マトモな21世紀のためのロジカル・エクササイズ

2014年7月14日、なぜ「漁港にある寿司屋なら間違いなく旨い、とは言えない」のか、そして、なぜ「地方の若者が都会で寿司屋や野球選手になる」のかについて。
2014年6月23日、「友達の誰より先にフェンダーを買った子供がプロになりやすい」現象と、ベースボール
2014年1月20日、Wood & Sea. 今年からはこれでいく。
2013年11月5日、「8万人収容のモンスターレベルの陸上競技場」を、「8万人収容のフットボール場」と同列に語っている国立霞ヶ丘陸上競技場建て替え話の馬鹿馬鹿しさ。
2013年10月29日、国立霞ヶ丘陸上競技場は、「同じ場所で建て替える」などという二番煎じのお茶をさらに温め直すような発想を止め、違う場所に新設すべき。
2013年5月24日、他人の不幸や失敗に安易に同情を示さないこと。日本とアメリカの習慣の違い。
2013年3月15日、WBCの開催意義は「世界での野球の成長ぶりをたしかめること」にある。優勝国を決めること、ではない。
2013年1月27日、マラソンブームに便乗した、あまりにもずさんな「富士山マラソン」から、「日本の新しい景観美」に至る、長い道のり。
2012年6月11日、「見えない敵と戦う」のが当り前の、ネット社会。

July 15, 2014

食材の鮮度さえよければ、あとは何もしなくても、旨いよ。
てなことを言う人が、たまにいる。

エコロジー話題満載の前向きすぎるブログを全くつまらないと感じるのと同じくらい、どうもああいう言葉が好きになれない。なぜなんだろう。



鮮度が重要に思える寿司(鮨あるいは鮓)の場合でも、「鮮度が命」という法則はけしてあてはまらない。もしそれが本当なら、「漁港で食う寿司」はもっと旨くなければおかしいし、いつまでたっても「銀座が日本一」なんて時代が続くわけはない。

スティーブ・ジョブズが東京・銀座の超有名店、すきやばし次郎を贔屓にしていたことは彼の有名なエピソードのひとつだが、銀座にヒラメやアナゴが泳いでいるわけではない。なのに、銀座では「うまい鮨」が食える。「魚がとれる場所に近ければ近いほど、うまい寿司屋がある」わけではないのだ。

歴史的な視点だけでいえば、「寿司という食い物はもともと『都市文化』であり、海から遠くて新鮮な魚が手に入りにくい江戸時代の都市で生まれたから」などと説明すれば、話のほとんどは済んでしまう。鮮度保持の技術がなかった時代に魚介類をおいしく食べようと思ったことから、酢や昆布で締めるとか、醤油に漬けたり、煮たりする各種の調理技術が開発されたわけだ。

もっと短く言えば、
寿司を食うという行為は、主に
技術を味わっている」のだ。


しかし、いまでは冷凍・冷蔵技術が発達している。ならば、いつでもどこでも新鮮な魚が手に入るようになったはずだから、日本中どこでも「職人の技術すら凌駕する、鮮度の高さで勝負できる旨い寿司」が食えるようになったはずだ。
だが、江戸文化に端を発した寿司の銀座中心主義がおちぶれて、より海に近い場所でこそ、旨い寿司が食えるような時代が来たかというと、そんなことはない。
かえって鮮度抜群の魚が手に入るはずの海岸地方や漁港の寿司がダメな場合が(自分の経験では)あいかわらず多い。(ただし全ての漁港を回ったわけではないので(笑)、正確にはわからない)


この「漁港の寿司が案外ダメなことが多い理由」は、なんだろう。

ひとつには、「漁港の寿司のちょっとした不味さが、鮮度とは無関係」だからだ、という気がする。
たとえば、酢を合わせてもいない「ゴハンのままのゴハン」を大量に手にとって、ぎゅうううううっとチカラいっぱい、それこそ握り締めるように握って、その上に鮮度抜群の魚の切り身をのっけると、それは「旨い寿司」になるか。もちろん、ならない。
また、海岸で釣りをして、その魚をその場で捌いて食うような食べ方をすれば、それが一番うまい魚の食い方か、というと、そうでもない。肉でも魚でもタンパク質が適度に分解された「食べごろ」というやつがあるから、生簀(いけす)のある店で板前さんが目の前で捌いたばかりの魚の切り身で作った寿司が、世の中で一番うまい寿司になるわけではない。


同じように「地産地消」なんていう言葉もあるけれど、これも昔はもっともな言葉だと思っていたが、今は信用していない。

なぜって、よく地産地消をウリにした地方のレストラン、なんてものもあるわけだが、それはたいていの場合「東京などの有名店で修業した人が、わざわざ田舎に作った店」であることがほとんどだからだ。つまり、詳しく表記するなら、「地方の鮮度のいい魚や野菜を出す、地方発の店」があるわけではなくて、「産地の鮮度のいい食材を調理する腕を持った『都会帰りの調理人』が、たまたま田舎で出している店」なのだ。


これは自分勝手な言い分ではあるが、もし「漁港の寿司屋に足りないもの」が、『鮮度以外の何か』とか、『技術』なのだとしたら、それがハッキリ自覚できないと『地方の、それも、鮮度とイキのいい若い人が都会に出ていくのを止められるわけはない』などと思ったりする。

『鮮度』というやつは、ほおっておくと価値が落ちるばかりだ。だから、てっとりばやくカネに変えるには、そっくりそのまま都会に出荷するしかない。しかし、鮮度のいい魚を安い価格で都会に発送し続けているような昔の漁協的発想だけでは、地方の寿司屋は旨くはならない気がする。また、旨くもない漁港の寿司にリピーターはつかない。

鮮度のいい農産物や魚介類を『魅力ある商品』に変えてくれる魔法みたいな意味の「技術」が「多くの場合、都会だけにある」ものだとしたら、そりゃ、そういうものを学ぼうとする若い情熱の流出を止められるわけはない。
都会で寿司屋になった地方の若者だって、聞いてみたら「できたら生まれ育った場所で腕のいい寿司屋になりたかった」と思っているかもしれない。だが残念なことに、漁港には鮮度のいい魚はあっても、それを素晴らしい商品にかえる『技術』がないことが多い。材木は何をしなくても、いつのまにか素晴らしい家具になっているわけではないのだ。


どういうわけか知らないが都会の寿司屋というやつは、多少味がまずくてもなかなか潰れなかったりするわけだが、他方、これもどうしたものかわからないが、もっと旨くなる余地があるはずの地方の漁港の寿司屋も、なかなか旨くはならない。なぜなんだろう。

にもかかわらず、自分のこれまでの発想を捨てることもせず、これまで築いてきたポジションや利権を捨てることも、他人に分け与えることもせず、ただただ「地方の若い人が都会に出ていくのを止めなければ」なんてことばかり考えている地方のオトナは、あいかわらず減ることがない。
地方のオトナたちは「地方にだって、いくらでも旨いものや楽しみがあるっていうのに、なぜここらへんの若い人たちは都会にばかり出て行きたがるのだろう?」なんて的外れなことを、毎日考えていたりする。


そうそう。

優秀なプレーヤーほどMLBに行くのをああだこうだ言う人がいなくならないのにも、似たところがある。そういう発想の人に限って、「日本野球に、本当は何が足りていないのか」を、あまり真剣に考えようとしてない。

damejima at 15:38

June 24, 2014

いまでも、よせばいいのに初めて買ったフェンダーのピックを持っている。よくある、どこにでもある茶色のピックだ。

Fender Medium


ロックを知った子供にとっては、ギターでもベースでも、アンプでもいいが、「フェンダーを手に入れること」は憧れのひとつになるわけだが、すぐに手に入れられる金額でもない高価な楽器だけに、最初どうするかというと、「フェンダーのピック」を買ってお茶を濁すわけだ(笑)(それでもまぁ、本人は「ほぉ・・・これがフェンダーかぁ・・・」などと、しげしげとピックを眺めてしまうわけだが 笑)

そのうちプレーがだんだんうまくなってくる。
すると、たいていの場合、仲間の中に実際にフェンダーのギターなんかを買うヤツが出てくる。

すると、長い目でみると(ブログ主のまわりだけかもしれないが)どういうわけか不思議なことに、仲間うちで、誰よりも早くフェンダーの楽器を買ったヤツに限って、のちのち自主制作CDなんかを出したり、さらにはプロミュージシャンになったりするという現象が生まれてくる。

もちろん、フェンダーの楽器を買いさえすれば誰でもプロになれる、という意味ではない(笑)だが、それにしたって、誰よりも早くピックでなくフェンダーを実際に買うところまで行けた人間のほうが、それだけ「プロになる確率が高い」という側面がある。誰だって、ピカソになる前に、油絵の道具を買うべきなのだ。
たくさんの子供たちが音楽に手を出す。だが、ほとんどの子供はフェンダーを買うほど音楽にのめりこまないし、そこまでプレーも上手くならない。


こうした「フェンダーのピックを買う大勢の子供たちの中に、フェンダーのギターを買う子供が出現し、そうした子供の中からプロミュージシャンにまでなる若者がうまれる現象」があることを思うと、「フェンダー社がピックを売ること」は、高価な商品を販売するフェンダー社の長期的な販売戦略にとって、最大のプロモーション戦術のひとつになっているといえる。


これをベースボールで考えると、どの行為、どのプロモーションが、この「フェンダーのピックを買った子供たちの中から、のちのちプロが出現する現象」にあたるか。

やはり、つまるところ
球場で野球を見ること
これに尽きる気がする。

つまり、球場で実際の野球を見て衝撃を受けたり、興味をひかれた子供たちの中から、価格の高い本物の硬式野球のグローブを手に入れたいと思う子供が出てきて、その「本物のグローブ、本物のボールで練習した子供たち」の中から、「プロをめざす子供」が出てきて、さらに「プロになる子供」が出てくるという図式だ。
そして、この図式においてもフェンダーのギターと同じで、「他の子供より早く、ちゃんとした本物のグローブを使って練習した子供の中からこそ、プロになれる子供が出現する」という現象がある気がする。(実際MLBでも、メジャーリーガーの父親がプレーヤーとか大学のコーチだったり、野球の熱狂的なファンだったりすることは、よくある)


