January 2011

January 28, 2011

以下、説明したいのは、今年のHutch Award受賞者アトランタ・ブレーブスのティム・ハドソンが、なんでまた、わざわざシアトルの子供たちのもとを訪れたのか、その理由や歴史をきちんと知っておいてほしい、と思ったからだ。

話が異様に長い。このブログはいつも長いが(笑)
申し訳ない。

Mariners | Atlanta pitcher Tim Hudson accepts Hutch Award | Seattle Times Newspaper
The Hot Stone League | Hutch Award winner Tim Hudson remembers Mariner glory days | Seattle Times Newspaper


それと、ブログ主からHutch Schoolの子供たちにひとつ、説明しておきたいと思うことがある。
フレッド・ハッチンソン・ガン研究センター内にあるHutch Schoolの子供たちの何人かは、地元の野球チームであるマリナーズの選手の活躍を心の糧に日々の過ごしているかもしれない。
そんな彼らの日常を支えているベースボールについて、先日このブログをやっているいい年のオトナは、ちょっと暗めの気分で記事を書いた。そういうオトナから、子供たちに説明をしておきたいと思うのである。
君たちの大事なものをけなすつもりで書いたのではない。大事なものであっても、キツいことを言わなければならないときもある。わかってほしい。

結局、勇気を与えてくれるのは、いつも偉そうにしているクセに、人に暴力をふるったり、自転車で家に逃げ帰ったりする心の弱い野球選手や、つまらない文章をブログに書いた挙句に自分で落ちたりして、右往左往してばかりいるオトナの僕らではなくて、野球に目を輝かせる子供たちのほうだ、と思う。きっと。
頑張らなくちゃ、申し訳ない。


Sicks' Stadiumシックズ・スタジアム

シアトルを代表する地ビールのひとつ、レイニア・ビールのオーナー、エミル・シック(Emil Sick)は、20世紀初めにマイナーのパシフィック・コースト・リーグに所属するシアトル・インディアンスを買収して、球団名を「シアトル・レイニアーズ」(Seattle Rainiers)に変更した。シックは1938年には新球場を開場し、シックズ・スタジアム(Sick's Stadium)と名づけた。「シアトル・レイニアーズ」は消滅する68年まで、そのシックズ・スタジアムを本拠地として使い続けた。「レイニアーズ」という名称は、いまの3Aタコマ・レイニアーズに受け継がれた。

Sick、という英単語にはもちろん、「病気」という意味もあるわけだが、このことは後世、不思議なドラマを生むことになる。
Seattle Rainiers - Wikipedia, the free encyclopedia
SICKS
Mount RainierMount Rainier
シアトルの南東54マイル(87キロ)にあり、標高4,392m。富士山より500m高い。
Mount Rainier - Wikipedia, the free encyclopedia



フレッド・ハッチンソンは、1919年にシアトルで生まれた右腕投手である。彼は地元のワシントン大学を経て、当時シアトルにシックズ・スタジアムが新設されたばかりの1938年に、シアトル・レイニアーズに入団した。彼は地元のレイニアーズでいきなり25勝を挙げ、スポーティング・ニューズの選ぶマイナー最優秀選手に選ばれた。

フレッド・ハッチンソン

フレッドは翌1939年に、故郷のシアトルではなく、デトロイトのタイガースでメジャーデビューする。まるでシアトル生まれのティム・リンスカムのように、地元シアトルで活躍するために生まれてきたような生い立ちの男だが、当時シアトルにはメジャーの球団が無かったのだ。こればかりはしかたがない。
彼はデトロイトでの在籍11シーズンで引退して、通算防御率3.73、95勝71敗と、かなりの好成績を挙げたが、途中21歳から25歳までの若い時期に、5年間のキャリアが存在していない。これはもちろん、第二次大戦による中断という不運があったからだ。もし不幸な戦争がなければ、フレッドはどんな成績を残しただろう。
Fred Hutchinson Statistics and History - Baseball-Reference.com
Fred Hutchinson - Wikipedia, the free encyclopedia

フレッド・ハッチンソンは、53年にデトロイトで現役引退したが、引退前年の52年には既にプレーイング・マネージャーとして監督を兼任しており、引退後はそのままデトロイトの監督になった。その後、セントルイス、シンシナティの監督を歴任し、セントルイスで監督をしていた57年に最優秀監督賞を受賞、61年にはシンシナティでワールドシリーズ出場も果たした。(例のピート・ローズがデビューしたのは、このハッチンソン監督時代のシンシナティである。ローズは第4回のハッチ賞受賞者でもあるが、この際ハッキリ言っておく。野球賭博に関係したピート・ローズはハッチ賞の名誉にふさわしくない
監督としても順風のキャリアを積んだフレッドだが、不幸なことに、彼は肺ガンから1964年に45歳の若さで急逝した。
翌1965年メジャーリーグは、フレッドの早すぎる死を悼んで、ファイティング・スピリッツ旺盛な選手に与えられるハッチ賞(Hutch Award)を創設した。第1回の受賞者は、61年のワールドシリーズでフレッドのシンシナティを破ったヤンキースの主砲、ミッキー・マントルだった。
Hutch Award - Wikipedia, the free encyclopedia



フレッド・ハッチンソンの兄ウィリアム・ハッチンソンは、1909年生まれの医師だ。どことなくロバート・デ・ニーロに似た渋い風貌である。
日本ではあまり知られていないが、ウィリアムは優れた医師であるとともに、ベースボールプレーヤーでもあった。その素質はプロとしてもやっていけないことはないレベルで、医師になるか野球選手になるか迷うほどだったらしい。
ウィリアムは、1950年代後半に、かつて弟フレッドが所属していたシアトル・レイニアーズのチームドクターをつとめており、野球と医学を横断する非常に個性的な人生を送った。

ウィリアム・ハッチンソン

ウィリアムは、弟フレッドの死の10年前の1956年に、連邦政府の援助をとりつけて、ガンや心臓手術の医療研究財団the Pacific Northwest Research Foundationを設立していたが、65年にMLBが弟フレッドの早すぎる45歳の逝去を悼んでHutch Awardを創設したのに呼応するように、75年に連邦の援助や民間の寄付、ヤンキースの人気スター選手ジョー・ディマジオなどの協力を得て「フレッド・ハッチンソンガン研究センター Fred Hutchinson Cancer Research Center」を創立した。開所式にはセンター創設に尽力した功労者ジョー・ディマジオも出席した。
ウィリアムは1997年10月26日に亡くなったが、この日はなんと97年のワールドシリーズ(クリーブランド・インディアンズ対フロリダ・マーリンズ)の最終ゲームが行われ、マーリンズが優勝を決めた日で、医学者ウィリアム・ハッチンソンと野球との不思議な深い縁を、当時の地元シアトル・タイムズが記事にしている。
HistoryLink.org- the Free Online Encyclopedia of Washington State History


ウィリアム・ハッチンソンが弟フレッドにちなんで設立したフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターFred Hutchinson Cancer Research Center)は、シアトルにあって、白血病治療の骨髄移植(bone marrow transplantation)などで世界的に有名な医学研究所のひとつに発展し、ノーベル賞科学者を含め数多くの才能がシアトルに集まることになった。
元ビートルズのドラマー、リンゴ・スターの最初の妻で、離婚後にハードロックカフェのオーナーと再婚したモーリン・コックスが94年に白血病治療の最中に亡くなったのも、このセンターである。モーリンがこのセンターに来たのも、息子のザックからこのセンターの得意とする骨髄の移植手術を受けるためだった。
現在のフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターでは、2000数百名のスタッフが稼動しているという。1997年に創設者ウィリアム・ハッチンソンが高いしてからは、2001年に出芽酵母を用いた細胞周期の遺伝学的解析でノーベル医学・生理学賞を受賞したリーランド・ハートウェル博士がこのセンターの所長をつとめている。
Fred Hutchinson Cancer Research Center - Wikipedia, the free encyclopedia
リーランド・ハートウェル - Wikipedia


