June 11, 2011
ひさびさにイチローのいないマリナーズのゲームを見て、いやぁ、これほどタメになるとは思わなかった(笑)
たぶん、日本人らしいネガティブ思考からどうしても抜けだせない巷のイチローファンの皆さんや、イチローの歴史的な業績の意味のわかってない日本の無能な解説者の皆さんが、このゲームをどう評価したのか、そんなことは知ったことではない。
ブログ主は、正直いって、他人の意見など聞く必要をまるで感じないほど、「ある確信」をもってゲームを見終えることができて、たいへんに喜んでいる(笑)
わかってしまえば簡単だ。
イチローが、アメリカ、なのだ。
わかるかな? もう一度、言おうか?
イチローが、アメリカなのだ。
理解できるように説明できるといいのだが、理解できなければ、それはそれでしかたがない(笑)こんなに丁寧に説明ばかりしているブログを読んで、わからない人が悪い。
「イチローのいないマリナーズ」のやっている、あのスポーツ。
あれは「アメリカのどこにでもある、平凡な野球」だ。
と、同時に、それは、2000年代中期に実際にマリナーズで行われていた、フリースインガーだらけの、「かつてのマリナーズ」でもある。また、飛ぶボールでホームラン競争を故意に演出していた1990年代MLBの延長線上にある野球、でもある。
打者は、来た球のうち「打てる球は打ち、打てない球は打てないまま、ゲームを終わる」。投手も同じだ。「打たれる球を打たれ、打たれない球は打たれないで、イニングを消化し、ゲームが終わって」いく。
もう十分説明したつもりだが、これでもまだわからない人がいるだろうか。だとしたら、どうたとえれば、わかるだろう?
絵でいえば
「 精彩がない 」「 眠たい 」
音楽でいえば
「 どこにも抑揚がない 」
「 リズム感がない 」
「 グルーヴがない 」
音楽が聞こえてこない。ロックでもなければ、クラシックでもない。まして演歌でもない。まるで音を消してプレーする「無音のスーパーマリオブラザース」だ。
たとえばジャスティン・スモークはアメリカ南部の大学の出身だ。だが、彼のプレーからサザン・ロックは聞こえてこない。
イチローには、音楽がある。
たとえば、12音技法を創始した現代音楽の作曲家であるシェーンベルクはアメリカの映画音楽に対して多大な影響を与えたことでも知られているが、イチローのときとして型破り、破天荒なプレーぶりは、シェーンベルクに通じるものがある、と、かねがね思っている。
イチローは、荒々しく淫らなロックであり、コブシのききまくった演歌であり、ときには武満徹やシェーンベルクのような現代音楽として響くこともあり、また時には爆発するパンクでもあり、うねるラップであり、果ては、「シンコペーションそのもの」であると思えるときもある。
イチローが2001年にアメリカに渡って以来、実現し続けてきたのは、飛ぶボールとドーピングでホームラン時代を無理やり演出していた1990年代のような野球ではない。
もう何度も書いてきたように、ひとつには、20世紀初頭に途絶えていたタイ・カッブ時代の野球のリバイバルでもあり、また一方では、ちょっとありえない守備センス、ワンバウンドにすら手を出す特殊で過剰すぎる打撃感覚、過敏なほどのバットコントロールと選球眼、スピーディーだがいつ走るのかわからない独特の走塁感覚、それら全てを「人力(じんりき)だけ」でこなす、野球という名の「サルティンバンコ」だ。
これこそが言葉どおりの意味での「Show」だ。
カートゥーンのMGM作品「トムとジェリー(TOM and JERRY)」でいえば、90年代の野球が「野暮ったいトム」なら、イチローは「何を考えているのかよくわからないジェリー」だ。守備、攻撃、走塁。ゲームのどこを見ても、イチローの姿が右に左に、そこらじゅう跳ねまわっている(ような気分になる)のである。
そう。
