February 2013
February 19, 2013
第3回WBCが刻々と近付いてきた、というのは嘘で、第3回WBCはとっくに「始まって」いて、4つの予選ラウンドから、スペイン、カナダ、ブラジル、台湾の4チームが既に本戦に勝ち上がっている。
予選ラウンド出場国
Qualifier 1 アメリカ・フロリダ州ジュピター
スペイン、イスラエル、南アフリカ、フランス
Qualifier 2 ドイツ・レーゲンスブルグ
カナダ、ドイツ、イギリス、チェコ
Qualifier 3 パナマ・パナマシティ
ブラジル、パナマ、コロンビア、ニカラグア
Qualifier 4 台湾・新北市
台湾、ニュージーランド、フィリピン、タイ
2013 World Baseball Classic – Qualification - Wikipedia, the free encyclopedia
2013 WORLD BASEBALL CLASSIC QUALIFIER 試合結果 (予選ラウンド1組) - 日本野球機構オフィシャルサイト
予選ラウンドを勝ち上がった国はどれもあなどれないチームだ。
カナダは、予選ラウンドではメジャーリーガーを起用せず、Jimmy Van Ostrand (ナショナルズ2A)の驚異的な打棒爆発で勝ち上がったが、本戦からはさらにそこに、ジャスティン・モーノー、ラッセル・マーティン、マイケル・ソーンダースなど、メジャーリーガーが参戦してくるようだ。トロント・ブルージェイズやモントリオール・エキスポズなど、歴史的に野球との縁が深いカナダは、さすがに選手層が厚い。
だが、今回ちょっと注目したいと思うのは、ヤンキースの不滅のクローザー、マリアーノ・リベラを生んだ野球のさかんなパナマを破って本戦に駒を進めてきたブラジルだ。
Brazil national baseball team - Wikipedia, the free encyclopedia
ブラジル人の身体能力の高さには、本当にいつも驚かされる。
例えばサーフィン。
プロサーファーの世界ツアー、ASP World Championship Tourは、自動車レースのF1のドライバーライセンスと同じように、34人のみの限られたサーファーのみに参加資格が与えられ、毎年のチャンピオンを決める、クローズドなツアーだ。
よく知らない人は、プロのトップサーファーというと、ハワイアン、アメリカ人、オーストラリア人のヴェテランばかりだと思うかもしれない。たしかに、1971年生まれの40代だが、まるで衰えを見せないフロリダ出身の不世出の天才ケリー・スレーターはじめ、上位ランカーは1980年代生まれを中心にしたアメリカ、オーストラリアのヴェテラン勢が、常にランキング上位を独占してきた。
だが今は、その限られた34人の中に、ブラジル人が6人も入っている。そしてランキング7位に入っているブラジル人、Gabriel Medina(ガブリエル・メディーナ)は、なんと1993年12月生まれの、まだ10代のトッププロだ。
さてWBCブラジル代表だが、監督は、2012年に記者投票で野球殿堂入りした元シンシナティ・レッズのバリー・ラーキン。そしてブラジルの代表選手には、ブラジルという日本に縁の深い土地柄から、日本でプレーしている日系二世、三世や、日本でプレーしているブラジル人が数多く選ばれている。
投手
仲尾次オスカル Oscar Nakaoshi 白鴎大学
吉村健二 Carlos Yoshimura ヤマハ
ケスレイ・コンドウ Kesley Kondo ユタ大学
ガブリエル・アサクラ Gabriel Asakura カリフォルニア州立大学
金伏ウーゴ Hugo Kanabushi 東京ヤクルトスワローズ
ラファエル・フェルナンデス Rafael Fernandes 東京ヤクルト
(日系人ではないが、ブラジルのヤクルト野球アカデミー卒業)
捕手
平田ブルーノ Bruno Hirata 東芝
内野手
田中マルシオ敬三 Marcio Tanaka JR九州
奥田ペドロ Pedro Ivo Okuda シアトル・マリナーズ傘下
松元ユウイチ Daniel Matsumoto 東京ヤクルト
ファニョニ・アラン Allan Fanhoni NTT東日本
(山形県・羽黒高校出身)
佐藤二郎 Reinaldo Sato ヤマハ
外野手
曲尾マイケ Mike Magario
直接間接に日本の野球の薫陶を受けて育てられたブラジル野球が、どこまでやれるのか。ちょっと楽しみである。
資料:2013 ワールド・ベースボール・クラシック・ブラジル代表 - Wikipedia
予選ラウンド出場国
Qualifier 1 アメリカ・フロリダ州ジュピター
スペイン、イスラエル、南アフリカ、フランス
Qualifier 2 ドイツ・レーゲンスブルグ
カナダ、ドイツ、イギリス、チェコ
Qualifier 3 パナマ・パナマシティ
ブラジル、パナマ、コロンビア、ニカラグア
Qualifier 4 台湾・新北市
台湾、ニュージーランド、フィリピン、タイ
2013 World Baseball Classic – Qualification - Wikipedia, the free encyclopedia
2013 WORLD BASEBALL CLASSIC QUALIFIER 試合結果 (予選ラウンド1組) - 日本野球機構オフィシャルサイト
予選ラウンドを勝ち上がった国はどれもあなどれないチームだ。
カナダは、予選ラウンドではメジャーリーガーを起用せず、Jimmy Van Ostrand (ナショナルズ2A)の驚異的な打棒爆発で勝ち上がったが、本戦からはさらにそこに、ジャスティン・モーノー、ラッセル・マーティン、マイケル・ソーンダースなど、メジャーリーガーが参戦してくるようだ。トロント・ブルージェイズやモントリオール・エキスポズなど、歴史的に野球との縁が深いカナダは、さすがに選手層が厚い。
だが、今回ちょっと注目したいと思うのは、ヤンキースの不滅のクローザー、マリアーノ・リベラを生んだ野球のさかんなパナマを破って本戦に駒を進めてきたブラジルだ。
Brazil national baseball team - Wikipedia, the free encyclopedia
ブラジル人の身体能力の高さには、本当にいつも驚かされる。
例えばサーフィン。
プロサーファーの世界ツアー、ASP World Championship Tourは、自動車レースのF1のドライバーライセンスと同じように、34人のみの限られたサーファーのみに参加資格が与えられ、毎年のチャンピオンを決める、クローズドなツアーだ。
よく知らない人は、プロのトップサーファーというと、ハワイアン、アメリカ人、オーストラリア人のヴェテランばかりだと思うかもしれない。たしかに、1971年生まれの40代だが、まるで衰えを見せないフロリダ出身の不世出の天才ケリー・スレーターはじめ、上位ランカーは1980年代生まれを中心にしたアメリカ、オーストラリアのヴェテラン勢が、常にランキング上位を独占してきた。
だが今は、その限られた34人の中に、ブラジル人が6人も入っている。そしてランキング7位に入っているブラジル人、Gabriel Medina(ガブリエル・メディーナ)は、なんと1993年12月生まれの、まだ10代のトッププロだ。
さてWBCブラジル代表だが、監督は、2012年に記者投票で野球殿堂入りした元シンシナティ・レッズのバリー・ラーキン。そしてブラジルの代表選手には、ブラジルという日本に縁の深い土地柄から、日本でプレーしている日系二世、三世や、日本でプレーしているブラジル人が数多く選ばれている。
投手
仲尾次オスカル Oscar Nakaoshi 白鴎大学
吉村健二 Carlos Yoshimura ヤマハ
ケスレイ・コンドウ Kesley Kondo ユタ大学
ガブリエル・アサクラ Gabriel Asakura カリフォルニア州立大学
金伏ウーゴ Hugo Kanabushi 東京ヤクルトスワローズ
ラファエル・フェルナンデス Rafael Fernandes 東京ヤクルト
(日系人ではないが、ブラジルのヤクルト野球アカデミー卒業)
捕手
平田ブルーノ Bruno Hirata 東芝
内野手
田中マルシオ敬三 Marcio Tanaka JR九州
奥田ペドロ Pedro Ivo Okuda シアトル・マリナーズ傘下
松元ユウイチ Daniel Matsumoto 東京ヤクルト
ファニョニ・アラン Allan Fanhoni NTT東日本
(山形県・羽黒高校出身)
佐藤二郎 Reinaldo Sato ヤマハ
外野手
曲尾マイケ Mike Magario
直接間接に日本の野球の薫陶を受けて育てられたブラジル野球が、どこまでやれるのか。ちょっと楽しみである。
資料:2013 ワールド・ベースボール・クラシック・ブラジル代表 - Wikipedia
February 17, 2013
欧州で販売されているラザニアやハンバーガーなど、「牛肉」と表示されている肉製品の中に、馬肉など別の肉が混入されていた食品偽装事件が、欧州各国で問題になっているようだ。
この事件では、人体に有害といわれる薬品を含む馬肉がイギリスからフランスへの食品流通ルートに乗った可能性があるらしい。詳しいことはよくわからないが、ヨーロッパ全体を巻き込んでいる。
この馬肉混入問題で、ちょっと気になったのが、イギリスで問題の馬肉を処理した処理場で検出されたフェニルブタゾン(phenylbutazone)という薬物の名前だ。
欧州の馬肉混入問題、フランス卸売会社が偽装の疑い | Reuters
フェニルブタゾン(phenylbutazone)は、非ステロイド系の鎮痛性抗炎症薬で、獣医が競走馬などの消炎剤として用いる。
だから、今回のヨーロッパの食品偽装事件で問題になっている馬肉とは、単なる馬ではなく、「競走馬の肉」であり、しかも「ヨーロッパ競馬では禁止されているはずの消炎剤フェニルブタゾンをたっぷり使っていた」という二重の意味がある。さらにいうなら、イギリスでは馬肉を食べる習慣がないらしいが、イギリス国内の業者は禁止薬物を使っていた競走馬を処理して、フランスに食肉として輸出し、加工食品がイギリス国内に還流していた、ことになる。
