August 26, 2014
MLBには「Unwritten Rules(アンリトゥン・ルール)」というものがある。
日本語でいうなら「不文律」、文字に書かれない暗黙のルールのことだ。
それは例えば、「点差が開いて試合の趨勢が決まったゲームの終盤では、勝っているほうのチームのランナーは盗塁を試みてはならない」などというような、紳士協定的な約束事だけではなくて、一度ブログに書いたことがあるが、「マウンドはピッチャーの聖地である。凡退したバッターがダグアウトに戻るとき、近道のためにマウンドを横切ることは聖地であるマウンドを汚す行為であり、絶対許されない」なんてものまで、実にさまざまな種類がある。
(かつてAロッドがオークランド戦で、ファウルの帰塁の際に故意にマウンドを横切って、ダラス・ブレイデン投手と大ゲンカしたことがある 資料: 2011年7月6日、「MLBでは不文律を絶対に破らない」という不文律は、「どこにも無い」。 | Damejima's HARDBALL)
さて、「点差の開いたゲームでの終盤の盗塁」について、ダルビッシュが以下のような発言をしているのを見た。
この発言は、「法の論議」としても、「論理学の論議」としても、あらゆる点で根本的な間違いを犯している。
例を挙げて話をしてみる。
かつてスポーツのアンチ・ドーピング、つまりドーピングの取り締まりのルールにおいては、「ネガティブ・リスト」によって取り締まる時代が長く続いた。
だがネガティブ・リストでは次から次に登場する新しいドーピング薬物の進化にとてもついていけないので、近年ではアンチ・ドーピングのルールは「ポジティブ・リスト」が加えられ、大きく変更されている。
この「ポジティブ・リスト」というルール決めの方法は、農業分野での薬物規制などでも行われているルールで、要するに「禁止薬物を羅列するのではなくて、逆に、許可薬物を羅列して示すようなやり方」に変わった、ということだ。
いちいち書かなくてもわかると思うが、いちおう書いておく。
脱法ドラッグなどとまったく同じで、ネガティブ・リストの考え方だけで作られた薬物ルールでは、ドーピング規制が現実についていけず、いわゆる「ザル法」になってしまう。
というのは、「『まだ禁止薬物リストにのっていないドーピング薬物』が次から次へと開発されてくるのが現実だというのに、『ネガティブ・リストで作られたルールにリストアップされている薬物だけがドーピングだ』というのなら、『まだリストに書かれていない、新しい薬物を使うこと』はドーピングにならない」という屁理屈が成り立ってしまい、ドーピング蔓延に打つ手がなくなってしまうからだ。
(そして実際に、ネガティブ・リストでドーピング規制していたかつてのスポーツ界では、あらゆるドーピングが蔓延していた)
これではルールを決める意味がない。
これに対し、ポジティブ・リストの考え方でできたドーピングルールでは、「使ってよい許可薬物」が羅列される。だから、たとえドーピング薬物リストに書かれていない全く新しいドーピング薬物が次々に開発され、使用されたとしても、それらをドーピングとして摘発し、厳しく処罰することが可能になったのである。
この簡単なドーピング規制の例からわかることは、「ルールに書かれていない全てのことは、やっても許される」という論理が成り立つためには、その前提として、「全体を拘束しているルールが、ネガティブ・リストの考え方で作られている」という条件が必須だ、ということだ。
(だが、たいていの場合、こうしたことは誰も思いつかないし、気がつかない。なのに、ロジックに弱い人間に限って、気軽に「ルールに書かれてないことは、やっていいんだ」などと、根拠のない戯言をクチにする)
だが、普通のルールの場合、「禁止事項のみが書かれていること」など、ほとんどない。
現に、MLBのルール、そして日本の野球のルールを見てもらいたい。それらには「やってよいこと」も、「やってはいけない」ことも、混合して書かれている。
それは、論理学的観点からいうと、野球という世界のルールにおいては、やってよいこと、禁止されること、その両方とも書かれている以上、「ルールに書かれていないこと」についても、やってよいこと、やるべきでないこと、両方が含まれていて、「ルールに書かれてないことはやってもよい」というロジックは全く成立しない、ということを意味する。
繰り返す。
ありえないことだが、もし野球のルールが「禁止事項だけで作られている」としたら、それは確かに論理学的にいえば「ルールに書かれていないことは、やってもいい」というロジックも成り立ちうる。
