May 14, 2011
カムデンヤーズでのビジターゲームで、ジェイソン・バルガスが、ボルチモア期待の新鋭ザック・ブリットンと投げ合い、2人とも9回無失点でマウンドを降りる手に汗にぎる投手戦を演じた。
Seattle Mariners at Baltimore Orioles - May 12, 2011 | MLB.com Classic
ゲーム自体は、ブランドン・リーグの乱調で12回表の貴重な得点を勝ちに結びつけることができず、サヨナラ負けしたのだ、そんな、リーグのふがいなさが原因とわかっていることは、どうでもいい。
フェリックス・ヘルナンデスではまったく抑えられることができなかったボルチモア打線(Seattle Mariners at Baltimore Orioles - May 11, 2011 | MLB.com Classic)を、なぜジェイソン・バルガスはこれほどまでに完璧に抑えられたのか? そのことのほうがはるかに大事だ。
その他、自分の中でいろいろなことについて、答えがハッキリと出たので、その一部をまとめてみた。
ヘルナンデスには「投球術」が欠けているのである。
「フェリックスがいつも5月に調子が出ない」とか、そんなオカルトじみた、どうでもいい理由ではない。もっときちんとした、野球の上での話だ。
ヘルナンデスはこれまで、自分に欠けている「投球術」の部分を、キャッチャー(たとえば、いまやサンディエゴの正捕手の位置にいるロブ・ジョンソン)やベンチによって補完されてきた、そういうタイプの投手だ。
球威は十分だが、投球術に欠ける。だから、ヘルナンデスは、投球術のない今のままでは、絶対にロイ・ハラデイにはなれない。球威だけでは誰もロイ・ハラデイにはなれない。
ロイ・ハラデイは、自分の中に「自立した投球術」を持つ、自立した投手だ。だから、キャッチャーが誰であろうと、打線の調子がどうであろうと、関係ない。自分の内部に存在する「自分自身の手で育てあげた自分だけの投球術」をもとに、ゲームの最後まで責任をもって投げぬく。それを信条としている。100球制限も、ロイ・ハラデイには関係ない。
他方、ヘルナンデスにあるのは、「球威」「スピード」「変化球のキレ」「ボールコントロール」など、ボールに物理的なパワーを与える能力、それと「負けん気」などのメンタリティの強さだが、それら以外に、まだ欠けている投手として必要な能力がある。
それが、日本語でいうところの「投球術」だ。つまり彼は単にボールを上手にあやつって打者を追い込んでいるだけであり、「自分で自分のピッチングスタイルをデザインする能力」には欠けている。
それがボルチモアとの対戦でハッキリわかった。
ヘルナンデスはとりあえず打者を追い込めるところまで行ける。それはひとえに、彼のパワーのおかげだ。だが、打者を自由自在にうちとるためのピッチング・デザインは、彼の内部に十分あるとはいえない。
だからもうブログ主は、ヘルナンデスのことを「キング」と呼ぶのは、やめることにした。
頂上をあらわす「キング」という称号で呼んでいい投手は、例えば、ロイ・ハラデイやノーラン・ライアンのような「自立した投球術」を備えた大投手であって、投球術に欠けるフェリックス・ヘルナンデスには「キング」の称号はふさわしくない。ちょっと態度が大きいくらいのことで、誰かのことをキングなどと呼ぶ必要など、まったく感じない。
細かい部分に触れよう。
これは、いままで何度も中途半端に書きとめてきたことを一歩先に進めることにもなる。
去年も頻繁に見た光景だが、ヘルナンデスは「打者を追い込んでからの投球」が、まったくもって冴えない。
なぜなら、ヘルナンデスは「打者を追い込む」のは上手いのに、いざ凡退させる段階になって四苦八苦ばかりしていて、スッキリ討ち取ることができないからだ。
具体的に言えば、打者を追い込んだ後、明らかにボールとわかる無駄な投球が多すぎて、2-2、3-2と、カウントを自分からどんどん悪くしていき、せっかく追い込んだ打者を簡単に四球にしていたりする。(こういう投球数が無駄に増えていくピッチングでは、野手の守備時間が異様に長くなり、野手のバッティングにも影響が出て、ラン・サポートも減ることが多い)
