December 28, 2013
デジタル技術の発達のおかげで、写真は誰でも撮影後にいじれるようになった。例えば、「モノクロ化遊び」も色データを廃棄することで簡単にできる。
(もちろんカラー画像のモノクロ化にも、輝度変換など、いろいろなテクニックがあるわけだが、ライカ風を狙った写真の大半がトーンが甘くなって単に「眠いだけの写真」になるように、中間トーンを数多く出せば出すほど良くなる、とは全く思わない。かつてのパンクロック系画像のように、中間調のまるで無いベタっとした色彩のほうが、かえって印象を強める場合もある)
「モノクロ化」は手間のかからない単純な遊びだが、それは単なるトーンダウンでも、グレードダウンでもない。
「モノクロ化」はむしろ、元の映像がキャッチしようとした「決定的瞬間」の内部に潜在的に存在している「撮影者のボンヤリした意図」、「被写体の動き」、「被写体の主張」を、よりエッジの効いた形で削り出して、印象をより強めたり、曖昧な撮影意図を可視化したりできる。場合によっては、モノクロ化によってカラーだったとき以上の何かを写真に宿らせることに成功することすらある。
イチローのプレーを例にとると、たいていの場合、モノクロにすることで、よりプレーの素晴らしさがわかる写真になることが多い。
というのも、イチローのプレー写真は、モノクロ化によって視覚的な情報量を制限し、余分な情報を捨てることで、プレーの瞬間の肉体的な動き、特に、肩や股関節といった「関節」の「可動域の異常な広さ」が、ファンの想像をはるかに超えるレベルであることが、カラーで見る場合よりはるかに鮮明に「意味」として映し出されるからだ。
まるでジャガーかチーターの疾走を思わせるような
しなやかな股関節の動き
>
肩関節の異常なまでの可動域の広さと
空中での信じられないボディコントロール
2012年5月17日クリーブランド戦。素晴らしい跳躍の高さだが、プレーと関係ない部分でいくら高く跳べたとしても、意味はない。外野手は走り高跳びの選手ではないのだ。イチローが「捕る瞬間に最も高く跳躍できる選手」であることに、最も重要な意味がある。
ただ、あらゆる写真を「モノクロ化」で遊べるか、というと、そうでもない。どういうわけか、どこをどうやってもモノクロ化で印象を上げられない写真がある。
イチローの場合、WBCの決勝タイムリーの写真がそうだ。
(キャプション)2枚の写真から、イチローがバットヘッドの出を、高速シャッターで撮られた写真で確かめないとわからないほど、ほんのわずか遅らせて、ヘッドが過剰に効きすぎてひっかけた打球になるのを避けつつスイングしていたことが明瞭に伝わってくる。
動画と違い、2枚の写真の間には「何も無い」。だが、われわれの「脳」はきちんと2つの瞬間を繋ぐ「何か」を補完し、瞬間と瞬間を空中で繋ぎ合わせて、永遠の動画に変えてみせる。
WBCにおけるイチローばかりは、カラーバランス、トーンカーブ、コントラスト、明るさ、レベル、彩度。データのどこを、どういじってみても、モノクロ化するより、「カラー」のままにしておいたほうが、全然いい。
参考)
「モノクロ化できない原因」はハッキリしている。
WBCのユニフォームの赤色だ。このユニフォームにおける「赤」には、それを省略してしまうことができない「何か」がある。
イチローには赤色のユニフォームが似合わないという、まことしやかな意見がある。だが、この写真をみれば、そんなこと、あるわけがない。「彼に似合う赤」を着ればいい。それだけのことだ。
蛇足でいっておくと、モノクロ化してもカッコよく見えない選手、アスリートというのも、数多くいる。その多くは、その選手のプレーの質、その選手の存在自体が平凡で、その選手にしか存在しない「きわだった個性」を持たないのが原因だ。
歴史に残るアスリートには、美術館に飾られてもまったくおかしくない、際立った「スタイル」がある。
だからモノクロ化が映えるのである。