ベースボールカードを集めたり、パソコンやゲーム機で野球ゲームをやることもまったく否定しないし、たいへんいいことだとは思うが、やはり、球場でナマのゲームを見てもらうことの大事さは、野球というスポーツの発展を考えるとき、やはり他と比較にならないほど大事なことだと思う。

damejima at 10:29

January 21, 2014





身近にある100円ショップで買った安っぽいプラスチックを捨て、同じ機能をもった木製の道具にかえてみる。それだって、ひとつのWood & Seaだ。

森にも、海にも水がある。それが日本という場所。
Wood & Sea, I Love Japan.

damejima at 14:08

November 05, 2013

先日、国立霞ヶ丘陸上競技場(通称:国立競技場)の建て替えについての記事を書いたわけだが、ちょっと気になることがあって、追加でこの記事を書くことにした。

というのは、あの記事をさらっと読まれてしまうと、まるで「建て替え費用は、東京都が想定しているような『8万人規模で1500億円』なんて予算規模では、いいスタジアムなんてできない。世界に誇れる8万人規模のスタジアムを作るべきだから、文部省がとりあえず試算した『3000億円』かかるかどうかはともかく、1500億円以上は絶対にかけて事業を進めるべきだ」、などと読まれかねないと思ったからだ。
Damejima's HARDBALL:2013年10月29日、国立霞ヶ丘陸上競技場は、「同じ場所で建て替える」などという二番煎じのお茶をさらに温め直すような発想を止め、違う場所に新設すべき。


そもそも、東京都のいう「8万人収容、1500億円」という数字がどこから湧いて出てきたのか、推定してみると、たぶん以下のようなデータがあることからして、「世界一カネがかかったMetLife Stadiumが費用1600億円・8万人収容だから、東京でもそれくらいの費用でできるだろう」程度の大雑把な推論が話の出発点に違いない。

まずは、今の時点で、「世界で最もカネのかかったスタジアム」のベスト5を見てもらいたい。(以下「B=billion=10億」。例:US$1.6B=16億ドル≒約1600億円)

1位 MetLife Stadium
   US$1.6 B (ニュージャージー・NFL)
2位 新ヤンキースタジアム
   US$1.5 B (ニューヨーク・野球)
--------------------------------------------
   Olympic Stadium(モントリオール・多目的)
   AT&T Stadium(テキサス・NFL)
   Wembley Stadium(ロンドン・サッカー場)
3位〜5位のスタジアムの建設費は、1.25〜1.4 billion


上位2つのスタジアムの順位は、どの資料をみても変わらない。だが、3位以下のスタジアムの順位は資料によって変動する。カナダ、アメリカ、イギリスと、それぞれが異なる国のスタジアムで、差が小さく、為替レートによっても順位が変動するレベルだから、ここは細かいことなど気にせず、「3位タイが3つあって、ドングリの背比べだ」とでも思っておけばいいだろう。
「建設費」だが、これは、初期費用は変わらないにしても、Olympic Stadiumがそうであるように、追加改修が必要になると完成後にも膨れ上がっていったりする。また「収容人員」については、どんなスポーツを開催するかによって大きく異なる。野球と比べ、サッカーやアメリカン・フットボールの開催は、フィールドに臨時のシートを増設することもできるため、より多くの観客をスタジアムに収容できる。
上記5つのスタジアムは、それぞれの主な使用目的が違う(NFL、野球、サッカー)。そのため収容能力を横一列で単純比較することは難しい。
AT&Tというと、MLBファンはどうしてもサンフランシスコのAT&T Parkを思い浮かべてしまうわけだが、ここではかつてCowboys Stadiumと呼ばれていたテキサスのNFLのスタジアムをさす。

収容人員数
1位 MetLife Stadium 82,566人(NFL)
2位 新ヤンキースタジアム 約5万人(MLB)
   Olympic Stadium 66,308人(NFL)
   AT&T Stadium 10万5千人(NFL)
   Wembley Stadium 86,000人(サッカー)


USドルでの比較(2011年12月付):The 5 Most Expensive Stadiums In The World

USドルでの比較(2011年10月付)11 Most Expensive Stadiums In The World

ユーロでの比較:世界のスタジアム建設費TOP10 |FootballGEIST


「8万人収容・1500億円」の意味

論点1)競技によって大きく異なる
    「8万人収容スタジアム」の「規模」


日本の新聞メディアは国立霞ヶ丘陸上競技場の建て替えについて、「どういう意味の『8万人』なのか?」を全く定義することなく、ダラダラ、ダラダラ報道を垂れ流しているから、まるで議論にならない。
上でも書いたことだが、ひとくちに「8万人収容」といっても、「陸上競技の観客8万人」、「野球の8万人」、「サッカーの8万人」、「アメリカン・フットボールの8万人」では、それぞれに必要な土地面積、スタジアムの規模、かかる維持費の全てが、まるっきり違ってくる。

「陸上競技の8万人規模のスタジアム」というと、野球以上に広大な「敷地」が必要になる。だが、年間通しての集客など期待できるはずがない陸上競技では、8万人なんていうモンスター・スタジアムを作るなんてことは、まさに自殺行為でしかない。
サッカーというスポーツについては、テレビ中継画面の広角なアングルの「イメージ」のせいで、「広大なグラウンドを走り回ってプレーするスポーツである」だのと思いこんでいる人はやたら多いことだろうが、実際には、サッカー場の面積なんてものは、たとえピッチ外のスペースを含めたとしても、野球のフィールド面積のせいぜい半分程度にしかならない。アメリカン・フットボールはさらに狭い。
だから例えば、野球場のインフィールドに臨時の席を設営することを想定する場合、野球の開催で「6万人」くらいの収容規模のスタジアムは、アメリカン・フットボールでなら「8万人収容」くらいの規模のスタジアムであることを意味する。


もし東京都が、国立霞ヶ丘陸上競技場の建て替えで想定している「規模」が、「8万人の観客を、それも『常設席』に収容できる、陸上競技場」なんてものだとしたら、そんなスタジアムは「とてつもなくデカいモンスターになる」に決まっているし、そして当然ながら、「モンスターの建設には、とてつもない費用がかかる」。(というか、たぶんあのデザインを設計した人間は、「そもそもスポーツ観戦とか、スタジアムというものを理解してない人間」だ)

だが、上のスタジアム・ランキングでわかる通り、そんな「とてつもなく馬鹿デカいスタジアム」など、世界の(というか、アメリカの)どんな採算のとれているプロスポーツで探しても、どんなスポーツ先進国で探しても、「ない」し、「ありえない」
そして、そういう「ありえないもの」を現実に作ろうとすれば、間違いなく「世界で最も建設費のかかったスタジアム」になり、さらに同時に、「世界で最も維持していけない陸上競技場」になるだろう。

イメージしておかなくてはならないのは、「野球よりはるかに狭いフィールドでプレーしているスポーツ」であるサッカーやアメリカン・フットボールを前提に考える「8万人収容のスタジアム」のイメージというのは、「野球でいうなら、6万人収容程度の大きさ」だ、ということだ。
例えば、8万人以上収容できるMetLife Stadiumは、世界で最もカネのかかったスタジアムで、建設費はおよそ「1600億円」もかかっっているわけだが、このスタジアムはそもそも「アメリカン・フットボール用」なのだから、野球場に換算するなら、「6万人収容の野球場」程度の大きさという意味でしかない。
「6万人収容の野球場」というと、野球場として大きいのは確かだが、想像を絶するほど大きさではないし、モンスターでもない。そして、そんな程度の大きさでも、建設には1600億円もかかったのだ。

もしこれが、「8万人を常設の席に収容できる陸上競技場」なんてものになったらどうなるか、想像できるはずだ。巨大なモンスター級スタジアムの建設の費用は、1500億とか1600億とかで収まるわけがない。そんなものを、1年にたった数週間しか使わないマイナーなプロスポーツだの、アマチュア競技のための常設施設だのとして作れば、どうなるか、わかりそうなものだ。
既に何度も書いていることだが、日本では「野球以外の競技」で、「6万人を超える規模のスタジアム」を作れば、間違いなく採算のとれない無用の長物になる。いうまでもない。

ここらへんの「スケール感」をきちんとアタマに入れた話をしていかないと、ウワモノの建設費が巨大になるくらいでは済まない。取得すべき土地の面積も、更地にする費用も、ランニングの経費も、人件費も、ありとあらゆる費用が膨大なものになることは、ここまでの話でおわかりいただけただろう。
東京都は既に国立霞ヶ丘陸上競技場周辺の立ち退きが予想される住民にある程度の説明を行ないつつあるようだが、そもそも彼らの想定する建て替えに必要な土地面積のイメージは、ぶっちゃけ「とんでもなくデカすぎる」ものだ。


論点2)MLBのスタジアムで、建設費が10億USドルを越えているのは、実は「新ヤンキースタジアムだけ」

MLBスタジアムの建設費ランキング

上で「収容人数」について書いたことでわかるのは、国立霞ヶ丘陸上競技場の建て替えが、もし「8万人を常設席に収容できるモンスター級の陸上競技場をつくる」という意味であるなら、「1500億でできるわけがない」ということ、さらにそういう「モンスター級の陸上競技場など、日本には必要ないし、仮に作ったとしても、到底維持できない」というようなことだ。

さらに、MLBのボールパークの建設費ランキングを見てもらえばわかると思うが、「5万人収容くらいで、屋根が開閉式のドーム球場を作る費用は、少なくとも近年のアメリカでは、1000億以上かかることは、滅多にない」。そして、「場所にもよるが、500億円ちょっとでも十分作れる」。(資料:MLB Ballparks - Construction Cost Rankings
新ヤンキースタジアムは世界第2位の約1500億円もかかった金満スタジアムだが、これはカネがかかりすぎというものであって、MLBで2番目にカネのかかった、同じニューヨークのシティ・フィールドは、前身のシェイ・スタジアムの駐車場に作ったせいか、わずか900億円しかかかっていない。(もちろん、900億でも、MLBのボールパークの建設費としては超高額だが)
そして、他の球場は、開閉式ドームのセーフコ・フィールドなども含めて、ほとんど全てのボールパークが、わずか「600億円以下」で建設されているのである。