2004年にノーベル医学・生理学賞を受賞したリンダ・バック博士は、第二次大戦が終わってMLBが再開された46年の翌年、1947年にシアトルで生まれた。

リンダ・バック

博士がワシントン大学で心理学と微生物学の理学士号を取得したのは、フレッド・ハッチンソン・ガン研究センターが創設された、ちょうどその1975年である。
才能に溢れた彼女は、その後の素晴らしい業績によってハーバード大学終身教授にまでなったが、2002年に故郷シアトルのフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターに籍を移して、2004年のノーベル賞を、シアトルの学者として受賞した。リンダ・バックは、センターで基礎医学を研究するとともに、母校ワシントン大学の生理学、生物物理学教授もつとめている。故郷とはいえ、ハーバードのノーベル賞学者がわざわざリターンしてくるのだから、いかにこの研究所の権威が高いかがわかる。
リンダの専門分野は、嗅覚や味覚といった感覚の研究だが、嗅覚細胞の受容体を説明するのに、彼女は「キャッチャーミット」と、野球的な表現をすることがあるらしい。また彼女は、味覚を5種類に分類するが、その5つは、辛い(bitter)、甘い(sweet)、塩辛い(salty)、すっぱい(sour)、うまみ(Umami)で、日本語の「うまみ(Umami)」を日本語の発音のまま、固有名詞として使用しているようだ。
Linda B. Buck - Wikipedia, the free encyclopedia
リンダ・バック博士にノーベル賞-フェロモンと寿命の関わりを描く--健康情報



ボストン・レッドソックスの左腕ジョン・レスターは、1984年にシアトル・マリナーズのマイナー、タコマ・レイニアーズのあるシアトル近郊のワシントン州タコマで生まれた。
レスターはメジャーデビューした2006年に、血液のガンである「悪性リンパ腫」の一種を患ったことは日本のMLBファンの間でも知らない人はいない話だが、彼のガンが判明したのは、2006年6月下旬に故郷シアトルに遠征している最中のことだったらしい。
彼は2006年冬までに化学療法を受けて病気に打ち勝つのだが、その化学療法を受けた場所というのが、彼の故郷シアトルのフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターなのである。
彼は2007年のシーズン途中、7月に復帰を果たす。このシーズンこそ4勝に終わったが、翌2008シーズンに16勝6敗を挙げ、ノーヒット・ノーランも達成した。
この2008年のハッチ賞受賞者となったのが、フレッド・ハッチンソン・ガン研究センターでの治療で復活を遂げたジョン・レスターであり、彼は受賞にあたって、センター付属のHutch Schoolを訪問している。ちなみに彼をエスコートしてスピーチを行ったのは、ホール・オブ・フェイマー、トム・シーバーである。大病を体験した後だけに、受賞のときのレスターのコメントは何度も読める感慨深いものになっている。
Larry Stone | Jon Lester wins Hutch Award | Seattle Times Newspaper
Jon Lester wins 2008 Hutch Award - USATODAY.com
Lester will visit children at the Hutchinson Center's Hutch School and receive his award at the annual Hutch Award Luncheon on Jan. 21 at Safeco Field in Seattle. Hall of Fame pitcher Tom Seaver will be the keynote speaker.(中略)
He's received chemotherapy treatments at the Fred Hutchinson Center during the winter for the rare form of the disease, and doctors there declared him cancer free before the 2007 season.


そう。
Hutch賞を受賞したプレーヤーが、殿堂入り選手にエスコートされる形でフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターにあるHutch Schoolを訪問することは、MLBとシアトルの、そして野球と医学の、長い歴史の上に成り立ったイベントなのである。

2010年のHutch賞を受賞したのは、アトランタの右腕ティム・ハドソン。彼をシアトルでエスコートした殿堂入り選手は、ジョー・モーガンであった。ティムはこの受賞によるシアトル訪問で、彼がオークランドに在籍していた時代に対戦したシアトルにまつわる思い出話をしているのだが、これがなかなか面白い。
彼は、いままでシアトルで経験した中で最も印象に残るゲームとして2000年、2001年のシアトルを挙げ、当時のシアトルのファンがいかに盛り上がっていたかを楽しげに語っている。

なんせ、2001年4月2日イチローの記念すべきメジャーデビューのゲームで、イチローが最初の最初に対戦したピッチャーというのが、このティム・ハドソンなのである(結果はセカンドゴロ)。そして、ティム・ハドソンはメジャーで10年を過ごしたイチローがメジャーで最も打てていない、打率の低い投手でもある。(だいたい2割1分台の打率のはず)
The Hot Stone League | Hutch Award winner Tim Hudson remembers Mariner glory days | Seattle Times Newspaper
Hudson said he's proud of the fact that he was the first pitcher to face Ichiro in the major leagues, on Opening Day of the 2001 season at Safeco Field. In his major-league debut, Ichiro grounded out to second base against Hudson.


たしかに長すぎる話だ。
だが、話が長いのには理由があることがわかってもらえただろうか。書いていて、Hutch賞にまつわる人々の「縁(えにし)」というものは、尋常じゃないものがあるとしか思えない。


この長い長い時間の流れをどう感じるかは読む人の勝手だが、間違ってほしくないことが、ひとつだけある。

Hutch賞を受賞した選手がHutch Schoolを訪問するのは、それが受賞の「おまけ」だから、ではない、ということ。まして、有名人だからかわいそうな人を慰問するとか、そういうたぐいのものでは、絶対にない。

そうじゃない。
Hutch賞はそもそも、その成り立ちからして、単なる野球の賞ではない。
フレッドとウィリアム、野球好きのハッチンソン兄弟の物語に始まって、ガンと闘うフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターでの現代医学の発展と常に深い関係にあり、病気という人生の上で乗り越えなければならないハードルに立ち向かう患者と医師、そして野球というスポーツ、シアトルという場所、ぞれぞれのアクロバティックとさえ言える不可思議な結びつきとともに、この賞は創設され、発展を続けてきた。

シアトル生まれのフレッド・ハッチンソンは地元シアトルでメジャーデビューすることはなかった。60年代末になるまでシアトルにメジャー球団がなかったからだ。
シアトルにメジャー球団を持つことは悲願と言われ続けていたが、長年にわたって実現しなかった理由は、シックズ・スタジアムの設備の脆弱さのせいだといわれている。
だが、そのシックズ・スタジアムが世に送り出した選手のおかげで、シアトルには医学界の超メジャー施設といえるフレッド・ハッチンソン・ガン研究センターができ、そういう有力な研究所がシアトルにあるおかげで、シアトル生まれのノーベル賞学者リンダ・バック博士は医学者として故郷に戻ってくることができた。

本当に、人生に何が起きるかなんて、わからない。
人生に偶然なんてない、と、よく言うが、たしかにそれは本当かもしれないと思わせてくれるのが、Hutch賞の長い長い物語である。






January 23, 2011

書いていたら、だいぶ嫌になってきた。事実関係で間違っている部分があるかもしれないが、2010シーズン、どれだけ酷い事件ばかり続いたかを羅列していたら気分が悪くなってきたので、もうやめる。
GMズレンシックの先導した守備偏重のチーム編成の大破綻を筆頭に、ショーン・フィギンズと元監督ワカマツの試合中のベンチでの言い争いと乱闘。エリック・バーンズの自転車帰宅事件。ケン・グリフィー・ジュニアの居眠り報道事件と、後味の悪い引退劇。ミルトン・ブラッドリーの無断帰宅にロサンゼルスでの逮捕。そして、自宅の風呂場でコケて骨折するジャック・ウィルソン。

