January 28, 2015
近代の人間にはやっかいなことに、「自我」というものがある。(もっと正確にいえば、ある人にはあるし、ない人には、あいかわらず、ない)
近代における自我の定義はけして簡単ではないが、ブログ主にいわせるなら、ひとつには「自分がいて、他人がいて、両者は違っているのが当たり前なのだ、ということが理解できる能力」のことだ。
この「自己と他者を区別できるレベルにまで成長すること」は、実は、その国が「欧米的な意味での近代化を達成した」とされる条件のひとつでもある。
ただ、この「自我というシステム」は有用な反面で、問題点もある。
いくつか挙げてみる。
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さて、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』や、有島武雄の『生れ出づる悩み』などの著作の表題が、共通して「悩み」という単語をもつことからもわかるように、「自我を確立することは、なまやさしいことではない」と、よく思われている。
というのは、「自我=自分だけがもつ、固有かつ唯一無二のスタイル」であり、「若い=独自のスタイルを徹底的に模索する時期である」と思いこんでいる人が多数いるためだ。(だが、実際には、自我は唯一無二のオリジナリティなど意味してはいない)
こうした「誤解」によって、「独自のスタイルは誰にとっても絶対に必要だ。だが、だからといって、簡単に見つかるわけではない。だから若さ=悩んで当たり前の年齢なのだ」などと、都合のいいように若さを解釈してきたのが、かつて近代化を迎えた若い国家に共通の特徴だった。
ゲーテが『ウェルテルの悩み』を書いたのが1774年で、有島武雄の『生れ出づる悩み』が1918年。両者の著作の間に「約140年の歳月の開き」があるわけだが、この「140年の差」は、そのまま、日本の近代化の黎明がヨーロッパから100数十年遅れてやってきたことを意味している。
ヨーロッパと日本に、アメリカも含め、近代化が社会に浸透して軌道にのり、時代が「若さを必要としなくなった」とき、若さを標榜し、徹底して悩み抜くことに意味があり、若さゆえの悩みにある種のカッコよさやオリジナリティがあると社会から思われる時代は終焉を迎えることになる。(もちろん「文学」が近代国家においてもっている意義もそこで終了する)
関連記事:2013年5月11日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(4) 「若さを必要としない時代」 | Damejima's HARDBALL)
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ここで、質問。
「自我って、どんな形?」
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ブログ主の答え。
「ちくわ」みたいな形。
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ここで、ブログ主からふたたび質問。
「ちくわの穴」って、内部? それとも外部? 必要?
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ブログ主の答え。
「内部」でもあり、「外部」でもある。
ドーナツの穴と似たようなもの。必要。
つまり、
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だが実際には、実に多くの人が自我の構造を「缶詰」のようなものだと思い込んでしまっている。
つまり、自我とは「フタによって完全に密封され、外部と内部の間になんの流通もありえないような遮断された密閉空間」であり、そうした「内部と外部を厳密に区別できる密閉空間」を確立してはじめて、自己というものは「統一感」や「外部からの隔絶」を達成でき、自己と他者との区別も、オリジナリティも、萌芽することができる、などと、自分勝手に思いこんでしまう。
繰り返しになるが、
密閉空間を内部に抱え込むことこそ自我だ、という考え、
それは、単なる思い込みに過ぎない。
「外に出ていく場所のない、封鎖された空間」は、
「むやみに膨らみ続けていく風船」と同じだ。
ときとして「爆発」や「暴発」を生む。
そして、自己と他者の区別はなおざりになる。
「自我という内部空間は、封鎖された密閉空間として存在する、という誤解」は、多くの頑迷な思い込みを生じさせやすくする。
例えば、オリジナリティをもつことに対する異常なこだわりにしても、多くの場合は、むしろオリジナリティを築けなかった人(あるいは国家)や、他者のオリジナリティを存在として認める能力が皆無な人にこそ多い。
また、「自分の思い込みが、単なる思い込みであることに自分自身が気づくことへの恐怖」は、他者の失笑や嘲笑に対するアトピー的過敏さをひきおこしやすくする。
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クチをあけると、クチの中という「内部」は「外部」とつながる。クチは「外部を受け入れることができる場所」であり、そこから食物は、食道から胃、腸、といった「ちくわ」のような構造の「チューブ」(=消化器官)を経て消化され、最終物は膀胱や肛門や汗をかく器官からふたたび外部へと出ていく。
