February 16, 2020
「死刑制度廃止ロジックのまやかし」に関する前の記事同様に、これも以前ツイートした話題だが、あらためてまとめ直して、備忘録として記事化しておいた。
(ちなみに、以下に述べる内容は、トマス・ロバート・マルサスの『人口論』と同じではない。論理のプロセス、時代背景、視野に入れている科学技術など、多くの要素が、マルサスとは異なっている)
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「貧富の差」というロジックは、社会批判によく使われるが、決定的な「盲点」がひとつある。
それは、あらゆる国家の成長において「生産量の飛躍的な増大は、人口の爆発的増加をもたらす」という「どこにでもある事実」を視野に入れていない、という点である。
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社会において「生産が量的に増加すると、人口が増えるという法則性」がみられることは、いいかえると
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まず、たとえ話をひとつ書く。
もし「人口はまったく増えないという前提で、生産量だけ3倍とか5倍になる」ならば、「ひとりあたり生産」はどうなるか。当然、3倍とか5倍になり、それが維持される、だろうか?
そういうことは「長期的にみれば」起きない。起きるわけがない。
それはなぜか。
たしかに生産の急激な増加は「ひとりあたりの生産」を急激に増加させる。だが、生産増加につられて起こる人口の増加はひとりあたり生産を下降させ、やがて変化は元の状態に押し戻されていく。
「人口がまったく増えないまま、生産量だけが劇的に増加する」などというような事態は、単なる机上の空論であり、長期的にみれば、そんな事態など起きない。
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たとえば日本の戦後の高度経済成長もそうだが、国家の経済がテイクオフ(離陸)する発展初期には、まず最初に、ひとりあたり所得が爆発的に伸びる時期が訪れる。
だがそれは「一時的な現象」で、生産があまりに爆発的な成長初期には人口増加がまだ追いつけないというだけの意味でしかない。やがて、高度経済成長期にベビーブームが起きたように、人口の爆発的増加が起きるから、事態はほどなく一変する。
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やがて社会は落ち着いてくる。
どうなるか。
人口増加が生産量増に追いつくようになると、生産の伸びは人口の急激な増加に吸収されてしまう。当然ながら、個人所得の急激な伸びもどこかで止まる。遅れて、人口の爆発的増加も止まり、社会は次の波が来るを待つことになる。
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生産の爆発と、その後の人口の爆発が終わった後、
どういう「世界」が待っているか。
人口プラミッドはさかさまに倒立した、歪(いびつ)な形になって、「数の少ない若い世代」が「あまりにもたくさんの老人の世話」に悩まされるという絶望的な事態がひき起こされる。
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世界のあらゆる例をみればわかることだが、こうした「生産と人口のサイクル」は「あらゆる国で自動的に起こる、わかりきったサイクル」だ。
それは「社会の歪み」などではない。むしろ「社会という集団のシステムにもともと備わっている、システム上の調整」で、どんな社会でも起こりうる。たとえ資本主義だろうが、社会主義だろうが、まったく関係ない。
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かつて2013年に、以下の記事群を書いた。
カテゴリー:『1958年の西海岸』 アメリカにおける放浪の消滅 │ Damejima's HARDBALL
これらの記事で指摘したかったことを短く言えば、社会には爆発的な成長期のあとに必ずやってくる「安定期」があり、そこでは若者にありがちな無軌道な跳躍や飛躍は必要とされない、ということだ。芸術面に限定していえば、成長期にもてはやされがちな自分探し小説だのなんだのは、もはや必要とされなくなる。
かつての記事では、サイモン&ガーファンクルの "America" という曲が、昔の日本の熱心なファンが思っていたような「若さ礼賛」などではまったくなく、むしろ逆で、「若さというエネルギー」をもはや必要としなくなった1960年代アメリカの非常に痛々しい現実を容赦なく指摘した曲であること、また日本でも、明治という激動のあとの時代が安定期を迎えると、「若さ」はまったく必要とされなくなり、若さになんの意味もなくなっていく時代にあって、石川啄木が『我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなった』と嘆いた例を引用して、当時の日本の若者が時代に置き去りにされる姿を指摘した。
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では「貧富の差」は、なぜ、どこに、生まれるか。
ここまでの記述で明らかなように、「有利な成長期に蓄財したベビーブーマー」と、「不利な安定期に生まれ育ってしまった若者」との間には明白な「資産格差」が生じる。
