July 22, 2013

仏頂面のゲーリッグより遥かに魅力的な
微笑んでるゲーリッグ。

イチロー・スーパーカウントダウン、後半戦はイベントが続く。MLB通算2700安打。日米通算4000安打の達成。さらには、デビュー13シーズンでのピート・ローズ越え歴代1位2023試合出場と続く。
既に書いたように、イチローが「日米通算4000安打を達成するとき」というのは、同時に、「ルー・ゲーリッグを超えるMLB通算2722目のヒットを打ったとき」でもある。
ちなみに、某アメリカのスタッツに詳しいライターが、ついこの間そのことにようやく気付いたらしく、ビックリしたようにツイートしていたのには笑った(笑)
ルー・ゲーリッグが、あの有名な「今日の私は地上で最も幸せな男です」という引退スピーチを行ったのは、1939年7月4日セネタースとのダブルヘッダーだ。


詳しく書くと長くなるのでやめるが、黎明期の日本野球を常にインスパイアし続けたのは、日米野球で垣間見る大リーガーの「高い壁」であった。
たとえば「1934年日米野球」が、日本野球史を塗り替えるほどの決定的なインパクトがあったのは、17歳のエース沢村栄治の快投で、それまでは遥か彼方にかすんでいたMLBの高い壁が、ほんの一瞬にせよ、間近に、それもピントがあって垣間見え、難攻不落の壁にとりつく「足がかり」すら感じられたからだ。
1934年当時の日本では、ベーブ・ルース人気から、彼の一挙手一投足が話題になったわけだが、あの年の日米野球の来日メンバーの実際の打線の中心は、当時すでに現役引退目前だったキャリア終盤のベーブ・ルースではなく、キャリア全盛期にあったルー・ゲーリッグであり、11月20日の草薙球場のゲームで沢村栄治から決勝ホームランを打ったのが、引退間際のルースではなく、ゲーリッグだったのにもちゃんと「必然」がある。
だから、イチローの4000安打達成が、同時に「ルー・ゲーリッグ越え」のMLB通算2722本目の安打でもあるという「歴史」には、単なる偶然ですまされない「必然」があるのだ。

オドゥールは、1934年日米野球では、サンフランシスコに移転する前のニューヨーク・ジャイアンツの選手として来日。翌1935年の全日本チームのアメリカ遠征でも、なにくれとなく日本チームの世話を焼き、チームに "Tokyo Giants" というニックネームをつけた。そして1949年日米野球では、彼がジョー・ディマジオを育てたマイナーのサンフランシスコ・シールズ監督として来日し、長年に渡って日本野球を鼓舞し続けた。
オドゥールが長年監督をつとめたサンフランシスコ・シールズの本拠地シールズ・スタジアムは、一度書いたように、ニューヨークにあったジャイアンツが、ドジャースとともに西海岸移転したとき、新本拠地キャンドルスティック・パークが完成するまで、一時的に本拠地にしていたボールパークだ。
Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場
大映の永田雅一氏は、そのキャンドルスティック・パークを模範として、東京・荒川区に東京スタジアムを作り、まだ基盤の弱かった戦後の日本プロ野球の発展に力を尽くした。
Damejima's HARDBALL:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (4)夢の東京スタジアムの誕生
Damejima's HARDBALL:2012年3月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (5)番外編 元祖「安打製造機」 榎本喜八にとっての『故郷』、東京スタジアム。
西本幸雄さんは、永田雅一氏がオーナーをつとめる大毎オリオンズ監督として1960年リーグ優勝を果たし、その後、阪急、近鉄と、優勝経験の無かったチームを2つも優勝に導くことで日本野球史の流れを大きく変えた。
また西本さんは、上田利治、仰木彬、梨田昌孝、チャーリー・マニエル、山田久志、福本豊などの選手・指導者を育てることでパ・リーグ隆盛の礎を築き、そのパ・リーグから、野茂、イチロー、ダルビッシュなどのMLB挑戦者が現れ、現在に至っている。
Damejima's HARDBALL:2011年11月25日、「名山」、西本幸雄。指導者を育てた指導者。
こうした出来事の全てを単なる偶然と片付けるだけの勇気は、ブログ主にはない。