(ここではあえて詳しく触れないでおくが、動物用の消炎剤、つまり炎症を抑える薬物を故意に人間が使っているケースがあるらしく、ブログ記事などでそのビックリするほどの効き目の強さに驚いている様子が書かれたりしている。だがアナボリック・ステロイドも同じだが、ちょっとは副作用の強烈さを考えろ、といいたくなる)
CNNの記事によると、「フェニルブタゾンには人間への重い副作用や発がん性が指摘されており、食肉への残留は認められていない」とのことで、「アメリカ国内では、人間への使用は禁止されている」らしいが、同時に「イギリスの専門家は、もしこの薬品が残留した馬肉を食べたとしても、副作用が出ることはまずあり得ない」と、のんびりしたことを指摘しているらしい。
CNN.co.jp : 馬肉混入問題、英で3人逮捕 有害薬品残留の恐れも - (2/2)
フェニルブタゾンという薬物と競走馬をめぐって、こういうなんだかよくわからない出来事が、起きるのは、実は初めてではない。というのは、過去のアメリカ競馬において何度か、このフェニルブタゾンという薬物をめぐる問題が起きているからだ。
日本の競馬統括機関であるJRAにおいては、競馬法第56条、第59条の別表(2)に明記され、「フェニルブタゾンは禁止薬物」とハッキリ規定されている。日本では、馬術競技においても、フェニルブタゾン検出による失格・罰金を課した事例もある。
JRAホームページ│JRA関係法令等
公益社団法人 日本馬術連盟 《Japan Equestrian Federation》・日本馬術連盟・日馬連・馬術連盟・公益社団法人 日本馬術連盟
ところが、CNNが「人間におけるフェニルブタゾン使用を禁じている」というアメリカでは、州ごとに一定の制限を設けつつも、全体としては競走馬に対するフェニルブタゾン使用は許容している。
ホースマン、フェニルブタゾンの閾値引き下げに反対(アメリカ)[獣医・診療] - 海外競馬ニュース(2010/09/22)【獣医・診療】 | 公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル
ところが話はこれで終わらない。
1968年ケンタッキー・ダービーにおける
ダンサーズ・イメージ失格事件
写真左にいて、ダンサーズイメージに左手を置いているのが
オーナーのピーター・フラー氏。
1968年にケンタッキー州チャーチルダウンズ競馬場で行われたケンタッキー・ダービー(=日本でいう「日本ダービー」)で真っ先にゴール板を駆け抜けたのは、マサチューセッツのビジネスマン、Peter Fuller (ピーター・フラー。ファラーと記述しているサイトもある)氏所有のDancer's Image(ダンサーズイメージ)。2着は、2週間後にプリークネス・ステークスを勝つことになるForward Passだった。
愛馬のダービー優勝に満足げなピーター・フラーだが、喜びは長くは続かなかった。尿検査で禁止薬物 phenylbutazone が発見され、ダンサーズイメージは失格となってしまうのだ。
というのも、1968年当時、消炎剤フェニルブタゾンは、全米の競馬場で使用が許容されていたのだが、ケンタッキーダービーが行われるチャーチルダウンズ競馬場で「だけ」は使用禁止だったからだ。
オーナーのピーター・フラーは、それから長い間、ダンサーズイメージのダービー優勝確認を求めて法廷で争い続けたが、1973年に最高裁にもっていく期限が切れてしまう。
1968年のケンタッキー・ダービーから約5年が経過した1973年7月19日、かつて2着だったForward Passが「繰り上がりのダービー優勝馬」として認められ、関係者に優勝トロフィーが贈られるイベントが行われた。
日本では、この話はたいていここで終わってしまう。
だが、アメリカではまだまだ多くの余談がある。
ダンサーズイメージのオーナー、ピーター・フラーは、1923年にボストンで生まれている。父親の名は、Alvan Tufts Fuller(1878-1958)。彼は第50代マサチューセッツ州知事(1924-1929)をつとめた共和党員で、本来アメリカ史で有名なのは、息子ピーターではなくて、父アルヴァンのほうだ。
Alvan T. Fuller
Governor of Massachusetts - Wikipedia, the free encyclopedia
Alvan T. Fuller - Wikipedia, the free encyclopedia
父アルヴァン・フラーも、息子ピーターと同じく、マサチューセッツ州ボストンで生まれている。この「ボストン」という土地柄が、のちのち彼ら親子の運命に大きく影響することになる。
父アルヴァンが知事在任中に起きたのが、アメリカ史で有名な「サッコ・バンゼッティ事件」だ。
2人の英語の苦手なイタリア移民が強盗殺人事件の犯人として逮捕され、裁判で死刑が確定したが、刑確定後、相対性理論で有名なアルバート・アインシュタインなど各界の著名人から助命嘆願書が州知事アルヴァン・フラーに届けられる事態になったのだが、州知事アルヴァンが最終的に特赦を拒んだことで、1927年に2人は電気椅子に送られている。
Sacco and Vanzetti - Wikipedia, the free encyclopedia
サッコ・ヴァンゼッティ事件で、国際的な助命嘆願を棄却した形になった州知事アルヴァンは、立場上、どうしても悪代官役と見られがちではある。だが、この強盗事件の真相が今もハッキリとしてはいない以上、アルヴァン・フラーの善悪を軽々しく判断するべきではないだろう。(例えば、当時サッコ所有の拳銃の弾道検査が後年になって行われ、犯行に使用された銃であることがほぼ確定した、なんてこともあるらしい)
後に共和党から大統領になったフーバーを早くから支持していたアルヴァンは、フーバーの下でフランス大使になる望みを持っていたなどともいわれるが、結局マサチューセッツ州知事を最後に政界から足を洗い、ボストンで自動車ディーラーを営む一方で、絵画収集に励んだ。
アルヴァンの絵画コレクションは、後にワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートや、ボストン美術館に寄贈されているが、それら両方の美術館で過去にアルヴァン・フラー・コレクション展が行われているほどだから、アルヴァンの絵画に関する眼力は相当に素晴らしいものだったらしい。
ナショナル・ギャラリーにおける
アルヴァン・フラー寄贈作品リスト(3点)
Alvan T. Fuller - Former Owner
ボストン美術館における
アルヴァン・フラー寄贈作品リスト(9点)
Collections Search | Museum of Fine Arts, Boston
ボストン美術館のアルヴァン・フラー・コレクションのひとつ、ルノアールのBoating Couple (said to be Aline Charigot and Renoir)
さて話をアルヴァン・フラーの息子、ピーター・フラーと1968年に戻そう。
ピーター・フラーが1968年5月4日のケンタッキー・ダービーでのダンサーズイメージ降着を認めようとせず、長期にわたる裁判に訴えたことは既に書いたが、フラーは「俺は公民権運動に理解を示したことで、ボストンのやつらの感情を害した。だから俺とダンサーズイメージはset upされたんだ」と常々語っていたといわれている。
ニューヨーク・タイムズやボストン・グローブの記事などによれば、ピーター・フラーは、ダンサーズイメージのレースの優勝賞金(ブログ注:NY Timesの記事ではケンタッキー・ダービーの優勝賞金77,415ドル、ボストン・グローブではダービー前のレースの1着賞金62000ドルと書かれており、両者の記述は異なる)を、なんと、ケンタッキーダービーのちょうど1ヶ月前、1968年4月4日にテネシー州メンフィスで暗殺されたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の妻、Coretta Scott Kingに全額寄贈することにしていた、というのだ。
Peter D. Fuller Dies at 89 - Had to Return Derby Purse - NYTimes.com
この場合、set upは、まぁ、「ハメられた」とか「濡れ衣を着せられた」という意味になるわけだが、父親アルヴァン・フラーは冤罪かどうかが争われた1920年代の「サッコ・ヴァンゼッティ事件」に遭遇し、その息子ピーター・フラーは1960年代の「ダンサーズイメージ降着事件」で濡れ衣を主張したわけだから、なんともいえない運命の巡り合わせではある。
しかも、父親アルヴァンは、マサチューセッツ州知事として移民に対する人種差別をあえて容認したと世界から批判され、その40年後、こんどは息子のピーターは、父親とは逆に、人種差別撤廃を目標に掲げた公民権運動に理解を示したために人から恨みを買ってハメられたと、マサチューセッツ最大の都市ボストンの保守ぶりを批判してみせることになったのだから、この親子を翻弄した運命はちょっとマジカルなものがある。まさに、事実は小説より奇なりである。
ちなみに、1968年のダンサーズイメージ降着劇の起こったケンタッキー・ダービーの現場には、欧米競馬に詳しかった日本の詩人・寺山修司もいた。寺山は気にいっていたダンサーズイメージに「500ドル」儲けたらしい。当時は今と違って「1ドル=360円」の時代なのだから、寺山の賭け金は日本円にして「18万円」もの大金だったことになる。
寺山は勝ったと思ったダンサーズイメージの降着にもめげず、ダービーの2週間後、5月18日にボルティモアのピムリコ競馬場で行われたアメリカ牡馬クラシック三冠の第2戦、第93回プリークネス・ステークスも現地で観戦している。
プリークネス・ステークスでは、後年ケンタッキー・ダービー繰り上げ優勝を果たしたForward Passが勝ち、ダンサーズイメージは3着に負けたのだが、なんとダンサーズイメージ、こんどは進路妨害で再び降着処分を受けてしまうのだ。
つくづくついてない馬だが、そういう非運の馬にこそ思い入れの深い寺山としては、後に「忘れがたかった馬ベストテン」としてミオソチスなど10頭の馬名を並べた後に、「番外」として不運なダンサーズイメージの名を挙げるのを忘れていない。
