February 25, 2011
500個の四球が350本のヒットに相当する、というセイバー流の試算から、四球をヒットに換算する行為を「愚かしい」と感じる理由をいくつか書き留めて残しておこうと思う。
打率.280の打者でも沢山の四球を選んだ打者の成績は「四球を全部ヒットに換算すると打率.320くらいに相当する」とかいう「アナリストの視線からの発想」は、ブログ主に言わせば、あまりにも貧相だし、ベースボール的でない。
(1)数式と現実の混同
まず言いたいのは、「A=B」だからといって、「AとBの互換性、可逆性を完全に想定してはいけない」のが、現実世界というものだ、ということだ。
たとえば、数式で「A=B」という等式が成立したとする。
しかし、そのことは、現実の世界において、現象Aと現象B、商品Aと商品Bの可逆性とか互換性を保証する根拠になどならない。現実の世界には、そういう例は数かぎりなくある。
例えば、世界的に非常に評価が低い通貨Aと、世界的に流通している強い通貨B、2つの通貨があり、両方の通貨の為替レートがあらかじめ「500A=350B」などと決まっているとしよう。
為替レートが決まっているのだから、この2つの通貨は世界のどこでも常に無限に交換できるか、というと、そうでもない。弱い通貨Aから基軸通貨Bへの換金は簡単でも、基軸通貨Bを弱い通貨Aに戻す行為が商取引で必ずしも歓迎されるとは限らない。
また化学反応で、物質Aと物質Bを化合させ、第三の物質Cができるとする。
この場合、いちど化合させてしまった物質Cを、簡単に元の物質Aと物質Bに戻せるとは限らない。たとえばプラスチックは石油からつくられるが、プラスチックを簡単に石油に回生できるわけではない。
つまり言いたいのは、A=B(あるいはA+B=Cでもいいのだが)とかいうような「ある条件の下で成立しているギミック」が存在するからといって、それが「AとBは、どんな条件でも常に等価であり、互換性が完全に保証されたものとして扱っていい」とか「世界のどこでも、BをAに常に換算していい保証になる」わけではないのである。
そもそも「500個の四球=350本のヒット」という考えかたの根は、そもそも「空論」であって、中身がない。根本にある思考方法が、あまりにもベースボールの現実から離れている。
(2)プレーヤー目線からみた「四球とヒットの大差」
さて、論理的なことはさておき、あなたは野球で打席に立ったことがあるだろうか。あるとしたら、あなたは四球とヒットを「同じもの」「同じ価値のプレー」と感じ、同じように実現できるだろうか? また、四球を選んだチームメイトと、ヒットを打ったチームメイトを、「同じ視線」でッ評価するだろうか?
「アナリスト目線」ではなく「プレーヤー目線」から見れば、「350本のヒットを打つ」という行為と、「500の四球を選ぶ」という2つの違った行為を相互に換算できないのは明らかだ。
ほとんどのMLBの打者は、早いカウントでの打率が高い。言い換えると、ヒットを多く打てるカウント、というのは、「早いカウント」なのがベースボールである。たとえそれが、選球眼が非常に良く、多くの四球を選ぶことで知られたヤンキース時代のボビー・アブレイユであろうと、2−2が得意カウントであるような特殊な待球型打者のひとりであるジョー・マウアーであろうと、例外ではない。
打者がヒットを打てる確率が高いのは、「早いカウント」である。
こういうとき、フルカウントのような追い詰められたカウントでも通算打率3割打ててしまうイチローを念頭に置いてはいけない。イチローのような打者は、もしかすると地球上の生物ではないかもしれない(笑)といっても過言でないほど例外中の例外の天才であり、ほとんど全ての打者は、「早いカウント」に比べて、「煮詰まったカウント」ではかなり打率が下がるのである。
何が言いたいかというと、ヒットを打つ行為の大半は早いカウントでの打者側のチャレンジ、冒険する行為であり、「バットを振るのを自重する行為である四球」とは、全く目的の異なる行為だ、という、ごくごく当たり前の話だ。
歴史的にも、ベースボールというゲームができた当初、ルールブックには「四球」というプレーは存在していない。
ベースボールができた当初、打者は、投手に対して「自分の打ちたいコース」を指定できたし、ボールは何球でも見逃してよかった。ベースボールは、塁に出て、やがてホームに帰ってくることを目的に出発したゲームなのであって、「四球を目的にしたゲーム」として出発してはいない。
ヒットは、ベースボールが出来た当初からあり、打席に入る「そもそもの目的」、ベースボールというゲームのゆるぎない「根幹プレー」である。だが、四球は、後日つけ加えられた蛇足的なルールであり、また、打席に入る「目的」ではなくて、「結果」に属する。
ヒットと四球、両者は、プレーのもつ「質」が、根本的に違う。
