November 08, 2017
大投手ロイ・ハラデイ、飛行機事故で逝去。享年40歳。
2010年に以下の記事を書いた。
2010年10月21日、ちょっと心配になるロイ・ハラデイの「ひじ」と、「アンパイアのコール」。今日の球審は、今年8月、これまで一度も退場になったことのないニック・マーケイキスと、監督バック・ショーウォルターを退場にしたJeff Nelson。 | Damejima's HARDBALL
ハラデイのフォームに違和感を感じて書いた記事ではあるが、正直いって、当時ハラデイの身体が「壊れている」とまで感じたわけではなくて、ちょっとヒジの調子がよくないのかな、と思った程度だった。
実際、この年ハラデイは、21勝して最多勝を手にし、完全試合と、ポストシーズン初戦のノーヒット・ノーランまで達成して、2度目のサイ・ヤング賞投手にもなったのだから、大投手ハラデイの「全盛期」はまだまだ「長い」、と思えた。
2010年10月6日、長年の念願をかなえポスト・シーズン初登板のロイ・ハラデイが、いきなりノーヒット・ノーラン達成! | Damejima's HARDBALL
彼の真骨頂は、短く言えば
「球数の少なさ」にある。
「1球はずしておいて、勝負」などというのは、「たとえ」として言えば、手数の多すぎる寿司職人と同じだ。7手で握れるのと、9手では、熟練の度合いがまるで違う。「1球はずして」なんていう発想があるうちは、超一流なんて言えないことを教えてくれたのが、ロイ・ハラデイだった。
— damejima (@damejima) 2017年11月8日
球数が少ない中でバッターをうちとれれば、「長いイニング」を投げられる。当然だ。だが、球数を減らすには、「ストライクを投げ続ける勇気」のほかに「バッターに振らせる才能」がなければならない。
ただ、振らせて、マトモにバットの芯で打たれるのでは、困る。芯を食わないためには、「いかにも打てそうな、だが、実際には打ちにくい球」を投げ続けなければならない。当然ながら、「コントロール」がよく、「変化球がキレて」いなくては、話にならない。
ノーヒットノーランを達成した2010NLDSのシンシナティ戦も、わずか104球での達成だ。ひとりあたり3.85球と、ひとりあたり4球以下でバッター27人を仕留めたことになる。まさにハラデイの面目躍如となった歴史的なゲームだった。
このブログに1000以上書いてきた記事の中で、自分が常に「これを読んでもらいたいと思っている記事」のひとつが、これだ。フィラデルフィアに移籍する直前、トロント時代のデイヴィッド・オルティーズに対する投球について書いたものだが、本当に効果的に考えぬかれた配球だと今でも思う。
メジャーと日本の配球論の差異から考える「城島問題」 『damejimaノート』 序論:2009年9月30日、大投手ハラデイの「配球芸術」を鑑賞しながら考える日米の配球の違い | Damejima's HARDBALL
自分が思う、これこそが「ロイ・ハラデイ」と思った投球。対戦相手はオルティーズ。(https://t.co/ZfQzzdlF51 より)外のチェンジアップ、内のカットボール、そして、インローにカーブ。「芸術」としか、言いようがない。形容する言葉がない。 pic.twitter.com/Ba9lKyxKtD
— damejima (@damejima) 2017年11月8日
分析が大流行の時代ではある。
では、その「分析」とやらがあらゆるバッターに通用するか、というと、アーロン・ジャッジ程度のバッターにホームランを50本も打たれるのだから、そうでもない。なぜって、いくら打者の攻略方法が分析でわかったとしても、「思ったとおりに投げられる能力」がない投手ばかりなら、分析結果が役に立たないからだ。
誓ってもいいが、もしハラデイと対戦していたら、アーロン・ジャッジ程度の弱点のわかりきっているバッターは三振を繰り返して手も足も出ない。
あれほど輝かしい2010年を経験したハラデイだったが、その後数年で引退した。思えば2010年はキャリアのハイライトだったわけだ。引退直前のハラデイについて、マイケル・ヤングがこんなことを弔意とともに語ってくれている。
I’ll never forget Aug ‘13. Doc and I were two months away from retirement. He was hurt, clearly. He was still pitching tho. One day in Wrigley he was throwing 83, and all over the place. I go to the mound and he just said “everything hurts.”
— Michael Young (@MikeyY626) 2017年11月7日
He wouldnt come out. Always fighting.
「あれは忘れもしない(2013年の)8月13日。ドクと僕は引退を2ヶ月後に控えてた。彼は明らかに怪我してたが、まだ投げていた。ある日、彼はリグレイ・フィールドで83球投げ、自分をコントロールする力を失ってた。マウンドに行ったら、彼は「どこもかしこも痛む」とだけ言った。でもマウンドは降りなかった。彼はいつもそうやって戦ってたんだ。」
痛々しすぎる。
読むのが辛かった。
親友の突然の死にあたって、普通なら、その人の生前の「最盛期」のことを「英雄的に」語ったりするものだ、と、われわれは思いがちだ。
だが、よく考えれば、最盛期だけ語って悲しむような「うわべの行為」は、実は、その人のことをメディアを通してしか知らない、「疎遠な人」のやることだ。マイケル・ヤングはそうはしなかった。
マイケル・ヤングは、よくあるRIPというような省略語ではなく、彼自身の言葉と経験で、「ロイ・ハラデイが、引退するシーズンの最後の最後まで、自分が『ロイ・ハラデイであり続けよう』と必死に頑張っていたこと」を静かに語ってくれた。
今はもう、ロイ・ハラデイはこの世にいない。
ロイ・ハラデイは、「大投手ロイ・ハラデイ」として、その野球キャリアとともに名誉ある短い人生を終えたからだ。
大投手、ロイ・ハラデイ。
野球とともに生きた40年間だった。
「彼は『すべてのチカラが尽きるまで投げた』んだよ」と、マイケル・ヤングはいうわけ。「すべて」だよ、すべて。すべてをメジャーのマウンドで投げつくして、もうダメだってとこまで投げて、引退した。
— damejima (@damejima) 2017年11月8日
野球とともにあった人生。ロイ・ハラデイ。
November 03, 2017
2017年のポストシーズンに彼がスターターとして出場したのは、アリゾナとのNLDS第3戦、カブスとのNLCS第3戦、ヒューストンとのワールドシリーズ第2戦だが、打撃面で結果をまったく残せなかった。
3試合の相手投手が、ザック・グレインキー、カイル・ヘンドリックス、ジャスティン・バーランダーと、すべて右投手ばかりだったことをみれば、ドジャース監督デーブ・ロバーツがチェイス・アトリーを「右投手先発時専用の臨時セカンド」として起用したことがわかる。ワールドシリーズ第7戦の代打のときの投手も、右のチャーリー・モートンだった。
ロバーツが2017ポストシーズンに起用したメインの二塁手は、2017年1月にタンパベイから獲得したローガン・フォーサイスで、46打席で11安打9四球を獲得、.435もの高い出塁率を残した。2017レギュラーシーズンに119試合出場したフォーサイスは、うち76試合でセカンドを守ったが、セカンド出場時が打率.274で、最もいい。
Logan Forsythe 2017 Batting Splits | Baseball-Reference.com
このワールドシリーズの打席結果で「フォーサイスはシュア打者」という印象をもった人もいるかもしれないが、どういうものか彼には「右投手がまったく打てない」という致命的な欠点がある。
ドジャースのセカンドといえば、かつてはディー・ゴードンの定位置だったわけだが、ゴードンも、ゴードンがマイアミに去った後の後継者のハウィー・ケンドリックも、右も左も関係なく打てた。そのため、ちょっと前のドジャースは二塁手をツープラトンにする必要がなかった。
だが、ケンドリックの後釜になるはずだったアトリーは、残念ながら違った。2016年に138試合も出場させてもらいながら、どうしたわけか左投手がまったく打てなくなってしまった。フィラデルフィア時代の彼は、左に多少苦手意識があったにしても、全然ダメというわけでもなかっただけに、原因はよくわからない。とにかくドジャースは年齢の高いアトリーにフルシーズンまかせるのをすぐに諦めた。
そこで2017年1月にタンパベイからトレードしてきたのが、かつてサンディエゴの2008年ドラフト1位だったフォーサイスで、たしかにフォーサイスの2016年のスタッツだけみれば、右投手に100個もの三振をさせられているとはいえ、「左も右も、そこそこなら打てる打者」であるようにみえた。
Logan Forsythe 2016 Batting Splits | Baseball-Reference.com
ところが、こんどはそのフォーサイス、ドジャース移籍以降「右投手がまったく打てない」のである。
おまけに、悪いことに、2016年から指揮をとりだした監督デーブ・ロバーツは、ヤンキースを実質クビになったジョー・ジラルディ同様の、非常に悪性の「左右病患者」ときた。
そんなわけで、2017年ドジャースのセカンドは、投手が左なら右打者フォーサイス、右なら左打者アトリー、と、「典型的なツープラトン体制」にあった。
この「重症の左右病患者デーブ・ロバーツのツープラトン」がどういう結果を招いたかといえば、以下の記事にみるとおり、選手に非常に難しいコンディショニングを強いることになったと、ブログ主はみる。
とりわけ、さすがに体力の衰えが隠せないチェイスは、何試合かおきに先発するような、断片的な出場のもとでは、実力を発揮することが難しかっただろう。
イチローの苦悩がわかる。アトリーが語る「代打で試合に出る難しさ」|MLB|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva
では、2017年のチェイス・アトリーは何も足跡を残さなかったか。
そうではない。
かつて以下の記事で「二塁打を数多く打てる打者の意味」を少しだけ書いたことがある。
2012年1月3日、率と期待値を足し算している「OPSのデタラメさ」 (4)実例にみる「四球数の、長打力イメージへのすりかえ」。数字に甘やかされたハンパなスラッガーたちのOPSの本当の中身。 | Damejima's HARDBALL
アトリーは、2017年のレギュラーシーズンに「353打席」という限られた打席数の中で、「20本の二塁打」を打ってみせている。これはけして少なくはない。
この「レギュラーシーズン、二塁打20本」の意味するところは、「まだまだチェイス・アトリーはやれる」という意味だとブログ主は考えたし、ポストシーズンにも、彼のワールドシリーズ経験をもっと生かすべきだった。
Chase Utley 2017 Batting Splits | Baseball-Reference.com
だが、なにも「デーブ・ロバーツはポストシーズン全試合で、フォーサイスではなく、アトリーを使うべきだった」と言いたいわけではない。
言いたいのは、少なくともロバーツは、短期決戦のポストシーズンではツープラトンなどという中途半端で無意味な戦術はやめ、「どちらの二塁手と心中するのか」ハッキリ決めて、フォーサイスかアトリーのどちらかを「しっかり使いきる」べきだった、ということだ。
きちんと決め打ちしないから、コンディションのよくないアトリーがたまに起用されては打線を寸断する原因になったりする悪循環に陥るのである。
ドジャースは打線がまったく機能しなかった試合が多かったわけだが、ダルビッシュの第7戦先発を含め、「ロバーツの選手起用の下手さ」はワールドシリーズの明暗を分けた。
第7戦のアトリーの代打起用にしても、いくら右投手がマウンドにいるからといっても、試合の趨勢が決まってしまった9回裏に、それまで13打数ノーヒットのチェイス・アトリーを打席に立たせる必然性など、どこにもない。
もしワールドシリーズ制覇をあきらめていないのなら、無意味なツープラトンでコンディションを崩していたチェイス・アトリーを打席に送るのではなく、他の誰かでよかったはずだ。最後の1球まで試合を諦めるべきではないことなど、ワールドシリーズでは言うまでもないことだ。
それにしても、2012年12月にフィリーズの2年契約オファーをイチローが受けていたら、3000安打ももっと早く達成できていただろうし、「1番イチロー、2番マイケル・ヤング、3番チェイス・アトリー、先発クリフ・リー」だったのに、などと、2017年になっても、いまだに思っているブログ主ではあった(笑)
2015年2月26日、「1番イチロー、2番マイケル・ヤング、3番チェイス・アトリー、先発クリフ・リー」なんてスタメンがありえた「夢の2013年フィリーズ」。イチローへの2年14Mのオファーを懐かしむPhilliedelphia.com | Damejima's HARDBALL
September 16, 2017
あるいは、ちょっと言いかえるなら、「もしあなたが代打という、気まぐれなシチュエーションでワンシーズン出場したとして、3割打てるか」という質問でもいい。
イチロー2017年
月間(打率、出塁率)
7月 .321 .472
8月 .346 .370
9月 .375 .500
2017年通算(打率、出塁率、wOBA)
走者なし .240 .303 .280
走者あり .296 .367 .326
得点圏 .341 .426 .381
ソース:Baseball Reference, Fangraph