だが、実際にはそうではない。
まったく違う。
もう一度繰り返す。
野球のルールには、許可事項もあれば、禁止事項も、両方が存在している。禁止と許可の両方がある以上、「野球のルールに書かれていないことは、許可されるべきだ」なんていう、わけのわからない屁理屈はまったく成り立たない。
野球の場合、『正式なルールに書かれていないこと』の中には、「やっていいこと」も、「やるべきでないこと」も、両方が存在しており、「正式ルールに書かれてないことは、何をやってもいい」わけではない。
それは、倫理でもなければ、安っぽいヒューマニズムでもない。
「純粋な論理」として、そうなのだ。
以上、点差の開いたゲームの終盤での盗塁に関するダルビッシュの発言の論理が、論理学的に根本的に間違っていることを「証明」した。影響力のある男なのだから、少しは頭を使ってモノを言ってもらいたい。
アンタさ、アタマが古いよ。ダルビッシュ。
付則:
たとえもし仮に、野球の正式ルールの枠外のルールである「アンリトゥン・ルール」という一種の「ルール」が、「禁止事項」だけがリスト化されたネガティブ・リストだったとしても、それらは、「野球の正式ルールに書かれていない、枠外の数限りない事項のうちの、ごく一部分」に過ぎない。だから、たとえアンリトゥンルールがネガティブ・リストだったとしても、論理的に野球の正式ルールはそのことによって影響は全く受けない。
日本語でいうなら「不文律」、文字に書かれない暗黙のルールのことだ。
それは例えば、「点差が開いて試合の趨勢が決まったゲームの終盤では、勝っているほうのチームのランナーは盗塁を試みてはならない」などというような、紳士協定的な約束事だけではなくて、一度ブログに書いたことがあるが、「マウンドはピッチャーの聖地である。凡退したバッターがダグアウトに戻るとき、近道のためにマウンドを横切ることは聖地であるマウンドを汚す行為であり、絶対許されない」なんてものまで、実にさまざまな種類がある。
(かつてAロッドがオークランド戦で、ファウルの帰塁の際に故意にマウンドを横切って、ダラス・ブレイデン投手と大ゲンカしたことがある 資料: 2011年7月6日、「MLBでは不文律を絶対に破らない」という不文律は、「どこにも無い」。 | Damejima's HARDBALL)
さて、「点差の開いたゲームでの終盤の盗塁」について、ダルビッシュが以下のような発言をしているのを見た。
この発言は、「法の論議」としても、「論理学の論議」としても、あらゆる点で根本的な間違いを犯している。
自分たちの時は高校野球に暗黙のルールなんかなかったです。アマチュアなんだし、正式なルールにないものは無視してやりたいことやればいい。“@ourashinji: @faridyu あのー、今年の甲子園で「機動破壊」という盗塁を重ねて相手を崩す!とゆう戦法で健大高崎がやってたん
— ダルビッシュ有(Yu Darvish) (@faridyu) 2014, 8月 25
例を挙げて話をしてみる。
かつてスポーツのアンチ・ドーピング、つまりドーピングの取り締まりのルールにおいては、「ネガティブ・リスト」によって取り締まる時代が長く続いた。
だがネガティブ・リストでは次から次に登場する新しいドーピング薬物の進化にとてもついていけないので、近年ではアンチ・ドーピングのルールは「ポジティブ・リスト」が加えられ、大きく変更されている。
この「ポジティブ・リスト」というルール決めの方法は、農業分野での薬物規制などでも行われているルールで、要するに「禁止薬物を羅列するのではなくて、逆に、許可薬物を羅列して示すようなやり方」に変わった、ということだ。
ネガティブ・リスト
禁止条件を羅列するようなルールづくりのやり方
ポジティブ・リスト
許可条件を羅列するようなルールづくりのやり方
いちいち書かなくてもわかると思うが、いちおう書いておく。
脱法ドラッグなどとまったく同じで、ネガティブ・リストの考え方だけで作られた薬物ルールでは、ドーピング規制が現実についていけず、いわゆる「ザル法」になってしまう。
というのは、「『まだ禁止薬物リストにのっていないドーピング薬物』が次から次へと開発されてくるのが現実だというのに、『ネガティブ・リストで作られたルールにリストアップされている薬物だけがドーピングだ』というのなら、『まだリストに書かれていない、新しい薬物を使うこと』はドーピングにならない」という屁理屈が成り立ってしまい、ドーピング蔓延に打つ手がなくなってしまうからだ。