四球は「待つ行為」「プレーの自重」であり、ある意味「冒険の自重」だが、ヒットを狙ってバットを振ることは、ある種の「冒険」であり、「未知のフロンティアへの大いなる挑戦」である。
そしてファンは、プレーヤーのチャレンジを見に、スタジアムに足を運ぶのである。
(3)ファン目線からみた「四球とヒットの違い」
仮に、1シーズンで500も四球を選ぶ選手と、1シーズンに350本もヒットを打てる選手、2人の個性的な選手がいたとしよう。メジャーで打席数が常にトップになることの多いイチローでも、シーズン打席数は700ちょっとだから、500も四球を選ぶ選手の大半の打席は、四球による出塁ということになる。
問題にしたいのは、この年間500もの四球を選ぶ選手を見るために「わざわざスタジアムに行いつめる気持ちになれるかどうか」、だ。
ブログ主なら、500の四球を選ぶ選手より、1シーズンに350本のヒットを打つ選手のほうを見に行く。つまり、「ファン目線」から言うなら、500個の四球と350本のヒットは等価ではない、のである。
ここで3つほどポイントを書いてみて気づいたのは、「アナリスト目線」「数字だけからみた野球」が、必ずしも、「プレーヤー目線」でもなければ、「ファン目線」に立脚して野球をプランニングしているいない、という事実だった。
実は、このことに気づいたことが、ブログ主にとって、最も意味のあることだった。これ、単純なようだが、実はこれからのベースボールを考える上で、とても大事である。
そういえばMLBでも、数字に頼ったチームづくりに着手した結果、そのチームの野球が、色気もなく、味もそっけもなく、かといって強くもない、意味のわからないチームになってしまったチームが、いくつもある。彼らはいったい誰のため、何のために野球をやっているのだろうと思っていたが、その「味気無い野球」の原因は、こういうところにあったのか、と、ハタと膝を打ったのである。
プレーヤー目線でも、ファン目線でもない数字の野球は、やはり何か重要な部分が欠けるのである。
「数字」を扱う行為は、それが誰の目線から見たものか? というシンプルな論点が往々にして欠けている。
だが、ヒトはなかなかそのことに気づくことができない。そして、ヒトはすぐに数字に溺れ、数字に騙される。
ブログ主も、数字をいじること自体は好きなほうだし、
このブログでも、よく自分の主張を補強するために、言いたいことの意味を数字に置き換えるという手法で、数字を「主張の道具」にしている。
だが、それはあくまで主張を数字におきかえるだけの行為だ。まるで乾いた雑巾を無理矢理絞るように、既存の数式から更に考えられることを無理矢理引き出して、数式を主張にかえるような本末転倒なことはしない。
主張は数式に置き換えられる。だが、逆の「数式を主張にみせかける行為」は本末転倒で、愚劣だ。
近年のMLBは、球団経営だけでなく、選手の能力評価、その選手に与えるべきサラリーの計算、獲得すべき選手の選定、チーム編成、ゴールドグラブなど賞の選考基準に至るまで、セイバーメトリクスに代表されるような「数字」が非常に幅をきかせるような時代になってきていると思うわけだが、「数字好きの人々」が自重しなければいけないと強く思うのは、「四球数を無造作にヒット数に換算する」ようなデリカシーの無さと、自己中心的な姿勢だ。それは「数字いじり」で、ベースボールではない。
数字に、選手とファンへのリスペクトが欠けてはならない。
選手は、コンピューターゲームの中でプレーしているわけではなく、実際にフィールドでプレーでそれを実現している。また、ファンは日頃の生活の中に野球に対する興味を持続しつつ、時間とお金をさいてスタジアムに足を運び、お気に入りの選手やチームを応援する。
野球を支えているのは数字ではなく、プレーヤーとファンだ。その彼らに対する敬意やデリカシーがなければ、数字いじりは非常に愚かな作業になるとしかいいようがない。四球はヒットの65%の価値とみなす、とか、勝手に決められても、困る。
四球に価値がないと言いたいのではない。四球とヒットには、換算しきれない根本的な差異もあることを忘れて、数字だけいじくってメディアでモノを言われても困るのだ。スタジアムの現実とかけ離れすぎた数字に、意味などない。
(4)数字によるチームづくりの「勘違い」
ここからは蛇足。
例えば、シーズン40個のファインプレーができる守備の名手の価値が、年間に180本のヒットを打てる選手の価値ど同等とみなせる、というデータが仮にあったとしよう。
では、だとしたら、チームは、40個のファインプレーが期待できるが、打率がたったの.200しかない選手に、年間180本ヒットを打つ打者と同じサラリーを払うのか? また、チームに守備の名手を9人揃えて野球をやれば、それは180ヒット×9人=1620本のヒットに相当するから、間違いなくチームは地区優勝できるのか?