上で書いたように、「6万人を収容できる巨大野球場」は、サッカーやアメリカン・フットボールでいえば、「8万人を収容できる巨大スタジアム」を意味する。
もし日本に「8万人収容で、屋根が開閉式のスタジアム」を新たに作るとしても、それが「8万人を、しかも常設席で収容できる、世界に前例のないモンスター級の陸上競技場」などという、わけのわからない無謀な話ではなくて、「6万人収容できるかなり大きな野球場、とでもいうような規模イメージのスタジアム」である限りは、「3000億円」どころか、「1500億円」もかけずに建設可能なはずだ。(もちろん、前に書いたように、同じ場所で建て替えようとするから、余計に費用がかさむということはある。だからこそ、同じ場所でなく、場所を変えるべきだ、というのである)


話が長くなった。
東京都が「8万人収容で、1500億円」と言っている「スタジアムの想定」が、結局のところ、いったい、どこの、何を、「模範」としてイメージされたかといえば、いうまでもなく、「1600億円という世界一のコストをかけて建設され、8万人以上を収容できるアメリカのMetLife Stadiumのレベル、つまり、世界トップレベルのスタジアムを、わが東京にも作るんだべ」程度のアバウトさ、ないしは、「世界一のMetLife Stadiumが1600億でできたんだから、オラも1500億くらいかけりゃ、東京にも、つくれるだろ」程度のアバウトさから発言されているに過ぎないであろうことは、ここまで長々と書いてきたことでわかってもらえると思う。

だが、彼らは、自分たちが企画書で目にして飛びついた「1600億かけて建設された、8万人収容の、世界でいちばんカネのかかったスタジアム」というのが、そもそも競技スペースが狭くて済む「アメリカン・フットボール場」であって、「陸上競技場ではない」ということを、たぶんわかってない。
もし、わけのわからない人間たちが、わけもわからず「8万人を、常設席で収容可能な、モンスタークラスの陸上競技場」なんてものを想定しているのだとしたら、国立霞ヶ丘陸上競技場は、ただでさえサブトラックの再整備が必要で、さらに、現にある陸上競技場を更地に戻す費用もかかり、既存の周辺住民を立ち退かせる費用など、さまざまな経費もかかった上に、さらに本題の広大な面積の土地を収用し、地上70メートルにも達する巨大なウワモノを、しかも「風致地区」に建設して、さらに膨大なレベルの維持費と人件費が何十年もかかり続けるのだから、「1500億円程度の費用」で建てられるわけがない。


「1500億でできますよ」だのというが
ほんと、「できもしないことを言うな」と、
猪瀬氏に言いたくなる。

damejima at 23:49

October 30, 2013

東京の2020年五輪開催が決まったのは非常にめでたいにしても、1964年の東京オリンピックで作られた国立競技場(=国立霞ヶ丘陸上競技場)の建て替えどうのこうのという話が、どうにもよろしくない。


オリンピック誘致の成功で「浮かれている人間たち」は、50年も前につくられた旧式の施設である国立霞ヶ丘陸上競技場の「立地の限界」と、神宮外苑という施設の本来の目的である「静かなる顕彰」の意味を根本的に理解していないまま、無理に無理を重ねて建て替えを進めようとしている。

現状の国立霞ヶ丘陸上競技場の「限界」を頭に入れていない東京都や猪瀬知事は建て替えに必要な金額を安易に考えているようだし、巨大な競技施設を「神宮外苑」に無理にでも建てたいから、風致地区が風致地区でなくなってもそれはそれでしかたないとのお考えのようだが、そもそも50年も前に建てられた国立霞ヶ丘陸上競技場の「手狭な立地」では、非常に多数のアスリートが参加するオリンピックでは、国際的な陸上競技場としては「失格」なのだ。
そして内苑である明治神宮を控えた「神宮外苑」という場所の本来の目的は「心静かに顕彰すること」なのであって、この旧式の競技場を無理にでも陸上競技場の国際規格にあうよう「拡張」しようと思えば、「現在の手狭な場所」では「もともと無理」なのだ
ということを、関係者は根本的に忘れている。

ブログ注:
ここでいう「国立競技場」とは、あくまで「通称」でいうところの「国立競技場」であって、具体的に正式名称でいうなら、「国立霞ヶ丘陸上競技場」単体のことを指している。

だが本来、正式な意味での「国立競技場」というのは、文部省の外郭団体である独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)が運営・管理する「国立霞ヶ丘陸上競技場」「国立代々木競技場」「国立西が丘サッカー場」の総称を意味するのであって、国立霞ヶ丘陸上競技場単体を指してはいない。

さらにいえば、「国立霞ヶ丘陸上競技場」という施設単体について考えるとき、この施設が抱えている「周辺施設の整備」という問題を甘く見てはいけない。
というのは、そもそも国立霞ヶ丘陸上競技場というのは、陸上競技施設としては、オリンピックのような国際競技を開催する施設としては「サブトラックが遠いうえに、狭すぎる」という重大な問題を抱えた劣悪な陸上競技場だからだ。
野球のスタジアムでも「外野のポールまでが100メートル以上」などといった国際規格があるわけだが、同じように「陸上競技場」にも国際規格があり、一流アスリートを世界中から集めた国際試合を開催できる第一種公認を受けるためには、さまざまな「条件」をクリアしていなければならない。
その国際規格のひとつが「ウォーミングアップのためのサブトラックの設置」だが、国立霞ヶ丘陸上競技場は、現在のところ、千駄ヶ谷駅前にある東京体育館の脇にある200mトラックをサブトラックとして使用するという「タテマエ」でギリギリ公認されてはいるものの、現実には、国立競技場から東京体育館まで距離がありすぎることに加え、そもそも200mの狭いトラックでは直線が短すぎて十分なウォーミングアップができず、また、200mトラックでは狭すぎて、数多くのアスリートが同時にウォーミングアップすることができないという重大な問題点を抱えている。
そのため、近年の日本の陸上競技界では、多くの国際競技が、この国立霞ヶ丘陸上競技場ではなく、他の施設、例えば神奈川県の横浜国際総合競技場(日産スタジアム)などで行われるようになってきている

つまり、東京都が考えているような「国立霞ヶ丘陸上競技場さえ建て替えれば、周囲の施設はそのままでも、オリンピックという国際競技は開催できる」というような考えは、実は「安易」かつ「甘い」のである。

したがって、文部省が想定する「国立競技場の建て替え」事業の意味するところが、「通称されている国立競技場」である国立霞ヶ丘陸上競技場のみの建て替えなど意味していないのは、むしろそちらのほうが当然なのであって、さすがに場所が北区で霞ヶ丘から離れている西が丘サッカー場の整備は含まないにしても、建て替えの「見積もり」の対象が、国立霞ヶ丘陸上競技場だけではなく、周辺施設の再整備を含む金額になるのは、むしろ当たり前のことなのだ。
対して、国立霞ヶ丘陸上競技場の直接の管轄者でもなんでもない東京都や猪瀬知事などは、単純に「国立競技場の建て替え=国立霞ヶ丘陸上競技場のみの建て替え」としか想定していないから、そもそも国立霞ヶ丘陸上競技場の「限界」を理解していない。

したがって、文部省が行った建設費見積もりが、「国立霞ヶ丘陸上競技場のみの建て替え」だけしか想定していないスポーツ素人集団の東京都の想定金額よりも大きくなるのは当然であり、むしろ見積もりが「周辺施設の整備」も含んだものになるべきであることを、スポーツ音痴の東京都もマスメディアも、最初からアタマに入れて議論・報道すべきだ。


大きな地図で見る

ちなみに神宮外苑は1926年完成で、東京では初の風致地区に指定され、これまで建築物の高さが「15m」に制限されるなどの法的規制によって、穏やかな景観が長年にわたって守られてきた。(ただ、「外苑」は元来、有志によって「寄贈」された施設であり、「内苑」である明治神宮が直接管轄する統合的な施設ではない)
だが、国立霞ヶ丘陸上競技場の建て替え完成時には高さが「70m」にも達するとみられたことから、東京都はなんと、2013年6月に神宮外苑エリアの建築における「高さ規制」を「15m」から一気に「75m」へ、5倍も緩和した
この場当たり的な「高さ規制緩和」でまず何が起きたかというと、すかさず周辺エリアで周囲の景観にそぐわない民間の「高層マンション」が建設されたのである。この高層マンションの「高さ」に反対する地元住民との間に摩擦が生まれたのは、いうまでもない。(ただ、おそらく、高層マンションの建設に反対した地元住民も、この高層マンション建設が可能になったそもそもの原因が「東京都が、国立霞ヶ丘陸上競技場の建て替えを可能にするため、建設物の高さ制限を大幅に緩和したことにあること」は、理解していないか、知らされてないのではないだろうか)


言いたいことを先に言えば、
現在の立地では、国際的な陸上競技場のための拡張と長期にわたる施設維持も、スポーツと顕彰の両立も、あらゆる点で無理なのだから、新・国立競技場は、「場所」自体を変えて再出発すべきだ
ということだ。
(それだけが建て替えの目的ではないが、別の場所に新築するなら、「顕彰」のための風致地区である神宮の森周辺の「建設物の高さ制限」を「75メートル」などという「とんでもない数字」にせずに済む。また、ここではあえて書かないが、「どうせ建てるなら、更地に戻すカネが少なくて済んで、人も集まりやすい、ここしかないでしょ」という「場所」のアイデアはもちろんある。さらには、現在の国立競技場の「跡地」、さらには外野が100メートルないことがわかった老朽化した神宮球場の「跡地」をどう再利用するかについても具体案はある)