およそ、どうみても、
「まともに機能できている組織体」とは言えない。

こうした事態が、現場の統率者であるジェネラル・マネージャー、GMの責任でないとしたら、誰の責任だろう。教えてもらいたいものだ。


ファースト

マイク・スウィニー

2009年1月に、GMズレンシックがオークランドから獲得。例のマリアーノ・リベラからイチローがサヨナラ2ランを打ったゲームで、リベラから値千金のツーベースを打ってイチローに繋いだように、間違いなく頼れる男。ただひとつだけ残念なことに腰痛の持病があり、たびたび試合を休んだ。好きな選手なので言いたくないが、2010シーズンは、スウィニーとグリフィー、DH要員がロスターに常に2人存在するという無駄な状態が続いた影響で、中継ぎ投手のロスター枠がひとつ足りなくてブルペン投手が苦しんだ、というのはまぎれもない事実として書き留めておく。
2010シーズン途中にフィラデルフィアへ移籍。幸福なポストシーズンを初体験できたのは、なによりだ。
ケイシー・コッチマン
2010年1月に、GMズレンシックが、ビル・ホール他1名との交換で、レッドソックスから獲得。このコッチマン、2010シーズンに125試合も出場させてもらったわけだが、打率.217、OBP.280、長打率.336、OPS.616という惨憺たる打撃成績。逆にいえば、チームは、これだけ酷い打撃成績を放置して、コッチマンをずっとゲームに出場させ続けたわけであり、2008シーズンに打率2割に終わった城島がゲームに出続けた無意味さとそっくり。シーズン終了後コッチマンを放り出したわけだが、もっと早く処分すべきだった。ちなみに、放出後のビル・ホールは、ボストンで119試合に出場し、.打率247、OBP.316、.SLG456、OPS.772。
ちなみに、彼を守備の名手だという人が多い。だが、ブログ主はまるでそう思わない。コッチマンは、前に来たゴロはともかく、横のゴロはあえて手を出さない。というのは、ポジションを常にライン際にとっているから。これでは1、2塁間のゴロの大半がライトに抜けてしまう。だからエラーにならない。それだけのことだと思っている。
彼は、投手の配球がインコースだろうがアウトコースだろうが、バッターがどんなタイプだろうが、打球の条件の変化も考慮せず、いつもライン際にポジションをとる。だから1、2塁間の当たりがキレイにライト前に抜け、あたかもクリーンヒットに見えてしまう。
ヤンキースの守備のうまい1塁手テシェイラと比べればわかる。テシェイラが1、2塁間のゴロを飛びついて捕るとき、補球位置はびっくりするほどセカンド側に寄っている。最初から多少はライト線から離れて守らないと、こうはいかない。彼のポジショニングの大胆さがなせる技である。ライト線に抜けるゴロも、テシェイラは飛びついて捕ることができる。
ラッセル・ブラニヤン
2010年6月に、ケン・グリフィー・ジュニア引退と腰痛持ちのマイク・スウィニーの欠ける主軸打者の穴を補う形で、GMズレンシックがクリーブランドから、マイナー有力選手2人(エスケル・カレラ、フアン・ディアス)との交換によって獲得。
ブラニヤンは34歳の腰痛持ちであり、この出戻りトレードは、腰痛持ちのスウィニーのフォローのために腰痛持ちのブラニヤンを獲得したという、おかしなもの。
この1塁手をダブつかせたトレードでシアトルが放出したマイナー選手はいずれも有望選手だった。ひとりは、AAウェスト・テネシーのチームMVPに選ばれ、サザン・リーグのオールスターに選出されたことのあるエスケル・カレラ(23歳)。もうひとりが、昨年カリフォルニア・リーグのオールスターに選出された遊撃手フアン・ディアス(21歳)。
2010年シーズン後、シアトルはラッセル・ブラニヤンとは契約せず、FAにした。マイナーの有望な2選手を失ってまで強行したトレードの結果がこれでは、シアトルのマイナーがスカスカになるばかりだ。
ジャスティン・スモーク
ただでさえ一塁手がダブついていた2010年7月に、GMズレンシックがクリフ・リーと交換にテキサスから獲得した一塁手。その後のクリフ・リーはその後ワールド・シリーズの第1戦先発になるなど、チームの看板になったが、スモークはシアトルに来た当初、大振りばかり目立って空振り三振が多く、打撃不振からマイナー落ちしている。シーズン終盤に復帰するが、2011年以降の先行きは誰にもわからない。いちおうスイッチヒッターということになっているが、左投手との対戦ではほとんど期待できない。


セカンド

ホセ・ロペス

いうまでもなく、近年ずっとシアトルのセカンドを守ってくれた貴重な生え抜きプレーヤー。2010年のショーン・フィギンズ獲得でサードにコンバートされた。サードでもなかなかシュアな守備をみせたが、2010シーズンオフに、ついにコロラド・ロッキーズへ放出されてしまう。
打撃面では「ロペスに不運もあった」と、彼を弁護したくなる。
ケン・グリフィー・ジュニアのシーズン途中の突然の引退や、マイク・スウィニーの腰痛による欠場などから、シアトルに頼れる主軸打者がいない非常事態となったため、ホセ・ロペスは、彼にはまだ荷の重すぎる4番を打たされ続け、その重圧から打撃成績が低迷し続けた、とも思うからだ。(おまけに彼は右打者だ)
四球が少ないのは彼のもともとある欠点だが、長打力は、あのジョー・マウアーに比肩するものがあることは一度書いた。彼はホームスタジアムの狭いチームに行って、のびのび打てる打順で使ってもらえれば、打撃成績向上をみるはず。
ショーン・フィギンズ
そもそも、フィギンズはエンゼルスで主にサードを守ったプレーヤーだ。GMズレンシックは、そのタイプAの三塁手を、4年3600万ドルの大金と、18位のドラフト指名権を同地区のライバルに明け渡してまで獲得し、さらにはホセ・ロペスをサードにコンバートまでして、「フィギンズ、2番、セカンド」にこだわった起用を続けた。
だが、彼のセカンド守備はイマイチどころではなかった。大事なところでダブルプレーのミスなど、エラーは多いし、ポップフライを深追いしすぎる。
加えて、いちおう「スイッチヒッター」ということになっているフィギンズの左打席はほとんど使い物にならない。これは、スイッチヒッターといいながら左投手がまるで打てないスモークも同じ。
2010年7月23日、レッドソックスのキャメロンが左越え二塁打を打ち、レフトのソーンダースの二塁返球が本塁寄りにそれた時に、二塁手フィギンスがこれを漫然と見送ったことについて、当時の監督ワカマツが激怒し、その後フィギンスに代打を送った。両者は口論からベンチ内で大がかりなもみ合いとなり、それがテレビ放映される異常事態に発展。
この一件の後、フィギンズはチームに対して申し開きも、謝罪もしていないの。また、チームもフィギンズを処分しなかった。
ブレンダン・ライアン
2010年シーズンオフに、GMズレンシックがセントルイスから獲得した内野手。セカンド、サードも守れるらしいが、本来はショート。守備の名手としてショートではMLBでトップクラスの評価がある。
ただ、これだけ守備に定評のあるショートストップなのに、元三塁手のフィギンズをセカンドから本来のサードに戻してやるために、本来ショートのブレンダン・ライアンをセカンドで使うのだという。だとしたら、なんのための獲得か、よくわからない。
だが問題はそれだけではない。ライアンの打撃である。2010年は139試合出場で、打率.223、2本塁打、36打点と、2010年のケイシー・コッチマン並の酷い打撃実績しかない。さらには、セーフコでは鬼門とわかりきっている右打者でもある。
2010シーズンにあれだけ「守備偏重コンセプトのチーム編成」が大破綻をきたしたというのに、またしても、その破綻したコンセプトそのままの「守備専用プレーヤー」をまたもや獲得してきてしまうのだから、ズレンシックの迷走ぶりもちょっと開いたクチがふさがらない。
アダム・ケネディ
2010年冬にGMズレンシックが獲得してきた堅守の二塁手。ブレンダン・ライアンの本職はショートであり、本来はこのアダム・ケネディが本職の二塁手。ケネディはサード経験も90試合ほどあるものの、そんな試合数ではたかがしれている。
たしか2009年くらいに、いちどだけアダム・ケネディについての記事を書いて、「こういう野球を知っている選手こそ欲しい」とかなんとか書いた記憶があるが、あれからもう随分と時間がたってしまった。彼ももう35歳。引退が見えてきている。
2010年にファーストの選手をダブつかせたズレンシックだが、2010年の冬にまたもや、やたらと守備系の内野手を貯め込んでいるために、またしても内野手がダブりだしている。本職でいえば、サードはフィギンズ、ショートはブレンダン・ライアン、セカンドがアダム・ケネディなわけだが、もちろんショートには、かつてGMズレンシック自身の肝いりで獲得してきて失敗した高給取りの高齢スペランカー、ジャック・ウィルソンがいる。
と、なると、まだ今年3月に29歳になるブレンダン・ライアンに本職でないセカンドをやらせて、35歳のアダム・ケネディにセカンドの控えとユーティリティでもやらせるつもりなのだろうか。そしてトミージョン手術経験のある二塁手(または一塁手)ダスティン・アックリーをどう処遇するのか、という問題もある。
と、いっているそばから、アダム・ケネディは、2010年1月27日カリフォルニア州で飲酒運転で逮捕。やれやれ・・・。