ボルチモアとの対戦で、ヘルナンデスはキャッチャー、ミゲル・オリーボとまるで息が合ってなかった。(けして全部の場面がそうだとは言わないが)特に、打者を追い込んだ後のサインが最も意見が合わなかったように見えた。もちろん、オリーボがどういう球を要求し、サインにヘルナンデスが、何度も何度も首を振って、その結果どういう球を選択したかを明確に知ることなどできないが、首をふったシチュエーションと、その後に投げた球などから推測すると、ブログ主は、以下のようにヘルナンデスとオリーボの意見があわない理由を考えた。
特に典型的な右打者のカウント1-2という場面で説明してみよう。
打者を追い込んだこういう場面で、最近ヘルナンデスが、キャッチャーのサインに首を振りまくるケースが、非常に多くみられる。ヘルナンデスが最終的に投げたがる球はどうやら「アウトコースの、大きく鋭く変化して、打者から逃げてボールになる球」のようだ。
この球をヘルナンデスが使いたがる理由についてブログ主は、「自分の球の威力で追い込んだ打者を、最後になにがなんでも、『安全に』空振りさせたい」のだろう、と見ている。
だが、このヘルナンデスが投げたがるアウトコースの球に、どういうものか、打者がまるで反応しない。むしろ簡単に見逃してくる。そして見逃された球がきわどいコースにビシリと決まって、見逃し三振がとれることはほとんどなく、むしろ、アウトコース低めにハッキリはずれるボールになることが多い。
要は、打者側に、「追い込まれてからヘルナンデスが投げてくるアウトコースの変化球は、見た目の変化は素晴らしいが、ボールになる。だから、見逃しても、三振しないですむ」ことがバレはじめているのだろう、と思う。
いくら、いままで誰も見たことがないような素晴らしい変化をするボールでも、大きくはずれてボールになることがあらかじめわかってしまえば、打者は空振りしない。うちとれない。単純な話だ。
だが、それでもヘルナンデスは、アウトコースの変化球によほど急激な変化をつけたがる。よほど打者にバットを振らせたいのだろう、キャッチャーのサインの大半に首を振り、ボールに強すぎるスピンをかけるために、非常に力み(りきみ)かえって投げ続ける。そのため、ボールにあまりにも変化がつきすぎて、1塁側に大きく逃げるワンバウンドになるケースが多々ある。
これが、ヘルナンデス登板時に頻発しているワイルドピッチ(またはパスボール)の元凶になっている。
投手にしてみれば「こんなに、いままで誰も投げてないほど、急激な変化球で打者を誘っているのに」と思っている。なのに、打者がまるで反応しない。すると、投手はかえって「まだ打者をうちとってもいないのに、決め球が無くなってしまった感覚」になったりする。
こういう「カウントの上では、投手側が打者を追い込んだはずが、かえって、投手のほうが、投げる球が無くなった、追い詰められた、という感覚に追い込まれていく」という、おかしな現象を、とりあえず「逆追い込まれ現象」とでも呼んでおくことにする。
(ある意味で、満塁で打席に入った打者が、チャンス!とポジティブな感情を持つのではなく、むしろネガティブにヤバイ!と感じるのにも、ちょっとだけ似ている 笑)
この「逆追い込まれ現象」に陥ったときのヘルナンデスは、たいてい表情は怒ったようなイライラした表情か、無表情だが、人間というものは不思議なもので、顔だけそういう厳しい表情、クールな表情だからといって、行動においても自分の思ったとおりの大胆さ、強気が、表現できるわけでは、まったくない。
むしろ、逆で、顔は冷静で、見た目は強気そうなのに、実は内心とても追い詰められている、そういう人こそ、たくさん見かける。それが人間という動物の普通の光景だ。
いくら本人だけが「絶対に三振をとるぞ!」と決め付けて、「俺は強気な投手だ!!」と鼻息荒く息巻いていたとしても、ボールそのものは打者にたち向かうどころか、むしろ打者から大きく逃げているのでは、なんの意味もない。