明治維新の東京遷都でもわかることだが、「場所をかえる」とか、「場所を選ぶ」という、「場所」にまつわる行為は、時代が動いたときに求められる非常に大きな決断、「おおごと」、グランドデザインなのであって、それにくらべれば建築物の見た目のデザインなんてものは、些細なこと、トリビア、表層、小手先でしかない。
(そもそも「同じ場所に建て替える大規模公共建築物のデザインコンペ」なんてものは、その建て替え事業そのものが都市計画としてウェル・デザインされていない「ハンパな計画」と受け止めるべきであって、よくもまぁコンペに参加しようなんて気になるものだ。「場所自体も変えてしまいましょう!」と大胆に提案できてこそ、本気のデザイン、本気の都市計画というものだ。安藤忠雄には悪いが、やはり渋沢栄一のほうがはるかに天才だ)

イチローはかつてWBC監督が星野仙一に決まりかけたとき、「WBCは五輪のリベンジの場所ではない」とそれを退ける画期的発言をして、WBC日本代表は結果的にイチロー発言によって「人心の一新」に成功し、輝かしい連覇を果たすことになるわけだが、それに習っていわせてもらうなら、「2020年東京オリンピックは、1964年東京五輪の二番煎じをやる場所ではないし、二番煎じでは何の国益ももららさない」、と言いたい。
たとえ国立競技場が外観と規模を一新しようが、そんな建て替え程度のせせこましい変化では「老朽化したオフィスビルを取り壊して、建て替えるだけの行為」と何も変わらない。同じ場所で建て替えたのでは、本来オリンピックという国際的な大イベントで期待される経済効果や国益が、十二分な質と量で得られるとは到底思えない。

例えばもし、フジテレビがかつてあった曙橋の「フジテレビ下通り」で建て替えられただけだったなら、スカイツリーがかつての東京タワーと同じ場所で建て替えられただけだったなら、もっといえば、もし江戸時代が終わっても首都が京都のままだったなら、どうだったか、本当に人々が新鮮な驚きをもって新しい時代を受け入れたか、考えてみるといい。


そもそも問題なのは、
国立競技場がある今の「場所」に、何のパワーも無いことだ。

建設費が予定よりはるかに多いだの、収容人数が多すぎるだの、ドタバタ劇が当分続くらしいが、ブログ主に言わせれば、「パワーが無い「場所」に建った建造物が、老朽化したからといって、「高いカネをかけて更地にし、同じ場所に再び建て替える」などという二番煎じな発想の「陳腐さ」を指摘する声がないことのほうが、よほど理解できない。


2012年11月に行われた「第1回富士山マラソン」(旧名『河口湖日刊スポーツマラソン』)で起きた「不祥事」について書いた記事がある。
記事リンク:Damejima's HARDBALL:2013年1月27日、マラソンブームに便乗した、あまりにもずさんな「富士山マラソン」から、「日本の新しい景観美」に至る、長い道のり。

このマラソンは、参加ランナー総数1万数千人のうち、約3分の1にもあたる5000人もの数のランナーが、スタート予定時間にスタート地点にたどり着けなかった。もう、これは不祥事というより、「事件」といっていいレベルのマラソン大会だ。
読んでもらえばわかるが、この前代未聞の事件が起きた原因は、この件を報じた新聞記事や、大会に参加していない野次馬のブログによく書かれている「渋滞」などではない。(というか、このマラソン自体が新聞社主催だったからか、この事件を報じる記事の露出自体が抑えられまくっていた)
「モビリティの確保から宿泊可能な人数に至るまで、あらゆるキャパシティに限度があることが最初からわかりきっている田舎町の、それも山間部のマラソン」において、「モビリティに制約のある場所で開催しても無理がないマラソン大会の規模の限度」というものをまるで理解していない無謀きわまりない主催者が、開催してもさしつかえない大会の規模レベルを最初から根本的に読み間違えていたこと、にある。

つまり、身の丈にあわない大会の開催を強行した「第1回富士山マラソン」の大失敗は、このマラソンが行われた山間の湖という「場所」がもっている「キャパシティ」や「限界」を過信したところに始まっているわけだ。


パワーの無い場所に建設されている「国立競技場の建て替え」も、第1回富士山マラソンと同じ、「場所」にまつわる失敗を犯す可能性は相当高いと思う。


こう書くと、国立競技場周辺のことを何も知らない人から、「何を馬鹿なことを。国立競技場(実際には「国立霞ヶ丘陸上競技場」だが)は、サッカーの聖地で、大試合も数えきれないほど開催されているし、アイドルグループの大規模コンサートだって行われるような場所だ。収容能力、交通機関、どれをとっても何の問題もない。アホなこと言うな」などと、いいがかりをつけられるかもしれない(笑)


言わせてもらうと(笑)、そういう、3年に1回とか、1年に1回しか国立競技場周辺に行かないような人の意見なんてものは、何の役にも立たない。参考にすらならない。

もし、国立競技場周辺にスポーツ施設を作るだけで、その「ハコ」が満員にできるのなら、とっくにヤクルト・スワローズは超人気球団になっていなければおかしいし、神宮球場だってとっくに資金が集まって建て替えに成功していなければおかしいし、ラグビーが日本有数の人気スポーツになっていなければおかしいのである(笑)

でも、どれひとつとして実現できてない。

そもそも国立競技場自体がすんなり建て替えられていないのは、この「場所」が思ったほど集客できる場所ではなく、スポーツやコンサートで集めた人たちにしても、試合やコンサートの直後に去ってしまうような、そういう「受け皿となる施設がまったく無い、受け皿が育たない、そして、育てるつもりもまるで無い「場所」」だったからだ。だから、国立霞ヶ丘陸上競技場は、建設から50年もたってコンクリートがどこもかしこも老朽化しているのがわかりきっているのに、ほっとかれたままだったのである。もし2020年の五輪が他の都市に決まっていたら、間違いなく「無用の長物」になっていた。

加えて、国立霞ヶ丘陸上競技場は、上でも書いたように、サブトラックが「遠すぎる」うえに「狭すぎる」という、国際的な陸上競技施設としては致命的欠陥を抱えているのだから、東京都の考えているような国立霞ヶ丘陸上競技場だけを整備すればオリンピックが開催できるというような甘っちょろいものではなく、周辺施設の整備にもカネをかけないわけにはいかない「程度のよくない中古スタジアム」なのである。


マラソン大会は少なくとも「ハコモノ」ではない。
だから、「場所」の問題をそれほど考えなくてすむ。市街地の道路だろうが、河川敷の土手だろうが、高速道路の上だろうが、どこでもいいから、42.195kmという距離を走れる「道」さえ探してくれば、あとは地域活性化とかいうお決まりのお題目で書いた企画書で地域の有力者を説得し、タダで働いてくれるボランティアをかき集め、警察の協力を仰げば、なんとか低予算でも開催できる。
たとえその大会が、「第1回富士山マラソン」のように破滅的に失敗したとしても、少なくとも「無駄なハコモノ」は後に残さずに済む。


だが、国立競技場は「ハコモノ」だ。意味が違う。

都心に大金かけて「ハコ」を作るなら、その「ハコモノ」は本来、その「場所」のバリューを増やす義務があるわけだが、そもそもこの国立競技場の場合、いま建っている「場所」がいくら都心だからといっても、「場所のバリュー」があまりにも低いまま50年もの時が過ぎたことは、わかる人にはとうの昔にわかりきっている。

東京オリンピックは1964年のイベントなわけだが、それから約50年もの歳月がたって、千駄ヶ谷外苑前など、国立競技場の周辺の街は、後背地にあれだけの数のスポーツ施設群を抱えていたにもかかわらず、街として十二分に発展してきたか? スポーツの伝統が育ったか? 風致地区にふさわしい街になったか? スポーツに関係ない人でも憩うことのできる街になったか?
まぁ、これらの街の「日常」、それも「あまりに閑散とした、わびしい日常」を理解してない人は、一度行って、自分の目で見てきたらいい。ドーナツ化のこの時代、郊外のターミナル駅のほうがよほど発展しているし、中央分離帯やガードレール、並木などにしても、よほど郊外のほうが都市らしい整備が行き届いている。


国立競技場がもし今の場所で計画通り8万人規模の施設としてオープンしたとしても、採算などとれるはずはないし、また、5万人規模に規模を縮小したとしても、年間通じてみれば採算はとれない。スケジュールの大半が空っぽで、たまに運動会でもやるのが関の山のド田舎の陸上競技兼用サッカースタジアムと、まったく同じ酷い運命をたどることになる。
国家あげての大規模イベントだった1964年の東京オリンピックですら、国立競技場周辺の街は、結局は多くの人がつどい集まる街にはなれなかったわけで、そんな「パワーの無い場所」に、8万人収容規模(あるいは5万人規模)の「1年で通算しても、1か月も満員にならないのに、屋根を開閉式ドームにして、天然芝を養生するだけで莫大な経費がかかることがわかりきっているスタジアム」を建てれば、どうなるか、なんてことは、地方の身の丈に合わない陸上競技兼用のサッカースタジアムを見ていれば、子供でも想像がつく。


そう。
今の国立競技場がいまある「場所」は、ある意味「都会のド真ん中のド田舎」なのだ。そして「田舎」には、8万人もの規模の、近未来的とか自称する図体がでかいだけのデザインのスタジアムは必要ない。長期的にみて、維持なんてできっこないし、前のオリンピックから50年たっても発展できなかった街に、期待しても全く意味がない。

新しい国立の陸上競技場を建てるなら(そして、同じように老朽化した神宮球場を建て替えるなら)、もっと別の場所に、もっとパワーと集客力があって、なにより神宮としての歴史にふさわしい場所が、ちゃんと都心にある。

damejima at 10:00

May 25, 2013

あるウェブサイトで読んで、いつか何かの形で書こうと思って温めていた言葉がある。いい機会なので、勝手に引用させてもらうことにした。
勝手に引用しておいていうのもなんだが、引用元はあえて迷惑をかけたくないので、URLは晒さないし、言い回しも元の文章とできるだけ変えておくことにする。