そんなわけがない。
堅い守備に価値がないというのではない。数字に埋没した「内輪ウケのアナリスト目線」だけに頼って、ベースボールをやろうとするな、ということだ。
たとえ、500個の四球が350本のヒットに相当するデータがあったとしても、500個の四球を選ぶバッターが、350本のヒットを打てるバッターと同じサラリーをもらえるようなおかしな事態を、ブログ主は望まない。
まるで異なる通貨同士の為替レートを決めるように、四球とヒット、守備と攻撃の間の「換算レート」をいくら決めても、そんなものにたいして意味はないのである。
数字を扱うのはいい。だが、その数字が、「プレーヤーと、ファン、そしてベースボールというゲームにとって、意味のあるもの」でなければ、それはベースボールをつまらなくするだけのガラクタだ。
カロリーばかり気にしてメシを食っても、ちっともメシはうまくならない。大事なのはカロリーを気にしなくてすむ代謝のいいカラダづくりなはずだが、カロリー(数字)ばかり気にする人に限ってデブ(カラダを動かさない人間)だったりする。
そしてブログ主はデブが大嫌いだ。
打率.280の打者でも沢山の四球を選んだ打者の成績は「四球を全部ヒットに換算すると打率.320くらいに相当する」とかいう「アナリストの視線からの発想」は、ブログ主に言わせば、あまりにも貧相だし、ベースボール的でない。
(1)数式と現実の混同
まず言いたいのは、「A=B」だからといって、「AとBの互換性、可逆性を完全に想定してはいけない」のが、現実世界というものだ、ということだ。
たとえば、数式で「A=B」という等式が成立したとする。
しかし、そのことは、現実の世界において、現象Aと現象B、商品Aと商品Bの可逆性とか互換性を保証する根拠になどならない。現実の世界には、そういう例は数かぎりなくある。
例えば、世界的に非常に評価が低い通貨Aと、世界的に流通している強い通貨B、2つの通貨があり、両方の通貨の為替レートがあらかじめ「500A=350B」などと決まっているとしよう。
為替レートが決まっているのだから、この2つの通貨は世界のどこでも常に無限に交換できるか、というと、そうでもない。弱い通貨Aから基軸通貨Bへの換金は簡単でも、基軸通貨Bを弱い通貨Aに戻す行為が商取引で必ずしも歓迎されるとは限らない。
また化学反応で、物質Aと物質Bを化合させ、第三の物質Cができるとする。
この場合、いちど化合させてしまった物質Cを、簡単に元の物質Aと物質Bに戻せるとは限らない。たとえばプラスチックは石油からつくられるが、プラスチックを簡単に石油に回生できるわけではない。
つまり言いたいのは、A=B(あるいはA+B=Cでもいいのだが)とかいうような「ある条件の下で成立しているギミック」が存在するからといって、それが「AとBは、どんな条件でも常に等価であり、互換性が完全に保証されたものとして扱っていい」とか「世界のどこでも、BをAに常に換算していい保証になる」わけではないのである。
そもそも「500個の四球=350本のヒット」という考えかたの根は、そもそも「空論」であって、中身がない。根本にある思考方法が、あまりにもベースボールの現実から離れている。
(2)プレーヤー目線からみた「四球とヒットの大差」
さて、論理的なことはさておき、あなたは野球で打席に立ったことがあるだろうか。あるとしたら、あなたは四球とヒットを「同じもの」「同じ価値のプレー」と感じ、同じように実現できるだろうか? また、四球を選んだチームメイトと、ヒットを打ったチームメイトを、「同じ視線」でッ評価するだろうか?