ヘルナンデスが強気になるべき相手は、サインを出している味方のキャッチャーではなく、対戦している相手チームの打者なのだ。言うまでもない。キャッチャーのサインをいくら拒否できるようになったとしても、そんなのは「強気」でもなんでもない。ただの「内弁慶の子供」だ。
「逆追い込まれ現象」に陥ったヘルナンデスのアウトコースの「逃げの変化球」はますます打者に見切られていき、投げる球が無くなったヘルナンデスは、フルカウントから、こんどは力まかせに、高速シンカーや、カットボール、4シームなど、ストレート系の球を投げるわけだが、体重のバランスは崩れ、ボールは思いもよらぬ方向に行ってしまい、四球を出し、タイムリーを打たれてしまう。
まるでパソコンで映画のDVDをリプレイするかのように。
そもそも真剣勝負の場において『投手だけが安全でいられる、打者の空振り』など、ないはずだ。
「安全でなさそうなところ」にリスク承知でキレのある球を思い切って投げ込むからこそ、打者のバットは思わず空を切って三振してくれる、あるいは凡退してくれるのであって、絶対に投手側は安心だという「安全なところ」に、いくら鋭すぎる「逃げの変化球」を投げ続けてみたところで、打者は空振りなどしてくれない。
そういう意味では、ヘルナンデスのアウトコースのボールは「打者にたち向かう」どころか、むしろ「打者から大きく逃げている」。
投手が「打者から逃げるボールで、三振してくれ」とか、そういうことばかり考えるのは、単に、自分に都合のいいことばかり考えがちな子供、という話になる。
この話の意味は、ボルチモアの素晴らしい新人投手、ザック・ブリットンの大胆すぎる2シームと比べてみても、よくわかるはずだ。
ブリットンは、打者を追い込むだのなんだの、ごちゃごちゃ考えるより先に、2シームを、ほぼ「ストライクゾーンの、信じられないほどド真ん中」に投げこんでくる。もちろん打者は「しめた!!」と思って反射的にフルスイングしてくるわけだが、これが、ボールが動くせいで、まるでマトモにバットに当たらない。必ずといっていいほど、ボテボテの内野ゴロになる。
もちろん、東地区の投手であるブリットンには、東海岸特有のカットボールや2シームといった「動くボール」を多用する投球術が文化的背景にある。若い投手だが、彼なりに計算されたピッチング、といっていいと思う。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:地区ごとの配球文化の差異
このブリットンの2シームのチャレンジぶりに比べれば、いかにヘルナンデスのアウトコースの変化球が、投手側のリスクをあらかじめ回避した「安全な逃げ」でしかないか、わかると思う。
外の変化球が、どれだけ大きく曲がろうと、鋭く落ちようと、そりゃ、ボールになるとわかってしまえば振ってもらえなくなる。
思うに、投手の投球術というのは、2種類あって、けっこう混同されていると思う。
ひとつは、「打者を追い込むところまで」の投球術。
もうひとつは、「打者を最終的にうちとる」ための投球術。
もちろん、ロイ・ハラデイは後者だ。
そして、このあいだ初めて見たザック・ブリットンも、シアトルでいえば最近のジェイソン・バルガスも、後者だと思う。
前者の「打者を追い込むまでの投球術」しかもたない投手は、打者を追い込んだ後にどうするかといえば、自分の持ち球の中で、その日、これはと思えるボールを、えいやっ、とばかりに投げ込んでくるだけだ。
それでも球威があるうちはいい。手の内を相手に研究されないうちは、それでもいい。
だが、そんなのを「投球術」と呼ぶことなどできない。
そういう投手は本来、最後にはキャッチャー(あるいはピッチングコーチでもいい)の持つデザイン力の助けを借りなければならないはずだ。
自分のストレートの威力を過信というか慢心して、キャッチャーのあらゆるサインに首をふり、ストレートだけを投げることにこだわりぬいて、その結果、勝ちゲームを大量破壊しまくったデイビッド・アーズマも、かなりどうかしていると思ったものだが、フェリックス・ヘルナンデスが、第二の「慢心したアーズマ」にならないことを祈る。
