日本とで、まったく違うことがわかる。正直、「10年で西日本だけが真っ赤に染まった理由」は、まるで見当がつかないが、すくなくとも「西日本では、東日本、特に関東でまったく想像のつかない『別種の高齢化』が進行した」ことは明らかだ。
平成7年と平成17年の国勢調査における「高齢化」比較


続いて、以下は「持ち家をもっている世帯における、世帯形態と住宅の延べ床面積の関係」をグラフにしたものだ。
この図によれば、「持ち家を所有する65歳以上の高齢単身および高齢夫婦世帯」の「半数以上」が100平方メートル以上の広さの家に住んでいる一方で、「持ち家に4人以上で住んでいる家族」の「約3分の1」が100平方メートル未満の家に住んでいることになる。
このグラフだけを根拠に「高齢者ほど、広い家に住んでいる」と断言することなどもちろんできないが、高齢者と若者で資産格差があることは歴然としていることや、日本の「住環境」と「世帯の平均年齢」がミスマッチを起こしていることは、まぎれもない事実だ。
また2つの図から「子供が家を出て都会に住み着いた結果、両親だけが田舎に残っている」「その傾向は西日本ほど強い」などと想像することくらいはできなくもない。

広大な家に住む高齢者と狭い家に住む家族


高齢者の中身の「質的変化」は、いやおうなく社会に変化を要求する。
では、その「変化を起こすべき、担当者」は誰か。どうみても高齢者自身ではない。思いやりはもちろん永遠に必要だ。だが、だからといって、安易なヒューマニズムに流されていいわけではない。

ここに挙げた程度の頼りない大雑把なデータからでさえ、例えば「日本で『空き家』が、従来の数をはるかに越えた、空前絶後の数で出現しはじめるかもしれない」というようなことは、誰でも想像できる。
以前も書いたことだが、たとえ空き家が増えても、そのうちアパートに建てかわって、地方の税収も増えるから万々歳、なんて夢物語は絵に描いた餅に過ぎない。

参考記事:2014年8月4日、誰もが読めていない「空き家の増加」というニュースの本質〜日本における「文字読み文化」の衰退 | Damejima's HARDBALL

日本の「空き家率」の推移

何を想定し、何を暮らしやビジネスに役立てるかは、それぞれの人の自由だが、少なくとも、「高齢化社会」なんていう雑な考えと安易なヒューマニズムでモノを言っていられる、のんびりした時代は終わるということは、われわれ全員がアタマに入れなければならない。

damejima at 19:31

November 20, 2016

ニューヨーク(もちろん民主党の地盤のひとつ)のブロードウェイで人気ミュージカルを観るためにとある劇場を訪れていた共和党次期副大統領マイク・ペンス氏に、出演者がカーテンコールでペンス氏を名指しして政治的メッセージを読み上げるという「事件」が起きた。

次期大統領ドナルド・トランプ氏がスピーディーに「謝罪せよ」と非難したが、自分とトランプ氏の「謝罪を求める理由」が同じであるかどうかは別にして、ブログ主もそのミュージカル出演者は謝罪すべきだと考える。また、もしその人物が謝罪しなければ、劇場側が舞台から降ろすことも考慮すべきだとも考える。
かつてリンカーンは劇場で観劇中に射殺されたわけだが、たとえそれが「言葉という銃弾」であったとしても、「不意打ち」を食らわせるような行為が許されるとは、自分は思わない。


理由は2つある。

ひとつは、オリンピックにおいて、「五輪を政治主張に利用してはならない」と五輪憲章に定められているのと、まったく同じ理由だ。

2つ目は、「オフで劇場に来ている人に対して、無礼きわまりない行為」だからだ。


2012年ロンドン五輪の男子サッカーで、韓国の選手が竹島の領有権に関するプラカードを掲げた五輪憲章違反プラカード事件があった。
五輪憲章は明確にオリンピックの政治利用を禁止している。この事件は、五輪憲章違反そのものであり、また、スポーツの政治利用でもあった。

2012年ロンドン五輪における韓国の五輪憲章違反

中国は、この韓国の五輪憲章違反プラカード事件と同時に、日本の領土である尖閣諸島に不法上陸を強行する事件を起こし、これら2国はその後も「連携」して意図的に日本を挑発し続けた。
韓国と中国がこうした無礼な態度をあらわにした後、これらの国に対する日本人における好感度はゼロになり、外交関係が冷え切ることになったわけだが、それは連携して無礼な行為を強行し続けているこれら2国の責任にほかならない。


第二次大戦後、長年にわたって日本固有の領土である竹島を不法に占拠している韓国の人間が、あえて竹島の領有権を主張したいならば、それはそれで、さまざまな手段がある。
韓国政府が国際機関での領土調停を行うよう求める運動を始めようが、韓国国内でチラシをまこうが、自国の新聞に意見広告を出そうが、ブログを書いて国内の民意に同調を求めようが、サッカー選手から政治家に転身しようが、大統領選挙に立候補しようが、好きにすればいい。それは「自由」だ。
そして、他の人間には、そういう行為を無視する権利や、批判する権利が確保される。(ただし、「第三国での世論操作」、例えばアメリカ国内での新聞広告や銅像の建立などは、モラルの欠片もない無礼きわまりない行為だ)

だが、オリンピックを政治的に利用する「自由」は、地球上の誰にもない。オリンピックのスポーツを見ようと思っているだけの人に、自分の政治主張を無理矢理押し付ける権利は、誰にもない。


それと同じことで、ペンス氏のオフタイムを台無しにしたミュージカル出演者がもし政治的な主張をしたいのならば、アメリカの街頭でチラシまこうが、ニューヨークタイムズに意見広告を出そうが、ブログ書こうが、政治家に転身しようが、アメリカ大統領に立候補しようが、どれもこれも可能だから、好きなようにすればいい。

だが、劇場という場所は、違う。
そういうことをするための場所ではない。

もしミュージカル出演者が、政治的な主張をアーティストとして作品を通じて行いたいというのなら、他に方法はいくらでもある。
演出家にでもなるか、自分で脚本でも書いて、売り込んで、スポンサーを説得して、そういう主張をするミュージカルでも、芝居でも、映画でも、好きなようにやればいいのである。
他の人間には、そういう作品を酷評する自由と権利、そういう作品を見ないで無視する自由と権利が確保される。
だから作る側、見る側、お互いが自由でいられる。


だが、劇場は違う
そういうことをするための場所ではない。

劇場は「密閉された空間」なのであり、演目は「特定の目的」を持っている。そして劇場に来る観客は、カネを払って「特定の目的のために」来場している。

観客には、演目を楽しむ権利、そして、その余韻にひたりながら気分よく帰る権利がある。また一方で、演目にまったく関係のない余計な宣伝行為を耳にして不愉快な気分にさせられるのを拒絶する自由も権利もある。
逆にいえば、演目にまったく関係のない宣伝行為によって観客を不快にさせる自由も権利も、劇場側にはないし、まして出演者にそういう権利が存在するわけがない。

劇場、あるいはスポーツスタジアムに座っていても、いつ「言葉という銃弾」が飛んでくるのかわからない不穏な状態では、マトモな劇場、マトモな娯楽とはいえない。


これまでも何度となくブログにも、ツイッターにも書いてきたことだが、何度でも書こう。
目的は手段を正当化しない
のである。


「目的が正しければ、手段の是非は問われない」という発想こそは、テロという階段の第一歩だ。

「テロ」という言葉の定義は、なかなか難しいところだが、ブログ主に言わせればそれは、「行動の一撃のみによって、自分の存在を世間に示そうとする強引きわまりない示威行動」が「テロ」であって、必ずしも銃や爆弾といった「武器を用いた暴力」とは限らない。


行動の一撃に依存する者たちは、自説の理解者を時間をかけて増やす努力を重ねることもせず、ただただ「行動という一撃」によって、世の中やその時代の多数者に「論理的な一撃」を加え、そのことによって、自己の主張や存在感を誇示しようとする
これが「武器による暴力」と「言葉という銃弾」に共通の、「行動の一撃主義」の発想であり、近代の暴力に普遍的にみられる論理構造そのものだ。

だから、もし「行動による一撃」が「物理的な危害をまったくともなわない、言葉という銃弾」だとしても、その「行動による一撃」をよしとする論理そのものが「ある種の論理的テロリズム」なのである。


近代社会において「自分の意見と、多数者の意見とを、一致させる」ためにできることは、主に「2つ」しかない。

ひとつは、「自分の立場や考え方を、時間をかけて懇切丁寧に説明し、理解者、同調者を少しずつ増やし、自分の側の意見がむしろ多数者となるよう、努力を重ねること」。もうひとつは、「自分の論理の誤りや未熟さを認め、多数者に従うこと」だ。

だが、人が「行動による一撃」にいたる場合、例えば以下のような変遷を経て、「自分は被害者だ」というわけのわからない発想に至ることがある。こうした人間は「地道に理解者を増やす」という基本的な努力をしないくせに、正義の味方ぶりたがる

1)多数者に対する不満がある
2)自分が少数者であり、「被害者」でもあるという「自覚」がある
3)被害者が救済されることが、社会正義だと「確信」している
3)自分の「主張」が絶対的に正しいという「自負」がある
4)自分が「劣勢」に立っているという「苛立ち」がある
5)正しいはずの自分の主張が認められず、ますます肩身が狭くなっているのは、世の中のほうがおかしいからだ、という「怒り」がある
6)大多数の人が間違った方向に進んでいていることで、世の中が非常に危険な状態になってきていると「警告」を発したい気持ちが昂る
7)警告のためにも、せめて行動によって「一撃」を加える必要があると感じはじめる
8)実際に「行動」して、世間に自分の存在を「行動の一撃」という形で示す
9)その「行動」が「加害者」として扱われたら、自分は「むしろ被害者だ」と、逆ギレした説明をして、被害者ぶる


ひどく乱暴で自己中心的なヒロイズムにすぎないこうした論理展開には、自分を正当化するヘリクツが散りばめられている。

「近代国家において多数者になるための方法」は、こういうヒロイズムに浸りながら「行動の一撃」を実行することではなく、自分の主張を他人に説明し、広く理解を得て、理解者を増やしていくこと以外にない。
「多数者が間違っていて、自分が正しい」、「世の中を正しい方向に引き戻したい」、ゆえに、「行動によって一撃を加える」、「目的が正しいのだから、手段は何であろうと、結果は正当化される」などと、自分の内部だけで妄念を次々と飛躍させていく行為は、まったくもって間違っている。


政治的な主張をしたければ、今の時代、いくらでも方法がある。スポーツスタジアムや劇場を政治利用すべきではない。劇場を利用した俳優は、自分の身勝手な行為が「劇場という場所が長年努力して築きあげてきた自由」をむしろ損なった、と考えるべきだ。

ブログ主は、もし仮にMLBのゲームで、投手がマウンドで自分の政治的主張を主張するプラカードとかを広げた、なんて事件が起きたら、その選手を出場停止処分にすべき、と考える。観客が同様の行為をテレビカメラに向かってやった場合も同じだ。スタジアム出入り禁止にすべきである。

娯楽の場所は、討論のための場所ではない。政治は別の場所でやればいい。

スタジアムであれ劇場であれ、場所には場所のモラルやポリシーがある。その程度の簡単なルールすら守ろうとしない無礼さは、場所の威厳や統一性を著しく壊し、無意味な賛否の議論こそが人を分断に導く。

無頓着に「場所のモラル」の破壊を行う人間に「分断」を語る資格などない。分断を招くのは、たいていの場合、意見の相違ではない。意見の相違なんてものは、いつの時代にもある。
むしろ分断の責任は、ロンドン五輪の男子サッカーがそうであったように、あえて挑発に出て「行動の一撃」を強行する側にある。ひとつの国の内部に無法状態や冷えきった対立をまねきいれる行為に重い責任が問われるのは当然のことだ。

damejima at 14:51

November 17, 2016




上のツイートから続く一連のツイート群は、自分にとっては野球(というか、ベースボール)を見る上でけっこう重要な視点なので、改めてブログに記事としてまとめておくことにした。もちろんツイート時とは表現が変わったり、表記の誤りを正したりしている。

日本的なフォームで投げる投手にとって必要なのは「しなる腕」だが、MLB的なフォームの投手にとって「太い腕」は大事だ。その背景には野球文化の違いがある。

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人間のカラダの動作は基本的に「回転」でできている。

shoulder rotation「自転」にrotation、「公転」にrevolutionという単語を使う慣習からすると、例えば肩関節の回転は、軸が「自分側」にあるから、rotation だろう。

手足の根元には、とか股関節といった、「回転するようにできたジョイント」があって、そこに「長い棒」、つまり、「足」や「手」がついて、大きくグルグル、グルグル回せるようにできている

背骨を含む体幹は手足ほどダイナミックに動けない。だが、そのかわり手足よりも複雑な制御ができる。だから複雑な動作の精密な統御は、手足だけに依存するのではなく、「体幹メインで操作」したほうが、「より正確」になる。
例えば内野手がゴロ捕球を「小手先」でやろうとするとハンブルの原因になりやすい。これは、「腕というパーツの構造」が「人が思っているより不自由にできていて、細かい制御に実は向いてない」ことを意味している。

人はよく、「日本人の指先の器用さ」と「腕全体の動きの制御」が「まったく別次元の話であること」を忘れてモノを考えてしまうのだが、「腕も、指先と同じレベルの精密さで動かせる」などと勘違いしてはいけないのである。
手の指先が精密に動かせるのは、「関節と関節の距離が非常に短い」からだ。もちろん視点を変えればそれは、関節が密集しているという言い方もできるわけだが、指の旋回が容易になるのに最も本質的な要因は、「ジョイントの多さ」ではなくて、「ブラケットが短い」ことだ。


ただ、「回転」とはいうものの、人間の手足は、自動車のタイヤのように、「軸を中心に、ただひたすらグルグル回転する」わけではない。

例えば、人間の「走る」という動作では、関節と足は「弧を描いて、動いては、元に戻る」を「繰り返し」ている。「円の一部を反復トレースしている」といってもいい。
この反復によって、人間は「回転という動作」を「身体全体を直線的に移動させる」という動作に「変換」しているわけだ。描く弧の大きさによって、その人のストライドが決まる。


この、「関節を中心にした回転運動を、直線的なパワーに変換する動作システム」は、スポーツにおいて非常に多く使われている。
(蛇足だが、こうした「回転運動を直線的な動きに変える仕組み」は、自転車や自動車、電車など、人間がこれまで作り出してきた「人体を遠くに移動させる装置」においても、非常に多く用いられてきた)

例えば、野球の投手は腕を回してボールを投げるが、この動作の「目的」は、ボールを「狙い通りの方向に」「まっすぐ」「高速に」移動させることにある。
他にも野球のバット、卓球やバドミントンのラケット、ゴルフのクラブなど、どれも回転させて振りまわす動作をともなうわけだが、大事なのは、その動作の「目的」が、ボールやシャトルに「直線的なスピード」「飛距離」「方向のコントロール」などを与えることであって、身体の回転動作そのものが目的ではない

いいかえれば、「スポーツにおける人体の手足の回転動作」それ自体は、「人体の有限な動作から直進モーメントを取り出すための方法論のひとつにすぎない」のであり、「目的」ではない。野球は、身体の柔軟性それ自体の維持・向上を目的とするラジオ体操とは、目的が違う。

また、スポーツにおける「ミス」は、かなりの数が、この「回転運動を直線運動に変えるときの誤動作」に起因している。
投手が肘や肩に故障を抱えやすい原因も、この「回転」という話をもとに考えると、なにも「酷使」だけが原因ではなく、「回転運動を直線運動に変換するメカニズム自体のパワーを、過度に上げようとしたときに起こる、靭帯や間接の破損」だと思えばいい、という部分がある。


話をもう少し絞る。
投げて打って走る野球というスポーツでの「回転動作」で代表的なのは、投手なら腕の振り、野手でいえばバットスイングだろう。


まず投手の腕の回転運動について。

投手の腕の動きについて、日本には「できるだけ高速で腕を回転させてこそ、ボールに加速がつく」という考えがある。だからこそ、「腕の振り」という言葉が重くみられることになる。

例えば、かつて松阪大輔の昔のフォームについて書いたことだが、彼はサード側に足を蹴り出しながら、ボールを持った手をいちど「右腰の下まで降ろして」それから投げていた。

横にステップする松坂投手参考記事:2011年3月24日、「やじろべえ」の面白さにハマる。 | Damejima's HARDBALL

参考記事:2010年10月26日、クリフ・リーの投球フォームが打ちづらい理由。「構えてから投げるまでが早くできている」メジャーの投球フォーム。メジャー移籍後のイチローが日本とはバッティングフォームを変えた理由。 | Damejima's HARDBALL

これは、球威を「腕を振る」ことに大きく依存しようとする、つまり、腕をできるだけ高速に、しかも長時間回転させ続けることで生じる『はず』の加速度を最大限に利用しようとする」ことからきている。だから、「ボールは、非常に長い距離を、円を描くように移動して、それからリリースされる」ことになる。

こういうフォームの意味は、アメリカのアーム式の投手と比べてみると、発想の根本的な違いがわかる。

例えばデレク・ホランドのようなアーム式フォームでは、腕は、松坂大輔のように「腕を、肩関節を中心に1周させる」のではなく、「手を腰の下に下げる時間帯を持たず、腕を高くキープしたまま後ろに引いて、そこから直線的に投げだす」。ボールは「より短い距離を直線的に移動してリリースされる」ことになる。
ゆえに、当然ながら両者の「投球リズム」も大きく異なる。松阪のように「肩を中心に腕が一周する」場合は、「1、2、の、3」というリズムになり、アーム式では「もっと早いリズム」になる。

バッターにとってタイミングを合わせやすいのがどちらのタイプかは、バッターごとのタイプにもよるから一概に言えないだろうが、少なくとも、大半の投手が短いタイミングで投げてくるMLBでは、小笠原道大のように悠長にバットをこねくりまわすフォームで打つのは難しい。


もし、投手が球威の大半を「腕の回転による加速」に依存するなら、「腕の回転スピード」、つまり「腕の振り」が重要だろう。

だが、腕の回転にあまり依存しないなら、腕という「半回転アーム」の「強度を上げる」こと自体にも重要な意味がでてくる。「MLBのピッチャーの腕が太い」のには意味がある。


バットの回転運動

王貞治のバッティングは、バットがミートポイントに向かって「ものすごく直線的に向かうダウンスイング」だ、だから凄いんだと、思い込んでいる人が数多くいる。「一本足打法」というネーミングの直線的なイメージから、バットも「スイングの開始時点では、直立したまま」でスイングしていると思われているわけだ。
だが、いちど動画で確認してもらうとわかるが、この人のバットは「いちど大きく寝て」、それからカラダの後ろを回りこむような軌道でスイングが始まっている。「ドアスイング系のスイングをする落合や張本は、バットを一度寝かせてから振っているけれど、王のバットは一度も寝ないダウンスイングだ」と思い込んでいる人は非常に多いわけだが、もう一度、自分の目で確かめるといい。


日本の投手が「腕の回転による加速」に依存して投げるのと同じで、日本の打者はおしなべて「バットの回転速度」で遠くに打とうとする。そのためか、投手の能力を「腕の振りだけ」で語ろうとする人が多いのと同じで、バッティングを「スイングスピードのみ」で語ろうとする人が、はなはだ多い(笑)

だが、バリー・ボンズとかハンク・アーロンの分解写真でも見てもらうとわかるが、彼らのスイングは「バットを円を描いて振りまわす」イメージではなく、「ボールがバットに当たってから直線的にグイっと絞り込むような強さ」に特徴がある。だから打球にも、よく日本でホームランバッターを表現するときに使う「弧を描く」という表現が、彼らにはあてはまらない。

例えばもしバットが「中まで詰まった鋼鉄の棒」だとしたら、なにも必死にスイングスピードなんか上げなくても、きちんと当たりさえすれば、ボールはスタンドどころか場外に消えていく。だがそんな重いもの、自由には振れない。

では、木製バットに「中まで詰まった鋼鉄の棒」と同じような効果を与えるにはどうしたらいいか。(「腕力でチカラいっぱい支える」というのは、この場合に限って正解ではない。MLBの投手の球は重いのだ)

例えば、バットに当たった瞬間からバットからボールが離れる、ほんの短い時間帯に「バットがまるで中まで詰まった鋼鉄のように強靭」であるなら、なにも必死にスイングスピードを上げる必要はない。腕力に頼るだけのバッターより、スイングそのものはゆったりなのに打球が遠くへ飛ぶバッターのほうが、楽に長打を打てる。
(ことハンク・アーロンの場合は、ウラジミール・ゲレーロにも感じたことでもあるが、バットにボールが当たった「後」の強さ、特にグリップを絞りこむ手首の強さに秘訣があるように思える)


まとめると、投手、打者、いずれにしても、肩や股関節のような関節を軸に、円を描いて行なわれる「手足の回転を、直線上の加速に変換する」過程の巧拙に野球思想の違いや技術の差が出るし、怪我やミスが出現する。なにもバットスイングや腕の振りといった「回転運動のスピード」だけが野球ではないのである。

最初に内野手のゴロ処理のミスについて書いたように、「関節」と「棒」を交互につないだ形状でできた人間の手足は「思ったほど精密に動きをコントロールすることができない身体パーツ」だ。
ならば、スイングスピードや腕の振りといった「回転運動のスピード」だけに依存するフォームは、思ったほど自由に動かせない手足への深すぎる依存を意味する。
日本人野手の打撃成績低迷やミスの多発、日本人投手の怪我の多さをみると、日本野球における「動作に関する思想」は、もうそろそろ発想を変えないと、どうしようもない時期にきている。

damejima at 19:29

November 12, 2016

トランプが大統領選に勝って慌てふためいている人がたくさんいるわけだが(笑)、ちょっと暇つぶしに「トランプ以前の世界」の「眺め方」について書いてみる。

まず最初に、たくさんの紋切り型の断定を含んだ一般常識的な前置きとして、「安い商品の追求と、雇用や国際競争力の関係」について書こう。
この話を「グローバリズム」という単語だけを使って説明したがる人が数多くいるが、「安い商品の追求」という視点を入れないとメカニズムがハッキリせず、話がわかりにくい。(ゆえに、以下の話は単なる反グローバリズムではない)

ちなみに、2016年6月に書いた以下の参考記事を読んでもらえばわかることだが、以下の話はなにもトランプが大統領になったから思いついたわけでは、まったくない。世界の動きはイギリスがEU離脱を決定するだいぶ前から既に「それまでとは大きく違っていた」のだ。

「グローバル企業というものは『雇用を外部化』する傾向にあるのが普通なのであって、彼らは世間の批判をかわすために正社員を増やす例外的なとき以外には、常に『正社員という、ある種のローカリズムにできるだけ依存しないですむ内部構造をとろう』とする。」

(イギリスの若者は)「よく考えもせずグローバリズムを安易に支持したりする前に、『グローバリズムと国内雇用が果たして両立するものなのかどうか』、じっくり考えておくべきだ。」

2016年6月25日、EU離脱を後から愚痴るイギリスの若者を見て世界中の若者が思い知っておくべき、グローバリズムと雇用の関係。 | Damejima's HARDBALL

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安い商品とは何か。
原価の安い商品だ。

原価を下げる最大の原動力は何か。
安い労働力だ。
(「安価な原材料」という答えもある、と思う人が数多くいるだろうが、原料の安さというのは元をただせば安い労働力が源泉だ。また、労働力の安さには、外食産業でみられる異様なほど長時間のサービス残業なども、もちろん含まれる)

では、安い労働力はどこにあるか。
先進国以外の国にある。

安い商品の調達のために海外生産率と輸入依存を高めることは、安い労働力の調達のために生産拠点を海外に移すということだから、結果的に先進国の雇用を発展途上国に移転することを意味している。
(これが一種の「国際的なワークシェアリング」であるのは確かだが、実際には、雇用だけでなく、生産技術や設備投資も先進国から発展途上国に移転されるのであって、そんな悠長な話をしている場合ではない)


「安い商品」の追求は、
国内経済に2つの結果をもたらす。
国内雇用の減少国内生産商品の国際競争力低下だ。

雇用不安に常に怯える低所得層(あるいは若年層)は生活防衛のために「安い商品」を追い求めることがよくあるわけだが、その安さ追求の姿勢が結果的に国内生産と国内雇用の海外流出をまねき、国内の低所得層の雇用を減少させ、不安定化させるわけだが、そのことはなかなか低所得層自身に理解されない。(ただし、よく誤解している人がいるが、この話とデフレの善悪とは、基本的に関係ない)

また、低価格競争を強いられ続けている企業が、安い商品の調達を海外生産や輸入に依存するようになること、さらには自社技術の海外流出を放置することは、結果的にその企業の国際競争力の大幅な低下をまねくことになるが、シャープがそうであったように、そのことはなかなか企業自身に理解されない。

つまり、自分の身に起きていることの原因が、「自分自身のパフォーマンス」である場合、それはなかなか理解されない、ということだ。


そうした事態をみて政府は、得票維持のために、低所得層の保護とか競争力の低下した産業の保護とかと称して、一時金や補助金の支給、一時的な減税などを行う。いわゆる「再分配」というやつだ。

当然ながらこうした政府の臨時支出は本質的な解決にはならない。
政府収支は悪化するし、国内雇用の質や量、企業の国際競争力がこうした再分配によって向上することは、ほとんどない。

そうこうするうち、やがて、先進国の雇用移転先である海外の発展途上国自身は、先進国の製品と生産手法を「コピー」して自国製品を製造・輸出するようになり、海外に生産拠点を移した先進国企業の国際競争力は完全に失われる。

また、海外の途上国から先進国にたくさんの出稼ぎ観光客犯罪者が来るようになる。雇用は海外に移転できても、モラルは簡単には移転されないのである。
(出稼ぎ者と観光客では国内経済にとっての意味は異なるが、ここではふれない。もちろん出稼ぎ者は「代替品」として国内の雇用をさらに奪うことになるし、また、社会保険料や税金をマトモに納めることもないから、自治体や国の財政悪化の原因にもなる)

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ここまで書いたことは、「本来なら」あくまで概論にすぎない。「本来なら」世界のすべてがこれで説明できてしまうわけではない。というのは、上に書いた論理には、さまざまな論理の破綻や弱さ強引な決めつけ誤り数多くの例外があるからだ。

ところが、たいへん問題なことに、こんな「風ふけば桶屋が儲かる式の、シンプルなだけの出来のよくないロジック」によって「この20年ほどの間に世界経済で起きていたことの、かなりの部分」が説明できてしまう。「間違いだらけで単細胞な時代」が、この10年から20年もの間、続いてきたからだ。

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ここまで説明しても、まだ理解できない人がいるかもしれない。さらにわかりやすくするために、「上に書いた論理にそわない例」でも挙げてみる。

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上に書いた国際的な雇用移転サイクルは、必ずしもすべての産業分野、商品分野で起こるわけではない。

例えば、食肉の生産においては、アメリカやオーストラリア、カナダといった先進国で国内生産の優位性が保たれ続けている。
海外の安い労働力に依存する労働集約的生産を行うことによって低価格を実現するのではなく、大規模化や機械化で「ヒトへの依存度を減らす」ことによって国内生産の優位性を維持しているからだ。
(欧米の大規模農業はエコでないと批判する人がよくいるわけだが、では、コメをはじめとして農薬をまきまくって連作しまくっている日本の零細な農業がどれだけエコロジー的かと問いたい。もちろん「エコロジー」という思想自体が胡散臭いことは、いうまでもない)

また、日本においても、裾野が非常に広い産業分野である自動車は、歴史的に非常に多くの国内雇用を維持してきた。
これは、日本の自動車産業において、コスト監視やムダの排除が非常に強い企業文化の伝統になっているためだ。日本の自動車産業では、被雇用者自身が生産現場で行う非常にきめ細かい自助努力によって、作業のムダが徹底的に省かれ、ヒトに依存した低品質の生産ではなく、ヒトにしかできない高品質な生産が実現され続けている。いわば日本の自動車産業における国内雇用は、働く人たち自身の自助努力によって守られてきたのである。(もちろん企業側の管理能力も高い)


こうした事例がある一方、近年倒産を連発してきたアメリカの小売チェーンはどうか。

家電、スポーツ、衣料、書籍など、アメリカの一般庶民の身近にあった専門小売チェーン店が近年バタバタ倒産している。シアーズ、ペニー、タワー・レコード、サーキット・シティ、ボーダーズ、ゴルフスミス、スポーツオーソリティ、レディオシャック、アメリカンアパレル、ダフィーズ。
こうしたチェーンは製品の多くを中国の安い労働力に依存することで、アメリカの国内雇用を中国に「輸出」してきた。反面、こうしたチェーン店の多くは、欧米の食肉生産や日本の自動車にみられるような「安い労働力のみに依存しない強い経営体質」を実現することはなかった。

また、よくアメリカの小売チェーン店の不調ぶりはアマゾンやウォルマートに売り上げを食われたのが原因などと書く人がいるわけだが、では、アマゾンやウォルマートが好調なのか。
そうでもない。

実情は、お互いのパイを奪いあった結果、寡占化が進行しただけの話なのであり、規模拡大競争に勝ちつつあるアマゾンやウォルマートすら、いまだに低価格競争から逃れられてはいない。


視点をちょっと変えてみる。
「海外への雇用移転」「国内競争力の低下」をまねく「安い商品」は、同時に、「遠くの国から先進国に輸送が必要な商品」でもある。
いいかえると、いくら人件費の安い国で生産したからといっても、先進国への輸送コストはゼロにはできない、海外生産商品を国内に輸送するコストは商品代金に上乗せされる、ということだ。
そこに目をつけたのが、先日破綻した韓進海運のような中国韓国の新興の海運業者だ。韓進海運が破綻してコンテナが港で立ち往生したとき、コンテナの荷主がアマゾンやウォルマートであることがわかったのは、当然の成り行きだ。
また、ウォルマートとの蜜月を続けてきたオバマ政権が中国を甘やかし続けてきたのも当然の成り行きだ。
参考記事:2015年2月7日、「陰謀論愛好家」を公言してしまい、ちょっと火傷してしまったチッパー・ジョーンズ。 | Damejima's HARDBALL

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ここに書いたことは、ニュースを読んでいれば誰でも頭に入る、そして頭に入っているべき、初歩的なことばかりのはずだ。

だが上でも書いたように、「自分が日常やってきたことと、自分の身にふりかかっている事態との間に、少なからぬ因果関係が存在すること」が、働く人であれ、企業であれ、当事者たちに「あなたがた自分自身が当事者である」と把握され、意識されだすのに、10数年から20年もかかっているのが実情なのである。

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今回の大統領選は、この数十年に醸成され続けてきた、さまざまな「既得権」の問題を世間にさらすことになる。

国内雇用の減少は主に「若年層」にふりかかる。一方で、雇用が海外に移転されるグローバリズム時代が来る前に、キャリアを終身雇用のもとで終えた老人たちが国内にわんさかいる。老人たちは分不相応な額の年金をもらいながら、あいかわらず自動車で若者を轢き続けているわけだが、その「老人に轢かれる側の若者」が「福祉国家」などというコンセプトにいつまでも期待してくれる、などという発想は、それ自体が、メディアの世論誘導や、既存政治家の幻想にすぎない。

