February 21, 2014
2020年に東京で夏季オリンピックが開催されることになったが、これは東京で何回目のオリンピックか、おわかりだろうか。
正解は「3回目」だ。
というのも、
1964年の第18回夏季オリンピックと、2020年に行われる予定の第32回夏季オリンピック以外に、第二次大戦を前に中止された1940年の第12回東京オリンピックが「みなし開催」としてカウントされるからだ。(つまり、オリンピックの開催回数は、開催自体が決定していれば、たとえ中止されても開催回数としてカウントされ、リセットされない)
開催が予定されてた東京オリンピックの返上決定を各国宛に打電した至急電の現物(1938年公文書) via 大会返上 - 歴史公文書探究サイト『ぶん蔵』 BUNZO
(左の画像)
1940年の幻の東京オリンピックで予定されていたマークのデザイン案
1940年の東京オリンピック開催がなぜ中止に至ったのか。その詳しい経緯は他サイトでも見て、自分なりに検証してみてもらいたい。(中止に至った原因は戦争のためとかいう単純な説明だけで終わる話でもない。なぜなら中止すべきという意見は外国だけでなく、日本国内にもあったからだ)
少なくとも、1940年のオリンピック招致の成功に尽力された人物が、日本人初のIOC委員(1909年就任)だった嘉納治五郎翁であったことは、ぜひ知っておいてもらいたいと思う。
日本人の歴代IOC委員:国際オリンピック委員会 - Wikipedia
「1940年の幻の東京オリンピック」がどういう開催を目指していたかについての詳細な資料は、例えば英語版Wikiに掲載されているリンクが詳しい。当該Wikiのページ下段にある "References" という項目にリンクがあるが、リンク先のpdf(英語)がなかなかいいのである。(http://library.la84.org/6oic/OfficialReports/1940/OR1940.pdf ブログ注:リンク先がpdfであるため、直リンを避けておいた)
1940 Summer Olympics - Wikipedia, the free encyclopedia
このpdfには、開催にこぎつけるまでの詳しい経緯、招致する日本側の主要メンバーの氏名や写真、さらには、予定されていた競技スケジュールの全てまでもが、資料としてきちんとまとめられている。さらに、エジプトのカイロで開かれた1938年のIOC総会の帰路、シアトルで乗船した氷川丸の船上で客死された嘉納治五郎翁のご遺体がオリンピック旗に包まれて横浜に戻ってこられたときの写真まで掲載されている。よくぞこれだけ集めたものだ。
嘉納治五郎翁を、「昔の柔道家のひとり」くらいに思ってる人が多いかもしれない。
だが、翁は日本人初のIOC委員で、「日本のスポーツの父」というべき存在であり、1940年のオリンピック招致成功も氏の功績なのである。シアトルから横浜に向かう船上で亡くなり、無言の帰国となって故国に戻ってきたご遺体が五輪旗に包まれているのは、翁の悲願であった東京での夏季五輪の招致成功に対するリスペクトを示している。
日本でもこの1940年のオリンピック招致成功が日本における初めてのオリンピック招致成功だったことを知っている人自体が減ってしまっているわけだが、1940年の五輪招致成功は、日本初どころか、「アジアで初」、そして「有色人種の国として初」という、とてつもない偉業だったのであり、このことはもっと多くの人に認識され、記憶されていい事実だと思う。
考えてみてほしい。
嘉納治五郎翁がオリンピック招致を成功させた「1930年代」という時代は、欧米以外の「独立国」自体が今よりはるかに少ない時代なのである。
欧米以外の「独立国」がそもそも少ないこの時代に、さらにIOCの国内委員会(=今の日本でいうところのJOC)をもつ独立国は、日本、中華民国(台湾)、アフガニスタン程度しかなかった。
これらの国以外にも、英領インド、米領フィリピンなど、欧米以外でIOCの国内委員会をもつ「地域」はほんのわずかにあったが、それらはいずれも1930年代当時はまだ「独立国」ではなかった。(インド独立は1947年。フィリピン独立は1946年)
つまり、当時は、欧米以外の世界の大半、とりわけアフリカとアジアは、「独立国」ではなく、「植民地」だったのである。
そんな「世界がまだ自由になれなかった時代」にあって、欧米以外の、それも、「アジア」の、「有色人種」の、しかも「独立国」が、「IOCの国内委員会」を持ち、IOCに委員を送り出していること、それ自体がいかに凄いことだったか。
そうした日本のスポーツがまだまだ困難だった時代に、嘉納翁は夏季オリンピック招致に成功しているのである。
翁の考えるスポーツの未来がどのようなものだったか、翁がオリンピック開催を通じてどんなことを目指しておられたのか、きちんと知りたくなってくる。