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Seattle Mariners at Baltimore Orioles - May 12, 2011 | MLB.com Classic
ゲーム自体は、ブランドン・リーグの乱調で12回表の貴重な得点を勝ちに結びつけることができず、サヨナラ負けしたのだ、そんな、リーグのふがいなさが原因とわかっていることは、どうでもいい。
フェリックス・ヘルナンデスではまったく抑えられることができなかったボルチモア打線(Seattle Mariners at Baltimore Orioles - May 11, 2011 | MLB.com Classic)を、なぜジェイソン・バルガスはこれほどまでに完璧に抑えられたのか? そのことのほうがはるかに大事だ。
その他、自分の中でいろいろなことについて、答えがハッキリと出たので、その一部をまとめてみた。
ヘルナンデスには「投球術」が欠けているのである。
「フェリックスがいつも5月に調子が出ない」とか、そんなオカルトじみた、どうでもいい理由ではない。もっときちんとした、野球の上での話だ。
ヘルナンデスはこれまで、自分に欠けている「投球術」の部分を、キャッチャー(たとえば、いまやサンディエゴの正捕手の位置にいるロブ・ジョンソン)やベンチによって補完されてきた、そういうタイプの投手だ。
球威は十分だが、投球術に欠ける。だから、ヘルナンデスは、投球術のない今のままでは、絶対にロイ・ハラデイにはなれない。球威だけでは誰もロイ・ハラデイにはなれない。
ロイ・ハラデイは、自分の中に「自立した投球術」を持つ、自立した投手だ。だから、キャッチャーが誰であろうと、打線の調子がどうであろうと、関係ない。自分の内部に存在する「自分自身の手で育てあげた自分だけの投球術」をもとに、ゲームの最後まで責任をもって投げぬく。それを信条としている。100球制限も、ロイ・ハラデイには関係ない。
他方、ヘルナンデスにあるのは、「球威」「スピード」「変化球のキレ」「ボールコントロール」など、ボールに物理的なパワーを与える能力、それと「負けん気」などのメンタリティの強さだが、それら以外に、まだ欠けている投手として必要な能力がある。
それが、日本語でいうところの「投球術」だ。つまり彼は単にボールを上手にあやつって打者を追い込んでいるだけであり、「自分で自分のピッチングスタイルをデザインする能力」には欠けている。
それがボルチモアとの対戦でハッキリわかった。
ヘルナンデスはとりあえず打者を追い込めるところまで行ける。それはひとえに、彼のパワーのおかげだ。だが、打者を自由自在にうちとるためのピッチング・デザインは、彼の内部に十分あるとはいえない。
だからもうブログ主は、ヘルナンデスのことを「キング」と呼ぶのは、やめることにした。
頂上をあらわす「キング」という称号で呼んでいい投手は、例えば、ロイ・ハラデイやノーラン・ライアンのような「自立した投球術」を備えた大投手であって、投球術に欠けるフェリックス・ヘルナンデスには「キング」の称号はふさわしくない。ちょっと態度が大きいくらいのことで、誰かのことをキングなどと呼ぶ必要など、まったく感じない。
細かい部分に触れよう。
これは、いままで何度も中途半端に書きとめてきたことを一歩先に進めることにもなる。
去年も頻繁に見た光景だが、ヘルナンデスは「打者を追い込んでからの投球」が、まったくもって冴えない。
なぜなら、ヘルナンデスは「打者を追い込む」のは上手いのに、いざ凡退させる段階になって四苦八苦ばかりしていて、スッキリ討ち取ることができないからだ。
具体的に言えば、打者を追い込んだ後、明らかにボールとわかる無駄な投球が多すぎて、2-2、3-2と、カウントを自分からどんどん悪くしていき、せっかく追い込んだ打者を簡単に四球にしていたりする。(こういう投球数が無駄に増えていくピッチングでは、野手の守備時間が異様に長くなり、野手のバッティングにも影響が出て、ラン・サポートも減ることが多い)