予想屋ネイト・シルバーニューヨーク・タイムズはじめ、既存メディアがトランプ勝利を予測できない原因のひとつは、出口調査自体の信頼性が失われていることよりも、むしろ、「彼らの分析や記事が、データや取材より記者個人、あるいは、メディア側の期待値が大きく反映したものになっていた」ことにある。これは今に始まったことではない。
彼らが「自分の期待値を、そのまま記事にしてしまう」原因は、彼ら自身がトランプ勝利を期待しないクラスターや人種層出身であるケースや、アメリカの既存メディアにおける中国資本支配が進んだこともあるし、また、慰安婦問題において無根拠なデマ記事で長年日本の世論を誤誘導して国益を損なってきた朝日新聞、東京都知事当選後に汚職に手を染めた猪瀬直樹がそうだったように、ジャーナリズムなんてものはとっくに死んでいるということもある。

逆にいえば、ジャーナリズムの死を「読者に気づかせない」ほど、マスメディアは既得権として非常に長い間維持されてきたし、彼らの能力は過大評価されてきたのである。


いずれにしても、「人がうすうす感じてきたこと」は今後、トランプ登場を契機により鮮明なカタチをとって表現されることになる。今後が楽しみだ。

damejima at 19:27

August 11, 2016

英語で会話する能力という話題において、ひとつ、とても不思議なことがある。

それは、「英語を話す」という表現をしたとき、多くの人が「英語を聞き取ること」と「英語を話すこと」、2つの「まったく異なる能力」を、「両方が両立すべきものと即断してしまう」ことだ。
「英語的な硬質のロジックを使って話す、発信すること」は、世界のどこにでもある普遍的な方法論ではない。にもかかわらず、英語でしゃべる、つまり「英語的発想で発信する」のが当然で、英語的な論理でしゃべれないのは、その個人の能力の無さが原因などと、すぐに思いこんでしまうのである。


そんなわけはない。


たしかに「日本人にとって、英語を聞き取ることは、英語を話すことより簡単」だと思うが、それにはもちろん「理由」がある。

英語の「硬質で構築的なロジック」は、話す側の人の「意図が見える」ようにできている。だからこそ、英語を話す人が自分に話しかけてきたとき、相手の意図を受け止めること自体は(修練はもちろん必要だが)それほど難しくない。

だが、「英語を話すこと」は、こと日本人にとって「聞き取ること」に比べて容易ではない。その理由は、従来、英語経験の少なさとか、習得した単語やイディオムの少なさ、トレーニングの未熟さなどに原因があるとされてきたわけだが、そうではないと思う。


ブログ主が言いたいのは、「聞く」より「話す」ほうが技術的に難しいとか、英語を毎日話すことのできる環境を身近に整えるのが簡単でないとか。そういうたぐいの話ではない。

もし英語という言語の持つ「ロジックの構造」が、「英語とかなり異なるロジックの仕組みをもつ日本人」にとって、「受信するのはたやすいが、発信するのは容易ではないシステム」だとしたら、どうか、
ということだ。



説明のための「たとえ話」として、「建築物における骨組み」と「折り紙の折り鶴」を比較してみる。


建築物の「骨組み」

英語におけるロジックの「見え方」は、建築物でいう「骨組み」に似ている

建築の「骨組み」はたいていの場合、その建築物の「完成時の外観」をなぞったカタチをしている。別の言い方をすると、「骨組みさえ見れば、完成形がどういう建物になるか、だいたい予測できてしまう」わけである。「四角い」骨組みからは「四角い」建物ができ、「丸い」骨組みからは「丸い」建物ができる。

この「相似性」は、「生物の骨格というものが、だいたいその生物のカタチをしている」のと、まったく同じ現象だ。魚の骨格は「魚のようなカタチ」をしており、キリンの骨格は「キリンのようなカタチ」をしている。建築物と骨組みの関係は、「生命体と骨格の関係」のアナロジーにほかならない。

この「建築と骨組みの相似性」は、英語におけるロジックの見え方を示している。つまり、英語の文章においては、話者の言いたいことは「ロジックという硬質な骨組み」によって「目に見えるカタチ」で示され、ロジックを把握することで話者の言いたいことがおおまかにわかるようになっている、ということだ。



では、「折り鶴」はどうか。
日本語の骨格」は、どこにあるか。

折り鶴のプロセス

「折り鶴」では、最初に「斜め二つ折」にして、次も同じように「斜め、二つ折」して、徐々に最終形に向かっていく。

では、最初の「斜め二つ折り」と、最終形である「折り鶴のカタチ」には、「建築と骨組みの相似」や「生物と骨格の相似」にみられる「直接的なカタチの相似性」はみられるだろうか。

みられない

最初の「斜め二つ折」という行為だけからは、「最終形の折り鶴のカタチ」はまったく想像できない。


では、折り鶴の完成形と、最初の斜め二つ折という手順の間には、まったくなんの関連も存在しないのか。

そうではない

たしかに、建築と骨組みの関係における「目に見える相似性」と違って、「折り鶴」の最初の段階における「斜め二つ折」という行為からは、「最終的にそれがどんな形になるのか」が見えてこない
だが、「三角形を基本モチーフとして制作する」という意味では、「折り鶴」において、最初の「斜め二つ折」の「抽象性」と、最終形の折り鶴の「具象性」との間には、「単なる見た目からはわからない、つながり」が連綿と存在している。
つまり、折り鶴を折るという行為は、「三角形を作っては、開く」という「抽象的」なプロセスを反復しながら、それがいつしか「折り鶴」という「具象的な自然模写」に至って完成するという、複雑なプロセスなのだ。


建築物の骨格と折り鶴の比較によって言いたいのは
こういうことだ。

「日本語における論理の構造」は、いわば「平らな折り紙をおりたたんで、立体的な鶴にしていくようにできている」のであり、英語とは大きく異なる
ということだ。


いつものように長い話になったが(笑)、ここでようやくイチローが通訳を使う意味がみえてくる。





いちいち例を挙げるのが馬鹿馬鹿しいので止めておくが、イチローが英語を聞きとり、日常的に話せること、またそれどころか、スペイン語についてもトラッシュトークできるほどのレベルにあることは、既にラウル・イバニェス、デビッド・オルティーズはじめ、多くの選手・監督の証言があり、またイチローに好意的なアメリカ記者のメディア記事など、たくさんの証拠が既に出されている。あらためて議論する必要などない。
スポーツセンターのアンカー、ESPNの Todd Grisham が、「イチローの3000安打について印象的だったのは、彼が15年もたって、いまだに進んで英語を習得しようとしてないことだ」などとタワゴトを言っているのは、単なる勉強不足とライトな人種差別に過ぎない。無視していい。


3000安打の会見においても、アメリカ人記者の質問にイチローは通訳を介すことなく、直接答えている。ヒアリングには何も問題はない。
論議になるのは、回答についてであり、英語で返答する能力があるはずなのに、なぜ「日本語で」返し、通訳に英語に訳させているのか、という点だ。


以下に自分なりの解釈を記す。

外国人通訳と仕事したことがある人はわかると思うわけだが、彼らは、日本語話者の意図に「自分なりの解釈」を加えて話したがる。あるいは、話者の表現が英語的表現でない場合、英語的表現に変えて話したがるし、自分が回りくどいと感じた部分は省略してしまう。
また、英語の話者は往々にして「ロジックが同じなら、言い方は変わってもいい」と考えたがる。

だが、彼らは、広い世界には「折り鶴的な言語」、つまり、「ニュアンスの中に意図を織り込みながら、ロジック全体を完成させていく」という、英語と違う論理体系をもつ言語が存在することに気づこうとしない。


ことイチローの場合でいうと、彼の日本語には、彼特有の「迂回したロジック」、「言い回し」、「省略」、「皮肉」、「ユーモア」、「過剰すぎるほどの礼儀」、「オブラート」、「内面と外見の温度差」がある。
これらの特徴をブログ主個人の意見として簡単にまとめるなら、彼の日本語は、ある意味とても「日本語っぽい」が、よく聞いていると、ときとして
笑顔を浮かべず冗談を言うイギリス人のような話し方をすることがけして少なくない
のである。(だからこそ、イチローの言葉をアメリカ人記者に伝達する場合、イギリス人とアメリカ人の意思疎通におけるギャップのようなものが発生することがある。イギリス人とアメリカ人は両者とも英語ネイティブだからといっても思考スタイルは同じではない)

加えて、「これまでのイチロー」は「ストレートなモノ言い」をあまりしてこなかったということもいえる。氷山の一角という表現があるように、外部にあらわれた言葉は、彼の内部の大量の思考や感情の断片でしかない。その断片どうしは彼の内部ではつながりをもって動いているわけだが、たまに言葉として発せられる氷山だけで見ると、氷山と氷山が内部でどうつながっているかは、外部からは見えにくい。


そういう、「ちょっと複雑な人間」であるイチローの「通訳」に課せられる「仕事」とは、けして「ロジックさえ同じなら、あとは自分の英語的表現に好きなように変えてもいい」というような意味での、「ギャラの安い通訳がやるような安易な仕事」であるはずはない。

むしろ期待されているのは、「イチロー的な温度」「イチロー的なニュアンス」を、「そっくりそのまま温存したまま、なんとか英語にもっていく」のが、「イチローの通訳の仕事」だ。

通訳の考える「英語的表現」というやつは、往々にして「発言者自身の意図」を逸脱して、発言者の意図にない外部領域が含まれてしまうことも多い。ならば、日本語発言者の意図の英語置き換え作業の「正確さ」にとっては、英語っぽい表現を多用することには実はあまり意味がない。
むしろ、「あえて通訳の存在感をまったく消して、そっくりそのまま通訳してくれる人」のほうが適しているわけだが、我の強い欧米人(笑)にはそういう謙虚な人はけして多くない。


では、「イチローに好都合な通訳」とは結局「直訳すること」なのか、というと、そうでもない。
なぜなら、「イチローにとっての通訳の位置」っていうのは、「ロジックの伝達」というより、むしろ「プレス」として仕事してくれる人のことだからだ。プレスリリースにとって不自然な抑揚など必要ない。


少し「建築の骨組みと折り鶴の比較」に戻ると、「話者のロジックの骨組みさえ見えれば建物全体のカタチは想像できるのだから、ロジックさえ明確に相手に伝われば、細部のニュアンスなんてどうだっていい」という雑な意見の持ち主では、「折り鶴的な構造の言語のもつ微細なニュアンス」など理解できないし、まして、「折り鶴的なロジックを、英語の硬質な構造に変換すること」などできはしない。

「折り鶴的なロジック」において大事なことは、「角と角をあわせて、しっかり折りたたんでいくこと」なのだ。ひとつひとつしっかりきちんと折っていくからこそ、最終的にできた鶴が「美しく仕上がる」わけであり、最初から最後まできっちり折らないとダメなのだ。だからといって、直訳であっていいわけでもない。
最初は英語ネイティブにとってわけがわからない発言であっても、ひとつひとつを丁寧に英語に折りたたんで変換していくことで、やがて「折り鶴の全体像」ともいうべき「イチローらしさ」がたちあがってくるのが見える、そういうのが、「理想的なイチローの通訳の仕事」というものだろう。

英語で聞き、日本語で答える
このことは、これら2つの言語の論理構造の違いを考慮すれば、けして不自然なことではない。


ここまで書きながらいつも頭に浮かんできたことは、かつてハワイでフラが禁止になった時代があったことだ。
(その歴史の意味については一度ちょっとだけ書いたことがある 2012年8月13日、『父親とベースボール』 (番外編-1) 歌にこめられたダブル・ミーミングの世界。フラ、スピリチュアル、ランディ・ニューマン。 | Damejima's HARDBALL

日本人にとって、日本人っぽいしゃべり方というものは、ハワイでいうフラに近いんじゃないか。だからこそ、自分ぽくしゃべること、それ自体は、なにも間違ってはいない。それは和製英語は現地ではまったく通じないからやめるべきだというのとは、意味がまったく違う。
(むしろ、自分らしくしゃべれること、それこそが、本当は英語上達の早道ですらあると思う。自分の意見の無い人が英会話だけ上達しようと思うこと自体が間違ってる)

今回書いたようなことを「論理」として提示するのはなかなか簡単ではない。
なぜなら、日本人としての「折り鶴的な論理のやわらかさ」を守りながら、「英語的な、つまり構築的な論理しか理解できない、固い頭脳の持ち主たち」に「わかるように説明」しようとすることは簡単ではないからだ。
だが、なんとか「折り鶴のたとえ」の発見で、カタがついた、と考える。


なにも「聞き取れるからといって、それを英語で話せなければ会話したことにならない」ということはないのだ。むしろ、相手の聞きたいことをきちんと聞いて、自分固有の言いまわしで答えたければ、それが何語だったとしても、何の問題もない。それくらいのブレない気持ちで臨まなければ気持ちの上で負けてしまうのが、国際的な舞台におけるコミュニケーションというものだろう。

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damejima at 16:50

June 26, 2016

高齢化社会という出来損ないのスローガンと、老人を最優先すべきとかいう間違ったモラル、この「セットメニュー」を誰が、いつ広めたのか知らないが、いまの時代に最も必要なモラルはむしろ、「若者は安易に老人に道をゆずるな」、「足の遅い老人は脇にどいて道をゆずれ」というものだろうと、ずっと真面目に思ってきたが、人前でそれを言うと誰もが眉をしかめるのはなぜだ(笑)
日本国籍の無い外国人に税金で生活保護費を払ってやるような根本的に間違ったことがいまだに現実にまかり通っているおかしな国では、こういう話はマトモには取り扱ってもらえない(笑) ガイジンに払う生活保護費こそ、他の用途、例えば介護する人の給料にでも回すべきだなんてことも誰も発言しない(笑)
 

2013年にこんなことを書いた。(太字は今回の記事で新たに添付)

「若者」という存在は、古代から現代にいたるまで、いついかなる時代においても「主役」であると思いこまれがち(そして、そう教えこまれがち)だが、実は、「若者をそれほど必要としない時代」もある

2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」 | Damejima's HARDBALL

昔のMLBについて調べているうち、移民の国アメリカが「本当の意味で若かった」、「チャンスにあふれていた」のは、よくいわれる50年代とか60年代とかではなく、むしろ「1900年前後」だという確信が湧いてきた。
40年代に「放浪」が法的に禁止されたことでもわかるように、アメリカは50年代には既に成熟期だったのであり、実は「若さに対する需要」なんてものはそれほど大きなものではない。もっと後のアメリカン・グラフィティ世代、フラワーチルドレン世代に至っては、いわずもがなだ。それらは見た目に派手だが、アメリカの若さの「本質部分」ではない。

上の記事でも書いたが、ブログ主の中では常に「今の時代に若者がマイノリティなのは当然」という意識がある。
ただ、意味を間違ってもらいたくない。「若者はもともと無力だから、黙って耐えていろ」という意味ではない。
「若いという立場に安住していてはダメで、自分たちがただでさえ数が少なく、常に押され気味だという意識をもて。アタマを使え。安易なヒューマニズムに、けして流されるな」とでもいう意味だ。


国民投票でEU離脱を選んだイギリスの「投票結果」について、メディアはしきりに「失業に苦しむ若者はEU残留を望んだのだが、EU離脱を望む老人のわがままに押し切られた」という図式を連呼して世論誘導をはかろうとしている。また、徒党を組んで署名を集め、国民投票のルール自体を変えて、国民投票までやってようやく決まった結論を覆そうとする人たちもいる。

だが、そうしたムービング・ゴールポスト的な行為こそ、恥ずべき「衆愚」というものだ。

考えれば誰でもわかることだが、少数者が「多数決」なんてものに頼ったら負けるに決まっているし、負けたら結論に従うべきだ。当たり前だ。
選択を間違えた勝負に出て、負けてしまい、後から「ルールそのものがおかしい。変えるべきだ」とか愚痴をたれることこそ、愚劣な衆愚そのものだ。


そんなころ日本のメディアでも離脱派の勝利をよく思わない慶応大学の教授だかが「ポピュリズムの蔓延」という言い方でEU離脱を批判していた。

ほんと馬鹿馬鹿しい。「ポピュリズムとレッテルづけすれば批判できたことになる」、「グローバリズムという言葉を使えば正当性を説明できたことになる」なら、誰でも学者になれる。批判したいターゲットを決めて、なりふりかまわず「相手をヒトラー呼ばわり」する幼稚で馬鹿げた手法を使う馬鹿と、どこも、なにも変わらない。

こういうタイプの人間はたぶん「グローバリズム」という言葉を、他人を批判するときに使うだけでなく、理想を語るときにも使う。例えば、世界企業がケイマン島で税金を逃れる的な意味でのグローバリズムは罵倒するくせに、ヨーロッパをひとつにまとめる的な意味のグローバリズムは歓迎したりする。

そういうご都合主義で他人を批判できるようにはならない。


そもそもグローバリズム「信仰者」がなんとも不思議にみえる理由のひとつは、彼らが「グローバリズムと国内雇用が正比例でもする」と思っているらしいことだ。
彼らはEUのような「アメリカとはまた違う、変種のグローバリズム」が「新たな不平等」を生んでない、とでもいいたいのだろうか。


考えてみてもらいたい。
「国家という集団」にとって「自国内の国民」がそうであるように、「企業という集団」にとっては、「正社員」とそのスキルが持つ「ローカリズム」は、いわば国内文化、自国文化のようなものだ。
ならば、いまグローバル化を最大限に進めようとしている企業があったとして、その企業は「雇用」について、「正社員数を最大化して、企業内部のローカリズムをより深化させていく方向」をとるだろうか。

ありえない

むしろ、グローバル企業というものは「雇用を外部化」する傾向にあるのが普通なのであって、彼らは世間の批判をかわすために正社員を増やす例外的なとき以外には常に「正社員という、ある種のローカリズムにできるだけ依存しないですむ内部構造をとろう」とする。当たり前の話だ。
いいかえると、グローバリズムにとりつかれた企業が「地域性」や「ローカリズム」に重きを置く理由など、どこにもないのである。


イギリスのEU残留を支持したのが、当地の若者だとしたら、いい機会だから「EUという名の、ある種のグローバリズムが、イギリスの国内雇用をも増大させてくれる」という発想がどれだけ安易だったか考えるべきだ。


ここでちょっと角度を変えてみる。

「老人対若者」という対立図式は、いわば世の中の構造における「上下」の方向の問題で、昔からあった「左右方向の問題」、つまり、イデオロギーの違いとか、政治信条の違いとかの問題ではない。

この「上下の問題」をきちんと扱えた党派やメディアなんてものは、いまのところ存在しない。(メディアは左右方向でしかモノを考えられない人間だけが集まった硬直した場所だから、当然といえば当然だが)
それが証拠に、今の時代、「政策課題」なんてものは(他国の便宜をはかろうという異常な目的ででもなければ)どんな国、どんな党派、どんなイデオロギーだろうと、それほど違わない。
例えば、どんなイデオロギーの国だろうと、与党だろうと、野党だろうと、財政は健全化しなくてはならないように、「やるべきこと」や「目標」は実はたいして変わらないのであり、手法や期待値もそれほど大きくは違わない。
つまり、もはや「左右という価値観」には価値などほとんどないということだ。


かつて日本で、「非正規」といわれる人たちが、特に若い世代で急速に増加し、「新しいクラスター化」しつつあった時代があった。その同時期、老人に対する年金支払いなどの「手厚すぎる庇護」はかつてないほど肥大していった。
これはある意味、「上下」方向、つまり世代間の利害は、不一致どころではなく、むしろ「完全に衝突している」ことが判明した時代でもあった。


だがこのとき、その「新たに出現したクラスター」と、その層の人たちに向けて何を発信すべきかを明確にとらえていた既存組織があったか、というと、少なくとも日本にはなく、鋭敏に反応したのは違法な人材派遣業だけという悲惨な有り様だったため、働き方の自由などという甘い言葉につられて、多くの若者がフリーターに転落していった。

労働組合があるじゃないかと思う人がいるだろうが、第二次大戦後ずっと労働者がどうのこうのと連呼し続けてきたこの既存団体は、新しいクラスターの発生にも、世代間の利害の衝突にも、当初からまるで無頓着で、そういう既存組織の「反応の遅さ、世間の変化を見る目の無さ」は違法な人材派遣業が跋扈する原因を作った。
それは、それらの既存団体が実は「公務員」や「特定の業界」、「正社員」といった「限定された特定のクラスだけを庇護するだけの団体」で、社会の流動性を確保していくチカラなど全く無いどころか、むしろ社会の「固定化」に資する団体でしかないことがバレた瞬間でもあった。


こうした「既存団体に庇護された特定のクラス」は、公務員に代表されるように、社会のグローバル化に左右されない、いわば「無風地帯」であり、グローバル化によって雇用(あるいは違法な生活保護)が脅かされる心配がない。「無風地帯」に長らく生存している人たちと、「無風地帯」の庇護が目的の団体にとって、社会のグローバル化で起きる事象の大半はしょせん「他人事」でしかない。

そのクセ、イギリスでトニー・ブレアの労働党もそうだったように、グローバリゼーションを肯定した人々は、その一方で厳格な負担を個人に求めた。日本でも社会保険庁のルーズさが厳しく摘発された一方で、同じ時代にその裏では公的機関による個人からの「取り立て」が厳格化されていった。「無風地帯の人々」が「風当りの強い場所」から「年貢」を取り立てるのだから、無風地帯への支持など広がるはずもない。


こうした「グローバル化と雇用が反比例していく流れ」は、ルーズすぎた諸制度の立て直し、あるいは、財政健全化というタテマエがあったにせよ、実質的に「個人生活を国家の財政再建へ隷属させる」ことにつながった。非・無風地帯の個人消費は文字どおり「死んだ」のである。にもかかわらず、「100円のハンバーガーを食うことはデフレだ」などという狂った考え方を、モノを考えるチカラのまったく無い既存のマスメディアが広めたのも、この頃だ。

もしこの「流れ」が、日本の高度経済成長期のような「正社員がたくさんいるローカリズム重視の時代」に起きたなら、直接税の増収などで国家財政は多少健全化した程度の効果はあったかもしれない。
だが、実際には「非正規」が大量生産されだすグローバリズム加速時代に行われたわけだから、「過度の福祉負担」なんてものが「若年層の貧困を加速させる直接の原因」のひとつにしかならないのは当然であり、「遊休資産を持たない貧困世代に対して、とりわけ重い負担を強いる一方で、遊休資産を持った世代を厚く処遇する」という、まったく本末転倒な時代の幕開けにしかならない。


ローカリズム全盛時代に長い正社員生活を経験し、いまや年金負担もとっくに終えた老人が「多数」いて、「無風地帯に住む特定のクラス」だけを庇護する、やたらと横につながりたがる既存の団体がある一方で、グローバリズム全盛時代に育ってほとんど正社員雇用を経験せず、重い福祉負担を義務化された若い世代が「横のつながりをほとんど持たないマイノリティ」として存在している、としたら、どうだろう。

「若い世代が安易にグローバリズムを支持すること」は、かえって自分の立場を苦しいものにしかねない。よく考えもせずグローバリズムを安易に支持したりする前に、「グローバリズムと国内雇用が果たして両立するものなのかどうか」、じっくり考えておくべきだ。


なお蛇足でひとことつけ加えると、「多数決」などという古臭い方法論が理想的に機能する、つまり、結論が出た後では対立が収まって全てが丸く収まる、なんていう、絵に描いた餅みたいなことが起きうるのは、多数決の参加者の大半が「ローカリズムの内部に共存できている場合」だけだ。
散逸的なグローバリズムが蔓延した今の世界においては、「ひとつの結論は、次の新たな対立を呼ぶ」ただそれだけのことであり、共同体内部の対立の解消につながったりはしない。

damejima at 17:14

April 30, 2016

2015年10月に「燃費を誤魔化したフォルクスワーゲンの大失態は、この300年ほどの間ヨーロッパ中心に維持されてきた、コンセプチュアルなハーメルンの笛である『近代ドイツの神話主義』そのものの終焉を意味する」、てなことを大上段に書いた。
2015年10月26日、コンセプチュアルなハーメルンの笛 「近代ドイツ神話主義」の終焉。 | Damejima's HARDBALL

そしてその後、しばらくブログを書く手が止まってしまう事態になった。
というのは、あの記事を書いたことを後悔したからではない。むしろ逆で、あまりにも正しい何かを書いてしまった気がして、もうこれ以上なにか書く必要があるのかという気さえしたのである。

もちろんあの記事にも書きもらしている点は多い。そのひとつは、「あの記事で近代のもつ価値を全否定しようなどとはまったく思わない」ということだが、そういう書きもらしをなんとか処理したいとか思って考えあぐねているうち、半年もの時間が経ってしまった。

月日の流れるのは本当に早い。自分の考えを正確にまとめようとしすぎると、かえって手が止まってしまい、思考自体も停止してしまうことがよくわかった。
考えてみればこのブログはあらゆることに対して、多少記述が不正確であろうと、書くことで脳を働かせ、書くことで滞りがちな自分を前に進めてきたのではなかったか。初心を忘れていた。正しさなど気にせず、思いついたままを書きつらねるべきだった。

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あるネット記事に(非常に残念だがURLは失念)「クリーンディーゼルという標語」を信じてフォルクスワーゲンのクルマを買ったというアメリカの自動車ユーザーのコメントが載っていた。たしか女性だったと思う。
彼女がいうには、
正しいことをしていると思ってフォルクスワーゲンのクルマに乗ってきた。なので今回の事件はたいへん残念だ
というのだ。

このコメントを読んだ瞬間、どういうわけか「長年なんとなく感じていた『エコロジー』というものについてのモヤモヤ」が一気に晴れ、言葉に具体化できそうな気がした。


エコロジー」なるコンセプトを「誰が」「いつ」思いついたのかは知らない。結論を先に書くと、ロジックの仕組みからみると、「エコロジー」というコンセプトは、そして、その延長戦上にあるフォルクスワーゲンの提唱したクリーンディーゼルは、
まさに中世ヨーロッパにあった「免罪符システム」の現代版
なのだ。

いうなれば、「美しい地球」が「エデン」であり、「エコロジー」は「十字軍」、「クリーンディーゼル」が「免罪符」、というわけだ。

(注:最初に断っておきたいが、ブログ主はただのスポーツ馬鹿でしかないのであってキリスト教史研究者でもなんでもない。ゆえに以下の個人的感想には誤りや事実誤認が含まれている可能性は大いにあるものとみなしてもらって結構だ。また以下の文章は特定の人々や集団、企業等に対する悪意を意図するものではもちろんなく、あくまでひとつの脳内トレーニング、暇つぶしに過ぎない。あらかじめご了承いただきたい)

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では「免罪符」って、何だ。

「学校の授業で聞いたことがある」程度では、このシステムの正確な位置づけは理解できないだろう。なぜなら、たいていの場合、学校では歴史というものをきちんと教えないからだ。このシステムが生まれた経緯を正確に知るには、中世キリスト教におけるIndulgence、日本ではあまり知られていない「贖宥(しょくゆう)」なる制度を知ることが重要だと思う。


人間には非常に大きな原罪があると考えるキリスト教においては、「人間は原罪の償いをすべきだ」という考え方がある。
この「原罪の償い」の段取りは宗派ごとに違い、反省から告白、償いに至るまで「宗派それぞれの決まった段取り」というものがあるらしいが、最終段階における「償い」は共通して「非常に重い」ものとなるのが通例だったようだ。(宗派ごとの細かい相違点については専門サイトを各自あたられたい)
要約すると、「人間の原罪というものはとても重いものであり、また、その償いは重いものとなるのが当然」と規定されていたのが、もともとのキリスト教世界ということらしい。


さて、その「重い償い」について、かつて教会側が「代替措置」を認める独特のシステムがあった。それが「贖宥しょくゆう」だ。

A Roman Catholic indulgence, dated Dec. 19, 1521.
(上)1521年発行の贖宥状


この「贖宥」というシステム、困ったことに、よく「贖宥状と免罪符とは同じ意味のもの」などと説明をされている。
いろいろな意見があるのかもしれないが、ブログ主は賛成しない。賛成しないどころか、そういう間違った説明には真っ向から反対しておかなければならないと考える。
こういう間違った説明が流布されると、誰もが「罪そのものを帳消しにしてもらえる超便利な制度が昔からあった」などと都合よく思い込んでしまい、歴史とか人生とかいうものについて間違った、生ぬるい捉え方をするようになってしまう。

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ここが肝心な点なので繰り返すが、ブログ主の観点では、そして歴史的にみても、贖宥と免罪とは「同じもの」ではない

たとえ話でいうと(これが適切な例かどうかはわからないが)、例えば殺人を犯した人間が殺人罪そのものを許されることなど永遠にないのだが、罪の「償い」について、投獄期間を短縮するとか、禁固刑を労役で代替するとかは制度上にありうる、というのが、「贖宥」というシステムの主旨だ。カネさえ払えば殺人という事実そのものを「なかったこと」にして、白紙に戻してもらえる、などという話ではない。

例えば中世の十字軍遠征では、「十字軍遠征に従軍するという苦役を行うことは、贖宥である」とみなされていた。
つまり、本来なら人間は教会の定める厳格な段取りのもとで厳しい償いを遂行する必要があるのだが、十字軍遠征に参加するなら、それを「償いの代替行為」として認定しますよ、ということだ。

もちろんいうまでもなく、十字軍に従軍したとしても原罪そのものが許されるという意味ではない。

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だが残念ながら、
人間の作るシステムは、常に脆い。

当初は英雄的行為であったはずの「贖宥システム」は、時代を経ると変質していき、「償いの代替や軽減」に過ぎなかったはずの「贖宥」は、やがて「罪そのものの許し」、免罪へと堕していった。
(ブログ注:だからといって、中世における欧米やキリスト教世界のモラルの全てが堕落していたなどと、間違ったとらえかたをしてはいけない。歴史というものは白か黒か、善か悪かという単純な二分法で判断しようとしてはいけないのだ。そういう紋切型の思考手法は、近年の欧米の都市部での卑劣なテロ行為に賛同してしまう欧米人たちの思考の底流にもあるようだが、そういう考え方は手法そのものが間違っている)

十字軍の例でいうと、元来「贖宥」であったはずの「十字軍への従軍」は、十字軍そのものの変質にともなって「カネで十字軍従軍それ自体を免除してもらえる」ようになり、それがさらに「カネとひきかえに、罪そのものが許される」という、いわゆる「免罪」というシステムを生みだした。さらには教会が積極的に免罪符を売り歩くという事態にまで至って、「免罪符という名の、教会の集金システム」が出来上がった。(この「教会の集金システム」は、現代私企業のもっとも初期の形態なのかもしれないし、ある意味の資本の萌芽と考えることもできるはずだが、それを明確にした書物を読んだことがないので、正確にはわからない)

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これはあくまでブログ主の想像でしかないが、おそらく初期の十字軍従軍者には、ある種の壮絶な正義感や使命感、命がけの献身の覚悟があったに違いない。(ただし十字軍は遠征先で虐殺や略奪なども行っており、そうした行為の是非は論議されるべきだろう。ただ、それをモラルや安易なヒューマニズムから議論したのでは何の意味もない。歴史は「モラルが全て」ではないのであり、安易なヒューマニズムで判断してはいけない)
そうした初期の従軍者の悲壮なまでの「正義感」や「決意」と、後世にカネで従軍や原罪を都合よくまぬがれようとした人間たちの「ズルさ」を、「贖宥」というひとつの単語でくくる、つまり、「贖宥と免罪を同一視する」のは、どうみても正しくない。

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いずれにしても中世ヨーロッパのキリスト教世界で「人間の罪は、存命中の善行(もっとハッキリいえば、カネの寄進)によって帳消しにできる」というような、「原罪と、存命中の善行とを直接に関連づける発想」が蔓延することになったのは事実だ。

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そこに、こうした「罪をカネで許す」流れに真っ向から反対する人々が、ヨーロッパのドイツ系の人たちを中心に現れた。それが宗教改革だ。
例えばマルティン・ルターが「予定説」をとなえたのは、「罪と現世の善行の切り離し」をはかるのが目的だった。

