September 10, 2010

通算盗塁数のメジャー記録1406をもっているリッキー・ヘンダーソンがメジャーデビューしたときに所属していたアスレチックスが「1イニング2ダブルスチール」という滅多にない記録をうちたてた記事を書いたばかりだが、野球というスポーツの歴史を振り返ってみると、盗塁とホームランは相反する歴史をもっている。

メジャーの歴史における盗塁とホームランの関係

これはメジャーの歴史における1ゲームあたりの盗塁数(SB/G)と、1ゲームあたりのホームラン数(HR/G)をグラフ化したもの。ひと目でメジャーのプレースタイルの変遷がわかる。非常に優れたグラフだ。
Stolen base - Wikipedia, the free encyclopedia


「球聖」タイ・カッブ時代
創生期の野球は、盗塁が非常に盛んで、スピーディで緻密な野球をしていたらしい。この時代、最大のヒーローは、いうまでもなく、通算安打数4189、通算打率.366で歴代ホール・オブ・フェイマーの中で第1位を誇る安打製造機にして、歴代4位の盗塁数897のスピードスター、「球聖」タイ・カッブである。
ホール・オブ・フェイマーの打撃比較
Hall of Fame Batting Register - Baseball-Reference.com

球聖タイ・カッブスライディングするタイ・カッブ。ベンチ前でスパイクを研いだエピソードは有名。相当スライディングがえげつなかったらしい。



カッブは、MLB史上4位の892盗塁を記録していて、1イニングで二盗、三盗、本盗を決める「サイクル・スチール」を通算4度も達成していて、現代のスピードスターであるイチローと、プレースタイルに多くの共通点がある。

1936年に第1回の殿堂入り選手を選ぶ投票が行われたが、このとき殿堂入り第1号選手に選ばれたのは、前年に引退したばかりのホームランバッター、ベーブ・ルースではなく、投票した226人のうち最高の222票、98.2%の票を得たスピードスター、「球聖」タイ・カッブだ。
この殿堂入り投票では、総投票数226のうち「75%以上の得票」である170票以上が必要だったが、それを集めることができたのはタイ・カッブ以外にベーブ・ルース(222票)、首位打者8回の"The Flying Dutchman"ホーナス・ワグナー(215票)、当時fadeawayと呼ばれた変化球(現在のスクリューボールといわれている)で通算373勝、2度のノーヒッターを達成した"Big Six"クリスティ・マシューソン(205票)、通算417勝の剛腕"The Big Train"ウォルター・ジョンソン(189票)の、合計5人だけだった。
ノミネート選手の中には、あのサイ・ヤング(111票)、ロジャース・ホーンスビー(80票)、ジョージ・シスラー(77票)、ルー・ゲーリッグ(51票)、ウィリー・キーラー(40票)と、日本でも名前を知られているMLBの超有名殿堂入り選手が数多くいたわけだが、タイ・カッブはそのあらゆる有名選手を抑えて得票第1位に輝いたのである。
タイ・カッブが記録した得票率98.2%は、トム・シーバーが1992年に98.8%の得票率で殿堂入りするまで、半世紀以上も破られなかった。
これまでタイ・カッブの98.2%以上の得票を得て殿堂入りしたのは、98.8%のトム・シーバー、 98.79%のノーラン・ライアン、 98.53%のカル・リプケン(野手としては史上最高の得票率)、メジャーの長い歴史の中でも、この3人しかいない。
1936 Hall of Fame Election - BR Bullpen


ベーブ・ルースと「ホームランの出やすい球場」の時代
野球創生期の「タイ・カッブの時代」を大きく変えたのが、ベーブ・ルースの登場だという話はよく言われることだが、その話をするとき、「ホームランの出やすい新球場の建設」や「1920年以前の『飛ばないボール』とは全く違うボールの採用」がホームラン量産時代を支えたことは、これまであまり日本のスポーツメディアではきちんと触れられてこなかった。
ヤンキースが、ボストンからルースが移籍してきた当時ホームグラウンドにしていたのは、左右両翼が極端に狭いためにホームランが出やすく、「ポール際ならポップフライでもホームランになる」といわれたポロ・グラウンズだが、この球場を手本に、ヤンキースが1923年にライト側だけが異常に狭い旧ヤンキースタジアムを建設したことで、大衆をホームランに熱狂させる時代がやってきたのである。
この時代の変化は、上のグラフにハッキリと表れている。1910年代から20年代にかけてゲームの盗塁数は激減、その一方で、ホームランの数は右肩上がりに増加していった
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月25日、セーフコ、カムデンヤーズと、ヤンキースタジアムを比較して、1920年代のポロ・グラウンズとベーブ・ルースに始まり、新旧2つのヤンキースタジアムにも継承された「ポール際のホームランの伝統」を考える。