サード

エイドリアン・ベルトレ

シアトルとの2005年からの5年契約が切れた2009年シーズン後にボストンと900万ドルで単年契約。東海岸移籍後のベルトレは、打率.321、28本塁打、102打点の驚異的な打撃成績を残した。2011年以降は、その成績をひっさげ、こんどはテキサス・レンジャーズと6年9600万ドルで契約した。
シアトルとは関係ない話だが、三塁手ベルトレのテキサス加入で、ブログ主の好きな選手のひとりであるマイケル・ヤングがサードベースマンから、DHにコンバートされるらしく、非常に残念に思う。マイケル・ヤングはたぶん2000年のメジャーデビュー以来、ずっとプレーしてきたテキサスというチームに深い愛着があるだろうし、コンバートが嫌だから移籍させてくれとは言わないだろう。だからこそ、このコンバート、かえってややこしい。
ホセ・ロペス
2009年シーズン後のショーン・フィギンズ獲得に際して、セカンドからサードへコンバートされ、それまでのセカンド守備でみせたようなポカの多発も心配されたが、予想に反してサード守備ではシュアなプレーぶりをみせた。
上でも書いたが、もしチームが頼れる主軸打者をきちんと補強してくれていたら、ロペスにはまだ荷の重すぎる4番を打たされ続けるようなこともなかったはずだ。2010年シーズンの主軸打者不在を、ロペスだけに責任を押し付けるのは、チームとしては正しくない。主軸打者をきちんと用意するのはGMの仕事である。
2010年オフに、GMズレンシックはホセ・ロペスをコロラド・ロッキーズへ放出してしまったが、マウアーとの比較で書いたように、ロペスには持ち前の長打力があり、おそらく狭い球場では意外なほどの打撃成績向上を見るはず。


ショート

ユニスキー・ベタンコート

キューバ出身のベタンコートは、ラテンの気質、とでもいうのだろうか、欠点もあるが長所もある、そんなプレーヤーだった。守備のポカや、打撃での併殺打の多さ、早打ちなど、プレーの質の粗さを指摘され続けた反面で、9番打者として1番イチローに繋ぐバッティングでチームに貢献するなど、セーフコでは活躍しにくい右打者として、十分な打撃成績を残した。
GMズレンシックは、その愛すべき悪童ベタンコートを2009年7月に、マイナーリーガー2人との交換でカンザスシティに放出。移籍後のベタンコートは2010年カンザスシティでチーム最多となる16本塁打・78打点を記録。2011年はサイ・ヤング賞投手ザック・グレインキーとともに、ミルウォーキーへ移籍することが決まっている。
ちなみに、かつてショートだったアダム・ジョーンズが外野手に転向したのは、ベタンコートを獲得したため。アダム・ジョーンズはその後センターとしてゴールドグラブ賞を受賞したのだから、人生はわからないものだ。
ロニー・セデーニョ
2009年1月28日、GMズレンシックがシガゴ・カブスからアーロン・ハイルマンとのトレードで、ギャレット・オルソンとともに獲得した遊撃手。だが、そのわずか半年後、2009年7月末、GMズレンシックはこのセデーニョを、さらにジャック・ウィルソン、イアン・スネルとの交換のためにピッツバーグに放出している。放出されたのは、セデーニョ、ジェフ・クレメント、アーロン・プリバニック、ブレット・ローリン、ネイサン・アドコック。パイレーツ移籍後の2010年のセデーニョは、139試合に出場し、打率.256、OBP.293、SLG.382、OPS.675。二塁打29本は、キャリア・ハイである。
その一方、パイレーツから獲得した2人の選手、イアン・スネルは2010年6月に戦力外通告、ジャック・ウィルソンは怪我だらけと、ほとんど使い物にならなかった。
ジャック・ウィルソン
2009年7月末に、GMズレンシックが、セデーニョ、クレメント、アーロン・プリバニック、ブレット・ローリン、ネイサン・アドコックとの交換で、イアン・スネルとともに獲得。
2010年8月に、自宅バスルームで転倒し、右手中手指を骨折。この骨折以外にもスペランカーとして知られ、シアトルに来て以降、いまだにシーズン通じてまともにプレーできた試しがない。守備の名手と言われることも多いが、実際のところ、平凡な守備ミス、ポカもけして少なくない。
ジョシュ・ウィルソン
ほとんどシーズン通しての出場こそできないが、ジャック・ウィルソンの穴を埋めてきた苦労人。また2010シーズンには、マイク・スウィニーの穴を埋めるために、1塁手すらやらされたこともある。
シアトルで長期にわたって起用された経験がほとんどない。一時的に起用されて調子が上向く頃にはベンチ要員に戻る、このパターンを繰り返されているうちに、守備でミスし、打撃も低迷という悪循環に陥ることが多いのが非常にもったいない。


レフト

エリック・バーンズ

GMズレンシックがアリゾナから獲得。2010年4月、延長11回1死満塁のサヨナラの場面で、ベンチのスクイズのサインに従わず、一度出したバットを引いて見逃して、サヨナラ勝ちの絶好機をつぶした。この大失態についてバーンズは、監督ワカマツに何の釈明もせず、それどころか、自転車で自宅に逃げ帰り、5月2日に解雇処分。その後、意味不明な行動のまま、引退し、なんとソフトボール選手になった。
ケン・グリフィー・ジュニア
2009年にGMズレンシックが古巣シアトルに復帰させて、ファンの喝采を受けたが、その栄光ある印象を残したまま引退させることをせずに、翌2010年にもプレーさせ続けたことで、最悪の結果を招いた。
2010年は年齢からくる衰えにより、打撃成績が極端に低迷。さらには「試合中に居眠りしていた」との報道から球団との間でトラブルとなり、グリフィーはそのまま2010年6月2日に現役引退。ファンが楽しみにしていたはずの引退関連行事も本人不参加などで、まともに行えず、22年間にわたる輝かしいMLBキャリアの晩節を汚す残念な結果になった。
ミルトン・ブラッドリー
GMズレンシックがカルロス・シルバとのトレードで、シカゴ・カブスから獲得。数々の問題行動で有名だった選手だが、2010年5月、試合途中に無断帰宅し、メンタルな問題からそのまま休養。2010シーズンの成績は、打率.205、ホームラン8本、出塁率.292、SLG.348、OPS.640と、お話にならない。また2010年オフには、シーズン中における女性に対する脅迫容疑で、ロサンゼルス市警に逮捕された。2011年にプレーできるのかどうかすら不明。
Report: Seattle Mariners' Milton Bradley arrested for alleged threats - ESPN
マイケル・ソーンダース
シアトル期待の生え抜きの真面目なカナダ人プレーヤー。インコース低めの変化球に弱いという弱点が判明しているものの、エリック・バーンズの解雇や、まともに出場し続けられないミルトン・ブラッドリーのメンタル問題などが、かえって効を奏して、ソーンダースに左翼手として連続して出場する機会が回ってきて、2010年は100試合に出場できた。出場を続けるうちに、苦手な低めの変化球にわずかに改善が見られはじめている。2011年の飛躍が期待されている。