のちに高齢になったダンサーズイメージは、種牡馬として日本に輸入されることになった。現在はトルコに血脈が多く残されているらしい。
さて、最後の余談だが、1968年ケンタッキーダービーでダンサーズイメージ降着事件があってからさらに20年たった1988年、フェニルブタゾン(phenylbutazone)という薬物は、またしても競馬で事件を引き起こしている。
ケンタッキーダービーが行われるチャーチルダウンズ競馬場で、1988年10月5日に、名物の国際レース、ブリーダーズカップが行われた。これは7つの異なる条件のG1レースを一日に行う格式高い国際レースなのだが、この日の優勝馬7頭のうち、6頭が、消炎剤フェニルブタゾンを用いていたことが判明。これにヨーロッパの調教師たちが抗議したことから、競馬における消炎剤使用の可否をめぐる激しい議論が巻き起こった。(優勝馬7頭の中には、世界競馬史の名牝と誉れ高い名牝ミエスクも含まれているが、果たしてミエスクが消炎剤を使った側か、そうでないかは確認していない)
ダンサーズイメージは1968年の降着事件で「チャーチルダウンズ競馬場では、消炎剤フェニルブタゾン禁止」というルールに泣いたわけだが、それから20年を経たら、こんどは「チャーチルダウンズ競馬場でも、消炎剤フェニルブタゾンを使用できる」というルールに変わっていた、ということだ。
現在、ヨーロッパ各国とニューヨーク州ではフェニルブタゾンのレース前使用を禁止しているが、ニューヨーク以外の州では、許容量に差があるものの、消炎剤フェニルブタゾンの使用は許されているらしい。
畜産統合検索システム
ダンサーズイメージのオーナー、ピーター・フラーは昨年2012年の春に89歳で逝去されている。おそらくは、1988年のブリーダーズカップでの薬物騒動を含め、アメリカ競馬の変遷を、苦笑いしながら眺めていたに違いない。
この事件では、人体に有害といわれる薬品を含む馬肉がイギリスからフランスへの食品流通ルートに乗った可能性があるらしい。詳しいことはよくわからないが、ヨーロッパ全体を巻き込んでいる。
この馬肉混入問題で、ちょっと気になったのが、イギリスで問題の馬肉を処理した処理場で検出されたフェニルブタゾン(phenylbutazone)という薬物の名前だ。
欧州の馬肉混入問題、フランス卸売会社が偽装の疑い | Reuters
フェニルブタゾン(phenylbutazone)は、非ステロイド系の鎮痛性抗炎症薬で、獣医が競走馬などの消炎剤として用いる。
だから、今回のヨーロッパの食品偽装事件で問題になっている馬肉とは、単なる馬ではなく、「競走馬の肉」であり、しかも「ヨーロッパ競馬では禁止されているはずの消炎剤フェニルブタゾンをたっぷり使っていた」という二重の意味がある。さらにいうなら、イギリスでは馬肉を食べる習慣がないらしいが、イギリス国内の業者は禁止薬物を使っていた競走馬を処理して、フランスに食肉として輸出し、加工食品がイギリス国内に還流していた、ことになる。
(ここではあえて詳しく触れないでおくが、動物用の消炎剤、つまり炎症を抑える薬物を故意に人間が使っているケースがあるらしく、ブログ記事などでそのビックリするほどの効き目の強さに驚いている様子が書かれたりしている。だがアナボリック・ステロイドも同じだが、ちょっとは副作用の強烈さを考えろ、といいたくなる)
CNNの記事によると、「フェニルブタゾンには人間への重い副作用や発がん性が指摘されており、食肉への残留は認められていない」とのことで、「アメリカ国内では、人間への使用は禁止されている」らしいが、同時に「イギリスの専門家は、もしこの薬品が残留した馬肉を食べたとしても、副作用が出ることはまずあり得ない」と、のんびりしたことを指摘しているらしい。
CNN.co.jp : 馬肉混入問題、英で3人逮捕 有害薬品残留の恐れも - (2/2)
フェニルブタゾンという薬物と競走馬をめぐって、こういうなんだかよくわからない出来事が、起きるのは、実は初めてではない。というのは、過去のアメリカ競馬において何度か、このフェニルブタゾンという薬物をめぐる問題が起きているからだ。
日本の競馬統括機関であるJRAにおいては、競馬法第56条、第59条の別表(2)に明記され、「フェニルブタゾンは禁止薬物」とハッキリ規定されている。日本では、馬術競技においても、フェニルブタゾン検出による失格・罰金を課した事例もある。
JRAホームページ│JRA関係法令等
公益社団法人 日本馬術連盟 《Japan Equestrian Federation》・日本馬術連盟・日馬連・馬術連盟・公益社団法人 日本馬術連盟
ところが、CNNが「人間におけるフェニルブタゾン使用を禁じている」というアメリカでは、州ごとに一定の制限を設けつつも、全体としては競走馬に対するフェニルブタゾン使用は許容している。
ホースマン、フェニルブタゾンの閾値引き下げに反対(アメリカ)[獣医・診療] - 海外競馬ニュース(2010/09/22)【獣医・診療】 | 公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル
ところが話はこれで終わらない。
1968年ケンタッキー・ダービーにおける
ダンサーズ・イメージ失格事件
写真左にいて、ダンサーズイメージに左手を置いているのが
オーナーのピーター・フラー氏。
1968年にケンタッキー州チャーチルダウンズ競馬場で行われたケンタッキー・ダービー(=日本でいう「日本ダービー」)で真っ先にゴール板を駆け抜けたのは、マサチューセッツのビジネスマン、Peter Fuller (ピーター・フラー。ファラーと記述しているサイトもある)氏所有のDancer's Image(ダンサーズイメージ)。2着は、2週間後にプリークネス・ステークスを勝つことになるForward Passだった。
愛馬のダービー優勝に満足げなピーター・フラーだが、喜びは長くは続かなかった。尿検査で禁止薬物 phenylbutazone が発見され、ダンサーズイメージは失格となってしまうのだ。
というのも、1968年当時、消炎剤フェニルブタゾンは、全米の競馬場で使用が許容されていたのだが、ケンタッキーダービーが行われるチャーチルダウンズ競馬場で「だけ」は使用禁止だったからだ。
オーナーのピーター・フラーは、それから長い間、ダンサーズイメージのダービー優勝確認を求めて法廷で争い続けたが、1973年に最高裁にもっていく期限が切れてしまう。
1968年のケンタッキー・ダービーから約5年が経過した1973年7月19日、かつて2着だったForward Passが「繰り上がりのダービー優勝馬」として認められ、関係者に優勝トロフィーが贈られるイベントが行われた。
日本では、この話はたいていここで終わってしまう。
だが、アメリカではまだまだ多くの余談がある。
ダンサーズイメージのオーナー、ピーター・フラーは、1923年にボストンで生まれている。父親の名は、Alvan Tufts Fuller(1878-1958)。彼は第50代マサチューセッツ州知事(1924-1929)をつとめた共和党員で、本来アメリカ史で有名なのは、息子ピーターではなくて、父アルヴァンのほうだ。
Alvan T. Fuller
Governor of Massachusetts - Wikipedia, the free encyclopedia
Alvan T. Fuller - Wikipedia, the free encyclopedia
父アルヴァン・フラーも、息子ピーターと同じく、マサチューセッツ州ボストンで生まれている。この「ボストン」という土地柄が、のちのち彼ら親子の運命に大きく影響することになる。
父アルヴァンが知事在任中に起きたのが、アメリカ史で有名な「サッコ・バンゼッティ事件」だ。
2人の英語の苦手なイタリア移民が強盗殺人事件の犯人として逮捕され、裁判で死刑が確定したが、刑確定後、相対性理論で有名なアルバート・アインシュタインなど各界の著名人から助命嘆願書が州知事アルヴァン・フラーに届けられる事態になったのだが、州知事アルヴァンが最終的に特赦を拒んだことで、1927年に2人は電気椅子に送られている。
Sacco and Vanzetti - Wikipedia, the free encyclopedia
サッコ・ヴァンゼッティ事件で、国際的な助命嘆願を棄却した形になった州知事アルヴァンは、立場上、どうしても悪代官役と見られがちではある。だが、この強盗事件の真相が今もハッキリとしてはいない以上、アルヴァン・フラーの善悪を軽々しく判断するべきではないだろう。(例えば、当時サッコ所有の拳銃の弾道検査が後年になって行われ、犯行に使用された銃であることがほぼ確定した、なんてこともあるらしい)
後に共和党から大統領になったフーバーを早くから支持していたアルヴァンは、フーバーの下でフランス大使になる望みを持っていたなどともいわれるが、結局マサチューセッツ州知事を最後に政界から足を洗い、ボストンで自動車ディーラーを営む一方で、絵画収集に励んだ。
アルヴァンの絵画コレクションは、後にワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートや、ボストン美術館に寄贈されているが、それら両方の美術館で過去にアルヴァン・フラー・コレクション展が行われているほどだから、アルヴァンの絵画に関する眼力は相当に素晴らしいものだったらしい。
ナショナル・ギャラリーにおける
アルヴァン・フラー寄贈作品リスト(3点)
Alvan T. Fuller - Former Owner
ボストン美術館における
アルヴァン・フラー寄贈作品リスト(9点)
Collections Search | Museum of Fine Arts, Boston
ボストン美術館のアルヴァン・フラー・コレクションのひとつ、ルノアールのBoating Couple (said to be Aline Charigot and Renoir)
さて話をアルヴァン・フラーの息子、ピーター・フラーと1968年に戻そう。