自分は、今シーズンイチローがスタメン起用されていたら確実に3割打てただろうと思っている。だから、来シーズンのイチローの契約について、自分は心配したことなど、一度もない。
そんなことよりも、だ。
むしろ、今シーズンのイチローについて、「なぜ?」とクビを傾げていることがある。
盗塁がゼロであることだ。
イチローを見る、という「行為」は、バッティングだけでなく、走塁を見て、守備を見て、あらゆる「野球のあらゆる時間を楽しむ総合的な行為」であるべきであって、代打でバッティングだけ見るというのは、苦痛以外のなにものでもない。
盗塁死が1度だけあるところをみると、イチローの側に走る気持ちがまったくなかったわけでもなさそうだが、とはいえ、ゲーム終盤にイチローが代打として起用されるシチュエーションの大半が、盗塁を期待しない、リスクをかけられないシチュエーションばかりだったのかもしれない。よくわからない。
なぜだ。
足のどこかを痛めているのか。
誰か、マッティングリーにイチローの盗塁を禁止してないかどうか、聞いてきてくれ(笑)
冗談はさておき、ついでだからいうと、マイアミのオーナーが来シーズンからデレク・ジーターのグループに変わったら、監督ドン・マッティングリーか、GMマイケル・ヒルのどちらか、特にマッティングリーはクビになるんじゃないかと、ちょっと思ってる。なぜって、やりようによっては今シーズンのマイアミはポストシーズン進出の可能性が十分あったと、誰しも思っているはずだからだ。
September 02, 2017
例えば、東京でない場所が東京を真似て東京になれるか。なれない。日本でない誰かが日本を真似ても、日本そのものにはなれない。
いまでは誰も触れないが、国立霞ヶ丘陸上競技場がなぜ明治神宮外苑にあるかといえば、現在の国体の前身である「明治神宮競技大会」が外苑を会場に行われており、そのメイン会場が「明治神宮外苑競技場」だったからだ。この「明治神宮外苑競技場」が国立霞ヶ丘陸上競技場の前身にあたる。
— damejima (@damejima) 2017年9月2日
国立霞ヶ丘陸上競技場、いわゆる国立競技場の建て替え問題で廃案になったザハ案は、「場所の歴史をまったく考慮しない机上の空論」だった。ザハ案は結局実現せずに終わり、ザハ自身もこの世を去った。他人の真似しかできない無能なデザイナーがデザインしたエンブレムも葬られた。
日本のマスメディアは、膨大な建設費の問題こそ、さかんに報道したものの、「なぜあの場所に陸上競技場があったのか」という根本的な部分をまるで理解しようともしていなかったし、「明治神宮外苑の意義ある歴史」という原点にきちんとたちかえって、新・国立競技場のあるべき姿を論じたメディアなど、まるで皆無だった。
かつての国立霞ヶ丘陸上競技場は「理由」があって、あの場所にあった。それには大きくわけて遠いもの、近いもの、2つの歴史の流れがあり、2つの歴史はか細い接点によってひとつの場所に結ばれている。
なにはともあれ、まず年表で確認してもらいたい。
遠い歴史とは、江戸時代に大名屋敷だったあの場所は、明治時代に練兵場になったことだ。近い歴史とは、大正・昭和時代にはずっと陸上競技場だったことだ。
あの場所は、この100年以上にわたって個人所有だったことは一度もない。ずっと「公(おおやけ)の場所」という立ち位置にあった場所であり、そういう意味で「特別な場所」だった。
年表1 練兵場時代
1871年(明治4年)日比谷・霞が関の武家屋敷跡に陸軍操練所設置
1885年 (明治18年)陸軍操練所が「日比谷練兵場」と改称
1888年 (明治21年)日比谷練兵場が青山に移転。「青山練兵場」と改称
1894年(明治27年)青山練兵場内に青山軍用停車場が開業
1909年(明治42年)青山練兵場が代々木に移転。「代々木練兵場」と改称(=後の代々木公園)
「明治神宮外苑」という地域は、もともと日比谷にあった陸軍の練兵場が移転して1888年にできた「青山練兵場」が前身である。
この練兵場には、(当時は甲武鉄道という私鉄だったが)現在の中央線の千駄ヶ谷あたりから分岐した鉄道がひかれていた時代があり、練兵場内には青山軍用停車場という駅も設置されていた。この駅から日清・日露戦争時に日本の若き精鋭たちが出陣していった。
余談ではあるが、青山練兵場と青山軍用停車場の存在がわかれば、第二次大戦時に明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会、いわゆる「学徒出陣」が行われる伏線になっていることがわかる。
学徒出陣について、すぐに「第二次大戦特有の悲劇」だ、などと勝手に思い込んでいる「戦後のオジサンたち」が数多くいるわけだが、それは間違いだ。「東京・青山を起点に、年端も行かない若者たちが戦争にかりだされていった」のは、なにも「第二次大戦時だけだった」わけではないのである。日清・日露戦争時以来ずっとこの場所は「若者を鍛え、そして、送り出す場所」だった。
戦争を賛美しよう、というのではない。
勝った戦争のお祭り騒ぎは看過し、負けた戦争の若者の犠牲は徹底して批判するというのでは、まるで「スジが通らない」と言いたいのである。
日本が戦勝国となった日清・日露戦争時には、出征はまるでお祝い事ででもあるかのように扱われ、戦争が終わってからは戦勝を祝う数々の石碑が日本中で建てられ、その多くはいまも現存している。
かたや、敗戦に終わった第二次大戦の若者たちの出征については、戦後になって悲劇の主人公のように扱われてきた。第二次大戦の若者たちの出征を批判的に扱う人は数多くいるが、日清・日露戦争時の戦勝記念行為を批判したなんて話は、ほとんど聞いたことがない。
勝った戦争においても、負けた戦争においても、犠牲は、後世の人間にとって常に厳粛に受け止めてなくてはならないものなのだ。
戦争をなくす、ということは、負けた戦争についてだけ批判を繰り返す、というようなハンパな行為によって成就するものではないはずだ。
年表2 陸上競技場時代
1924年 青山練兵場跡に明治神宮外苑競技場 開場
1924年 第一回 明治神宮競技大会 開催(〜1943年)
1926年(大正15年/昭和元年) 青山練兵場跡地に神宮外苑完成
1930年 第九回極東選手権大会 開催
1957年 明治神宮外苑競技場 取り壊し
1958年 国立霞ヶ丘陸上競技場 完成
1964年 東京オリンピック開催
2015年 国立霞ヶ丘陸上競技場 取り壊し
2020年 東京オリンピック開催予定
青山練兵場が明治神宮外苑に改組された契機は、1912年の明治天皇崩御であり、第二次大戦とはまったく何の関係もない。
明治神宮には「内苑」と「外苑」があり、「内苑」である明治神宮本殿が国費で造営されたのに対し、「外苑」は民間有志により結成された明治神宮奉賛会が、国民の寄付や献木、全国青年団の勤労奉仕によって造営され、その後「明治神宮に奉献」されたという違いがある。(日本青年館というホールがこの地にあるが、この施設は「外苑の造営に大きな貢献をした青年団へのご褒美」であり、偶然できたわけではない)
明治神宮外苑の中心は当然絵画館だが、他にたくさんのスポーツ施設があり、施設全体は政治的でも宗教的でもなく、文化的なものとしてできている。
明治神宮外苑競技場は、日本初の、そして当時東洋一の本格的陸上競技場として建設され、明治神宮競技大会のメイン会場だった。
明治神宮競技大会は、現在でいえば「国民体育大会」にあたる総合スポーツイベントであり、時代とともに主催者、名称、競技種目を変えながら、1924年(大正13年)から1943年(昭和18年)まで計14回開催された。陸上・水泳など夏季五輪の競技だけではなく、スキー、スケートなどの冬季競技も含まれていて、当時の日本にとっては「国内版総合オリンピック」だった
明治神宮競技大会 - Wikipedia
第二次大戦時に、明治神宮外苑競技場が出陣学徒壮行会に使用された。が、それは偶然ではなく、むしろこの地では古くから壮行会が開催された歴史がある。
出征兵士を送り出す臨時線・駅が特設された
1894年 青山(明治27年)▷日清戦争時の青山練兵場の特設駅
https://jaa2100.org/entry/detail/052541.html
September 01, 2017
官房長会見で東京新聞記者・望月衣塑子「(北朝鮮のミサイルについて)ある程度、金委員長側の要求に応えるような働きかけはしないのか?」 https://t.co/EFNs1Jl4Ao ハッキリ言わせてもらう。常識を「外れすぎ」てる。もはや言葉を選ぶ段階にない。アンタはキチガイ。
— damejima (@damejima) 2017年8月31日
日本の国土の上空をミサイルが通過するこの異常な時代にあって、官房長官に「ある程度、金委員長側の要求に応えるような働きかけはしないのか?」などと質問する度を越したアホがジャーナリストを気取るような、キチガイじみた時代である。
ブログ主は、もし近い将来に、東京新聞記者・望月が、中国や北朝鮮などから資金提供を受けた宣伝協力者、あるいは工作員、あるいは内通者とわかったとしても、特に驚かない。
なぜそんな三流スパイ小説まがいのことを懸念するのかといえば、第二次大戦後の暗号解読や情報公開によって明らかになったさまざまな「事実」によって、英国やアメリカの、それも戦時の政権や情報機関の内部においてすら、「欧米向けの宣伝活動の従事者」、「内通者」、「スパイ」が、少なからず実在していた実例があるからだ。以下のエピソードはそのほんの一部にすぎないが、これらは作り物の小説でも、映画でもない。
第二次大戦前後の英米におけるスパイ事件で、まずアタマに入れるべきは、Venona projectだろう。(ベノナ・プロジェクトは単に「ベノナ」と表記される場合も多い。また「ヴェノナ」という表記も多数あり、検索に工夫が必要)
Venona project - Wikipedia
アメリカで1943年から30年以上にわたって続けられたベノナ・プロジェクトの目的は、当時の米国内にいたソ連スパイと、ソ連との間で交わされる暗号電文に使われていた "one-time pad" (ワンタイム・パッド)と呼ばれる「使い捨ての暗号化方式」の解読によって、「スパイの実在を確定すること」にあった。
one-time pad は現代のネット取引で使われている「ワンタイム・パスワード」の前身にあたり、ベノナ・プロジェクトで解読に成功した文書の多くは、いまもウェブ上で公開されている。
ベノナ・プロジェクトの最も大きな成果は、「疑惑」を「事実」に変えたことだ。
原爆製造情報の流出を筆頭に、アメリカから外部への情報漏洩については、アメリカ国内にいる多数のソ連スパイの関与が指摘され続けていたが、その実在の証明はいまひとつ不確かなものであり、また、当時のマスメディアはスパイ疑惑の追及に対して「冤罪」を主張して抵抗していた。
だが、ベノナ・プロジェクトによってアメリカ国内はもとより、当時の政権の中枢にすらソ連のスパイが実在していたことが証明され、また、スパイ疑惑に抵抗する当時のマスメディアの冤罪キャンペーンにも、コミンテルンやソ連の誘導や資金提供があったことが後年の検証で判明した。
(また、この記事では触れきれないが、第二次大戦前のアメリカ国内には「見た目に中国支援者にみえる有力者」が多数いて、中国支援のロビー活動や反日世論の喚起を熱心に行っていたが、ベノナ・プロジェクトによって、そうした当時のアメリカ国内の中国支援団体の主要人物の多くがソ連のスパイだったことがわかっている)
具体的事例に移ろう。
ベノナ・プロジェクトの暴いた代表事例といえば、
ローゼンバーグ事件だろう。
これは、アメリカのユダヤ人夫妻ジュリアス・ローゼンバーグ(Julius Rosenberg)とエセル・グリーングラス・ローゼンバーグ(Ethel Greenglass Rosenberg)が原爆製造情報をソ連に売りわたしていたスパイ事件だ。
夫妻の情報源は、アメリカの原爆開発地であるロスアラモス国立研究所で働いていた妻エセルの実弟デイヴィッド・グリーングラス(David Greenglass)であり、この男も夫妻同様にソ連のスパイだった。
夫妻は1951年に死刑判決を受けたが、判決を不当と主張する左翼系マスコミなどによってアメリカ政府を非難するプロパガンダが行われた結果、「プロパガンダに乗った多くの著名人」が冤罪を訴えたことでも有名になった。(サルトル、コクトー、アインシュタイン、ロバート・オッペンハイマー、ハロルド・ユーリー、ネルソン・オルグレン、ブレヒト、ダシール・ハメット、フリーダ・カーロ、ディエゴ・リベラ、ピカソ、フリッツ・ラング、教皇ピウス12世などなど)
だが結果的には、ベノナ・プロジェクトによる暗号解読によって「ローゼンバーグ事件が事実だった」ことが判明。また、冷戦終結後に公表されたソ連の内部文書や証言によって、ローゼンバーグ事件における左翼系マスメディアのプロパガンダそのものが、ソ連が関与した「ステマ」だったことすら明らかになったらしい。
さらにもうひとり、ベノナ・プロジェクトで判明したソ連のスパイに、元・財務次官補ハリー・ホワイト(Harry Dexter White)を挙げないわけにはいかない。
ローゼンバーグ夫妻と同じユダヤ系アメリカ人で、ボストン生まれのハリー・ホワイトは、ハーバード大学の大学院を経てフランクリン・ルーズヴェルト政権の財務次官補の要職についた。
彼は、在米日本資産の凍結を支持した人物であり、また、第二次大戦直前の1941年、米国から日本への最後通牒となった、いわゆる "Hull note" (ハル・ノート)の原案となったモーゲンソー私案を作成した、まさにその人物である。
ハリー・ホワイトは1943年から始まったベノナ・プロジェクトによってスパイ疑惑を指摘され、1948年に米下院非米活動委員会に召喚されたが、疑惑を否定。そのわずか3日後、毒性のある植物であるジギタリスの大量服用による心臓麻痺で急死している。