つまり、物理的な人体にも、自我の構造と同じように、「ちくわの穴」のような「内部ではあるけれど、同時に、外部でもあるような、チューブ状の内部空間」が存在している。物理的な人体も、自我の構造も、まったく似た形状として形成されているのである。
缶の中にいることが自我のあり方であり、缶の中に居続けなければならないという自己暗示のもとに、自己の絶対性を確定させるための追求を過剰に行い続けても、それは、自己を安定させるどころか、よりどころのない不安定さだけを生じさせることになる。
自我には、外部とつながった開放部があっていいこと、そして、外部とのリンクを無理に拒絶し、自分だけの閉鎖された密閉領域を確保することが自我の形成ではないこと、間違った自我イメージのために無理な努力をしなくてもいいのだ、ということを、もっとしっかり理解してもらいたいと切実に思う。
というのは、このことは、「他者と自分との区別のつかない人たち」がやたら登場してニュースになる壊れた世の中へむけての最も重要なメッセージのひとつだ、と思うからだ。
近代における自我の定義はけして簡単ではないが、ブログ主にいわせるなら、ひとつには「自分がいて、他人がいて、両者は違っているのが当たり前なのだ、ということが理解できる能力」のことだ。
この「自己と他者を区別できるレベルにまで成長すること」は、実は、その国が「欧米的な意味での近代化を達成した」とされる条件のひとつでもある。
ただ、この「自我というシステム」は有用な反面で、問題点もある。
いくつか挙げてみる。
「近代的な自我」という「欧米的なOS(「オペレーティング・システム」)」は非常に有用なシステムだが、このシステムにはもともと「バグ」や「設計ミス」が存在することも確かであり、そのため、自我というシステムが、ときに暴走したり、フリーズしたり、勝手に再起動したりすることがあり、レールをはずれたときの操縦はなかなかに難しい。
また、自我というシステムの理解に特有の「誤解」もある。そのためもあって、「自我の確立」という作業(オペレーション)は古来からとても失敗しやすいものとなっている。
多くのケースでは、自我の確立の失敗は問題ない。むしろ、自我の確立に失敗し続けている間にいつのまにか自我が形成されていくことになる。また、たとえ「自我というものをまるで所有しないオトナ」になったとしても、日常生活そのものにはなんの支障もない。
だが困ったことに、「自我の形成がうまくいかず、壊れたままの自我を再起動せずに抱えこんだまま稼働し続けてしているオトナ」が迷惑行為や犯罪に対して非常に無自覚になるケースは少なからずある。
「自我の確立を通じた近代化」に失敗することは、個人にのみ起きるのではなく、国家にも起きる。その結果、「自己と他者の区別がつけられない国家」、「他者を認知しようとしない国家」は、世界にそれなりの数が存在する。
残念ながら、近代的な自我そのものがもつ欠陥を修正した「次期OS」や、近代的な自我の確立に失敗したときのリカバリーのための「パッチ」は、まだ十分確立しているとはいえない。
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さて、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』や、有島武雄の『生れ出づる悩み』などの著作の表題が、共通して「悩み」という単語をもつことからもわかるように、「自我を確立することは、なまやさしいことではない」と、よく思われている。
というのは、「自我=自分だけがもつ、固有かつ唯一無二のスタイル」であり、「若い=独自のスタイルを徹底的に模索する時期である」と思いこんでいる人が多数いるためだ。(だが、実際には、自我は唯一無二のオリジナリティなど意味してはいない)
こうした「誤解」によって、「独自のスタイルは誰にとっても絶対に必要だ。だが、だからといって、簡単に見つかるわけではない。だから若さ=悩んで当たり前の年齢なのだ」などと、都合のいいように若さを解釈してきたのが、かつて近代化を迎えた若い国家に共通の特徴だった。
ゲーテが『ウェルテルの悩み』を書いたのが1774年で、有島武雄の『生れ出づる悩み』が1918年。両者の著作の間に「約140年の歳月の開き」があるわけだが、この「140年の差」は、そのまま、日本の近代化の黎明がヨーロッパから100数十年遅れてやってきたことを意味している。
ヨーロッパと日本に、アメリカも含め、近代化が社会に浸透して軌道にのり、時代が「若さを必要としなくなった」とき、若さを標榜し、徹底して悩み抜くことに意味があり、若さゆえの悩みにある種のカッコよさやオリジナリティがあると社会から思われる時代は終焉を迎えることになる。(もちろん「文学」が近代国家においてもっている意義もそこで終了する)
関連記事:2013年5月11日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(4) 「若さを必要としない時代」 | Damejima's HARDBALL)
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ここで、質問。
「自我って、どんな形?」
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ブログ主の答え。
「ちくわ」みたいな形。
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ここで、ブログ主からふたたび質問。
「ちくわの穴」って、内部? それとも外部? 必要?