ボルチモアとの対戦で、ヘルナンデスはキャッチャー、ミゲル・オリーボとまるで息が合ってなかった。(けして全部の場面がそうだとは言わないが)特に、打者を追い込んだ後のサインが最も意見が合わなかったように見えた。もちろん、オリーボがどういう球を要求し、サインにヘルナンデスが、何度も何度も首を振って、その結果どういう球を選択したかを明確に知ることなどできないが、首をふったシチュエーションと、その後に投げた球などから推測すると、ブログ主は、以下のようにヘルナンデスとオリーボの意見があわない理由を考えた。
特に典型的な右打者のカウント1-2という場面で説明してみよう。
打者を追い込んだこういう場面で、最近ヘルナンデスが、キャッチャーのサインに首を振りまくるケースが、非常に多くみられる。ヘルナンデスが最終的に投げたがる球はどうやら「アウトコースの、大きく鋭く変化して、打者から逃げてボールになる球」のようだ。
この球をヘルナンデスが使いたがる理由についてブログ主は、「自分の球の威力で追い込んだ打者を、最後になにがなんでも、『安全に』空振りさせたい」のだろう、と見ている。
だが、このヘルナンデスが投げたがるアウトコースの球に、どういうものか、打者がまるで反応しない。むしろ簡単に見逃してくる。そして見逃された球がきわどいコースにビシリと決まって、見逃し三振がとれることはほとんどなく、むしろ、アウトコース低めにハッキリはずれるボールになることが多い。
要は、打者側に、「追い込まれてからヘルナンデスが投げてくるアウトコースの変化球は、見た目の変化は素晴らしいが、ボールになる。だから、見逃しても、三振しないですむ」ことがバレはじめているのだろう、と思う。
いくら、いままで誰も見たことがないような素晴らしい変化をするボールでも、大きくはずれてボールになることがあらかじめわかってしまえば、打者は空振りしない。うちとれない。単純な話だ。
だが、それでもヘルナンデスは、アウトコースの変化球によほど急激な変化をつけたがる。よほど打者にバットを振らせたいのだろう、キャッチャーのサインの大半に首を振り、ボールに強すぎるスピンをかけるために、非常に力み(りきみ)かえって投げ続ける。そのため、ボールにあまりにも変化がつきすぎて、1塁側に大きく逃げるワンバウンドになるケースが多々ある。
これが、ヘルナンデス登板時に頻発しているワイルドピッチ(またはパスボール)の元凶になっている。
投手にしてみれば「こんなに、いままで誰も投げてないほど、急激な変化球で打者を誘っているのに」と思っている。なのに、打者がまるで反応しない。すると、投手はかえって「まだ打者をうちとってもいないのに、決め球が無くなってしまった感覚」になったりする。
こういう「カウントの上では、投手側が打者を追い込んだはずが、かえって、投手のほうが、投げる球が無くなった、追い詰められた、という感覚に追い込まれていく」という、おかしな現象を、とりあえず「逆追い込まれ現象」とでも呼んでおくことにする。
(ある意味で、満塁で打席に入った打者が、チャンス!とポジティブな感情を持つのではなく、むしろネガティブにヤバイ!と感じるのにも、ちょっとだけ似ている 笑)
この「逆追い込まれ現象」に陥ったときのヘルナンデスは、たいてい表情は怒ったようなイライラした表情か、無表情だが、人間というものは不思議なもので、顔だけそういう厳しい表情、クールな表情だからといって、行動においても自分の思ったとおりの大胆さ、強気が、表現できるわけでは、まったくない。
むしろ、逆で、顔は冷静で、見た目は強気そうなのに、実は内心とても追い詰められている、そういう人こそ、たくさん見かける。それが人間という動物の普通の光景だ。
いくら本人だけが「絶対に三振をとるぞ!」と決め付けて、「俺は強気な投手だ!!」と鼻息荒く息巻いていたとしても、ボールそのものは打者にたち向かうどころか、むしろ打者から大きく逃げているのでは、なんの意味もない。
ヘルナンデスが強気になるべき相手は、サインを出している味方のキャッチャーではなく、対戦している相手チームの打者なのだ。言うまでもない。キャッチャーのサインをいくら拒否できるようになったとしても、そんなのは「強気」でもなんでもない。ただの「内弁慶の子供」だ。