(そして実際に、ネガティブ・リストでドーピング規制していたかつてのスポーツ界では、あらゆるドーピングが蔓延していた)
これではルールを決める意味がない。
これに対し、ポジティブ・リストの考え方でできたドーピングルールでは、「使ってよい許可薬物」が羅列される。だから、たとえドーピング薬物リストに書かれていない全く新しいドーピング薬物が次々に開発され、使用されたとしても、それらをドーピングとして摘発し、厳しく処罰することが可能になったのである。
この簡単なドーピング規制の例からわかることは、「ルールに書かれていない全てのことは、やっても許される」という論理が成り立つためには、その前提として、「全体を拘束しているルールが、ネガティブ・リストの考え方で作られている」という条件が必須だ、ということだ。
(だが、たいていの場合、こうしたことは誰も思いつかないし、気がつかない。なのに、ロジックに弱い人間に限って、気軽に「ルールに書かれてないことは、やっていいんだ」などと、根拠のない戯言をクチにする)
別の例:
コンピューターのルーターのフィルター設定
インターネットの接続先が「1番から100番まで」100個だと仮定して、あるルーターに「1番から10番までの接続先は接続禁止」というルールのみを設定してみる、とする。
すると、このルールの存在によって結果的に「11番から100番までの接続先、あるいは未知の接続先など、ルールで禁止されていない接続先になら、自由に接続してよい」という、「裏ルール」ともいうべきものがネガティブに成立することになる。
だが、それはあくまで裏ルールでしかない。子供でもわかることだが、元の「1番から10番までの接続先は許可」という明示されたルールを取り消すと、「禁止された接続先以外なら、あらゆる接続先に自由に接続してよい」という明示されない裏ルールも同時に消滅する。
だが、普通のルールの場合、「禁止事項のみが書かれていること」など、ほとんどない。
現に、MLBのルール、そして日本の野球のルールを見てもらいたい。それらには「やってよいこと」も、「やってはいけない」ことも、混合して書かれている。
それは、論理学的観点からいうと、野球という世界のルールにおいては、やってよいこと、禁止されること、その両方とも書かれている以上、「ルールに書かれていないこと」についても、やってよいこと、やるべきでないこと、両方が含まれていて、「ルールに書かれてないことはやってもよい」というロジックは全く成立しない、ということを意味する。
繰り返す。
ありえないことだが、もし野球のルールが「禁止事項だけで作られている」としたら、それは確かに論理学的にいえば「ルールに書かれていないことは、やってもいい」というロジックも成り立ちうる。
だが、実際にはそうではない。
まったく違う。
もう一度繰り返す。
野球のルールには、許可事項もあれば、禁止事項も、両方が存在している。禁止と許可の両方がある以上、「野球のルールに書かれていないことは、許可されるべきだ」なんていう、わけのわからない屁理屈はまったく成り立たない。
野球の場合、『正式なルールに書かれていないこと』の中には、「やっていいこと」も、「やるべきでないこと」も、両方が存在しており、「正式ルールに書かれてないことは、何をやってもいい」わけではない。
それは、倫理でもなければ、安っぽいヒューマニズムでもない。
「純粋な論理」として、そうなのだ。
以上、点差の開いたゲームの終盤での盗塁に関するダルビッシュの発言の論理が、論理学的に根本的に間違っていることを「証明」した。影響力のある男なのだから、少しは頭を使ってモノを言ってもらいたい。
アンタさ、アタマが古いよ。ダルビッシュ。
付則:
たとえもし仮に、野球の正式ルールの枠外のルールである「アンリトゥン・ルール」という一種の「ルール」が、「禁止事項」だけがリスト化されたネガティブ・リストだったとしても、それらは、「野球の正式ルールに書かれていない、枠外の数限りない事項のうちの、ごく一部分」に過ぎない。だから、たとえアンリトゥンルールがネガティブ・リストだったとしても、論理的に野球の正式ルールはそのことによって影響は全く受けない。
ちなみに、スローボールに関する議論については、ダルビッシュと同じ意見だ。別に何を投げようと、知ったこっちゃないから、高校生だろうと、中学生だろうと、あらゆる球種を試していい。(肩、肘への影響は多少考慮すべきだけど)
— damejima (@damejima) 2014, 8月 26