September 20, 2014

2人の元シアトルのプロスペクト、アダム・ジョーンズ(BAL)と、ダグ・フィスター(WSN)の所属球団が、それぞれ地区優勝した。心からおめでとう、と言いたい。
今はコンテンダー(=優勝争いできるチーム)の主力選手となっている彼らだが、その2人がかつてシアトルでどういう扱いを受けていたか、今となっては忘れてしまった人もいることだろう。

言うまでもなく、この2人の有望選手が「シアトルを出た理由」は偶然などではなく、背景に今も変わらず続く「シアトルの若手育成能力の無さ」と、「ジェネラル・マネージャーの無能ぶり」がある。
アダム・ジョーンズとフィスター、2人に関していうと、2004年以降のセンターの選手起用における失敗、そして2000年代から近年まで一貫して行われ続けた「FA補強の失敗の連続と、有望先発投手の放出の連続」の両方が深く関係している。


アダム・ジョーンズ移籍の背景にある
シアトルの「2000年代センター問題」


アダム・ジョーンズは2008年2月8日、エリック・ベダードとの交換トレードで、クリス・ティルマン、ジョージ・シェリル、現在広島で活躍中のカム・ミッコリオ(来日後の登録名は「ミコライオ」)などとともにボルチモアに移籍した。
その後、ゴールドグラブ 3回(2009、2012、2013)、シルバースラッガー 1回(2013)、オールスターゲーム選出 4回(2009、2012、2013、2014)と活躍し、今ではゴールドグラブの常連だったエンゼルス時代のトリー・ハンター的な「ア・リーグを代表するセンター」であり、押しも押されもしないボルチモアの中心選手だ。

シアトル時代のアダム・ジョーンズは2003年MLBドラフトで1位指名(全体37位)を受けたプロスペクトだが、当時を知らない人は「ドラフト1位なんだし、さぞデビュー前はシアトルの秘蔵っ子として大事に扱われていたのだろう」と思い込んでいるかもしれないが、当時を知っている人なら、そんなこと考えもしない。

なぜなら、シアトル時代のアダム・ジョーンズはかなりいい加減な扱いを受けていたからだ。

シアトル時代のAJのメジャー経験は、彼が20歳、21歳の2006年、2007年の2シーズンだが、いずれも夏以降に申し訳程度にちょろっと使われただけにすぎない。
しかも、使われたといっても、2006年の9月以降と、2007年のかなりの部分が「代打」「代走」「守備固め」としての出場で、とてもとても「次世代のチームを担うトッププロスペクトとして華々しく扱われた」とはいえないどころか、むしろシアトル時代のアダム・ジョーンズは「単なる外野のユーティリティの若造」程度の軽い扱いしか受けていなかった

2006年の出場ゲーム:Adam Jones 2006 Batting Gamelogs | Baseball-Reference.com

2007年の出場ゲーム:Adam Jones 2007 Batting Gamelogs | Baseball-Reference.com


こうしたアダム・ジョーンズのひどい扱いの背景には、2000年代中期のシアトルのチーム編成が極度に迷走していたことが原因の、「センター」のポジションの不安定さがある。

2000年代初期、シアトルのセンターは、グリフィーとのトレードでシンシナティからシアトルにやってきて、2001年、2003年にゴールドグラバーとなった、センターの名手マイク・キャメロンがいたから非常に安定していたが、そのキャメロンがFAでメッツに去ると一気に不安定化してしまう。
アダム・ジョーンズがメジャーデビューした2006年にしても、ブルームクイスト、ジェレミー・リードなど計8選手がセンターを守ったことでわかるように、2000年代中盤になってもシアトルのセンターはまったく固まっていなかった。

