June 12, 2012

ネット掲示板などでよく使われる常套句のひとつに、「見えない敵と戦う」という言葉がある。


使い方としては、主に疑問形で使われる。
例えば、「なにかを批判している人間」に向かって、「見えない敵とでも戦ってるのか?」などという具合に、揶揄(やゆ)するのに使う。単に、からかっているだけで、反論があるわけではない。

表面ヅラだけを見ると、「おまえのしている批判は、単に自分自身で作り出した幻影と戦っているだけなのであり、それはただの幻想にすぎない」と諭しているように見えるから、実に論理的な説得じゃないか、とか思うかもしれないが、実際には、そういう使い方をされることは、ほとんどない。
たいていの場合、「見えない敵とでも戦ってるのか?」と発言したがる人間の真の目的は、相手を軽くいなしているかのような印象を周囲にみせつけることによって、手間をかけることなく、むしろ手抜きして、その批判がいかに無意味であるかを見せつけておこう、という、底の浅い論理的なテクニックであることが少なくない。
まぁ要するに、情報操作のための常套句のひとつだ。


ブログ主はむしろ、いま世界がはまりこんでいる21世紀という、このやっかいな世界というものは、むしろ「見えない敵と戦う」のが当たり前のバトルフィールドとして誕生していると、常に思ってブログを書いている。


例えば、1999年の映画 『マトリックス』。
(関係ないが、この映画がジャン・ボードリヤールの著書『シミュラークルとシミュレーション』を参考にした、という意見もあるようだが、ブログ主はむしろ、フリードリヒ・ニーチェの『ヴェール』、あるいはらっきょの皮を1枚1枚剥いていくようなジャック・デリダ的論理構造を元ネタに発想されていると感じる)

matrixという単語は、もとは『子宮』を意味するラテン語からきている。映画「マトリックス」の根底には、「環境とは、『情報という羊水』で満たされた、一種の『誕生前の子宮』である」という見解がある。
キアヌ・リーブス演じる天才クラッカー、ネオが巻き込まれる「見えないものに対する戦い」は、まず「人工の情報と情報操作で満たされた子宮」であるカプセルから抜け出すことから始まる。
カプセルから出て「真の意味の誕生」を迎えたネオのその後の戦いは、実にシンプルで、「カプセルから抜け出さなければ永遠に見ることのなかった本当の世界=リアルを、いかに可視化していくか」という、その1点に尽きている。





よく、この映画をバーチャルリアリティとのからみで説明する人がいるが、この映画のアンチ・バーチャルな立場は、1990年代やたらと流行したバーチャルリアリティ礼賛とは、根本的にスタンスが違う。


例えば資格試験の初級シスアドの模範解答などを見ると、バーチャルリアリティについて、「コンピュータで模倣した物体や空間を、コンピュータグラフィックスなどを使用して実際の世界のように知覚できるようにすること」などと模範解答が書いてあるわけだが、そんな回答では、「社会環境のもつ仮想性の理解」としては、いくらなんでも底が浅すぎる。

人間を取り囲む情報空間というものは、もともとバーチャルだ。別に、手間暇かけてコンピューター・グラフィックを大量に生産し、人間を取り囲めるほどの仮想空間を作らなくても、紙だろうが、言葉だろうが、ヒットソングだろうが、ステマだろうが、材料の質にあまり関係はない。
人間が所属する「環境」というものは、共有されればされるほど、常に模擬的で曖昧な関係、錯覚などが大量に含まれてしまうのが、むしろ普通で、なにもインターネットとPCが登場してはじめて、世界がバーチャルな空間に変わったわけではないのだ。