少なくとも世界中のスポーツ関係者に記憶し続けてもらいたいと思うことは、「オリンピックにおける有力アスリートの大半が欧米各国で占められてきた冬季オリンピックでの各種競技(フィギュア、スノーボード、カーリングなど)、あるいは、夏季競技のフェンシング(太田雄貴 注:フェンシングは夏季五輪の競技種目から一度も外れたことのない伝統ある種目のひとつ)や、馬術(西竹一)、ソフトボールなど、「欧米各国が長らくメダルを独占・寡占してきた競技」において、どれほど多くの日本人アスリートが壁に立ち向かい、風穴を開けてきたことか、ということだ。
つまり、日本のアスリートがオリンピックで残してきた足跡のある部分は、まさにオリンピックというスポーツイベントが、単に欧米だけの専有物ではなく、真の国際イベントとして近代化するための重要なステップだったのである。
だからこそ、嘉納翁が1940年のオリンピック招致の成功で達成していた「西洋の壁を破る努力」は、幻のオリンピックとして忘却されるべきではないし、いまも昔と変わらず、ほかならぬ東洋の日本において継承され続けていると、自負と自信をもっていえる。
いうまでもないことだが、
かつて1940年のオリンピックを招致するスピーチで、「日本が遠いと言う理由で五輪が来なければ、日本が欧州の五輪に出る必要はない」とまで妥協なしに言い切ったという嘉納治五郎翁は、押しも押されぬJapanese Legendなのである。
(写真)第3代IOC会長アンリ・ド・バイエ=ラトゥール氏と会談して説得にあたる日本のIOC委員・副島道正氏(副島氏は日本で4人目にあたるIOC委員。会談会場となったHotel Aldonは、ベルリンの高級ホテル。日本側が五輪招致に費やした費用は当時の円で90万円以上といわれている)
ベルギー出身のバイエ=ラトゥールは、当時ヨーロッパを覆いつつあったファシズムの圧力にも屈せずIOCの運営にあたった人物だが、当時の日本のスポーツ関係者はラトゥール氏を1936年に日本に招くなどして、正面から説得を試み、正々堂々と開催への同意をとりつけている。事態を打開し、不可能とも思える偉業を達成できたのは、現代のようにIOC委員に対する接待などではなく、粘り強い交渉によるものだ。
正解は「3回目」だ。
というのも、
1964年の第18回夏季オリンピックと、2020年に行われる予定の第32回夏季オリンピック以外に、第二次大戦を前に中止された1940年の第12回東京オリンピックが「みなし開催」としてカウントされるからだ。(つまり、オリンピックの開催回数は、開催自体が決定していれば、たとえ中止されても開催回数としてカウントされ、リセットされない)
開催が予定されてた東京オリンピックの返上決定を各国宛に打電した至急電の現物(1938年公文書) via 大会返上 - 歴史公文書探究サイト『ぶん蔵』 BUNZO
(左の画像)
1940年の幻の東京オリンピックで予定されていたマークのデザイン案
1940年の東京オリンピック開催がなぜ中止に至ったのか。その詳しい経緯は他サイトでも見て、自分なりに検証してみてもらいたい。(中止に至った原因は戦争のためとかいう単純な説明だけで終わる話でもない。なぜなら中止すべきという意見は外国だけでなく、日本国内にもあったからだ)
少なくとも、1940年のオリンピック招致の成功に尽力された人物が、日本人初のIOC委員(1909年就任)だった嘉納治五郎翁であったことは、ぜひ知っておいてもらいたいと思う。
日本人の歴代IOC委員:国際オリンピック委員会 - Wikipedia
「1940年の幻の東京オリンピック」がどういう開催を目指していたかについての詳細な資料は、例えば英語版Wikiに掲載されているリンクが詳しい。当該Wikiのページ下段にある "References" という項目にリンクがあるが、リンク先のpdf(英語)がなかなかいいのである。(http://library.la84.org/6oic/OfficialReports/1940/OR1940.pdf ブログ注:リンク先がpdfであるため、直リンを避けておいた)
1940 Summer Olympics - Wikipedia, the free encyclopedia
このpdfには、開催にこぎつけるまでの詳しい経緯、招致する日本側の主要メンバーの氏名や写真、さらには、予定されていた競技スケジュールの全てまでもが、資料としてきちんとまとめられている。さらに、エジプトのカイロで開かれた1938年のIOC総会の帰路、シアトルで乗船した氷川丸の船上で客死された嘉納治五郎翁のご遺体がオリンピック旗に包まれて横浜に戻ってこられたときの写真まで掲載されている。よくぞこれだけ集めたものだ。
嘉納治五郎翁を、「昔の柔道家のひとり」くらいに思ってる人が多いかもしれない。
だが、翁は日本人初のIOC委員で、「日本のスポーツの父」というべき存在であり、1940年のオリンピック招致成功も氏の功績なのである。シアトルから横浜に向かう船上で亡くなり、無言の帰国となって故国に戻ってきたご遺体が五輪旗に包まれているのは、翁の悲願であった東京での夏季五輪の招致成功に対するリスペクトを示している。
注:1940年の夏季五輪招致の成功においては、実は札幌での冬季五輪招致にも成功していて、もし実現していれば夏・冬の五輪同時開催だったのである。(画像は、1940年幻の札幌冬季五輪で予定されていたメダルデザイン。札幌市公文書館所蔵)