翌2007年になると当時のシアトルの無能GMビル・バベジは、FA外野手のホセ・ギーエンを連れてくる。
だが、このギーエン、なんとセンターを守れない外野手だったため、2007年はライトの魔術師イチローがセンターに回って、センターでもゴールドグラブを獲り、ギーエンはライトを守った。
だが、結局ギーエンは1年プレーしただけでいなくなってしまい、翌2008年になるとセンターが固定できない2006年の状態に逆戻りしてしまい、再びジェレミー・リードなど4人が交代でセンターを守った。

2000年代終盤には無能GMジャック・ズレンシックがお気に入りのフランクリン・グティエレスをセンターに固定したが、そのグティエレスにしても体質のあまりの弱さと打撃の平凡さ、肩の弱さから結局失敗に終わったことは知っての通りだ。


こうしたセンター守備の右往左往ぶりは、シアトル・マリナーズというチームが「これまでいかに理解不能なことばかりしてきたか」という証拠のひとつだ。
誰しも思うことだが、シアトルがそれほどまでにセンターの起用に四苦八苦していたのなら、なぜドラフト1位ルーキーの若いアダム・ジョーンズを大事にして、センターに固定して育てればよかったのだ

だが実際には、今も昔も若手育成能力の皆無なシアトルは、AJにマトモなプレー機会を与えず、挙句の果てに無能GMたちの選手獲得の失敗の連続で先発投手が足りなくなったために、後のゴールドグラバーを先発投手獲得のコマにして安売りしてしまうのだから、開いたクチがふさがるわけもない。


ちなみに、2000年中期にシアトルの外野の「控えの控え」だったチュ・シンスがライトのポジションでメジャーデビューできなかったのは、同ポジションにイチローがいて邪魔したからだなどと、「とんでもない嘘八百の言いがかり」をつける人がいる(笑)

わかりきったことを解説するのも馬鹿馬鹿しいが、まず、これは当然の話だが、2004年にジョージ・シスラーのシーズン最多安打記録を更新して波に乗りまくるイチローのレギュラーポジションを奪う可能性が、当時シアトルの外野の控え選手だったアダム・ジョーンズ以下の存在で、「控えの控え」に過ぎないチュ・シンスにあるわけがない。
次に、以上の記述でわかると思うが、イチローとイバニェスが固定されていた2000年代中期のシアトルの外野のポジションで、控え選手がレギュラーを得られる可能性があったポジションは、「キャメロンがいなくなって以降、適任者がいないセンター」であって、「ライト」ではない。
その「センター」にしても、本来なら最も適任者であるはずのアダム・ジョーンズですらロクに守らせてもらえないほど、当時のシアトルのチーム編成は「若手を育てる能力もなく、才能を見抜く目もまるで持ちあわせていなかった」のだから、当時の控え外野手アダム・ジョーンズ以下だったチュ・シンスが、2006年当時のシアトルで「空いているセンター」を守れる可能性など、無いに決まっている。

また、ホセ・ギーエンが入団したことでイチローがセンターに回り、ライトに空きが生じていた2006年には、ギーエンの成績次第でアダム・ジョーンズやチュ・シンスなどの若手にもライトを守るチャンスが生じた可能性もないではなかったわけだが、実際には実現していない。
なんせ当時のシアトル・マリナーズは、センターが本職なはずの自前のプロスペクト、アダム・ジョーンズにすらセンターを守るチャンスをやらなかったくらいだ。といって、シアトルはチュ・シンスをセンターに回すわけでもなく、「センターが守れない」ホセ・ギーエンを連れてきてしまい、天才外野手イチローのいたライトにギーエンを置いてしまうのだから、これら全てはチーム編成の責任であり、と同時に、単にチュ・シンスに外野のレギュラーポジションを奪いとるのに必要な「アダム・ジョーンズより上であるという評価」がされるほどの実力がなかっただけのことでもある。