Polo Groundsポロ・グラウンズ
Clem's Baseball ~ Polo Grounds

旧ヤンキースタジアム旧ヤンキースタジアム
Clem's Baseball ~ Yankee Stadium

タイ・カッブとベーブ・ルースの
目指すプレースタイルの違い

球聖タイ・カッブと、ベーブ・ルースがお互いをけなしあっていたことは有名な話だ。
カッブが「野球本来の面白さは、走塁や単打の応酬にある」と批判すれば、ルースは「客はオレのシングルヒットじゃなく、ホームランを見に来ているのさ」とやり返している。
だが、これは両者の「能力の差」ではなくて、単に「好みのプレースタイルの違い」である。なぜなら、2人とも、ヒットを積み重ねる能力もあれば、ホームランを打つ能力も欠けていたわけではないからだ。
例えば、タイ・カッブは、ホームランをもてはやしだしたマスメディアにイライラして「ちょっと見せたいものがある」とあらかじめ試合前に宣言しておいてゲームで1試合に3本のホームランを打ってみせたことがあり、また、首位打者、ホームラン王含めて打撃全タイトルを同時にとったことさえある万能選手だった。(このへんは「イチローは実はホームランも打てる」とよく言われるのと非常に似ている)また、一方のルースも、シーズン打率.393を打ったことがあり、アベレージヒッターとしての能力もあった。
つまり、タイ・カッブは「シングルヒットだけしか打てない打者」ではなかったし、一方、ルースも「打率は低いくせに、ホームランばかり狙っている扇風機」などではなかった。

ベーブ・ルースは1895年生まれでタイ・カッブよりずっと若くて、第1回殿堂入り投票前年の1935年まで現役だったから、既に野球創生期の偉人であったタイ・カッブより当時の評価がほんの少し低い傾向にあったことは、しかたない面がある。(ちなみに第1回の殿堂入り投票時のルースは殿堂入りノミネートに必要な引退後5年経過という条件を満たしていなかったが、特例でノミネートされた)

ちなみにイチローがシーズン最多安打記録を更新したジョージ・シスラーは1893年生まれで、やはり1886年生まれのタイ・カッブよりも年下で、全盛期もタイ・カッブより10年ほど遅い。(シスラーの殿堂入りは1939年)。

ジョージ・シスラー

スピードとテクニック系の選手だったシスラーは、不運なことに、ホームランが非常にもてはやされだしたベーブ・ルース時代と全盛期が重なってしまっている。そのため、彼のヒットを積み重ねた業績は1920年代以降のホームラン時代には、時代に埋もれてしまう不幸さがあった。かえってシスラーのようなタイプの選手は、ベーブ・ルース時代ではなく、タイ・カッブ時代に全盛期を迎えていれば、輝かしい業績を軽視されるような不運な目にあわずに済んだだろうと思う。
2004年のイチローによるシスラーのシーズン最多安打記録の更新は、もちろん、シスラーの正当な再評価、名誉ある業績の掘り起こしに繋がったわけで、シスラーの遺族がイチローの記録更新をかえって喜んだのも頷ける。


上のグラフでみるとわかるように、ベーブ・ルース以降1950年代までは「盗塁が少なく、ホームランの多い時代」が続く。
その証拠に、1950年にドム・ディマジオ(1955年に殿堂入りしたジョー・ディマジオの弟で、ボストンの選手)が「たった15盗塁」で盗塁王になったりしている。だから、この「ほとんど盗塁しない時代」にどんなタイプの選手がもてはやされたかは説明しなくてもわかると思う。


時代を変えたスピードスター、
ルー・ブロック、リッキー・ヘンダーソン

「MLBから盗塁が消えた時代」は、1960年代から70年代かけて急速に終わる。1ゲームあたりの盗塁数が右肩上がりに増えていき、1試合あたりの盗塁数とホームラン数の差は急激に縮まっていく
そして1980年代になると、盗塁は試合運びをする上で非常にポピュラーな戦術に返り咲いた
これは明らかに、74年に118盗塁を記録し、それまでのメジャーのシーズン盗塁記録を塗りかえた、通算盗塁数938で歴代2位のルー・ブロック(1985年殿堂入り)や、80年、82年、83年に100盗塁以上を記録し、82年の130盗塁でルー・ブロックの記録を塗りかえたリッキー・ヘンダーソン(2009年殿堂入り)の活躍があってのことだと思う。