イチローの「他人にない特殊さ」「自由さ」そのものが、むしろ本来の「ショーアップされたアメリカ」だ。スターを必要としないアメリカなんて、アメリカじゃない。
それが、ひさびさにイチローのお休みによってどうみえたかというと、
見えたのは、既視感しか感じない、精彩のない、平坦なベースボールであり、音楽のない、ただ勝ち負けを決めるだけのスポーツがそこに見えた。
打って、休んで。守って、休む。
打って、休んで。守って、また、休む。
たったそれだけ。
今日のゲームはイチローにとって、とても重要なゲームのひとつになったことと思う。
なぜなら「自分のいないマリナーズが見えた」はずだからである。たぶん、自分がMLBでも(もちろん日本でも)どれだけ他のプレーヤーとかけ離れたセンスで野球をやってきたか、痛感したことと思う。
それは普段は見えずらい「自分の姿」を見ることのできる、ひとつの効果的な方法でもある。
たまには「肉の入っていないスキヤキ」を食ってみないと、ファンもプレーヤーも、そしてなによりイチロー自身も、「肉がスキヤキに入っている意味」がわからなくなる。
もう一度言っておこう。
大事なことだ。
いまやコンテンポラリーな「アメリカ」なのは、
シアトル・マリナーズではない。
イチローだ。
たとえばオールスターだが、その時点で成績のいい選手をみんなで選ぶ「お受験」みたいなものと、自分勝手に勘違いしている幼稚園の受験生みたいな人たちを大勢みかける。
バカ言うなって(笑)
「スター」というのは、スキヤキの「肉」だ。
スキヤキは、「肉」の味を美味しく味わうために作られた料理だ。シラタキのためにあるんじゃない。
ブログ主は、今日のシアトル・マリナーズのような、「和風味の、水っぽい淡白な牛丼」みたいな腑抜けた食い物が大嫌いだ。シラタキの水っぽさだけしかない和風牛丼野球なんか、どうでもいい。
今日でよーくわかったこと。
イチローは、もっと自分のカラダが欲するままに、好きなようにやったらいい。頭で考えるより、体を自由に動かすほうが早い。
好きなだけ空振りして、好きなときに好きなだけ走って、気にいらない判定には悪態をついてやり、退場させられても涼しい顔で退場して、たまにはお気に入りの好投手の球を無理やり強振してスタンドにブチ込んでやれば、それでいい。
そう。キミは優等生でなくていい。
カラダにまかせてみる。カラダを信用してみる。
カラダの求めるだけ、好きなように、
野球とセックスすればいいのだ。
遠慮なんか、いらない。
たぶん、日本人らしいネガティブ思考からどうしても抜けだせない巷のイチローファンの皆さんや、イチローの歴史的な業績の意味のわかってない日本の無能な解説者の皆さんが、このゲームをどう評価したのか、そんなことは知ったことではない。
ブログ主は、正直いって、他人の意見など聞く必要をまるで感じないほど、「ある確信」をもってゲームを見終えることができて、たいへんに喜んでいる(笑)
わかってしまえば簡単だ。
イチローが、アメリカ、なのだ。
わかるかな? もう一度、言おうか?
イチローが、アメリカなのだ。
理解できるように説明できるといいのだが、理解できなければ、それはそれでしかたがない(笑)こんなに丁寧に説明ばかりしているブログを読んで、わからない人が悪い。
「イチローのいないマリナーズ」のやっている、あのスポーツ。
あれは「アメリカのどこにでもある、平凡な野球」だ。
と、同時に、それは、2000年代中期に実際にマリナーズで行われていた、フリースインガーだらけの、「かつてのマリナーズ」でもある。また、飛ぶボールでホームラン競争を故意に演出していた1990年代MLBの延長線上にある野球、でもある。
打者は、来た球のうち「打てる球は打ち、打てない球は打てないまま、ゲームを終わる」。投手も同じだ。「打たれる球を打たれ、打たれない球は打たれないで、イニングを消化し、ゲームが終わって」いく。
もう十分説明したつもりだが、これでもまだわからない人がいるだろうか。だとしたら、どうたとえれば、わかるだろう?