「逆追い込まれ現象」に陥ったヘルナンデスのアウトコースの「逃げの変化球」はますます打者に見切られていき、投げる球が無くなったヘルナンデスは、フルカウントから、こんどは力まかせに、高速シンカーや、カットボール、4シームなど、ストレート系の球を投げるわけだが、体重のバランスは崩れ、ボールは思いもよらぬ方向に行ってしまい、四球を出し、タイムリーを打たれてしまう。
まるでパソコンで映画のDVDをリプレイするかのように。
そもそも真剣勝負の場において『投手だけが安全でいられる、打者の空振り』など、ないはずだ。
「安全でなさそうなところ」にリスク承知でキレのある球を思い切って投げ込むからこそ、打者のバットは思わず空を切って三振してくれる、あるいは凡退してくれるのであって、絶対に投手側は安心だという「安全なところ」に、いくら鋭すぎる「逃げの変化球」を投げ続けてみたところで、打者は空振りなどしてくれない。
そういう意味では、ヘルナンデスのアウトコースのボールは「打者にたち向かう」どころか、むしろ「打者から大きく逃げている」。
投手が「打者から逃げるボールで、三振してくれ」とか、そういうことばかり考えるのは、単に、自分に都合のいいことばかり考えがちな子供、という話になる。
この話の意味は、ボルチモアの素晴らしい新人投手、ザック・ブリットンの大胆すぎる2シームと比べてみても、よくわかるはずだ。
ブリットンは、打者を追い込むだのなんだの、ごちゃごちゃ考えるより先に、2シームを、ほぼ「ストライクゾーンの、信じられないほどド真ん中」に投げこんでくる。もちろん打者は「しめた!!」と思って反射的にフルスイングしてくるわけだが、これが、ボールが動くせいで、まるでマトモにバットに当たらない。必ずといっていいほど、ボテボテの内野ゴロになる。
もちろん、東地区の投手であるブリットンには、東海岸特有のカットボールや2シームといった「動くボール」を多用する投球術が文化的背景にある。若い投手だが、彼なりに計算されたピッチング、といっていいと思う。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:地区ごとの配球文化の差異
このブリットンの2シームのチャレンジぶりに比べれば、いかにヘルナンデスのアウトコースの変化球が、投手側のリスクをあらかじめ回避した「安全な逃げ」でしかないか、わかると思う。
外の変化球が、どれだけ大きく曲がろうと、鋭く落ちようと、そりゃ、ボールになるとわかってしまえば振ってもらえなくなる。
思うに、投手の投球術というのは、2種類あって、けっこう混同されていると思う。
ひとつは、「打者を追い込むところまで」の投球術。
もうひとつは、「打者を最終的にうちとる」ための投球術。
もちろん、ロイ・ハラデイは後者だ。
そして、このあいだ初めて見たザック・ブリットンも、シアトルでいえば最近のジェイソン・バルガスも、後者だと思う。
前者の「打者を追い込むまでの投球術」しかもたない投手は、打者を追い込んだ後にどうするかといえば、自分の持ち球の中で、その日、これはと思えるボールを、えいやっ、とばかりに投げ込んでくるだけだ。
それでも球威があるうちはいい。手の内を相手に研究されないうちは、それでもいい。
だが、そんなのを「投球術」と呼ぶことなどできない。
そういう投手は本来、最後にはキャッチャー(あるいはピッチングコーチでもいい)の持つデザイン力の助けを借りなければならないはずだ。
自分のストレートの威力を過信というか慢心して、キャッチャーのあらゆるサインに首をふり、ストレートだけを投げることにこだわりぬいて、その結果、勝ちゲームを大量破壊しまくったデイビッド・アーズマも、かなりどうかしていると思ったものだが、フェリックス・ヘルナンデスが、第二の「慢心したアーズマ」にならないことを祈る。
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