March 02, 2013

Davidoff Humidor No.6Davidoff Humidor No.6


2002年に亡くなられたパンチョ伊東さんの体調は2000年頃にはすでにかなり思わしくないものだったようだが、9月1日にホワイトソックスの本拠地、「新しいほう」のコミスキー・パークを訪れた、と記録にある。(パンチョ伊東のメジャーリーグ通信)本当に野球が好きで好きでたまらない方だったことがよくわかる。頭が下がる。

球場では試合前、旧知の間柄のホワイトソックスオーナー、Jerry M. Reinsdorf (ジェリー・ラインズドルフ。1936年ニューヨーク・ブルックリン生まれ。マイケル・ジョーダンが所属したシカゴ・ブルズのオーナーとしても有名)に偶然出会い、スイートルームに招かれて葉巻を勧められたという。
たとえMLBの球団オーナーになるような富豪であっても 『旧知の友人』 で 『気軽にスイートに招かれる』 というのが、パンチョさんのMLB人脈の無尽蔵さを物語る。感心するほかない。


2000年9月にパンチョさんが訪れたコミスキー・パークというのは、今でいうと、USセルラー・フィールドだ。というのも、1910年開場した旧コミスキー・パークが1991年に取り壊され、新たに建設されたホワイトソックスの本拠地は2003年まで旧球場と同じ『コミスキー・パーク』を名乗ったからだ。
だが、古くからの熱狂的なMLBファン、enthusiastであるパンチョさんが2000年9月の記事でUSセルラーを「コミスキー・パーク」と呼んでいらっしゃるのをあらためて見ることのほうが、かえって時代の「匂い」がリアルに感じられて、とてもいい。やはり時は移り変わるものなのだと、かえって時のうつろいが身にしみる。

2000年のホワイトソックスは、主砲フランク・トーマスの復活などもあって、約40年ぶりのワールドシリーズ進出か、と騒がれたほどの好調ぶりで地区優勝を果たすことになるのだが、ア・リーグ・ディヴィジョンシリーズ(ALDS)で、ワイルドカードでポストシーズン進出してきたシアトルに3連敗してしまい、世界制覇の野望は潰えてしまった。
(ちなみに、ホワイトソックスの日本語版Wikiにシアトルに負けたのが「リーグチャンピオンシップ」、つまりALCSであるかのような記述があるが、間違っている 2000 League Division Series - Seattle Mariners over Chicago White Sox (3-0) - Baseball-Reference.com

この翌年、2001年には、メジャー移籍したイチローセーフコで行われたMLBオールスターに出場することになった(イチローがランディ・ジョンソンから内野安打を打ち、盗塁したゲーム)が、体調の思わしくないパンチョさんは現地観戦できなかった。コミッショナー、バド・セリグはオールスター当日、パンチョさんからプレゼントされた黄色のネクタイをしめていた、という。



2002年オールスターは7月9日にミラー・パークで行われ、イチローも2年連続で先発出場しているわけだが、パンチョさんはイチロー2年目のオールスターの5日前、7月4日に亡くなっている。おそらく天国のブリーチャーから熱心に観戦なさったことだろうと思う。

Bleacher


ジェリー・ラインズドルフは、パンチョさんにすすめた葉巻の銘柄について、こんなことを言っている。
「キューバの上物は手に入らないが、
このドミニカ産もいいんだぜ」
となると、ラインズドルフのすすめた葉巻は、キューバ産の代表ブランド、コイーバ(Cohiba)やモンテクリスト(Montecristo)ではなく、キューバ産に比肩するドミニカ産葉巻で、1990年に生産拠点をキューバからドミニカ共和国に移したプレミアム・シガー、ダビドフ(Davidoff)だっただろう、ということになる。

Davidoff Aniversario - No.2

高級な葉巻の保管については、乾燥によるヒビ割れや、湿り気による青カビを防ぐために、humidorと呼ばれる専用箱に入れられ、湿度が70%前後に保たれる。(ちなみに香水を保管する箱を、高級葉巻の保管箱であるhumidorになぞらえて、Fで始まる綴りに変え、fumidorと呼ぶこともあるらしい)