この格差は、共産主義者やリベラルがいうような意味での「資本主義ゆえの貧富の差」ではない。それは、たとえ資本主義だろうが社会主義だろうが、離陸した国家経済がやがて安定する段階で生じる世代間のタイムラグだ。
ただ、問題は資産格差だけにとどまらない。制度疲労を起こしているアホらしい古い社会のしくみが老人や外国人を甘やかすことで、格差はさらに助長される。安易で根本的に間違ったヒューマニズムが横行する過度の福祉社会では、少数である若者が多数である老人を養う異常さを放置する異常な仕組みが、いつまでたっても改善されないからである。
このタイムラグが発生することはあらかじめわかっていたが、その有効な対処はほとんど何もされなかった。高齢化社会なのだから老人は大事にされるべきだ、などと、間違った、上から目線の甘えた考えを抱いている人に限って、「社会を、若者を厚く扱う社会にあらかじめ変えておき、その後に高齢化を迎えることこそが、本来の高齢化社会の『迎撃方法』だった」にもかかわらず、「誰もそうしようとしなかった不手際」をまるで理解しないまま、老人になって、社会を飴玉のようにしゃぶりつくしているのである。
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こうしたことをきちんと把握し、理解させていかないと、わけのわからない社会批判に耳を貸す馬鹿な若者が増えて困ることになる。
実際、放浪という行為が意味を失い、サイモン&ガーファンクルの " America " が指摘したような若者を必要としないアメリカが出現した戦後のアメリカには、フラワーチルドレン、ドロップアウトなど、さまざまな「社会からの逸脱」が流行し、若者は無軌道な社会批判に熱を上げた。日本でも、明治の安定期以降、大正期などには、社会に置き去りにされた若者の一部が社会主義にかぶれるという困った現象があった。
若者の不満を利用したいだけの老人は、資本主義社会の矛盾だのなんだのと、あらんかぎりの大声で叫び、共産主義の宣伝と選挙戦術に使おうとする。そうした「若者を利用したいだけの老人」が、実はその裏で「国家の経済の成長にすがって甘い汁をすすってきた老人」でもあることを忘れてもらっては困る。
アメリカの大統領選挙が近づいているが、アメリカの若者が誤った選択をしないことを切に願う次第である。
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(ちなみに、以下に述べる内容は、トマス・ロバート・マルサスの『人口論』と同じではない。論理のプロセス、時代背景、視野に入れている科学技術など、多くの要素が、マルサスとは異なっている)
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「貧富の差」というロジックは、社会批判によく使われるが、決定的な「盲点」がひとつある。
それは、あらゆる国家の成長において「生産量の飛躍的な増大は、人口の爆発的増加をもたらす」という「どこにでもある事実」を視野に入れていない、という点である。
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社会において「生産が量的に増加すると、人口が増えるという法則性」がみられることは、いいかえると
「ひとりあたりでみると、生産というものは、長いスパンでみるなら、常に『一定量』にしかならない」ことになる。そのことの意味をまず以下に説明する。
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まず、たとえ話をひとつ書く。
もし「人口はまったく増えないという前提で、生産量だけ3倍とか5倍になる」ならば、「ひとりあたり生産」はどうなるか。当然、3倍とか5倍になり、それが維持される、だろうか?
そういうことは「長期的にみれば」起きない。起きるわけがない。
それはなぜか。
「生産増加にともなって、人口増加が自然発生的に起きる」からだ。
たしかに生産の急激な増加は「ひとりあたりの生産」を急激に増加させる。だが、生産増加につられて起こる人口の増加はひとりあたり生産を下降させ、やがて変化は元の状態に押し戻されていく。
「人口がまったく増えないまま、生産量だけが劇的に増加する」などというような事態は、単なる机上の空論であり、長期的にみれば、そんな事態など起きない。
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たとえば日本の戦後の高度経済成長もそうだが、国家の経済がテイクオフ(離陸)する発展初期には、まず最初に、ひとりあたり所得が爆発的に伸びる時期が訪れる。
だがそれは「一時的な現象」で、生産があまりに爆発的な成長初期には人口増加がまだ追いつけないというだけの意味でしかない。やがて、高度経済成長期にベビーブームが起きたように、人口の爆発的増加が起きるから、事態はほどなく一変する。
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やがて社会は落ち着いてくる。
どうなるか。
人口増加が生産量増に追いつくようになると、生産の伸びは人口の急激な増加に吸収されてしまう。当然ながら、個人所得の急激な伸びもどこかで止まる。遅れて、人口の爆発的増加も止まり、社会は次の波が来るを待つことになる。