人間の感受性そのものに、もともとバーチャルな特性が備わっているのだから、たいていのメディアは、その人間の感覚の特性を逆手にとって利用しながら存在している。


映画 『マトリックス』の立場が「アンチ・バーチャル」だからといって、アンチ・コンピューターを標榜しているわけではない。
『マトリックス』は、なにも「コンピューターを全て廃棄して、原始に帰ろう」と言っているわけではないし、また、「他人は信用するな」とか、「社会は欺瞞に満ちているから破壊せよ」と言っているわけでもない。
むしろ、ある意味コンピューターくらい人間的な道具、人間の特性をうまくつかまえた道具もないわけで、そこを勘違いしたままのクセに、あらゆる物事に白黒をつけて話しているつもりのヒトが、いつまでたってもいっこうに減らない。
Apple logo
例えば、Appleほど、人間らしくてオリジナリティのあるパソコンを開発したメーカーはないし、だからこそ彼らは商業的に大成功をおさめたわけだけれども、彼らの着眼のオリジナリティを執拗に批判したがる人に限って、奇妙なことに、「自分こそは、常にオリジナリティを大事にしてきた」と自称したがる人であることが多い。
「電気がもったいないから、野球を全て中止せよ」などと、根拠もなしに激しく主張したがる人にしても、自分自身では「ヒューマニズム的な発言をしている」と固く信じこんでいる。(こういう安易なヒューマニズムが18世紀あたりの発明品であることは言うまでもないが、短く説明するのは難しい)



そもそもわかっていなければならないのは、
かつて「世界」というものが「個人からは、見えないのが当たり前」だった、ということである。

「見えない」からこそ、新聞や書籍が万能であると思われ、また世界の良心の代表であると思われていたかつての「紙の時代」には、「特別なチャンスを持てた個人」、例えば、社会学の学者や、ジャーナリスト、作家、旅行家、探検家、宗教家などが、自分のいる社会を抜け出して、外の世界を観察し、「外界のありさま」を紙の上で語ることで、特殊な地位を得ていた。だからこそ、かつて「旅」は、布教やジャーナリズムであると同時に、征服と領土拡張のスキルでもあった。

例えば、「小説家」という仕事でいうと、江戸文化の影響がそこらじゅうに残っていた明治時代中期の日本には、まだ「近代的な家族関係」などというものは存在していなかったが、こと純文学作家だけは別で、まだ庶民の海外渡航が難しかった時代にあって、夏目漱石であれ、森鴎外であれ、欧米文化に触れる機会を持てた彼らは、「まだ開国したばかりの日本には存在しない、近代的な人間関係というもの」を想像して、作品という人間関係の図式を書きあげた。庶民である読者は「彼らの私小説などに表現された、いかにもありそうな人間関係。だが、実は、まったく架空の、近代的な日本の人間関係や家族関係というもの」を、私小説として味わいながら、近代的な人間関係を「バーチャルに学習」し、さらに、現実の暮らしにおいて「近代を実演してみせようとした」のである。

夏目漱石

つまり、実在する人間関係を写し取って小説という作品が書かれたのではなくて、むしろ逆で、作品に描かれた仮想の近代生活を、現実生活のほうが模倣することで、日本の近代が出来上がっていったのである。

テレビアニメの「サザエさん」なども、まさにこの「バーチャルな近代の学習行為」にあたる。
大正期に入り、現実社会に近代的な人間関係が根付き始めると、全盛期の純文学に期待された「人々が学習するための近代的な家族空間を建築する役割」が消滅し、純文学の社会的必要性が消滅していったことはいうまでもない。ただ、その後も 「テレビで 『サザエさん』を見て、『家族の幸せ』とはどういうものか習ぶような『学習習慣』」 は日本の人々の間にこっそりと残された。


1999年に公開された『マトリックス』にいまも存在価値があると思うのは、今のようなネット社会の誕生を10数年も前に予告したとかいう、くだらない意味ではなくて、むしろ「見えない相手との戦いのはじまり」を告知していた、という点にある。
当時提示された「見えない敵との戦い」の手法は実に単純で、「安易に信じこむのを止めるところから始める」というものだったが、そのシンプルさの有効性は、いまなお輝きを失っていない。