キャッチャー

ロブ・ジョンソン

くだらない城島問題の処理にチーム全体が揺れ、主力先発投手3人が城島とのバッテリーを拒絶した2009年シーズンを支えた功績から、2010年開幕キャッチャーに選ばれたが、2010年チーム低迷の責任を押し付けられる形でシーズン途中にマイナー送りに。シーズンオフに、サンディエゴ・パドレスと契約。
アダム・ムーア
ひとことで言って、まるで使い物にならない。だがシアトルの3Aタコマのコーチ、ロジャー・ハンセンの強力な後ろ盾があり、いつのまにかスタメン捕手に居座った。ロジャー・ハンセンは、ワカマツなど監督コーチが不振の責任から退任させられた後、シーズン終了までの繋ぎの意味でメジャーのコーチに昇格させただけでしかない臨時のベンチコーチ。
リンク:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年9月14日、過去に城島擁護者だったベンチコーチ、ロジャー・ハンセンが現在も続けている無意味な捕手トレーニング手法。マイナーコーチ時代から続けてきた「手抜きのスパルタ方式」でプロスペクトを壊し続けてきた責任を徹底批判する。
惨憺たる打撃成績、たび重なるパスボールやエラーにもかかわらず、アダム・ムーアは2011年もどうやら25人ロスターの捕手とみられる。
ジョシュ・バード
2010年はロブ・ジョンソンやアダム・ムーアの穴を埋める役割を務めた。2011年もマイナー契約かなにかで残留する模様だが、チームがミゲル・オリーボと2年契約したことから、2011年も第3の捕手扱いとみられる。
エリエセル・アルフォンゾ
2008年5月に薬物で50試合の出場停止処分になった捕手。2010年6月、シアトルに来てわずか3ヶ月でDFAになった。たぶん、この選手がシアトルにいたことすら思い出さないだろう。
ミゲル・オリーボ
バベシ時代の2005年7月末、ミゲル・オリーボは、守備面の問題などを理由にサンディエゴに一度放出されている。移籍後のオリーボは、規定打席未満ではあったが、本塁打16本・打点58をたたき出し、打撃面での貢献をみせた。
オリーボ放出と同時にシアトルは、オリーボの代役キャッチャーとして、ランディ・ウィンとの交換で、セントルイスからヨービット・トレアルバを獲得したが、シアトルはそのトレアルバをすぐに放り出して日本から城島を獲得。2006年以降ずっと「城島問題」はチーム全体を右往左往させる大事件になる。
シアトルを短期間で放り出されたヨービット・トレアルバは、コロラドに移籍、2007年には自己最多の113試合に出場して、ワールドシリーズを経験した。
結局、シアトルは回りまわって、一度手放したオリーボを再びシアトルに三顧の礼で迎え入れるという、なんともお粗末な結果になった。(2011年2.75M、2012年3.5M、2013年はチーム・オプション)


ピッチャー

ジャロッド・ウオッシュバーン
ブランドン・モロー

ウオッシュバーンは2006年にFAでエンゼルスから加入した、どことなくキーファー・サザーランドに似た風貌の左投手。加入当初からMLBでも有数のラン・サポートの少ない投手として有名で、これは2009年7月にトレードされるまで変わることはなかった。
主力先発投手3人が揃って城島とのバッテリーを拒否した2009のシアトルは、7月まで優勝戦線に残れるほど好調なシーズンだったわけだが、中でもウオッシュバーンは準パーフェクトゲームを含む8勝6敗、防御率2.64の好数字もさることながら、投手陣のリーダーとして、チームを鼓舞し、支え続けていた。
ごくわずかなポストシーズン進出の望みが消えかかったこの大事な夏に、根強いトレードの噂が続いたにもかかわらず、2009年7月のア・リーグ月間最優秀投手を受賞していたウオッシュバーン自身は、常に「トレードは望まない。このチームでやりたい」と公言し続け、シアトルでのプレー続行を望んでいたが、GMズレンシックは耳を貸さず、トレード期限日となる7月31日に、ルーク・フレンチ他1名との交換で、ウオッシュバーンを中地区首位のデトロイト・タイガースにトレードしてしまう。
リンク:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2009年7月23日、ウオッシュバーンは「移籍したくない」といい、「プレーヤーが売り払われないために、頑張るしかない」と語った。
リンク:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2009年7月27日、魚釣りの好きな男の父が息子に電話してきて「トレードされたのかい?」と尋ねた。息子は言う。it's not over.「チームはまだ終わってないよ。」そして彼は家族のために魚料理を作った。
ベテラン投手ウオッシュバーンが抜けたことにより、その後シアトル投手陣は支柱を失って総崩れになり、チームのわずかに残されたプレーオフ進出の望みは断たれた。その結果、ウオッシュバーンに続いて、クリス・ジャクバスカス、ブランドン・モローなど、2009シーズンを戦った投手たちも放出されてしまう。
トロント移籍にあたってブランドン・モローはシアトルの投手育成ぶりを公然と批判した。また、シアトル時代に不調だったモローに、当時の投手コーチ、リック・アデアが「カーブを多投させてみよう」と打ち合わせをしていたにもかかわらず、ゲームで城島がモローにカーブのサインを故意に全く出さなかったというありえない事件も、地元メディアによって暴露された。
リンク:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2009年12月22日、「投手コーチ・アデアとの打ち合わせを無視し、モローにカーブのサインを一切出さなかった城島」に関する記録。投手たち自身の「維新」による城島追放劇の舞台裏。
モローは移籍後の2010年にスターターに定着。146.1イニングを投げ、10勝7敗と活躍し、準パーフェクトゲームも達成。シアトルが開花させられなかった実力の程を示した。
他方、GMズレンシックは、ギャレット・オルソン、イアン・スネル、ルーク・フレンチなどの投手を次々に獲得していったが、どの投手も中途半端な投手ばかりで、パッとしない成績のまま終わった。
カルロス・シルバ
バベシ時代の2007年12月に、4年4400万ドルで獲得したが、当時の正捕手城島とまるで息があわなかったこともあって、ずっとお荷物の投手だった。
リンク:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年6月19日、移籍後にストレートを投げる割合が83.1%から55.7%に突然下がり、シカゴ・カブスで別人になったカルロス・シルバの不可思議な変身。
GMズレンシックは2009年12月になって、何を思ったのか、シルバに600万ドルの金銭を加えることまでして、シルバをシカゴ・カブスへ放出、かわりに問題児ミルトン・ブラッドリーを獲得するというギャンブル的トレードを実行した。
シルバは、カブス移籍1年目、開幕8連勝を記録。その一方でブラッドリーは、数々の事件を起こした後、ロサンゼルスで暴行事件で逮捕。問題児を放出し、加えて600万ドルの現金も得たカブスがギャンブルに成功し、問題児を自ら抱え込んでコントロールし損なったGMズレンシックとシアトルが暗黒の貧乏くじを引いた。
イアン・スネル
2009年7月末にGMズレンシックが、ジェフ・クレメント、アーロン・プリバニック、ブレット・ローリン、ネイサン・アドコックとの交換で、ジャック・ウィルソンとともに獲得。どこにもいいところの見られないまま、2010年に戦力外。
ジェイソン・バルガス
2008年12月に、GMズレンシックが三角トレードでメッツから獲得。
獲得当初から、「チェンジアップ主体でピッチングを構成する投手」であることはわかりきっていたが、彼が常にキロスや城島といった「彼のピッチングスタイルを理解しないキャッチャー」とばかりバッテリーを組まされて成績が伸びず、悩み抜いてきたことは何度もこのブログに書いてきた。
だが、彼の才能にフタをしていた城島が日本に去ったことで、2010年春以降、バルガスはその実力の片鱗をみせる。6月までに14登板して、91.1イニングも投げ、6勝2敗、防御率2.66。60もの三振を奪う一方で、四球は23しか与えなかったため、ちょっと不確かな記憶だが、たしかこの時期のア・リーグWHIPランキングにダグ・フィスターとともに名前を連ねていたはず。英語版wikiにも、through June has proven to be one of the most surprising success stories on the troubled Seattle team's roster. と、酷いシーズンにおける活躍の輝きぶりが驚きとともに書かれている。
シーズン終盤には多投からくる疲労だと思うが、残念ながらキレがなくなったのと、チェンジアップだけの配球では通用しなくなり、打たれるようになったものの、2011年シーズンの復調と飛躍を期待したい投手ではある。
クリフ・リー
フィラデルフィアからGMズレンシックが複雑なトレードに相乗りする形で獲得。春先に調子の上がらないフェリックス・ヘルナンデスのかわりに、2010年は夏まで実質エースとしてチームを支えた。
だが、2010年7月のトレード期限に、GMズレンシックが、こともあろうに同地区のライバルであるテキサスへ、マーク・ロウとともに放出。シアトルは、前年2009年のトレード期限ギリギリに放出したウオッシュバーンに続いて、2年続けて投手陣を支える精神的支柱を失うハメになり、一方、テキサスはワールドシリーズを戦う太い大黒柱を得た。
クリフ・リー放出で得たジャスティン・スモークは、依然として未熟なままのフリー・スインガー。クリフ・リーは、2010年ワールドシリーズ終了後に、5年総額1億2000万ドルの長期契約で元の所属チームであるフィラデルフィアへ戻っていった。
ジョシュ・ルーク
クリフ・リーとの交換で、テキサスからやってきた選手のうちのひとり。右投手。過去にレイプで告発されたことがあり、どうも軽犯罪を認めることにより、レイプでの告発をまぬがれた、という話が囁かれている。やれやれ。どいつもこいつも。
デイビッド・アーズマ
2009年にクローザーとして定着して、十分すぎるほどの活躍がみられた。だが、どういう心境の変化かわからないが、一転して2010年はストレート一本やりの、あまりにも単調すぎるピッチングに固執するようになって、自ら墓穴を掘った。シーズンオフにGMズレンシックはアーズマのトレードを画策するも、うまくいかず、ズルズルとした形で残留が決まる。
ヘスス・コロメ
この投手、獲得する前年の2009年は、ミルウォーキーでわずか5試合の登板で、防御率も5点台後半の冴えない成績だったにもかかわらず、GMズレンシックが自身の古巣から獲得してきた。案の定、2010年6月には、はやばやとDFA。この投手がシアトルにいたことを、たぶん、今後思い出すこともなくなるだろう。2012年メキシコリーグで薬物違反により50試合の出場停止処分。