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生産の爆発と、その後の人口の爆発が終わった後、
どういう「世界」が待っているか。
人口プラミッドはさかさまに倒立した、歪(いびつ)な形になって、「数の少ない若い世代」が「あまりにもたくさんの老人の世話」に悩まされるという絶望的な事態がひき起こされる。
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世界のあらゆる例をみればわかることだが、こうした「生産と人口のサイクル」は「あらゆる国で自動的に起こる、わかりきったサイクル」だ。
それは「社会の歪み」などではない。むしろ「社会という集団のシステムにもともと備わっている、システム上の調整」で、どんな社会でも起こりうる。たとえ資本主義だろうが、社会主義だろうが、まったく関係ない。
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かつて2013年に、以下の記事群を書いた。
カテゴリー:『1958年の西海岸』 アメリカにおける放浪の消滅 │ Damejima's HARDBALL
これらの記事で指摘したかったことを短く言えば、社会には爆発的な成長期のあとに必ずやってくる「安定期」があり、そこでは若者にありがちな無軌道な跳躍や飛躍は必要とされない、ということだ。芸術面に限定していえば、成長期にもてはやされがちな自分探し小説だのなんだのは、もはや必要とされなくなる。
かつての記事では、サイモン&ガーファンクルの "America" という曲が、昔の日本の熱心なファンが思っていたような「若さ礼賛」などではまったくなく、むしろ逆で、「若さというエネルギー」をもはや必要としなくなった1960年代アメリカの非常に痛々しい現実を容赦なく指摘した曲であること、また日本でも、明治という激動のあとの時代が安定期を迎えると、「若さ」はまったく必要とされなくなり、若さになんの意味もなくなっていく時代にあって、石川啄木が『我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなった』と嘆いた例を引用して、当時の日本の若者が時代に置き去りにされる姿を指摘した。
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では「貧富の差」は、なぜ、どこに、生まれるか。
ここまでの記述で明らかなように、「有利な成長期に蓄財したベビーブーマー」と、「不利な安定期に生まれ育ってしまった若者」との間には明白な「資産格差」が生じる。
この格差は、共産主義者やリベラルがいうような意味での「資本主義ゆえの貧富の差」ではない。それは、たとえ資本主義だろうが社会主義だろうが、離陸した国家経済がやがて安定する段階で生じる世代間のタイムラグだ。
ただ、問題は資産格差だけにとどまらない。制度疲労を起こしているアホらしい古い社会のしくみが老人や外国人を甘やかすことで、格差はさらに助長される。安易で根本的に間違ったヒューマニズムが横行する過度の福祉社会では、少数である若者が多数である老人を養う異常さを放置する異常な仕組みが、いつまでたっても改善されないからである。
このタイムラグが発生することはあらかじめわかっていたが、その有効な対処はほとんど何もされなかった。高齢化社会なのだから老人は大事にされるべきだ、などと、間違った、上から目線の甘えた考えを抱いている人に限って、「社会を、若者を厚く扱う社会にあらかじめ変えておき、その後に高齢化を迎えることこそが、本来の高齢化社会の『迎撃方法』だった」にもかかわらず、「誰もそうしようとしなかった不手際」をまるで理解しないまま、老人になって、社会を飴玉のようにしゃぶりつくしているのである。
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こうしたことをきちんと把握し、理解させていかないと、わけのわからない社会批判に耳を貸す馬鹿な若者が増えて困ることになる。
実際、放浪という行為が意味を失い、サイモン&ガーファンクルの " America " が指摘したような若者を必要としないアメリカが出現した戦後のアメリカには、フラワーチルドレン、ドロップアウトなど、さまざまな「社会からの逸脱」が流行し、若者は無軌道な社会批判に熱を上げた。日本でも、明治の安定期以降、大正期などには、社会に置き去りにされた若者の一部が社会主義にかぶれるという困った現象があった。
若者の不満を利用したいだけの老人は、資本主義社会の矛盾だのなんだのと、あらんかぎりの大声で叫び、共産主義の宣伝と選挙戦術に使おうとする。そうした「若者を利用したいだけの老人」が、実はその裏で「国家の経済の成長にすがって甘い汁をすすってきた老人」でもあることを忘れてもらっては困る。
アメリカの大統領選挙が近づいているが、アメリカの若者が誤った選択をしないことを切に願う次第である。
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貧富の差を問題にするなら、これまでどこの社会主義国、どこの共産主義国で貧富の差が解消したのか教えてもらいたいものだ。
— damejima (@damejima) 2019年11月3日
社会主義国の経済活動は、国家というラベルつきの巨大資本主義であることは明らかで、そこで貧富の差が解消するなどという「おとぎ話」は、20世紀に既に死んでいる。