ピーター・フラーが1968年5月4日のケンタッキー・ダービーでのダンサーズイメージ降着を認めようとせず、長期にわたる裁判に訴えたことは既に書いたが、フラーは「俺は公民権運動に理解を示したことで、ボストンのやつらの感情を害した。だから俺とダンサーズイメージはset upされたんだ」と常々語っていたといわれている。
ニューヨーク・タイムズやボストン・グローブの記事などによれば、ピーター・フラーは、ダンサーズイメージのレースの優勝賞金(ブログ注:NY Timesの記事ではケンタッキー・ダービーの優勝賞金77,415ドル、ボストン・グローブではダービー前のレースの1着賞金62000ドルと書かれており、両者の記述は異なる)を、なんと、ケンタッキーダービーのちょうど1ヶ月前、1968年4月4日にテネシー州メンフィスで暗殺されたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の妻、Coretta Scott Kingに全額寄贈することにしていた、というのだ。
Peter D. Fuller Dies at 89 - Had to Return Derby Purse - NYTimes.com
この場合、set upは、まぁ、「ハメられた」とか「濡れ衣を着せられた」という意味になるわけだが、父親アルヴァン・フラーは冤罪かどうかが争われた1920年代の「サッコ・ヴァンゼッティ事件」に遭遇し、その息子ピーター・フラーは1960年代の「ダンサーズイメージ降着事件」で濡れ衣を主張したわけだから、なんともいえない運命の巡り合わせではある。
しかも、父親アルヴァンは、マサチューセッツ州知事として移民に対する人種差別をあえて容認したと世界から批判され、その40年後、こんどは息子のピーターは、父親とは逆に、人種差別撤廃を目標に掲げた公民権運動に理解を示したために人から恨みを買ってハメられたと、マサチューセッツ最大の都市ボストンの保守ぶりを批判してみせることになったのだから、この親子を翻弄した運命はちょっとマジカルなものがある。まさに、事実は小説より奇なりである。
ちなみに、1968年のダンサーズイメージ降着劇の起こったケンタッキー・ダービーの現場には、欧米競馬に詳しかった日本の詩人・寺山修司もいた。寺山は気にいっていたダンサーズイメージに「500ドル」儲けたらしい。当時は今と違って「1ドル=360円」の時代なのだから、寺山の賭け金は日本円にして「18万円」もの大金だったことになる。
寺山は勝ったと思ったダンサーズイメージの降着にもめげず、ダービーの2週間後、5月18日にボルティモアのピムリコ競馬場で行われたアメリカ牡馬クラシック三冠の第2戦、第93回プリークネス・ステークスも現地で観戦している。
プリークネス・ステークスでは、後年ケンタッキー・ダービー繰り上げ優勝を果たしたForward Passが勝ち、ダンサーズイメージは3着に負けたのだが、なんとダンサーズイメージ、こんどは進路妨害で再び降着処分を受けてしまうのだ。
つくづくついてない馬だが、そういう非運の馬にこそ思い入れの深い寺山としては、後に「忘れがたかった馬ベストテン」としてミオソチスなど10頭の馬名を並べた後に、「番外」として不運なダンサーズイメージの名を挙げるのを忘れていない。
のちに高齢になったダンサーズイメージは、種牡馬として日本に輸入されることになった。現在はトルコに血脈が多く残されているらしい。
さて、最後の余談だが、1968年ケンタッキーダービーでダンサーズイメージ降着事件があってからさらに20年たった1988年、フェニルブタゾン(phenylbutazone)という薬物は、またしても競馬で事件を引き起こしている。
ケンタッキーダービーが行われるチャーチルダウンズ競馬場で、1988年10月5日に、名物の国際レース、ブリーダーズカップが行われた。これは7つの異なる条件のG1レースを一日に行う格式高い国際レースなのだが、この日の優勝馬7頭のうち、6頭が、消炎剤フェニルブタゾンを用いていたことが判明。これにヨーロッパの調教師たちが抗議したことから、競馬における消炎剤使用の可否をめぐる激しい議論が巻き起こった。(優勝馬7頭の中には、世界競馬史の名牝と誉れ高い名牝ミエスクも含まれているが、果たしてミエスクが消炎剤を使った側か、そうでないかは確認していない)
ダンサーズイメージは1968年の降着事件で「チャーチルダウンズ競馬場では、消炎剤フェニルブタゾン禁止」というルールに泣いたわけだが、それから20年を経たら、こんどは「チャーチルダウンズ競馬場でも、消炎剤フェニルブタゾンを使用できる」というルールに変わっていた、ということだ。
現在、ヨーロッパ各国とニューヨーク州ではフェニルブタゾンのレース前使用を禁止しているが、ニューヨーク以外の州では、許容量に差があるものの、消炎剤フェニルブタゾンの使用は許されているらしい。
畜産統合検索システム
ダンサーズイメージのオーナー、ピーター・フラーは昨年2012年の春に89歳で逝去されている。おそらくは、1988年のブリーダーズカップでの薬物騒動を含め、アメリカ競馬の変遷を、苦笑いしながら眺めていたに違いない。
「賭けない男たち、というのは、
魅力のない男たちである」
-------寺山修司 『誰か故郷を想わざる』------
今回明るみになったレスリングのオリンピックからの除外騒動では、日本でもかなりの人たちがオリンピックそのものになにか幻滅に近いものを感じたようだ。ブログ主も、オリンピックで日本が支払わされている放映権料の他国と比べた異常な高さといい、オリンピック憲章違反を犯した韓国サッカー選手へのメダル授与といい、なにか「シラけたもの」を感じさせられた。
こんなにスゴイ ロビー活動の実態(ゲンダイネット) - livedoor スポーツ
【サッカー竹島問題】保留の五輪銅メダルを授与 領有主張の韓国選手に - MSN産経ニュース
オリンピックというのは、なにか世界を代表するスポーツ大会のように見えているが、実のところ、ヨーロッパ中心のリージョナルなスポーツ競技大会にすぎないのではないか、という意見すら聞こえてくる。(なのにロビー活動という名の利益供与を受ければヨーロッパで誕生した伝統あるレスリングの除外に傾いたりするのだから支離滅裂でもある)
西欧中心という意味だけでいうと、IOCというのは、FIFAやUCI(=国際自転車競技連合)や、F1の競技団体などと似た利権集中組織をもっている。
そこにアジアの一部やアフリカなどから、「利権のおすそわけ」を求めてロビー活動と称する「利権家」が集まってくる。
この先の展開の可能性のひとつとして、アメリカやロシアなどといったレスリングの盛んな国から、レスリング除外批判が集まることで、批判をかわそうとか考えそうな接待まみれ団体、IOCが、2013年9月に決まる2020年五輪の残り1枠の競技種目決定にあたって、レスリングを「故意に」選ぶことは、十分に考えられる。
レスリング五輪存続に光 IOC理事会で有力3候補案浮上 (スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース
だが、関係者はたぶん言いづらいだろうが、ハッキリ言っておけば、もしレスリングが選ばれ直しても、それで「やれやれ。よかったね」などとは、まったく思わない。
というのは、9月に決まる「残り1枠」を争っているのは、なにもレスリングだけではないからだ。
「野球・ソフトボール」や「空手」など、日本が得意とするスポーツは他にもある。五輪競技に選ばれるのを首を長くして待ってきた関係者にしてみれば、レスリングを一度除外しておいて、批判されたら選び直すなどという茶番に巻き込まれたのでは、たまらないだろう。
だが、だからといって、「レスリングを五輪に戻せ」的な空気の中で、「ウチだって、オリンピックに選ばれたいんだ」などとは大声では言いづらいだろうし、困った話だ。
なにも、野球が五輪種目に復帰してほしいから言うのではない。
むしろ個人的には、今回の騒動で、野球という歴史的にもう十分商業的に確立してきた競技にとっては、オリンピックなんていう利権にふりまわされるアマチュアの祭典は、もはやどうでもいい、という気さえする。あくまで個人的には、もし9月に「野球・ソフトボール」が選ばれなくても、別に何の感想も持たないだろう。「ああ、そう」で、おしまいだ。
もちろん、野球が五輪競技にふさわくない、とは、まったく思わない。MLB、それに個人レベルでも、野球を国際的に普及させる施策が、あちらこちらで始まっている。
だが、野球というのは幸いにして、もともとオリンピックや国際大会に頼りきってようやく成り立っているスポーツではない。野球は、国内ではまるで人気がないのに、ワールドカップ的な国際大会や海外でのわずかな活躍を虫メガネで拡大して報道することで、かろうじて「盛りあがっている印象」をもたせているような、マイナーなスポーツではない。
だが、ソフトボール。
これは別だ。
あれだけ日本中を沸かせてくれた北京オリンピックの上野由岐子投手以下、日本代表の熱い頑張りは、忘れるどころか、いつも頭にある。ソフトボールという面白い競技をオリンピックという大舞台に早く復帰させてやれないものか、つねづね願ってもきた。
そこへ今回のレスリング騒動だ。冷遇されているソフトボール、野球、レスリング、(ついでに言えば、採点に首を傾げることの多かったフィギュアスケート、ルール変更に泣き続けてきたスキー複合や柔道)どれもこれも日本やアメリカでさかんなスポーツである。このおかしな状況に、ちょっとは気づけよといいたくなる。
とりあえず今は、自立が進んでいる野球はともかく、ソフトボールのために言っておきたいと思うのだ。
9月に五輪競技に選んでほしいのは、ソフトボールも同じだ。と。
頑張れ、ソフトボール。
元サンフランシスコ・ジャイアンツのピーター・マゴワンが自費でパシフィックベルパークを建設したことをほめちぎるのは間違いだ、という話に関連して、近年建設されたMLBのボールパークの建設費において、Public Finacing、いわゆる公費の負担割合を、簡単に調べることのできた9つのボールパークについて、とりあえずリストにしてみた。
9つのうち7つのボールパークでは、建設費の約70%以上が公費負担でまかなわれている。
資料例:http://www.ballparks.com/(この記事の最下段に資料詳細へのリンク)
この「70%」という数字、思ったよりずっと低い。