ソ連のスパイだったハリー・ホワイトが「ハーバード卒」だったことは、わざと明記しておいた。それには以下のような理由がある。
第二次大戦当時、中華民国総統だった時代の蒋介石の周辺にたくさんのハーバード卒業生がいたといわれるように、第一次と第二次の大戦間には、英国ケンブリッジ大学、米国ハーバード大学など、英米の有名大学卒業生に非常に多くの「共産主義信奉者」「左翼思想にかぶれた若者たち」がいたことがわかっているからである。
以下を読んでもらえばその責任の一端がわかると思うが、第二次大戦後の「核兵器の時代」、つまり「相互の核武装を前提にした東西均衡」の発端は、大戦前後の混乱期に多発した「共産主義を信んじこんだ無謀で無責任な各国の若者たちによる、原爆などの国家機密の漏洩」に原因のひとつがある。
例えばケンブリッジ・ファイブ(Cambridge Five)と呼ばれたイギリスの集団は、1930年代にケンブリッジ大学で共産主義を信奉するようになったグループで、主犯格キム・フィルビー(Kim Philby)は、ソ連のスパイでありながら、同時になんとイギリスの諜報機関の次期長官候補ですらあった。
同じように、ケンブリッジ・ファイブのメンバーはその一流大学卒の経歴を生かし、イギリス外務省、情報機関MI6やSIS、国営放送BBCなど、国家機密や情報に直接関わりをもつ要職につき、ソ連のスパイとして、イギリスとその同盟国の情報を大量にソ連に手渡したとされている。
広島と長崎に投下された原爆を製造したアメリカのマンハッタン計画で、原水爆製造に深く関与した元ドイツ人クラウス・フックス(Klaus Fuchs)も、ソ連のスパイだった西側欧米人のひとりだが、このクラウス・フックスがアメリカからイギリスに移って以降にもたらした原爆製造情報をソ連に流していたのは、ケンブリッジ・ファイブのひとり、ドナルド・マクリーン(Donald Maclean)だった。
ケンブリッジ・ファイブの容疑は1950年代に露見しかかったが、主犯格キム・フィルビーがメンバーに通報したために、メンバーの大半がソ連に亡命し、処罰をまぬがれた。マクリーンも1951年に亡命、ソ連共産党に入党して財産を与えられ、モスクワで死去している。
次に、赤いジャーナリスト、エドガー・スノー(Edgar Snow)を挙げておこう。
エドガー・スノーはミズーリ大学とコロンビア大学の出身で、気まぐれに出かけた世界旅行のついでに中華民国に長期滞在したのをきっかけに中国専門ジャーナリストになった。1937年になると、毛沢東を神格化し、毛沢東による中国革命を賛美する中国宣伝本 "Red Star Over China" 『中国の赤い星』を出版。当時の欧米や日本の「知識人気取り」の間で「必読本」として扱われ、一世を風靡したようだ。いいかえると、この書籍を読んだ若い知識人気取りが共産主義にかぶれる原因のひとつをつくった。
だが、日本人として忘れてはならない彼の著作は、なんといっても1941年出版の "The Battle for Asia" 『アジアの戦争』だろう。
南京事件を報道した "The Battle for Asia" は、後に「南京で日本軍が30万人を虐殺した」という歪曲情報を固定する「宣伝戦略」の中心材料となった。
スノーが著作を書くにあたっては、接触がJDサリンジャー並みに難しかった毛沢東がインタビューを許すかわりに、「果てしない数の原稿の書き直し」をさせられていたことがわかっている。同様の「書き直し作業」は、 "Red Star Over China" のみならず、エドガー・スノーの第二次大戦時の著作の大半にみられるようだ。
つまり、スノーは言われるがまま、「宣伝文」を書かされていた、ということだ。後年の検証で、エドガー・スノーが南京大虐殺に関する一次情報を扱う立場になかったことなど、彼の著作の信憑性には多数の疑問がつきつけられている。
またスノーの著作によって神格化していた毛沢東の実像についても、例えばユン・チアンとジョン・ハリデイによる『マオ 誰も知らなかった毛沢東』など、近年の検証によって当時の実態が明らかにされつつある。
「 『マオ』が伝える中国の巨悪 」 | 櫻井よしこ オフィシャルサイト
また、エドガー・スノーに似た、アメリカの中国共産党専門のジャーナリストに、アグネス・スメドレー(Agnes Smedley)がいる。
スメドレーは、毛沢東に会うチャンスを与えてもらうかわりに「宣伝のための作文」を書かされていたエドガー・スノーに似て、1940年前後に、当時内戦状態にあった国民党と共産党の双方から取材して記事を書かせてもらえるチャンスに恵まれたことで一躍有名になった。
だが、1950年に下院非米活動委員会から召喚状が発せられたスメドレーは、その日にロンドンに飛んで、召喚に応じることなくその夜に急死した。これは非米活動委員会から召喚され3日後に突然死亡したハリー・ホワイトとまったく同じ展開であり、スメドレーも、ハリー・ホワイト同様に、冷戦終結後の情報公開によって「コミンテルンから資金援助を受けて欧米向けの宣伝活動に従事していた」ことが判明した。
なお、南京事件自体を初めて世界に発信したのは、エドガー・スノーではなく、イギリスのマンチェスター・ガーディアン特派員、ハロルド・J・ティンパーリ(Harold John Timperley)だが、このティンパーリにしても、スメドレーと同様、国民党中央宣伝部顧問の肩書きがあり、その著作群が中国国民党中央宣伝部の意をうけて発行されたものである疑いをもたれている。
もちろん、ここに書いた数々の話題の真偽を、どう確かめ、どう判定するかは、読む人の自由であり、ブログ主の関わるところではない。
少なくとも言いたいことは、「情報」というものが「意図的に作られ」、世論というものが「意図的に操作される」ことなど、かつても、今も、けして珍しくない、ということ、そして、そういうスパイ小説まがいの行為について「それは陰謀論ってやつですね(笑)」と笑い飛ばして無視できる時代は、残念ながらとっくの昔に終わった、ということだ。
官房長官への記者会見という公式の場所で、堂々と異常な質問を繰り返す東京新聞記者の異常さは、まさに「言葉でできたミサイルを日本に向けて飛ばす行為」としか、言いようがない。
また蛇足だが、日本の戦後史の評価についても、いい機会だから自分で調べてみることをお勧めしたい。
ハル・ノートを起草して日本を戦争に追い込んだハリー・ホワイトや、南京事件の歪曲報道に関わったエドガー・スノーやハロルド・ティンパーリの足跡から、「第二次大戦前後の国際世論がどれほど、中国やソ連、コミンテルンなどによって誘導されていたか、そして、その情報の歪曲が、これまで日本の国益をどれほど損なってきたか」考えるべきだ。
共産主義かぶれの人間は、とかく核の時代を批判したがる。だが、むしろ聞きたいのは、核による危険な均衡の時代の『開幕』に、あなたがたは関与してこなかったと本当にいえるのか、ということである。
August 27, 2017
そのフリードマンのよく知られた言葉のひとつに、「情報はいくらあってもいい」というのがあるが、この言い方は「誤解」を招きやすい。「情報を集めれば集めるほど、勝てる」などという「間違った理解」を生みやすいからだ。情報の多さが勝ち負けを決めるなら、誰も苦労などしない。(もちろんフリードマン自身、そんな意味では言ってないと思う)
「現場」にとって、情報は重要なのはたしかだ。
だが、情報が多ければ多いほど「対策や戦術がパーフェクトになる」わけではない。
むしろ大事なのは、以下の鉄則だ。
「情報は常に不完全だ」という前提で戦う
「災害」を例に考えてみる。
ブログ主が東日本大震災から学んだことのひとつは、災害の被害規模を決定する要因は、過去と現代とでは異なる、ということだった。
かつては地震の震度やマグニチュード、台風の風速や暴風圏の広さがそのまま被害規模を決定していたが、現代では、天変地異のパワーが被害規模とイコールとは限らない。
むしろ、ブログ主がみるかぎり、東日本大震災の未曾有の惨事の被害規模を決めたファクターは地震の大きさではなく、「情報の混乱と寸断」にあるとしか思えなかった。
例えば台風だが、昭和の時代には室戸台風や伊勢湾台風のような「数千人もの死者が出た事例」があった。だが近年になると、物理的な被害はまだまだ防ぎきれないにしても、こと人的被害についてだけいうなら、「対処のしかた次第で、その大半を防止できる可能性」は高い。「防災技術や情報共有メディアの発達した現代」においては、災害の被害規模は、必ずしも「天変地異の規模だけ」で決定されるのではなくて、「避難や情報供給の成功不成功」によっても決まるのである。
この話をもっと一般化していえば、「避難と対策さえ的確なら、災害の被害は多少は抑え込める可能性がある」ということであり、逆にいえば「避難や対策が失敗なら、被害はより拡大する」ということでもある。
ここでちょっと横道にそれる。
これはあまり気がつかれないことだが、
「災害」という現象の最大の特徴は、実は、災害そのものが『避難や対策を妨げるように働く』ことなのである。むしろ、これこそが災害の怖さの本質と言っていい。
例えばだが、洪水や津波で押し寄せる大量の水で溺死の危険に晒されることは誰でもわかっている。
だが、家のまわりが大量の水であふれかえっている状況になったら、簡単には避難できなくなる。つまり、「大量の水によって、生命の危険がさし迫っていることがわかっていても、避難自体ができない状況が、広範囲に、かつ同時に生まれる」のであり、これこそが災害という事象の「現代的な怖さ」なのだ。
もちろん、災害対策を実行する立場の人々にとっても、災害は、情報伝達、分析、決断、人材や資材の移動など、あらゆる面でのスピードや的確さなど、あらゆる対策の妨げになる。
これは地震や火事などでも同じだ。
地震の激しい揺れそのものが多数の人命を奪うというよりも、揺れによって家屋や道路などあらゆるものが破壊され、精神的にも萎縮してしまい、「避難も対策も困難になる状況」が多くの生命を危険にさらすのである。
災害という現象は「人を避難させないように、その場に釘付けにする」という、とてもやっかいな特徴をもっている。「避難もできず、かといって対策もとれない状況」が生まれることで、災害の被害は拡大する。現代における災害、特に人命の危険という点で怖いのは、災害時の自然現象そのものより、むしろ「避難」と「対策」の両面が長時間にわたって妨げられ続けることにある。
では、福島原発のメルトダウンはどうだったか。
この未曾有の惨事の直接的な原因は、「冷却のための電源が喪失したこと」だが、ブログ主は、もしこの事故が「平常時」に起きていたら、おそらく「結果はまったく違ったものになった」のではないかと考えた。
つまり、「情報がスピーディーかつ正確に伝わるための障害も混乱もない」という意味での「平常時」においては、「冷却のための電源が喪失した」という「情報」はおそらく、もっとスピーディーに伝達され、もっと的確に分析され、より正しく決断され、対策のための人材と資材がもっと適所に配置されたのではないか、と思うわけだ。
だが、福島原発で実際に起こったのは
「メルトダウン」という最悪の事態だった。
詳しい経緯を知っているわけではないが、「冷却のための電源の喪失」という非常事態が、情報の伝達、分析、決断、人材や資材の配置など、「情報管理のあらゆる面でミスを発生させていたこと」はなんとなく推定できる。
では、情報が多ければ多いほど、対策は万全になったのか。
そうではない。と、ブログ主は思う。本当に必要だったのは、「欠けている情報下での決断」だったはずだ。
・災害の現代的な怖さは、自然現象の規模そのものよりも、水、雨、風、火、揺れなどの自然現象が、家屋の倒壊や道路の寸断などと重なって、「避難」と「対策」の両方が著しく、かつ広範囲に妨げられる点にある
・災害対策の妨げになるのは、とりわけ「情報の流れが決定的かつ大規模に阻害されること」だが、それが災害の本質そのものである以上、「情報の阻害をゼロに抑えこむこと」は不可能。非常時に情報収集にばかり気をとられることは、むしろ対策の実行の妨げになる可能性が高い
・ゆえに、災害のような非常時においては、むしろ「情報の欠如」を前提に行動すべき
「現場」というものは、多くの場合、「情報が不完全」なのが当たり前なのだ。そういう場所においては「情報が多ければ多いほど、対策はより万全になる」なんていうタテマエは何の意味もなさない。このことをもっとよく考えるべきだ。
自然災害だらけの国、日本でさえ、人は災害においてこそ、パーフェクトな情報収集が必要だなどと思い込みやすい。
自治体の災害担当者などにしても、責任感からか何か知らないが、おそらくそういう思い込みを根強く持っているにちがいないから、災害を目の前にすると、ついついこんなことを考えてしまう。
情報の正確でスピーディーな集約
的確な分析
正確な決断
効率的な資材や人材の調達と配置
だが、実際に起こることは、まったく別の事態だ。
情報網の寸断や消滅
情報の不足や遅れ、デマの流布による混乱
決断の遅れや誤り
資材や人材の不足、配置ミス
避難手段の欠如
無駄な行動の多発
「現場」というものは、常に「情報が不完全な状態」にある。このことを忘れて、情報をパーフェクトにそろえないかぎり何も決断できないような組織を作るなら、そんな不安定で役たたずの組織は「現場」ではまったく機能しない。
例えば、「災害時に情報管理を完璧にこなせるシステム」なんてものを大金かけて構築しようとしている人がいるとしたら、そんなもの、非常時に役に立つわけがない。
また、大学の情報論の教授が、「いかに情報を完璧に収集し、完璧に行動するか」だけを論じるなら、そんな議論は何の役にも立たない。
また、もし災害の現場で「何やってるんだ! 完璧な情報を早くもってこい!」と、大声で怒鳴り散らしている管理者がいたら、そんアホウこそ「最も現場に必要ない人間」だ。(実際、東日本大震災時の首相菅直人はおそらくそういう風に行動したに違いない)