アメリカ社会で暮らしてわかったのだが、日本人としては日常茶飯事な行為なだけに、気づかないで、ついついやってしまうことの中に、「アメリカ社会では嫌われる行為」が、いくつかある。
例えば、他人に対して同情すること、他人を凝視すること、他人になにか愚痴を話すこと、そして、意味もなく微笑むこと、などである。どれもこれも、日本ではよくあることだが、アメリカでは「相手を信じてない証拠」ととられてしまう。


いつも、この言葉を思い出すのは、ボコボコに打たれてベンチに帰ってきたときのピッチャー、あるいはチャンスに凡退してベンチに帰ってきたときのバッターをみるときだ。誰も、ケツや肩をたたいたり、声をかけたり、近寄ったり、そういうことをしない。誰も、なんのレスポンスもしないどころか、視線も合わさないのである。

それでいいのだ。
(シンパシーを持たないことと、それを見せないことは意味が違う)


骨折からようやくゲームに復帰したばかりのカーティス・グランダーソンが、またデッドボールを受けて骨折したわけだが、このことに同情を寄せる必要など、まったくない。

彼はそもそも、「ストレートだけを集中的に狙う」という戦略を徹底することで、アベレージ・ヒッターからホームランバッターに転身することに成功し、大型契約も得たわけだが、その戦略が対戦相手にバレて、インコース低めの変化球攻めにあうようになってから、まるで打てなくなり、ついには去年秋の優勝争いの最重要な時期にはスタメンさえ外されて、冴えない優勝を味わうハメになった。
Damejima's HARDBALL:2012年11月2日、2012オクトーバー・ブック 「スカウティング格差」が決め手だった2012ポストシーズン。グランダーソンをホームランバッターに押し上げた「極端なストレート狙い」が通用しなくなった理由。

その、キャリアの岐路にある彼が、今も最も狙いを絞っているであろう「インコースのストレート」を避けていては、仕事にならない。このことは、彼自身、よく理解している、と思う。


だからこそ、彼に同情なんて必要ない。
また、たぶん彼自身も望んでない。

彼が、デッドボールを食らうかもしれないインコースのストレートにさえ果敢に向かっていくことが、今の自分の「仕事」だと考えているとすれば、余計なクチを挟むべきじゃない。彼ならやれるし、やるだろう。だから余計なレスポンスなど、必要ない。


グランダーソンがどうやらライトで続けて起用される、つまり、イチローのベンチスタートが増える、という日に、グランダーソンが骨折したことで、わざわざイチローのところに「彼の骨折をどう思うか」なんて、聞かなければいいことを、わざわざ聞きにいって、さらにはそれを記事として流すなんてことをする日本のスポーツ新聞の記者は、ほんとにどうかしてる。
配慮のないことをするな、馬鹿、と言いたくなる。(もし質問されたイチローが「コメントはありません」と言ったとしても、たぶん日本人記者はありもしない想像をして悪意にとるだけで、同情などせず、そっけなくすることがアメリカっぽいマナーであることに、たぶん気づきもしないだろう)
アメリカ社会で、ポジションを争うライバル選手のデッドボールによる骨折について同情を示すようなコメントをニュースにする必要など、どこにもない。野球チームは老人の仲良しサークルではない。


これからもピッチャーがグランダーソンにインコース攻めをするのはわかりきっている。彼は今後も骨折するだろう。

しかし、それはグランダーソンの仕事の一部だ。
同情なんていらない。


ツイッターで、日本人はもっと強くなるべきだ、みたいなことをつぶやいたばかりだが、アメリカで負けないで、勝つってことを、もう一度きちんとととらえなおしていく、いい機会だと思うから、この記事を書いてみた。みんな、何事にも自信を持って、言いたいことを言って毎日を過ごしてもらいたいものだ。
もしイチローがチーム内での自分の扱いに不満があるなら、それを態度に現したり、トレードを望んだりしてもまったく構わないし、素知らぬ顔でいたければ、それでもいい。どちらでもいい。
だが、必要もないのにへりくだるのだけは、もう止めていいはずだ。


背すじを伸ばせ。そして
誰にはばかることなく、好きなようにバットを振れ。
なにもむつかしくない。




damejima at 13:20

March 16, 2013

なんでまた、WBCなんてものをやっているのか。
WBCの「大会としての開催意義」についてのコメントや意見は数限りなく見てきた。だが、なるほど、と思わせてくれるような、説得力のあるコメントには一度も出会ってこなかった。


だが、嬉しいことに、初めて「なるほど」と簡潔に説明できていると思うコメントに出会った。MLB関連サイトの老舗、Hardball Timesの寄稿者のひとり、Dan Lependorfの以下の文章である。

The WBC isn’t designed to crown the best baseball country in the world. The WBC’s value lies in its ability to foster the growth of international baseball like no other event can.
「WBCは、どの国の野球が世界最高なのかを決め、栄誉を授ける目的でデザインされてはいない。WBCの価値とは、世界の野球の成長を育むことにある。それは、他のどんなイベントでも達成することができない。」
Hardball Times : Defending the World Baseball Classic

なるほどねぇ。 "foster" ね。さすが、Hardball Timesである。(Fosterとは、「フォスター・ペアレント」という言葉で使われるのと同じ「育てる」という意味だ)
ブログ主は、上の言葉の意図を自分なりにもっと明確にして、さらに明確な100パーセントに近い表現にしておく意味で、以下のようにさらに書き換えをこころみた。

WBCは、世界各国の野球が、それぞれの国で、いまどこまで成長したかを確かめるためにある。


たしかに敗退国はWBCのオモテ舞台から姿を消していく。

だが、WBCの目的が「優勝国を決めること」にあるのではなく「各国の野球の成長ぶりをたしかめること」とハッキリ意識して、これまでの対戦カードの意味を見なおしてみれば、景色はまるで違って見えてくる。

説明するまでもなく日本チームには優勝してもらいたいわけだが、WBC3連覇に燃えるその日本が、世界ランキング20位のブラジルに苦戦させられたこと、それこそが「WBC」、なのだ。ランキング11位のメキシコがアメリカを苦しめ、9位のイタリアがドミニカやプエルトリコを苦しめ、7位のオランダがキューバ、韓国を敗退に追いやったことが、WBCでしか確かめることのできない「世界野球のめざましい成長ぶり」なのだ。
穀物農家が穂を手にとって発育を確かめるように、アメリカや日本も含め、それぞれの国々での野球の育ち方がハッキリと確かめられること。これが「WBCを開催することの意味」なのだ。

もういちどしっかり書いておこう。

「WBCは、各国の野球の成長をたしかめるためにある」

勘違いしてもらっても困るのだが、これは、なにもオリンピックでよく言われる「参加することに意義がある」的な不明瞭なスポーツマンシップから言うのではない。
あくまで純粋に、野球というスポーツの種をまいた畑の成長を計測するマーチャンダイズの観点で言っているのである。そういう意味では、WBCという大会の基本的な性格は、オリンピックとは異なっているし、異なっていてまったく構わないし、また、異なっていてもらいたい。

よく、「WBCは世界最高のリーグであるMLBに有望選手を刈り取るための大会」だのと得意気に発言して、WBCを揶揄できているつもりになっているわけのわからない人を見かけることがある。また、「どこどこの国はベストメンバーではない」からどうとか、こうとか、どうでもいいことを指摘して得意気な人もしばしば見かける。
何をあたり前のことを、としか言いようがない(笑) 国際大会での活躍が認められて、そのスポーツの世界最高のリーグに招かれるなんてことは、あらゆるスポーツにある。ファン目線からいっても、WBCで最高のパフォーマンスを見せてくれた選手たちのプレーをもっと見てみたいと思うのは、当然の話だ。問題があるはずもない。


ちなみに、最初に挙げたコメントを書いたDan Lependorfは、もともとAthletics Nationというブログのライターだった。

Athletics Nationは、オークランドでTyler Bleszinskiが運営する地域限定のブログだったが、Bleszinskiは「ブログのネットワーク化」を目指して、他の有力スポーツブログとの提携をすすめ、新たに "SB nation" を設立し、社長になった。SBとは、 Sports Blog の意味だ。

この「ブログのネットワーク化」に成功したサイトといえば、他に、SB nationのライバルBreacher Reportがあるが、これらは、ESPNやFOX、CBS、スポーツ・イラストレイテッドなどの全米メディアが新聞雑誌テレビといったマス・メディア出身であるのと違って、いわば「たくさんのサイトが集合したブログ合衆国」、「クラウド・メディア」ともいえる草の根的スポーツメディアだ。提携サイトは、トップページを共同で利用するが、それぞれの記事の構成や執筆は、それぞれのサイトが独自に行う。
日本ではこうした組織が簡単に資金調達できるとも思えないが、アメリカではこうしたクラウド的なスポーツメディアに投資するファンドなどがあるため、運営には少なからぬ資金が投入されている。
資料:AOLの前幹部、スポーツ・ブログ・ネットワークのために資金調達 | TechCrunch Japan


最初に挙げた引用の元記事は、よく読むと実は、Athletics Nationというブログ出身のDan Lependorfが、FOXの有名ライターJon MorosiのWBCに関する意見が二転三転していることを批判するのが本来の主旨。
かたやLependorfが、クラウド的なブログ・ネットワークの創始者Athletics Nationの出身、かたやJon Morosiがもともと新聞系の出身で、いわゆる旧来のマス・メディアであるFOXのライターであることを知ってから読むと、またひと味違った味わいがある。
Jon Paul Morosi - FOX Sports on MSN | FOX Sports on MSN

damejima at 02:28

January 28, 2013

週末ともなると日本のどこかで必ずマラソン大会が開催され、テレビ中継も毎週のようにあるほど、日本のマラソンブームは勢いが衰えないらしい。同じ日に複数のマラソンが開催されることも、けして珍しくない。