というのは、後でもうちょっと詳しく書くが、日米にかぎらず、ことプロのベースボールに関しては「スタジアム建設の公費負担率」はもっとずっと高くていい、と考えるからだ。他のビジネスモデルが実は脆弱なプロスポーツはいざ知らず、野球というのは「『年間の施設使用日数が桁外れに多い』という意味で、他に類を見ないプロスポーツ」なのだから、なんならボールパークの建設費は、100%近い公費負担でも、自然だ、と思う。
上のリストを作るための資料を検索していて、ちょっと面白い資料を見つけた。ミルトン・フリードマンの母校でもあるニュージャージー州のラトガース大学のJudith Longによる研究だそうだ。(Long氏は現在はハーバードの大学院のひとつ、デザインスクール在籍らしい)
Judith Long氏の話の一部は、こんな話だ。
Judith Long氏によれば「アメリカのスタジアム建設の歴史において、建設費に占める公費負担の率は、いつの時代でも『61%』だった」とのことだが、これを近年に建設されたMLBのボールパークに絞って調べてみると、アメリカ平均の61%どころか、「かなりの数のボールパークが、さらに高い『70%以上の公費負担』で建設されている」。
この『70%』という数字、MLBにしてみると、高いだろうか、それとも、低いだろうか。
いろいろな考えがあるだろうが、個人的には、次のように思う。
こんなことを言うのも、
「プロフェッショナルな野球は、年間のゲーム開催日数が非常に多い、いいかえると、年間のスタジアム使用日数が非常に多いにもかかわらず商業的に成立できた、他に類を見ない、稀有なプロスポーツだから」だ。
他のスポーツ、例えば、日本でやたらと野球と比較したがる人の多いプロサッカーを例にとって説明してみよう。
日本であれ、ヨーロッパであれ、プロサッカーチームが、年間に行う「リーグ戦」は、せいぜい年間30数試合程度だ。
そうしたプロチームでさえ、本拠地でゲームしてスタジアムの収支を潤すのがわずか年間20試合から30試合しかないとすれば、ブログ主は、こと「スタジアムの建設と、その後の維持管理」という観点だけからいうと、サッカーという「年間試合数の非常に少ないスポーツ」において、専用スタジアムを維持できるビジネスモデルは、実は、最初から成立していない、と考える。
(「カップ戦」「チャンピオンズリーグのような地域チャンピオンシップ」などを入れれば、「プロサッカーチームの年間試合数」はもっと多いとおっしゃりたい方もいるかもしれない。
だが、そうした、より多くのゲームに参加できて、入場料収入や放映権収入をそれなりに加算できるクラブは、それぞれの国にごく少数、それも、いつも決まりきった「特定クラブ」だけしかない、というのがプロサッカーの常だ。大半のクラブはリーグ戦とごくわずかなカップ戦しか収入の機会がない。つまり、どんな国でも、平均的なプロサッカーチームにおけるスタジアムの収益規模なんてものは、たかがしれている、ということだ。そして、リーグ内での戦力の平均化も、ほとんど行われない)
たとえ世界に名の知れたヨーロッパの有力クラブであっても、年間30試合程度のリーグ戦の数で、専用スタジアムの年間スケジュール表を真っ黒になどできない。それは、たとえリーグ戦の全試合で10万人ずつ観客を集められたとしても、変わらない。プロサッカーチームの収支は、運よく欧州チャンピオンズリーグの決勝リーグに進出することで億単位といわれる放映権収入の分配でも受けないかぎり、最初から赤字は避けられない。(というか、チャンピオンズリーグの分配金を受け取ったとしても、プロサッカーチームはたいてい赤字になる)
有名クラブは、放映権収入をアテにして有名選手の獲得やクラブ運営を行い、メディア側も視聴率確保のために人気クラブの存在を前提にしたがる。だから、サッカーにおいては「常にごく少数の人気クラブだけが、常にリーグ上位を占めるという狭い硬直した構造」を無くすことなどできない。(この西欧らしい「狭さ」「硬直ぶり」は過去、八百長事件の温床ともなってきた)
サッカーに限らず、シーズンの長さ、試合数、スタジアムへの観客収容数が十分でないスポーツにおいては、そのスポーツ専用のスタジアムを建設しても、建設費と維持費が、観客動員による収益(入場料、ユニフォーム、売店、周辺施設などの売り上げ等)から十分に補填される可能性は著しく低い。
つまり、言い方を変えれば、実は、ほとんどあらゆるスポーツにおいて、「巨大な専用スタジアムを維持できるビジネスモデル」などというものは、ほとんど成り立ったことはない、ということだ。
もしビジネスとして成り立っていないスポーツが、無謀にも「専用スタジアムを持ちたい」と考えたら、どんなことが起こるか。
「そのスポーツ単独で、スタジアム維持費を負担し続けることができる可能性は、最初からほとんど無い」。さらに、たいていの場合、スタジアムを建設するカネも、最初から無い。にもかかわらず、毎年発生する人件費を含めたスタジアム維持費すら捻出できる見通しがまったくたっていない「ド田舎の高速道路のようなスタジアム」を建設することになる。(例えばJリーグでいうと、多少なりともクラブ側の自費負担で建設できたスタジアムは、ほとんど無い)
にもかかわらずスタジアムを建設しようとすれば、「スタジアム建設」に最初から「100%の公費負担」を求めることになり、さらにそれだけでおさまらず、「スタジアム維持費」についても、億単位の建設費におとらぬ多額の公費を、何十年もの長期にわたって投入し続けることになる。それはなまやさしい金額ではない。
当然ながら、建設されるのが「専用スタジアム」(たとえばサッカー専用スタジアム)ではなく、「他スポーツとの併用施設」(たとえば陸上とサッカーの兼用スタジアム)になることも、少なくない。
結果として、「スポーツ文化」とかいう美名のもとに「平日にはまったく使用する見込みの無い『陸上兼サッカースタジアム』」が、日本中に大量生産されることになる。
始末が悪いことに、たとえば地方都市に「兼用スタジアム」「多目的スタジアム」として建設したからといって、そのスタジアムの使い道はたいして増えたりしない。「スタジアムを多目的化する」程度の浅知恵で、平日のスタジアムのスケジュールは埋まらないし、年間収支も黒字にはできたりはしない。
地方都市に住む人たちのライフスタイルというものは、余暇時間が本当の意味で分散化しきっている都市民のライフスタイルとは根本が違う。もともと「平日にスタジアムに来れる人を多数確保すること」などできるわけがない。
勤め人が平日にスタジアムには来れないのはもちろんだが、地方で「週末が忙しい人」、例えば、週末に都市などから来る観光客相手の商売をしている人や、週末であっても田畑の面倒を見る必要がある人たちが、週末に兼用スタジアムに来れないからといって、では平日はスタジアムに来れるかというと、平日には平日の仕事(あるいは副業)がある、地方とはそういうものだ。
だから、「田舎に建設された兼用スタジアム」なんてものに、「平日の観客動員」など、最初から期待できるわけがないのである)
使い道の無い兼用スタジアムなんてものこそ、公費の無駄使いというものだ。
こういう、わけのわからないことが起きるのは、サッカーがその国で人気があるとか、ないとか、根付いていないとか、そういうこととまったく関係ない。
そもそも「専用スタジアムなんてものが成り立つビジネスモデルを持てたスポーツは、本来限られている。なのに、誰もが歴史の積み重ねや経営努力も積み重ねないまま、専用スタジアムを持ちたがって、失敗を繰り返す」、ただそれだけの話だ。
繰り返しになる。
野球というスポーツは、年間試合数が非常に多いわけだが、それでもファンの暖かい理解と関係者の長年の努力が積み重ねられてきた結果、一定の年間観客動員数が確保されてきた。観客からの入場料収入のみで野球チームが維持できてきたわけでもないが、こと「そのチームが、本拠地スタジアムのスケジュールを年間、何日埋めることができているか」、そして「胸を張って、地元自治体に『公費でスタジアムを建設してくれ』と言えるかどうか」という観点で言うなら、野球というスポーツに肩を並べられるプロスポーツは、ほとんどない。
専用スタジアムの年間使用日数が1ヶ月に満たない程度のスポーツが、専用スタジアム(あるいは兼用スタジアム)の建設に踏み切ったら、どうなるか。
当然ながら、スタジアムの年間スケジュールはほとんど真っ白なまま。そのスポーツだけでは、スタジアム建設費を入場料収入から事後回収するどころか、1年を通してスタジアムを使うことすら、ほとんどないわけだ。
結果として、その自治体は、誰も使わないスタジアムの、維持費、メンテナンス費などを、公費で、しかもずっと、しかも全額、負担し続けることになる。
そして、それだけでは済まない。公費を投入し続けるスタジアム側としては、なんとかメンツを保とうとする。たとえディスカウントしまくってでも、たとえスタンドがまるっきりガラガラだったとしても、スタジアムを有料使用してくれる奇特な主催者を探し続けるハメになり、そのムダなスタジアム専用職員の人件費と、ディスカウントしてまでして貸し出した日のゴミ処理などにかかる無駄な経費で、スタジアム収支はさらに深く墓穴を掘り続けることになる。
「最初からスタジアムをほとんど使わないことがわかりきっているスポーツなのに、全額公費による巨大スタジアムの建設を望んで、墓穴を掘り続けること」と、「十分な日数スタジアムを使用し、一定の観客動員があらかじめ想定できるスポーツに、公費を投入し、維持する」のとでは、まったく意味が違う。いうまでもない。
野球が、十分な年間ゲーム数があり、なおかつ定常的な観客動員を維持できるメドが歴史的に成り立ってきた稀有なスポーツだからこそ、スタジアムのネーミングライツも、スタジアム建設への公費投入も、ムダにならずに済む。
プロのベースボールチームが本拠地のスタジアムを建設する場合だからこそ、胸を張って地元自治体に、「100%近い公費負担をお願いしたい」と、言い切っていいと思うのである。
まぁ多少細かい誤解をされようが、どうでもいいから、明言しておこう。
野球というのは、「かなり特別なスポーツ」だ。
野球だからこそ、専用スタジアムを作る意味がある。
以下にMLBのボールパークの建設費内訳資料を添付→続きを読む