盗塁するリッキー・ヘンダーソン盗塁するリッキー・ヘンダーソン
ベーブ・ルースなら「客はオレのシングルヒットじゃなく、ホームランを見に来ているのさ」と言うだろうが、リッキー・ヘンダーソンなら「いやいや。今は時代が違うだろ。今の客はオレ様の盗塁を楽しみに球場に来るのさ」と言い返すところだろう。我々が出塁したイチローを見るとき、「早く盗塁しないかな」と待ちあぐねながらテレビに釘付けになっているのとまったく同じである。
リッキー・ヘンダーソンも、ホームランを20本以上打ったシーズンが合計4シーズンあって、タイ・カッブもそうであったように、彼もまた「シングルヒットしか打てない打者」ではなかった。


2000年前後の薬物ホームランフィーバーと、
その後のドーピングへの幻滅

1998年から2001年にかけて、マーク・マクガイアサミー・ソーサバリー・ボンズといったホームランバッターによるホームラン記録の更新フィーバーの時代がやってくる。
日本でもサンフランシスコの球場の外で、ボートやカヌーに乗ってホームランボールを拾いに来ている野球ファンの映像が何度も流されたものだ。
しかし次々とステロイド使用による彼らの不正ぶりが告発されたことで、近年では彼らのホームラン記録の正当性そのものが疑問視されている。


タイ・カッブ、リッキー・ヘンダーソン、イチロー
歴史を変えたスピードスターたち

1980年に始まったシルバースラッガー賞という賞がある。
この賞、なまじ「スラッガー」とタイトルについているばっかりに、「ホームランをたくさん打つと、もらえる賞だ」と勘違いしている人が非常に多い。あるいは、イチローがシルバースラッガー賞を何度も受賞していることにいちいち異議を唱えたがるアホウもいる。

だが、例えば球聖タイ・カッブは通算117本しかホームランを打っていないが(しかも、その多くはランニング・ホームランらしい)、もしあの時代にこの賞があったら、少なく見積もっても10数回受賞したことだろう。
また、盗塁のキング・オブ・キングス、リッキー・ヘンダーソンは、通算3回シルバースラッガー賞を受賞しているわけだが、その内容を見れば、ドーピングが騒がれて個人のホームラン数がかなり減っている近年のMLBからしても、「これは凄い」という数字の成績でもない。81年などは「こんな成績でよく獲れたな」という感じの数字だ。
リッキー・ヘンダーソンの3回のシルバースラッガー賞も、盗塁を含めた打撃成績全体の貢献度を見てのものだろう。シルバースラッガー賞とは、そういう賞である。
リッキー・ヘンダーソンの
シルバースラッガー賞受賞シーズンの成績

81年 打率.319 135安打 6ホームラン 35打点 56盗塁
85年 打率.314 172安打 24ホームラン 72打点 80盗塁
90年 打率.325 159安打 28ホームラン 65打点 65盗塁
参考)イチローのシルバースラッガー賞受賞年の成績
01年 打率.350 242安打 8ホームラン 69打点 56盗塁
07年 打率.351 238安打 6ホームラン 68打点 37盗塁
09年 打率.352 225安打 11ホームラン 46打点 26盗塁

「ホームランだけが野球というスポーツの攻撃スタイルだ」という決めつけは、単なるガキくさい思い込みにすぎない。「野球 イコール ホームラン」というベーブ・ルース時代に作られた商業色の強いイメージに捉われたままの人が、いかに多いことか。
むしろ、近年のシルバースラッガー賞の受賞者のホームランバッターには、薬物問題で実際に処罰を受けた「まがいもの」「つくりもの」のプレーヤー(たとえばボンズ、マクガイア、ジオンビー、テハダ、他にも大勢いる)があまりにも多い。


これを書いていて、ほんとうに2001年のイチローの鮮烈なメジャーデビュー登場がメジャーの歴史にいかに大きなインパクトを与えたか、その意義を考えずにはいられない。
イチローの登場は、単に、シスラーのような大過去の偉大なプレーヤーの記録を掘り起こしただけではなくて、ルー・ブロックやリッキー・ヘンダーソンが「盗塁」というタイ・カッブ時代の野球の価値ある宝をあらためて掘り起こしたように、2001年までの薬物を使用しつつホームラン競争に明け暮れていた「薬物ホームラン時代」に終止符を打ち、新しいクリーンなスピード時代の幕を、イチローが開けたのだ。

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