February 15, 2020

2019年8月に「死刑廃止論ロジックがまやかしであること」を証明するツイートを書いた。140文字では書き足りなかった点を加え、備忘録としてブログにも残しておく。

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社会には「鉄則」がある。
「掟」といいかえてもいい。

集団に統率ルールが存在するのは、なにも人間社会だけと限らない。動物にも掟はある。だが、人間の場合、そのルールができる動機、モーメントは、生物学的な意味での本能とは必ずしも一致しない。むしろ、人間の社会の鉄則は、もっと別の、人為的あるいは歴史的な経緯の中で作られ、また、時代とともにそれは変化していく。

だが、だからといって、「鉄則に背く者が罰せられる」という「罰則」というルールが無くなることがあったか、といえば、そういうことは起こらない。

古来から罰則は存在した。
人間社会において、鉄則は常に罰則とともにある。

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さて、ここに
「人間には、その誰もにも生きる権利がある」という鉄則がある、とする。

では、
「重大な犯罪を犯した者にも、生きる権利があるから、その権利を奪う死刑制度は無くすべき」といえるだろうか。

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もうひとつ。
たとえば、ここに
「人間は、他の人間を殺してはならない」という鉄則がある、とする。

では、
「重大な犯罪を犯した者であっても、人間であり、社会がその人間を殺してはならない。だから死刑制度は無くすべき」といえるだろうか。

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いずれも答えは、
言うまでもなく、No
である。

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かつてツイートしたことを反復しておく。


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死刑廃止論のどこに「ロジックによる、ごまかし」があるか。

簡単である。
鉄則を罰則にまで適用しようとしているから
である。

もういちど書く。
その鉄則が、人を保護するものであれ、規制するものであれ、鉄則を破った人間は、適用の対象から除外され、罰則を受ける義務が生じる。理由は単純かつ明快だ。「その人間が、鉄則に背いたから」である。鉄則による保護が適用されるのは、「鉄則を遵守する、鉄則の対象者だけ」である。

罰則は、その鉄則の「『外部』に存在している」のであり、鉄則による制約を受けない。
罪を犯した者は「鉄則による保護」を外され、当然ながら「鉄則によって保護される権利を失う」のである。それが「罰」という「鉄則の外部の世界」だ。

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こんな単純なことがまだわからない人のために、
もうひとつ、「自由」を例に、たとえ話を書く。

鉄則「人間には、誰にでも自由がある」
罰則「刑務所に収監されると自由はなくなる」

ここで試しに、死刑廃止論と同じロジックをわざと使ってみよう。

人間には自由がある、だから、たとえそれが犯罪者であろうと、社会がその犯罪者を刑務所に収監して自由を奪うことは、断じて許されない。

さて。
この話はロジックとして正しいといえるか。

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答え

いえない」。

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いえるわけがない。
「人間には、誰にでも自由がある」という「鉄則」を盾に、社会が犯罪人を刑務所に収監するという「罰則」を人権侵害だなどと主張する根拠にすることなど、できるわけがない。

もういちど書いておこう。

鉄則を犯した者は、鉄則によって保護される権利を失って、罰則という「鉄則の外部」に追いやられる。つまり、罰則は、「鉄則による制約」を受けない。

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証明が終わった。あまりにあっけない。

あらためて言う。
「死刑」という罰則の制度は、「人を殺めてはならない」という、いわば平時の社会が維持している鉄則による制約を「受けない」のである。


考えれば子供でもわかることだが、要は、死刑に反対するロジック自体がもともと矛盾の固まりである。

そもそも「人を殺してはならないという基本ルールを犯し、他人を殺した人間が、殺されてはならない」と考えること自体、論理矛盾である。人を殺してはならないというルールに背いた者が、人を殺してはならないというルールの絶対性を盾に保護されるべきだ、などと、「矛盾した論理」を振り回すこと自体が異常である。

逆に考えても、矛盾は明確だ。もし、鉄則を犯した人間にふさわしい罰が適用されないなら、鉄則は鉄則でなくなる。ならば、人間社会の鉄則そのものが存在しなくなり、殺人者が死刑になるのを阻止するロジック自体の存立根拠が消えてなくなる。

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死刑廃止論のこうしたまやかしのロジックは、クジラ漁批判や、ヴィーガン的な肉食の拒絶などと、どこかで通底している。それはある種の「度を越した潔癖症」であり、一歩すすめば強迫性障害のようなものであると自分は考える。


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