さらに視野を大きくとると、
カソリック中心だった中世ヨーロッパに、プロテスタントが生まれ、さらにイギリス、さらにはイギリスから独立したアメリカの歴史が胎動していく「エネルギー源」のひとつになったのが、この
罪とカネの関連付けに対する嫌悪感
なのだ。

だからアメリカ史、ひいてはMLB史を眺める上でも、この記事で扱う話題は避けて通れないし、それどころか、現代史を語る上でも必須だ。
例えば、近年のギリシアの財政危機において、EU内部で「ギリシア人の放漫な体質」と、「ドイツの生真面目で倹約好きな体質」の落差が鮮明になった。
こうした例にみられるように、EUの大部分がキリスト教世界であるとはいえ、カソリック系諸国のゆるい体質と、プロテスタント的な厳格さを装いたがるドイツとの落差は21世紀の今も埋まってはいない。

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だが、かつて宗教改革を主導し、改革と勤勉の旗手、プロテスタントの代表選手を自認しているはずのドイツが、実は「クリーンディーゼルという旗印のもとで、エコロジーという名目の罪悪感を煽りつつ、免罪符を売り歩いていた」、としたら、どうだろう。

話はまったく違ってくる。

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20世紀初頭に書かれたマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はまぎれもない名著だ。

というのは、かつて宗教改革のモチベーションにもなった「カネに対する嫌悪感」が、その一方では、「イノシシのごとくにカネ儲けに向かって猪突猛進する猛烈なエネルギー」に変わるという、「あまりにもややこしすぎる、理解しづらいプロセス」を、この書物が非常に明快に説明してみせたからだ。

この「ややこしい話」を理解することは現代史を語る上で必須の話だ。例えばジョージ・ソロスなどもそうだが、「カネ儲けを嫌悪しているクセに、カネ儲けが大好きな人たち」は大勢いる。他にも、近代以降のユダヤ人史を見るときにも、こうしたカネに対する嫌悪と執着が混在した奇妙な感覚がわからないと理解できない部分は多々ある。(ちなみに、未完に終わったが晩年のウェーバーは世界中の宗教と経済の関係について研究していて、ユダヤ教についての著作もある)


だが、残念ながら、この「ややこしい話」は日本人には非常に理解しづらい。加えて、日本人に理解できにくい原因についても、これまで明確にされることがなかった。
なぜ、「カネ儲けが大嫌いなクセに、カネ儲けマニアになる人間」がいて、彼らが世界を動かしたりするのか。そんなことを歴史の「流れ」を理解しないまま理屈だけ悩みだすと、わけがわからなくなり、現代というものが把握できないまま堂々巡りに陥る。


一連の記事を書いたことでひとつわかったことだが、日本人が「マックス・ウェーバーのややこしい話」の真髄をなかなか理解できない原因は、日本がもともとキリスト教世界ではないことに尽きる。つまり
かつてマックス・ウェーバーの描きだした「カネに対する嫌悪感」のルーツが、ここまで書いてきたようなキリスト教圏における「罪とカネの関連付けに対する嫌悪感」にあるという「欧米史の基本」をきちんと把握できていない
ということだ。

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物事には因果がある。

ブログ主が贖宥と免罪を分けるべきだ、などとめんどくさいことを言うのは、かつてキリスト教世界を動かした宗教改革の「モチベーション」が、崇高な教義解釈の違いによる内部分裂ではなく(もちろんそれも多少はあるのだろうが)、根底に『カネの問題』があったという欧米史の基本とそのルーツをこの際ハッキリ認識しておくべきだと思うからだ。贖宥と免罪が同じものだなどという間違った説明は理解の妨げにしかならない。


ヨーロッパ中世の「罪とカネの関連づけ」に対する嫌悪は、後の欧米社会と資本主義、そしてそれらがかかわる地球上のあらゆる国家の進む方向にとてつもなく大きな影響を与えることになった。
中世以降、現代にいたるまで、世界を動かしてきたエネルギー源のひとつは、この
免罪符に象徴されるような「罪とカネの関連づけに対する嫌悪感」、そこから生まれた「カネもうけに対する嫌悪感」、そして、その嫌悪感が化学変化して生まれた「熱烈な金儲けの情熱
だったりするのである。

それを理解する上で大事なのは、「なぜヨーロッパで、罪とカネの関係が問題になったか」という根本の原因を把握しておくことだ。
宗教改革のリーダーだったルターやツウィングリが、何の動機も理由もないまま、いきなりキリスト教を改革しようとか言い出したわけではなく、また、何の前提もないまま、いきなり「『カネへの嫌悪感』と『猛烈なカネ儲けの情熱』の理解しがたいセット」が生まれたわけでもない。

人間は、嫌いなものには情熱を傾けないか、というと、そうではなかったりする。まったくもって人間という生き物は、不思議な、そしてかなり奇怪な生物だ。

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話はようやくここで、
フォルクスワーゲン不正事件に戻る。


これまで「エコロジー」という概念のもとでは、非常に多くの「標語」が発明されてきた。地球温暖化、二酸化炭素排出権、捕鯨禁止、クリーンディーゼル、シーシェパードなどなど。エコロジー団体の掲げる目標や標語は、ダイエットの手法と同じで(笑)、果てしない。
これらの数限りない「お題目」と「団体」は、毎日世界のどこかで新たに開発され、数限りないキャンペーンがはられ、その達成のためと称して補助金だの支援だのという名目の「カネ」が動いている。


最初に書いたブログ主の「エコロジーに関するモヤモヤが晴れた感じ」とは、エコロジーという場合についていいかえると
エコロジー発想と、それに沿って「カネが動くシステム」は、明らかに古くからある「免罪符システム」をなぞっている
という意味だ。それはフォルクスワーゲンだけに限らない。


エコロジストは「本来は限りなく美しく、均整がとれているはずの地球」という「現代のエデンの実現」が人類共通の「強い義務」だと主張してきた。他方、人間は、技術的・資源的な制約とモラル上の未熟さなどから、
「今のところ地球を汚さないと生きていけない」という「エコロジー上の原罪」を背負って生きている
ことになっている。
こうしたエコロジーの完全達成を「猶予」「免除」する行為は、常に「カネ」に換算され、エコロジー活動に「寄進」することで罪悪感や義務感、罰則が軽減されている。
これこそが
「エコロジー上の贖宥」「エコロジー免罪符の発行」の仕組み
である。

例えば「二酸化炭素排出権」においては、美しい「はず」、自然のシステムが作動している「はず」の地球が、「汚染され」「機能不全に陥りかけていること」が、「国家単位での、まぬがれられない原罪」などと規定され、その「地球という美しい聖地」を奪還するために「エコロジーという名の十字軍」が規定され、「エコロジー十字軍への従軍」がそれぞれの国に課せられている、というロジックになっているわけだ。

だが実際にはどうかといえば、その不完全な達成を「猶予」したり「免責」したりするために、「カネ」で二酸化炭素排出権が売買されている。
こうした「二酸化炭素排出権の売買システム」は、明らかに「中世ヨーロッパの免罪符売買システム」そのものだ。

世界各国に「二酸化炭素排出権というエコロジー免罪符」を発行しているのは、元をただせば「エコロジーという宗教」なのである。


では「クリーン・ディーゼル」というお題目の「集金システム」はどうだっただろう。
美しい地球の奪還というお題目を掲げる「エコロジーという名の宗教」においては、「きたない排ガスを出す自動車という乗り物」は「人間のかかえる原罪」と規定されるだろう。なぜなら、エコロジーの立場からいえば、いまのところ人間は、社会の維持や生活のために環境に害を撒き散らす自動車という便利な道具に頼ること、つまり「自動車という原罪」から逃れられる状況にはまだ至っていないからだ。

ここで、本来なら人類全体が達成すべき「償い」とは、国家レベルでいえば「エコロジーという十字軍」による「異教徒(=排ガス)」の完全討伐による「美しい地球という聖地の奪還」だろうし、また個人レベルでは「自動車にまったく乗らないという選択(=十字軍従軍)」という選択も可能だろう。
だが、いまのところ社会全体での自動車の完全な無公害化は達成されていないし、またクリーンな自動車は非常に高価だったりもする。

そこで登場したのが
比較的低公害な自動車の購入という『免罪符』の発行
だ。
「クリーン・ディーゼルという免罪符システム」は数ある「自動車免罪符」のひとつだったのであり、EUはそれを認め、それに「カネ」をからませた
つまり、クリーンディーゼル車を買うという「寄進」は、それを行う人にとって、クリーンディーゼル車を購入することがひとつの「環境破壊を完全にはやめられないことに対する倫理的償いになる」という巧妙なロジックなわけなのだ。


さて、この「フォルクスワーゲンのクリーン・ディーゼル車を、それがたとえ高価なものだろうと、自分の身銭を切って購入するという寄進行為」は、最初に区別しておいた、「贖宥」なのだろうか、それとも「カネで免罪符を買う行為」なのか。

ブログ主は明らかに
後者だと考える。

「クリーンディーゼル車を買う」という「寄進」行為には、明らかにかつての「カネを払うことで、罪悪感を軽減しようとする」というニュアンスが含まれている。
ヒトは、「エコロジーという宗教」で生産され続けている数多くの「十字軍行為」(それは、2015年10月26日、コンセプチュアルなハーメルンの笛 「近代ドイツ神話主義」の終焉。 | Damejima's HARDBALL でいうところの「ドイツ製の神話」でもある)のひとつである「クリーン・ディーゼル十字軍」に、エコカー購入という寄進行為によって遠まわしに参加して、「環境破壊についての罪悪感の軽減を実感」していた、というわけだ。

あさはかなものだ。

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長々と書いてきたが、この記事を再圧縮してみる。

欧州中世の贖宥という制度にもみられた「原罪の償いの代替」の問題は、中世において免罪という「罪とカネの関係」に変質し、それはやがて宗教改革の原動力となった「カネに対する嫌悪感」を生んだ。

ところが奇怪なことに、この「カネに対する嫌悪感」は近代において「カネ儲けの情熱」に化学変化を起こした。

こうした「カネに対する嫌悪感から生じた、カネ儲けの情熱」は現代社会に蔓延する「罪悪感と寄進の集金システム」として、人々の罪悪感やうしろめたさを煽ってカネに変える集金システムとして機能している。


この「罪とカネの世界史」において、「ドイツ人の登場割合」は非常に多い。
例えば、贖宥状を販売して回っていたヨハン・テッツェル、宗教改革をはじめたマルティン・ルター、そしてスイスの宗教改革者フルドリッヒ・ツヴィングリもドイツ系だ。さらにいえば、カネへの嫌悪感が金儲けの情熱に変質する過程を分析してみせたマックス・ウェーバーもプロイセン生まれのドイツ系だ。
つまり、ドイツ人はかつて免罪符を売りまくる一方で、同時に、免罪符を徹底して糾弾したという、奇妙な歴史をもつということだ。
フォルクスワーゲン不正事件にしても、ドイツ人がこんどは「クリーンディーゼルという名の免罪符」を販売する側にまわっていたという意味でとらえるなら、まぎれもなくこの「罪とカネの世界史」の流れの真っただ中にある。
(ちなみに、今後の記事で書く予定でいるのだが、歴史的にドイツという不思議な国はかつて「古代ローマ帝国のストーカーともいえるほどの模倣者」でもあった。この国のもつ「過剰すぎる情熱と奇妙な矛盾」は世界史のあちこちに種がまかれ、発芽している)


人の無意識な罪悪感や良心の呵責を煽りたてることで、寄進をつのったり、補助金を得たり、売上を稼いだりという「罪悪感ビジネス」は、今の時代、びっくりするほど数多くある。(環境ビジネスの他にも、被害者ビジネスなどでもロジックは似ている)

エコロジーというコンセプトは世間の人が思っているほどクリーンなものではないこと。そして、他人のモラルをやけに突っつきたがる人間や、金儲けを批判したがる人間が、カネ儲けに情熱を傾けていないわけではなく、また、カネ儲けが大嫌いなわけでもないということを、この際ハッキリ言っておきたいと思う。

damejima at 20:10

October 29, 2015

フォルクスワーゲンの検査不正事件は、実に多くのことを考えさせてくれた。

思うにこの事件は、よくある経済界の不正事件のひとつではなく、むしろ「この300年ほどの間、ヨーロッパを中心に維持されてきた「コンセプチュアルなハーメルンの笛」である「近代ドイツの神話主義そのものの終焉」なのだと思う。

Pied Piper of Hamelin

少し長い話になる。


最も狭い目でフォルクスワーゲン事件をみると、今回の検査不正はヨーロッパで十分すぎるほど普及していた「ヨーロッパのクリーンディーゼル」という 「神話」 の崩壊 を意味するわけだが、もっと広い歴史から眺めると、「ドイツが18世紀から19世紀にかけて大量製造してきた数々の神話の終焉」 につきあたる。
(「神話」と表現したのは、ヨーロッパのディーゼル車が「クリーンさ」を標榜しておきながら、実際にはロンドンやパリの大気をびっくりするほど汚していたからだ。クリーンディーゼルは実際には「クリーン」ではなく、ただのキャッチフレーズに過ぎない)


もう少し詳しく書く。この記事でいう「近代ドイツの神話主義」とは、大雑把に以下のような流れをさす。

18世紀から19世紀にかけ、ドイツは数々の「神話」を人為的につくりだし、流布させてきた。

こうした「ドイツ製神話」のいくつかは、「価値のものさし」として、世界史、特にヨーロッパ史を根本から捻じ曲げるほどの巨大な影響力を持った。

ドイツの「神話製造手法」は、アンリ・ファーブルの自然観察がそうであったように、「世界の文化や歴史、自然などをありのまま、フラットに観察し、対象そのものに内在している法則性を穏やかに発見していく行為」では、まったくない。ぜんぜん違う。

むしろ彼らの手法は「はじめに『理論』ありき」だ。
つまり、彼らはまず最初に、自分たちドイツ人が最も快適さを感じ、最も都合がいい『法則性』を設定し、その「法則性」の説明にとって都合のいい「事例」を古い歴史や自然から収集してくる。
そうして固めた「法則性」と、その事例にあたる「自分たちに都合のいい文化や自然、風土」を、彼らは、自分たちの「ルーツ」、自分たちの「美学」と呼ぶことにしたのである。


まだわかりにくいかもしれない。なので、「近代ドイツ製の神話」の具体例をいくつか挙げてみる。

このラインアップをみれば、世界、特にヨーロッパの美意識や価値観がいかに「近代ドイツ製の神話主義」に影響され、振り回されてもきたかがよくわかるはずだ。
(注:もちろんいうまでもないことだが、東大でドイツ美学について講演を行ったことがあるほどドイツ美学の強い影響下にあった森鴎外や、日本大学芸術学部内にデザイン専攻科を作った山脇巌など、明治期日本の例を見るとわかるように、明治維新後の文化のすべてをドイツに右へ倣えしたわけではないにしても、日本における建築、デザイン、教育、法律、文学など、各方面に「ドイツ製神話主義」の影響がある。例えば、ドイツの有名カリグラファー、ヤン・チヒョルトの意匠をパクッた「佐野研二郎パクリ事件」、新・国立競技場のデザインに失敗したザハ・ファディドを起用しようとした安藤忠雄のミニマリズムにいたるまで、近代日本は「近代ドイツ神話主義」と無縁ではなかった)

白いギリシア」という「欧州白人の民族的起源に関する神話」の製造
18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマン(1717-1768)が、『ギリシア芸術模倣論』(1755年)や『古代美術史』(1764年)で古代ギリシア芸術を絶賛、目指すべきは古代ギリシアの模倣と説き、ヨーロッパ全土に「ギリシアブーム」を起こした。(ドイツ美学のルーツはイマヌエル・カント『判断力批判』だと思われがちだが、『判断力批判』の刊行は1790年であり、ヴィンケルマンの一連の著作のほうがはるかに年代的に先行していることに注意すべきだ)
後に起きた「実際には白くなかったギリシア彫刻の表面の彩色を、大英博物館内で秘密裡に削りとって、白色に変える」という「大英博物館エルギン・マーブル事件」の背景にも、この「白いギリシア」信仰があった。
参考記事:2012年7月16日、『父親とベースボール』 (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。 | Damejima's HARDBALL

黄金比」という「美の法則性に関する神話」の製造
19世紀ドイツの物理学者、哲学者グスタフ・フェヒナー(1801-1887)が、1876年に刊行した『美学序論』において、「人々は黄金比を好む」と統計的に示したことが契機となって、「人間の作ったパルテノン神殿も、自然界のオウムガイの螺旋も、黄金比でできている。黄金比こそ、美の法則だ」というような「黄金比信仰」が、デザイン界や建築界を中心に広がった。
だが、実際のオウムガイの螺旋が黄金比ではないことをはじめ、かつて黄金比の例として説明されてきたエピソードの大半が単なる「俗説」に過ぎないことが指摘されはじめて、いまや黄金比信仰は廃れつつある。

コーカソイド」という「神話的人種分類」の製造
「コーカサス系の人種」という意味の「コーカソイド」(Caucasian race または Caucasoid)は、ドイツの哲学者クリストフ・マイナース(Christoph Meiners, 1747-1810)が1785年の著作 "The Outline of History of Mankind" で使った用語で、旧約聖書でノアの息子たちがたどり着いたアララト山のある「コーカサス地方」にちなんでいる。このことからわかるように、「コーカソイド」はキリスト教文化を背景にした人種分類だ。
ドイツ人医師ヨハン・ブルーメンバッハ(Johann Friedrich Blumenbach, 1752-1840)は、1779年に人類を5つに分類、さらに1790年代に白、黄、茶、黒、赤の「5つの色」による分類手法を提起した際、「白=コーカソイド」と定義した。
だが今日では、こうした人種分類自体にそもそも科学的根拠がないとする考えも登場してきている(Wiki)

社会主義」という「神話的社会理論」の製造
19世紀プロイセン(現ドイツ)の哲学者、思想家 カール・マルクス(1818-1883)が『資本論』(1867年)において後の社会主義国家の原点となる資本主義批判を展開。その結果、20世紀以降の世界のあちこちに社会主義を標榜する国家が誕生する結果となった。
だが、それら社会主義の国々の多くでは、社会全体への富の適正な再配分が行われるどころか、むしろ逆に、特権階級の出現、富の独占、不正や収賄の横行など、マルクスが資本主義の歪みとして批判したのと同じ事態が起こり、正常な経済発展が途絶する、ないしは、歪んだ拝金主義の横行がみられて、事実上、大半の社会実験は頓挫した。


かつて記事にしたが、「大英博物館エルギン・マーブル事件」の背景にあるヴィンケルマンの「白いギリシア」の根本に「歴史の捏造」があったように、ここに並べた近代ドイツ製神話の数々は、いずれも根本に「問題」をはらんでいる。 (というか、遠まわしに言ってもしかたがない。「問題」というのをもっと具体的にいえば、捏造、誇張、事実の糊塗、誤謬、人間の本性についての認識の誤りなどである)


これらの神話主義が「問題をはらむ」理由は、これらの事例すべてが「ある種の理想主義だから」、ではない。
人間の暮らしに理想をかかげる、という発想は、ソローの森の生活、サリンジャーの隠遁生活、タラウマラ族のマラソン、テレビアニメのサザエさん、ロハス、無農薬、ヴィーガン、理想がなければ人間らしくないといえるほど、どこの国、どんな時代、どんな地域にも存在する普遍的行為だ。
問題はそこではない。


問題は、人間がつくったものでしかない理論を「美化し、陶酔し、さらには神格化しようとしたがる高揚した感覚」にある。


ここに並べた「近代ドイツの神話群」は、見た目には相互の関係は存在せず、別々のジャンルの話だと思われがちだ。

しかし、これらすべては「裏で通底するもの」を持っている。
例えば「マルクス主義」だが、一見すると、クリーンディーゼルとは無縁に思え、また、古代ギリシアの建築や彫刻、美学史、人類学などとも「まったく無縁の存在」にみえる。
だが、よく観察してみると、その根底に流れる「ユートピア主義」には、「白いギリシア」や「黄金比」などとまったく共通の「18世紀から19世紀に近代のドイツが大量生産した理論に含まれる、理想主義、耽溺、陶酔、神話主義」が十分すぎるほど溢れ返っている。
(だからドイツでナチズムが登場した当初に社会主義を名乗ったのは偶然ではない。ナチズムは政治思想というよりは、一種の「美学」だからだ。こうした神話主義への陶酔は、右だの左だのという単調な政治分類とまったく関係なく、あらゆる局面に存在する)


わかりにくいので、もう少し言い換える。

「近代ドイツの神話主義」の特徴は、「ヒトがアタマの中で考えた、ある種の『美学』とか『美意識』である」、という点にある。それは近年フォルクスワーゲンなどが唱えてきた「ヨーロッパのクリーンディーゼル」においても同様だ。

神話主義の出発点にあるのは、ある種の耽溺や陶酔、ロマン主義であって、自然や人間史そのものでもなければ、検証や実証でもなく、また技術、財政でもない。
それが実在するのか、それは本当に実現可能なのか、実現のための技術的裏づけや財政的裏づけがあるのか、それはそもそも人間の本性に根ざしたアイデアなのか。そうした実務的な問題点を問い詰め、その解決方法を具体化するとか発見するとかする前に、ワーゲンのクリーンディーゼルがそうだったように、「さっさと見切り発車してしまう」点に、神話主義の非常にはっきりした特徴のひとつがある。


こうした近代ドイツの神話主義の特徴をさらに短くまとめるなら、
人間を神の領域に可能なかぎり近づけようとする理念的試み
といっていい。


間違えてはいけないのは、ここでいう「神の領域」の場所や方向性というのは、世界中の誰にでもあてはまる「普遍」などではない、ということだ。それは単に「特定のヒトたちがアタマの中で考えだした、単なる造形」に過ぎないのであり、そもそも多くの誤りを含んでいる。

こうした「人間を神の領域に可能なかぎり近づけようとする試み」に、当初は悪意はないのだろうとは思う。

だが、近代に生産された神話主義はたいていの場合、ただの「理屈マニア」とか、「ヘリクツ大好き」というレベルでは終わらないし、終われないのである。
なぜなら、「観念の中で人間を神の領域に近づけようとするプロセス」にたずさわることそのものが、「セレブリティという発想の導入」という「選抜行為」、「選抜意識」を、非常に誘発しやすいからだ。

神話主義がやがて、「特定の人間だけが、神の領域に近づくことができる」という発想に腐敗し、さらに「特定の人間は、神の領域を独占してもかまわない」とか、果ては「自分こそが神だ」とかいう危険な発想に堕していくのにそう時間はかからないのが、これまでの人間の歴史の哀しさというものだ。
ほっておけばヒトは、自分勝手に我田引水的な方向に解釈を修正し、理想をなしくずしに堕落させ、努力を忘れ、努力を必要としない「特権」を発明し、さらに不正をはたらいて、特権を維持しようとする。そういう「脆弱さ」は、「近代人が普遍的にもっている欠点」である。

ヨーロッパ近代において民衆は、王権を排除し、「王様だけが世の中を支配する構造」を否定してきたわけだが、その次に訪れたのは、必ずしも「誰もが公平に扱われる世の中」などではなく、むしろ「誰もが王様になりたがる世の中」でしかなかった部分が多々あることを忘れてはならない。
これは「モダニズム以降の世界」がずっと抱えてきた「なかなか直らない欠陥」のひとつだ。トロイの木馬がOSの脆弱性を突くように、モダニズムはこれまでその脆弱性を何度となく突破されている。


そもそも「近代に誕生したユートピア発想」というものは、バラ色の未来だの、「人畜無害」「温厚」「安全」だのと、ポジティブなイメージ満載でイメージされるが、それは非常に大きな「誤解」だ。
例えばカルトやテロの典型的発想は、「ユートピアは現状の醜悪きわまりない『現実』を破壊することで、はじめて実現される」というものなのだ。
つまり、近代のユートピア発想の実態は、穏やかそうにみえる表層とはうらはらに、その裏に「破壊衝動」 や 「不正」 が隠されており、異質な裏表が一体となった、いわば 「ジキルとハイド的思考」 なのだ。

また、近代人の思考方法や生活形態は、今のところとても未熟で、理想追求型社会に長期間耐えられるようにはできていない。
これからのよりよい未来を築く上で最も必要なアイデアは、社会を驚かすような建築物でも、トリッキーなデザインでも、革新的な社会変革理論でもなく、単に「人間の内面性そのものをもっと改善すること」ではないかと言われることが多々あるのは、そのせいだろう。


近代ドイツの神話主義は、ある種の「ハーメルンの笛吹きそのもの」であり、ドイツはこの「笛を作って、吹いてまわる行為(=他人を従わせる『理屈』をつくって、それを輸出する行為)」が大好きだ。と、同時に、近代ヨーロッパは「ドイツ製のハーメルンの笛を聴くこと(=輸入)が大好き」だった。
(注:かつて書いたように、今のイギリス王朝は「ドイツ系」であり、アメリカ独立戦争において、独立を阻止したいイギリスはドイツ人傭兵を数多くアメリカに持ち込んだ。さらに今のアメリカで最も多いのがドイツ系アメリカ人であることも、頭の隅に入れておくべきだろう。
参考記事:2014年12月5日、シェークスピアも予期できなかった、527年後の復讐劇。21世紀版 『リチャード3世』。 | Damejima's HARDBALL
参考記事:2012年7月16日、『父親とベースボール』 (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。 | Damejima's HARDBALL


蛇足だが、映画『地獄の黙示録』をドキュメンタリー映画だと思っている人も多いかもしれないが、あれはイギリス人作家ジョセフ・コンラッドのアフリカを舞台にした文学作品 『闇の奥』 をフランシス・コッポラがヴェトナム戦争に翻案した作品であって、戦争ドキュメンタリーではない。
コッポラ版では、戦場で19世紀ドイツの音楽家リヒャルト・ワーグナーの『ワルキューレの騎行』を聞きながら戦争行為をするという「設定」がウケたわけだが、少なくとも白人側の「自らを神話化しようとする行為」を描くにあたって、コッポラが近代ドイツ神話主義を育んだ19世紀のドイツ音楽を選んだことは、非常に意図的で明晰なチョイスであったといえそうだ。

フォルクスワーゲンの直近10年間の株価推移
フォルクスワーゲンの10年間の株価推移

damejima at 06:32

August 15, 2015

東京五輪のエンブレム問題の本質は、佐野研二郎という人間が、どれほど無能でコネ依存症か、とか、そのデザイン手法そのものがどれほどいいかげんなものか、だけではない。(もちろん、それらも重要な批判要素ではあるが)
もっと本質的な問題は他にもあって、ひとつが広告出稿量の多いスポンサーと大手広告代理店の制作部門との長年の慣れ合いによって育てられてきた「日本の広告デザイン業界」の慣れ合い体質とコネ体質で、日本のデザインパワーそのものも低下していることだと、ブログ主は考える。(もちろん、そういう日本の質的な混濁を丁寧に是正していくことは、ひとつの「日本の再構築、リ・コンストラクション」になる)


なぜ「日本のデザイン業界内のズブズブ慣れ合い体質」が生まれ、「広告賞の空洞化」や「虚構の談合スターシステム」が生まれてきたのか、その背景について、ブログ主の考えを以下に書くわけだが、ひとまずここまでの「東京五輪エンブレム問題の経緯」を整理しておかないとこの問題の発端を理解できないだろうから、まずそちらからまとめておこう。

東京五輪エンブレム問題
1)佐野研二郎のデザインした東京五輪エンブレムが、ベルギーのリエージュ劇場のシンボルマークに酷似していると、ネット上で指摘。該当デザインを制作したベルギーのデザイナーが関係機関に提訴。
2)佐野研二郎が記者会見し、パクリを完全否定
3)佐野のパクリ完全否定がネット上での怒りに油を注ぎ、「パクリ行為の元ネタ探し」が激化することで、佐野作品多数に「剽窃とみられる行為」がかなり多数散見されることが判明。

サントリーのトートバッグ問題
4)東京五輪エンブレムそのもののパクリ行為の真偽がまだ決していない中、ネット民が「サントリーのプレミアムグッズ(トートバッグ30種類)について、かなりの数のデザインにパクリ行為がある」と指摘
5)サントリーが、30種類のトートバッグのデザインのうち、8つのデザインを差し替えると突如発表。後日、佐野研二郎サイドがパクリ行為を認める


東京五輪エンブレムの決定経緯は、組織委員会が故意に回答を避けているらしく、詳細が判明していない。
わかっている点は、あの見苦しいザハ案の新・国立競技場と同じように、2014年9月に応募が始まったという「コンペ」の形式で、104件の応募の中から決まったという程度のざっくりした概略でしかない。

その「東京五輪エンブレムのコンペ」とやらだが、
以下のような「応募条件」があった。

五輪組織委員会が指定する7つのデザインコンペのうち、
2つ以上で受賞しているデザイナー

東京ADC賞
(ADC=アート・ディレクターズ・クラブ 選考委員例:浅葉克己)
TDC賞
(TDC=東京タイプディレクターズクラブ 理事長:浅葉克己)
JAGDA新人賞
(JAGDA=日本グラフィックデザイナー協会 会長:浅葉克己)
亀倉雄策賞
(亀倉雄策=1964年東京オリンピック時のポスター等を作った日本の歴史的なデザイナーのひとり。選考委員:浅葉克己)
ニューヨークADC賞(東京ADC賞の元ネタになった賞)
D&AD賞(英国の広告賞。1962年創設)
ONE SHOW DESIGN
(カンヌ、クリオ賞と並ぶ世界の三大広告賞といわれる賞)

「7つのうち、2つ」という応募資格が、ミソだ(笑)
下の3つは「海外の賞」だから、リクツからいうと「海外で仕事している外国人デザイナーで、海外の賞のみ2つ以上とった人」でも応募はできる。(だが、なぜか理由はわからないが、「外国人の応募」は非常に少ない)
他方、「4つの国内の賞」のうち2つをとっていれば、たとえ「海外での評価がまったくない国内のデザイナー」でも応募はできる。別の言い方をすれば、国内の賞を2つとれていない人間は、才能があろうがなかろうが、応募そのものができない。(ちなみに浅葉克己氏は、国内の4つの賞すべてに関わっている関係者のひとりだ 笑)


では、「国内の4つの賞のうち、2つをとること」は、どういう「難易度」にあるのか。
結論を先に言えば、特に「国内の賞の4つのうち、2つをとること」は、「ある立場にいる人たち」にとってはさほど難しくない。

以下のリンク先に、大手広告代理店・博報堂が2015年に海外の広告賞であるD&ADで、9つの賞を受賞したというニュースリリースがある。 博報堂グループ、D&AD 2015で9賞を獲得 | 博報堂 HAKUHODO Inc.
どんな「スポンサー」がD&AD賞を受賞したのか見てみると、9つの受賞作品のうちに、こういう「変わったスポンサー名」がある。
広告主:東京コピーライターズクラブ

これ、どういうことかというと、デザイナー系の業界団体に「アートディレクターズクラブがある」のと同じように、広告の文字部分の制作を担当するコピーライターの業界団体に「東京コピーライターズクラブ」というのがあって、そこが「広告主」になっている、ということだ。

コピーライターの協会が「広告主」?
意味が理解できない人のために、もう少し詳しく説明しよう。

広告クリエイターの業界団体は各年度の代表的な作品を年鑑として発行し、販売もしている。そのブックデザインは、「身内の仕事」なだけに、デザイナー側にしてみれば「かなり自由にデザインさせてもらえる、おいしい仕事」のひとつ、という位置づけになる。
だから上のリリースの意味は、9つのD&AD賞受賞のうちに、「身内の年鑑のブックデザイン」という「おいしい仕事」があり、それを担当したのは「大手広告代理店・博報堂内のデザインチーム」だった、という話なわけだ。
では、そういう「おいしい仕事」は、誰でも手を挙げればやらせてもらえるのか? 考えれば誰でもわかる(笑)もしコピーライタークラブが業界全体のスキルアップを目的としているならば「デザインを公募」しているはずだ。