「アナリスト目線」ではなく「プレーヤー目線」から見れば、「350本のヒットを打つ」という行為と、「500の四球を選ぶ」という2つの違った行為を相互に換算できないのは明らかだ。
ほとんどのMLBの打者は、早いカウントでの打率が高い。言い換えると、ヒットを多く打てるカウント、というのは、「早いカウント」なのがベースボールである。たとえそれが、選球眼が非常に良く、多くの四球を選ぶことで知られたヤンキース時代のボビー・アブレイユであろうと、2−2が得意カウントであるような特殊な待球型打者のひとりであるジョー・マウアーであろうと、例外ではない。
打者がヒットを打てる確率が高いのは、「早いカウント」である。
こういうとき、フルカウントのような追い詰められたカウントでも通算打率3割打ててしまうイチローを念頭に置いてはいけない。イチローのような打者は、もしかすると地球上の生物ではないかもしれない(笑)といっても過言でないほど例外中の例外の天才であり、ほとんど全ての打者は、「早いカウント」に比べて、「煮詰まったカウント」ではかなり打率が下がるのである。
何が言いたいかというと、ヒットを打つ行為の大半は早いカウントでの打者側のチャレンジ、冒険する行為であり、「バットを振るのを自重する行為である四球」とは、全く目的の異なる行為だ、という、ごくごく当たり前の話だ。
歴史的にも、ベースボールというゲームができた当初、ルールブックには「四球」というプレーは存在していない。
ベースボールができた当初、打者は、投手に対して「自分の打ちたいコース」を指定できたし、ボールは何球でも見逃してよかった。ベースボールは、塁に出て、やがてホームに帰ってくることを目的に出発したゲームなのであって、「四球を目的にしたゲーム」として出発してはいない。
ヒットは、ベースボールが出来た当初からあり、打席に入る「そもそもの目的」、ベースボールというゲームのゆるぎない「根幹プレー」である。だが、四球は、後日つけ加えられた蛇足的なルールであり、また、打席に入る「目的」ではなくて、「結果」に属する。
ヒットと四球、両者は、プレーのもつ「質」が、根本的に違う。
四球は「待つ行為」「プレーの自重」であり、ある意味「冒険の自重」だが、ヒットを狙ってバットを振ることは、ある種の「冒険」であり、「未知のフロンティアへの大いなる挑戦」である。
そしてファンは、プレーヤーのチャレンジを見に、スタジアムに足を運ぶのである。
(3)ファン目線からみた「四球とヒットの違い」
仮に、1シーズンで500も四球を選ぶ選手と、1シーズンに350本もヒットを打てる選手、2人の個性的な選手がいたとしよう。メジャーで打席数が常にトップになることの多いイチローでも、シーズン打席数は700ちょっとだから、500も四球を選ぶ選手の大半の打席は、四球による出塁ということになる。
問題にしたいのは、この年間500もの四球を選ぶ選手を見るために「わざわざスタジアムに行いつめる気持ちになれるかどうか」、だ。
ブログ主なら、500の四球を選ぶ選手より、1シーズンに350本のヒットを打つ選手のほうを見に行く。つまり、「ファン目線」から言うなら、500個の四球と350本のヒットは等価ではない、のである。
ここで3つほどポイントを書いてみて気づいたのは、「アナリスト目線」「数字だけからみた野球」が、必ずしも、「プレーヤー目線」でもなければ、「ファン目線」に立脚して野球をプランニングしているいない、という事実だった。
実は、このことに気づいたことが、ブログ主にとって、最も意味のあることだった。これ、単純なようだが、実はこれからのベースボールを考える上で、とても大事である。
そういえばMLBでも、数字に頼ったチームづくりに着手した結果、そのチームの野球が、色気もなく、味もそっけもなく、かといって強くもない、意味のわからないチームになってしまったチームが、いくつもある。彼らはいったい誰のため、何のために野球をやっているのだろうと思っていたが、その「味気無い野球」の原因は、こういうところにあったのか、と、ハタと膝を打ったのである。