今シーズン、三角トレードでナショナルズからシアトルに出戻ったマイク・モースだが、彼は元をただせば、パンチョさんがコミスキー・パークを訪れた2000年にホワイトソックスに入団している選手だ。(2000年6月19日に行われたアマチュアドラフト3巡目。全体82番目。パンチョさんが稀代のMLB通なのはいうまでもないが、シカゴ入団当時のモースの存在に気づいていたかどうかまではわからない)
3rd Round of the 2000 MLB June Amateur Draft - Baseball-Reference.com

そのモースがシアトルに来たのは、2004年6月27日にシカゴのモース、ミゲル・オリーボ、ジェレミー・リードと、シアトルのフレディ・ガルシア、ベン・デービスという3対2のトレード。そして、2009年6月28日にライアン・ランガーハンズとの1対1のトレードでナショナルズへ移籍した。
モースのシアトルにおけるキャリアのかなりの部分は、タコマでのマイナー暮らしで、メジャーでの出場試合数はわずか107ゲーム、打席数にして337打席でしかない。
モースがシアトルでの不遇時期に何を思っていたかはよくわからないが、少なくとも彼がナショナルズで開花した形になってから、三角トレードで古巣に凱旋したとき、彼がかつてシアトルに在籍した2004年から2009年までずっとチームの主力だった選手は、もう誰ひとり残っていなかった。(モースの在籍期間にフェリックス・ヘルナンデスが本当にエースといえる活躍をしたのは2009年のわずか1年だけでしかないし、2009年にシアトルに来た外様のフランクリン・グティエレスは「モースにとって、シアトルの匂いのする選手」ではないはず)


最初に挙げた文章を、どう訳せば、モースの使った Humidor という言葉の香りが損なわれずに済むか。


直訳すれば、「イチローは、僕に必要不可欠な湿めり気なんだ」とか、「イチローは、高級葉巻がクオリティを保つのに必要な『適度な湿度』をキープしてくれる宝箱的な存在の選手だ」とかいうことになる。
もっと意訳するなら、「自分がかつてシアトルにいた時代に嗅いだ あの『かつてのシアトル・マリナーズらしい香り』は、いま『イチロー』という存在の中に封印されている。その香りは常に僕に自分自身のかつてのシアトル時代を思い起こさせる」、とでもいうようなことになる。
シアトルでマイナー暮らしの長かったモースにとって、メジャー移籍直後からずっと目覚ましい活躍をし続けていたイチローは、いつかは自分もあんな風に第一線に立って活躍するんだという目標、あるいは、マイナー暮らしに耐えながら自分に対する自信を見失わないための支柱だっただろうと思う。

2001年のオールスターには8人もの選手がシアトルから選ばれ、さらにスターティングメンバーに4人もの野手が選ばれている。(イチロー、ブーン、オルルッド、エドガー)
モースは、シカゴで「強かった時代のシアトル」を知り、さらに「イチローのいるシアトル」にやってきて、やがて巣立ち、そして「イチローのいないシアトル」に戻ってきた。モースにとって、「イチローのいるシアトル」こそが「彼にとってのシアトル」なのは当然だ。
(ついでに言えば、それは2010年11月に亡くなったデイブ・ニーハウスにとっても同じだったはずだ。かつてブログに書いたように、「イチローのいるシアトル」こそが、「彼にとっての最後のマリナーズ」だった。 Damejima's HARDBALL:2010年11月15日、デイブ・ニーハウスにとっての「ラスト・マリナーズ」。

とすれば、最初の文章は、「イチローは僕にとって、僕がかつてのシアトルに感じた香りを封じ込めておいてくれる葉巻の箱のような存在なんだ」とか、軽く訳しておくだけでいいかもしれない。だが、それではモースがせっかく「ヒュミドール」という言葉を使って漂わせたかった「甘い想い出が発酵したときにだけ生じる、独特のかぐわしさ」や、モースがシアトルでの不遇時代に味わった「自分史における、ほろ苦さ」の微妙な感覚は消えうせてしまう。
匂いが消えてしまえば、シガーは台無しになる。もちろんジャック・ズレンシックの作った「匂いの消えうせたシアトル」は、「台無しになった後のシガー」だ。


結局、Humidorは、Humidorだ。そのまま味わうしかない。
そんな気がする。

伊東さん。それでいいっスよね。


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