こうした事例を「どう評価するか」は、人による。
ブログ主はこう見る。

こういう「身内仕事」の場合、それだけが目的ではないにせよ目的のひとつは明らかに「賞をとらせることによる、大手代理店内の自社クリエイターへの箔(ハク)づけ」であり、別の言い方をすれば、これは単なる「賞とりハクづけ行為」だ。

つまり、業界内の身内であるコピーライターズクラブが「広告主」となって『デザイナーが比較的自由にデザインできる場所』を作ってやることで、「広告につきものの、広告主の制約やビジネスの制約」がほとんどない場所がひとつでき、そこではデザイナーは他人の制約の少ないデザインができることになる。
こうした「賞とりパターン」は、なんせ「身内の広告」を作るのだから、大手広告代理店に直接・間接に所属するクリエイター特有の「特権」なのだ。(こういう「北京ダック的な賞とりパターン」ですら広告賞がとれないようなクリエイターは、はるかに制約の多い一般広告での広告賞受賞など、そもそもありえない)


だが、広告制作とは本来、「一定の制約が課せられた環境」で制作されるのが当然のジャンルであるはずだ。
したがって「本来の広告賞」とは、こうした「ハクをつけるのための、身内のデザイン遊び」を評価対象にするのではなく、「現実の広告として、課せられた制約をこなし、メディアで実際に広告として使われたデザインワーク」にのみ与えられてしかるべきだ。
広告賞が「非現実的な仮想のお遊び」をことさらに評価すべきではなく、「現実のビジネスに寄与したデザインワークのみ」に限定して与えられるのでなければ、足腰の強い広告クリエイターなんてものは育たない。


話をさらに進める。
こうした「賞とり北京ダック行為」を支援しているのは、なにも、広告クリエイターの業界団体だけではない。むしろスポンサー(業界内でいう「クライアント」)そのものが、そうした「賞とりチャンス」をクリエイター側に提供することが多々ある。
例えばだが、「ほんのごくわずかな機会でしか使われない」のに、60秒とか長い尺をとった企業CMや、15段とか見開きとかいった広いスペースを用意した新聞広告などがそれにあたる。それは広告というより、「お祭り」に近い。
(実際には、大量の広告出稿をしてもらっているスポンサーに対する「お中元やお歳暮」のような意味で、大手広告代理店側がメディアからスペースを格安で(下手するとタダで)用意し、社内クリエイターに制作させ、それをスポンサーに提供して「カッコいいお祭り」を演出し、その裏では広告賞もゲットして自社クリエイターのハクづけをする、というような手法がとられるに違いない。簡単にいえば「広告賞談合」だ)

そうした「賞とりタニマチ行為」ができる (というか、したがる)スポンサーというのは、ほとんどの場合、「日頃から大手広告代理店に大量に広告を発注する、代理店にとっての 『お得意さん』 であり、そうしたお得意さん企業は往々にして内部に「宣伝部」を持ち、かつて広告クリエイターを企業内部に常時在籍させてきた歴史もあるような、「クリエイティブに理解のあるスポンサー」であることがほとんどだ。
(通常、広告に多額の予算を割けないような企業では、独立した宣伝部など存在せず、総務部とかに「おまけ」のような形で広報セクションがあって、そこが広告も担当する、というような中途ハンパな状態にあることがほとんどだ)

こうした「広告タニマチ的スポンサー」にしてみれば、広告賞の受賞は「その企業がクリエイティブに理解のある、クリエイティブな企業だという印象を広める」ことによって企業イメージ向上につながるだけでなく、将来有望な広告クリエイターの発掘・育成にもつながるなど、「たくさんのメリット」がある、ということに、いちおうはなっている(笑)


だが、話はここで終わるわけではない。

ここで説明した意味での「賞とり」は、「大手広告代理店の内部に所属しているタイプのクリエイター」にとっては、単なる「名誉」というより、むしろ「必須の仕事のひとつ」だからだ。

調べてみると、「大手広告代理店が自社内部のクリエイターに積極的に「賞とり」をさせ、ハクをつけさせて、それを売り物にする行為」は、広告制作業がブームになるずっと前から行われてきた行為らしい。
つまり大手広告代理店は長年にわたって「賞をとれるチャンス」を自社の社員に向けて提供し、「ハクつけ行為」を行ってきた、ということだ。

それほど長くもない日本の広告クリエイター史だが、これまでいくつかの時代の変遷があった。
古くは一般企業内に置かれた宣伝部に所属する企業内クリエイターが活躍した時代(例:サントリー宣伝部時代の開高健)があり、また70年代から80年代にかけては「フリー」とか「フリーランス」と呼ばれる雑草タイプの制作者が才能を輝かせた時代もあったが、それらの時代は長い目でみるとあくまで「短期的に生じたアダ花的現象」にすぎなかった。

日本クリエイター史において一貫して続いてきたのは、むしろ「大手広告代理店所属のクリエイターが、会社に賞を獲得させてもらった後で独立し、事務所を構えて大手広告代理店の仕事をさらにこなし続けることによって、受賞数がさらに増える」という、「大手広告代理店所属クリエイター賞とり北京ダック・スターシステム」だ。

これは、「マラソン」でたとえるなら、市民ランナー出身の川内君(彼も学連選抜で箱根駅伝には出ているが)がトップランナーになってマラソン界に風穴を開けたような現象は、こと「広告クリエイターの世界」では、ほんの短い時代にあった「わずかな例外」であり、ほとんどの場合は、箱根駅伝出身のエリート駅伝ランナーたちが企業ランナーの「席」を占め続けているのと同じような現象が、広告クリエイターの世界にもまったく同じようにある、というような意味になる。


たとえが適切でないかもしれないが、箱根駅伝出身のエリートランナーが「駅伝練習のおまけとしてマラソンを走る現象」が、必ずしも日本のマラソンを強くしなかったのとまったく同じように、サントリーのような「広告タニマチ」が広告クリエイターに、あからさまな賞とりチャンスを与え続ける「広告クリエイター北京ダック行為」は、けして日本のクリエイティブパワーを育ててはこなかったことが、今回の佐野研二郎・東京五輪エンブレム問題で明らかになった、というのがブログ主の意見だ。


たしかに、サントリーに代表される「広告業界のタニマチ企業」は広告黎明期において「広告を文化にかえた旗手」ではあった。それはたしかだ。
(だが、当時のサントリーの広告の評価は、単に当時の開高健の個人評価を企業評価にすりかえていただけのものに過ぎないという点もぬぐえない。なぜなら、かつてのサントリーのウイスキーの味そのものは、「開高健の書く広告コピー」や、「彼自身が登場するCMから受ける印象」ほど「美味いものではなかった」からだ。だからこそ、当時のサントリーの酒、例えば「ダルマ」は、いまや日本の酒屋にも一般家庭にも残っておらず、広告史に当時の広告だけが残った結果になっている。「商品が消え、広告だけが歴史に残る」ような広告が「優れた商品広告」なわけはない

だが、日本の広告の歴史と、「クリエイターの登場パターン」を継続して見ていくと、「企業の広告タニマチ行為が、多数の有能クリエイターを生み出してきた」とは、まったく、全然、言えない。

むしろ、「広告タニマチ行為」は単に、タニマチ企業と大手広告代理店とのズブズブの慣れ合いを生み、それにクリエイター業界団体上層部を加えた広告業界全体の狭いコネ体質をより一層強化することにしか繋がっていないことは、今回の佐野研二郎という「自分のアタマと手を使ってデザインするという、基本能力そのもののが完全に欠如した無能デザイナー」の登場で明らかになったと、ブログ主は断定せざるをえない。

佐野自身と、佐野と同じ自称デザイナーたちがやっている「自称デザイン行為」(実際には剽窃そのもの)は、Pinterest (https://t.co/ZwRpsM5pLe =ネット上の画像収集ツール) のような「ネットツール」を使って、ネット上から元ネタ画像を掘り起こし、それにちょっと加工だけして、スポンサーに「自分の作品と称して」提出するという単純で卑劣な手法だ。
もちろん五輪エンブレムも同じ手法で制作された可能性がある。可能性があるからこそ問題にもなっている。こうした「剽窃常習者の作ったオリジナリティに欠けた加工品」が、日本を代表するデザインのひとつとして世界に発信されることなど、けして許されない。


これから何度でも書くが、いまの日本が迎えているのは「再構築、リ・コンストラクションが必要とされる時代」だ。
佐野という「北京ダックみこし」をかつぎ上げてきたのは、「ただのコピー・ペーストに過ぎない剽窃行為を、文化だの、クリエイティブだのと呼んで、鼻高々になっているような、無能すぎる人間どもの、見かけ倒しで慣れ合いだらけの風土」だ。こういうまがいもの、ニセモノ、カッコつけこそ、日本から消えてなくなるべきだし、今後ブレイクすべき形骸化したシステムだと思う。
本当の意味での世界レベルのデザイナーを育成したければ、今の古臭くて機能してない慣れあいの談合スターシステムを排除しないとダメだろう。

「賞をとったデザイナーを起用」したら、その広告が「クリエイティブになる」なわけではない。そんなことくらい気づけないようでは、その企業(あるいは、コンペやオリンピック)は馬鹿で、文化がわからないと言われてもしかたがない。
もともと内輪で回しているに過ぎなかった「賞」を「コンペの応募資格制限」に使うという行為は、そのコンペの質を維持し、高めるのに役立つはずはない。それはむしろ、「談合スターシステムにのっかっただけの無能デザイナーを保護するための参入障壁を設けている」に過ぎない。





damejima at 16:02

August 11, 2015



ダサい新・国立競技場ザハ・ハディド案と安藤忠雄
東京都観光ボランティアのダサいユニフォーム
ダサい東京五輪エンブレムと佐野研二郎


上に挙げた、新・国立競技場、東京都観光ボランティアのユニフォーム、東京五輪エンブレム、3つの「デザイン」は、以下の3つの点において共通点がある。

1)「場」に対する不似合いさ
デザインは、目的に沿うものである必要があるわけだが、3つのデザインそれぞれが「ダサい」という印象を人に与える原因のひとつは、「」に「あっていない」ことだ。
新・国立のザハ案は明治の森という「場」に「あっていない」し、東京都観光ボランティアのダサいユニフォームは東京という街の現在の空気に「あっていない」し、佐野研二郎のエンブレムは日本がいま目指す方向性にも、東京五輪そのものにも、「あっていない」。

2)時代に対する共有感の無さ
3つのデザインは、方向性において相互に統一感がない。このことは逆説的な意味でいうなら、共通点でもある。つまり、3つが3つとも、「いまという時代への共有感」がまったくなく、デザインコンセプトの共有もディレクションの共有もほとんどされておらず、ただそれぞれがてんでんバラバラに存在しているに過ぎない。

3)非コンペティティブな選考方法
上の項目で指摘したように、3つのデザインには意匠における共通性はないが、その一方で、「決定の仕方」だけはソックリであり、「コンペ(=競争、競合)」とは名ばかりの「非コンペティティブな選考方法」で決定されたことに著しい特徴がある。
ザハ案は安藤忠雄のほぼ独断で決まっただろうし、残り2つも、コンペとは名ばかりの密室での談合みたいなもので決まったに過ぎず、そこには、閉塞しきっているマラソン界に市民ランナー川内優輝が突然登場して「常識を塗り替えた」事実にみられるような、「時代の転換を感じさせる驚き」は、カケラもない


なぜ、日本を代表するイベントのひとつとなろうとしている2020東京五輪に、こういう、場にあっていない、不揃いな、非コンペティティブなものが、提案され、決定されかかっているのだろう。
原因を簡単にいえば、いまの日本の内部には、「場に沿うものを作りだすことの大事さを忘れた」、「不揃いで、バラバラな」、「競争原理が働いていない非コンペティティブな部分」が、多々ありすぎるからだ。

逆に言えば、外野フライを追うイチローのように、2020東京五輪に真っ直ぐ向かうために必要なのは、「場に沿うこと」だったり、「方向を揃えること」だったり、「コンペティティブな競争」だったりする。


1964年の東京五輪には、高度経済成長という時代のキーワードがあり、五輪そのものが日本が先進国の仲間入りをするイベントであるという共通理解があったことなど、「なぜいま五輪を開催するのかについての、全国民共通の理解」があった。
だから、当時の亀倉雄策をはじめとするデザイナーは仕事はしやすかったはずだ。なぜなら、当時の日本では「日本そのものをシンプルに、強く描写する」という、わかりやすいデザインコンセプトが明確に共有できていたからだ。


だが、2020東京五輪においては、上の3つのデザインを眺めてもわかることだが、どれを見ても、今の日本を共有できていない。つまり、今の日本が目指すものについて、理解もされていなければ、新しい発見も提示されていない。

誰も彼もコンセプトが無いまま作っているのだから、
作品はどれもこれも弱いし、ダサい


では、いま日本で起きている最大のモメンタムは何だろう。


日本はひとつの「大きな転換期」を迎えている。それはディスカバー・ジャパンという、1970年代のキャンペーンと似ているようでいて、根本からして違う。
いま求められているのは、1970年代に流行した「忘れられかけている日本の良さの再発見」ではなく、「日本の内部的な再構築、reconstruction:リコンストラクション)」だからだ。

こう書くと、わかる人には何のことを言っているのか、説明しなくてもわかるわけだが、「わからない人と、わかりたくない人」には、まったく理解されない。
少なくとも東京五輪のデザインについて言えることは、最初の3つの小手先のデザインとそれを決定した人たちは、「今の日本が向かっている方向をわからない人」や「今の日本をわかりたいと、そもそも思わない人」だということだ。
そういう基本的なことを、理解できない人、理解したくない人が、グランドデザインに関わってはいけないのである。ピント外れなものしか作れず、梯子を外されるのは当たり前だ。


もう一度書いておこう。
これからの日本が迎えようとしているのは、「再構築の時代」だ。

日本が再構築に向かうことが意に沿わない人は、グランドデザインから退場してもらって、まったくかまわない。自分の位置が時代からかけ離れているからといって、桑田佳祐のようにデザインに黒々とした暗黒を塗り込むような心の暗い人に、時代をデザインすることなど、できはしないし、やってもらっては困る。


1964年よりもはるかに複雑な今の時代の「気分」を「明るく描ける人」をなかなか思いつかないのが困るが、少なくとも、再構築に通じるドアのノブを最初に回したのは、宮崎駿の映画「風立ちぬ」であったと、ブログ主は確信している。
なので、このブログとしては、2020東京五輪のグランドデザインとか演出は、彼、宮崎駿に任せてみるべきではないか、と提案しておきたい。
参考記事:2013年9月2日、空を飛ぶ夢。 | Damejima's HARDBALL

あの作品におけるご本人の意図は、もしかするとブログ主の思うところとはまったく違うところにあったかもしれないが、少なくとも、「天の岩戸」のように錆びたドアを押し開き、長く狭い場所に閉ざされていた戦後日本をオモテに出したのは、あの作品の空気に満ちている「何か」だった気がしてならないのだ。






damejima at 15:49

August 07, 2015

二段モーションのピッチャーが、地方大会では見過ごしてもらえたのに、全国大会では何度も注意を受けた、というニュースを見たが、当然のことだ。なんでこんな当たり前のことがニュースになるのか、さっぱりわからない。
二段モーション禁止が「ルール」なのだから、注意されるのが当たり前というものだろうに。ルールの統一も、へったくれもない。


2020東京オリンピックのエンブレム問題もそうなのだが、こういう「ローカルで許されていた行為が、パブリックな場所に出てみたら、それが「許されないこと」なのがわかること」は、数多くある。
例えばエンブレム問題でいうと、「日本国内向けの仕事における、海外広告作品からのパクリ行為」は日本のデザイン業界内ではきわめて公然と、やって当たり前の行為のように行われているわけだが、それが世界向けの仕事となると、初めて、それが「許されない行為」であることに気づき、日本人デザイナーのオリジナリティの無さがバレたりする。

「田舎の交通ルールの酷さ」も同じだ。

田舎の世界観は、なんでもかんでも「クルマ中心」だ。
だから田舎のドライバーの頭の中は「勘違いだらけ」であり、一時停止なんてしなくていい、停止線なんか関係ない、右折だろうと左折だろうと好きなタイミングで曲がっても許される、必要なら歩道に駐車してもいい、などと、自分勝手に思いこんでいて、実際そういう危険な行為をところ構わずやっている。
(田舎では税収を増やしたいがための目的で、子供を増やそうだの、子供の笑顔があふれる町づくりだのとタテマエを言うわけだが、その割に、子供が重大な交通事故に巻き込まれる原因のひとつである「田舎の交通マナーの酷さ」はいつも放置されている)


だが「大都市」で(東京でもニューヨークでも、どこでもいいが)そういうマナーに欠けた運転をしていたら、どうだろう。あっという間に違反が積み重なって、免許などすぐ無くなってしまう。

なぜなら、都市の交通ルールは、田舎のルールとは違うからだ。

例えば、都市で横断歩道を渡ろうとしている人がいたら、クルマは右折だろうが左折だろうが関係なく100パーセント待たなくてはならない。田舎のように「人の通行をさえぎってでもスキをみて強引に曲がる」などという馬鹿な行為は許されない。

他にも、電車の切符を買うとき、エスカレーターに乗るとき、「都市には田舎にはない都市特有のルール」がある。

つまり、「人の移動に関するルール」は、都市に非常に多いのである。

理由? 簡単だ。
都市は「人が密集している場所」だからだ。

かつて5000人ものランナーが主催者の不手際でスタートできなかった富士山マラソンのずさんさについての記事でも書いたことだが、都市では「人のスムーズな移動が常に確保されていること」が、他のなによりも大事な優先事項なのであり、都市では「人の移動を妨げる行為」を「社会的に迷惑な行為」であるとみなす「都市特有のルール」が成立している。
したがって、クルマは「人の移動を妨げること」は許されない。
参考記事:2013年1月27日、マラソンブームに便乗した、あまりにもずさんな「富士山マラソン」から、「日本の新しい景観美」に至る、長い道のり。 | Damejima's HARDBALL

それは道徳によって決まるルールではない。
多くの人が集まって生きている都市特有の掟(おきて)なのだ。


「人の移動に関する都市特有の掟」は、他にもある。
例えば、切符の買い方がわからないクセに行列の先頭で係員に質問もせずオロオロしている田舎の人は、後ろから「何してんだバカヤロー」と怒鳴られてもしかたがない。それがお年寄りだろうと、子供だろうと、そんなこと関係ない。たとえカラダが不自由であっても、だからといってレストランに無理な注文をつけて「俺を抱きかかえて店内に入れろ」などとゴネたりする馬鹿げた迷惑行為は許されない。慣れない人が地下鉄に乗って出入り口付近に突っ立って、他人がドアから降りるのを邪魔するのも、ご法度だし、人が移動するためにある地下街の通路でベビーカー並べた主婦が立ち話、なんてのも許されない。

簡単にいうなら都市では、立ち止ってもらっては困る場所で、ヒトは勝手に立ち止まってはいけないのだ。それは急かしているのでもなければ、世知辛いのでもない。


考えてみると、田舎の人はやたらと「公共のルール」を決めたがるが、不思議なことに、その一方で、同時に「公共的な場所の決め事なんてものは、自分の好き勝手なタイミングや、自分の都合で破ってもかまわないものだ」と、勝手に決めつけてもいる。
ルールを守るかどうかは、要するに「自分の気分次第」なのだ。


話が飛びすぎたが(笑)、二段モーションのルールをもっと厳密にしろ、なんて話をするがいるかもしれないが、ルールさえ決めれば二段モーションがなくなるとでも思っているのだろうか。
ルールをたくさん作っては、それと並行してルールをなし崩しに破るのが得意なのが、田舎の人特有のメンタリティというものなのであって、いくら二段モーションのルールを全国的にとり決めたところで、地方大会の人の目を盗んで行われる狡賢い(ずるがしこい)二段モーションという行為は、なくなったりしないだろう。


よく「都市は非人間的だ」なんていう間違ったことを、よく考えもせずに言い切って、それがヒューマニズムだなどと勘違いして鼻高々になっている人がいるわけだが、その考えは根本からして間違っている。

人が密集している都市だからこそ、「ヒトに沿ったルール」が成立しているのである。

勘違いしている人が多いが、「街の掟(おきて)において、人間くさい」のは、田畑とクルマとご都合主義が中心で、ルールがルールとして自立しておらず、ヒトへの配慮がまるで足りない田舎ではなく、「人が密集し、ヒトのマナーの集積によってヒトのためのルールができていて、ルールがルールとして自立していて、なおかつ、ルールがヒトをきちんと拘束できてもいる「都市」のほうなのだ。

damejima at 16:41

August 05, 2015

coastal upwelling


「海岸に沿って強風が吹くと、沿岸の海水温が下がる」、coastal upwelling(沿岸湧昇)という現象がある。上のイラストは、そのメカニズムを「北半球の東向きの海岸」を例に書いてみたものだ。イラスト内の数字は、以下の説明文の数字にそれぞれ対応している。

) 北半球の東向きの海岸で、南西あるいは南から強風が吹く
) 「コリオリの力」の作用で、沿岸にあった表層の「暖かい海水」が、沖に向かって流され、沿岸の海水が減る
) 減った沿岸の海水を補給するために、より深い場所にあった「冷たい海水」が沿岸の表層に向かって湧き上がってくる


日本の有名サーフィンスポットというと、宮崎や外房のように「東向きの海岸」も少なくないわけだが、こうした「東向きの海岸」で南風が吹くと(=岸から見て「強い風が右から左に吹く」と)海水温が非常に下がって、夏なのにフルスーツ(手首、足首まである寒いとき用のスーツ)でないと寒くてサーフィンできないようなことすらある。

こうしたcoastal upwelling(沿岸湧昇)という現象を起こす元になっているのは、地球の自転からくる「コリオリの力」というやつだ。


「コリオリの力」の作用方向は知っての通り、北半球と南半球とでは真逆になる。だから、「upwellingが起きる条件」は、東向きの海岸と西向きの海岸でまったく逆になり、また北半球と南半球でも真逆になる。
例えば、カリフォルニアのような「北半球の西向きの海岸」では、東向きの海岸である日本の外房とは真逆で、「北風」でupwellingが起きる。また、カリフォルニアと同じ西向きでも、南半球のペルーの海岸では、北風ではなく「南風」によってupwellingが起きる。


upwelling zone
画像出典:Upwelling - Wikipedia, the free encyclopedia

世界にある湧昇域を地図で見てみると、日本を含めた漁業が盛んな国にはたいてい広大な湧昇域がある。これは、upwellingによって深い海の栄養やミネラルが海の表層に湧き上がることでプランクトンが繁殖するために、海の生態系が非常に活発になって、漁獲量が増大するからだ。


長すぎる前置きだったが(笑)、こんなことを書いたのは、今年4月に茨城県鉾田市で起きたカズハゴンドウイルカのストランディングの原因のひとつが、もしかすると、この「coastal upwelling(沿岸湧昇)」かもしれないなどと、ふと思ったからだ。


upwellingは、深層の栄養の豊富な海水を表層に持ち上げる。
そのため、それにつれて植物プランクトンが爆発的に増え、動物プランクトン、プランクトンを食べるアジやイワシなどの小魚、小魚を狙う海の鳥たち、小魚を食べるマグロ、カツオ、カジキ、サメ、イルカ、果てはクジラまでが沿岸域に集まって、沿岸に広大な生態系が一気に形成されるらしい。

今年4月にストランディングの起きた茨城の海岸は、もともと強い南風でcoastal upwelling(沿岸湧昇)が起きやすい東向きの海岸線なわけだが、もし4月に「季節外れの強い南風」が吹いたときがあったとすると、時期外れなcoastal upwelling(沿岸湧昇)が起き、イルカのエサとなるような海の小さな生物たちが急激に増えて、イルカがエサを求めて茨城沖に集まったのかもしれない、などと思ったのだ。

加えて、下記記事で書いたように、今年の春は、茨城沖に冷たい海流である親潮が入り込んでいる年だったわけだから、春先の茨城沖で数年に一度しかないイワシ祭りがあったとしてもおかしくないような気がしたのである(笑)
参考データ:2015年5月14日、「デマ」は常に「真実」よりも目に触れやすい場所に置かれ、見えやすい、という事例。 〜 カズハゴンドウイルカのストランディングに関するデマと科学の差 | Damejima's HARDBALL

まぁ、素人が想像で書いていることだから、真偽はあまり気にしないでもらいたい(笑)
ともかく言えるのは、茨城や千葉など外房のサーファーが「今年の夏は海水がやけに冷たい」などと愚痴をこぼしているのをネットで見かけたら、その年は寿司屋で安いイワシやアジを死ぬほど食うべき年だ、ということだろう(笑)


つまらない冗談はともかく、このupwelling(湧昇)という現象は、世界の気候に大きな影響をもたらしているので、知っておいて損はない。

例えば、赤道付近では、東寄りの風である貿易風によってequatorial upwelling(赤道湧昇)という現象が起きている。
コリオリの力によって赤道の北半球寄り海域では「北に向かう海流」、南半球寄りでは「南に向かう海流」が発生して、一方で表層の海水が減ったしまった赤道付近では、深い海から冷たい海水が湧き上がってくる、というわけだ。赤道だから海水が暖かいわけでもないのだ。

エルニーニョ現象やラニーニョ現象という言葉をよく聞くわけだが、その年のエルニーニョがどのくらい強く発生するかも、「風の強さ」が関係している。これも風の強さがupwellingの強さに関係しているからなのだ。

追記
この記事を書いてからネットを見ていたら、こんなニュースがあった。4月にカズハゴンドウのストランディングがあった茨城県鉾田市の沖で4mを超える大型のサメが確認され、近隣の海水浴場が遊泳禁止になっているという記事だ。
茨城県沖にサメ2匹を確認 鉾田市などは海水浴場を遊泳禁止に - ライブドアニュース
もちろんこのニュースも、upwellingによって説明できる部分がある。つまり、茨城の沿岸でcoastal upwelling(沿岸湧昇)が起きると、プランクトンと小魚が多くなる。そのため、小魚を食べる大型魚、さらには普段なら見られないイルカや大型のサメが沿岸周辺に集まることになるわけだ。

damejima at 06:58

May 15, 2015

2015年4月10日朝、茨城県鉾田市の沿岸に100数十頭ものカズハゴンドウイルカ(Peponocephala electra)が打ち上げられているのが見つかった件では、イルカ救助への協力をあおぐ目的のツイートをした。
以前にも、中国漁船による小笠原諸島でのサンゴ密漁の件でツイート拡散をお願いしたことがあったわけだが、それを含めて、リツイートなどで協力してくださった方々にこの場を借りてあらためてお礼申し上げたい。

いらぬ不安を煽るのを避けたかったので当時あえて触れなかったが、あの時ネットではストランディングについてこんな「デマ」がまことしやかに語られていた。
(ブログ注:以下の「デマ」でいう「2011年にイルカが打ち上げられた件」とは、2011年3月4日に茨城県鹿嶋市海岸に52頭のカズハゴンドウイルカが打ち上げられたことを指している)

2011年の東日本大震災直前にもイルカが打ち上げられたことがあったが、これは「再び非常に大きな震災が起きる前兆」だ。某預言者も大きな震災の発生を、具体的な日付とともに予想している。

もちろん、その「予想された日付」とやらには、何も起きなかった(笑)


「なぜ茨城県の海岸で2011年と2015年にカズハゴンドウイルカのストランディングが起きたのか」については、ストランディング直後から既に研究者の間でデータ収集や議論が具体的に開始されていた模様で、例えば以下のサイトでは海洋研究開発機構の海水面温度データをもとに、ストランディングから約2週間後の4月23日には早くも以下の「仮説」が提示されている。(また、5月初旬に東京大学で行われたイベントではさらに詳細な議論も行われたらしい)
コラム:茨城県の海岸に打ち上げられた多数のイルカと海洋異変について│JAMSTEC

詳細は元サイトの記事を読んでもらうとして、仮説の概要をとりあえず示しておく。

1)カズハゴンドウイルカは「暖かい海」に生息する

2)2011年と2015年は、いずれも茨城県沖に「冷たい海水である親潮」が北から入り込んでいた事実がある (例えば2015年4月上旬の茨城沿岸には、例年より3度以上低い冷たい海域が広がっていた)

3)暖流・寒流の混合域ではイルカのエサとなる生物の密度が高いわけだが、暖かい海から北上してさかんにエサを捕食していたカズハゴンドウイルカは、茨城県沖で「冷たい海水」に突然遭遇し、そのことが原因でなんらかの混乱や変調をきたした可能性がある


2011年と2015年に共通する
「冷たい茨城沖」データ

暖かい黒潮」が大きく蛇行する一方で、茨城沖に北からの「冷たい親潮」が深く入り込んでいる。このため、茨城沖の海水面温度は例年に比べて非常に低いものになっている。
(2015年データ中にある赤い矢印がストランディングのあった茨城県鉾田市)
2011年の日本近海の海面水温

2015年の日本近海の海面水温


2011年と2015年とはまったく異なる
2013年の「暖かい茨城沖」データ

茨城沖に冷たい海流が入り込んでいた2011年春や2015年春とまったく違って、2013年には暖かい黒潮」が関東の沖でほとんど蛇行せず沿岸に接近して流れており、さらに黒潮は茨城沖から東北沿岸にかけて広く流れこんでいた。その結果、茨城沖の海水面温度は例年よりはるかに高いものだった。
2013年の日本近海の海面水温


どうだろう。

これらの仮説でストランディングのメカニズムのすべてが解明できているわけではないが、「何月何日に地震が起こる」などという「まことしやかなデマ」と違って、ストランディングの起きるトリガーのひとつについて非常に理路整然と「根拠を具体的に示した合理的説明」がなされている。
少なくとも「暖かい海に生息するイルカが、茨城沖で冷水塊に遭遇することによりストランディングが起きる可能性」について、2011年と2015年で高く、2013年については低いことをデータ上から十分に「科学的に」説明できている。


このことでよくわかることは、
デマは常に真実より見えやすい場所にある、ということだ。

残念なことだが、「もっともらしいデマ」、「いかがわしい話」、「真実っぽい嘘」は、常に真実や科学よりも「情報として目に触れやすい場所」に置かれていて、見えやすいがために話題にもなりやすい、のである。
慰安婦報道で30年にもわたって虚偽をあたかもそれが真実であるかのごとくに垂れ流してきた新聞メディアや、情報として根本から間違っているのにいまだにこれみよがしに垂れ流され続けているOPSのような野球データの例などでもわかるように、たとえマスメディアの記事だろうと、世の中の人が既に広く信じ込んでいるデータだろうと、例外ではないのだ。

damejima at 20:45

April 19, 2015

2012年10月の『マトリクス・スライド』から、もう「2年半」。
早いものだ。
2012年10月9日、2012オクトーバー・ブック 『マトリクス・スライド』。ついに揃った 『イチロー 三種の神器』。 | Damejima's HARDBALL


あれはイチローがヤンキースに移籍してラウル・イバニェスとの久々のコンビでア・リーグ東の地区優勝をもぎとった後の、ポストシーズンでの出来事だった。
忘れもしない。2012年10月9日、NYY対BALのALDS Game 2。ボルチモアのキャッチャーはマット・ウィータース。彼はイチローに2度タッチしようとして、2度とも失敗した。