ただ、勘違いしてはいけないと思うのは、ドラフト時のアダム・ジョーンズの評価は、ジョー・マウアーやスティーブン・ストラスバーグ、ブライス・ハーパーのような「その年のドラフトの目玉選手」だったわけではないし、全米トップテンの評価だったというわけでもない、ということだ。
彼はあくまで、2003年ドラフト全体37位の、それも「補足指名」による1位指名選手であって、2003年ドラフトで1位指名されたのは「37人」だったから、1巡目37位のアダム・ジョーンズは「2003年のドラフトで最も最後に指名された1巡目指名選手」なのだ。

もう少し詳しく書くと、2002年ドラフトでのシアトルは、イチローが入団した2001年にぶっちぎりの勝率で地区優勝していたために、上位指名権を持っていなかった。そのためシアトルは「全体28番目」というかなり遅い順位で、当時高校生だったJohn Mayberryを1位指名した。
だが、そのMayberryが入団拒否し、スタンフォードに進学してしまったために、シアトルに「1位指名選手が入団しなかったことへの補償」として「補完指名権」が発生した。それが翌2003年ドラフトでの「アダム・ジョーンズの全体37位指名」だ。
この「補完指名権」は「最初の30人の指名を終わった後で行われる補足的な1位指名」なわけだから、実質的にアダム・ジョーンズは2巡目以降の指名レベルだった、といえなくもない。

MLBドラフトにおける「1巡目指名」
実際のMLBドラフトの1巡目指名では、必ずしも30球団が1人ずつ、合計30人が順に指名されるわけではない。
さまざまな理由から上位指名権が移動したり、補完指名権が発生したりすることによって、結果的に複数の1位指名権を所有するチーム」が出現することが多い。
したがってドラフト1巡目の最初の30人の指名においては、ひとつのチームが2人以上の選手を指名することもあれば、逆に「その年に1位指名権を全く持たないチーム」も出現することになる。(例えば2002年ドラフトでは、オークランドが1巡目で8人を指名して『マネーボールドラフト』と呼ばれた)

上位指名権が移動する例:
これは既に改正された古い制度だが、かつては、有力選手がフリーエージェントで他チームに流出すると、元の所属球団(=流出球団)が、FA選手を獲得した球団が所有しているドラフトでの「上位指名権」や「補完指名権」を獲得できるという制度があった。
この場合、どのFA流出選手にどの順位のドラフト指名権が付随するかは、その選手の「格付け」や、流出球団の地区順位・年棒調停など、諸条件によって決まる。(FA選手の格付けは、スポーツ選手の格付け専門機関であるElias Sports Bureauによる。「タイプA」、「タイプB」など、タイプという呼称が使われる)




ダグ・フィスター移籍の背景にある
シアトルの「若手先発投手の安売りセール」


ダグ・フィスターは、ビル・バベジが2006年ドラフト7巡目で指名し、ジャック・ズレンシックが2011年にチャーリー・ファーブッシュ、チャンス・ラフィン、キャスパー・ウェルズなどとのトレードで、デビッド・ポーリーとともにデトロイトに放出した。

シアトル在籍最後のシーズンとなった2011年前半は「3勝12敗」という惨憺たる成績だったが、これはERA3.33、WHIP1.171という数字が示すように、フィスターはいいピッチングをしていたが、単に貧弱すぎるシアトル打線の援護がないために勝てなかった、ただそれだけのことであり、事実7月末に移籍した先のデトロイトでフィスターは、「8勝1敗、0.839」という驚異的な数字を残し、地区優勝を経験している。

数字に弱い無能なGMズレンシックは、フィスターがタイガース、さらにはナショナルズと、彼が地区優勝チームの主力ローテ投手のひとりとして活躍できるほどのポテンシャルを持っていたことを、シアトル在籍時の簡単な統計数字から読み取る能力すら持ち合わせていなかった。デトロイトへのトレードは安売りそのものであり、このトレードは空前の大失敗といえる。


このフィスターのトレードについても、アダム・ジョーンズのトレードの背景に、2000年代のシアトルがセンターの選手起用で重ねたミスがあるのと同様に、その背景に「シアトルが2000年代中期以降ずっと続けてきたローテ投手陣の構築失敗」がある。
もっと具体的にいうと、「自軍のマイナー上がりの才能ある投手の軽視」と、「トレードによる先発投手放出の連続」だ。