9つのうち7つのボールパークでは、建設費の約70%以上が公費負担でまかなわれている。
資料例:http://www.ballparks.com/(この記事の最下段に資料詳細へのリンク)
この「70%」という数字、思ったよりずっと低い。
というのは、後でもうちょっと詳しく書くが、日米にかぎらず、ことプロのベースボールに関しては「スタジアム建設の公費負担率」はもっとずっと高くていい、と考えるからだ。他のビジネスモデルが実は脆弱なプロスポーツはいざ知らず、野球というのは「『年間の施設使用日数が桁外れに多い』という意味で、他に類を見ないプロスポーツ」なのだから、なんならボールパークの建設費は、100%近い公費負担でも、自然だ、と思う。
Turner Field 100%だ
U.S. Cellular Field 100%
Great American Ball Park 86%
Coors Field 78%
Rangers Ballpark in Arlington 71%
Chase Field 68%
Minute Maid Park 68%
Progressive Field 48%
Comerica Park 38%
引用元:ballparks.comによるMLB30球団のボールパーク建設費の内訳
アメリカンリーグ
American League ballparks
ナショナルリーグ
National League ballparks
上のリストを作るための資料を検索していて、ちょっと面白い資料を見つけた。ミルトン・フリードマンの母校でもあるニュージャージー州のラトガース大学のJudith Longによる研究だそうだ。(Long氏は現在はハーバードの大学院のひとつ、デザインスクール在籍らしい)
Judith Long氏の話の一部は、こんな話だ。
「20世紀初頭から100年ほどの間に建設された186のスタジアムを調べてみると、建設費の『61%』が公費で負担されていた。そして、このパーセンテージは、1991年以降、2004年までの10数年に建設された、約20か所のMLBのボールパークを含む全米78のスタジアムの建設においても、実は、『61%』で、まったく変わっていない」
出典:Animated Infographic: Watch As America's Stadiums Pile Up On The Backs Of Taxpayers Through The Years
These 186 stadiums cost $53.0 billion in 2012 dollars, of which $32.2 billion―or 61 percent―was publicly financed. That's a shitload of taxpayer money.
The 1990s and early 2000s, on the other hand, were absolutely insane. From 1991 to 2004, a whopping 78 stadiums―5.6 per year―were built or underwent major renovation. This came to a cost of $26.0 billion (61 percent public).
Judith Long氏によれば「アメリカのスタジアム建設の歴史において、建設費に占める公費負担の率は、いつの時代でも『61%』だった」とのことだが、これを近年に建設されたMLBのボールパークに絞って調べてみると、アメリカ平均の61%どころか、「かなりの数のボールパークが、さらに高い『70%以上の公費負担』で建設されている」。
まとめ
MLBのボールパークでみると、その建設費に占める公費負担の割合は、全米のこの100年および近年の一般的なスタジアム建設費における公費負担割合61%より、ずっと多くの公費が投入されて、MLBのボールパークは建設されている。
この『70%』という数字、MLBにしてみると、高いだろうか、それとも、低いだろうか。
いろいろな考えがあるだろうが、個人的には、次のように思う。
「MLBのボールパーク建設にあたっては、全米のスタジアム建設における『61%』という平均的なパーセンテージを考慮する必要は、まったくない。
こと野球というプロスポーツにおいては、本拠地建設における公費負担率は、もっとずっと高くていいはずで、もしすべてのボールパークが『公費100%による建設』だったとしても、けしておかしくはない。」
こんなことを言うのも、
「プロフェッショナルな野球は、年間のゲーム開催日数が非常に多い、いいかえると、年間のスタジアム使用日数が非常に多いにもかかわらず商業的に成立できた、他に類を見ない、稀有なプロスポーツだから」だ。
他のスポーツ、例えば、日本でやたらと野球と比較したがる人の多いプロサッカーを例にとって説明してみよう。
日本であれ、ヨーロッパであれ、プロサッカーチームが、年間に行う「リーグ戦」は、せいぜい年間30数試合程度だ。
そうしたプロチームでさえ、本拠地でゲームしてスタジアムの収支を潤すのがわずか年間20試合から30試合しかないとすれば、ブログ主は、こと「スタジアムの建設と、その後の維持管理」という観点だけからいうと、サッカーという「年間試合数の非常に少ないスポーツ」において、専用スタジアムを維持できるビジネスモデルは、実は、最初から成立していない、と考える。
(「カップ戦」「チャンピオンズリーグのような地域チャンピオンシップ」などを入れれば、「プロサッカーチームの年間試合数」はもっと多いとおっしゃりたい方もいるかもしれない。
だが、そうした、より多くのゲームに参加できて、入場料収入や放映権収入をそれなりに加算できるクラブは、それぞれの国にごく少数、それも、いつも決まりきった「特定クラブ」だけしかない、というのがプロサッカーの常だ。大半のクラブはリーグ戦とごくわずかなカップ戦しか収入の機会がない。つまり、どんな国でも、平均的なプロサッカーチームにおけるスタジアムの収益規模なんてものは、たかがしれている、ということだ。そして、リーグ内での戦力の平均化も、ほとんど行われない)
たとえ世界に名の知れたヨーロッパの有力クラブであっても、年間30試合程度のリーグ戦の数で、専用スタジアムの年間スケジュール表を真っ黒になどできない。それは、たとえリーグ戦の全試合で10万人ずつ観客を集められたとしても、変わらない。プロサッカーチームの収支は、運よく欧州チャンピオンズリーグの決勝リーグに進出することで億単位といわれる放映権収入の分配でも受けないかぎり、最初から赤字は避けられない。(というか、チャンピオンズリーグの分配金を受け取ったとしても、プロサッカーチームはたいてい赤字になる)
有名クラブは、放映権収入をアテにして有名選手の獲得やクラブ運営を行い、メディア側も視聴率確保のために人気クラブの存在を前提にしたがる。だから、サッカーにおいては「常にごく少数の人気クラブだけが、常にリーグ上位を占めるという狭い硬直した構造」を無くすことなどできない。(この西欧らしい「狭さ」「硬直ぶり」は過去、八百長事件の温床ともなってきた)
まとめ
サッカー専用スタジアムにおける収支は、最初から決定的に破綻している。それはサッカーのビジネスモデルの基本構造の弱さから来ている。
サッカーに限らず、シーズンの長さ、試合数、スタジアムへの観客収容数が十分でないスポーツにおいては、そのスポーツ専用のスタジアムを建設しても、建設費と維持費が、観客動員による収益(入場料、ユニフォーム、売店、周辺施設などの売り上げ等)から十分に補填される可能性は著しく低い。
つまり、言い方を変えれば、実は、ほとんどあらゆるスポーツにおいて、「巨大な専用スタジアムを維持できるビジネスモデル」などというものは、ほとんど成り立ったことはない、ということだ。
まとめ
専用スタジアムを建設し、さらに継続的に維持・管理していくための収入源が、継続的に確保できているビジネスモデルを確立できたスポーツは、ほとんどない。
もしビジネスとして成り立っていないスポーツが、無謀にも「専用スタジアムを持ちたい」と考えたら、どんなことが起こるか。
「そのスポーツ単独で、スタジアム維持費を負担し続けることができる可能性は、最初からほとんど無い」。さらに、たいていの場合、スタジアムを建設するカネも、最初から無い。にもかかわらず、毎年発生する人件費を含めたスタジアム維持費すら捻出できる見通しがまったくたっていない「ド田舎の高速道路のようなスタジアム」を建設することになる。(例えばJリーグでいうと、多少なりともクラブ側の自費負担で建設できたスタジアムは、ほとんど無い)
にもかかわらずスタジアムを建設しようとすれば、「スタジアム建設」に最初から「100%の公費負担」を求めることになり、さらにそれだけでおさまらず、「スタジアム維持費」についても、億単位の建設費におとらぬ多額の公費を、何十年もの長期にわたって投入し続けることになる。それはなまやさしい金額ではない。
当然ながら、建設されるのが「専用スタジアム」(たとえばサッカー専用スタジアム)ではなく、「他スポーツとの併用施設」(たとえば陸上とサッカーの兼用スタジアム)になることも、少なくない。
結果として、「スポーツ文化」とかいう美名のもとに「平日にはまったく使用する見込みの無い『陸上兼サッカースタジアム』」が、日本中に大量生産されることになる。
始末が悪いことに、たとえば地方都市に「兼用スタジアム」「多目的スタジアム」として建設したからといって、そのスタジアムの使い道はたいして増えたりしない。「スタジアムを多目的化する」程度の浅知恵で、平日のスタジアムのスケジュールは埋まらないし、年間収支も黒字にはできたりはしない。
地方都市に住む人たちのライフスタイルというものは、余暇時間が本当の意味で分散化しきっている都市民のライフスタイルとは根本が違う。もともと「平日にスタジアムに来れる人を多数確保すること」などできるわけがない。
勤め人が平日にスタジアムには来れないのはもちろんだが、地方で「週末が忙しい人」、例えば、週末に都市などから来る観光客相手の商売をしている人や、週末であっても田畑の面倒を見る必要がある人たちが、週末に兼用スタジアムに来れないからといって、では平日はスタジアムに来れるかというと、平日には平日の仕事(あるいは副業)がある、地方とはそういうものだ。