カネコア・テシェイラ
2006年にホワイトソックスの22巡目で指名された投手。2010年のシアトルが初のメジャー経験らしく、コロメ同様の経験不足の投手。防御率5.30で、6月には、はやくもDFA。コロメ同様、2011年中には、この選手がシアトルにいたことすら誰も思い出さなくなると思う。


ここに書いたこと以外にも、2010シーズンについて書きたいことはもっともっといろいろある。

たとえば2010年ライアン・ローランドスミスは、「自分のストレートに慢心して、ストレートばかり投げたがって試合を壊し続けた2010年のデイヴィッド・アーズマ」と同じように、速さもキレもないストレートに固執しまくった挙句に、けっきょく最悪の成績に終わり、ノンテンダーになってヒューストンに移籍していった。
リンク:ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年4月30日、「ストレートを投げたくてしかたない病」にかかったローランドスミス。
フィギンズの不遜さにしても、少なからず彼の慢心を感じる。打順を9番に下げられたくなければ打て、打ってから文句を言え、といいたい。打たない高給取りが人前で恥をかくのは当たり前のことだ。


ああいう「慢心」はどこから生まれてくるのだろう。


シアトル・マリナーズには、選手たちの「慢心」を許してしまう「何か」がある。これは批判ではない。「分析」である。
そして、その「慢心」は、チームがチームとして機能するときに大事な「規律」や「責任感」を破壊し、チームはチームとして機能できないまま、年月だけが過ぎる結果を生む。

「野球以外の場所でのゴタゴタ」がいつも存在することは、例の「城島問題」でも、嫌というほど学ばされた。たとえば、城島の3年契約がそうだ。野球の成績と無関係に破格の待遇の契約内容が決まってしまうような不合理さが、チーム内の規律に深い亀裂を生まないわけはない。
フィギンズの事件のように、チームとしての指導に従わない選手をきちんと処分しないで見過ごすような規律の緩さ、たとえばロジャー・ハンセンのような若い選手を大成させたキャリアが実はないクセに、意味のないスパルタ式の練習で若い選手の身体を壊すしか能のない人物をマイナーのコーチとして雇い続けてきた不合理さ、守備偏重の偏った野球チームを無理に作ろうとして大破綻を招いたGMにきちんと責任をとらせないで看過する無責任さ、何度チームが大敗シーズンを終えようと若手中心のスタメンに切り替えて実力を試そうとしない硬直したチーム運営、どれもこれも「慢心」と、そこからくる「規律の崩壊」につながる。


だからこそ、ここは次のシーズンが始まってしまう前に、苦痛でも書き留めるしかない。

ベースボールはGMのオモチャではない。
ファンのためのものだ。






January 11, 2011

いやはや(笑)
シーホークスが去年の王者セインツを41―36で破ってしまうのだから、地の利というのは本当にあなどれない。エースRBマーション・リンチの決勝TDは、ちょっと奇跡的な67ヤードランだった。



去年まで2年続けて10敗以上しているシーホークスは、今年のレギュラーシーズン7勝9敗だが、なんとNFC西地区優勝。こうした「勝率5割に満たないチームの地区優勝」は史上初。また、勝率5割に満たないチームのプレーオフ進出も、ストのあったシーズンの例外を除けば史上初。

ちなみに、MLBではどうも勝率5割以下での地区優勝は一度もないらしい。また日本の例では、2005年の西武、2009年のヤクルトなどが、勝率5割以下でプレーオフ進出して物議をかもすなどしている。
Under-.500 Seahawks shock Saints in 41-36 wild-card win - USATODAY.com

Saturday, January 8, 2011 New Orleans Saints - Seattle Seahawks Box Scores, Game Results & Summary - USATODAY.com


シーホークス建て直しの原動力といわれているのは、今シーズンからヘッドコーチに就任したピート・キャロル。彼はもともとはNFLのヘッドコーチだったが、この10年はUSCを率いて2度全米チャンピオンになり、たくさんの教え子をNFLに送り出してきた名コーチ。NFLには11シーズンぶりの復帰。
Pete Carroll - Wikipedia, the free encyclopedia
ピート・キャロルのツイッター
http://twitter.com/PeteCarroll

Pete Carrollロマンスグレーの2枚目風(笑)
ピート・キャロル

ピート・キャロルのチームマネジメントの特徴は、技術指導的な意味の「コーチング」をするだけでなく、野球のGMのように「リクルーティング」もあわせて行うこと。実際シーホークスは、ピート・キャロルのヘッドコーチ就任にあたって彼にヘッドコーチとしての権限を与えただけではなく、ジェネラル・マネージャー的なリクルーティングの権限も与えて、効率的なチーム再建を図っている。

NSC時代のピート・キャロルの教え子はたとえば、ニューヨーク・ジェッツの若いQBマーク・サンチェス
ジェッツは今年もプレーオフに進出し、残り3秒の場面のFG成功でペイトン・マニングのコルツを破ったばかりだ。サンチェスは、ジェッツがブレット・ファーブの後釜として2年前だかに1巡目指名したQBで、パスのコントロールがあまりよくないが、出身地のロングビーチではメキシコ移民の英雄になっている。
そのサンチェスがUSCに進学する直接の動機となったハイズマン・トロフィー受賞者で、シンシナティ・ベンガルズのQBカーソン・パーマーも、ピート・キャロルの教え子のひとり。

ちなみにマーク・サンチェスは、高校時代に野球もやっていて投手と三塁手ができるらしく、所属するジェッツと同じニューヨークのメッツの本拠地シティ・フィールドでは、2009年の地元開幕ゲームで始球式をやったことがある。



シーホークスの次のゲームは、1月16日にベアーズとの対戦だが、このゲームは残念ながら、シアトルで行われたセインツ戦と違って、シカゴで行われるビジター
さてはて、どうなることやら(笑)






January 10, 2011

2004年に引退したロベルト・アロマーはゴールドグラブを10回も受賞していて、これがMLBの二塁手として歴代最高回数なわけだが、Baseball Referenceから、ポジション別に3位までの選手をピックアップしてみた。
選手の名前の前の数字は受賞回数であり、背番号ではない。


ポジション別のゴールドグラブ受賞回数ランキング
ア・リーグ
MLB American League Gold Glove Award Winners - Baseball-Reference.com
ナ・リーグ
MLB National League Gold Glove Award Winners - Baseball-Reference.com