2001年にMLB史上最高の116勝を挙げ、最強だったはずのシアトルが「地区最下位に沈む弱さに急激に下降した」のは、2004年のことだ。この2004年の直前、2003年11月にはビル・バベジがシアトルのGMになるという「事件」(笑)があった。
2004年はバベジがGMに就任して最初のシーズンであり、このときはまだ誰も「バベジが史上最悪のGMのひとりであること」に気づいてはいなかった(笑)

2000年代中期にシアトルが地区最下位に沈むようになった理由のひとつはローテ投手陣の極端な弱体化だが、シアトルの選手層、特にローテ投手の顔ぶれを「2000年代初期」と「2000年代中期」で比べてみると、そこに『非常に大きな違い』があることに誰でも気づかなくてはならない。

シアトルの選手層の「質的」変化

2000年代初期:多くがドラフトで獲得して自前で育成した選手や、シアトルでメジャーデビューした選手で形成

2000年代中期以降:FA選手との契約や、若手選手の放出によるトレードに依存し、ドラフト後の育成でほとんど収穫なし


例えば、2004年のローテ投手には、メッシュ、ピニェイロ、ライアン・フランクリンなど、シアトルで育ってきた投手たちの名前が並ぶ。フレディ・ガルシアにしても、MLBに入ったのはドラフト外でヒューストンだが、メジャーデビューはシアトルだ。
このことでわかるように、2000年初期のシアトルの選手層には、「シアトルで育った選手」に可能な限りこだわって、なおかつ、勝ててもいたという大きな特徴がある。

もちろんシアトルでメジャーデビューしているイチローも、シアトル市民にとってみれば「シアトルで育った新人」のひとりだ。

2001年の116勝シーズンにシアトルの観客動員がMLBトップに輝いた理由は、単に「勝ち数が多かったこと」だけが理由ではなくて、「シアトルゆかりの選手が数多くいるチームで優勝できたこと」にあることは、地元メディアですらきちんと語ってこなかった。
(だから「FA偏重になって負け続けた時代に、観客が離れていっている理由」を誰も気づかなかったし、地元メディアすらきちんと指摘しなかった。彼らは「勝てばそのうち観客は戻るさ」くらいに思っていたと思う)

参考記事:2013年3月1日、「イチローは僕のヒュミドールなんだ」 〜 マイク・モースだけにしかわからない「『イチローのいるシアトル』の甘く、ほろ苦い香り」 | Damejima's HARDBALL


「幸福な2000年代初期」に対して、
「不幸な2000年代中期以降」は、なぜ起こったか。

例えば2007年、2008年あたりのローテ投手をみると、ウオッシュバーン、ホラシオ・ラミレス、バティスタ、ジェフ・ウィーバー、バティスタ、シルバ、ベダード、イアン・スネルなどであり、ヘルナンデス以外の先発投手の獲得のほとんどが「FA選手」だ。(一部は自軍の有望選手との交換トレード
野手にしても、リッチー・セクソンやエイドリアン・ベルトレが典型だが、FA選手との契約と、その失敗例が掃いて捨てるほどある。

当然ながら、FA選手との契約にはカネがかかるし、それだけでなく、彼らは成績が最悪になっても契約で守られ、マイナーに落としたりスタメンを外したりすることが簡単にはできないことが多い。だから彼らが活躍しても、しなくても、若手の出場機会は減ることになる。
チーム財政が苦しければ、新たな選手獲得の予算が限られてくるチーム側としては、FA選手が期待はずれに終わったときに、さらに新たな選手を獲得してくるためには、若手をトレードの「エサ」にするしかなくなる。
こうして、「金銭と、ドラフトの上位指名権という犠牲を払って高額契約したFA選手が期待外れに終わる。チームはドラフトでいい選手がとれず、予算の自由度も減り、こんどは既存の若手をエサに選手を獲ってこようとする。そのFA選手がまた期待外れに終わると、また別のFA選手に手を出す。そうして失敗し続けた上に、ドラフト上位指名もできない年度が続く」という、「典型的な悪循環」が生まれる。