マラソンブームは、同時に「マラソン大会開催ブーム」という意味でもあるわけだが、これだけ大会が乱造され続けると質が落ちて、運営の最悪な大会というが続出してくる。
たとえば「第1回京都マラソン」は、2億3100万円もの赤字を出して、しかたなく公費(つまり税金)で穴埋めしたらしいが、カネの問題ならまだいい。第二東名が完成する前に行われた「ふじのくに新東名マラソン」などは、主催者側の給水の不手際によってランナー多数が脱水症状になり、リタイアが続出したという。水の用意が無いマラソン大会なんてものは、不手際というより傷害事件に近い。
さらに最悪だったといえるのは、「第1回富士山マラソン」(旧名『河口湖日刊スポーツマラソン』)。身の丈に合わない計画性皆無な大会を主催したのが原因で、1万数千人の大会参加者のうち、なんと5000人もの大量のランナーが「スタートそのものに間に合わないどころか、現地に到着することすらできない」という大失態を演じた。
大会レポ − レポート&評価・第1回富士山マラソン(旧河口湖日刊スポーツマラソン)(2012年)


富士山マラソンの運営の「あり得ないレベルのずさんさ」を人から聞かされて、日本の誇る霊峰富士がなぜ世界遺産に登録できないかがちょっとわかった気がする。
そして、「野球」という万単位の客を毎日のように集め続けてきたスポーツが、いかに合理的かつ安全に運営されてきたかが、あたらめてわかった。(これには、ブログ主が地方分権主義なんてものをまるで信用してないせいもあるかもしれない)



ボストン、シカゴ、ロンドン、東京。2万人を超えるランナーを集めるような大規模なマラソン大会は、すべて「大都市」で行われている。
大都市でこそ、大規模マラソンイベントが成り立つ理由」は、「都会には人がたくさんいるから、カネがたくさん集められる」などという、せせこましい商業上の理由ではない。「インフラのしっかりしている大都市だからこそ、大規模なヒトの移動に、ビクともせず、問題が起きにくい」からだ。

大都市というものは、毎日、何百万人もの人間を輸送し続けていて、盤石な公共交通機関や道路網と、それを運営管理するソフト面のノウハウが十分に整備されている。都市は「大量の人間が一時的に集まること」に慣れているのだ。だから、たとえ3万人や4万人程度の数のマラソンランナーが一ヶ所に集中したからといって、交通機関がマヒするような事態は起きない。


日頃忘れてていることだが、野球というスポーツもシーズン中、毎週のように、それも連日、万単位の観客を集めている。そういう意味では、「野球とは、年間の半分もの長期にわたって、毎週3日間ずつ大規模マラソンを連続開催し続けているような、超がつくほどの大規模スポーツ」なわけだ。

その大規模スポーツの野球だが、日本の野球においては「富士山マラソンで5000人ものランナーが味わわされた悲惨で不快な体験」は起きたためしがない。
というのは、ボールパークのある大都市には盤石の公共交通機関が存在すること、そして日本の野球主催者に、これまで何十年にも渡って培ってきた豊かな経験があるからだ。球場は、果てしない数の野球ファンを、安全に収容しては、安全に帰宅していただく、そういうルーティーンを果てしなく繰り返してきた。そこには積してきた知恵やノウハウがぎっしり詰まっている。



富士山マラソンの運営のずさんさをネット上の資料やブログでの悪口雑言などからいろいろ集約してみると、5000人ものランナーが置き去りになった原因の根本は、どうやら、「大規模マラソンを、公共交通機関の脆弱な田舎の山間部で開催したこと、さらに気温零度以下の午前8時という早朝スタートに設定していたこと」に、すべての騒動の根源があると思われる。
(ちなみに、この事件は、スポーツメディアである日刊スポーツ主催のイベントなせいで、メディア同士の自主規制が働くのか、報道量が十分ではない。詳しくは当事者であるランナーたちの書き込みの怒りから推測するしかない。最も信頼できるのは、せせこましく自主規制するメディアではなく、当事者の「自発性」だ)


マラソン大会というと、当然ながら、道路は交通規制の影響を大きく受ける。田舎での移動はクルマに頼ることが多いものだが、ことマラソン大会では、クルマに頼ることができない。当たり前のようだが、これは重要な点だ。
それでも「都市で開催される大規模マラソン」なら、地下鉄や鉄道など、「道路の交通規制の影響を受けない公共交通機関」が大量にある。また宿泊施設も有り余るほどある。
地方からやってくる都市の地理に不案内な参加者でも、都心のホテルを余裕をもって予約できるし、都市の住人にしても、最初から公共交通利用による移動を前提にスタート地点に集合してくる。だから結局、誰も慌てる必要がない。

たとえ「大都市のマラソン」が早朝スタートであったとしても、地下鉄や鉄道は、「短時間」かつ「大量」に、スタート地点や沿道に、万単位の数のアスリートたち、その友人や家族といった応援者、さらに主催者やボランティア、見物客をスムーズに移動させることができる。都市はクルマ移動を必ずしも前提としないから、参加者のための大規模な駐車スペースなど、そもそも必要ない。(もし必要になっても、駐車スペースはそれなりにある)

つまり、総じていえば、「都市機能」というものは「数万人単位のスポーツイベント」程度ではビクともしない。


田舎はどうだろう。

たとえ田舎のマラソンであっても、規模さえ「適性」なら、問題は起きない。駐車スペースの必要性も、それほど発生しない。

だが、「富士山マラソン」のような無計画なイベントは、クルマにしか頼りようがない田舎の街に、2万人規模もの「クルマで移動するしかないランナー」をかき集める、という無謀なアイデアなわけであって、「机上で考えたことが、開催地のキャパシティを越え過ぎていること」を、まるで理解できてない。



公共交通機関が無いのと同じ山間部で、しかも、2万人もの人間が早朝8スタートする前提のマラソン大会などというものが、どれだけ「田舎のキャパシティ」を越えているか。これがわからなかった主催者は、スタートさえ切れなかった5000人のランナーはじめ、多くの「被害者」に謝罪すべきなのはもちろんだし、大会規模を身の丈にあった規模に変更すべきだ。


なぜ「早朝スタート」でなければならなかったのだろう。

当日早朝の気温はどうやら0度以下だったらしい。当然スタートを待つ間にランナーたちは寒さに凍え、「ウオームアップ不足」のままスタートを切ることになったはずだ。

主催者がランナーの健康をかえりみない「ドアホなスタート時間」に設定した理由は、想像だが、「『前日に現地入りして宿泊してないと、スタート時間に間に合わないマラソン』に設定しておけば、自然と都会から来るランナーたちは前日から宿泊してスタートに備える。そうなれば、河口湖周辺のホテル・旅館が経済的に潤う」という「商売上の計算」があった、だろう。
また、どうしても当日にしか現地に来れない都会のランナーも多数いるわけだが、そうした参加者の集客については、「当日早朝入りするランナーについては、ホテル旅館と同じように地元河口湖の利害関係者である、富士急行など、交通事業者の観光バスをフルに利用した『弾丸ツアー』を用意すれば一石二鳥で、地元を潤わせることができる」とでも考えたに違いない。


「田舎の、それも早朝に、大量の都会の客を集中させるマラソン」なんてものが、どの程度「地域活性化、万歳!」などというこざかしい計算に基づいていたか知らないが、いかに無謀な皮算用か、よくわかる。
実際に起きたことは、参加者の数10パーセントにもあたる5000人ものランナーが、スタート時間に遅れるどころか、会場に近寄ることすらできなかったという、最悪の事態である。


駐車スペースを考えても、計画のずさんさがわかる。

地下鉄のない土地で行われる2万人規模の「ありえない規模のマラソン」なのだから、前日から宿泊している数千人から1万人前後のランナーと同行者のために、数千台分の「臨時駐車場」が必要になる。もちろん主催者、ボランティア、ゲスト、メディアのためにも駐車スペースが確保されなければならない。
河口湖周辺にどのくらいの数の駐車スペースが存在するのか知らないが、1000台やそこらの駐車スペースでは、これらの「一時的なパーキング需要」をまかなえるはずがない。

たぶんマラソン前日には、主催者があらかじめ用意した臨時パーキングや、ホテル・旅館周囲に細々と点在するパーキングは、前日から宿泊しているランナーたちのクルマで埋め尽くされていたに違いない。
また、前日から現地入りして宿泊し、早朝スタートに準備周到に備えたランナーですら、駐車場のあるホテル周辺からスタート地点まで、早朝の凍えるような寒さの中、延々と歩かされるハメになったのは間違いない。


一方、当日やってくるランナーたちは、どうだったか。

彼らの移動手段には、主に観光バスを利用したパッケージツアーが組まれており、数千人の規模のランナーが観光バスで当日現地に到着する予定だったらしい。
となると、観光バスの数は、バスの定員からして合計100台に及んだはずだが、いったい100台もの数の大型バスを、どこに停車、駐車させておくつもりだったのか。
100台もの数のバスを同時に駐車させるスペース、というと、もし日本の高速道路のサービスエリアに100台のバスを並べた姿を想像するだけで容易にわかることだが、バスだけでサービスエリアの大半が満杯になるほど、とてつもなく広大な面積の駐車スペースを用意する必要だ。

一方、マラソン当日の河口湖畔の駐車スペースは、前泊して現地入りすることを選んだ(というか「選ばされた」)多数のランナーたち、そして関係者とボランティアのクルマによって、とっくに駐車スペースはなかったはずだ。

ならば、当然のことながら、当日入りする100台もの大型バスは、スタート地点からはるか遠くに離れた場所に駐車するしかない。と、なると、当日観光バスで現地入りするランナーは、0度近い気温の中、観光バスの駐車場からスタート地点まで、歩いていくしかない。よほど早く出発しないとスタートに間に合わないし、ウォームアップどころの騒ぎではない。
もし当日の高速道路に多少の渋滞があろうとなかろうと、5000人のランナーは、そもそも「はるか遠く離れた駐車場から、マラソンスタート地点まで歩くしかない」という設定になっていたわけだ。