Pitcher
18 Greg Maddux
16 Jim Kaat
9 Bob Gibson

Catcher
13 Ivan Rodriguez, Puerto Rico
10 Johnny Bench
7 Bob Boone

1B
11 Keith Hernandez
9 Don Mattingly
8 George Scott

2B
10 Roberto Alomar, Puerto Rico
9 Ryne Sandberg
8 Bill Mazeroski

3B
16 Brooks Robinson
10 Mike Schmidt
8 Scott Rolen

SS
13 Ozzie Smith
11 Omar Vizquel, Venezuela
9 Luis Aparicio, Venezuela

OF
12 Roberto Clemente, Puerto Rico
12 Willie Mays
10 Ken Griffey
10 Andruw Jones, Curacao
10 Al Kaline
10 イチロー, Japan


ゴールドグラブ賞ができたのは1957年。だから、MLBができたばかりの時代のプレーヤーはこのランキングに入っていないし、近年ではこの賞の選出方法の欠陥についてさまざま議論もあるだけに、ゴールドグラブ受賞回数だけをもってMLB歴代最高の守備の名手が誰かを語れるとはもちろん言い切れない。
だが、それにしたって、10回以上この賞を受賞した選手が1957年以降、わずか16人しかいないのは、まぎれもない事実だ。もちろん10年以上連続受賞した選手はさらに限られる。

細かすぎる議論など、何十年というレンジでの話では、無視してもいい。1回でも受賞できたらそれだけでも凄いこの賞を、10回以上も受賞できた選手はやはり、文句なく凄い、のである。当たり前のことだ。
例えば、このところ衰えが目立ってきたデレク・ジーターの去年のゴールドグラブ受賞には文句を言いたい人がたくさんいること自体は、よーくわかるわけだが(笑)、受賞回数10回以上という長い目で見た基準からすれば、いまだ5回しか受賞してないジーターが、これからのキャリアでオマル・ビスケールルイス・アパリシオを越えて2桁のゴールドグラブ受賞回数に到達することは、おそらくないと思うのだ(笑)
だから肩がこるほど議論に力を入れすぎてもしかたがない。


むしろジーターより、きちんとした注釈が必要なのは、外野手部門のウィリー・メイズだろう。

ウィリー・メイズが例の「ザ・キャッチ」をやってのけたのは、1954年のワールドシリーズだが、この年にはまだゴールドグラブ賞そのものが存在していない。
メイズはオールスターに1954年から1973年まで20回連続出場しているわけだから、もっと早くこの賞ができていたら、1954年から56年の3年間にもゴールドグラブを受賞していた可能性がある。そういう意味で、もしMLBのもっと初期からゴールドグラブがあったなら、メイズの外野手として12回のゴールドグラブ受賞歴は、間違いなくもっと多かったに違いない。
だからもし再来年にイチローが12回目のゴールドグラブを受賞しても、受賞回数だけでウィリー・メイズと比肩できたと、全米のクチうるさい人たちに(笑)いってもらえるかどうかはわからない。


あと、これも余談だが、彼の「ザ・キャッチ」は、センター方向の、外野手の頭を越していく140メートルの大飛球だったわけだが、メイズがこの大ファインプレーを達成できた理由については、ゲームが行われたスタジアム、ポロ・グラウンズの特殊すぎる形状にも多少要因があると思う。
ポロ・グラウンズは、これまで何度も紹介してきた通り、もともとがポロ競技のための施設であり、ポロ・グラウンズのセンターは483フィート(約147メートル)もあって、センター方向だけが異常に広い縦長の形状だった。

Polo Groundsポロ・グラウンズ

Polo Grounds, Eighth Avenue at 159th Street, 1940
資料:A Little More New York in Black and White (photos and commentary)

メイズがつかんだ打球の飛距離は460フィート(約140メートル)も飛んでいたといわれているが、ホームグラウンドであるポロ・グラウンズの広大すぎるセンターを日頃から守っていたメイズは、「どんなに大飛球であってもセンター方向なら、フェンスの存在をほとんど気にすることなく全力疾走でキャッチしに行けることがわかっていたはずだ」と思うのである。
ジャイアンツがまだニューヨークのブルックリンにあって、ポロ・グラウンズをホーム・グラウンドにしていたからこそ達成できたファインプレーであったと考えるわけだが、どうだろう。

ウィリー・メイズのザ・キャッチ

現代のスタジアムなら、140メートルの大飛球は文句なくホームランであって、外野手は追いかけもしない。140メートルの飛距離の打球を背走で掴んだ古き良き時代のファインプレーとはまた違う苦労が、現代の外野手にはある。

今の時代、もしフェンス際に大打球が上がったら、外野手はフェンスを気にしないわけにはいかない。いつぞやのイチローのフェンス直前の後ろ向きのバスケット・キャッチ(あれも歴史に残る大ファインプレーだが)にしても、ホームランをもぎとったスパイダー・キャッチにしても、現代の外野手はフェンス激突のたいへんな危険を承知の上で、フェンス際の魔術的なファインプレーを達成しなければならないのである。

January 08, 2011

たぶん去年亡くなった名物アナウンサーデイブ・ニーハウスさんも草葉の陰で喜んでいらっしゃることだろう。
元マリナーズGMでもあるパット・ギリック氏と、カル・リプケンや、オマル・ビスケールとのコンビで知られる名二塁手ロベルト・アロマーがそろって殿堂入りを果たした。今年は春から非常に目出度い。

Pat Gillick - Wikipedia, the free encyclopedia

2011 Hall of Fame Voting - Baseball-Reference.com


日本のマリナーズ・ファンは誰もが知っている話だが、ギリック氏はマリナーズに来る前に、トロント・ブルージェイスのGMとして、地区優勝5回、2年連続ワールドチャンピオン、またボルチモアのGMとして地区優勝するなど、既に大きな成功をおさめていた。
マリナーズのGMになってからも、チームをシーズン勝利数のMLBレコード116勝を記録するような強豪にし、また、マリナーズの年間観客動員数を当時のMLBトップにもしており、さらに最近ではフィラデルフィアのGMとしてワールドチャンピオンになっているわけで、彼のGMとしての手腕の素晴らしさは言うまでもない。


ブルージェイズは、MLBがチーム数を増やした1977年のエクスパンジョンで、マリナーズなどとともにできた新しいチームなわけだが、ブルージェイズでの前任GMは、あのビル・バベジの兄のピーター・バベジ(苦笑)。ピーター・バベジ時代のトロント・ブルージェイズは創設されたばかりで、創設翌年の78年から3年連続100敗以上、82年まで6シーズン連続の最下位を記録している。
もちろん、マリナーズでのギリックの後任は、ピーターの弟の、あのビル・バベジなわけで、名伯楽ギリックはどういうわけかバベジ兄弟と縁が深い(笑)

創設されたばかりの球団はどうしても負けてばかりの時期を経験するものだが、ギリックは(どこかの兄弟と違って 笑)新興球団を2つ渡り歩いて、どちらでもきちんと実績を残しているのだがら、その足跡には本当に文句のつけようがない。



もともとスカウト出身のギリックが、良い選手を見つけてくるケタはずれの才能を持っていたことは有名なわけだが、今年90%以上もの高い記者得票率でギリックと同時に野球殿堂入りを果たした名二塁手ロベルト・アロマーを90年冬にトロントに獲得してきたGMは、まさにギリック、その人だ。
このときの2対2のトレードでトロントが放出したのは、かつて.322打ったことのあるトニー・フェルナンデスと、89年にホームラン王になったフレッド・マグリフの主軸打者2人だから、ギリックはこのトレードによほどの自信があったに違いない。

さかのぼってみると、ギリックは、シアトルではマイク・キャメロンなどと交換にケン・グリフィー・ジュニアを放出しているし、またフィラデルフィアでもジム・トーミを放出している。
つまりギリックは、「実は盛りを過ぎた強打者に早めに見切りをつける」のが非常に上手い人なのである。

トロントでのアロマーは、移籍してきた91年以降、6年も連続してゴールドグラブを受賞し、92年には初の3割を打ってシルバースラッガー賞も初受賞した。若いアロマーがGMギリックの期待通りの活躍をみせたことなどもあって、ブルージェイズは92年、93年と、2年連続してワールドチャンピオンになった。