プレーヤー目線でも、ファン目線でもない数字の野球は、やはり何か重要な部分が欠けるのである。
「数字」を扱う行為は、それが誰の目線から見たものか? というシンプルな論点が往々にして欠けている。
だが、ヒトはなかなかそのことに気づくことができない。そして、ヒトはすぐに数字に溺れ、数字に騙される。
ブログ主も、数字をいじること自体は好きなほうだし、
このブログでも、よく自分の主張を補強するために、言いたいことの意味を数字に置き換えるという手法で、数字を「主張の道具」にしている。
だが、それはあくまで主張を数字におきかえるだけの行為だ。まるで乾いた雑巾を無理矢理絞るように、既存の数式から更に考えられることを無理矢理引き出して、数式を主張にかえるような本末転倒なことはしない。
主張は数式に置き換えられる。だが、逆の「数式を主張にみせかける行為」は本末転倒で、愚劣だ。
近年のMLBは、球団経営だけでなく、選手の能力評価、その選手に与えるべきサラリーの計算、獲得すべき選手の選定、チーム編成、ゴールドグラブなど賞の選考基準に至るまで、セイバーメトリクスに代表されるような「数字」が非常に幅をきかせるような時代になってきていると思うわけだが、「数字好きの人々」が自重しなければいけないと強く思うのは、「四球数を無造作にヒット数に換算する」ようなデリカシーの無さと、自己中心的な姿勢だ。それは「数字いじり」で、ベースボールではない。
数字に、選手とファンへのリスペクトが欠けてはならない。
選手は、コンピューターゲームの中でプレーしているわけではなく、実際にフィールドでプレーでそれを実現している。また、ファンは日頃の生活の中に野球に対する興味を持続しつつ、時間とお金をさいてスタジアムに足を運び、お気に入りの選手やチームを応援する。
野球を支えているのは数字ではなく、プレーヤーとファンだ。その彼らに対する敬意やデリカシーがなければ、数字いじりは非常に愚かな作業になるとしかいいようがない。四球はヒットの65%の価値とみなす、とか、勝手に決められても、困る。
四球に価値がないと言いたいのではない。四球とヒットには、換算しきれない根本的な差異もあることを忘れて、数字だけいじくってメディアでモノを言われても困るのだ。スタジアムの現実とかけ離れすぎた数字に、意味などない。
(4)数字によるチームづくりの「勘違い」
ここからは蛇足。
例えば、シーズン40個のファインプレーができる守備の名手の価値が、年間に180本のヒットを打てる選手の価値ど同等とみなせる、というデータが仮にあったとしよう。
では、だとしたら、チームは、40個のファインプレーが期待できるが、打率がたったの.200しかない選手に、年間180本ヒットを打つ打者と同じサラリーを払うのか? また、チームに守備の名手を9人揃えて野球をやれば、それは180ヒット×9人=1620本のヒットに相当するから、間違いなくチームは地区優勝できるのか?
そんなわけがない。
堅い守備に価値がないというのではない。数字に埋没した「内輪ウケのアナリスト目線」だけに頼って、ベースボールをやろうとするな、ということだ。
たとえ、500個の四球が350本のヒットに相当するデータがあったとしても、500個の四球を選ぶバッターが、350本のヒットを打てるバッターと同じサラリーをもらえるようなおかしな事態を、ブログ主は望まない。
まるで異なる通貨同士の為替レートを決めるように、四球とヒット、守備と攻撃の間の「換算レート」をいくら決めても、そんなものにたいして意味はないのである。
数字を扱うのはいい。だが、その数字が、「プレーヤーと、ファン、そしてベースボールというゲームにとって、意味のあるもの」でなければ、それはベースボールをつまらなくするだけのガラクタだ。
カロリーばかり気にしてメシを食っても、ちっともメシはうまくならない。大事なのはカロリーを気にしなくてすむ代謝のいいカラダづくりなはずだが、カロリー(数字)ばかり気にする人に限ってデブ(カラダを動かさない人間)だったりする。
そしてブログ主はデブが大嫌いだ。