そして、2015年。
まさかのマトリクス・スライド 2が劇場公開になった(笑)


http://m.mlb.com/video/v76672583/mianym-ichiro-out-call-overturned-at-home-in-7th/?partnerId=as_mlb_20150417_43965786&adbid=588883217798664194&adbpl=tw&adbpr=18479513

こんどのキャッチャーは、2013年にNYMでメジャーデビューしたばかりの若いトラビス・ダーノー
マット・ウィータースのときもそうだったように、イチローは2度のタッチを、2度ともかいくぐって得点した。MLBのTwitterの公式サイトは The Slide と、ウィリー・メイズのThe catchになぞらえてネーミングし、Cut4は映画マトリクスになぞらえて動画にコメントしている。


プレート・アンパイアはEric Cooperだ。
彼はこの「イチローの2度のタッチ回避」について、「1度目のタッチ回避のみ」を見て、しかも「アウト」と「誤判定」した。
彼が「イチローの2度目のチャレンジ」自体をまったく考慮していないことは、以下の画像で明らかだ。イチローがまだ「2度目のチャレンジ」をしていないタイミングで、球審Cooperは既に「左手を突き出して」いる。これは「ホームプレートでのタッチアウト」をドラマチックにコールをするときの球審特有の動作だ。

「マトリクス・スライド2」におけるEric Cooperの誤判定
Eric Cooperは去年ワールドシリーズのアンパイアにも選ばれて、近年では評価の高いアンパイアのひとりではあるわけだが、こと、この判定については明らかに「早とちり」だった。
論理的に考えればわかることだが、もしキャッチャーのトラビス・ダーノーが「最初のタッチでイチローをアウトにできた」と確信するほどの手ごたえがあったとしたら、あれほど必死になって「二度目のタッチ」にいくわけがない。(実際、試合後にダーノー自身が「一度目のタッチには失敗した」と潔くコメントしている)
まぁ、イチローがらみのプレーでは「普段だったらありえない、マンガの中でしか起こらないようなことが、実際に起きる」のだから、しかたないけれども(笑)
参考記事:カテゴリー:2012イチロー・ミラクル・セプテンバー全記録 1/2ページ目 │ Damejima's HARDBALL



それにしても、このプレーはいろいろと勉強になった。

よくアクション映画では、「車をぶっとばしているヒーローが、間一髪で踏切をわたって、列車との衝突を避ける」なんていうような、「ギリギリでかわすシーン」があるわけだが、ああいう「ギリギリでの行為に成功するためのファクター」について考えたことは今までなかった。

イチローの『マトリクス・スライド2』でわかった「プロと呼ばれる人間であるために必要な判断能力」は、以下のとおりだ。
1)「正しさ」よりも、「スピード
2)「才能」よりも、「自己の能力把握
3)びっくりするほど「細かく」研ぎ澄まされた時間感覚


まず『マトリクス・スライド2』において「イチローがセーフになった理由」を考えてみるとすぐわかることだが、「足が速いこと」は、このプレーの成功にとってはそれほど重要なファクターではない

「時間をかけて判断することによって正しい判断ができる人」なんてものは、世の中にいくらでもいる。例えば、遠くに横から出てきた車が見えたために、衝突を避けるために余裕をもってスピードを落とすことなら、誰にでもできる。
だが、『マトリクス・スライド2』においては、本塁突入するかどうかを「ゆっくりと決断」していたのでは、たとえ足の速いイチローでも確実にアウトになってしまう。

つまり、『マトリクス・スライド2』からわかることは、
「判断結果の正しさには、実は、人が思うほどの価値はない」
ということだ。

はるかに価値は高いのは、判断の「正しさ」よりも、人よりも何十倍、何百倍も早く正しい判断ができる「スピード」なのだ。
(例えば、ビジネス上の判断でも、「それみたことか、俺の思った通りになっただろ」と「後から」言うことなど、誰でもできる。だが、いくら判断が正しくても、「スピードを伴った正しい判断」でないなら、そこに価値は存在しない。価値があるのは、判断の「正しさ」ではないのだ)

大事なのは、「よし! イケる!」、「いや、イケない」という「感覚」だ。
こういうとき、よく野生児の感性などという言葉を使いたがる人がいるけれども、この「イケるという感覚」は実に「論理的なものさし」であって、感性などという曖昧なものではない。



次に、なぜイチローは「正しい判断を素早く下せる」のか、について。

彼が「足が速い」のが理由なのか。
そうではない。

彼の本塁突入は、まさに「100分の1秒以下の刹那の世界」で決まる。もちろん足が速いにこしたことはない。
だが、いくら足が速いランナーであっても、「アウトになるタイミングなら本塁突入してはいけない」のであり、他方で、「いくら足が遅いランナーであろうと、セーフになるタイミングなら、絶対に本塁突入を敢行すべき」だ。

つまり、「本塁突入を実行するか、しないかの判断」にとって重要なのは
足の速さという「才能」ではなくて、むしろ「自己の能力把握」
なのだ。
それは、「自分の現在の能力から判断して、自分がいま実行しようとしているプレーは、アウトになるのか、セーフになるのかが、瞬時にわかる能力」のことであって、「足の速さ」そのものではないのだ。

例えば、足の遅いランナーが走塁を自重してしまうことが多いのは、「足が遅い」ことが根本理由ではない。
太っている人に限って自分の体脂肪率を把握していないことが多いのと同じで、「足の遅い人は往々にして自分のスピードを把握していない」。そのため自分の能力というものが理解できていない足の遅い人ほど走塁について積極的になれない、ただそれだけなのだ。(逆にいえば、野球において、どんな足の遅いランナーであっても盗塁が可能なのは、このへんに理由がある)


では、イチローはなぜ「100分の1秒以下の世界でギリギリに成否が決まるきわどいプレーを、正確に判断できる」のだろうか。

「足の遅い人」というのは往々にして「自分に出せるスピードをまるで把握していない」ものだ。だから、「物事を判断する単位」として、10秒とか、1分とか、「非常に大雑把なものさし(=スケール)」でしか判断していない。

例えば、「車を運転していて、遠くに横から出てきそうな他の車が見えた」、とする。もし自分の出しているスピードの把握が「大雑把」ならば、「ギリギリすり抜ける」なんて神業は絶対に実現できない。むしろめちゃくちゃ余裕をもって自分の車を停止させるほかない。そしてその停止タイミングが早すぎるか、遅すぎるかは、本人すらわからない。
(「ノロノロ走る自信のないドライバー」ほど、むしろ事故を起こしやすいという逆転現象があるのは、このへんに理由がある)

アクション映画でよくある「ギリギリすり抜ける」という行為が可能になるのは、判断スピードの速さとパーフェクトな速度把握をもとに、その人がもつ特有の時間感覚の「単位」が、びっくりするほど「細かく」研ぎ澄まされているからだ。そうでなければ、100分の1秒以下の世界で成功か失敗かが決まる案件を瞬時に判断することなどできない。

アマチュアの日曜大工に必要な道具の種類がせいぜい十種類ちょっとで足りるのに対して、プロの職人が100や200を軽く超える道具をもつとか、プロのハスラーのキューが非常に繊細にできている、などというようなことがあるのは、彼らのような「プロ」は「自分の仕事に対する要求度」が「素人には想像がつかないほど非常に細かくできている」からだ。


「自惚れ(うぬぼれ)」というものは、どんな人にもある。自分が「正しさ」や「才能」をもっていると自覚している人には、(特に年齢が若ければ)自惚れも自然と強くなる。
だが、「正しさ」や「才能」には、実は自分で思っているほどの価値はない。(また、かつて記事にしたように、「若さ」なんてものにも、もうかつてのほどの価値はない。 参考記事:カテゴリー:『1958年の西海岸』 アメリカにおける放浪の消滅 │ Damejima's HARDBALL

スピードの欠けた正しさ、自己把握の足りない自惚れだけの才能、大雑把すぎる時間感覚で、「伸びる前に折れてしまう芽」は多い。
なぜ自分が芽が出ず埋もれたままなのか。それを不満に思ったりする前に、自分の判断スピードの「遅さ」、自己把握の「いい加減さ」、時間感覚の「大雑把さ」を、あらためて初心にかえって修正を試みるべきだ。


イチローが41歳にしてMLBにいられて、マトリクス・スライド2のようなスーパープレーができるのは、足が速いからではない。
いま自分は何ができるのか、それをイチローは
 誰よりも早く、誰よりも正確に、誰よりも細かく
 把握している
」からだ。
彼の判断能力の「標高」は、人が想像しているより、はるかに高い。

アンパイアより、メディアより、ファンより、
イチローのほうがはるかに「イチローの能力」を把握している。

当然のことだ。

damejima at 21:53

January 28, 2015

近代の人間にはやっかいなことに、「自我」というものがある。(もっと正確にいえば、ある人にはあるし、ない人には、あいかわらず、ない)

近代における自我の定義はけして簡単ではないが、ブログ主にいわせるなら、ひとつには「自分がいて、他人がいて、両者は違っているのが当たり前なのだ、ということが理解できる能力」のことだ。

この「自己と他者を区別できるレベルにまで成長すること」は、実は、その国が「欧米的な意味での近代化を達成した」とされる条件のひとつでもある。

ただ、この「自我というシステム」は有用な反面で、問題点もある。
いくつか挙げてみる。

「近代的な自我」という「欧米的なOS(「オペレーティング・システム」)」は非常に有用なシステムだが、このシステムにはもともと「バグ」や「設計ミス」が存在することも確かであり、そのため、自我というシステムが、ときに暴走したり、フリーズしたり、勝手に再起動したりすることがあり、レールをはずれたときの操縦はなかなかに難しい。
また、自我というシステムの理解に特有の「誤解」もある。そのためもあって、「自我の確立」という作業(オペレーション)は古来からとても失敗しやすいものとなっている。

多くのケースでは、自我の確立の失敗は問題ない。むしろ、自我の確立に失敗し続けている間にいつのまにか自我が形成されていくことになる。また、たとえ「自我というものをまるで所有しないオトナ」になったとしても、日常生活そのものにはなんの支障もない。
だが困ったことに、「自我の形成がうまくいかず、壊れたままの自我を再起動せずに抱えこんだまま稼働し続けてしているオトナ」が迷惑行為や犯罪に対して非常に無自覚になるケースは少なからずある。

「自我の確立を通じた近代化」に失敗することは、個人にのみ起きるのではなく、国家にも起きる。その結果、「自己と他者の区別がつけられない国家」、「他者を認知しようとしない国家」は、世界にそれなりの数が存在する。

残念ながら、近代的な自我そのものがもつ欠陥を修正した「次期OS」や、近代的な自我の確立に失敗したときのリカバリーのための「パッチ」は、まだ十分確立しているとはいえない。

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さて、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』や、有島武雄の『生れ出づる悩み』などの著作の表題が、共通して「悩み」という単語をもつことからもわかるように、「自我を確立することは、なまやさしいことではない」と、よく思われている。
というのは、「自我=自分だけがもつ、固有かつ唯一無二のスタイル」であり、「若い=独自のスタイルを徹底的に模索する時期である」と思いこんでいる人が多数いるためだ。(だが、実際には、自我は唯一無二のオリジナリティなど意味してはいない)
こうした「誤解」によって、「独自のスタイルは誰にとっても絶対に必要だ。だが、だからといって、簡単に見つかるわけではない。だから若さ=悩んで当たり前の年齢なのだ」などと、都合のいいように若さを解釈してきたのが、かつて近代化を迎えた若い国家に共通の特徴だった。

ゲーテが『ウェルテルの悩み』を書いたのが1774年で、有島武雄の『生れ出づる悩み』が1918年。両者の著作の間に「約140年の歳月の開き」があるわけだが、この「140年の差」は、そのまま、日本の近代化の黎明がヨーロッパから100数十年遅れてやってきたことを意味している。
ヨーロッパと日本に、アメリカも含め、近代化が社会に浸透して軌道にのり、時代が「若さを必要としなくなった」とき、若さを標榜し、徹底して悩み抜くことに意味があり、若さゆえの悩みにある種のカッコよさやオリジナリティがあると社会から思われる時代は終焉を迎えることになる。(もちろん「文学」が近代国家においてもっている意義もそこで終了する)
関連記事:2013年5月11日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(4) 「若さを必要としない時代」 | Damejima's HARDBALL

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ここで、質問。
自我って、どんな形?

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ブログ主の答え。
ちくわ」みたいな形。

ちくわ

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ここで、ブログ主からふたたび質問。
ちくわの穴」って、内部? それとも外部? 必要?

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ブログ主の答え。
「内部」でもあり、「外部」でもある。
ドーナツの穴と似たようなもの。必要。

つまり、
人間の自我の構造は、いわば「ちくわ」である。

ちくわの穴のような自我の内部空間は、「内部」でもあると同時に「外部」でもあり、「外部」との連続性を有していて、「外部」とつながっている。
こうした「ちくわ」的な「柔軟だが自己を守るに十分な外壁と、外部に開放された内部」が確立されることで初めて、人というものははじめて安定し、この「安定」によって「自分の視点の位置」が定まり、「定点」からの安定した「観察」が開始されることによって、自己と他者の区別が容易につけられるようになり、他者とのつながりも常に認識できるようにもなる。

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だが実際には、実に多くの人が自我の構造を「缶詰」のようなものだと思い込んでしまっている。

缶


つまり、自我とは「フタによって完全に密封され、外部と内部の間になんの流通もありえないような遮断された密閉空間」であり、そうした「内部と外部を厳密に区別できる密閉空間」を確立してはじめて、自己というものは「統一感」や「外部からの隔絶」を達成でき、自己と他者との区別も、オリジナリティも、萌芽することができる、などと、自分勝手に思いこんでしまう。

繰り返しになるが、
密閉空間を内部に抱え込むことこそ自我だ、という考え、
それは、単なる思い込みに過ぎない。

「外に出ていく場所のない、封鎖された空間」は、
むやみに膨らみ続けていく風船」と同じだ。
ときとして「爆発」や「暴発」を生む。
そして、自己と他者の区別はなおざりになる。

「自我という内部空間は、封鎖された密閉空間として存在する、という誤解」は、多くの頑迷な思い込みを生じさせやすくする。
例えば、オリジナリティをもつことに対する異常なこだわりにしても、多くの場合は、むしろオリジナリティを築けなかった人(あるいは国家)や、他者のオリジナリティを存在として認める能力が皆無な人にこそ多い。
また、「自分の思い込みが、単なる思い込みであることに自分自身が気づくことへの恐怖」は、他者の失笑や嘲笑に対するアトピー的過敏さをひきおこしやすくする。

-----------------------------------------------------

クチをあけると、クチの中という「内部」は「外部」とつながる。クチは「外部を受け入れることができる場所」であり、そこから食物は、食道から胃、腸、といった「ちくわ」のような構造の「チューブ」(=消化器官)を経て消化され、最終物は膀胱や肛門や汗をかく器官からふたたび外部へと出ていく。

つまり、物理的な人体にも、自我の構造と同じように、「ちくわの穴」のような「内部ではあるけれど、同時に、外部でもあるような、チューブ状の内部空間」が存在している。物理的な人体も、自我の構造も、まったく似た形状として形成されているのである。


缶の中にいることが自我のあり方であり、缶の中に居続けなければならないという自己暗示のもとに、自己の絶対性を確定させるための追求を過剰に行い続けても、それは、自己を安定させるどころか、よりどころのない不安定さだけを生じさせることになる。
自我には、外部とつながった開放部があっていいこと、そして、外部とのリンクを無理に拒絶し、自分だけの閉鎖された密閉領域を確保することが自我の形成ではないこと、間違った自我イメージのために無理な努力をしなくてもいいのだ、ということを、もっとしっかり理解してもらいたいと切実に思う。

というのは、このことは、「他者と自分との区別のつかない人たち」がやたら登場してニュースになる壊れた世の中へむけての最も重要なメッセージのひとつだ、と思うからだ。

damejima at 19:50

January 24, 2015

トマ・ピケティというフランスの経済学者の『21世紀の資本』という著作が話題だそうだ。まったく読んでもない。だが、短気な猟犬と同じで、あやしい匂いを嗅ぎつけると、どうしてもアドレナリンが出て、ケチをつけたくなる。困ったものだ(笑)


どうもよくわからないことがある。

Wikiなどによると、ピケティが使ったロジックは、「率A(資本収益率)と率B(経済成長率)との間に常に『差』があることが原動力となって、資産や富に『特定方向への移動』が生じる、その結果生まれる資産集中は実にけしからん。世界規模での富裕税が必要だ」という感じの話らしい。
(以下簡略にするため、「率の差が原動力となって資産移動が生じる」という論理」を『資産移動論理』と呼ぶことにする。

もし、Wikiや書評に書かれているこうした「要旨」が本当なのだとしたら、『21世紀の資本』という本を読む必要は「ない」、と考えられる。

というのも、さきほど定義したばかりの「資産移動論理」は、よくある普通のロジックのひとつに過ぎないからだ。ピケティ独自のものでも、特別すぐれた論理でも、なんでもない。
もし、「ピケティのあやつる資産移動の論理」を実際に読んで、「こりゃあ新鮮だ。思いついたやつは天才だな・・」、などと思う人がたくさんいるのだとしたら、その人たちはよほど金融や経済に関心を持ってこなかった人だとしか思えない。


説明がめんどくさいので簡単な例を挙げてみる。

日米の金利差と為替レートの関係via 私の相場観 : 金利上昇と景気・株価の関係

2つの国、A国、B国で、「長期金利に大きな差がある」とする。
この「金利の差」は、「A国とB国の間の為替レートに一定の変動傾向を生むファクターのひとつ」になる。(金利と為替が完全連動する、という意味ではない。両者は緩やかに連動するにしても、常に、かつ、完全に連動するわけではない)
例えば「円とUSドル」なら、「日本の金利がアメリカの金利より低い」場合、それが原動力となって両国の為替の長期ベースは「円安傾向」になるため、一時的にせよ「円からドルへの資産移動」が起こる。(実際、多くの日本の個人投資家が円高終了とともに自分の資産を米ドル方面に転換した。いまだに転換してない人は、単に世の中の変化に反応が遅いだけの話)
また、金利差は国債価格にも影響するから、アメリカ国債に向けての資産移動も起こりやすくなる、なんてことも起こる。

つまり「金利差」は、広範な資産移動の原動力になるわけだ。


こういうことは、金融に関わる人なら誰でも知っている。また、マクロ経済をちょっとでもかじっていれば誰でもわかる。(わからない人は、詳しい説明をどこか別のサイトで読んでみてもらいたい)
だから、なぜ、こういう「誰もが知っている論理」で書かれた著作が、ノーベル賞級だのなんだのと評価される必要があるのかが、まったくわからない。


さて、ピケティがいわんとする(らしい)ところを、Wikiを参考に、もうちょっと詳しく書きだしてみる。
「歴史的にみると、資本収益率(r)は経済成長率(g)を常に上回る傾向にあり、富の不均衡を生む。とりわけ低成長が長く継続する時代(=「常にr>gとなる時代」)には、富の集中が生じやすくなる。その是正にむけた新たな富裕税を検討すべきだ」というようなことらしい。

いいかえると、ピケティは上で書いた「資産移動論理」を、「『国という経済単位内のクラスター間に富の不均衡がなぜ発生するのかを説明するのに使っている」わけだ。
この「資産移動の結果を、不均衡あるいは不平等ととらえて説明した上で、その是正を求めることは正しいとする判断」を、簡略化のため「ピケティ道徳」と呼ぶことにする。
「ピケティ道徳」は簡単にいえば、「資本収益を新たな課税の創設によってさらに多く国庫に回収し、社会をもっと均一にならせ」と言っているわけだ。

この「ピケティ道徳」が「これまでにない斬新な発想だ」といえる根拠がわからない。なぜなら、「収益を国庫に回収し、社会に再配分する手法」そのものは、既に「納税」「雇用」「福祉」など、さまざまな形でどの国にも既に存在しているからだ。


非常にわかりにくい言い方だとは思うが、
以下の説明でぜひ次のことを確認してもらいたい。
「資産移動論理」と「ピケティ道徳」は、イコールではない。


2つの「論理」の違いを知ってもらうための、もっとうまい「たとえ」が思いつかないので困るが、まぁ「マイケル・サンデルのハーバード白熱教室の生徒」にでもなったつもりで(笑)、こんな例でも考えてみてもらいたい。

地域差をからめた例文
日本の2つの都道府県、隣接するA県とB県で、生産性に差があるとする。「生産性A>Bなら、A県にばかりお金が集まるようになる。これは非常にけしからん。
では、A県はB県に富裕税を払うべき」だろうか?

人種問題をからめた例文
ある多様な人種で構成される国で、人種Aと人種Bとで生産性に差があるとする。「生産性A>Bだと、常に人種Aにばかりお金が集まるようになる。これはけしからん。
では、「人種Aに富裕税を新設して、人種Bだけに還元すべき」だろうか?

南北問題をからめた例文
先進国A国と、発展途上国B国の生産性に差があるとする。「生産性A>Bならば、A国にばかり富が集まる。これは不均衡だ。
では、「A国はB国に対し、富裕税を払うべき」だろうか?


以上の稚拙な「例」でひとまず理解してもらいたいことは
「資産移動論理」はどこにでもよくある分析手法だ。
だが「ピケティ道徳」は、どのカテゴリーに、どういう立場から適用するかによって、「受け取る印象」がまったく違ってきてしまう、「善悪の観念」を含んでいる
ということだ。


もしブログ主が、「東京都の生産性は埼玉県より高いから、東京都には富や資産があまりにも集結しすぎる。この不平等はけしからん。格差是正のために、東京都民は埼玉県に対して税金を払うべきだ」などと真顔で発言したら、どう思われるだろう?

「馬鹿なことをいうな」と、笑いモノになる。

都道府県同士、国同士、人種間、で考えれば、ある都道府県(あるいは国や人種)に税金をかけて、そのカネを別の都道府県(あるいは国や人種)に納める、なんて話は「なんとなくおかしい」わけだし、そのことが理屈抜きに誰にもピンとくる。

なのに、ピケティは、同じロジックを「国内のクラスター間の格差」に適用してモノを言い、それを読んだ人は、それが「あたかも道徳的な提案をしている」かのように「みえる」らしい。

それはなぜなのか。


誰もが気づかないようだが、ピケティの「レトリック」をよく考えてみるべきだ。
ピケティの著作では、「資産移動論理」という近代経済学や金融論によくみられる分析手法と、感傷的で18世紀的な国民経済学の限界を越えない「ピケティ道徳」とが、安易に結び付けられて書かれている。そして、その2つは必ずしも連続的に融合してはいない。だから施策の提案になると行き詰まって空想的になる。
だから、『21世紀の資本』という著作を読む人には、分析手法と、そこから導かれる結論が平凡きわまりないにもかかわらず、印象として道徳観念(=ピケティ道徳)だけが脳裏に残る。
それは、この著作がそもそもそういう仕組みで書かれているからである。


以上、簡単な「ロジックを分解する作業」をやってみた。
言いたいことはわかってもらえると思う。

調味料は料理ではない。
どんな料理にでも大量のマヨネーズをかける人がいるが、マヨネーズのチューブそのものをくわえて吸う、それだけの行為を「サラダ」と呼ぶことはできない。また「昔からあった料理」に大量のマヨネーズをかけたら、それが「革新的な料理」になった、とはいえない。

『21世紀の資本』が提出したロジックを、「なるほど」などと感心する人がいるのは、料理そのものの味を吟味しているのではなく、単に「不平等を指摘する」とか、「社会正義」とか、そういう「マヨネーズの味」に酔っているだけだ、という言い方ができる。


グーグルやアップルのような現代的な企業がたくさん儲けているにしても、その儲けそのものには、ちゃんとした「発明(イノベーション)」や「マーケティング的な成功」といった、「正当性」がある。
そして、企業収益を社会に還元する仕組みも、社会には既に「税制」とか「雇用」などいう形で既に備わっている。

もしどこかの国で、多額の企業収益がタックスヘイブンに流れてばかりいて、社会にほとんど還元されていないというような事実があるとしたら、それを改めていくことはその国の税制上の課題のひとつであるのはたしかだ。
だが、だからといって、資産移動、つまり、「富や資産がなんらかのファクターに呼応して移動していくこと」そのものが、「その社会の根本的な欠陥だ」とはいえない。そうした「資産の流動性そのもの」までも社会悪だと指摘しかねない不合理な経済道徳には、賛成できない。


「現行税制の不備を議論して、改善したり、修正したりしていくこと」と、「儲けることそのものについての是非を大上段に問うこと」は、まったく別問題なのだ。そのことを、あたらめて指摘しておきたい。

たとえ「資本収益率が経済成長率より大きいことが多い」といっても、その「収益」を、「税」や「雇用」などという形で、社会の秩序維持や経済発展に還流させていく「仕組み」は、どんな国でも長い歴史的の中でつちかってきている。
「社会が、資本収益のうち、どの程度のパーセンテージを回収するか」は、各国それぞれが、それぞれの時代の課題に応じて決めてきた政策的な選択であり、必ずしも「道徳」が決定してきたのではない。また、たとえ「高いパーセンテージでの回収を実施できる社会の仕組み」を新たに作ってみたからといって、それが経済発展につながるわけでも、また、財政破綻を避ける特効薬になるわけでもないことは、近代の歴史がとっくに証明したことでもある。


Adam SmithMax Weberアダム・スミスが1759年に『道徳感情論』を出版していたり、20世紀初頭にマックス・ウェーバーが書いた名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』からもわかるように、近世の経済の礎が道徳や倫理の問題を避けて通ることなく、むしろそれらについての議論を基礎に築かれてきたのは、まぎれもない事実だ。
だが、ピケティが著作にこっそりしのびこませようとした道徳はあくまで個人的な感傷レベルのものでしかない。後に『国富論』で近代経済学の父となったアダム・スミスや、倫理と経済行為との間の独特の繋がりを明快に著述してみせたウェーバーの偉大な足跡を継ぐものとは、まったく思えない。

damejima at 08:45

December 09, 2014

例の大英博物館の「白い」ギリシア彫刻コレクション、「エルギン・マーブル(Elgin Marbles)」の一部がいま、ロシアのエルミタージュ美術館に移送され、公開されているらしい。
大英博物館はこれまで「移送の困難さ」などを理由にギリシアへの返還を断り続けてきたから、もちろんギリシアは今回の「海外移送と公開」に怒って返還を求める声明をあらためて出したが、返還されるされないにかかわらず、「剥がされた彩色」は二度とオリジナルには戻らない。

Statue of the river god Ilissos
Statue of the river god Ilissos

「エルギン・マーブル」は、かつて英国大使としてオスマントルコに赴任していた第7代エルギン伯爵トマス・ブルース(Thomas Bruce, 7th Earl of Elgin)が、当時オスマントルコ支配下にあったギリシアのパルテノン宮殿からギリシア彫刻多数を勝手に剥がしてイギリスに持ち帰り、後に大英博物館に寄贈したものだ。
もともとオリジナルな彩色が施されていたことが、現代の紫外線による解析手法によってわかっている。

だが「彩色をほどこされていたエルギン・マーブル」は、エルギン伯トマス・ブルース本人の指示によって、特殊な工具を使って「表面にあったオリジナルの彩色」を削り取り「見た目を白く変える」という卑劣きわまりない捏造作業が開始され、その後もなんと1811年から1936年までの100数十年にもわたり、大英博物館の一室で「表面を削って、白くする」行為が延々と行われ続けた。

そのため「エルギン・マーブル」は紫外線解析が行われるまでずっと「白いギリシア彫刻」だと信じられ続けてきたのである。
関連記事:2012年7月16日、『父親とベースボール』 (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。 | Damejima's HARDBALL

エルギン・マーブル(Elgin Marbles)に使われた卑劣な道具エルギン・マーブルの彩色剥ぎ取りに使われた道具群

ちなみに、大英博物館はいまだにその「恥知らずな作業」を、「クリーニング」という当たりさわりのない表現で呼んでいる。
British Museum - Cleaning the Sculptures 1811-1936

以下の写真は、紫外線解析によって科学的に再現されたオリジナル配色の例だ。

実は色つきだったギリシア彫刻
:大英博物館で表面が剥ぎ取られたあとの「白い彫刻
:紫外線解析によって推定された加工前のオリジナル配色

Trojan archer crouching in battle(often so-called
Trojan archer crouching in battle(often so-called "Paris")


「エルギンマーブル改竄事件」が明らかにしたのは、芸術の冒涜という小さな問題ではなく、むしろ「欧米文化の精神的支柱としての美学の存立基盤そのものに対する疑義と、その美学に基づいて白く上塗りされ続けてきた欧米史のあやうさ」であることを思えば、この事件が歴史的事件と呼ぶにふさわしい「大事件」であることがわかる。
というのは、「エルギン・マーブル」のような古代ギリシアの建築や彫刻群は、18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツと主張した「白いギリシア」というコンセプトを支える「最も重要な支柱」のひとつになっているからだ。

近代科学が「エルギンマーブルの改竄」を暴いたことによって、もちろんヴィンケルマンの「白いギリシア」も、その根拠に巨大な疑問符がついているわけだが、その影響力は根強いものがある。
例えば自然科学的に根拠の薄いル・コルビュジエの『黄金比』の価値をいまだに信じている人たちが多数存在していることをみてもわかるように、欧米文化においては、常に、そして、非常に熱心に、『白いものこそが、美である』という価値観がくりかえし、くりかえし製造され、「白い欧米文化には『白いルーツ』として『白いギリシア文化』が存在する」という「ストーリー」がたえまなく流布され続けてきたことによって、ヴィンケルマンの「白いギリシア」というコンセプトは、それが歴史的に根拠があるとないとにかかわらず、いまなお欧米社会に強い影響力を及ぼす物語として補強され続けているからだ。

Johann Joachim WinckelmannJohann Joachim Winckelmann

『伽藍が白かったとき』 ル・コルビュジエ『伽藍が白かったとき』
ル・コルビュジエ

(キャプション)コルビュジエが「黄金比」を美の極致とみなした理由は、それが見た目に美と見えるかどうかよりもむしろ「ギリシア神殿に多くみられる黄金比は、自然界にも数多くみられる『美の究極比率』である」という「古代ギリシアにはあらゆる美のルーツが集結しているというストーリーづくり」に主眼があったと考えると、さまざまな説明がつきやすい。
ちなみに、「自然界の美には黄金比が多い」というのは単なる「先入観」に過ぎず、例えばオウムガイの螺旋の曲率は黄金比ではない。
参考:オウムガイに黄金比?


damejima at 15:18

September 14, 2014

cover of LIFE Magazine

映画 " The Secret Life of Walter Mitty " を見ていて思ったことは、これまで悪いものと良いもの、両方の歴史がある多様性が 「アメリカらしさ」 だと思ってきたが、それはやはり間違ってない、ということだった。

アメリカには、差別、暴力、貧富、有害な食品、政治的な陰謀、その他、考えつく限りの種類のあらゆる不幸が充満している。

だが、その反面、アメリカは非常に多くの善良さに満ちてもいる。
例えば、アメリカのネガティブな部分を多くの人が知っている理由は、それではいけないと考えたり、追求したり、研究したり、もっとマシなものにしようと行動したりしている人たちが、アメリカにたくさんいるからだ。それもまたアメリカだ。