95年以降ギリックは、こんどはボルチモアのGMになったわけだが、95年のシーズン後にブルージェイズからFAになったアロマーをボルチモアに獲得してきて、名遊撃手カル・リプケンと黄金の二遊間を組ませた。つまり、ギリックは、グリフィー・ジュニアやトーミは思い切りよく手放したが、アロマーはむしろ手元に置きたがったわけだ。
ギリックのボルチモアは、1996年にワイルドカードを獲得し、1997年には地区優勝している。



何が言いたいかというと(笑)、要は、そのギリックがシアトルにGMとして君臨していた時代に、彼の眼力にかなったのが「イチロー」という選手だ、ということ。

ギリックの眼鏡にかなって活躍し、ついに殿堂入りを果たした名選手ロベルト・アロマー同様に、イチローの殿堂入りも、もはや確実といわれているわけで、キャリア通算10回のゴールドグラブを獲得したアロマーが2004年を最後に引退した今となっては、イチローが2011年シーズンに11回目のゴールドグラブを獲得して、回数でもアロマーを抜くことだろう。
これもなにかの縁とか、偶然とかいうより、名伯楽ギリックに言わせれば「必然的な出来事」であり、彼の眼力には狂いがなかった、ということなのだろうと思う。

Potential Hall of Fame players take stage in 2011 | MLB.com: News

創立時以来のマリナーズ観客動員数推移グラフ






January 05, 2011

とあるところ、というか、いつもの某巨大掲示板だが(笑)、そこで元日にNHK BS1で放映されたケン・バーンズ"The 10th Inning"(以下 NHK版と呼ぶことにする)について、「オリジナルに手を加えて放送しているのではないか?」という書き込みを見て、多少気にかかったので検証してみようという気になった。

やっとNHK版が手に入ったので、英語版DVDを使って比較してみることにした。

比較方法は、以下のとおり。
1 2つのソースを同時に流す
2 ソース同士の相違点が見つかりしだい、両方を止める
3 ソースAのもつ相違点の映像が、他方のソースBにあるかないかを探す
4 原因がわかり次第、1~3を再開

なんとも原始的な方法だ(笑)あまりにも原始的すぎて、ものすごく手間がかかる(苦笑)途中でめんどくさくなったので、NHK版の第1回、第4回だけを検証することにした。根気がなくて申し訳ない(笑)
検証したNHK版の第1回、第4回は、オリジナルでいうと、2010年秋の第1夜放送の前半部と、第2夜放送の後半部ということになる。


結論からいうと、

1 NHK版は、オリジナル版とまったく同じものではない
2 NHK版は、オリジナル版のあちこちをカットすることで出来上がっている
3 ブログ主の検証するかぎり、NHK版に「オリジナル版には存在しないカットの追加」あるいは「映像の意味を大きく変えるような、影響力の大きいカットのいれかえ」は見られない



NHK版が「オリジナル版からカットしたシーン」の主なパターンは、主に以下の5つのパターンからなる。

1 ステロイド問題だけに限らない様々なテーマに関するコメンテーターのコメント(コメントの一部だけをカットするケースはみられなかった。カットする場合は、コメント全体がカットされている)
2 ステロイド問題に関するMLB選手のスーツ姿の証言シーンの大半
3 マニー・ラミレスの50日間出場停止に関係するシーン
4 コルクバット問題に関連するコメントの一部
5 チャプター開始部分によくあるイメージ的なイントロダクションの一部



NHK版は、オリジナル版をカットすることで出来上がっている。
最も多くカットしている箇所は、具体的には、上の5つのパターンのうち、1番目の「コメンテーターのコメント部分」である。
NHK版は、2日間にわけて放映されたオリジナル版と違って、4パートに分かれているが、オリジナル版を見ていない人は、「NHK版は、ひとつのパートあたり、4つから5つくらいのコメント部分がカットされている」と考えておく必要がある。

ステロイド問題についての変更だが、オリジナル版では、たぶん議会の公聴会かなにか公式の場所での映像だろうと思うが、スーツ・ネクタイ姿のサミー・ソーサ、あるいはマーク・マグワイヤが、鋭い質問に答えさせられている生々しいシーンが結構あるが、これはNHK版には、ない。
また、オリジナルには、MLBコミッショナーバド・セリグ氏がステロイド問題について語ったコメント箇所があるが、NHK版ではカットされている。

さらに、オリジナル版には、マニー・ラミレスの50日間出場停止を伝える新聞を大きく映し出したカットが存在しているのだが、これがNHK版ではきれいさっぱりカットされている。



評価などというものは、見た人それぞれの考え方、価値観に大きく左右される。それだけに、オリジナル版とNHK版の違いをどう考えるかについてのコメントは、あえて避けておきたいと思う。
たとえば、NHK版を見るだけでは、"The 10th Inning"においてケン・バーンズは、ステロイド問題をバリー・ボンズを、ひとり「悪者」にして語っているかのような勘違いした印象をもつ人も出てくるような気もしないでもないが、ケン・バーンズはステロイド問題がバリー・ボンズ個人の問題だという形で描こうなどとしてはいない。



ひさしぶりに"The 10th Inning"を見返してみて、MLB全体のストでファン離れを起こした時期に、カル・リプケンが深夜までファンの相手をし、サインをし続けた行為の尊さをあらためて思い知らされた。(もちろんリプケンだけでなく、当時のプレーヤー、現場の関係者の多くが、ファン離れを食い止め阻ようと、それぞれに地道な努力をしたことだろうと思う)
連続試合出場のような種類の記録が意味を持つには、やはり記録そのもの以外に、その選手がファンから与えてもらって積み重ね続けてきたリスペクトの厚みが加わってこそ、記録として輝く。

だが、残念なことに、そうした「地道だが偉大な行為」があった同時期に、ステロイドによる不自然な筋力アップがあった。また、ステロイドだけではなく、飛ぶボールの採用やストライクゾーンの姑息な操作などもあり、90年代の「不自然なホームラン時代」は、大掛かりに「演出」されていった。
バリー・ボンズの不自然な記録には、ファンの敬意の存在しない荒野がふさわしい。


だが、だからといって、「だからMLBはダメなんだ」とか、「MLBは間違っている」とか、理性のない子供のような短絡をしてもらっては困る。
"The 10th Inning"を見ればわかることだが、当時のスポーツメディアの大半がステロイド問題の指摘をスルーまたは黙認する一方で、スタジアムには、ステロイドの卑劣さ、卑怯さを非難する数多くのファンがいた。
卑劣な行為が公然と行われることもないわけではないのがアメリカだが、それを非難して正そうとする人が多数存在するのもアメリカだ。そういう、立場の違う人が混在して右往左往するアメリカ社会の、泥臭くて、エネルギッシュで、そして、ややこしい部分が、去年で終了した人気テレビドラマの"24”ではないが、"The 10th Inning"の描く「野球
」が面白い理由のひとつだ。
オリジナルの"The 10th Inning"は、けして「野球は神聖だ。だからステロイドで汚すな」と、いい子ちゃんが道徳を主張するために映像をつなぎあわせているわけではない。「酒に溺れたバリー・ボンズの父親」も描くし、「ステロイドに溺れたバリー・ボンズ」も描く。ステロイドの存在はともかく、人間そのものを完全否定してはいないのである。
ドキュメンタリーは裁判所ではない。だから一見すると、「"The 10th Inning"はMLBのさまざまな過ちに曖昧な態度を取り続けている」ように見えるが、そうではない。


ブログ主が少なくともいいたいのは、スポーツでも映像メディアでも、「不自然な演出」は、結局はファンとプレーヤーの夢をないがしろにする、ということ。いつぞやのダメ捕手城島の不自然すぎる3年契約もそうだ。あんな馬鹿げた行為、どうすると押し通せるというのだ。

野球の現場はあくまで「ファンとプレーヤーが出会う場所」であって、オーナーの自己満足のための場所でも、出来そこないの自称スポーツライターの「結論ありきの作為」がありありとわかる未熟な技術を人にみせびらかすための場所でもない。

不自然な演出」は、結局のところ、気分の悪い結果しかもたらさない。それはハッキリしている。







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