いつも思うことだが、『24』のようなアメリカのドラマは、シナリオとして、とてもよくできている。
というのは、時々刻々と変わる現場、情報の錯綜、「現場」と「管理者」との情報のズレ、現場の変化についていけず判断ミスを繰り返す頑迷な管理者、自分だけ正確な現状を理解している「主人公」が判断を躊躇している「組織」にどう対応すべきか、など、緊急時の「現場」に起こるさまざまなシークエンスの大半が、「情報の不完全性を前提に」描かれているからだ。
こういうドラマはえてして、無理すぎる設定、辻褄のあわないエピソード、キャストの都合によるシナリオの変更など、細かいミスが数多くあるわけだが(笑)、そういう制作上のいい加減さはともかくとして、「非常時に起こる情報のズレ、ギャップ、断片化など、非常時の情報収集に起こる混乱ぶりを描くことによってのみ表現できる、現代的なリアルさ」が、この「情報混乱時代」に生きる視聴者を飽きさせない理由だと思う。
まとめたつもりで、ひとつ書き忘れた。追加。8文字ずつ。
— damejima (@damejima) 2017年8月26日
「情報は常に不完全」
「解決策は常にある」
August 05, 2017
「外国人力士に、年寄名跡や一代年寄になるチャンスを与えないのは、憲法14条1項の平等原則に反し、許されない」とかいう記事があった。この文章のどこが「根本的におかしいか」わかるだろうか。
— damejima (@damejima) 2017年7月30日
上に挙げたツイッターでの質問に対する「答え」にたどり着くための「道筋」となる記事を書きとめておいた。ここに書いたことが糸口になって、とめどなく垂れ流され続けているマスメディアのウソに流されない「自分なりの考え」をまとめるきっかけにしてもらえたら幸いである。
とはいえ、これを読んでもまだ理解できないようなら、あなたの知性は危険水域にあるとは思う。こんな簡単なロジックすら理解できないようでは、「国家という集団維持システム」の大事さも、「グローバリズムのまやかし」も、理解することはできない。
憲法というルールの性格は、
「国ごとに異なる」という点にひとつの特長がある。
いいかえると、
憲法は世界共通ルールではない。
当然ながら、
日本の憲法が、同時に、世界共通ルールでもあるべき「義務」など、まったく存在しない。
そして、「国ごとのルール」である憲法においては、「それぞれの国に所属する(あるいは所属を宣誓した)国民だけがルールの対象」なのだ。
したがって、
外国人は「憲法の対象外」だ。
にもかかわらず、だ。
憲法が大事だとか、心にも無いことを言いたがる輩に限って、「国家という枠組み」を軽視したがる。憲法というルールは、「国家という単位を前提にして成立しているルール」なのだから、それはどう考えても「矛盾」である。
国家は大嫌いだが憲法だけが好き、それも、憲法の「ごく一部分だけ」が好きで、憲法の嫌いな部分は死んでも守らない、などというのは、「子供じみた好き嫌い」に過ぎない。外部からどんな新しい概念を持ち込んで矛盾をごまかそうとしても、そんなものは詭弁でしかない。
さて、
最初に挙げた設問でいう「憲法」とは、
もちろん「日本国憲法」を意味している。
では、
「日本国憲法」は外国人に適用されるだろうか。
答えは簡単だ。
外国人には適用されない。
憲法の項目には「外国人にも適用されうる条項」があると主張したがる人がいるが、そういう詭弁を耳にして勘違いしてはならない。
憲法の条項には、国際的な共通の理解のもとにある人道などの範疇内にあるものもある。だが、それは単に「異なる2つのルールがオーバーラップしている部分がある」という意味に過ぎない。
オーバーラップしているからといって、そのことによって「日本国民だけに適用されるはずの日本の憲法のすべてが、外国人全員にも適用される」わけではない。そんなこと、ありえない。
また、これもいうまでもないことだが、「日本の憲法は、外国人全員の権利や義務を保証する責務を負っている」という意味にも、まったくならない。
くり返して言わせてもらうが、「あらゆる国の憲法と同じく、日本の憲法は、全世界をカバーするルールではない」のだ。当然のことだ。ゆえに
日本の憲法が「日本という国家が全世界の人々に対して義務を負うと、宣言している」わけでもなければ、全世界の人々に権利の保証を公約した、わけでもない。のである。
(国際条約があるだろ、などと、「例外を示したつもり」になる人もいるだろうが、国際条約は単に「批准した国々の間の取り決め」に過ぎない。批准していない国にはなんの拘束力もない)
さらに、間違ってはいけないことがある。以下のようなことだ。
「日本国憲法が外国人全員に適用されるかどうか」という問題と、「日本にたまたま滞在しているだけの外国人に、国際的な了解が成立している範囲での人権が存在するか」という問題とは、イコールではない。それどころか、まったく別の話だ。ということだ。
この点で、前後の歴史において世の非常に多くの「人権を錦の御旗にしてきたブログ、メディア、SNS、外国人組織などが、「問題のすりかえ」を行って、日本に損害を与えてきた。その手口は、まさに上に挙げた「論点の意図的なすりかえ」によるものだ。
「たとえ」を挙げてわかりやすくしてみる。
旅行で日本に来た外国人ツーリストがいた、とする。
いうまでもないが、その人間に「人権がまったくない」わけがない。そんなことは、ありえない。
しかしながら、世界レベルで了解されている国際的な人権が外国人ツーリストにもあるからといって、「日本国憲法が定める国民の権利や義務」が外国人にも適用されるかどうかというと、それはまったく別次元の話だ。こんなことがわからないようでは、アタマがおかしいと言われてもしかたがない。
例えば、日本の「伝統的な」銭湯には、「全員が全裸で風呂に入る」という日本独自の文化習慣、日本独自のルールがある。このルールは、酔っ払いなどの不心得な人を除外すれば、「入浴者全員が守るべき日本のルール」だ。
では、もし「銭湯を経験したい外国人ツーリスト」が、「自分の出身国では、全裸になった自分を他人の視線に晒す文化はない」と理由をつけて、番台で「水着で銭湯に入らせろと、大声を挙げてゴネた」としたら、どうだろう。
それは、許されない。
もちろん、もしその外国人ツーリストが「他人の目の前で全裸入浴を強制された」のだとしたら、それは明らかに「人権問題そのもの」だが、それはまったく別の話だ。いうまでもない。
日本の伝統的な銭湯で外国人に「裸になりたくない」と声高に主張されても、いい迷惑だ。日本には、「他人の目の前で全裸になって入浴したくない人」や、「日本式の入浴と異なる文化のもとで育った人」には、他に無限の「選択肢」がある。また、異なる選択肢を利用・検索するための情報元も無数にある。
日本の銭湯では、「日本人か外国人かを問わず、全裸での入浴が求められる」のは当然のことだし、外国人にも全裸での入浴を求めることは人権の侵害ではない。(むしろ、「国籍を問わないドメスティックなルール」だからこそ、「平等に」全裸での入浴を求めるのだ)
さらに、ここも大事なことだが、「日本の銭湯に入る」という行為は、別の観点からいえば「銭湯という日本文化を受け入れる」という意味である。
もし「日本の文化を受け入れない狭量な人間」が、日本の文化を味わいたいという美名(または言い訳)のもとで、自分だけが水着で銭湯に入ろうと主張してゴネるとしたら、それは自分個人の価値観の「強要」であり、土足が許されない日本の家庭に「土足であがる」ようなものである。
「日本の文化という家を土足で踏みにじること」は許されない。
上記の「たとえ」だけでも話の大半は終わっているが、
もう少しだけ本来の話をしておく。
「日本国民であることによって生じる、自由、権利、義務」には、「外国人を対象としないもの」、あるいは「外国人の場合は内容に制限がもうけられるもの」が複数ある。
例えば以下のようなものだ。(以下がすべてではない)
参政権
出入国の自由
政治活動の自由
社会保障を受ける権利
このことは、逆にいえば、どんな国であれ、「外国人については、その国の憲法が規定する自由、権利、義務などが、まったく適用されない、あるいは、一定の制約が生じるのが、あたりまえなのだ」という意味でもある。
この「外国人には、その国の憲法が適用されない」という原則は、憲法というルールがもともと「その国の国民にのみ適用されるルールであること」から生じているだけの話だ。それは、日本の憲法が「世界的な平等の原則にそむくものであること」を意味していない。また、もしそういう批判があったとしても、それは単なる「いいがかり」に過ぎない。
ここからは余談だが、上で書いた「憲法が規定する、外国人を対象としない自由や権利の数々」をみるだけでも、戦後の日本の憲法がいかに「蚕食」されてきたかがわかる。(そして、日本の憲法の蚕食を意図的に行ってきたのは、日本の憲法を見た目だけありがたがっているようにみせかけてきた「護憲派の人々」でもある)
例えば「外国人に対する生活保護」である。
日本では憲法の規定に基づく社会的な保護機能を受ける権利は、「日本国民だけのもの」であって、「外国人」にはその権利が最初から存在していない。法的に当然のことだ。「外国人に対する生活保護が不法であること」は、とっくに最高裁で認定されてもいる。
ところが、この「本来あってはならない、あるはずのない利益を、なんの負担もなく、タダで享受している外国人」が、「日本にびっくりするほどたくさんいる」のである。
他にも例はまだまだたくさんある。
外国人の政治活動の自由や、国会議員の二重国籍の問題だ。
これも、外国人に対する生活保護供与と同様で、「外国人の政治活動の自由」など最初からない。外国人には政治献金すら許されていない。また、謝蓮舫のような二重国籍は、国会議員に認められていない。
これらのルールは国家としての治安上の意図によるものであって、日本だけがそういうシステムをとっているわけではない。それは、日本にナショナリズムが蔓延しているからでもなければ、日本人が多様性を認めないからでもないし、日本が人権後進国だからでもない。
日本に限らず「国家」という社会維持システムにおいては、国会議員に特別な地位が与えられ、守られると同時に、国会議員たるにあたっての資質に制限も加えられいてる。それは「その国の国籍を有しており、その国だけのために粉骨砕身で奉仕することを誓約した者」だからだ。そうでない「怪しげな者」が国会議員職に就くことなど許されない。
マスメディアや人権派と自称する人たちの「都合のいい説明」を鵜呑みにしてはいけない。
戦後、彼らは、片方では、憲法を守れと声高に叫んできたクセに、他方では、憲法に規定されてもいない外国人の「なんの根拠もない権利」を怒声をもって主張することで、憲法の遵守義務を怠り、憲法の根幹を蚕食してきたのである。
憲法を蚕食しているくせに、都合がいいときにだけ都合のいいことを言っているだけの人間たちが、都合のいいときに持ち出してくるのが憲法という「便利な言葉」だということだ。最初に挙げたのは、そのいい例だ。
もちろん白鵬は、親方になりたければ、日本文化を受け入れる意味で「帰化」という道をみずから選択するだろうし、帰化したあとも、相撲という文化における「親方システム」を遵守するだろう。彼が、水着で銭湯に入らせろと番台でゴネるような人物とは思えない。
にもかかわらず、である。すすんで帰化しようとしている人物の話題すら、日本を貶めるネタにしようとする、頭のおかしな人間がいる。
彼らの主張の「狙い」は結局のところ「ひとつしかない」ということが、この記事に書いたからもわかるはずだ。
彼らがやりたいのは、「日本人だけに規定されている憲法などの法的な自由や権利を、外国人にも認めろ」という意味ですらない。つまるところ彼らが主張していること、やってきたことは、タダ乗りさせろ、好きなようにやらせろ、ということにすぎない。
たいがいにしろと、言いたい。
August 02, 2017
ブログ主としては、もし「ベルトレが言いたいこと」が、「優勝をあきらめているばかりか、チーム再建の方法について間違ったことをやりだしたチームにいなければならないのだとしたら、もっとマシで、マトモなチームに行きたい」ということなら、彼の意見に賛成だ。それは、無能なシアトルがやって大失敗した紋切り型の若手路線と、瓜二つだからだ。(もっとも、シアトルの場合はフェリックス・ヘルナンデスの能力低下を見抜いて、さっさと放出すべきだった)
いまやナ・リーグ東地区の常勝球団となったワシントン・ナショナルズだが、この球団が再建に成功した理由のひとつは、「MLB最低勝率を故意に記録することで、全米ドラフト1位選手を獲得するというチーム再建方式」が、スティーブン・ストラスバーグ(2009年全米1位)、ブライス・ハーパー(2010年全米1位)と、2年連続で「バカ当たり」したことで、投打の軸がしっかりしたからだ。(なお、2011年ドラフト1位のアンソニー・レンドンは全米6位で、1位ではない)
では、この旧来の再建方式は2010年代も通用するか。
ブログ主の考える答えは
No だ。
2012年にこんな記事を書いて、当時ドラフト1位が予想されたスタンフォード大学のマーク・アペルをこきおろしつつ、「アメリカ国内の大卒選手がMLBに占める相対的な比重は、ますます軽くなっていくと読んでいる」という意味のことを書いたことがある。(2017年現在、アペルはトリプルAでERA5点台のさえないピッチャーで、芽が出そうな気配はまったくない)
2012年6月4日、恒例の全米ドラフトは高校生が主役。 | Damejima's HARDBALL
ドラフトに限らず、2010年代以降のMLBは、それ以前のMLBと質的にまったく違うことがハッキリしてきた。