例えば、ものすごく体によくない食品を開発しては庶民に食わせ続けているのもアメリカだし、エロコジカルなライフスタイルや新しいアウトドアスポーツなんかを次々と開発して暮らしをイノベーションするのもまたアメリカ。ステロイドを使いまくった奇妙な肉体を作りあげたがるのもアメリカなら、ストイック過ぎるほどの極端なベジタリアンを生みだすのもまたアメリカ。
第二次大戦の際に日系アメリカ人だけを財産をとりあげた上に収容所に強制的に閉じ込めてしまうのもアメリカなら、そういうことはよくないと主張するコロラド州知事ラルフ・ローレンス・カーのような人が現れるのもアメリカ。
マーティン・バーナルは欧米にはびこっている白人優位主義を根底から覆すような著作『黒いアテネ』を発表したが、彼のような研究者に研究の場を与えたのもまたアメリカだ。


ブログ主も、アメリカのネガティブな面を批判したりすることがある。だが、だからといってアメリカそのものを否定する気にはまったくならない。
なぜなら、多様性、多義性こそがアメリカだからだ。悪がはびこるゴッサムシティだけがアメリカではないし、また、「正義」だけがアメリカ」なのでもない。どんな国、どんな権威にも必ず、腐敗や、体によくない商品のひとつやふたつ、あるものだ。


こうした多様性の中で
アメリカのジャーナリズムは育てられてきた。


上に挙げたグラフィックは、実は、ネット検索で過去のLIFEの表紙を検索したページをスクリーンショットに撮っただけの画像だ。

何も手を加えていない。それでも
なぜか、ひとつの「アート」になっている。


なぜ「表紙を並べただけのモザイク」が「アート」になるのか、といえば、理由はハッキリしている。モザイクのパーツである表紙のひとつひとつがとても丁寧に作られ、「アート」として成立しているレベルにあるからだ。

もし1回1回の表紙を作るとき、手を抜いてどうでもいいものを作ってきていれば、長い年月を経過して全ての表紙を並べてみたとき、すぐにわかる。粗末な、汚いデザインは、すぐにわかる。


だが、LIFEはそうではない。

それはアートディレクターが素晴らしいから、ではない。そうではなく、LIFEの「姿勢」が終始素晴らしかったからだ。

この「自分の姿勢、フォームを、自分が理想と考えている形で長期にわたって保ち続ける」こと
これが、ジャーナリズムだ。


簡単なことではない。

よく、「ジャーナリズムは正義だ」と勘違いしている人がいる。
だが、正義なんてものは「立ち位置」によってコロコロ変わる。だから、正義に頼る者は弱い。足元がグラグラするものに頼って天狗になっているだけだから、やがて転んで泣きをみる。自分なりの「姿勢」がどこにも無い未熟者のくせに正義だけは好き、なんてのが、一番始末に悪い。


ジャーナリズムとは、「姿勢」だ。そして、
LIFEの表紙には「彼らの姿勢」が映しだされている。
だからこそ、LIFEは「押しも押されぬジャーナリズム」だったのだ。LIFEが正義だけを報道しようとしたからジャーナリズムだったわけではない。

アメリカにはLIFEがあった。この事実は、ただそれだけで、アメリカにおけるジャーナリズムという「姿勢」の存在を意味している。

damejima at 05:43

September 08, 2014

アメリカの人口分布

アメリカ国内のインターネットの普及度分布


上の図は、最初の図が「アメリカの人口分布」で、2つ目が「アメリカ国内の地域別インターネット普及度」だ。

なんとも見事に一致している。

MLBのようなプロスポーツが20世紀初頭にまず東海岸で発達し、徐々に西に普及を進めていった理由も、ひと目でわかる。アメリカという国の東西の環境の違いは、実はこの100年くらいの間、ほとんど変わっていないのだ。

人が多い場所、つまり、濃密な情報空間がある場所ほど、インターネットは普及する。


「そんなこと、わかりきってるだろ。いまさら何いってんのサ」と思うかもしれないが、ブログ主などはこうしてまざまざと視覚化されてみると、ちょっと考えさせられるものがある。

出典/図1:Infographics news: Mantras: Joe Lertola's maps
図2:以下のツイート



1980年代以降に「交通」という独特の概念を用いて人間の社会を語ろうと試みたのは、哲学者柄谷行人だが、当時の彼が語った「交通」が、今の「集積度の高い半導体のような機能をもつ巨大都市」や、「自分のスマートフォンの中に、自己と他人のコミュニケーション手段と、その結果であるメッセージやログをごっそり詰め込んだまま、毎日持ち歩いている都市住民たち」と、どの程度一致しているのかはともかく、少なくともいえるのは、インターネットの発達は、他のあらゆる商業要素と同じように、人口の集積とまったく切り離せない関係にあるということだ。

もっと平たくいえば、他のあらゆる商業要素と同じで、インターネットは商業原理にのっとって発達してきた、ということだ。ネットだけは例外、なんてことはない。

どこかの安易な発想でモノを語りたがるコンサルタントや大学教授さんが言うように、「田舎に都会ほどの情報量や店が豊富なわけではないが、今はネットがあるのだから、通販や、ネット上でのコミュニケーションを通じて、田舎に足りないものを補完して、都会に向けて情報発信すればよろしい。新しい時代の到来だ! イェイ!」などと、つい安易に思ってしまいがちだが、それは嘘だ。

現実世界では、「便利な場所はますます便利になり、不便な場所はますます不便になる」ように、とりあえずはできている。人間世界のエネルギーは、水の流れとは違って、常に「低いところから高いほうへ」流れ、田舎は、地理的条件とは無関係なはずのインターネット空間からすら、置き去りにされつつあるらしい。

都市住民にとってインターネットの価値は、いちいち他人に説明されなくたって、誰もが毎日の暮らしの中で理解している。
だが、では「老衰していく田舎にとって、インターネットが本当はどういう役割を果たすべきものなのか」という設問については、誰か本気で答えを出してくれているのだろうか。ちょっと心配になってしまう。



日本の場合、単純なたとえ話で申し訳ないが、(それがマクドナルド社自身の企業戦略として正解かどうかは別にして)都会のマクドナルドはコンセントだらけなのに、田舎のマクドナルドではコンセントが見つからない。このことに「田舎のネット環境の劣悪さ」が象徴されている気がしてならないのだが、どうだろう。

思うに、田舎はまず、充電フリー環境を充実させる意味で、まずは地元のマクドナルドに(もちろん地元のカフェでもいい)コンセントを果てしなく増設してもらう(あるいはコンセントを開放してもらう)ことから始めてみてはどうかと、真剣に思う。
人口を増やすなんてことは簡単には実現できない。だが、コンセントを増やすくらいのことは手軽に実現できる。

この「充電フリーの場所が常に身近にあること」は、フリーWifiなどと並んで、ネットの発達にとっては案外重要なことだ。もしブログ主が地方の市長かなにかだったら、コンセント大増設で増えるマクドナルドの電気代くらい、税金から補助してやるんだが(笑)

コンセントに、もっと自由を
by damejima




damejima at 15:23

September 04, 2014

急を要することだからブログ上で言わせてもらう。


朝日新聞が、彼らの従軍慰安婦に対する批判姿勢の根拠のひとつとなっていた過去記事が実は無根拠なものだったことを認めたことで傷のついた自分の体面、体裁をとりつくろうために、「黒塗り」、あるいは、「掲載拒否」という間違った手法で、他人の意見を公(おおやけ)の場所で封殺してみせた。
この、「黒塗り」などという思慮に欠けた行為を、そんなことをやりそうにないと「思われて」いた朝日新聞が、誰よりも先に、先頭切ってやってのけたことの意味の重さは、けして軽くない。

安易なヒューマニズムにすがって生きのびてきた朝日新聞のようなメディアは、この事件で、「今後誰かの意見が『黒塗り』される道に通じるドアを、自らの手で開けたこと」に気づいていない。
彼らは、自分たちが今の今、やってのけた間違った行為こそが、「自由というものの死」、「ジャーナリズムとしての死」であることに、彼ら自身が気づいていないし、気づこうとしていない。


朝日新聞が、自社の体面をとりつくろうことに必死なあまりに、「黒塗り」「掲載拒否」などという間違った行為でジャーナリズムとしての矜持を自ら放棄することは、他のジャーナリズムにも自由と権利の上での損害を与える行為であり、それどころか、日本における言論の自由そのものに「消えない傷」をつけたのであって、許されることはない。


朝日新聞は、「黒塗りという行為が公然と行われる可能性を、メディアとして自らの手で開いたこと」、「他人の言論を封殺する悪質行為が公然と行われることに、格好の口実を与えたこと」について、公式に謝罪すべきである。それができなければ、彼らの元から弱々しいジャーナリズムは、これで終わりだ。

damejima at 08:07

August 05, 2014

日本の「空き家率」の推移
7月末に、日本中で空き家が増えているというニュースを見た。

総務省が7月末に発表した「2013年住宅・土地統計調査(速報)」によると、全国の空き家数は前回調査(2008年)に比べて8.3%(63万戸)増えて820万戸となり、空き家率は前回より0.4ポイント上昇して、過去最高の13.5%となった。

総住宅数は前回比5.3%(305万戸)増の6,063万戸。別荘などの2次的住宅数は41万戸で、2次的住宅を除いた空き家率は12.8%だった。

ついこのあいだ漁港の鮨が旨くないという話を書いたばかりだが、ついでに、「都市と地方」という意味で繋がりのあるこのニュースについても、「読み方」の間違いを指摘してみたいと思う。
2014年7月14日、なぜ「漁港にある寿司屋なら間違いなく旨い、とは言えない」のか、そして、なぜ「地方の若者が都会で寿司屋や野球選手になる」のかについて。 | Damejima's HARDBALL

こういう記事と数字を目にすると、自分で自分の脳を使わない人は、すぐに「日本中で空き家が急増している」だのなんだのと勝手に思い込み、情緒的な安っぽいヒューマニズムを発揮しようとしてしまう。
だが、記事をよく読んで、自分のアタマで考えてみればわかることだが、実際には、この記事は「都市でも地方でも日本全体で空き家が増えている」とまでは言ってない。「空き家が増えている特定の場所」があるのである。

誰も彼もこのニュースの読み方を間違っている。原因はおそらく「行間をちゃんと読みこむという日本らしい文化」が、いまや本当に衰退しつつあるからだ。

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東日本大震災の直後、「電気が足りないのだから、野球のナイターはやめろ」などとヒステリックに叫んだ短絡的なヒューマニズム馬鹿が数多くいた。
だから、こういうニュースについても、すぐに「空き家が増えるのはよろしくない」から対策を進めろだの、「空き家に入居する人への家賃補助制度を創設しろ」だの、「長期に空き家になっている家を取り壊すための条例や予算を制定しよう」だの、「空き家をできるだけ埋める運動をしよう」だの、ピントの外れたことばかり言い出す人が雨後のタケノコのように現れる。
だが、そのどれもこれもが、このニュースの本質を読み違えた、場当たりでスジ違いな意見ばかりで、まったく日本らしい「文字読み文化」はどこにいってしまったのだ、と言いたくなる。

ピント外れな新聞記事の一例:空き家対策 国と地方で本腰入れよ | 社説 | コラム・連載・特集 | 中国新聞アルファ


いいだろうか。

何よりも先にまず気づくべき点は、単純に
人の住んでいた家が、なぜ簡単に『空き家化』してしまうのか?」という点だ。


仮に、ある家に高齢の居住者Aさんが住んでいるとしよう。

たとえ居住者Aさんが亡くなったとしても、Aさん家族が同居している場合なら、家は相続人である家族に引き継がれる。だから、家がやすやすと『空き家化』することはありえない。(田畑の場合でも、それが相続人の誰かに引き継がれるなら『空き家』にはならない)

なんとも当たり前の話をしているように聞こえるかもしれない。だが、安易に空き家を論じてばかりいる人の視野には、この「家族が同居していない独居の持ち家だからこそ、主(あるじ)を失ったとき、家が『空き家化』していくのだ」という最も基本的な視点がポッカリと抜け落ちている。


アタマは生きている間に使わなければ意味がない。
次に、「同居していない家族」とは、いったい誰のことで、そして彼らはどこに住んでいるのかを考えるべきだ。

「同居していない家族」とは、当然ながらその大半は家の所有者Aさんの「息子B」や「娘C」を意味する。彼らは、その家で育った時期があったにせよ、今となっては親と同居してはいない。

なぜか。

答えは簡単。
田舎から都会に移住したからだ。

彼らが次男、次女であれば、都市部に住みたがる傾向はかなり強いだろうし、少子化社会の昨今なら、子供は1人か、多くても2人しかいないわけだから、たとえ長男・長女であろうと田舎を出て都会に住みたがる。


さて、さらに想像を逞しくしていかなくてはならない。
それは、老いた所有者Aさんが亡くなったとき、その「家」は誰のものになるかという点だ。

もちろん、息子Bや娘CはAさんの家のすべて、または一部を相続する。だが、相続はするのだが、「都会に移動した田舎人」であるBやCが、その田舎の家に住むことは、もはやない

これが、『空き家化シナリオ』の大筋だ。
(実は、日本の田舎から本気の農家と田畑が実は消滅しつつあることや、地方の一般家庭が片手間で家庭菜園をやっている半端な農家みたいな家ばかりになってきている理由、田舎に住んでいるのにどういうわけか不労所得で食っている人間が急増している理由なども、大半がこれで説明がつく)


やがて空き家は放置される。もしくは、親の住んでいた空き家を壊してアパートに建て替えたり、相続した休耕田や畑にアパートを新築したりする息子、娘たちもいることだろう。

ここで気づくべき大事な点は、相続された家(あるいは田畑)の所有権、あるいは、その土地に建てたアパート等の家賃収入が、「どこに住む、誰のふところに入るのか」という点だ。

もうおわかりだろう。

家の所有権にせよ、アパートの家賃収入にせよ、それらはすべて、都市あるいはその周辺に住む「相続者のふところ」にころがりこむのであって、さらにいえば、それらはやがて「都市に住む地方出身住民の不労所得」になっていく。
説明するまでもないだろうが、もはや住む人のいない「空き家」、耕す人のいない「草ぼうぼうの田畑」は、実は地方自治体にとって「その土地には無縁の、異物のような存在」になっているのである。(そしてもちろん、その土地と、相続人BやCとの「縁」も切れている)

どうだろう。
かつて田舎町に存在していた「家」という資産が、時間の経過とともに、都会に移り住んだ子孫たちの「不労所得」に化けていくこと、そしてその一方、田舎の家屋や田畑が「空き家化」していく仕組み、地方自治体の税収が減退し、衰退し続けていく図式が少しはアタマに思い浮んだだろうか。

言い方を変えるなら、「田舎の空き家化した家屋や、草のはえまくった田畑や空き地」は、実はもう「田舎の一部」ではなくなることが多いのである。
それらは、もはや「都会に住むことを選択した田舎出身の相続人が、遠く離れた場所で所有する遊休資産のひとつ」にすぎない。いうまでもないことだが、たとえ相続人がそこに小洒落たアパートを建てて家賃収入を得たとしても、その税収は地方自治体ではなく、都会の自治体の財布におさまることになる。
だから、地方自治体がそうした根も葉もない遊休資産をいくら大事にする制度を作ったとしても、その結果、地方自治体の税収が増えたり、地方文化が栄えたりすることはない。

こうした「田舎を、都会に住む相続人がリモートコントロールしているような、とてつもなく形骸化した田舎システム」のもとで、「形骸化した田舎」は健全に機能しているわけはない。

いま、人の目に見えているもの、
それは実は、もはや「田舎」ではないのだ。
ただの「田舎のぬけがら」だ。


こうした「空き家化シナリオ」が推論として正しい証拠として、最初に挙げた総務省の空き家調査において、東京・神奈川・埼玉の3都道府県が「空き家率が著しく低い県」に属していることを挙げておきたい。
つまり相対的にいえば、大都市周辺で空き家はそれほど増加などしていないのである。

こうした「田舎のぬけがら化現象」をしっかりアタマに入れた上で、あらためて、空き家に入居した人に家賃補助をしよう、なんていう話を考えてもらいたい。
それは、ただでさえ四苦八苦しつつある地方自治体の税収の一部を、都会に住む相続人にくれてやり、彼らの納税行為を通じて都市の税収を増やすような、チグハグな結果にしかならないことが容易にわかるだろう。
その他の空き家対策を進めよう、なんて話にしたところで、多かれ少なかれ、この複雑な問題の本質をはき違えたまま論じているに過ぎない。


今日のニュースで、朝日新聞がかつての慰安婦問題とやらで犯したミスの一部(というか、事実の捏造)を認めたという話があったばかりだが、汚職がバレかけて東京都知事を辞職した元ジャーナリストの猪瀬直樹のだらしなさといい、安易なヒューマニズムのくだらなさには本当に辟易させられる。

安易なヒューマニズムが、どれだけこの国の「文字を読む文化」をダメにしてきたことか。

新聞に限らず、出版にしても、大学などにしても、自分たちのヒューマニズムこそが日本の精神文化を保護・育成してきたとか勘違いしている人はは多い。
もし情緒的で安易なヒューマニズムをふりかざすことがジャーナリズムであり、さらには日本の文字文化の根幹だというなら、詩人などにしたって、みんながみんな習字をやって「人はそれぞれ大切だ、人生いろいろある。がんばろう」だのなんだの、安易に書きなぐっていさえいれば、人から詩人と呼んでもらえることになる。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
そんな安易なヒューマニズムをふりかざすだけしか取り柄が無い詩人の、どこが詩人か。


「文字という文化」はそんななまぬるいもんじゃない。
ほんと、舐めるのもいい加減にしてもらいたい。

damejima at 21:33

July 15, 2014

食材の鮮度さえよければ、あとは何もしなくても、旨いよ。
てなことを言う人が、たまにいる。

エコロジー話題満載の前向きすぎるブログを全くつまらないと感じるのと同じくらい、どうもああいう言葉が好きになれない。なぜなんだろう。



鮮度が重要に思える寿司(鮨あるいは鮓)の場合でも、「鮮度が命」という法則はけしてあてはまらない。もしそれが本当なら、「漁港で食う寿司」はもっと旨くなければおかしいし、いつまでたっても「銀座が日本一」なんて時代が続くわけはない。

スティーブ・ジョブズが東京・銀座の超有名店、すきやばし次郎を贔屓にしていたことは彼の有名なエピソードのひとつだが、銀座にヒラメやアナゴが泳いでいるわけではない。なのに、銀座では「うまい鮨」が食える。「魚がとれる場所に近ければ近いほど、うまい寿司屋がある」わけではないのだ。

歴史的な視点だけでいえば、「寿司という食い物はもともと『都市文化』であり、海から遠くて新鮮な魚が手に入りにくい江戸時代の都市で生まれたから」などと説明すれば、話のほとんどは済んでしまう。鮮度保持の技術がなかった時代に魚介類をおいしく食べようと思ったことから、酢や昆布で締めるとか、醤油に漬けたり、煮たりする各種の調理技術が開発されたわけだ。

もっと短く言えば、
寿司を食うという行為は、主に
技術を味わっている」のだ。


しかし、いまでは冷凍・冷蔵技術が発達している。ならば、いつでもどこでも新鮮な魚が手に入るようになったはずだから、日本中どこでも「職人の技術すら凌駕する、鮮度の高さで勝負できる旨い寿司」が食えるようになったはずだ。
だが、江戸文化に端を発した寿司の銀座中心主義がおちぶれて、より海に近い場所でこそ、旨い寿司が食えるような時代が来たかというと、そんなことはない。
かえって鮮度抜群の魚が手に入るはずの海岸地方や漁港の寿司がダメな場合が(自分の経験では)あいかわらず多い。(ただし全ての漁港を回ったわけではないので(笑)、正確にはわからない)


この「漁港の寿司が案外ダメなことが多い理由」は、なんだろう。

ひとつには、「漁港の寿司のちょっとした不味さが、鮮度とは無関係」だからだ、という気がする。
たとえば、酢を合わせてもいない「ゴハンのままのゴハン」を大量に手にとって、ぎゅうううううっとチカラいっぱい、それこそ握り締めるように握って、その上に鮮度抜群の魚の切り身をのっけると、それは「旨い寿司」になるか。もちろん、ならない。
また、海岸で釣りをして、その魚をその場で捌いて食うような食べ方をすれば、それが一番うまい魚の食い方か、というと、そうでもない。肉でも魚でもタンパク質が適度に分解された「食べごろ」というやつがあるから、生簀(いけす)のある店で板前さんが目の前で捌いたばかりの魚の切り身で作った寿司が、世の中で一番うまい寿司になるわけではない。


同じように「地産地消」なんていう言葉もあるけれど、これも昔はもっともな言葉だと思っていたが、今は信用していない。

なぜって、よく地産地消をウリにした地方のレストラン、なんてものもあるわけだが、それはたいていの場合「東京などの有名店で修業した人が、わざわざ田舎に作った店」であることがほとんどだからだ。つまり、詳しく表記するなら、「地方の鮮度のいい魚や野菜を出す、地方発の店」があるわけではなくて、「産地の鮮度のいい食材を調理する腕を持った『都会帰りの調理人』が、たまたま田舎で出している店」なのだ。


これは自分勝手な言い分ではあるが、もし「漁港の寿司屋に足りないもの」が、『鮮度以外の何か』とか、『技術』なのだとしたら、それがハッキリ自覚できないと『地方の、それも、鮮度とイキのいい若い人が都会に出ていくのを止められるわけはない』などと思ったりする。

『鮮度』というやつは、ほおっておくと価値が落ちるばかりだ。だから、てっとりばやくカネに変えるには、そっくりそのまま都会に出荷するしかない。しかし、鮮度のいい魚を安い価格で都会に発送し続けているような昔の漁協的発想だけでは、地方の寿司屋は旨くはならない気がする。また、旨くもない漁港の寿司にリピーターはつかない。

鮮度のいい農産物や魚介類を『魅力ある商品』に変えてくれる魔法みたいな意味の「技術」が「多くの場合、都会だけにある」ものだとしたら、そりゃ、そういうものを学ぼうとする若い情熱の流出を止められるわけはない。
都会で寿司屋になった地方の若者だって、聞いてみたら「できたら生まれ育った場所で腕のいい寿司屋になりたかった」と思っているかもしれない。だが残念なことに、漁港には鮮度のいい魚はあっても、それを素晴らしい商品にかえる『技術』がないことが多い。材木は何をしなくても、いつのまにか素晴らしい家具になっているわけではないのだ。


どういうわけか知らないが都会の寿司屋というやつは、多少味がまずくてもなかなか潰れなかったりするわけだが、他方、これもどうしたものかわからないが、もっと旨くなる余地があるはずの地方の漁港の寿司屋も、なかなか旨くはならない。なぜなんだろう。

にもかかわらず、自分のこれまでの発想を捨てることもせず、これまで築いてきたポジションや利権を捨てることも、他人に分け与えることもせず、ただただ「地方の若い人が都会に出ていくのを止めなければ」なんてことばかり考えている地方のオトナは、あいかわらず減ることがない。
地方のオトナたちは「地方にだって、いくらでも旨いものや楽しみがあるっていうのに、なぜここらへんの若い人たちは都会にばかり出て行きたがるのだろう?」なんて的外れなことを、毎日考えていたりする。


そうそう。

優秀なプレーヤーほどMLBに行くのをああだこうだ言う人がいなくならないのにも、似たところがある。そういう発想の人に限って、「日本野球に、本当は何が足りていないのか」を、あまり真剣に考えようとしてない。

damejima at 15:38

June 24, 2014

いまでも、よせばいいのに初めて買ったフェンダーのピックを持っている。よくある、どこにでもある茶色のピックだ。

Fender Medium


ロックを知った子供にとっては、ギターでもベースでも、アンプでもいいが、「フェンダーを手に入れること」は憧れのひとつになるわけだが、すぐに手に入れられる金額でもない高価な楽器だけに、最初どうするかというと、「フェンダーのピック」を買ってお茶を濁すわけだ(笑)(それでもまぁ、本人は「ほぉ・・・これがフェンダーかぁ・・・」などと、しげしげとピックを眺めてしまうわけだが 笑)

そのうちプレーがだんだんうまくなってくる。
すると、たいていの場合、仲間の中に実際にフェンダーのギターなんかを買うヤツが出てくる。

すると、長い目でみると(ブログ主のまわりだけかもしれないが)どういうわけか不思議なことに、仲間うちで、誰よりも早くフェンダーの楽器を買ったヤツに限って、のちのち自主制作CDなんかを出したり、さらにはプロミュージシャンになったりするという現象が生まれてくる。

もちろん、フェンダーの楽器を買いさえすれば誰でもプロになれる、という意味ではない(笑)だが、それにしたって、誰よりも早くピックでなくフェンダーを実際に買うところまで行けた人間のほうが、それだけ「プロになる確率が高い」という側面がある。誰だって、ピカソになる前に、油絵の道具を買うべきなのだ。
たくさんの子供たちが音楽に手を出す。だが、ほとんどの子供はフェンダーを買うほど音楽にのめりこまないし、そこまでプレーも上手くならない。


こうした「フェンダーのピックを買う大勢の子供たちの中に、フェンダーのギターを買う子供が出現し、そうした子供の中からプロミュージシャンにまでなる若者がうまれる現象」があることを思うと、「フェンダー社がピックを売ること」は、高価な商品を販売するフェンダー社の長期的な販売戦略にとって、最大のプロモーション戦術のひとつになっているといえる。


これをベースボールで考えると、どの行為、どのプロモーションが、この「フェンダーのピックを買った子供たちの中から、のちのちプロが出現する現象」にあたるか。

やはり、つまるところ
球場で野球を見ること
これに尽きる気がする。

つまり、球場で実際の野球を見て衝撃を受けたり、興味をひかれた子供たちの中から、価格の高い本物の硬式野球のグローブを手に入れたいと思う子供が出てきて、その「本物のグローブ、本物のボールで練習した子供たち」の中から、「プロをめざす子供」が出てきて、さらに「プロになる子供」が出てくるという図式だ。
そして、この図式においてもフェンダーのギターと同じで、「他の子供より早く、ちゃんとした本物のグローブを使って練習した子供の中からこそ、プロになれる子供が出現する」という現象がある気がする。(実際MLBでも、メジャーリーガーの父親がプレーヤーとか大学のコーチだったり、野球の熱狂的なファンだったりすることは、よくある)


ベースボールカードを集めたり、パソコンやゲーム機で野球ゲームをやることもまったく否定しないし、たいへんいいことだとは思うが、やはり、球場でナマのゲームを見てもらうことの大事さは、野球というスポーツの発展を考えるとき、やはり他と比較にならないほど大事なことだと思う。

damejima at 10:29

January 21, 2014





身近にある100円ショップで買った安っぽいプラスチックを捨て、同じ機能をもった木製の道具にかえてみる。それだって、ひとつのWood & Seaだ。

森にも、海にも水がある。それが日本という場所。
Wood & Sea, I Love Japan.

damejima at 14:08

November 05, 2013

先日、国立霞ヶ丘陸上競技場(通称:国立競技場)の建て替えについての記事を書いたわけだが、ちょっと気になることがあって、追加でこの記事を書くことにした。

というのは、あの記事をさらっと読まれてしまうと、まるで「建て替え費用は、東京都が想定しているような『8万人規模で1500億円』なんて予算規模では、いいスタジアムなんてできない。世界に誇れる8万人規模のスタジアムを作るべきだから、文部省がとりあえず試算した『3000億円』かかるかどうかはともかく、1500億円以上は絶対にかけて事業を進めるべきだ」、などと読まれかねないと思ったからだ。
Damejima's HARDBALL:2013年10月29日、国立霞ヶ丘陸上競技場は、「同じ場所で建て替える」などという二番煎じのお茶をさらに温め直すような発想を止め、違う場所に新設すべき。


そもそも、東京都のいう「8万人収容、1500億円」という数字がどこから湧いて出てきたのか、推定してみると、たぶん以下のようなデータがあることからして、「世界一カネがかかったMetLife Stadiumが費用1600億円・8万人収容だから、東京でもそれくらいの費用でできるだろう」程度の大雑把な推論が話の出発点に違いない。

まずは、今の時点で、「世界で最もカネのかかったスタジアム」のベスト5を見てもらいたい。(以下「B=billion=10億」。例:US$1.6B=16億ドル≒約1600億円)

1位 MetLife Stadium
   US$1.6 B (ニュージャージー・NFL)
2位 新ヤンキースタジアム
   US$1.5 B (ニューヨーク・野球)
--------------------------------------------
   Olympic Stadium(モントリオール・多目的)
   AT&T Stadium(テキサス・NFL)
   Wembley Stadium(ロンドン・サッカー場)
3位〜5位のスタジアムの建設費は、1.25〜1.4 billion


上位2つのスタジアムの順位は、どの資料をみても変わらない。だが、3位以下のスタジアムの順位は資料によって変動する。カナダ、アメリカ、イギリスと、それぞれが異なる国のスタジアムで、差が小さく、為替レートによっても順位が変動するレベルだから、ここは細かいことなど気にせず、「3位タイが3つあって、ドングリの背比べだ」とでも思っておけばいいだろう。
「建設費」だが、これは、初期費用は変わらないにしても、Olympic Stadiumがそうであるように、追加改修が必要になると完成後にも膨れ上がっていったりする。また「収容人員」については、どんなスポーツを開催するかによって大きく異なる。野球と比べ、サッカーやアメリカン・フットボールの開催は、フィールドに臨時のシートを増設することもできるため、より多くの観客をスタジアムに収容できる。
上記5つのスタジアムは、それぞれの主な使用目的が違う(NFL、野球、サッカー)。そのため収容能力を横一列で単純比較することは難しい。
AT&Tというと、MLBファンはどうしてもサンフランシスコのAT&T Parkを思い浮かべてしまうわけだが、ここではかつてCowboys Stadiumと呼ばれていたテキサスのNFLのスタジアムをさす。

収容人員数
1位 MetLife Stadium 82,566人(NFL)
2位 新ヤンキースタジアム 約5万人(MLB)
   Olympic Stadium 66,308人(NFL)
   AT&T Stadium 10万5千人(NFL)
   Wembley Stadium 86,000人(サッカー)


USドルでの比較(2011年12月付):The 5 Most Expensive Stadiums In The World

USドルでの比較(2011年10月付)11 Most Expensive Stadiums In The World

ユーロでの比較:世界のスタジアム建設費TOP10 |FootballGEIST


「8万人収容・1500億円」の意味

論点1)競技によって大きく異なる
    「8万人収容スタジアム」の「規模」


日本の新聞メディアは国立霞ヶ丘陸上競技場の建て替えについて、「どういう意味の『8万人』なのか?」を全く定義することなく、ダラダラ、ダラダラ報道を垂れ流しているから、まるで議論にならない。
上でも書いたことだが、ひとくちに「8万人収容」といっても、「陸上競技の観客8万人」、「野球の8万人」、「サッカーの8万人」、「アメリカン・フットボールの8万人」では、それぞれに必要な土地面積、スタジアムの規模、かかる維持費の全てが、まるっきり違ってくる。

「陸上競技の8万人規模のスタジアム」というと、野球以上に広大な「敷地」が必要になる。だが、年間通しての集客など期待できるはずがない陸上競技では、8万人なんていうモンスター・スタジアムを作るなんてことは、まさに自殺行為でしかない。
サッカーというスポーツについては、テレビ中継画面の広角なアングルの「イメージ」のせいで、「広大なグラウンドを走り回ってプレーするスポーツである」だのと思いこんでいる人はやたら多いことだろうが、実際には、サッカー場の面積なんてものは、たとえピッチ外のスペースを含めたとしても、野球のフィールド面積のせいぜい半分程度にしかならない。アメリカン・フットボールはさらに狭い。
だから例えば、野球場のインフィールドに臨時の席を設営することを想定する場合、野球の開催で「6万人」くらいの収容規模のスタジアムは、アメリカン・フットボールでなら「8万人収容」くらいの規模のスタジアムであることを意味する。