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ブログ主の答え。
「内部」でもあり、「外部」でもある。
ドーナツの穴と似たようなもの。必要。
つまり、
人間の自我の構造は、いわば「ちくわ」である。
ちくわの穴のような自我の内部空間は、「内部」でもあると同時に「外部」でもあり、「外部」との連続性を有していて、「外部」とつながっている。
こうした「ちくわ」的な「柔軟だが自己を守るに十分な外壁と、外部に開放された内部」が確立されることで初めて、人というものははじめて安定し、この「安定」によって「自分の視点の位置」が定まり、「定点」からの安定した「観察」が開始されることによって、自己と他者の区別が容易につけられるようになり、他者とのつながりも常に認識できるようにもなる。
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だが実際には、実に多くの人が自我の構造を「缶詰」のようなものだと思い込んでしまっている。
つまり、自我とは「フタによって完全に密封され、外部と内部の間になんの流通もありえないような遮断された密閉空間」であり、そうした「内部と外部を厳密に区別できる密閉空間」を確立してはじめて、自己というものは「統一感」や「外部からの隔絶」を達成でき、自己と他者との区別も、オリジナリティも、萌芽することができる、などと、自分勝手に思いこんでしまう。
繰り返しになるが、
密閉空間を内部に抱え込むことこそ自我だ、という考え、
それは、単なる思い込みに過ぎない。
「外に出ていく場所のない、封鎖された空間」は、
「むやみに膨らみ続けていく風船」と同じだ。
ときとして「爆発」や「暴発」を生む。
そして、自己と他者の区別はなおざりになる。
「自我という内部空間は、封鎖された密閉空間として存在する、という誤解」は、多くの頑迷な思い込みを生じさせやすくする。
例えば、オリジナリティをもつことに対する異常なこだわりにしても、多くの場合は、むしろオリジナリティを築けなかった人(あるいは国家)や、他者のオリジナリティを存在として認める能力が皆無な人にこそ多い。
また、「自分の思い込みが、単なる思い込みであることに自分自身が気づくことへの恐怖」は、他者の失笑や嘲笑に対するアトピー的過敏さをひきおこしやすくする。
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クチをあけると、クチの中という「内部」は「外部」とつながる。クチは「外部を受け入れることができる場所」であり、そこから食物は、食道から胃、腸、といった「ちくわ」のような構造の「チューブ」(=消化器官)を経て消化され、最終物は膀胱や肛門や汗をかく器官からふたたび外部へと出ていく。
つまり、物理的な人体にも、自我の構造と同じように、「ちくわの穴」のような「内部ではあるけれど、同時に、外部でもあるような、チューブ状の内部空間」が存在している。物理的な人体も、自我の構造も、まったく似た形状として形成されているのである。
缶の中にいることが自我のあり方であり、缶の中に居続けなければならないという自己暗示のもとに、自己の絶対性を確定させるための追求を過剰に行い続けても、それは、自己を安定させるどころか、よりどころのない不安定さだけを生じさせることになる。
自我には、外部とつながった開放部があっていいこと、そして、外部とのリンクを無理に拒絶し、自分だけの閉鎖された密閉領域を確保することが自我の形成ではないこと、間違った自我イメージのために無理な努力をしなくてもいいのだ、ということを、もっとしっかり理解してもらいたいと切実に思う。
というのは、このことは、「他者と自分との区別のつかない人たち」がやたら登場してニュースになる壊れた世の中へむけての最も重要なメッセージのひとつだ、と思うからだ。