このことは、すでにバッターについて「三振の世紀」というテーマで既に書いた。2017年2月4日、「三振の世紀」到来か。2010年代MLBの意味するもの。 | Damejima's HARDBALL
この記事は後日「三振とホームランの2010年代」とテーマを広げて、続きを書く。
ピッチャーについていえば、2010年以降に1位指名されたピッチャーで「長く活躍できそうだったピッチャー」といえば、コカインで死んだホセ・フェルナンデス(キューバ出身の彼の最終学歴はフロリダ州タンパのBraulio Alonso High Schoolで、大卒ではない)、ソニー・グレイ、クリス・セールの3人が抜けていて、他にゲリット・コール、マーカス・ストローマン、マイケル・ワッカくらいがいるくらいで、勝ち数より負け数のほうが多いボルチモアのケビン・ゴーズマンでさえ、2011年以降の1位指名ピッチャーの中では「まだマシなほう」であることからわかるとおり、2010年代以降のドラフト1位指名ピッチャーの層はまるで薄い。
2010年代のドラフトの選手層の「薄さ」は、「2000年代の1位指名ピッチャー」と比べてみれば、すぐにわかる。
2000年代に1位指名だったピッチャーは、アダム・ウエインライト、マット・ケイン、ジェレミー・ギャスリー、コール・ハメルズ、スコット・カズミアー、ザック・グレインキー、ジョン・ダンクス、ヒューストン・ストリート、ジオ・ゴンザレス、フィル・ヒューズ、ジャスティン・バーランダー、クレイ・バックホルツ、マット・ガーザ、イアン・ケネディ、マックス・シャーザー、ティム・リンスカム、クレイトン・カーショー、リック・ポーセロ、マディソン・バムガーナー、デビッド・プライスなどなど。(指名年代順)
太字がサイ・ヤング賞投手だが、「なぜかサイ・ヤングを受賞してないバーランダー(笑)」を含め、2000年代ドラフト1位指名組は先発投手の層が分厚い。まさにキラ星のごとくのメンバーだ。(もちろん2位指名以下の選手層も厚い)
この単純な比較からもわかるのは、全米ドラフトに依存するようなチーム再建手法は、2010年代以降、通用しなくなるということだ。ドラフトはもはや「最も優れた才能の供給源」ではない。
例えば、つい最近まで「若手育成の上手さ」で知られてきたボストンが、2014年、2015年の低迷から「長期低迷期」を経験せず、スピーディーに復活しているわけだが、その手法は「ドラフト依存」や「生え抜きの若手育成」といった、無能なシアトル・マリナーズが大失敗した「あとさき考えない若手路線」ではなかった。
いまのボストンは「生え抜きをズラリと揃えた時代」とは違う。2011年以降のドラフトからモノになったのはムーキー・ベッツくらいで、投手陣などは、デビッド・プライス、クリス・セール、リック・ポーセロ、クレイグ・キンブレルと、FAのプライスを除く全員が「若手との交換で他球団から得た投手」ばかりだ。つまり、ボストンは「チームを完全解体してドラフトに依存して若手主体の球団に変える」という再建手法をとらなかったばかりか、むしろ「若手を放出してチームを再建した」ということだ。
無能なビリー・ビーンがジョシュ・ドナルドソンをトロントに無駄に放出したオークランドが、こんどは先発のソニー・グレイを放出したわけだが、信じられないことをするものだ。
予算の潤沢なチームならともかく、この予算の少ない球団が、上に書いておいたように、「ドラフトでこういうレベルの投手が獲得できる確率」はいまや非常に下がっているというのに、ソニー・グレイ同等レベルの先発投手を、どこから調達できるというのか。
テキサスは、オークランドのような貧乏球団ではないが、今の「やたらと打たれるダルビッシュ」がどのくらいの好投手かの判断はともかく、ローテーションの軸となる先発を手放したことで、3000安打の名誉を既に手にし、あとはワールドシリーズを味わいたいと考えている38歳ベルトレに「この球団じゃあ、ワールドシリーズはないな・・・」と思わせたとしたら、テキサスの住民だって同じことを考える。当然のことだ。
ダルビッシュ放出とベルトレ移籍で投打の軸を失って観客動員が下がり、収入が減ることくらいは、テキサスGMのジョン・ダニエルズも「アタマで」予想はして対策を練っているだろうが、彼はその「痛さ」が、アタマではわかっても、「カラダ」ではまるでわかっていない。
そしてベルトレはまさに、「アタマ」で考えるのではなく、「カラダ」がまっさきに反応するタイプそのものだ。
MLBのジェネラル・マネージャーには「MBA持ちの有名大学卒業生」とか「データマニア」とかが多くなっているわけだが、彼らは総じて、アタマはよくない。なぜって、「ドラフトという『仕入れ環境』の変化すら計算にいれられない」のだから、商売が上手いわけがない。ヴェテランから「若造、なにしやがる」と言われて殴られるのもしかたがない。
July 17, 2017
この2つの図は、左が「球種とコース」、右が「打撃結果」になっている。もちろん同じゲームでのデータであり、誰にでも入手できる。
資料:https://baseballsavant.mlb.com/
投手は誰かくらい、わかる人にはすぐにわかる(笑)
だから書かない。
そんなどうでもいいことより、大事なことは、「たったこれだけの単純なデータからさえ、野球の面白さが伝わること」だ。
バッター側チームが、この投手を攻略するためにどういう戦略をもってゲームに臨んだか、その戦略はどのくらい成功したか。反面で、このピッチャーがバッターをうちとるためにどういう組み立てをしているか、このピッチャーがそもそもどういう理由からこれだけの数の球種を使うのか、その狙いはどのくらい成功しているか、などなど。
言葉でグダグダ説明しなくとも、この図に十分すぎるくらい表れている。
だが、データ野球がさかんな昨今だからこそ、このことは強く言っておきたい。
「データさえ見れば現実がわかる」のではない。そういうおかしなことが言いたいのではない。「自分の眼が見たこと」「自分が直感したこと」の裏づけや確信を得るための手段として、こういう便利なものがある、ということだ。データだけ見ればスポーツがわかるなら、誰も苦労しない。
もしこの2つの図から、この投手が打たれるとしたら、「このコース」、あるいは「この球種」、あるいは「このカウント」などといえる「ゾーン」が見えてきたなら、絶対おもしろいと思うから、この投手の次回の登板を「いままでと違った視点から」じっくり見てみることをぜひおすすめしたい。(笑)この投手が「ゾーン」に落ちるときの特徴に気づくかもしれない。
「野球の魅力」って何だろう。あらためて考えたら簡単じゃない。今までやってきたことが無にならないためにも、初心にかえるべきなんだろう。夏だし(笑)夏って、やっぱり不思議なくらい野球が似合う。
— damejima (@damejima) 2017年7月12日
July 11, 2017
おめでとう、東京都立第三商業高等学校。高橋投手と神尾捕手が号泣ってとこで、ジンときた(笑) https://t.co/SZvgKUMdp3 来年は創立90周年。鈴木清順さん、田村隆一さん、加島祥造さんの出身校だってことくらい書けばいいのに。江戸の粋人3人。
— damejima (@damejima) 2017年7月10日
江東区越中島の三商、東京都立第三商業高等学校は、1928年創立時「東京府立第三商業學校」といい、卒業者には加島祥造、北村太郎、田村隆一と、同人誌『荒地』に集う詩人をごっそり輩出している。
こうした「東京の歴史の古い学校、とりわけ『下町の学校の出身者』から、特定の文学者グループが輩出されている例」は、以下にみるように、かつて「いくつのグループ」が存在した。(逆にいえば、そうした例は歴史の浅い学校にはあまりみられない)
俯瞰したまとめを最初に強引にしておくと、「東京出身の文学者」は、「日本における近代的な自我の成立」に深く関わり、「東京出身者の文化的ネットワーク」はこれまで、小説、詩、映画、マンガなどに張り巡らされてきた。
府立三中・純文学ライン
「芥川龍之介ー堀辰雄ー立原道造」にみる東京気質
思潮社から出ている『立原道造詩集』のあとがきで、自身も「東京出身」の小説家・詩人である中村真一郎氏がこんなことを書いている。(以下、個人名における敬称を極力略す)
日本の近代文学の成熟期における、三人の文学者を、一本の系譜として理解するという考え方は、未だ常識にはなっていないように思われる。
中村が指摘した「つながりのある3人」とは、芥川龍之介、堀辰雄、立原道造である。彼らは全員が両国の府立三中(=府立三高、現在の都立両国高校)出身で、中村は3人すべての全集の編纂に関わった。
「府立三中出身の文学者」は他に、半村良、石田衣良、山口恵以子、小池昌代などがおり、またパンチョ伊東の出身校でもある。
パンチョさんが「舶来の文化であるMLB」に惹かれたことがけして偶然ではないことは、この記事に挙げた東京出身者のかなりの数が「海外文化の紹介」に携わった経歴をもつことから明らかだが、ここでは書ききれない。稿をあらためたい。
また、日本橋の呉服屋の長男として生まれた鈴木清順の映画『けんかえれじい』『ツゴイネルワイゼン』にみる東京っぽいモダンさとか、後述の小林信彦の後輩でもある大藪春彦の原作を下に清順が映画化した『野獣の青春』などにも触れたいところだが、とても書ききれない。これも記事をあらためる。ひとつだけ書くと、清順ムービーは難解なのではなく、東京人お約束の「ハードボイルド」なのだ。そこさえわかれば簡単に楽しめる)
中村によれば、芥川は自著『僕の友だち二三人』において、自分と堀辰雄との共通点を「東京人、坊ちゃん、詩人、本好き」と明言しているらしく、中村はこんな意味の指摘もしている。
いずれも「東京の下町出身」である3人の文学者の「生涯の主題」には、「生来の環境からいかに超出し、独立した人格を形成するか」という共通性があった。
簡単にいえば、「3人の共通テーマ」は、泥臭さの充満した下町に突如出現した秀才が、下町の暮らしとは切り離された近代的な人格を形成しようとした、ということだろう。
「泥臭い下町から、近代的な人格への脱出」という点だけみると、なにも東京出身者だけにあてはまるわけではなく、「田舎を捨てて東京に上京し、大成した文学者」にだってあてはまると、考えたい人もいるだろう。
だが、中村が、地方での暮らしや地縁血縁をまるっきり捨てて上京して創作に励んだ「上京組」と、古い人間関係の中にあって独立した人格を形成するという難しさを抱えこんだ「東京出身者」とでは、文学の創作における方向性というものは180度違ってくると判定したように、ブログ主も、地方からの上京者と東京出身者が同じ境遇、同じセンスの持ち主だとは到底考えられない。
例えば、「上京組」の島崎藤村や田山花袋が「自然主義作家」になったのに対し、反自然主義といわれた芥川をはじめ「東京出身者」が上京組と違った文学的進路をとるという中村の意見のほうが、はるかに的を射ている。
府立三商・詩人ライン
「加島祥造ー北村太郎ー田村隆一」にみる東京気質
冒頭にあげたツイートにある東京都立第三商業高等学校は、創立時東京府立第三商業學校といい、「三商」と略される。(注:「三中」はいわゆるナンバースクールだが、三商はそうではない)
この学校の出身者である加島祥造、北村太郎、田村隆一の3人が揃って参加していたのが、『荒地』という詩の同人誌であり、タイトルの『荒地』はT・S・エリオットの1922年の詩からとられた。
荒地同人の鮎川信夫、三好豊一郎など、関係者の大多数がそろって「東京出身者」である点だけでなく、この詩人グループの人間模様には、非常に狭く、かつ錯綜しているという特徴がある。
例えば、田村隆一の最初の妻は鮎川信夫の妹であり、その鮎川の妻はかつて加島祥造の恋人であった人物であり、また北村太郎と田村隆一の妻が恋愛関係にあったこともある。
このように『荒地』における人間関係はかなりドロっとした「濃厚な」ものだったわけだが(人間関係の濃さだけみると、近代的どころか、まさに「下町そのもの」なのが面白い)、反面、そうした「濃い関係にある文学者の一群」の存在があればこそ生み出された、「文化上の成果」があった。
それは「海外文学の紹介」だ。
かつて早川書房の編集者だった宮田昇(宮田も東京出身)は、著書『戦後「翻訳」風雲録―翻訳者が神々だった時代』において、「明治時代に学者の専売特許だった翻訳という仕事に、第二次大戦後、「翻訳のプロ」が登場したことで、海外文化の紹介が飛躍的に進んだ」という意味のことを指摘した。
そうした「翻訳のプロ」が多数同時に育った理由のひとつに、東京生まれの早川書房創業者早川清が、たまたま詩人加島祥造の兄の同級生だったことがある。
早川は、上に列挙した「非常に狭く濃い人間関係の中にうごめいている荒地の詩人たち」を翻訳家として起用したから、『荒地』の詩人の多くが翻訳家として活躍できる道が開かれた。このことで、詩人に特有のシャープな感性が翻訳文学に特有のドライでモダンなタッチを生みだして、多くの海外作家が日本で愛読されるきっかけを作ったのである。(早川書房以外にも、下訳に稲葉明雄などを使って結果的に多くの翻訳者を養成した宝石の宇野利泰のような例もある)
『荒地』関係者が翻訳した海外作家は、エラリー・クイーン、コナン・ドイル、アガサ・クリスティ、ウィリアム・S・バロウズ、フォークナー、エド・マクベイン、リング・ラードナー、グレアム・グリーン、ヘミングウェイ、T・S・エリオット、ルイス・キャロル、ロアルド・ダール(=ティム・バートンがジョニー・デップ主演で映画化した『チョコレート工場の秘密』の原作者)など、とても数え切れない。
『荒地』の詩人と早川書房をめぐる人間模様に登場する人物は、その大多数が「東京出身者」で占められている。芥川龍之介の三中ラインが「純文学系」だとすれば、『荒地』の三商ラインは「エンタテイメント系」とでもいうことになる。