もし東京都が、国立霞ヶ丘陸上競技場の建て替えで想定している「規模」が、「8万人の観客を、それも『常設席』に収容できる、陸上競技場」なんてものだとしたら、そんなスタジアムは「とてつもなくデカいモンスターになる」に決まっているし、そして当然ながら、「モンスターの建設には、とてつもない費用がかかる」。(というか、たぶんあのデザインを設計した人間は、「そもそもスポーツ観戦とか、スタジアムというものを理解してない人間」だ)

だが、上のスタジアム・ランキングでわかる通り、そんな「とてつもなく馬鹿デカいスタジアム」など、世界の(というか、アメリカの)どんな採算のとれているプロスポーツで探しても、どんなスポーツ先進国で探しても、「ない」し、「ありえない」
そして、そういう「ありえないもの」を現実に作ろうとすれば、間違いなく「世界で最も建設費のかかったスタジアム」になり、さらに同時に、「世界で最も維持していけない陸上競技場」になるだろう。

イメージしておかなくてはならないのは、「野球よりはるかに狭いフィールドでプレーしているスポーツ」であるサッカーやアメリカン・フットボールを前提に考える「8万人収容のスタジアム」のイメージというのは、「野球でいうなら、6万人収容程度の大きさ」だ、ということだ。
例えば、8万人以上収容できるMetLife Stadiumは、世界で最もカネのかかったスタジアムで、建設費はおよそ「1600億円」もかかっっているわけだが、このスタジアムはそもそも「アメリカン・フットボール用」なのだから、野球場に換算するなら、「6万人収容の野球場」程度の大きさという意味でしかない。
「6万人収容の野球場」というと、野球場として大きいのは確かだが、想像を絶するほど大きさではないし、モンスターでもない。そして、そんな程度の大きさでも、建設には1600億円もかかったのだ。

もしこれが、「8万人を常設の席に収容できる陸上競技場」なんてものになったらどうなるか、想像できるはずだ。巨大なモンスター級スタジアムの建設の費用は、1500億とか1600億とかで収まるわけがない。そんなものを、1年にたった数週間しか使わないマイナーなプロスポーツだの、アマチュア競技のための常設施設だのとして作れば、どうなるか、わかりそうなものだ。
既に何度も書いていることだが、日本では「野球以外の競技」で、「6万人を超える規模のスタジアム」を作れば、間違いなく採算のとれない無用の長物になる。いうまでもない。

ここらへんの「スケール感」をきちんとアタマに入れた話をしていかないと、ウワモノの建設費が巨大になるくらいでは済まない。取得すべき土地の面積も、更地にする費用も、ランニングの経費も、人件費も、ありとあらゆる費用が膨大なものになることは、ここまでの話でおわかりいただけただろう。
東京都は既に国立霞ヶ丘陸上競技場周辺の立ち退きが予想される住民にある程度の説明を行ないつつあるようだが、そもそも彼らの想定する建て替えに必要な土地面積のイメージは、ぶっちゃけ「とんでもなくデカすぎる」ものだ。


論点2)MLBのスタジアムで、建設費が10億USドルを越えているのは、実は「新ヤンキースタジアムだけ」

MLBスタジアムの建設費ランキング

上で「収容人数」について書いたことでわかるのは、国立霞ヶ丘陸上競技場の建て替えが、もし「8万人を常設席に収容できるモンスター級の陸上競技場をつくる」という意味であるなら、「1500億でできるわけがない」ということ、さらにそういう「モンスター級の陸上競技場など、日本には必要ないし、仮に作ったとしても、到底維持できない」というようなことだ。

さらに、MLBのボールパークの建設費ランキングを見てもらえばわかると思うが、「5万人収容くらいで、屋根が開閉式のドーム球場を作る費用は、少なくとも近年のアメリカでは、1000億以上かかることは、滅多にない」。そして、「場所にもよるが、500億円ちょっとでも十分作れる」。(資料:MLB Ballparks - Construction Cost Rankings
新ヤンキースタジアムは世界第2位の約1500億円もかかった金満スタジアムだが、これはカネがかかりすぎというものであって、MLBで2番目にカネのかかった、同じニューヨークのシティ・フィールドは、前身のシェイ・スタジアムの駐車場に作ったせいか、わずか900億円しかかかっていない。(もちろん、900億でも、MLBのボールパークの建設費としては超高額だが)
そして、他の球場は、開閉式ドームのセーフコ・フィールドなども含めて、ほとんど全てのボールパークが、わずか「600億円以下」で建設されているのである。


上で書いたように、「6万人を収容できる巨大野球場」は、サッカーやアメリカン・フットボールでいえば、「8万人を収容できる巨大スタジアム」を意味する。
もし日本に「8万人収容で、屋根が開閉式のスタジアム」を新たに作るとしても、それが「8万人を、しかも常設席で収容できる、世界に前例のないモンスター級の陸上競技場」などという、わけのわからない無謀な話ではなくて、「6万人収容できるかなり大きな野球場、とでもいうような規模イメージのスタジアム」である限りは、「3000億円」どころか、「1500億円」もかけずに建設可能なはずだ。(もちろん、前に書いたように、同じ場所で建て替えようとするから、余計に費用がかさむということはある。だからこそ、同じ場所でなく、場所を変えるべきだ、というのである)


話が長くなった。
東京都が「8万人収容で、1500億円」と言っている「スタジアムの想定」が、結局のところ、いったい、どこの、何を、「模範」としてイメージされたかといえば、いうまでもなく、「1600億円という世界一のコストをかけて建設され、8万人以上を収容できるアメリカのMetLife Stadiumのレベル、つまり、世界トップレベルのスタジアムを、わが東京にも作るんだべ」程度のアバウトさ、ないしは、「世界一のMetLife Stadiumが1600億でできたんだから、オラも1500億くらいかけりゃ、東京にも、つくれるだろ」程度のアバウトさから発言されているに過ぎないであろうことは、ここまで長々と書いてきたことでわかってもらえると思う。

だが、彼らは、自分たちが企画書で目にして飛びついた「1600億かけて建設された、8万人収容の、世界でいちばんカネのかかったスタジアム」というのが、そもそも競技スペースが狭くて済む「アメリカン・フットボール場」であって、「陸上競技場ではない」ということを、たぶんわかってない。
もし、わけのわからない人間たちが、わけもわからず「8万人を、常設席で収容可能な、モンスタークラスの陸上競技場」なんてものを想定しているのだとしたら、国立霞ヶ丘陸上競技場は、ただでさえサブトラックの再整備が必要で、さらに、現にある陸上競技場を更地に戻す費用もかかり、既存の周辺住民を立ち退かせる費用など、さまざまな経費もかかった上に、さらに本題の広大な面積の土地を収用し、地上70メートルにも達する巨大なウワモノを、しかも「風致地区」に建設して、さらに膨大なレベルの維持費と人件費が何十年もかかり続けるのだから、「1500億円程度の費用」で建てられるわけがない。


「1500億でできますよ」だのというが
ほんと、「できもしないことを言うな」と、
猪瀬氏に言いたくなる。

damejima at 23:49

October 30, 2013

東京の2020年五輪開催が決まったのは非常にめでたいにしても、1964年の東京オリンピックで作られた国立競技場(=国立霞ヶ丘陸上競技場)の建て替えどうのこうのという話が、どうにもよろしくない。


オリンピック誘致の成功で「浮かれている人間たち」は、50年も前につくられた旧式の施設である国立霞ヶ丘陸上競技場の「立地の限界」と、神宮外苑という施設の本来の目的である「静かなる顕彰」の意味を根本的に理解していないまま、無理に無理を重ねて建て替えを進めようとしている。

現状の国立霞ヶ丘陸上競技場の「限界」を頭に入れていない東京都や猪瀬知事は建て替えに必要な金額を安易に考えているようだし、巨大な競技施設を「神宮外苑」に無理にでも建てたいから、風致地区が風致地区でなくなってもそれはそれでしかたないとのお考えのようだが、そもそも50年も前に建てられた国立霞ヶ丘陸上競技場の「手狭な立地」では、非常に多数のアスリートが参加するオリンピックでは、国際的な陸上競技場としては「失格」なのだ。
そして内苑である明治神宮を控えた「神宮外苑」という場所の本来の目的は「心静かに顕彰すること」なのであって、この旧式の競技場を無理にでも陸上競技場の国際規格にあうよう「拡張」しようと思えば、「現在の手狭な場所」では「もともと無理」なのだ
ということを、関係者は根本的に忘れている。

ブログ注:
ここでいう「国立競技場」とは、あくまで「通称」でいうところの「国立競技場」であって、具体的に正式名称でいうなら、「国立霞ヶ丘陸上競技場」単体のことを指している。

だが本来、正式な意味での「国立競技場」というのは、文部省の外郭団体である独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)が運営・管理する「国立霞ヶ丘陸上競技場」「国立代々木競技場」「国立西が丘サッカー場」の総称を意味するのであって、国立霞ヶ丘陸上競技場単体を指してはいない。

さらにいえば、「国立霞ヶ丘陸上競技場」という施設単体について考えるとき、この施設が抱えている「周辺施設の整備」という問題を甘く見てはいけない。
というのは、そもそも国立霞ヶ丘陸上競技場というのは、陸上競技施設としては、オリンピックのような国際競技を開催する施設としては「サブトラックが遠いうえに、狭すぎる」という重大な問題を抱えた劣悪な陸上競技場だからだ。
野球のスタジアムでも「外野のポールまでが100メートル以上」などといった国際規格があるわけだが、同じように「陸上競技場」にも国際規格があり、一流アスリートを世界中から集めた国際試合を開催できる第一種公認を受けるためには、さまざまな「条件」をクリアしていなければならない。
その国際規格のひとつが「ウォーミングアップのためのサブトラックの設置」だが、国立霞ヶ丘陸上競技場は、現在のところ、千駄ヶ谷駅前にある東京体育館の脇にある200mトラックをサブトラックとして使用するという「タテマエ」でギリギリ公認されてはいるものの、現実には、国立競技場から東京体育館まで距離がありすぎることに加え、そもそも200mの狭いトラックでは直線が短すぎて十分なウォーミングアップができず、また、200mトラックでは狭すぎて、数多くのアスリートが同時にウォーミングアップすることができないという重大な問題点を抱えている。
そのため、近年の日本の陸上競技界では、多くの国際競技が、この国立霞ヶ丘陸上競技場ではなく、他の施設、例えば神奈川県の横浜国際総合競技場(日産スタジアム)などで行われるようになってきている

つまり、東京都が考えているような「国立霞ヶ丘陸上競技場さえ建て替えれば、周囲の施設はそのままでも、オリンピックという国際競技は開催できる」というような考えは、実は「安易」かつ「甘い」のである。

したがって、文部省が想定する「国立競技場の建て替え」事業の意味するところが、「通称されている国立競技場」である国立霞ヶ丘陸上競技場のみの建て替えなど意味していないのは、むしろそちらのほうが当然なのであって、さすがに場所が北区で霞ヶ丘から離れている西が丘サッカー場の整備は含まないにしても、建て替えの「見積もり」の対象が、国立霞ヶ丘陸上競技場だけではなく、周辺施設の再整備を含む金額になるのは、むしろ当たり前のことなのだ。
対して、国立霞ヶ丘陸上競技場の直接の管轄者でもなんでもない東京都や猪瀬知事などは、単純に「国立競技場の建て替え=国立霞ヶ丘陸上競技場のみの建て替え」としか想定していないから、そもそも国立霞ヶ丘陸上競技場の「限界」を理解していない。

したがって、文部省が行った建設費見積もりが、「国立霞ヶ丘陸上競技場のみの建て替え」だけしか想定していないスポーツ素人集団の東京都の想定金額よりも大きくなるのは当然であり、むしろ見積もりが「周辺施設の整備」も含んだものになるべきであることを、スポーツ音痴の東京都もマスメディアも、最初からアタマに入れて議論・報道すべきだ。


大きな地図で見る

ちなみに神宮外苑は1926年完成で、東京では初の風致地区に指定され、これまで建築物の高さが「15m」に制限されるなどの法的規制によって、穏やかな景観が長年にわたって守られてきた。(ただ、「外苑」は元来、有志によって「寄贈」された施設であり、「内苑」である明治神宮が直接管轄する統合的な施設ではない)
だが、国立霞ヶ丘陸上競技場の建て替え完成時には高さが「70m」にも達するとみられたことから、東京都はなんと、2013年6月に神宮外苑エリアの建築における「高さ規制」を「15m」から一気に「75m」へ、5倍も緩和した
この場当たり的な「高さ規制緩和」でまず何が起きたかというと、すかさず周辺エリアで周囲の景観にそぐわない民間の「高層マンション」が建設されたのである。この高層マンションの「高さ」に反対する地元住民との間に摩擦が生まれたのは、いうまでもない。(ただ、おそらく、高層マンションの建設に反対した地元住民も、この高層マンション建設が可能になったそもそもの原因が「東京都が、国立霞ヶ丘陸上競技場の建て替えを可能にするため、建設物の高さ制限を大幅に緩和したことにあること」は、理解していないか、知らされてないのではないだろうか)


言いたいことを先に言えば、
現在の立地では、国際的な陸上競技場のための拡張と長期にわたる施設維持も、スポーツと顕彰の両立も、あらゆる点で無理なのだから、新・国立競技場は、「場所」自体を変えて再出発すべきだ
ということだ。
(それだけが建て替えの目的ではないが、別の場所に新築するなら、「顕彰」のための風致地区である神宮の森周辺の「建設物の高さ制限」を「75メートル」などという「とんでもない数字」にせずに済む。また、ここではあえて書かないが、「どうせ建てるなら、更地に戻すカネが少なくて済んで、人も集まりやすい、ここしかないでしょ」という「場所」のアイデアはもちろんある。さらには、現在の国立競技場の「跡地」、さらには外野が100メートルないことがわかった老朽化した神宮球場の「跡地」をどう再利用するかについても具体案はある)


明治維新の東京遷都でもわかることだが、「場所をかえる」とか、「場所を選ぶ」という、「場所」にまつわる行為は、時代が動いたときに求められる非常に大きな決断、「おおごと」、グランドデザインなのであって、それにくらべれば建築物の見た目のデザインなんてものは、些細なこと、トリビア、表層、小手先でしかない。
(そもそも「同じ場所に建て替える大規模公共建築物のデザインコンペ」なんてものは、その建て替え事業そのものが都市計画としてウェル・デザインされていない「ハンパな計画」と受け止めるべきであって、よくもまぁコンペに参加しようなんて気になるものだ。「場所自体も変えてしまいましょう!」と大胆に提案できてこそ、本気のデザイン、本気の都市計画というものだ。安藤忠雄には悪いが、やはり渋沢栄一のほうがはるかに天才だ)

イチローはかつてWBC監督が星野仙一に決まりかけたとき、「WBCは五輪のリベンジの場所ではない」とそれを退ける画期的発言をして、WBC日本代表は結果的にイチロー発言によって「人心の一新」に成功し、輝かしい連覇を果たすことになるわけだが、それに習っていわせてもらうなら、「2020年東京オリンピックは、1964年東京五輪の二番煎じをやる場所ではないし、二番煎じでは何の国益ももららさない」、と言いたい。
たとえ国立競技場が外観と規模を一新しようが、そんな建て替え程度のせせこましい変化では「老朽化したオフィスビルを取り壊して、建て替えるだけの行為」と何も変わらない。同じ場所で建て替えたのでは、本来オリンピックという国際的な大イベントで期待される経済効果や国益が、十二分な質と量で得られるとは到底思えない。

例えばもし、フジテレビがかつてあった曙橋の「フジテレビ下通り」で建て替えられただけだったなら、スカイツリーがかつての東京タワーと同じ場所で建て替えられただけだったなら、もっといえば、もし江戸時代が終わっても首都が京都のままだったなら、どうだったか、本当に人々が新鮮な驚きをもって新しい時代を受け入れたか、考えてみるといい。


そもそも問題なのは、
国立競技場がある今の「場所」に、何のパワーも無いことだ。

建設費が予定よりはるかに多いだの、収容人数が多すぎるだの、ドタバタ劇が当分続くらしいが、ブログ主に言わせれば、「パワーが無い「場所」に建った建造物が、老朽化したからといって、「高いカネをかけて更地にし、同じ場所に再び建て替える」などという二番煎じな発想の「陳腐さ」を指摘する声がないことのほうが、よほど理解できない。


2012年11月に行われた「第1回富士山マラソン」(旧名『河口湖日刊スポーツマラソン』)で起きた「不祥事」について書いた記事がある。
記事リンク:Damejima's HARDBALL:2013年1月27日、マラソンブームに便乗した、あまりにもずさんな「富士山マラソン」から、「日本の新しい景観美」に至る、長い道のり。

このマラソンは、参加ランナー総数1万数千人のうち、約3分の1にもあたる5000人もの数のランナーが、スタート予定時間にスタート地点にたどり着けなかった。もう、これは不祥事というより、「事件」といっていいレベルのマラソン大会だ。
読んでもらえばわかるが、この前代未聞の事件が起きた原因は、この件を報じた新聞記事や、大会に参加していない野次馬のブログによく書かれている「渋滞」などではない。(というか、このマラソン自体が新聞社主催だったからか、この事件を報じる記事の露出自体が抑えられまくっていた)
「モビリティの確保から宿泊可能な人数に至るまで、あらゆるキャパシティに限度があることが最初からわかりきっている田舎町の、それも山間部のマラソン」において、「モビリティに制約のある場所で開催しても無理がないマラソン大会の規模の限度」というものをまるで理解していない無謀きわまりない主催者が、開催してもさしつかえない大会の規模レベルを最初から根本的に読み間違えていたこと、にある。

つまり、身の丈にあわない大会の開催を強行した「第1回富士山マラソン」の大失敗は、このマラソンが行われた山間の湖という「場所」がもっている「キャパシティ」や「限界」を過信したところに始まっているわけだ。


パワーの無い場所に建設されている「国立競技場の建て替え」も、第1回富士山マラソンと同じ、「場所」にまつわる失敗を犯す可能性は相当高いと思う。


こう書くと、国立競技場周辺のことを何も知らない人から、「何を馬鹿なことを。国立競技場(実際には「国立霞ヶ丘陸上競技場」だが)は、サッカーの聖地で、大試合も数えきれないほど開催されているし、アイドルグループの大規模コンサートだって行われるような場所だ。収容能力、交通機関、どれをとっても何の問題もない。アホなこと言うな」などと、いいがかりをつけられるかもしれない(笑)


言わせてもらうと(笑)、そういう、3年に1回とか、1年に1回しか国立競技場周辺に行かないような人の意見なんてものは、何の役にも立たない。参考にすらならない。

もし、国立競技場周辺にスポーツ施設を作るだけで、その「ハコ」が満員にできるのなら、とっくにヤクルト・スワローズは超人気球団になっていなければおかしいし、神宮球場だってとっくに資金が集まって建て替えに成功していなければおかしいし、ラグビーが日本有数の人気スポーツになっていなければおかしいのである(笑)

でも、どれひとつとして実現できてない。

そもそも国立競技場自体がすんなり建て替えられていないのは、この「場所」が思ったほど集客できる場所ではなく、スポーツやコンサートで集めた人たちにしても、試合やコンサートの直後に去ってしまうような、そういう「受け皿となる施設がまったく無い、受け皿が育たない、そして、育てるつもりもまるで無い「場所」」だったからだ。だから、国立霞ヶ丘陸上競技場は、建設から50年もたってコンクリートがどこもかしこも老朽化しているのがわかりきっているのに、ほっとかれたままだったのである。もし2020年の五輪が他の都市に決まっていたら、間違いなく「無用の長物」になっていた。

加えて、国立霞ヶ丘陸上競技場は、上でも書いたように、サブトラックが「遠すぎる」うえに「狭すぎる」という、国際的な陸上競技施設としては致命的欠陥を抱えているのだから、東京都の考えているような国立霞ヶ丘陸上競技場だけを整備すればオリンピックが開催できるというような甘っちょろいものではなく、周辺施設の整備にもカネをかけないわけにはいかない「程度のよくない中古スタジアム」なのである。


マラソン大会は少なくとも「ハコモノ」ではない。
だから、「場所」の問題をそれほど考えなくてすむ。市街地の道路だろうが、河川敷の土手だろうが、高速道路の上だろうが、どこでもいいから、42.195kmという距離を走れる「道」さえ探してくれば、あとは地域活性化とかいうお決まりのお題目で書いた企画書で地域の有力者を説得し、タダで働いてくれるボランティアをかき集め、警察の協力を仰げば、なんとか低予算でも開催できる。
たとえその大会が、「第1回富士山マラソン」のように破滅的に失敗したとしても、少なくとも「無駄なハコモノ」は後に残さずに済む。


だが、国立競技場は「ハコモノ」だ。意味が違う。

都心に大金かけて「ハコ」を作るなら、その「ハコモノ」は本来、その「場所」のバリューを増やす義務があるわけだが、そもそもこの国立競技場の場合、いま建っている「場所」がいくら都心だからといっても、「場所のバリュー」があまりにも低いまま50年もの時が過ぎたことは、わかる人にはとうの昔にわかりきっている。

東京オリンピックは1964年のイベントなわけだが、それから約50年もの歳月がたって、千駄ヶ谷外苑前など、国立競技場の周辺の街は、後背地にあれだけの数のスポーツ施設群を抱えていたにもかかわらず、街として十二分に発展してきたか? スポーツの伝統が育ったか? 風致地区にふさわしい街になったか? スポーツに関係ない人でも憩うことのできる街になったか?
まぁ、これらの街の「日常」、それも「あまりに閑散とした、わびしい日常」を理解してない人は、一度行って、自分の目で見てきたらいい。ドーナツ化のこの時代、郊外のターミナル駅のほうがよほど発展しているし、中央分離帯やガードレール、並木などにしても、よほど郊外のほうが都市らしい整備が行き届いている。


国立競技場がもし今の場所で計画通り8万人規模の施設としてオープンしたとしても、採算などとれるはずはないし、また、5万人規模に規模を縮小したとしても、年間通じてみれば採算はとれない。スケジュールの大半が空っぽで、たまに運動会でもやるのが関の山のド田舎の陸上競技兼用サッカースタジアムと、まったく同じ酷い運命をたどることになる。
国家あげての大規模イベントだった1964年の東京オリンピックですら、国立競技場周辺の街は、結局は多くの人がつどい集まる街にはなれなかったわけで、そんな「パワーの無い場所」に、8万人収容規模(あるいは5万人規模)の「1年で通算しても、1か月も満員にならないのに、屋根を開閉式ドームにして、天然芝を養生するだけで莫大な経費がかかることがわかりきっているスタジアム」を建てれば、どうなるか、なんてことは、地方の身の丈に合わない陸上競技兼用のサッカースタジアムを見ていれば、子供でも想像がつく。


そう。
今の国立競技場がいまある「場所」は、ある意味「都会のド真ん中のド田舎」なのだ。そして「田舎」には、8万人もの規模の、近未来的とか自称する図体がでかいだけのデザインのスタジアムは必要ない。長期的にみて、維持なんてできっこないし、前のオリンピックから50年たっても発展できなかった街に、期待しても全く意味がない。

新しい国立の陸上競技場を建てるなら(そして、同じように老朽化した神宮球場を建て替えるなら)、もっと別の場所に、もっとパワーと集客力があって、なにより神宮としての歴史にふさわしい場所が、ちゃんと都心にある。

damejima at 10:00

May 25, 2013

あるウェブサイトで読んで、いつか何かの形で書こうと思って温めていた言葉がある。いい機会なので、勝手に引用させてもらうことにした。
勝手に引用しておいていうのもなんだが、引用元はあえて迷惑をかけたくないので、URLは晒さないし、言い回しも元の文章とできるだけ変えておくことにする。

アメリカ社会で暮らしてわかったのだが、日本人としては日常茶飯事な行為なだけに、気づかないで、ついついやってしまうことの中に、「アメリカ社会では嫌われる行為」が、いくつかある。
例えば、他人に対して同情すること、他人を凝視すること、他人になにか愚痴を話すこと、そして、意味もなく微笑むこと、などである。どれもこれも、日本ではよくあることだが、アメリカでは「相手を信じてない証拠」ととられてしまう。


いつも、この言葉を思い出すのは、ボコボコに打たれてベンチに帰ってきたときのピッチャー、あるいはチャンスに凡退してベンチに帰ってきたときのバッターをみるときだ。誰も、ケツや肩をたたいたり、声をかけたり、近寄ったり、そういうことをしない。誰も、なんのレスポンスもしないどころか、視線も合わさないのである。

それでいいのだ。
(シンパシーを持たないことと、それを見せないことは意味が違う)


骨折からようやくゲームに復帰したばかりのカーティス・グランダーソンが、またデッドボールを受けて骨折したわけだが、このことに同情を寄せる必要など、まったくない。

彼はそもそも、「ストレートだけを集中的に狙う」という戦略を徹底することで、アベレージ・ヒッターからホームランバッターに転身することに成功し、大型契約も得たわけだが、その戦略が対戦相手にバレて、インコース低めの変化球攻めにあうようになってから、まるで打てなくなり、ついには去年秋の優勝争いの最重要な時期にはスタメンさえ外されて、冴えない優勝を味わうハメになった。
Damejima's HARDBALL:2012年11月2日、2012オクトーバー・ブック 「スカウティング格差」が決め手だった2012ポストシーズン。グランダーソンをホームランバッターに押し上げた「極端なストレート狙い」が通用しなくなった理由。

その、キャリアの岐路にある彼が、今も最も狙いを絞っているであろう「インコースのストレート」を避けていては、仕事にならない。このことは、彼自身、よく理解している、と思う。


だからこそ、彼に同情なんて必要ない。
また、たぶん彼自身も望んでない。

彼が、デッドボールを食らうかもしれないインコースのストレートにさえ果敢に向かっていくことが、今の自分の「仕事」だと考えているとすれば、余計なクチを挟むべきじゃない。彼ならやれるし、やるだろう。だから余計なレスポンスなど、必要ない。


グランダーソンがどうやらライトで続けて起用される、つまり、イチローのベンチスタートが増える、という日に、グランダーソンが骨折したことで、わざわざイチローのところに「彼の骨折をどう思うか」なんて、聞かなければいいことを、わざわざ聞きにいって、さらにはそれを記事として流すなんてことをする日本のスポーツ新聞の記者は、ほんとにどうかしてる。
配慮のないことをするな、馬鹿、と言いたくなる。(もし質問されたイチローが「コメントはありません」と言ったとしても、たぶん日本人記者はありもしない想像をして悪意にとるだけで、同情などせず、そっけなくすることがアメリカっぽいマナーであることに、たぶん気づきもしないだろう)
アメリカ社会で、ポジションを争うライバル選手のデッドボールによる骨折について同情を示すようなコメントをニュースにする必要など、どこにもない。野球チームは老人の仲良しサークルではない。


これからもピッチャーがグランダーソンにインコース攻めをするのはわかりきっている。彼は今後も骨折するだろう。

しかし、それはグランダーソンの仕事の一部だ。
同情なんていらない。


ツイッターで、日本人はもっと強くなるべきだ、みたいなことをつぶやいたばかりだが、アメリカで負けないで、勝つってことを、もう一度きちんとととらえなおしていく、いい機会だと思うから、この記事を書いてみた。みんな、何事にも自信を持って、言いたいことを言って毎日を過ごしてもらいたいものだ。
もしイチローがチーム内での自分の扱いに不満があるなら、それを態度に現したり、トレードを望んだりしてもまったく構わないし、素知らぬ顔でいたければ、それでもいい。どちらでもいい。
だが、必要もないのにへりくだるのだけは、もう止めていいはずだ。


背すじを伸ばせ。そして
誰にはばかることなく、好きなようにバットを振れ。
なにもむつかしくない。




damejima at 13:20

March 16, 2013

なんでまた、WBCなんてものをやっているのか。
WBCの「大会としての開催意義」についてのコメントや意見は数限りなく見てきた。だが、なるほど、と思わせてくれるような、説得力のあるコメントには一度も出会ってこなかった。


だが、嬉しいことに、初めて「なるほど」と簡潔に説明できていると思うコメントに出会った。MLB関連サイトの老舗、Hardball Timesの寄稿者のひとり、Dan Lependorfの以下の文章である。

The WBC isn’t designed to crown the best baseball country in the world. The WBC’s value lies in its ability to foster the growth of international baseball like no other event can.
「WBCは、どの国の野球が世界最高なのかを決め、栄誉を授ける目的でデザインされてはいない。WBCの価値とは、世界の野球の成長を育むことにある。それは、他のどんなイベントでも達成することができない。」
Hardball Times : Defending the World Baseball Classic

なるほどねぇ。 "foster" ね。さすが、Hardball Timesである。(Fosterとは、「フォスター・ペアレント」という言葉で使われるのと同じ「育てる」という意味だ)
ブログ主は、上の言葉の意図を自分なりにもっと明確にして、さらに明確な100パーセントに近い表現にしておく意味で、以下のようにさらに書き換えをこころみた。

WBCは、世界各国の野球が、それぞれの国で、いまどこまで成長したかを確かめるためにある。


たしかに敗退国はWBCのオモテ舞台から姿を消していく。

だが、WBCの目的が「優勝国を決めること」にあるのではなく「各国の野球の成長ぶりをたしかめること」とハッキリ意識して、これまでの対戦カードの意味を見なおしてみれば、景色はまるで違って見えてくる。

説明するまでもなく日本チームには優勝してもらいたいわけだが、WBC3連覇に燃えるその日本が、世界ランキング20位のブラジルに苦戦させられたこと、それこそが「WBC」、なのだ。ランキング11位のメキシコがアメリカを苦しめ、9位のイタリアがドミニカやプエルトリコを苦しめ、7位のオランダがキューバ、韓国を敗退に追いやったことが、WBCでしか確かめることのできない「世界野球のめざましい成長ぶり」なのだ。
穀物農家が穂を手にとって発育を確かめるように、アメリカや日本も含め、それぞれの国々での野球の育ち方がハッキリと確かめられること。これが「WBCを開催することの意味」なのだ。

もういちどしっかり書いておこう。

「WBCは、各国の野球の成長をたしかめるためにある」

勘違いしてもらっても困るのだが、これは、なにもオリンピックでよく言われる「参加することに意義がある」的な不明瞭なスポーツマンシップから言うのではない。
あくまで純粋に、野球というスポーツの種をまいた畑の成長を計測するマーチャンダイズの観点で言っているのである。そういう意味では、WBCという大会の基本的な性格は、オリンピックとは異なっているし、異なっていてまったく構わないし、また、異なっていてもらいたい。

よく、「WBCは世界最高のリーグであるMLBに有望選手を刈り取るための大会」だのと得意気に発言して、WBCを揶揄できているつもりになっているわけのわからない人を見かけることがある。また、「どこどこの国はベストメンバーではない」からどうとか、こうとか、どうでもいいことを指摘して得意気な人もしばしば見かける。
何をあたり前のことを、としか言いようがない(笑) 国際大会での活躍が認められて、そのスポーツの世界最高のリーグに招かれるなんてことは、あらゆるスポーツにある。ファン目線からいっても、WBCで最高のパフォーマンスを見せてくれた選手たちのプレーをもっと見てみたいと思うのは、当然の話だ。問題があるはずもない。


ちなみに、最初に挙げたコメントを書いたDan Lependorfは、もともとAthletics Nationというブログのライターだった。

Athletics Nationは、オークランドでTyler Bleszinskiが運営する地域限定のブログだったが、Bleszinskiは「ブログのネットワーク化」を目指して、他の有力スポーツブログとの提携をすすめ、新たに "SB nation" を設立し、社長になった。SBとは、 Sports Blog の意味だ。