当日入り組のランナーたちは、早朝、まだ真っ暗な3時だの4時だのという、まだ公共交通機関も動いていない時間に、タクシーかなにかで都心のバス乗り場までなんとかたどり着いてバスに乗せられ、何時間もバスに揺られて現地に着き、気温零度以下の駐車場から、ウオームアップもなしにいきなり歩かされてスタート地点に向かい、高原の朝の零度を越えた程度の寒風の中、午前8時にフルマラソンをスタートする、そういうわけのわからないスケジュールを押し付けられていたはずだ。

無知な主催者はいったいどこでランナーをウオームアップさせるつもりだったのか知らないが、身体を動かすってことは、そんな簡単なものじゃない。


大規模マラソン大会というものは、参加経験のある人ならわかることだが、ほとんどの場合、スタート時点のランナーのカラダは冷えている。(これはマラソン大会すべてが持っている共通の解決すべき課題でもある)
ランナーはスタート前に何十分も、それも立ったまま待たされる。さらに、スタートのピストルが鳴った後も、参加者があまりにも多すぎるために、なかなか走りだせない。マトモに走れるようになるのが、スタートしてから数分〜10数分もかかることも、よくある。(こうした遅延現象は、たとえ規模の小さい大会でも多かれ少なかれ起きる)
まして都市より気温の低い山間部の湖畔の「零度以下の気温」の中で、何十分も待たされて、カラダが冷え切らないわけがない。
前日から宿泊していてマトモにスタートできた幸運な人たちにしても、気温零度、午前8時の冷え切ったままのスタートなんてものが、身体にプラスに働くわけがない。


現実の話は、もっと酷い。
5,000もの人たちは、なんと結局観光バスの中に閉じ込められたまま、スタート場所にすら時間内にたどりつけなかったという。アタマにこないほうがどうかしている。
そもそも、このマラソンの主催者は、日頃スポーツをほめたりけなしたりするのを生業(なりわい)にしている日刊スポーツなのだ。スポーツを誰よりもわかっていてもよさそうな主催者にこういう事件を起こされて、ランナーたちは余計に腹も立ったことだろう。



とかく「地元の人」、というと、「その場所を最も大事にしている人たち」と決めつけてしまうことが多い。

だが、ブログ主は、性格が悪いためかなにか知らないが(笑)、そんな風に思ったことがない。
例えば、富士山周辺に住んでいる人たちが、イコール、「最も富士山を大事にしている人」だなんて思わない。むしろ、(場所にもよるだろうが)「場所をメシの種にしているだけの人」たちが地元民というものだ、というドライな見方は、あながちハズれてないと思っている。

たとえば「海の家」。
ビーチで遊ぶには「海の家」が絶対必要だと考える人たちには、たいへん申し訳ないのだが、あんなもの必要ない。「景観」として、必要ない。
もし冷たい飲み物が必要なら、ビーチ近くの道路沿いにコンビニでも作っておけば十分だ。シャワーを浴びたければ、それこそ地元自治体負担で無料シャワーでも設置しておくほうが、よほど気がきいているし、景観として綺麗におさまる。日よけがほしければ、地元のホームセンターで安くシェードを売っているから、買ってからビーチに来ればいい。海の家などなくても、地元にはカネが落ちる。なんの問題もない。


見苦しい歩道
「景観」という話のついでに言うと、道路沿いやマンションのエントランス周辺の植え込みによく植えられている植物、例えば「ツツジ」も必要ない。
あんな見栄えの悪いものを、よくあれだけの数、植えるものだ。咲いた花がまた、なんとも貧乏くさい。
ああいう粗悪なものを人目につきやすい場所にやたら植えまくった結果できたのが、今の日本の「景観」だ。あんなものを、税金を使って刈り込んでメンテナンスまでしている。そんなことして、何になるというのだ。あんなもの、無いほうがよほど景観がスッキリ見える。
むつかしいことはよくわからないが、道路特定財源から「ツツジのメンテナンス支出」なんてものが出ているのかもしれないが、「道路のツツジ」を消滅されば、ひょっとすると日本のクルマに関して多すぎる税金をカットできるかもしれないではないか。もし「ツツジの消滅」で自動車ユーザーの負担が少し軽くできるなら、それこそ日本を支えるクルマの売り上げの向上につながったりするかもしれない。


何十トンものゴミを不法投棄し続けてきた尾瀬だかの山小屋が、罰金と執行猶予つきの懲役刑を言い渡されたなんて事件もあったらしいが、観光地の関係者にかぎって 「ゴミが増えるのは、ゴミを持ちかえらない観光客のマナーが悪いせいだ」などと、わけのわからないヘリクツを言いたがる。そしてゴミ箱を無くしてしまい、景観劣化の責任を観光客に押しつけたがる。
そういう輩に限って、小汚い看板を街中にならべて、本来美しいはずの日本の山や海の景観を、「どこにでもありがちな観光地」に変えて、自分勝手な商売のタネにしている。
そして、挙句の果てには、富士山周辺の景観の美しさが楽しめるマラソンというキャッチフレーズにひかれて集っただけのランナーに向かって、もてなす側の責任を棚に上げ、「マラソンにクルマで集まってくるマラソン参加者が悪い。バスや電車を使えば、こんなことは起きなかった」などと、わけのわからないことを言った人々のように、自分たちの見通しの甘さを棚に上げて、すべて客とクルマと渋滞のせいにする。

なんでもかんでもクルマのせいにしておけば、ラクができるとでも思っている。日本の自動車関連の税金の異常な高さと同じリクツだ。


田舎に住む人というのは、たいていの場合、「クルマは、ここで生きていく上で不可欠だ」というリクツにのっかって生きているわけだが、いざ無謀なマラソン大会の開催に失敗したら、やれクルマは使うな、電車とバスを使え、前日に現地に来て宿泊しろ、では、話にならない。
そんな都合のいいヘリクツは、田舎民が、日頃はクルマばかり使って便利に暮らすようになったクセに、いざ赤字の電車やバス路線が廃止されるとなると、廃線反対だのなんだの突然拳を振り上げたりする愚かな行為と、なにも変わらない。


どうも言葉でうまく説明できないのが困るが、総じて言うと、近代の「日本の景観」には「独特の無責任さ」があった、と思うわけだ。この「近代独特の無責任さ」は、せっかくの美しい日本の景観を、常に「こぎたない」ものにしてきた。富士山も例外ではない。

例えば「無責任な観光地」では、観光地として景色のいい一等地に立つレストランほど、クソまずい食事を平気で出し、観光地価格の高いカネをとるものだ。
こういうわけのわからないマラソン大会を無謀に強行した河口湖でも、湖畔やマラソンスタート地点近くの「商売上、有利な場所」には、きっと「無責任な店」ばかりがズラリとたち並び、マラソンランナーに、くそマズい料理と観光地価格を押し付けたに違いない。


霊峰富士に限らず、日本の山や海は、「こぎたなく」などない。むしろ日本の山海はもともと、心洗われる美しさであり、世界に胸を張って誇ることができる。だから「地元だから景観を自由にして許される」なんてことはありえない。山もビーチも、地元民だけの所有物ではない。
電気製品の設計ではないが、「こぎたなさ」を途中でやめるのは、簡単ではない。こぎたないものをつくるのは、たやすいが、綺麗にしていくには、手間も時間もかかる。
だが、「近代独特のこぎたなさ」をやめてみると、ブームにつられて粗製乱造されまくっている雑なつくりのマラソン大会が、もっとマトモで身の丈にあったものになり、ビーチは自然な美しさにもどり、道路沿いの「無責任なツツジ」が消えてなくなって、せいせいできたりする。
そうなれば霊峰富士も自然に綺麗になるかもしれない。なんといっても、景観にはヒトの内面が反映するものだ。
富士山を綺麗にするには、登山客の数を適度に制限するのもひとつの方法なのだが、富士山登山のための山小屋では、かつて「ありえないほどの狭さ」で多くの登山客をすし詰めにして寝泊まりさせた時代があったらしいが、最近その「富士山の山小屋のありえないほどの狭さ」は、ようやく多少は改善されたらしい。

客が多ければ多いほど儲かるからオッケー、なんて程度にしかスポーツを考えていない「無責任な地元民」やら、マラソン大会のイロハもわからないスポーツ新聞に、「観光客はゴミを持ち帰れ」「クルマを使うな」とか、わけのわからない「観光地にありがちな無責任なヘリクツ」を言われたくない。


damejima at 10:04

June 12, 2012

ネット掲示板などでよく使われる常套句のひとつに、「見えない敵と戦う」という言葉がある。


使い方としては、主に疑問形で使われる。
例えば、「なにかを批判している人間」に向かって、「見えない敵とでも戦ってるのか?」などという具合に、揶揄(やゆ)するのに使う。単に、からかっているだけで、反論があるわけではない。

表面ヅラだけを見ると、「おまえのしている批判は、単に自分自身で作り出した幻影と戦っているだけなのであり、それはただの幻想にすぎない」と諭しているように見えるから、実に論理的な説得じゃないか、とか思うかもしれないが、実際には、そういう使い方をされることは、ほとんどない。
たいていの場合、「見えない敵とでも戦ってるのか?」と発言したがる人間の真の目的は、相手を軽くいなしているかのような印象を周囲にみせつけることによって、手間をかけることなく、むしろ手抜きして、その批判がいかに無意味であるかを見せつけておこう、という、底の浅い論理的なテクニックであることが少なくない。
まぁ要するに、情報操作のための常套句のひとつだ。


ブログ主はむしろ、いま世界がはまりこんでいる21世紀という、このやっかいな世界というものは、むしろ「見えない敵と戦う」のが当たり前のバトルフィールドとして誕生していると、常に思ってブログを書いている。