Damejima's HARDBALL:Japanese Legend
(もちろんカラー画像のモノクロ化にも、輝度変換など、いろいろなテクニックがあるわけだが、ライカ風を狙った写真の大半がトーンが甘くなって単に「眠いだけの写真」になるように、中間トーンを数多く出せば出すほど良くなる、とは全く思わない。かつてのパンクロック系画像のように、中間調のまるで無いベタっとした色彩のほうが、かえって印象を強める場合もある)
「モノクロ化」は手間のかからない単純な遊びだが、それは単なるトーンダウンでも、グレードダウンでもない。
「モノクロ化」はむしろ、元の映像がキャッチしようとした「決定的瞬間」の内部に潜在的に存在している「撮影者のボンヤリした意図」、「被写体の動き」、「被写体の主張」を、よりエッジの効いた形で削り出して、印象をより強めたり、曖昧な撮影意図を可視化したりできる。場合によっては、モノクロ化によってカラーだったとき以上の何かを写真に宿らせることに成功することすらある。
イチローのプレーを例にとると、たいていの場合、モノクロにすることで、よりプレーの素晴らしさがわかる写真になることが多い。
というのも、イチローのプレー写真は、モノクロ化によって視覚的な情報量を制限し、余分な情報を捨てることで、プレーの瞬間の肉体的な動き、特に、肩や股関節といった「関節」の「可動域の異常な広さ」が、ファンの想像をはるかに超えるレベルであることが、カラーで見る場合よりはるかに鮮明に「意味」として映し出されるからだ。
まるでジャガーかチーターの疾走を思わせるような
しなやかな股関節の動き
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肩関節の異常なまでの可動域の広さと
空中での信じられないボディコントロール
2012年5月17日クリーブランド戦。素晴らしい跳躍の高さだが、プレーと関係ない部分でいくら高く跳べたとしても、意味はない。外野手は走り高跳びの選手ではないのだ。イチローが「捕る瞬間に最も高く跳躍できる選手」であることに、最も重要な意味がある。
ただ、あらゆる写真を「モノクロ化」で遊べるか、というと、そうでもない。どういうわけか、どこをどうやってもモノクロ化で印象を上げられない写真がある。
イチローの場合、WBCの決勝タイムリーの写真がそうだ。
(キャプション)2枚の写真から、イチローがバットヘッドの出を、高速シャッターで撮られた写真で確かめないとわからないほど、ほんのわずか遅らせて、ヘッドが過剰に効きすぎてひっかけた打球になるのを避けつつスイングしていたことが明瞭に伝わってくる。
動画と違い、2枚の写真の間には「何も無い」。だが、われわれの「脳」はきちんと2つの瞬間を繋ぐ「何か」を補完し、瞬間と瞬間を空中で繋ぎ合わせて、永遠の動画に変えてみせる。
WBCにおけるイチローばかりは、カラーバランス、トーンカーブ、コントラスト、明るさ、レベル、彩度。データのどこを、どういじってみても、モノクロ化するより、「カラー」のままにしておいたほうが、全然いい。
参考)
「モノクロ化できない原因」はハッキリしている。
WBCのユニフォームの赤色だ。このユニフォームにおける「赤」には、それを省略してしまうことができない「何か」がある。
イチローには赤色のユニフォームが似合わないという、まことしやかな意見がある。だが、この写真をみれば、そんなこと、あるわけがない。「彼に似合う赤」を着ればいい。それだけのことだ。
蛇足でいっておくと、モノクロ化してもカッコよく見えない選手、アスリートというのも、数多くいる。その多くは、その選手のプレーの質、その選手の存在自体が平凡で、その選手にしか存在しない「きわだった個性」を持たないのが原因だ。
歴史に残るアスリートには、美術館に飾られてもまったくおかしくない、際立った「スタイル」がある。
だからモノクロ化が映えるのである。
Damejima's HARDBALL:Japanese Legend