実際、こうした「FAでシアトルに入団した先発投手」のほとんどは、前例がないほどの大失敗か、それに準ずる程度の平凡な成績に終わり、その一方で、シアトルが放出した有望選手たちは、ようやくゲームに出場できる機会を得て経験を積んだ結果、大きく成長を遂げるという、シアトル特有の奇妙な現象が2000年代中期以降に生まれることになった。

「放出した選手が必ずといっていいほど活躍する」という奇妙な現象はけして「偶然」などではないのである。
参考記事:2013年6月2日、GMズレンシックの仕業によるシアトル・マリナーズ 「2013年版 ポジション別 崩壊目録」 (2)投手編 | Damejima's HARDBALL


こうしたバベジ時代、ズレンシック時代共通の「FA重視、ドラフト軽視、若手育成軽視」のチーム編成手法は、2000年代初期までの「強い地元チーム」に熱狂してきたシアトルのファン心理を急激に冷めさせ、チームから著しく遠ざける結果をまねいた。

その後、MLBのスタメンクラスの実力もない若手選手に機会を与えるフリをしてイチローを追い出す口実にしたズレンシックとエリック・ウェッジの悪質な戦略は、成功もしないし、観客もそれを評価せず、観客はますますスタジアムから離れる結果になった。
(だからこそ、「シアトルで育ったイチロー」がデイブ・ニーハウスにとっての『ラスト・マリナーズ』だったわけだ。参考記事:2010年11月15日、デイブ・ニーハウスにとっての「ラスト・マリナーズ」。 | Damejima's HARDBALL

こうしたFA選手偏重の選手獲得、選手起用によって、2000年代のシアトルからアダム・ジョーンズ、ダグ・フィスター、ブランドン・モローなどの若手(あるいはマイク・モース、ラファエル・ソリアーノのような活躍が期待できる選手)が次々に離れていく一方で、給料が高い割に成績がふるわないFA選手ばかりがチームにたまっていき、それとともにチームの観客動員は2万人のラインに向かって一直線に下降していった。


こうして眺めてみると、2000年代中期以降の「FA重視、若手軽視、育成軽視のシアトル・マリナーズ」は、ある意味で、「コア4」の時代が終わりつつあるのがわかっているのに、若手を育てもせず、ステロイドのインチキ野球に頼り続けながら他チームから大物FA選手を集め続けて没落していったニューヨーク・ヤンキースの2000年代中期の軌跡と、まったくもって瓜二つだ。


Play Clean
日付表記はすべて
アメリカ現地時間です

Twitterボタン

アドレス短縮 http://bit.ly/
2020TOKYO
think different
 
  • 2014年10月31日、PARADE !
  • 2013年11月28日、『父親とベースボール』 (9)1920年代における古参の白人移民と新参の白人移民との間の軋轢 ヘンリー・フォード所有のThe Dearborn Independent紙によるレッドソックスオーナーHarry Frazeeへの攻撃の新解釈
  • 2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史)
  • 2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史)
  • 2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史)
  • 2013年6月1日、あまりにも不活性で地味な旧ヤンキースタジアム跡地利用。「スタジアム周辺の駐車場の採算悪化」は、駐車場の供給過剰と料金の高さの問題であり、観客動員の問題ではない。
  • 2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。
  • 2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。
  • 2012年6月29日、『父親とベースボール』 (1)星一徹とケン・バーンズに学ぶ 『ベースボールにおける父親の重み』。
Categories
ブログ内検索 by Google
ブログ内検索 by livedoor
記事検索
Thank you for visiting
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

free counters

by Month