April 06, 2011

マン・レイの墓碑

Unconcerned, but not indifferent

と、自分の墓碑銘に記したのは、フィラデルフィアで生まれ、ブルックリンで育ち、パリで活躍した写真家、マン・レイだ。(画家、彫刻家でもあるマン・レイの名はたくさんの人が知っているが、アメリカ生まれであることは案外知られていない)

この言葉を、「無頓着、しかし無関心ではなく」と訳したマン・レイの展覧会があったようだが、翻訳にちょっと無理がある。そもそもマン・レイの意図が伝わると思えない。
というのも、unconcernedも、indifferentも、「無頓着」「無関心」と訳すことができる意味の共通性、意味の共有部分があるからだ。どちらかを無頓着、どちらかを無関心と分けて呼ぶだけでは、結局なんのことやらわからなくなる。

unconcernedという言葉のいう「無頓着」「無関心」は「対象を静観して、距離をおく」とでもいうような意味だけれど、indifferentの「無頓着」「無関心」はもっとネガティブな感情を含んでいて「対象のことを、どうでもいいと思っている」含んでいるとすると、ブログ主なら、こんな風に訳す。


静かなる心。だが、冷めた心ではなく。


通常、アート、特に写真は、対象のもつ美を描写するもの、と考える人が多い。
だが、マン・レイの作品では、宮沢賢治の詩「春と修羅などがそうであるように、対象の形状の美しさばかりではなくて、むしろ、「モノを見る自分の内面にある独特な心のさま、それ自体」に重きを置いて表現されている。
別の言い方でいえば、マン・レイが表現しているのは、「彼自身の心の内部であり、彼が心の中にみつけた静かなる凪いだ海」なのだ。

彼は、オブジェに対する興味の強さ、熱狂を表現するのではなく、対象に興味は十分にもつが、必ずしも熱くならず、いたずらに対象との距離を詰めずに、距離をおいて愛でる楽しむ。そういう「距離のある態度」は一見すると「冷たい無関心」にみえがちだ。だが、そうではないのですよ、と、マン・レイの墓碑銘は言いたかったのではないのかと思う。



アンセル・アダムス、スティーグリッツ、ハーブ・リッツ、ダイアン・アーバス、ロバート・メイプルソープ、リチャード・アヴェドン、アメリカだけでもたくさんの優れた写真家がいる。
マン・レイに限らないが、芸術や音楽に溺れる時期、というのは誰にでも訪れる。ブログ主にもあった。その頃の自分は「芸術って素晴らしい。家族のスナップなんか、なんの意味もない」とか思いこんで、やたらと展覧会やコンサートに通っていた。たぶん、その頃の自分は家族との距離も離れていったのだと思う。


だが、人が、故郷を津波に飲まれ、家財の何もかも失ったとき、これだけは取り戻したいと思うもののひとつが「家族の写真」だ。

そのことの意味が、今は、自分にもわかる。東日本大震災と関係なく、地震のずっと前からだが、家族の写真をUSBメモリに入れて常に持ち歩くようになっていた。


もしマン・レイが生きていたら、どう言っただろう。

「だから言ったじゃないか。
静かにモノを見ろ、とは言った。だけど、冷めた心で、とは言ってない。家族写真のスナップは駄目だ、価値がない、なんて誰か言ったのかい? 自分の心をそういう風に、狭くて寒いものにしていたのは、実は、君自身じゃないのか。
写真はアートかどうか?
どうでもいいじゃないか。君の心を素晴らしい状態にキープして、大事なものに向かって心の中でシャッターを切れ。それでいい。」

僕の中のマン・レイはいまそんな風に言っている。
僕は結局、マン・レイも家族も好きなんだ。


(追記)
地震の被害で汚れた写真を復活させる無償のボランティアサービスがいくつか発足しつつあるようだ。クチの悪いブログ主の印象としては、写真の修復を必要とする人の数の多さに追いつかないときがくるのでは、と危惧する。
ブログ主は、写真修復ボランティアとは無関係の立場だから自由にいわせてもらうと、日本の写真関連産業は、デジタルカメラ、フィルム、プリンターなどの写真関連の分野で世界的な高いシェアをお持ちなわけだから、単に情報を提供するだけでなく、機材や材料を無償提供していただきたいものだと感じる。

さらには、その写真修復の成果を写真展にするなりして、(たとえば「ニッポンの家族展」とか、そういうコンセプト)、全世界を巡回するツアーにでも仕立てたら、その入場料収益と募金がまた被災地の復興に使えるのではないか、とか思うのだが、いかがだろう。
多少の泥にまみれていても、色がちょっと褪せていても、最高のノン・フィクションだと思う。


宮沢賢治 春と修羅・序

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

(以下 略)

ブログ注:宮沢賢治の生誕地、岩手県花巻も被災地のひとつ。花巻から釜石を結ぶJR釜石線は、銀河鉄道の夜のモデルになった鉄道だが、3月28日に運転を再開している。







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