『マトリックス』が出来た1999年は、日本で「個人が、自分だけのためのウェブサイトを作ることのできるツールの全てが出揃った時期」にあたっている。
最初はあくまで個人から他者への情報発信だけがメインだったが、この流れはやがて個人同士がネットでつながることを目的にする流れを生んでいき、mixi、ツイッター、フェイスブックが生まれ、個人のつぶやきとマスメディアはより等価な立場になっていく。


かつて「紙の時代」には、「見えない敵と接触する」ための手段は、ごくごく限られた人に可能だった。だからこそ、「世界の記述」は、紙から得られる知識を広範にもつとともに、並外れた想像力や行動力を持った「特別な個人」だけに可能な、特別な仕事だった。
それにくらべて、「ネット社会」は、むしろ、「誰でも、全体を観ようと思えば、端っこくらい、見えなくもない便利な世界」であり、近代的な家族関係の現実社会への定着が、私小説の必要性を抹殺したのと同じように、ネットは、かつて隆盛を誇った「紙の時代」を終わりにさせようとしている。もはや学者や新聞や作家のいうことだけを鵜呑みにする必要はどこにもない。言いたいことは、自分で調べ、自分で考え、自分で発言すればいい。


だが、そのかわり、困ったことがある。
個人はいまや、かつて社会学の学者や、ジャーナリスト、作家、旅行家、探検家だけが担っていた「見えない世界との戦いや、世界の記述」という責任の重さを、個人の肩に背負わされるようになってきているからだ。
野球でいえば、スポーツジャーナリスト風情や評論家程度の話をすべてマトモに受け取る必要など、どこにもない時代だとは思うが、そのかわり、自分なりの意見を発言しようと思えば、山積みになっている情報から自分なりの基準や根拠を編み出す必要はある。

便利なことに、少なくともネットには、情報だけはいつでも誰でもアクセスできる状態で目の前に山積みされているわけだから、氾濫する情報の中から「知見という織物を編み上げる技術」さえあれば、誰でも意味のある情報を生産できる。(例えばこのブログ程度のことは、ネットに落ちている以上の素材など、まるで扱ってないのだから、書こうと思えば、誰でも書くことができる

いまや問題なのは、情報収集量の多さではなくて、「情報を編む視点の独自性」や「情報の編みかたの上手さ」、そして「性格のしつこさ」だ(笑)
「見えない敵」と戦ってみることは、自分の置かれた場所や、自分のポジションについて理解を深め、また、つまらない人間に騙されないようにする行為でもあるから、誰もが、大いに調べて、データとデータの間に自分だけの「つながり」をつけて、好き放題に意見を言えばいい。


こうしていま個人は「かつて見えなかったものを、見ようとする行為」を新たに課せられ、日々戦っている。
何もしないで下手糞な批判ばかりしている「情報ニート」に、そのめんどくさい日常を「見えない敵と戦っている」などといちいちうるさく言われる筋合いなどない。
どうせ的はずれなのがわかりきっている他人の話やマスメディアなど読んでいるくらいなら、自分で何か書いたほうがマシな時代なのだ。

Reality or Truth

捕捉:
いろいろと調べてみたにもかかわらず、残念ながら詳細がわからずじまいなのだが、現在、マトリックス3部作、および、ターミネーターについての著作権については、アメリカでの6年にもわたる長い裁判を経て、作家・脚本家Sophia Stewartなる人物の“The Third Eye”という作品にある、ということになっているようだ。
たいていの有名人にはWikipediaに項目があるものだが、どういうわけか、このSophia Stewartの項目がみあたらない。そして、なぜひとつの作品が2つの映画の原作として著作権を主張できたのかについても、ウェブ上に説明がほとんどみあたらない。いちおう注意書きとして記録しておく。
UPDATE: Matrix & Terminator Creator Sophia Stewart Won Landmark Trial | Clutch Magazine

Sophia Stewart filed a $150 million dollar malpractice lawsuit against her former attorneys | New York Paralegal Blog

Black Author wins Copyright Case for Matrix movie « Jason Skywalker's Blog


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