東京出身の詩人に特有の「コハダの寿司を食うような作風」が、中原中也や寺山修司のような地方出身の上京詩人に特有の「これでもかとバターを使ったフランス料理を食うがごとき壮大なロマン主義」とはまったく相容れないものであることにも触れたいわけだが、とてもこの短文では書ききれない。これについても稿を改める。
小林信彦にみる「ハードボイルド系東京気質」と
溝口正史、江戸川乱歩などの非・東京系文学
小林信彦は日本橋の老舗和菓子屋の倅であり、芥川の師匠にあたる夏目漱石の『吾輩は猫である』に散りばめられたユーモアについて、「落語がわかってないとまったく楽しめない」と断言するほどの熱心な落語ファンでもあるわけだから、芥川龍之介系の典型的な「東京の下町出身の純文学者」のひとりになっていてもおかしくなかったし、また、複雑な生い立ちを持った東京出身者のひとりである堤清二が詩人を志したように、『荒地』に参加するような「詩人」になっていてもおかしくはなかった。
だが彼は、そのどちらにもなれなかったし、ならなかった。
東京高等師範学校附属高等学校(現在の筑波大附属高校)に進んだ小林は若い頃になかなか人に才能をみせつける機会に恵まれず、いろいろと苦労をした。『ヒッチコックマガジン』の編集長の職も、宝石の多くの関係者が断った挙句、小林にようやくお鉢が回ってきたものだ。
後に小林は、当時黎明期にあったテレビに進出することで、文学偏重のきらいがある編集者の世界とは一線を引き、ようやく多彩な才能を世間に披露できる機会を得た。
出版関連の東京出身者といえば、ヒッチコックマガジンの編集者だった小林信彦さんが日本橋の出身で、ヒッチコックマガジン編集を断った宝石の田中潤司さん、宇野利泰さん、長谷川修二さんも揃って東京出身者で、他に三好豊一郎さん、疋田寛吉さんなどの詩壇の人物も東京出身。
— damejima (@damejima) 2017年7月10日
小林はかねてから「下町嫌い」を公言してきたわけだが、「徒党を組むこと」を嫌う彼は、古くからあった東京モダニズムの「流れに乗る」ことを嫌ったに違いない。
江戸の落語だけでなくコテコテの関西ギャグにも造詣が深い小林は、東京の文壇の傘下にある編集者とは一線を画して、恩師江戸川乱歩同様に、関西の作家の才能をいちはやく評価し、溝口正史への入れ込みをはじめ、小松左京、筒井康隆、山田風太郎など、「関西出身作家」の作品を高く評価してきた。(とはいえ、小林が愛してやまない日活のアクション映画などは、明らかに東京テイストそのもので、関西テイストではないし、名作オヨヨ大統領シリーズもしかり)
小林と親交があり、小林のお気に入り作家のひとり、ダシール・ハメットのコンチネンタル・オプものの長編『血の収穫』(=黒澤明の映画『用心棒』の下案となった小説)の訳もある稲葉明雄も関西出身だ。(とはいえ、稲葉の師匠である宇野利泰は神田区生まれの東京人。その宇野にチャンスを与えたのも、小林にチャンスを与えた人物でもある名プロデューサー江戸川乱歩)
小林の内面に、東京出身者にしては特異ともいえる独特のシニカルなメンタリティが醸成された理由は、若い頃に苦労させられ、周囲の東京人たちとぶつかり続けた思い出の苦さが影響しているものと思われる。
逆にいえば、狭い世界にうごめく東京の編集者の世界で揉まれて、シニカルで孤独感に苛まれる性格が醸し出されたからこそ、笑いとハードボイルドという異ジャンルを得意技にできたのだろう。
ちなみに大藪春彦は小林の大学の後輩でヒッチコックマガジンの寄稿者のひとりだが、もしも大藪の書くようなハードボイルドのヒーローがドライでなかったら、とても読む気にはなれない。
総じて言えば、小林が志向したミステリー、ハードボイルド、ユーモアは、「早川書房系列のミステリーのどこか奥底に隠されている純文学志向」とは一線を画したエンタテイメント色があるように見える。そのことは、ここでは詳しくは触れられないが、関西人である横溝正史との直接対談によって編纂された『横溝正史読本』にみる小林信彦の激しい入れ込みにもハッキリと現れている。
横溝正史の『新青年』は、1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表雑誌の一つであり、都市のインテリ青年層の間で人気を博したといわれている。
執筆者は、溝口に加え、小林を宝石にスカウトした江戸川乱歩、夢野久作、稲垣足穂など多士済々だが、西日本を中心にした「地方出身者」が多数を占めている点で、東京人による『荒地』とはスタンスが100%異なる。
『新青年』はいわば「関西版モダニズム」であり、『新青年』における「モダニズムの濃さや匂い」は、東京出身者ばかりで占められた「芥川龍之介、堀辰雄、立原道造ライン」の「東京の純文学系モダニズムの濃度や匂い」や、同じく東京出身者によって形成された「『荒地』の詩人集団のもつモダニズムの濃度や匂い」とは、「明らかに別種の濃さや匂い」をもっている。このことは彼らの作品それぞれを読めば誰にでもわかる。(宮田昇が『荒地』同人の舞台裏を皮肉っぽく書いて出版しているわけだが、これも、彼らの「表の顔」が豪快洒脱なのに対して、「裏の顔」が案外みみっちいことを指摘したいのだろう)
本来なら、近しい作風を持って同時期にデビューした、下北沢生まれの岡崎京子と文京区の向丘高校出身の桜沢エリカの作品に共通に流れている「東京気質」など、東京出身者の文化的ネットワークの例をもっと挙げておきたいわけだだ、挙げだすとキリがない。
残念ながら、この拙いブログで「純文学、推理小説、ミステリー、ハードボイルド、映画、マンガにいたるまでの膨大な分野における『東京出身者の創造したモダニズム』の特徴」をマトモに扱うことなど、とてもとてできない。手にあまる。機会があればまた多少なりとも断片に触れてはいきたいが、壮大な詳しい解析作業はどこかの誰かにまかせたい。
ただ、記事を閉じる前に、ちょっとした誤解を正しておきたい。
漫画『サザエさん』の風景は、(特に地方の人に)古い東京っぽさの代表だと思われがちだが、あれは実際には山の手の暮らし、それもステレオタイプであって、下町のそれではない。というのも、『サザエさん』の作者長谷川町子は東京出身ではないから、古い下町の暮らしを実体験してはいないからだ。
東京らしさという点でいえば、松本大洋が『鉄コン筋クリート』で描いた「町の風景」のほうが、よほど「東京らしさ」を再現できている。
ただ、長谷川の師である田河水泡は本所生まれのチャキチャキの江戸っ子であり、その妻・高見沢潤子も、やはり神田生まれの東京人である小林秀雄の妹だったりする。漫画家になる前は落語作家でもあった田河の描く空間には、古い東京人特有のやや硬質な質感が残されている。
最後にもうひとつ。
宮崎駿は映画『風立ちぬ』において、同じ東京出身の作家・堀辰雄の存在をバックボーンにしているわけだが、その宮崎自身も「東京出身」である。
そのことを加味してあらためて宮崎の作品群をながめると、彼の「芸風」の奥底には東京のモダニズム特有の「風」が吹いていることに気づく。(その風は、かつてはっぴいえんどの曲などにも吹いた。はっぴいえんども、大瀧詠一をのぞく全員が東京出身者で、洋物の音楽を日本向けに焼きなおした「ある種の翻訳家」でもある)
それと同時に、宮崎が、東京モダニズムの基本風味に、「東京郊外の中央線に吹く風の特有の匂い」をつけ加えて料理していることが、なんとなく伝わってくる。
この「東京郊外の中央線界隈に吹く風の匂い」を言葉で説明するのは非常に難しい。たとえとして言えば、忌野清志郎(忌野は中央線の通っている中野区生まれで、中央線沿線の国分寺育ち)の歌詞に流れる、パンクっぽい荒れたルックスの奥底に流れている「口ごもりがちな、世渡りのうまくない、東京っぽい優しさ」のことである。(「世渡りがうまくない」という表現は中村真一郎の東京人評にある言葉だが、これは、小林信彦から忌野まで含めた東京人特有の特徴でもある)
「東京の下町の子供たちに渦巻いていたモダニズムへの飢え」みたいな漠然としたものが、日本の詩、映画、ミステリーなどを支えてきたことは、もうちょっといろんなとこで紹介されるべきだし、まとまった資料とか論文が残されてもいいと思う。
— damejima (@damejima) 2017年7月10日
June 23, 2017
麻央さんはお子さんを2人も残された。
おひとりは男の子であり、「次の海老蔵」「次の団十郎」を後世に残されたことになる。
もちろん、子供を産んだことだけがこの立派な女性の仕事だ、などと、馬鹿げたことを言いたいわけではない。そのことひとつだけをとっても、日本史に残る、正確にいえば、日本の歴史を後世に残していく、とても大事な仕事であった、と言いたいだけである。
伝統はやはり重い。先代の団十郎、勘三郎など、歌舞伎を背負っていた大看板が次々に病に倒れ、人材が細っていく中で、歌舞伎の大看板を残す作業を終えて旅立った小林麻央さんの貢献度はけして小さくない。
そして麻央さんが残した「海老蔵」は、「もうひとり」いる。
「34歳の夫、海老蔵」である。
かつて遊び人だった海老蔵が、この気丈な女性と出会ったことで心が入れ替わり、芸道に精進するべき自分の運命を自覚していなければ、単なる遊び人の半端モノにしかなれなかったかもしれない。
歌舞伎の重鎮のひとりとして、オトナとして、海老蔵が、いまある、いまいられるのは、まさにこの、気丈に短い人生を生きぬいてくれた女性との出会いのおかげなのだ。
哀しみを心に湛えて微笑むからこそ輝きが増す。それが人という生き物の奥行きだ。
ことに「役者」という特殊な仕事は、光を表現するだけではつとまらない。映画『風立ちぬ』で、妻を失ったあと零戦を世に送り出した堀越二郎のごとく、今の海老蔵が、団十郎を襲名する前に経験した、この「大切すぎる人の死」「深い悲しみ」が、彼の芸に真の意味の「陰影」をつけてくれることだろう。
合掌。
June 08, 2017
セックス・ピストルズの初ライブは1976年の「6月4日」で、42人しか集まらなかったこの伝説のギグにはシンプリー・レッドのミック・ハックネルなどが来ていたことで有名だが、日本のバンド、アナーキーのマリさんが亡くなったのがその「6月4日」だったことはたぶん偶然じゃないんじゃないか。
— damejima (@damejima) 2017年6月7日
1976年6月4日マンチェスターで行われたセックス・ピストルズの世界で初めてのギグに居合わせた観客が、「たった40人ほど」だったことは有名なエピソードだ。
その「世界で最初にセックス・ピストルズをライブで見た、ほんのわずかな無名の観衆」はその後、多くが有名ミュージシャンやレコード会社経営者になった。シンプリー・レッドのミック・ハックネル。ザ・スミスのモリッシー。ジョイ・ディヴィジョン/ニュー・オーダーのバーナード・サムナー、ピーター・フック。バズコックスのハワード・ディヴォート、ピート・シェリー、などのミュージシャン。ジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー、ザ・ドゥルッティ・コラムなどを世に送り出したファクトリー・レコードの社長の故トニー・ウィルソン、ファクトリー・レコードのプロデューサーでジョイ・ディヴィジョンを手がけた故マーティン・ハネット。
注:
この伝説のライブの「観客数」は詳細に判明しているわけでもない。いずれにしても「40人程度だった」ことは間違いないが、「伝説」に正直に従って「42人」とするサイトがある一方、その日その場所に間違いなくいたと「自称」する著作 "I Swear I Was There" で儲けたDavid Nolanなどは「35人から40人」と書いている。
ただ、日本のサイトで「イアン・カーティスが6月4日のピストルズのギグ会場にいた」とされていることについては事実誤認の可能性がある。ジョイ・ディヴィジョンは、「6月4日」のライブで衝撃を受けたバーナード・サムナー、ピーター・フックがバンド結成を呼びかけてできたバンドで、7月20日にライブを見て衝撃を受けた故イアン・カーティスはこのバンドに「後から」参加している。「後から参加した」カーティスがピストルズを最初に見たのが6月4日ではなく7月20日とするほうが、事実として整合性がある。
「6月4日以降の出来事」について面白いのは、この伝説のライブに居合わせてミュージシャンを志した人間たちがその後に到達した音楽スタイルが、教祖であるピストルズと同質の「激しさを売りにした音楽」でなく、むしろ全く異なるニュー・ウェーヴや和製英語でいうネオアコなど、「静寂化と洗練をめざした音楽」のルーツになったことだ。
例えば、ピストルズのライブに影響されて作られたファクトリー・レコードが手がけたジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー、ザ・ドゥルッティ・コラムなどのバンドは、そのどれもがピストルズと同じ「激しさを売り物」にしたオリジナルパンクではなく、むしろ、「静寂化と洗練に向かう流れ」を作りだしたポスト・パンクやニュー・ウェーヴのルーツになっている。ファクトリー・レコードが後年、ミカド、イザベル・アンテナ、ソフト・ヴァーディクト、タキシードムーンなど「洗練を主張する音楽」を世界に送り出したベルギーのクレプスキュールと提携したのも頷ける。
シンプリー・レッドのミック・ハックネルも、ピストルズに影響されて始めたパンクバンドでは成功せず、成功したのはソウル色の強いシンプリー・レッドだし、ザ・スミスにしてもネオアコ代表バンドのひとつであり、どちらもピストルズ流の「激しさ」とは程遠い。
つまり、「激しさ」を売り物にしたピストルズの演奏ぶりを最初に見てインスパイアされた「40数人の反応」とは、必ずしも「セックス・ピストルズを真似た激しさ」を希求したわけではなかったということだ。
むしろ、「激しさ」が売り物のピストルズのデビュー時の衝撃が、パンクそのものの流行を生んだだけでなく、結果的に「パンク以降にやってくる静寂化と洗練への流れ」をも生んだ。そこが面白い。