絵でいえば
「 精彩がない 」「 眠たい 」
音楽でいえば
「 どこにも抑揚がない 」
「 リズム感がない 」
「 グルーヴがない 」
音楽が聞こえてこない。ロックでもなければ、クラシックでもない。まして演歌でもない。まるで音を消してプレーする「無音のスーパーマリオブラザース」だ。
たとえばジャスティン・スモークはアメリカ南部の大学の出身だ。だが、彼のプレーからサザン・ロックは聞こえてこない。
イチローには、音楽がある。
たとえば、12音技法を創始した現代音楽の作曲家であるシェーンベルクはアメリカの映画音楽に対して多大な影響を与えたことでも知られているが、イチローのときとして型破り、破天荒なプレーぶりは、シェーンベルクに通じるものがある、と、かねがね思っている。
イチローは、荒々しく淫らなロックであり、コブシのききまくった演歌であり、ときには武満徹やシェーンベルクのような現代音楽として響くこともあり、また時には爆発するパンクでもあり、うねるラップであり、果ては、「シンコペーションそのもの」であると思えるときもある。
イチローが2001年にアメリカに渡って以来、実現し続けてきたのは、飛ぶボールとドーピングでホームラン時代を無理やり演出していた1990年代のような野球ではない。
もう何度も書いてきたように、ひとつには、20世紀初頭に途絶えていたタイ・カッブ時代の野球のリバイバルでもあり、また一方では、ちょっとありえない守備センス、ワンバウンドにすら手を出す特殊で過剰すぎる打撃感覚、過敏なほどのバットコントロールと選球眼、スピーディーだがいつ走るのかわからない独特の走塁感覚、それら全てを「人力(じんりき)だけ」でこなす、野球という名の「サルティンバンコ」だ。
これこそが言葉どおりの意味での「Show」だ。
カートゥーンのMGM作品「トムとジェリー(TOM and JERRY)」でいえば、90年代の野球が「野暮ったいトム」なら、イチローは「何を考えているのかよくわからないジェリー」だ。守備、攻撃、走塁。ゲームのどこを見ても、イチローの姿が右に左に、そこらじゅう跳ねまわっている(ような気分になる)のである。
そう。
イチローの「他人にない特殊さ」「自由さ」そのものが、むしろ本来の「ショーアップされたアメリカ」だ。スターを必要としないアメリカなんて、アメリカじゃない。
それが、ひさびさにイチローのお休みによってどうみえたかというと、
見えたのは、既視感しか感じない、精彩のない、平坦なベースボールであり、音楽のない、ただ勝ち負けを決めるだけのスポーツがそこに見えた。
打って、休んで。守って、休む。
打って、休んで。守って、また、休む。
たったそれだけ。
今日のゲームはイチローにとって、とても重要なゲームのひとつになったことと思う。
なぜなら「自分のいないマリナーズが見えた」はずだからである。たぶん、自分がMLBでも(もちろん日本でも)どれだけ他のプレーヤーとかけ離れたセンスで野球をやってきたか、痛感したことと思う。
それは普段は見えずらい「自分の姿」を見ることのできる、ひとつの効果的な方法でもある。
たまには「肉の入っていないスキヤキ」を食ってみないと、ファンもプレーヤーも、そしてなによりイチロー自身も、「肉がスキヤキに入っている意味」がわからなくなる。
もう一度言っておこう。
大事なことだ。
いまやコンテンポラリーな「アメリカ」なのは、
シアトル・マリナーズではない。
イチローだ。
たとえばオールスターだが、その時点で成績のいい選手をみんなで選ぶ「お受験」みたいなものと、自分勝手に勘違いしている幼稚園の受験生みたいな人たちを大勢みかける。
バカ言うなって(笑)
「スター」というのは、スキヤキの「肉」だ。
スキヤキは、「肉」の味を美味しく味わうために作られた料理だ。シラタキのためにあるんじゃない。
ブログ主は、今日のシアトル・マリナーズのような、「和風味の、水っぽい淡白な牛丼」みたいな腑抜けた食い物が大嫌いだ。シラタキの水っぽさだけしかない和風牛丼野球なんか、どうでもいい。
今日でよーくわかったこと。
イチローは、もっと自分のカラダが欲するままに、好きなようにやったらいい。頭で考えるより、体を自由に動かすほうが早い。
好きなだけ空振りして、好きなときに好きなだけ走って、気にいらない判定には悪態をついてやり、退場させられても涼しい顔で退場して、たまにはお気に入りの好投手の球を無理やり強振してスタンドにブチ込んでやれば、それでいい。
そう。キミは優等生でなくていい。
カラダにまかせてみる。カラダを信用してみる。
カラダの求めるだけ、好きなように、
野球とセックスすればいいのだ。
遠慮なんか、いらない。