だから、「田舎に建設された兼用スタジアム」なんてものに、「平日の観客動員」など、最初から期待できるわけがないのである)
使い道の無い兼用スタジアムなんてものこそ、公費の無駄使いというものだ。
こういう、わけのわからないことが起きるのは、サッカーがその国で人気があるとか、ないとか、根付いていないとか、そういうこととまったく関係ない。
そもそも「専用スタジアムなんてものが成り立つビジネスモデルを持てたスポーツは、本来限られている。なのに、誰もが歴史の積み重ねや経営努力も積み重ねないまま、専用スタジアムを持ちたがって、失敗を繰り返す」、ただそれだけの話だ。
繰り返しになる。
野球というスポーツは、年間試合数が非常に多いわけだが、それでもファンの暖かい理解と関係者の長年の努力が積み重ねられてきた結果、一定の年間観客動員数が確保されてきた。観客からの入場料収入のみで野球チームが維持できてきたわけでもないが、こと「そのチームが、本拠地スタジアムのスケジュールを年間、何日埋めることができているか」、そして「胸を張って、地元自治体に『公費でスタジアムを建設してくれ』と言えるかどうか」という観点で言うなら、野球というスポーツに肩を並べられるプロスポーツは、ほとんどない。
専用スタジアムの年間使用日数が1ヶ月に満たない程度のスポーツが、専用スタジアム(あるいは兼用スタジアム)の建設に踏み切ったら、どうなるか。
当然ながら、スタジアムの年間スケジュールはほとんど真っ白なまま。そのスポーツだけでは、スタジアム建設費を入場料収入から事後回収するどころか、1年を通してスタジアムを使うことすら、ほとんどないわけだ。
結果として、その自治体は、誰も使わないスタジアムの、維持費、メンテナンス費などを、公費で、しかもずっと、しかも全額、負担し続けることになる。
そして、それだけでは済まない。公費を投入し続けるスタジアム側としては、なんとかメンツを保とうとする。たとえディスカウントしまくってでも、たとえスタンドがまるっきりガラガラだったとしても、スタジアムを有料使用してくれる奇特な主催者を探し続けるハメになり、そのムダなスタジアム専用職員の人件費と、ディスカウントしてまでして貸し出した日のゴミ処理などにかかる無駄な経費で、スタジアム収支はさらに深く墓穴を掘り続けることになる。
「最初からスタジアムをほとんど使わないことがわかりきっているスポーツなのに、全額公費による巨大スタジアムの建設を望んで、墓穴を掘り続けること」と、「十分な日数スタジアムを使用し、一定の観客動員があらかじめ想定できるスポーツに、公費を投入し、維持する」のとでは、まったく意味が違う。いうまでもない。
野球が、十分な年間ゲーム数があり、なおかつ定常的な観客動員を維持できるメドが歴史的に成り立ってきた稀有なスポーツだからこそ、スタジアムのネーミングライツも、スタジアム建設への公費投入も、ムダにならずに済む。
プロのベースボールチームが本拠地のスタジアムを建設する場合だからこそ、胸を張って地元自治体に、「100%近い公費負担をお願いしたい」と、言い切っていいと思うのである。
まぁ多少細かい誤解をされようが、どうでもいいから、明言しておこう。
野球というのは、「かなり特別なスポーツ」だ。
野球だからこそ、専用スタジアムを作る意味がある。
以下にMLBのボールパークの建設費内訳資料を添付→続きを読む
February 13, 2013
サンフランシスコ・ジャイアンツの元オーナー、ピーター・マゴワンは、第二次大戦中の1942年に東海岸ニューヨーク生まれで、育ったのもニューヨーク。ジャイアンツがドジャースとともにニューヨークを去って西海岸に移転するのは1958年だから、マゴワンの幼少期には、まだジャイアンツは「ニューヨーク・ジャイアンツ」だったことになる。
Peter Magowan - Wikipedia, the free encyclopedia
マゴワンは、MLBファンには、パシフィックベルパーク(現在のAT&Tパーク)を建てた人物として知られている。全米屈指のスーパーマーケットチェーン、Safeweyの元社長だった彼は、パシフィックベルパークを、なんと「自腹」で作った。
自費で建てた理由は、なにも「マゴワンが最初から自腹を切ると、潔い覚悟をもっていたから」ではない。単に、建設費の一部を税金でまかなう法案がサンフランシスコで否決された、ただそれだけの話だ。
建設中のパシフィックベルパーク。
ライト場外が海なのが、よくわかる秀逸な写真。
Ballpark & Stadium Construction Photos, Ballparks of Baseball
1990年代以降には新古典主義と呼ばれるたくさんのボールパークが建設されたが、それらのボールパークの建設費事情と比較してみれば、マゴワンが「自費」でボールパークを建設したネゴシエーションの稚拙さはさらにハッキリする。
1991年に開場したシカゴのUSセルラー・フィールドは、タンパ移転をちらつかせたホワイトソックス側の巧妙な交渉によって、100%がPublic financing、つまり公費によって建設された。1992年に開場したボルチモアのオリオールパーク・アット・カムデンヤーズも、建設費の90数%が公費でまかなわれた。近年建設されたボールパークにしても、自費だけで建設したようなボールパークはほとんど見当たらない。
(例えば、1991年以降、2004年までに、約20のMLBのボールパークを含め、全米で78のスタジアムが建設されたが、「その建設費の61%が、公費によってまかなわれた」とする資料がある 資料:Animated Infographic: Watch As America's Stadiums Pile Up On The Backs Of Taxpayers Through The Years)
MLBファンにはアメリカ史に造詣のある人もたまに見るが、ピーター・マゴワンがSafeweyの元社長であることに触れる人はいても、彼が、かつてアメリカの三大投資銀行のひとつとして名を馳せた、かのメリル・リンチの創業者、そして全米屈指のスーパーマーケットSafewayの創業者でもあるチャールズ・メリル (1885-1956)の孫であることに言及する人を見たことがない。
かのメリルリンチの創業者、チャールズ・メリルは、ピーター・マゴワンの母方の祖父にあたる。
ピーターがCEOをつとめたSafewayという会社は、そもそも祖父のチャールズが創業し、育てあげたものだ。才にたけているとも思えないピーター・マゴワンが、パシフィックベルパークを自費で建てるほどの私財を持てた理由は、まぁ簡単にいえば、彼が偉大なるチャールズ・メリルの子孫だったからだ。
チャールズ・メリルは、まだジャイアンツがニューヨークにあった20世紀初頭の1914年に、ニューヨーク・ウォール街でCharles E. Merrill & Co.を創業した。翌年に友人エドモンド・リンチが加わり、社名をMerrill Lynch & Co., Inc.とあらためた。かの「メリルリンチ」の誕生である。メリルリンチは2007年にサブプライムショックで社業が大きく傾いてバンク・オブ・アメリカに吸収されるまで、世界的な投資銀行として名を馳せた。
映画『ドラゴンタトゥーの女』や『レ・ミゼラブル』に出演した女優ルーニー・マーラの曾祖父ティム・マーラは、ロウワー・イーストサイドの新聞売りから身を起こしてNFLニューヨーク・ジャイアンツのオーナーにまでなったが、チャールズ・メリルもティム・マーラと同じく、20世紀初頭に彗星のように現れたアメリカ立志伝中の人物たちのひとりで、非常に傑出した実業家で、大国アメリカの基礎を築いた偉人のひとりである。
Charles E. Merrill - Wikipedia, the free encyclopedia
Safewayは、チャールズが1926年に2つのスーパーマーケットを統合して作った。前身となったは、1915年にアイダホで創業しアメリカ北西部に展開した"Skaggs Stores"と、1912年にロサンゼルスで創業し南カリフォルニア中心に展開していた"Sam Seelig"である。
Safeway創業当時、チャールズがつくったメリルリンチ社自身が、1914年創業からわずか10年ほどしか経っていない。そんな短い期間にメリルリンチは、2つの中堅スーパーマーケットチェーン買収統合をとりまとめられるほどの資金力を持てたわけだから、チャールズの経営手腕がいかに優れたものだったかがわかる。
統合元になった2つのスーパーマーケットチェーンにしても、それぞれの創業からわずか10数年しか経っていない。20世紀初頭のアメリカ社会が、いかに若く旺盛で、はちきれんばかりの経済成長力、巨大なビジネスチャンスに満ち溢れていたか、本当によくわかる。
そうした若い時代のアメリカにあって、企業の成長を助ける投資銀行メリルリンチを創業して成功したチャールズが慧眼でないわけがない。
チャールズは、Safewayにメリルリンチ社の豊富な資金を注ぎ込んで急速な規模拡大をはかり、最盛期の1931年には3,527店舗を展開する全米有数のスーパーマーケットチェーンに育てた(現在は全米1501店、カナダ224店)。
資料:1932年のセーフウェイ州別店舗数
File:Safeway store numbers by state in 1932.gif - Wikipedia, the free encyclopedia
彼は、ただSafewayに投資して外から眺めていただけではなくて、順調なメリルリンチ社を1930年代に人にまかせてまでして、自分自身がSafewayの経営を行っていたらしいから、よほどSafewayの成長が楽しみだったのだろう。
後にチャールズは、このみずから手塩にかけて育てた愛すべき企業SafewayのCEO職を、娘婿であるRobert A. Magowan(=ピーター・マゴワンの父)にまかせた。1978年にそのRobert Magowanが亡くなって、Safeway社長職を継いだのが、サンフランシスコ・ジャイアンツの元オーナー、ピーター・マゴワンというわけだ。