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さて、「激しさが静けさのルーツになる」という事例を見たわけだが、蛇足として1976年6月4日という「日付のもつ意味」について触れてみる。
1976年の少人数のライブで世界に衝撃を与えたセックス・ピストルズが「終わる」のは、ジョニー・ロットンがツアー中に脱退した1978年、あるいはシド・ヴィシャスがオーバー・ドーズで死亡した1979年だが、このことでわかる大事なことは、ピストルズというバントが「1970年代後期のバンド」だということだ。
ピストルズと並んで成功したパンクバンドザ・クラッシュにしても、ピストルズを見て衝撃を受けたミック・ジョーンズがジョー・ストラマーなどとバンドを始めたのが同じ「1976年」であるように、「パンクは1970年代後期にできた音楽」であって、その発祥は80年代ではない。(とはいえ、パンク文化の「質」は明らかに70年代的ではない)
ところが、日本では多くの人が「パンクは80年代文化の象徴のひとつ」とか思いこんでいる。それはどうしてか。
80年代前半、欧米では「70年代中頃に誕生したセックス・ピストルズ」はとっくに消滅し、「ピストルズなどパンクロックの衝撃から生まれてきた、硬軟とりまぜた文化」が繁茂しはじめるわけだが、日本では遅れて1980年前後にようやくパンクが一気に輸入され、その影響を受けた日本のバンド(あるいは「パクった」バンド)が「限られた厚みの特定ファン層」を形成した。
この、80年代前期の日本に「輸入パンク文化経験をきっかけに形成されたマイナー文化群にどっぷりつかった、限られたファン層」が、80年代前期限定の「インディーズ」と呼ばれる文化層だ。
例えば、バンド名自体がピストルズ由来のアナーキーのデビューも、シーナ&ロケッツの東京上京も、同じ「1978年」の出来事だが、インディーズの情報網に彼らが本格的に登場するのは80年代に入ってからなのだ。
アナーキーの曲にパンクの大御所クラッシュの曲を日本語でもじっただけの曲があるように、当時のインディーズの有名楽曲には日本でまだ知られていない英語オリジナル曲に、ただ日本語歌詞をのせただけの安易な曲も散見され、必ずしも当時の日本の輸入パンクはオリジナルな存在ではなかった。逆にいえば、「その独特の激しさを真似せずにいられない」くらい、「パンクに最初に触れたときのインパクト」は、「6月4日のライブを見た42人」と同様に破壊的な衝撃だったわけだ。
この「80年代前期限定の文化クラスター」は、音楽ではパンクだけではなく、グラムもポスト・パンクもネオアコもニュー・ウェーヴも、音楽以外では、ヴィヴィアン・ウエストウッドもポスト・モダニズム哲学も、フィリップ・K・ディックもバロウズも、なにもかもを、非常に短期に、しかも「一緒くたに」吸収した。
つまり、輸入元の欧米では順序をもって発展してきた文化群を、80年代前期の日本では、一気に、それも腹いっぱいになるまで「詰め込んだ」のであり、アニメ文化やオタク文化にしても、ルーツはこの「ガツガツと貪欲に文化を吸収した、大食いの時代」にある。
「80年代前期限定インディーズ」が貪欲に吸収した輸入文化から築いた80年代前期文化の質は、「70年代までのアングラ」と質的に異なる。
ここまで書いてきたことでわかるように、「70年代アングラ」と「80年代前期のインディーズ」を瞬時に区別する方法があるとするなら、おそらく80年代前半文化の牽引役である「パンクを通過したかどうか」にかかっていると思われる。簡単にいえば、つげ義春は前者で、大友克洋や松本大洋は後者だ、というような意味だ。
ただ、80年代前期育ちの人だからといって、その人が当時のインディーズ文化を経験しているとは限らない。
岩村暢子という方が『日本人には二種類いる』というなかなか興味深い本を書いておられるわけだが、どんな時代でもそうだが、「インディーズ文化にどっぷりつかる経験をしなかった人たち」はどんな時代にも存在する。そういう人たちはおそらく「同世代にインディーズ文化が存在していることにまったく気づかないまま、同じ時代を過ごした」のである。
また、「80年代前期限定文化クラスター」の存在によって、日本における「80年代前期」と「80年代後期」はまったく異質なものになっていることも覚えておくべきだろう。80年代後期文化には「パンクの影」はまったくない。
「80年代前期の文化アイテム」には、エリック・サティ趣味のように、静寂と洗練を追及し、パンクの激情とはなんの関係もないように見えるものも少なからずある。
だが、その底流に「パンク的な、なにか」が流れていることはけして少なくない。なかなか説明が難しいが、わかる人にはわかると思う。
May 31, 2017
たしかに自分も逮捕時の彼の顔を「見るに耐えない」とは思うし、それをツイートもした。
タイガー・ウッズの飲酒運転だかなんだかの逮捕時写真に衝撃。酷い。人間ああなっちゃ、スポーツどころじゃないな。カウンセリングに通うどころか、長期入院治療が必要なレベルのメンタルなんじゃないのか。プロは自分のやってるスポーツの名誉を守りながら生活する義務は「ある」と思う。
— damejima (@damejima) 2017年5月29日
だが、彼の痛々しい人生そのものを 「論ずるに値しない」 とは、まったく思わない。
例えば、タイガー・ウッズについての本を何冊も書いているような自称スポーツライターが「裏切り」だのなんだのと、まるで「ケバいホステスさんが連れ歩く醜いチワワのようにキャンキャン吠えて」いるが、何の意味もない。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
【速報】タイガー・ウッズ逮捕!:もはや許されない「2度目の裏切り」--舩越園子 | 新潮社フォーサイト
こんなレベルの脳で、よくアスリートのことを書けるものだ。他人様の業績と人生を利用して儲けてきたにすぎない三流ライターが、言うべきこと、言うべきでないことの区別すらつかないのか。
「心が乾いた子供のまま、オトナになった彼」がやるべきだったことの最初のひとつは、簡単なことだったはずだ。
自分を幸せにしてやること、だ。
それは同時に彼が、人生の出発において必ずしも「幸せではなかった」ことも意味する。
すべてを手に入れたはずの彼は、突然つまづいた。
「え? あれだけ有名になってカネも稼いだんだし、こんどは自分を幸せにするんじゃなく、家族や両親を幸せにするべきだし、社会貢献だって大いにすべきだろ。」
などと、思うかもしれない。
いやいや。それは、まったく間違ってる。
人生ってものが、まるでわかっちゃいない。
まとまるには時間がかかるが、今の時点で思うことだけ書けば、今のタイガー・ウッズは、「自分を幸せにする方法や方向性」を模索しながら「さまよい歩き続けて」きて、その長い過程において失敗する中で、今の彼は「いったいどういう状態が自分にとっての幸せか」すら見失っていると思う。
そして、彼が道に迷った「起点」はおそらく、彼の中にもともとあった「亀裂」だろう。ここでいう「亀裂」とは、精神分裂病の意味ではない。むしろ「両親との関係性」を中心にした、文化的あるいは人種的な意味だ。
彼にこうアドバイスする人がたくさんいたことだろう。
「家庭を持て、タイガー」と。
でも、そうだろうか?
家庭をもつことは実は「誰にでも」できる。
しかし、本当に人は「家庭のもつ、はかりしれない価値」に気づいて家庭をもっているだろうか。なんとなく「成り行き」で「家庭と称する集合体を築いただけ」の人があまりに多くはないだろうか。そんな未熟な行為で、その人は本当に「幸せな家庭」を実感できるだろうか。
ブログ主は、そうは思わない。
「多くの人がそうするから」という単純な理由だけで家庭をもち、「家庭のもつ、はかりしれない価値」に気づかないまま、「自分Aと自分Bの間に生じる摩擦」によって、自分自身と家庭の両方を傷つけている、そういう人が大勢いるとブログ主は考える。
たとえば、彼タイガー・ウッズは「アスリート」である。
そして、「アスリートにとっての幸せ」というものは、「もともと家庭と別のところ」にある。
このことをしっかり「認め、共有すること」がアスリートにとって「重要な出発点」だし、認めないことには出発できない。それは理屈ではない。家族のありがたみを本当に実感するのは、もっとずっと先の「終点」であり、「出発点」でなくていい。
たしかに、「家族を幸せにしたい」と思うこと、それ自体は誰もが考えるべき、とても重要な人生のキーポイントだ。
だが、もしその行為が表面的な道徳感だけであり、家庭をもったことが「自分に足かせをはめただけ」の意味にすぎず、心の奥底では逆に「家庭というモラルが自分を縛りつけている」などと感じて生活しているなら、その人は少なからず「仮面をかぶっている」にすぎない。
そういう人は「家族という素晴らしいユニット、家族という素晴らしいチームを、心の底から楽しんではいない」。
本来、「家族であるということ」は、他人から強制されるモラルでもなければ、目的でもないのに、である。
おそらく、タイガー・ウッズが家庭をもった最初の理由は、彼にとってどうしても必要だったから、ではない。彼の最初の家庭は、彼の中のアスリートとしての乾きを潤してはくれなかったし、彼自身も家庭を潤してはいなかった。
誰にとっても人生はある部分において、とても痛々しいものだ。
今のタイガー・ウッズは、自分のことすら愛してはいない。自分のことを愛していない人間のやることは、眼をそむけたくなるほど、限りなく無様(ぶざま)だ。
だが、それを嘲笑う(あざわらう)ことは、自分にはできない。
自分も少なからず痛々しい人生を生きてきたからである。
タイガー・ウッズが人生を心から楽しむことの意味や方法を知るには、まだまだかなり時間がかかると思うが、しかしだからといって、それを知るのに、人生において遅いということはない。
たとえ彼がプレーヤーとして昔の姿で復帰できなくても、それはそれでいい。ブログ主は彼に「ひとりの人間として」、本当の意味での「頼れる父ちゃん」になれるよう頑張ってもらいたいと思うのである。
やはりタイガー・ウッズ問題はアスリート特有のメンタルな問題についての示唆があると思う。イチローについて、肉体的訓練やストレッチについてよく話題にするけど、むしろ驚異的なのは「メンタルの、ありえないほどの強靭さ」だ。でなければ、一流選手であることをあれほど継続することなんてできない
— damejima (@damejima) 2017年5月30日
May 22, 2017
これだから日本のメディア記事だの他人のブログだのをマトモに読む気になどならない。
例えば、「2017年の田中がスプリットを投げてないこと」くらい、タンパベイのコーリー・ディッカーソンなどにホームラン3本を打たれた打席の投球球種をみるだけで、誰にでもわかる。
にもかかわらず、例えば豊浦某(https://news.yahoo.co.jp/byline/toyorashotaro/20170522-00071202/)などは、たった1行、「スプリットを封印した田中には、決め球がない。」とでも書けば済む中身のない内容を、Fangraphのデータをわざわざ引用して、ダラダラ、ダラダラひきのばして書いている。くだらない。中身なんてまるでない。Fangraphを引用するとセイバーメトリクスっぽくなるとでも思っているのか。アホか。と、いいたい。
日本のスポーツ紙メディアにしても、「好調ならベタ褒め、不調ならクソミソ」程度の低レベルな文章技術しかない三流タブロイドメディアのニューヨーク・ポストが書いたこきおろし記事を受け売りして、翻訳掲載し、無駄に三流タブロイド紙を儲けさせている。くだらないにも程がある。
田中が春先にホームランを打たれまくったのは、
なにも「今年が初めて」ではない。
参考記事:2014年7月10日、田中将投手の使う球種の大きな変化。「ストレートとスプリッター中心だった4月・5月」と、「変化球中心に変わった7月」で、実際のデータを検証してみる。 | Damejima's HARDBALL
参考記事:2015年4月6日、2013年日本シリーズ第6戦で巨人に「パターンを読まれた」時点からすでに始まっていた田中将大の「試練」。 | Damejima's HARDBALL
むしろ、渡米後すぐ、2014年に右肘靭帯部分断裂して、翌2015年春にはすでにホームランをボコボコ打たれだしている。
だから2015年春の野球記事を検索すれば、さまざまな角度から書かれた「なぜ田中はホームランを打たれるのかというテーマの記事」がいくらでも見つかるし、中には中身のある記事もある。
例えば「対戦相手に球種が読まれているのではないか」という、よくある疑念については、例えば2015年4月にカート・シリングが「ストレート系と変化球で、腕の角度が違う」と言っている。(このコメントは「怪我から復帰した後」の話なので現在でも読む意味はある)
Harper: Tanaka takes small step, but not yet up to speed - NY Daily News
またフォームの変化については、2015年に筑波大学硬式野球部監督でもある川村卓准教授が、怪我のあとのフォームの変化と課題を指摘していて、「上半身、たとえばトップの位置は変わったが、下半身の動きは変わってない」という主旨のことを言っている。
田中将大の投球フォーム ヒジの故障によって変わった「トップの位置」 | ベースボールチャンネル(BaseBall Channel)
田中の不調の原因を記事として明確に指摘できる「材料」は他にもある。
例えば、タンパベイ戦で田中は、誰からの指示かは知らないが(たぶん無能な投手コーチのロスチャイルドだろうし、監督ジラルディも同意見だと思われる)、わざわざ「プレートの三塁側」を踏んで投げるように指示されている。