この「ブログのネットワーク化」に成功したサイトといえば、他に、SB nationのライバルBreacher Reportがあるが、これらは、ESPNやFOX、CBS、スポーツ・イラストレイテッドなどの全米メディアが新聞雑誌テレビといったマス・メディア出身であるのと違って、いわば「たくさんのサイトが集合したブログ合衆国」、「クラウド・メディア」ともいえる草の根的スポーツメディアだ。提携サイトは、トップページを共同で利用するが、それぞれの記事の構成や執筆は、それぞれのサイトが独自に行う。
日本ではこうした組織が簡単に資金調達できるとも思えないが、アメリカではこうしたクラウド的なスポーツメディアに投資するファンドなどがあるため、運営には少なからぬ資金が投入されている。
資料:AOLの前幹部、スポーツ・ブログ・ネットワークのために資金調達 | TechCrunch Japan


最初に挙げた引用の元記事は、よく読むと実は、Athletics Nationというブログ出身のDan Lependorfが、FOXの有名ライターJon MorosiのWBCに関する意見が二転三転していることを批判するのが本来の主旨。
かたやLependorfが、クラウド的なブログ・ネットワークの創始者Athletics Nationの出身、かたやJon Morosiがもともと新聞系の出身で、いわゆる旧来のマス・メディアであるFOXのライターであることを知ってから読むと、またひと味違った味わいがある。
Jon Paul Morosi - FOX Sports on MSN | FOX Sports on MSN

damejima at 02:28

January 28, 2013

週末ともなると日本のどこかで必ずマラソン大会が開催され、テレビ中継も毎週のようにあるほど、日本のマラソンブームは勢いが衰えないらしい。同じ日に複数のマラソンが開催されることも、けして珍しくない。

マラソンブームは、同時に「マラソン大会開催ブーム」という意味でもあるわけだが、これだけ大会が乱造され続けると質が落ちて、運営の最悪な大会というが続出してくる。
たとえば「第1回京都マラソン」は、2億3100万円もの赤字を出して、しかたなく公費(つまり税金)で穴埋めしたらしいが、カネの問題ならまだいい。第二東名が完成する前に行われた「ふじのくに新東名マラソン」などは、主催者側の給水の不手際によってランナー多数が脱水症状になり、リタイアが続出したという。水の用意が無いマラソン大会なんてものは、不手際というより傷害事件に近い。
さらに最悪だったといえるのは、「第1回富士山マラソン」(旧名『河口湖日刊スポーツマラソン』)。身の丈に合わない計画性皆無な大会を主催したのが原因で、1万数千人の大会参加者のうち、なんと5000人もの大量のランナーが「スタートそのものに間に合わないどころか、現地に到着することすらできない」という大失態を演じた。
大会レポ − レポート&評価・第1回富士山マラソン(旧河口湖日刊スポーツマラソン)(2012年)


富士山マラソンの運営の「あり得ないレベルのずさんさ」を人から聞かされて、日本の誇る霊峰富士がなぜ世界遺産に登録できないかがちょっとわかった気がする。
そして、「野球」という万単位の客を毎日のように集め続けてきたスポーツが、いかに合理的かつ安全に運営されてきたかが、あたらめてわかった。(これには、ブログ主が地方分権主義なんてものをまるで信用してないせいもあるかもしれない)



ボストン、シカゴ、ロンドン、東京。2万人を超えるランナーを集めるような大規模なマラソン大会は、すべて「大都市」で行われている。
大都市でこそ、大規模マラソンイベントが成り立つ理由」は、「都会には人がたくさんいるから、カネがたくさん集められる」などという、せせこましい商業上の理由ではない。「インフラのしっかりしている大都市だからこそ、大規模なヒトの移動に、ビクともせず、問題が起きにくい」からだ。

大都市というものは、毎日、何百万人もの人間を輸送し続けていて、盤石な公共交通機関や道路網と、それを運営管理するソフト面のノウハウが十分に整備されている。都市は「大量の人間が一時的に集まること」に慣れているのだ。だから、たとえ3万人や4万人程度の数のマラソンランナーが一ヶ所に集中したからといって、交通機関がマヒするような事態は起きない。


日頃忘れてていることだが、野球というスポーツもシーズン中、毎週のように、それも連日、万単位の観客を集めている。そういう意味では、「野球とは、年間の半分もの長期にわたって、毎週3日間ずつ大規模マラソンを連続開催し続けているような、超がつくほどの大規模スポーツ」なわけだ。

その大規模スポーツの野球だが、日本の野球においては「富士山マラソンで5000人ものランナーが味わわされた悲惨で不快な体験」は起きたためしがない。
というのは、ボールパークのある大都市には盤石の公共交通機関が存在すること、そして日本の野球主催者に、これまで何十年にも渡って培ってきた豊かな経験があるからだ。球場は、果てしない数の野球ファンを、安全に収容しては、安全に帰宅していただく、そういうルーティーンを果てしなく繰り返してきた。そこには積してきた知恵やノウハウがぎっしり詰まっている。



富士山マラソンの運営のずさんさをネット上の資料やブログでの悪口雑言などからいろいろ集約してみると、5000人ものランナーが置き去りになった原因の根本は、どうやら、「大規模マラソンを、公共交通機関の脆弱な田舎の山間部で開催したこと、さらに気温零度以下の午前8時という早朝スタートに設定していたこと」に、すべての騒動の根源があると思われる。
(ちなみに、この事件は、スポーツメディアである日刊スポーツ主催のイベントなせいで、メディア同士の自主規制が働くのか、報道量が十分ではない。詳しくは当事者であるランナーたちの書き込みの怒りから推測するしかない。最も信頼できるのは、せせこましく自主規制するメディアではなく、当事者の「自発性」だ)


マラソン大会というと、当然ながら、道路は交通規制の影響を大きく受ける。田舎での移動はクルマに頼ることが多いものだが、ことマラソン大会では、クルマに頼ることができない。当たり前のようだが、これは重要な点だ。
それでも「都市で開催される大規模マラソン」なら、地下鉄や鉄道など、「道路の交通規制の影響を受けない公共交通機関」が大量にある。また宿泊施設も有り余るほどある。
地方からやってくる都市の地理に不案内な参加者でも、都心のホテルを余裕をもって予約できるし、都市の住人にしても、最初から公共交通利用による移動を前提にスタート地点に集合してくる。だから結局、誰も慌てる必要がない。

たとえ「大都市のマラソン」が早朝スタートであったとしても、地下鉄や鉄道は、「短時間」かつ「大量」に、スタート地点や沿道に、万単位の数のアスリートたち、その友人や家族といった応援者、さらに主催者やボランティア、見物客をスムーズに移動させることができる。都市はクルマ移動を必ずしも前提としないから、参加者のための大規模な駐車スペースなど、そもそも必要ない。(もし必要になっても、駐車スペースはそれなりにある)

つまり、総じていえば、「都市機能」というものは「数万人単位のスポーツイベント」程度ではビクともしない。


田舎はどうだろう。

たとえ田舎のマラソンであっても、規模さえ「適性」なら、問題は起きない。駐車スペースの必要性も、それほど発生しない。

だが、「富士山マラソン」のような無計画なイベントは、クルマにしか頼りようがない田舎の街に、2万人規模もの「クルマで移動するしかないランナー」をかき集める、という無謀なアイデアなわけであって、「机上で考えたことが、開催地のキャパシティを越え過ぎていること」を、まるで理解できてない。



公共交通機関が無いのと同じ山間部で、しかも、2万人もの人間が早朝8スタートする前提のマラソン大会などというものが、どれだけ「田舎のキャパシティ」を越えているか。これがわからなかった主催者は、スタートさえ切れなかった5000人のランナーはじめ、多くの「被害者」に謝罪すべきなのはもちろんだし、大会規模を身の丈にあった規模に変更すべきだ。


なぜ「早朝スタート」でなければならなかったのだろう。

当日早朝の気温はどうやら0度以下だったらしい。当然スタートを待つ間にランナーたちは寒さに凍え、「ウオームアップ不足」のままスタートを切ることになったはずだ。

主催者がランナーの健康をかえりみない「ドアホなスタート時間」に設定した理由は、想像だが、「『前日に現地入りして宿泊してないと、スタート時間に間に合わないマラソン』に設定しておけば、自然と都会から来るランナーたちは前日から宿泊してスタートに備える。そうなれば、河口湖周辺のホテル・旅館が経済的に潤う」という「商売上の計算」があった、だろう。
また、どうしても当日にしか現地に来れない都会のランナーも多数いるわけだが、そうした参加者の集客については、「当日早朝入りするランナーについては、ホテル旅館と同じように地元河口湖の利害関係者である、富士急行など、交通事業者の観光バスをフルに利用した『弾丸ツアー』を用意すれば一石二鳥で、地元を潤わせることができる」とでも考えたに違いない。


「田舎の、それも早朝に、大量の都会の客を集中させるマラソン」なんてものが、どの程度「地域活性化、万歳!」などというこざかしい計算に基づいていたか知らないが、いかに無謀な皮算用か、よくわかる。
実際に起きたことは、参加者の数10パーセントにもあたる5000人ものランナーが、スタート時間に遅れるどころか、会場に近寄ることすらできなかったという、最悪の事態である。


駐車スペースを考えても、計画のずさんさがわかる。

地下鉄のない土地で行われる2万人規模の「ありえない規模のマラソン」なのだから、前日から宿泊している数千人から1万人前後のランナーと同行者のために、数千台分の「臨時駐車場」が必要になる。もちろん主催者、ボランティア、ゲスト、メディアのためにも駐車スペースが確保されなければならない。
河口湖周辺にどのくらいの数の駐車スペースが存在するのか知らないが、1000台やそこらの駐車スペースでは、これらの「一時的なパーキング需要」をまかなえるはずがない。

たぶんマラソン前日には、主催者があらかじめ用意した臨時パーキングや、ホテル・旅館周囲に細々と点在するパーキングは、前日から宿泊しているランナーたちのクルマで埋め尽くされていたに違いない。
また、前日から現地入りして宿泊し、早朝スタートに準備周到に備えたランナーですら、駐車場のあるホテル周辺からスタート地点まで、早朝の凍えるような寒さの中、延々と歩かされるハメになったのは間違いない。


一方、当日やってくるランナーたちは、どうだったか。

彼らの移動手段には、主に観光バスを利用したパッケージツアーが組まれており、数千人の規模のランナーが観光バスで当日現地に到着する予定だったらしい。
となると、観光バスの数は、バスの定員からして合計100台に及んだはずだが、いったい100台もの数の大型バスを、どこに停車、駐車させておくつもりだったのか。
100台もの数のバスを同時に駐車させるスペース、というと、もし日本の高速道路のサービスエリアに100台のバスを並べた姿を想像するだけで容易にわかることだが、バスだけでサービスエリアの大半が満杯になるほど、とてつもなく広大な面積の駐車スペースを用意する必要だ。

一方、マラソン当日の河口湖畔の駐車スペースは、前泊して現地入りすることを選んだ(というか「選ばされた」)多数のランナーたち、そして関係者とボランティアのクルマによって、とっくに駐車スペースはなかったはずだ。

ならば、当然のことながら、当日入りする100台もの大型バスは、スタート地点からはるか遠くに離れた場所に駐車するしかない。と、なると、当日観光バスで現地入りするランナーは、0度近い気温の中、観光バスの駐車場からスタート地点まで、歩いていくしかない。よほど早く出発しないとスタートに間に合わないし、ウォームアップどころの騒ぎではない。
もし当日の高速道路に多少の渋滞があろうとなかろうと、5000人のランナーは、そもそも「はるか遠く離れた駐車場から、マラソンスタート地点まで歩くしかない」という設定になっていたわけだ。

当日入り組のランナーたちは、早朝、まだ真っ暗な3時だの4時だのという、まだ公共交通機関も動いていない時間に、タクシーかなにかで都心のバス乗り場までなんとかたどり着いてバスに乗せられ、何時間もバスに揺られて現地に着き、気温零度以下の駐車場から、ウオームアップもなしにいきなり歩かされてスタート地点に向かい、高原の朝の零度を越えた程度の寒風の中、午前8時にフルマラソンをスタートする、そういうわけのわからないスケジュールを押し付けられていたはずだ。

無知な主催者はいったいどこでランナーをウオームアップさせるつもりだったのか知らないが、身体を動かすってことは、そんな簡単なものじゃない。


大規模マラソン大会というものは、参加経験のある人ならわかることだが、ほとんどの場合、スタート時点のランナーのカラダは冷えている。(これはマラソン大会すべてが持っている共通の解決すべき課題でもある)
ランナーはスタート前に何十分も、それも立ったまま待たされる。さらに、スタートのピストルが鳴った後も、参加者があまりにも多すぎるために、なかなか走りだせない。マトモに走れるようになるのが、スタートしてから数分〜10数分もかかることも、よくある。(こうした遅延現象は、たとえ規模の小さい大会でも多かれ少なかれ起きる)
まして都市より気温の低い山間部の湖畔の「零度以下の気温」の中で、何十分も待たされて、カラダが冷え切らないわけがない。
前日から宿泊していてマトモにスタートできた幸運な人たちにしても、気温零度、午前8時の冷え切ったままのスタートなんてものが、身体にプラスに働くわけがない。


現実の話は、もっと酷い。
5,000もの人たちは、なんと結局観光バスの中に閉じ込められたまま、スタート場所にすら時間内にたどりつけなかったという。アタマにこないほうがどうかしている。
そもそも、このマラソンの主催者は、日頃スポーツをほめたりけなしたりするのを生業(なりわい)にしている日刊スポーツなのだ。スポーツを誰よりもわかっていてもよさそうな主催者にこういう事件を起こされて、ランナーたちは余計に腹も立ったことだろう。



とかく「地元の人」、というと、「その場所を最も大事にしている人たち」と決めつけてしまうことが多い。

だが、ブログ主は、性格が悪いためかなにか知らないが(笑)、そんな風に思ったことがない。
例えば、富士山周辺に住んでいる人たちが、イコール、「最も富士山を大事にしている人」だなんて思わない。むしろ、(場所にもよるだろうが)「場所をメシの種にしているだけの人」たちが地元民というものだ、というドライな見方は、あながちハズれてないと思っている。

たとえば「海の家」。
ビーチで遊ぶには「海の家」が絶対必要だと考える人たちには、たいへん申し訳ないのだが、あんなもの必要ない。「景観」として、必要ない。
もし冷たい飲み物が必要なら、ビーチ近くの道路沿いにコンビニでも作っておけば十分だ。シャワーを浴びたければ、それこそ地元自治体負担で無料シャワーでも設置しておくほうが、よほど気がきいているし、景観として綺麗におさまる。日よけがほしければ、地元のホームセンターで安くシェードを売っているから、買ってからビーチに来ればいい。海の家などなくても、地元にはカネが落ちる。なんの問題もない。


見苦しい歩道
「景観」という話のついでに言うと、道路沿いやマンションのエントランス周辺の植え込みによく植えられている植物、例えば「ツツジ」も必要ない。
あんな見栄えの悪いものを、よくあれだけの数、植えるものだ。咲いた花がまた、なんとも貧乏くさい。
ああいう粗悪なものを人目につきやすい場所にやたら植えまくった結果できたのが、今の日本の「景観」だ。あんなものを、税金を使って刈り込んでメンテナンスまでしている。そんなことして、何になるというのだ。あんなもの、無いほうがよほど景観がスッキリ見える。
むつかしいことはよくわからないが、道路特定財源から「ツツジのメンテナンス支出」なんてものが出ているのかもしれないが、「道路のツツジ」を消滅されば、ひょっとすると日本のクルマに関して多すぎる税金をカットできるかもしれないではないか。もし「ツツジの消滅」で自動車ユーザーの負担が少し軽くできるなら、それこそ日本を支えるクルマの売り上げの向上につながったりするかもしれない。


何十トンものゴミを不法投棄し続けてきた尾瀬だかの山小屋が、罰金と執行猶予つきの懲役刑を言い渡されたなんて事件もあったらしいが、観光地の関係者にかぎって 「ゴミが増えるのは、ゴミを持ちかえらない観光客のマナーが悪いせいだ」などと、わけのわからないヘリクツを言いたがる。そしてゴミ箱を無くしてしまい、景観劣化の責任を観光客に押しつけたがる。
そういう輩に限って、小汚い看板を街中にならべて、本来美しいはずの日本の山や海の景観を、「どこにでもありがちな観光地」に変えて、自分勝手な商売のタネにしている。
そして、挙句の果てには、富士山周辺の景観の美しさが楽しめるマラソンというキャッチフレーズにひかれて集っただけのランナーに向かって、もてなす側の責任を棚に上げ、「マラソンにクルマで集まってくるマラソン参加者が悪い。バスや電車を使えば、こんなことは起きなかった」などと、わけのわからないことを言った人々のように、自分たちの見通しの甘さを棚に上げて、すべて客とクルマと渋滞のせいにする。

なんでもかんでもクルマのせいにしておけば、ラクができるとでも思っている。日本の自動車関連の税金の異常な高さと同じリクツだ。


田舎に住む人というのは、たいていの場合、「クルマは、ここで生きていく上で不可欠だ」というリクツにのっかって生きているわけだが、いざ無謀なマラソン大会の開催に失敗したら、やれクルマは使うな、電車とバスを使え、前日に現地に来て宿泊しろ、では、話にならない。
そんな都合のいいヘリクツは、田舎民が、日頃はクルマばかり使って便利に暮らすようになったクセに、いざ赤字の電車やバス路線が廃止されるとなると、廃線反対だのなんだの突然拳を振り上げたりする愚かな行為と、なにも変わらない。


どうも言葉でうまく説明できないのが困るが、総じて言うと、近代の「日本の景観」には「独特の無責任さ」があった、と思うわけだ。この「近代独特の無責任さ」は、せっかくの美しい日本の景観を、常に「こぎたない」ものにしてきた。富士山も例外ではない。

例えば「無責任な観光地」では、観光地として景色のいい一等地に立つレストランほど、クソまずい食事を平気で出し、観光地価格の高いカネをとるものだ。
こういうわけのわからないマラソン大会を無謀に強行した河口湖でも、湖畔やマラソンスタート地点近くの「商売上、有利な場所」には、きっと「無責任な店」ばかりがズラリとたち並び、マラソンランナーに、くそマズい料理と観光地価格を押し付けたに違いない。


霊峰富士に限らず、日本の山や海は、「こぎたなく」などない。むしろ日本の山海はもともと、心洗われる美しさであり、世界に胸を張って誇ることができる。だから「地元だから景観を自由にして許される」なんてことはありえない。山もビーチも、地元民だけの所有物ではない。
電気製品の設計ではないが、「こぎたなさ」を途中でやめるのは、簡単ではない。こぎたないものをつくるのは、たやすいが、綺麗にしていくには、手間も時間もかかる。
だが、「近代独特のこぎたなさ」をやめてみると、ブームにつられて粗製乱造されまくっている雑なつくりのマラソン大会が、もっとマトモで身の丈にあったものになり、ビーチは自然な美しさにもどり、道路沿いの「無責任なツツジ」が消えてなくなって、せいせいできたりする。
そうなれば霊峰富士も自然に綺麗になるかもしれない。なんといっても、景観にはヒトの内面が反映するものだ。
富士山を綺麗にするには、登山客の数を適度に制限するのもひとつの方法なのだが、富士山登山のための山小屋では、かつて「ありえないほどの狭さ」で多くの登山客をすし詰めにして寝泊まりさせた時代があったらしいが、最近その「富士山の山小屋のありえないほどの狭さ」は、ようやく多少は改善されたらしい。

客が多ければ多いほど儲かるからオッケー、なんて程度にしかスポーツを考えていない「無責任な地元民」やら、マラソン大会のイロハもわからないスポーツ新聞に、「観光客はゴミを持ち帰れ」「クルマを使うな」とか、わけのわからない「観光地にありがちな無責任なヘリクツ」を言われたくない。


damejima at 10:04

June 12, 2012

ネット掲示板などでよく使われる常套句のひとつに、「見えない敵と戦う」という言葉がある。


使い方としては、主に疑問形で使われる。
例えば、「なにかを批判している人間」に向かって、「見えない敵とでも戦ってるのか?」などという具合に、揶揄(やゆ)するのに使う。単に、からかっているだけで、反論があるわけではない。

表面ヅラだけを見ると、「おまえのしている批判は、単に自分自身で作り出した幻影と戦っているだけなのであり、それはただの幻想にすぎない」と諭しているように見えるから、実に論理的な説得じゃないか、とか思うかもしれないが、実際には、そういう使い方をされることは、ほとんどない。
たいていの場合、「見えない敵とでも戦ってるのか?」と発言したがる人間の真の目的は、相手を軽くいなしているかのような印象を周囲にみせつけることによって、手間をかけることなく、むしろ手抜きして、その批判がいかに無意味であるかを見せつけておこう、という、底の浅い論理的なテクニックであることが少なくない。
まぁ要するに、情報操作のための常套句のひとつだ。


ブログ主はむしろ、いま世界がはまりこんでいる21世紀という、このやっかいな世界というものは、むしろ「見えない敵と戦う」のが当たり前のバトルフィールドとして誕生していると、常に思ってブログを書いている。


例えば、1999年の映画 『マトリックス』。
(関係ないが、この映画がジャン・ボードリヤールの著書『シミュラークルとシミュレーション』を参考にした、という意見もあるようだが、ブログ主はむしろ、フリードリヒ・ニーチェの『ヴェール』、あるいはらっきょの皮を1枚1枚剥いていくようなジャック・デリダ的論理構造を元ネタに発想されていると感じる)

matrixという単語は、もとは『子宮』を意味するラテン語からきている。映画「マトリックス」の根底には、「環境とは、『情報という羊水』で満たされた、一種の『誕生前の子宮』である」という見解がある。
キアヌ・リーブス演じる天才クラッカー、ネオが巻き込まれる「見えないものに対する戦い」は、まず「人工の情報と情報操作で満たされた子宮」であるカプセルから抜け出すことから始まる。
カプセルから出て「真の意味の誕生」を迎えたネオのその後の戦いは、実にシンプルで、「カプセルから抜け出さなければ永遠に見ることのなかった本当の世界=リアルを、いかに可視化していくか」という、その1点に尽きている。





よく、この映画をバーチャルリアリティとのからみで説明する人がいるが、この映画のアンチ・バーチャルな立場は、1990年代やたらと流行したバーチャルリアリティ礼賛とは、根本的にスタンスが違う。


例えば資格試験の初級シスアドの模範解答などを見ると、バーチャルリアリティについて、「コンピュータで模倣した物体や空間を、コンピュータグラフィックスなどを使用して実際の世界のように知覚できるようにすること」などと模範解答が書いてあるわけだが、そんな回答では、「社会環境のもつ仮想性の理解」としては、いくらなんでも底が浅すぎる。

人間を取り囲む情報空間というものは、もともとバーチャルだ。別に、手間暇かけてコンピューター・グラフィックを大量に生産し、人間を取り囲めるほどの仮想空間を作らなくても、紙だろうが、言葉だろうが、ヒットソングだろうが、ステマだろうが、材料の質にあまり関係はない。
人間が所属する「環境」というものは、共有されればされるほど、常に模擬的で曖昧な関係、錯覚などが大量に含まれてしまうのが、むしろ普通で、なにもインターネットとPCが登場してはじめて、世界がバーチャルな空間に変わったわけではないのだ。

人間の感受性そのものに、もともとバーチャルな特性が備わっているのだから、たいていのメディアは、その人間の感覚の特性を逆手にとって利用しながら存在している。


映画 『マトリックス』の立場が「アンチ・バーチャル」だからといって、アンチ・コンピューターを標榜しているわけではない。
『マトリックス』は、なにも「コンピューターを全て廃棄して、原始に帰ろう」と言っているわけではないし、また、「他人は信用するな」とか、「社会は欺瞞に満ちているから破壊せよ」と言っているわけでもない。
むしろ、ある意味コンピューターくらい人間的な道具、人間の特性をうまくつかまえた道具もないわけで、そこを勘違いしたままのクセに、あらゆる物事に白黒をつけて話しているつもりのヒトが、いつまでたってもいっこうに減らない。
Apple logo
例えば、Appleほど、人間らしくてオリジナリティのあるパソコンを開発したメーカーはないし、だからこそ彼らは商業的に大成功をおさめたわけだけれども、彼らの着眼のオリジナリティを執拗に批判したがる人に限って、奇妙なことに、「自分こそは、常にオリジナリティを大事にしてきた」と自称したがる人であることが多い。
「電気がもったいないから、野球を全て中止せよ」などと、根拠もなしに激しく主張したがる人にしても、自分自身では「ヒューマニズム的な発言をしている」と固く信じこんでいる。(こういう安易なヒューマニズムが18世紀あたりの発明品であることは言うまでもないが、短く説明するのは難しい)



そもそもわかっていなければならないのは、
かつて「世界」というものが「個人からは、見えないのが当たり前」だった、ということである。

「見えない」からこそ、新聞や書籍が万能であると思われ、また世界の良心の代表であると思われていたかつての「紙の時代」には、「特別なチャンスを持てた個人」、例えば、社会学の学者や、ジャーナリスト、作家、旅行家、探検家、宗教家などが、自分のいる社会を抜け出して、外の世界を観察し、「外界のありさま」を紙の上で語ることで、特殊な地位を得ていた。だからこそ、かつて「旅」は、布教やジャーナリズムであると同時に、征服と領土拡張のスキルでもあった。

例えば、「小説家」という仕事でいうと、江戸文化の影響がそこらじゅうに残っていた明治時代中期の日本には、まだ「近代的な家族関係」などというものは存在していなかったが、こと純文学作家だけは別で、まだ庶民の海外渡航が難しかった時代にあって、夏目漱石であれ、森鴎外であれ、欧米文化に触れる機会を持てた彼らは、「まだ開国したばかりの日本には存在しない、近代的な人間関係というもの」を想像して、作品という人間関係の図式を書きあげた。庶民である読者は「彼らの私小説などに表現された、いかにもありそうな人間関係。だが、実は、まったく架空の、近代的な日本の人間関係や家族関係というもの」を、私小説として味わいながら、近代的な人間関係を「バーチャルに学習」し、さらに、現実の暮らしにおいて「近代を実演してみせようとした」のである。

夏目漱石

つまり、実在する人間関係を写し取って小説という作品が書かれたのではなくて、むしろ逆で、作品に描かれた仮想の近代生活を、現実生活のほうが模倣することで、日本の近代が出来上がっていったのである。

テレビアニメの「サザエさん」なども、まさにこの「バーチャルな近代の学習行為」にあたる。
大正期に入り、現実社会に近代的な人間関係が根付き始めると、全盛期の純文学に期待された「人々が学習するための近代的な家族空間を建築する役割」が消滅し、純文学の社会的必要性が消滅していったことはいうまでもない。ただ、その後も 「テレビで 『サザエさん』を見て、『家族の幸せ』とはどういうものか習ぶような『学習習慣』」 は日本の人々の間にこっそりと残された。


1999年に公開された『マトリックス』にいまも存在価値があると思うのは、今のようなネット社会の誕生を10数年も前に予告したとかいう、くだらない意味ではなくて、むしろ「見えない相手との戦いのはじまり」を告知していた、という点にある。
当時提示された「見えない敵との戦い」の手法は実に単純で、「安易に信じこむのを止めるところから始める」というものだったが、そのシンプルさの有効性は、いまなお輝きを失っていない。

『マトリックス』が出来た1999年は、日本で「個人が、自分だけのためのウェブサイトを作ることのできるツールの全てが出揃った時期」にあたっている。
最初はあくまで個人から他者への情報発信だけがメインだったが、この流れはやがて個人同士がネットでつながることを目的にする流れを生んでいき、mixi、ツイッター、フェイスブックが生まれ、個人のつぶやきとマスメディアはより等価な立場になっていく。


かつて「紙の時代」には、「見えない敵と接触する」ための手段は、ごくごく限られた人に可能だった。だからこそ、「世界の記述」は、紙から得られる知識を広範にもつとともに、並外れた想像力や行動力を持った「特別な個人」だけに可能な、特別な仕事だった。
それにくらべて、「ネット社会」は、むしろ、「誰でも、全体を観ようと思えば、端っこくらい、見えなくもない便利な世界」であり、近代的な家族関係の現実社会への定着が、私小説の必要性を抹殺したのと同じように、ネットは、かつて隆盛を誇った「紙の時代」を終わりにさせようとしている。もはや学者や新聞や作家のいうことだけを鵜呑みにする必要はどこにもない。言いたいことは、自分で調べ、自分で考え、自分で発言すればいい。


だが、そのかわり、困ったことがある。
個人はいまや、かつて社会学の学者や、ジャーナリスト、作家、旅行家、探検家だけが担っていた「見えない世界との戦いや、世界の記述」という責任の重さを、個人の肩に背負わされるようになってきているからだ。
野球でいえば、スポーツジャーナリスト風情や評論家程度の話をすべてマトモに受け取る必要など、どこにもない時代だとは思うが、そのかわり、自分なりの意見を発言しようと思えば、山積みになっている情報から自分なりの基準や根拠を編み出す必要はある。

便利なことに、少なくともネットには、情報だけはいつでも誰でもアクセスできる状態で目の前に山積みされているわけだから、氾濫する情報の中から「知見という織物を編み上げる技術」さえあれば、誰でも意味のある情報を生産できる。(例えばこのブログ程度のことは、ネットに落ちている以上の素材など、まるで扱ってないのだから、書こうと思えば、誰でも書くことができる

いまや問題なのは、情報収集量の多さではなくて、「情報を編む視点の独自性」や「情報の編みかたの上手さ」、そして「性格のしつこさ」だ(笑)
「見えない敵」と戦ってみることは、自分の置かれた場所や、自分のポジションについて理解を深め、また、つまらない人間に騙されないようにする行為でもあるから、誰もが、大いに調べて、データとデータの間に自分だけの「つながり」をつけて、好き放題に意見を言えばいい。


こうしていま個人は「かつて見えなかったものを、見ようとする行為」を新たに課せられ、日々戦っている。
何もしないで下手糞な批判ばかりしている「情報ニート」に、そのめんどくさい日常を「見えない敵と戦っている」などといちいちうるさく言われる筋合いなどない。
どうせ的はずれなのがわかりきっている他人の話やマスメディアなど読んでいるくらいなら、自分で何か書いたほうがマシな時代なのだ。

Reality or Truth

捕捉:
いろいろと調べてみたにもかかわらず、残念ながら詳細がわからずじまいなのだが、現在、マトリックス3部作、および、ターミネーターについての著作権については、アメリカでの6年にもわたる長い裁判を経て、作家・脚本家Sophia Stewartなる人物の“The Third Eye”という作品にある、ということになっているようだ。
たいていの有名人にはWikipediaに項目があるものだが、どういうわけか、このSophia Stewartの項目がみあたらない。そして、なぜひとつの作品が2つの映画の原作として著作権を主張できたのかについても、ウェブ上に説明がほとんどみあたらない。いちおう注意書きとして記録しておく。
UPDATE: Matrix & Terminator Creator Sophia Stewart Won Landmark Trial | Clutch Magazine

Sophia Stewart filed a $150 million dollar malpractice lawsuit against her former attorneys | New York Paralegal Blog

Black Author wins Copyright Case for Matrix movie « Jason Skywalker's Blog

damejima at 19:10
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  • 2013年11月28日、『父親とベースボール』 (9)1920年代における古参の白人移民と新参の白人移民との間の軋轢 ヘンリー・フォード所有のThe Dearborn Independent紙によるレッドソックスオーナーHarry Frazeeへの攻撃の新解釈
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