例えば、1999年の映画 『マトリックス』。
(関係ないが、この映画がジャン・ボードリヤールの著書『シミュラークルとシミュレーション』を参考にした、という意見もあるようだが、ブログ主はむしろ、フリードリヒ・ニーチェの『ヴェール』、あるいはらっきょの皮を1枚1枚剥いていくようなジャック・デリダ的論理構造を元ネタに発想されていると感じる)

matrixという単語は、もとは『子宮』を意味するラテン語からきている。映画「マトリックス」の根底には、「環境とは、『情報という羊水』で満たされた、一種の『誕生前の子宮』である」という見解がある。
キアヌ・リーブス演じる天才クラッカー、ネオが巻き込まれる「見えないものに対する戦い」は、まず「人工の情報と情報操作で満たされた子宮」であるカプセルから抜け出すことから始まる。
カプセルから出て「真の意味の誕生」を迎えたネオのその後の戦いは、実にシンプルで、「カプセルから抜け出さなければ永遠に見ることのなかった本当の世界=リアルを、いかに可視化していくか」という、その1点に尽きている。





よく、この映画をバーチャルリアリティとのからみで説明する人がいるが、この映画のアンチ・バーチャルな立場は、1990年代やたらと流行したバーチャルリアリティ礼賛とは、根本的にスタンスが違う。


例えば資格試験の初級シスアドの模範解答などを見ると、バーチャルリアリティについて、「コンピュータで模倣した物体や空間を、コンピュータグラフィックスなどを使用して実際の世界のように知覚できるようにすること」などと模範解答が書いてあるわけだが、そんな回答では、「社会環境のもつ仮想性の理解」としては、いくらなんでも底が浅すぎる。

人間を取り囲む情報空間というものは、もともとバーチャルだ。別に、手間暇かけてコンピューター・グラフィックを大量に生産し、人間を取り囲めるほどの仮想空間を作らなくても、紙だろうが、言葉だろうが、ヒットソングだろうが、ステマだろうが、材料の質にあまり関係はない。
人間が所属する「環境」というものは、共有されればされるほど、常に模擬的で曖昧な関係、錯覚などが大量に含まれてしまうのが、むしろ普通で、なにもインターネットとPCが登場してはじめて、世界がバーチャルな空間に変わったわけではないのだ。

人間の感受性そのものに、もともとバーチャルな特性が備わっているのだから、たいていのメディアは、その人間の感覚の特性を逆手にとって利用しながら存在している。


映画 『マトリックス』の立場が「アンチ・バーチャル」だからといって、アンチ・コンピューターを標榜しているわけではない。
『マトリックス』は、なにも「コンピューターを全て廃棄して、原始に帰ろう」と言っているわけではないし、また、「他人は信用するな」とか、「社会は欺瞞に満ちているから破壊せよ」と言っているわけでもない。
むしろ、ある意味コンピューターくらい人間的な道具、人間の特性をうまくつかまえた道具もないわけで、そこを勘違いしたままのクセに、あらゆる物事に白黒をつけて話しているつもりのヒトが、いつまでたってもいっこうに減らない。
Apple logo
例えば、Appleほど、人間らしくてオリジナリティのあるパソコンを開発したメーカーはないし、だからこそ彼らは商業的に大成功をおさめたわけだけれども、彼らの着眼のオリジナリティを執拗に批判したがる人に限って、奇妙なことに、「自分こそは、常にオリジナリティを大事にしてきた」と自称したがる人であることが多い。
「電気がもったいないから、野球を全て中止せよ」などと、根拠もなしに激しく主張したがる人にしても、自分自身では「ヒューマニズム的な発言をしている」と固く信じこんでいる。(こういう安易なヒューマニズムが18世紀あたりの発明品であることは言うまでもないが、短く説明するのは難しい)



そもそもわかっていなければならないのは、
かつて「世界」というものが「個人からは、見えないのが当たり前」だった、ということである。

「見えない」からこそ、新聞や書籍が万能であると思われ、また世界の良心の代表であると思われていたかつての「紙の時代」には、「特別なチャンスを持てた個人」、例えば、社会学の学者や、ジャーナリスト、作家、旅行家、探検家、宗教家などが、自分のいる社会を抜け出して、外の世界を観察し、「外界のありさま」を紙の上で語ることで、特殊な地位を得ていた。だからこそ、かつて「旅」は、布教やジャーナリズムであると同時に、征服と領土拡張のスキルでもあった。

例えば、「小説家」という仕事でいうと、江戸文化の影響がそこらじゅうに残っていた明治時代中期の日本には、まだ「近代的な家族関係」などというものは存在していなかったが、こと純文学作家だけは別で、まだ庶民の海外渡航が難しかった時代にあって、夏目漱石であれ、森鴎外であれ、欧米文化に触れる機会を持てた彼らは、「まだ開国したばかりの日本には存在しない、近代的な人間関係というもの」を想像して、作品という人間関係の図式を書きあげた。庶民である読者は「彼らの私小説などに表現された、いかにもありそうな人間関係。だが、実は、まったく架空の、近代的な日本の人間関係や家族関係というもの」を、私小説として味わいながら、近代的な人間関係を「バーチャルに学習」し、さらに、現実の暮らしにおいて「近代を実演してみせようとした」のである。

夏目漱石

つまり、実在する人間関係を写し取って小説という作品が書かれたのではなくて、むしろ逆で、作品に描かれた仮想の近代生活を、現実生活のほうが模倣することで、日本の近代が出来上がっていったのである。

テレビアニメの「サザエさん」なども、まさにこの「バーチャルな近代の学習行為」にあたる。
大正期に入り、現実社会に近代的な人間関係が根付き始めると、全盛期の純文学に期待された「人々が学習するための近代的な家族空間を建築する役割」が消滅し、純文学の社会的必要性が消滅していったことはいうまでもない。ただ、その後も 「テレビで 『サザエさん』を見て、『家族の幸せ』とはどういうものか習ぶような『学習習慣』」 は日本の人々の間にこっそりと残された。


1999年に公開された『マトリックス』にいまも存在価値があると思うのは、今のようなネット社会の誕生を10数年も前に予告したとかいう、くだらない意味ではなくて、むしろ「見えない相手との戦いのはじまり」を告知していた、という点にある。
当時提示された「見えない敵との戦い」の手法は実に単純で、「安易に信じこむのを止めるところから始める」というものだったが、そのシンプルさの有効性は、いまなお輝きを失っていない。

『マトリックス』が出来た1999年は、日本で「個人が、自分だけのためのウェブサイトを作ることのできるツールの全てが出揃った時期」にあたっている。
最初はあくまで個人から他者への情報発信だけがメインだったが、この流れはやがて個人同士がネットでつながることを目的にする流れを生んでいき、mixi、ツイッター、フェイスブックが生まれ、個人のつぶやきとマスメディアはより等価な立場になっていく。


かつて「紙の時代」には、「見えない敵と接触する」ための手段は、ごくごく限られた人に可能だった。だからこそ、「世界の記述」は、紙から得られる知識を広範にもつとともに、並外れた想像力や行動力を持った「特別な個人」だけに可能な、特別な仕事だった。
それにくらべて、「ネット社会」は、むしろ、「誰でも、全体を観ようと思えば、端っこくらい、見えなくもない便利な世界」であり、近代的な家族関係の現実社会への定着が、私小説の必要性を抹殺したのと同じように、ネットは、かつて隆盛を誇った「紙の時代」を終わりにさせようとしている。もはや学者や新聞や作家のいうことだけを鵜呑みにする必要はどこにもない。言いたいことは、自分で調べ、自分で考え、自分で発言すればいい。


だが、そのかわり、困ったことがある。
個人はいまや、かつて社会学の学者や、ジャーナリスト、作家、旅行家、探検家だけが担っていた「見えない世界との戦いや、世界の記述」という責任の重さを、個人の肩に背負わされるようになってきているからだ。
野球でいえば、スポーツジャーナリスト風情や評論家程度の話をすべてマトモに受け取る必要など、どこにもない時代だとは思うが、そのかわり、自分なりの意見を発言しようと思えば、山積みになっている情報から自分なりの基準や根拠を編み出す必要はある。

便利なことに、少なくともネットには、情報だけはいつでも誰でもアクセスできる状態で目の前に山積みされているわけだから、氾濫する情報の中から「知見という織物を編み上げる技術」さえあれば、誰でも意味のある情報を生産できる。(例えばこのブログ程度のことは、ネットに落ちている以上の素材など、まるで扱ってないのだから、書こうと思えば、誰でも書くことができる

いまや問題なのは、情報収集量の多さではなくて、「情報を編む視点の独自性」や「情報の編みかたの上手さ」、そして「性格のしつこさ」だ(笑)
「見えない敵」と戦ってみることは、自分の置かれた場所や、自分のポジションについて理解を深め、また、つまらない人間に騙されないようにする行為でもあるから、誰もが、大いに調べて、データとデータの間に自分だけの「つながり」をつけて、好き放題に意見を言えばいい。


こうしていま個人は「かつて見えなかったものを、見ようとする行為」を新たに課せられ、日々戦っている。
何もしないで下手糞な批判ばかりしている「情報ニート」に、そのめんどくさい日常を「見えない敵と戦っている」などといちいちうるさく言われる筋合いなどない。
どうせ的はずれなのがわかりきっている他人の話やマスメディアなど読んでいるくらいなら、自分で何か書いたほうがマシな時代なのだ。

Reality or Truth

捕捉:
いろいろと調べてみたにもかかわらず、残念ながら詳細がわからずじまいなのだが、現在、マトリックス3部作、および、ターミネーターについての著作権については、アメリカでの6年にもわたる長い裁判を経て、作家・脚本家Sophia Stewartなる人物の“The Third Eye”という作品にある、ということになっているようだ。
たいていの有名人にはWikipediaに項目があるものだが、どういうわけか、このSophia Stewartの項目がみあたらない。そして、なぜひとつの作品が2つの映画の原作として著作権を主張できたのかについても、ウェブ上に説明がほとんどみあたらない。いちおう注意書きとして記録しておく。
UPDATE: Matrix & Terminator Creator Sophia Stewart Won Landmark Trial | Clutch Magazine

Sophia Stewart filed a $150 million dollar malpractice lawsuit against her former attorneys | New York Paralegal Blog

Black Author wins Copyright Case for Matrix movie « Jason Skywalker's Blog

damejima at 19:10

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