「右投手」が、「三塁側」を踏んで、「右バッターのインコース」に、「シンカー」を投げこんで、それが「ホームランという結果」しか生まなかったというのだから、そのことの「意味」は、「シンカー」という球種の性格をちょっと考えれば、その「意味」が誰しもわかりそうなものだ。
なのに、誰も指摘してないのだから呆れかえるしかない。おまえ、ボール握ったことがないのか?と、言いたくなる。
ちなみに、シーズン20億円以上もらっている先発投手が「プレートのどこを踏むか、他人から指示される」なんてことは、「ブログ主の常識」には、まったくない。
そういうたぐいの「調整」は「誰よりも自分をわかっている自分自身が試すべきこと」であって、それができる投手だけが20億もらうべきだ。
そういう基本が自分でできないのなら、20億もらう価値のない選手であることを自分で証明していることになる。それがブログ主の考える「プロ」だ。いったい何年かかったら「田中の調整」は終わるんだ?と言いたい。
まぁ、興味がある人はPitch F/Xとかで、田中投手の「変化球、速球それぞれのリリースポイント」とか、「変化球の変化の大きさ」など調べてみると面白いことがわかると思うし、登板日の写真の「下半身の踏み出し幅の、異様なほどの大きさ」についても、ちょっと考えてみるとなかなか奥が深いとも思う。
でも自分ではやらない。
なぜなら、自分にとって田中将大は、そういう「めんどくさいこと」を時間をかけてわざわざしたいと思うほどの選手ではないからだ。
彼はクリフ・リーでも、ロイ・ハラデイでもない。時間をかけて田中について書くくらいなら、むしろ、大学時代の怪我で速球派から技巧派に転じたジェイソン・バルガスの「遠い過去から現在にいたる、紆余曲折の長い道のり」について時間をかけて書いてみたい。
いずれにしても「面白いMLB記事」なんてものに本当に出会わなくなった。
根本原因はたぶん、本当の意味で「面白いと思える選手」がいなくなってしまったことにあるのだろう。
飛びすぎるボール。ストライクゾーンの変更。ホームラン激増。突然ホームランを量産しだす若い選手の登場。ドーピングの蔓延などなど。どれもこれも、別に面白くも、なんともない。細かく分析しようとも思わない。わかりきったことばかりで、考えて長い記事を書いても時間の無駄だし、MLBへの興味が薄れる原因にすらなっている。
May 16, 2017
1932年までレッドソックスは「日曜に限って、フェンウェイで試合を開催することができなかった」。そのため「日曜のゲームだけ」は、西に1.4マイル離れたブレーブス・フィールドで行われていたのである。(ブレーブス・フィールドは、現在のアトランタ・ブレーブスがボストンにあった時代の本拠地で、現在の名称はニッカーソン・フィールドで、ボストン大学の所有)
#OTD1929: @RedSox announce they'll play Sunday's game in Braves Field; Fenway is within 1,000 ft of a church, violating “Sunday sports law” pic.twitter.com/HoR1EnJVdk
— Baseball Hall ⚾ (@baseballhall) 2017年2月19日
いままで一度も真剣に考えたことがなかったが、どうも「人が休息する曜日には、2つの種類がある」ようだ。
1)宗教的なさまざまな「制約」が定められた安息日。
2)疲労回復やリクリエーションなどをして過ごす、「自由」時間としての休日。
上に書いた2種類の休日のうち、後者のルーツは、どうも「古代ローマ帝国」にあるのではないか、という主旨で以下を書く。(なお、余談としてオードリー・ヘップバーンが主演した『ローマの休日』という名作映画のタイトルの解釈の誤りにも触れる)
特定の曜日」の人々の行動について、「宗教的な視点から、制約を設けている国」は、案外多い。例えば、ユダヤ教なら土曜、キリスト教なら日曜、イスラム教なら金曜が、「安息のための日」とされ、歴史上さまざまな制約が設けられてきた。それぞれの宗教の信者の多さを考えると、かなりの数の人々がこれまで「特定の曜日の行動にさまざまな制約が設けられた文化のもとで暮らしてきた」ことになる。
例えばキリスト教国だと、古くから日曜日の人々の活動のいくつか(例えば飲酒)を法的に制限した例がある。
アメリカは、そうした国々の中で最も歴史の新しい国のひとつだが、それでも、かつてアメリカがヨーロッパの植民地だった時代に、厳格なモラルのある暮らしを求めるピューリタン系移民の意向でBlue Lawという法律が定められた。
Blue Lawによる制約は州によって中身が異なるのだが、いずれにしても自由の国アメリカにも「日曜日の行動」にさまざまな制約を設けていた時代があったのである。
ボストンは、トリニティ教会のような尖塔をもったヨーロッパ風の教会が点在するヨーロッパ文化の影響の濃い街だが、フェンウェイパークは球場の1000フィート内に教会があった。そのため、法的な規定によりかつては「日曜日に試合を開催すること」ができなかった。
例えば、「1929年」でいうと5月23日〜26日にレッドソックス対ヤンキース戦が5試合組まれているが、水曜から土曜までの4試合はフェンウェイだが、「日曜日の試合だけ」はフェンウェイではなく、「ブレーブス・フィールド」で行われている。(資料:http://www.baseball-reference.com/boxes/BOS/BOS192905260.shtml
なおブレーブスがレッドソックスに日曜限定で球場使用を認めた経緯については、以下の記事が詳しい。Red Sox to use Braves Field on Sundays - The Boston Globe
さて、野球の日曜開催を阻んでいたBlue Lawの存在がわかったら、話は終わりかというと、そうではない。まだ長い続きがある(笑)
英語で「日曜日」を意味する言葉が sunday、サンデイ であることは、英語の苦手な日本人でも知っている。
だが、こういう『太陽を意味する言葉』が「日曜日」を示すようになったことには、なかなか深い歴史的な意味がある。
長い話を書く前に
まず誤解を正しておかなくてはならない。
欧米のキリスト教国に、日曜日の人々のふるまいに制約を設ける法律があることについて、日本人はその理由を「キリスト教の安息日が日曜日だからだ」と思いがちだし、日本の多くのサイトも堂々とそういう「間違い」を書いている。
だが、それは以下に示すが、二重三重の意味で正しくない。
そもそも「安息日」という言葉が指す曜日は、ユダヤ教、キリスト教、いずれの場合も、「土曜日」であって、日曜日ではない。
旧約聖書のもとにおける安息日(Sabbath)とは、天地創造7日目に神が休息をとった曜日である「土曜日」である。ユダヤ教、そしてキリスト教宗派の一部の厳格さを重んじる宗派において、安息日とは現在でも「土曜日」を指している。
さらに詳しく言えば、「安息日という意味の土曜日」は、厳密には「金曜の日没から、土曜の日没まで」を意味しているのであり、例えばユダヤ教では、「既に安息日に入っている金曜の日没後の夜」に、「安息日の禁止事項のひとつ」である「火を使って料理する行為」は許されない。
金曜を安息日とするイスラム教においてもまた、「安息日の金曜」が意味するのはあくまで「木曜の日没から、金曜の日没まで」であり、各種の禁忌は、金曜の深夜12時から始まるのではなく、「木曜の日没」から始まる。
新約聖書のもとでは、「日曜日」が特別視され、礼拝も行われるが、これも「日曜日が安息日だから」ではない。これは「日曜日」が「主キリストの復活した曜日」にあたる「主日」(しゅじつ、=Lord's day)だからである。
例えば、東方正教やカソリック系諸国の言語、ギリシャ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ベトナム語などにおいては、「日曜日」を示す単語として、英語におけるsundayのような「太陽を意味する言葉」ではなく、「主日」に由来する言葉を用いる。
歴史家的視点からいうと、キリスト教における礼拝日は古代ローマ時代に「土曜日から、日曜日に変更になっている」と考えられており、その直接の転機は皇帝コンスタンティヌスがAD321年に発布した日曜休業令にある。
考察例:David Laband "Blue Laws: The History, Economics, and Politics of Sunday Closing Laws"
さて、19世紀アメリカの「日曜日の行動を規制する法律」、 Blue law のルーツに話を戻す。
この法律のルーツは、1617年にイギリスのステュアート朝初代国王ジェームズ1世が定めたDeclaration of Sportsといわれている。
ジェームズ1世のステュアート朝の前の、テューダー朝をひらいたヘンリー7世の息子ヘンリー8世が離婚のために英国国教会までつくったあたりのことは、既に記事に書いた。2014年12月5日、シェークスピアも予期できなかった、527年後の復讐劇。21世紀版 『リチャード3世』。 | Damejima's HARDBALL
英国国教会成立後のイギリスでは、国教会派と、それ以外のキリスト教宗派、特に清教徒(ピューリタン)との対立が激しくなり、ピルグリム・ファーザーズのような清教徒の一部は新天地を求めて、ボストンをはじめとするアメリカ東部に渡った。
こうしたピューリタンの影響のひとつがBlue Lawだ。清教徒はご都合主義を嫌ってアメリカに渡ったわけだから、アメリカ東部の都市の一部が「キリスト教的な厳格さを要求する保守社会」になったのは当然の成り行きでもあった。
だから「Blue law が人々に求める休日」とは、最初に書いた「休日のあり方に関する2つのパターン」のうちの前者、つまり「宗教的にさまざまな制約のある安息日にふさわしい過ごし方」であり、けして現在のような「休養やリクリエーションをして過ごす、自由な休日」ではない。
では、「宗教的な義務としての安息の日」ではない、「疲労回復やリクリエーションなどのための、単なる休憩時間としての休日」は、いつごろ人類史に現れたのか。
現在我々が経験している「日曜日に、野球でも見て、ビールでも飲んで、のんびり過ごす」というような意味での「自由な休日」のルーツは、どうやら古代ローマ帝国にある。
古代ローマには「ヌンディナエ」という「8日目の休日の習慣」が、キリスト教が古代ローマ帝国に浸透する前からあった。
古代ローマ帝国は当初、「ヌンディヌム(nundinum)」と呼ばれる「八曜制」を採用していたために、「古代ローマ初期の1週間のサイクル」は「8日間」でできていたが、ヌンディヌムの「8日目」が、ヌンディナエ(nundinae)であり、仕事も学校も休みで、たとえ下層階級である農民であっても、7日間の労働のあとのヌンディナエでは友人との時間を楽しむ時間的なゆとりを持てたらしい。
皇帝アウグスティヌの時代になると、「8日間サイクル」でできていた1週間は「7日間」に短縮され、その7日目には「太陽の日」を意味する Diēs Sōlis という呼称が与えられ、皇帝コンスタンティヌスは「日曜休業令」を発布し、「週の7日目に仕事や学校を休む」よう定めた。
古代ローマで「休養日」が「太陽を意味する言葉」で呼ばれていたこと自体には、古代ローマ特有の宗教上の理由がある。古代ローマ人は、キリスト教が伝来する前から多神教的な「太陽崇拝の土着宗教」を持っていたからだ。
だが、古代ローマの「日曜休業令」は太陽崇拝を強制するために作られたわけではない。
もし皇帝コンスタンティヌスが領土全体にローマ帝国の伝統宗教を強制しようとしたのであれば、領民全員に「太陽崇拝」と「日曜の太陽礼拝」を強制したはずだが、彼はむしろミラノ勅令ですべての宗教の自由を認めたことで有名な自由を重んじる皇帝であり、太陽崇拝の強制のために日曜日を休ませたわけではないし、また、彼自身たしかにキリスト教擁護者でもあったが、反面でローマ伝統の太陽崇拝を捨てていたわけでもないから、キリスト教の礼拝を強制するために日曜休業を言い出したわけでもない。
古代ローマでは、キリスト教が帝国全土に浸透する前の1週間がまだ8日間だった時代から既に、「1週間のうち、1日を、学校や仕事を休んで休養にあてる習慣が存在した」のであり、コンスタンティヌス帝は「日曜休業令」で「古代ローマの伝統的な習慣」を「制度化した」のに過ぎない。
「日曜日」の呼び名である "sunday" は「太陽」に関係した言葉であり、その原点は、キリスト教の登場より古く、古代ローマにある。
この言葉が規定した「日曜日」とは、もともと「宗教的な制約に従って静かに過ごす日曜日」ではなく、むしろ「自由に過ごしても許される、休養やリクリエーションの日としての日曜日」が、むしろ「オリジナルの日曜日」なのだ。
ヨーロッパを脱出してアメリカにやってきた清教徒たちのナーバスな要求で作られた Blue Law がボストンでの日曜の野球開催を禁じたわけだが、日曜日に娯楽に興じることはキリスト教よりも古いルーツにのっとった行為であり、やがてアメリカにおける Blue Law による生活のさまざまな制約は20世紀に撤廃されていくことになった。
(この例からも、アメリカと英語の文化が、けしてキリスト教文化のみでできているわけではないことが、そのこともなかなか興味深い)
ゆえに。
映画『ローマの休日』の原題 Roman Holiday は、厳密に直訳するなら、『ローマ式の休日』と訳すのが正しい。
さまざまな制約に縛られてばかりいる王女が、イタリアのローマで、ヨーロッパ歴訪の過密スケジュールと王室の制約に縛られることなく、自由きままに休日を過ごした、そのリラックスした過ごし方こそ、「古代ローマ的な休日」にほかならない。