夏季同様、冬季五輪も中止され、幻の開催となったが、第二次大戦後の1972年に再度招致に成功し開催された。1964年東京五輪で使われた駒沢陸上競技場も、戸田漕艇場も、元をただせば、実は「幻の1940年東京五輪」で予定されていた競技会場であるように、日本で開催に至った1964年と1972年の2つのオリンピックには、かつて幻に終わった「1940年の2つのオリンピック」の「遺伝子」が受け継がれているのである。
オリンピックを「五輪」とする略語も、1940年の開催を前にした1936年に、読売新聞の川本信正記者によって発明された言葉。
— damejima (@damejima) 2014, 2月 20
日本でもこの1940年のオリンピック招致成功が日本における初めてのオリンピック招致成功だったことを知っている人自体が減ってしまっているわけだが、1940年の五輪招致成功は、日本初どころか、「アジアで初」、そして「有色人種の国として初」という、とてつもない偉業だったのであり、このことはもっと多くの人に認識され、記憶されていい事実だと思う。
考えてみてほしい。
嘉納治五郎翁がオリンピック招致を成功させた「1930年代」という時代は、欧米以外の「独立国」自体が今よりはるかに少ない時代なのである。
欧米以外の「独立国」がそもそも少ないこの時代に、さらにIOCの国内委員会(=今の日本でいうところのJOC)をもつ独立国は、日本、中華民国(台湾)、アフガニスタン程度しかなかった。
これらの国以外にも、英領インド、米領フィリピンなど、欧米以外でIOCの国内委員会をもつ「地域」はほんのわずかにあったが、それらはいずれも1930年代当時はまだ「独立国」ではなかった。(インド独立は1947年。フィリピン独立は1946年)
つまり、当時は、欧米以外の世界の大半、とりわけアフリカとアジアは、「独立国」ではなく、「植民地」だったのである。
(ブログ注)そしてもちろん、1940年の東京オリンピック開催が決定した1930年代末、アメリカ国内にはまだアフリカ系アメリカ人の公民権運動などまったく存在していない。1940年代の第二次大戦時どころか、1950年の朝鮮戦争時のアメリカ軍においてすら、従軍するアフリカ系アメリカ人に対する人種差別は存在した。(参照例:Tuskegee Airmen)
そんな「世界がまだ自由になれなかった時代」にあって、欧米以外の、それも、「アジア」の、「有色人種」の、しかも「独立国」が、「IOCの国内委員会」を持ち、IOCに委員を送り出していること、それ自体がいかに凄いことだったか。
そうした日本のスポーツがまだまだ困難だった時代に、嘉納翁は夏季オリンピック招致に成功しているのである。
翁の考えるスポーツの未来がどのようなものだったか、翁がオリンピック開催を通じてどんなことを目指しておられたのか、きちんと知りたくなってくる。
少なくとも世界中のスポーツ関係者に記憶し続けてもらいたいと思うことは、「オリンピックにおける有力アスリートの大半が欧米各国で占められてきた冬季オリンピックでの各種競技(フィギュア、スノーボード、カーリングなど)、あるいは、夏季競技のフェンシング(太田雄貴 注:フェンシングは夏季五輪の競技種目から一度も外れたことのない伝統ある種目のひとつ)や、馬術(西竹一)、ソフトボールなど、「欧米各国が長らくメダルを独占・寡占してきた競技」において、どれほど多くの日本人アスリートが壁に立ち向かい、風穴を開けてきたことか、ということだ。
つまり、日本のアスリートがオリンピックで残してきた足跡のある部分は、まさにオリンピックというスポーツイベントが、単に欧米だけの専有物ではなく、真の国際イベントとして近代化するための重要なステップだったのである。
だからこそ、嘉納翁が1940年のオリンピック招致の成功で達成していた「西洋の壁を破る努力」は、幻のオリンピックとして忘却されるべきではないし、いまも昔と変わらず、ほかならぬ東洋の日本において継承され続けていると、自負と自信をもっていえる。
いうまでもないことだが、
かつて1940年のオリンピックを招致するスピーチで、「日本が遠いと言う理由で五輪が来なければ、日本が欧州の五輪に出る必要はない」とまで妥協なしに言い切ったという嘉納治五郎翁は、押しも押されぬJapanese Legendなのである。
(写真)第3代IOC会長アンリ・ド・バイエ=ラトゥール氏と会談して説得にあたる日本のIOC委員・副島道正氏(副島氏は日本で4人目にあたるIOC委員。会談会場となったHotel Aldonは、ベルリンの高級ホテル。日本側が五輪招致に費やした費用は当時の円で90万円以上といわれている)
ベルギー出身のバイエ=ラトゥールは、当時ヨーロッパを覆いつつあったファシズムの圧力にも屈せずIOCの運営にあたった人物だが、当時の日本のスポーツ関係者はラトゥール氏を1936年に日本に招くなどして、正面から説得を試み、正々堂々と開催への同意をとりつけている。事態を打開し、不可能とも思える偉業を達成できたのは、現代のようにIOC委員に対する接待などではなく、粘り強い交渉によるものだ。