さて、どこかで「マゴワンはジャイアンツを救った救世主としてサンフランシスコのファンに愛されている」なんてのんびりしたことを書いている記事を見たが、とんでもない。そんな単純な話なわけがない(笑)
また、財政危機が続いたかつてのジャイアンツが他都市に流出するのを防いだのは、マゴワンが評判の悪かったキャンドルスティック・パークをパシフィックベルパークに建て替えたからだ、だからマゴワンはジャイアンツの恩人だとか、もっともらしいことを書いているウェブ資料もよくみかけるが、それも嘘というものだ。
寒くて、やたらと強風が吹き付けるキャンドルスティックパークの最悪の環境は、観客数減少とチーム財政悪化をもたらし、1958年にニューヨークからサンフランシスコに移転してきたジャイアンツは、他都市へ流出する危機に常にさらされ続けてきた。
ニューヨーク時代から親子3代にわたって長くジャイアンツを所有してきたのはStoneham家だが、好転しないチーム財政からとうとう1970年代にチームを売却せざるをえなくなった。
このときカナダの実業家がかなり具体的な売却先としてあがっており、ジャイアンツはあやうく「トロント・ジャイアンツ」になりかけていた。(ちなみにニューヨーク・ジャイアンツの西海岸移転が実現する前に、Stoneham家が当初考えていた移転先は、実はサンフランシスコではなく、ミネソタだった)
Bob Lurie
カナダへの流出を阻止する形でStoneham家から1976年にジャイアンツを買い取り、その後も勝てない儲からないジャイアンツをなにかと財政が苦しい中でサンフランシスコにとどめ続け、1993年まで20数年間にわたって維持し続けたのは、マゴワンの先代オーナーにあたる地元の実業家、Bob Lurieだ。わずか10年足らずでジャイアンツを手放したニューヨーク生まれのマゴワンではない。
Bob Lurieはステロイダーを使った客寄せなどしていない。
2008年にピーター・マゴワンがジャイアンツのオーナーを辞めたとき、とあるサンフランシスコ地元紙は「かのミッチェル・リポートは、マゴワンを 『ステロイド・イネーブラ』 と呼んだ」という記述を含む記事を書き、マゴワン時代をあらためて冷たくあしらった。「マゴワンは恥ずべきステロイド時代の幕を開けた黒幕のひとり」というわけだ。
San Francisco Sentinel ≫ Blog Archives ≫ PETER MAGOWAN TO STEP DOWN AS SAN FRANCISCO GIANTS MANAGING PARTNER
他の資料:
Magowan: Bonds casts cloud
Baseball Savvy Off Base Archive: A Giant Pain in the Ass
Answer : It's official, Magowan is retiring
Magowan rips Mitchell report - Oakland Tribune | HighBeam Research
もちろんマゴワンが「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれたのには、理由がある。
バリー・ボンズのステロイド使用発覚に繋がる証言をしたのは、今はドジャースのチーフトレーナーになっているStan Conteだ。(ブログ注:ミッチェルレポートが告発したドーピング薬剤の供給元であるBALCO社をつくったVictor Conteとは、まったくの別人で、血縁者でもない)
Conteは、当時ジャイアンツでは新参にあたるトレーナーだったが、チーム内で見かけたいくつかの出来事から確信をもつに至り、当時のジャイアンツGMブライアン・サビーンのもとを訪れて、「バリー・ボンズのトレーナー、グレッグ・アンダーソンが、チーム内にステロイドを流通させている」と告発した。
だが、なんとGMサビーンも、オーナーのマゴワンも、そのことを調査もせず、さらに、MLBに通報もしなかったのである。
かのミッチェル・レポートが、サンフランシスコ・ジャイアンツの首脳陣2人、マゴワンとサビーンのドーピング容認ぶりを酷評したのは、こうした経緯をふまえてのことだ。
Don't blame Sabean for not blowing the whistle - SFGate
2000年以降にStan Conteが、同僚トレーナーやGMサビーンとどういうやりとりをし、ステロイド疑惑を確信に変えていったかという詳しい経緯は、たとえば以下の記事に詳しく書かれている。(どういうものか、英語版WikiにはStan Conteの項目がない)
11-28-07 ? Why Stan Conte Left the Giants | LADodgerTalk.com - Matt Kemp, Clayton Kershaw, Vin Scully, Andre Ethier and the Dodgers
後にStan Conteはサンフランシスコ・ジャイアンツを去り、やがてその優れた手腕をロサンゼルス・ドジャースにかわれて、ドジャースの医療部門シニアディレクター兼チーフトレーナーになっている。
Dodgers hire Stan Conte
ピーター・マゴワンは、バリー・ボンズへの甘い対応ぶりで「ステロイド・イネーブラ」などという汚名を残したわけだが、それだけでなく、2006年にスコット・ボラスの仲介で、7年126Mという、ありえない高額でバリー・ジトを獲得して大失敗に終わったことにみられるように、球団経営手腕の無さにおいてもジャイアンツ球団史に悪名を残している。
ジトはサンフランシスコ移籍以降、防御率が3点台だったことは一度も無く、58勝69敗。ERA4.47、WHIP1.404という惨憺たる成績に終わっている。
マゴワンがジトに手を出したのは、ミッチェルレポートが発表される2007年の前年、2006年オフだが、このときマゴワンはジト獲得について「1992年のバリー・ボンズ獲得に匹敵する大きな出来事」と自画自賛している。
つまりマゴワンは、まだミッチェルレポートが発表されていない2006年段階に、裏では内部告発によってバリー・ボンズがステロイダーであることを既に知っていたにもかかわらず、ボンズ獲得を自分の勲章と公言し、ジト獲得を得意満面で自画自賛していたのだから、「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれてもしかたがない。
ちなみにSafewayはいまも全米屈指のスーパーチェーンだが、「80年代に入ると世間のライフスタイルの変化に対応できず、客離れによる売上減が深刻化して、敵対的M&Aを仕掛けられるなど、危機的状態にあった」といわれている。この危機の脱出のためにSafewayは、北米以外に展開していた店舗を売り払わなければならなかった。
この一時期な危機的経営状態にあった80年代のSafewayのCEOは、ほかならぬ、ピーター・マゴワンだ。
Safewayは、現時点でも、ライバル企業、ウォルマートとの2000年以降続いている競合で収益が悪化して、不採算店の整理に追われる状況が続いているともいわれており、最近もチャールズ・メリル時代からずっと維持してきたカナダの200数十の店舗をカナダ企業に売却するという噂もある。
「メトロ」セーフウェイ・カナダを買収?、「マクドナルド」第4四半期の既存店売上+0.1% - 若林哲史のアメリカ流通最新情報
カナダのSafeway店舗は、チャールズ・メリルが手塩にかけてSafewayを育てていた20世紀初頭から既にあっただけに、もし売り払うようなことになれば、たとえ現在の経営状態を良化させ株主を喜ばせるプラス要因ではあるにしても、草葉の陰のチャールズは、けして喜ばないだろう。
稀代の投資家チャールズなら、ピーター・マゴワンがサンフランシスコ・ジャイアンツのスタジアムを自腹で建てたにもかかわらず、オーナーから退くようなことになった顛末についても、「なんで自腹を切るようなマネをした? 投資するなら、少しは知恵を使え。それに、せっかく身銭を切ってまでして作ったスタジアムなら、たった10年でオーナーシップから手を引くような馬鹿なこと、するんじゃない!」と、まなじり釣り上げて怒ったに違いない、と思う。
Peter Magowan - Wikipedia, the free encyclopedia
マゴワンは、MLBファンには、パシフィックベルパーク(現在のAT&Tパーク)を建てた人物として知られている。全米屈指のスーパーマーケットチェーン、Safeweyの元社長だった彼は、パシフィックベルパークを、なんと「自腹」で作った。
自費で建てた理由は、なにも「マゴワンが最初から自腹を切ると、潔い覚悟をもっていたから」ではない。単に、建設費の一部を税金でまかなう法案がサンフランシスコで否決された、ただそれだけの話だ。
建設中のパシフィックベルパーク。
ライト場外が海なのが、よくわかる秀逸な写真。
Ballpark & Stadium Construction Photos, Ballparks of Baseball
1990年代以降には新古典主義と呼ばれるたくさんのボールパークが建設されたが、それらのボールパークの建設費事情と比較してみれば、マゴワンが「自費」でボールパークを建設したネゴシエーションの稚拙さはさらにハッキリする。
1991年に開場したシカゴのUSセルラー・フィールドは、タンパ移転をちらつかせたホワイトソックス側の巧妙な交渉によって、100%がPublic financing、つまり公費によって建設された。1992年に開場したボルチモアのオリオールパーク・アット・カムデンヤーズも、建設費の90数%が公費でまかなわれた。近年建設されたボールパークにしても、自費だけで建設したようなボールパークはほとんど見当たらない。
(例えば、1991年以降、2004年までに、約20のMLBのボールパークを含め、全米で78のスタジアムが建設されたが、「その建設費の61%が、公費によってまかなわれた」とする資料がある 資料:Animated Infographic: Watch As America's Stadiums Pile Up On The Backs Of Taxpayers Through The Years)
MLBファンにはアメリカ史に造詣のある人もたまに見るが、ピーター・マゴワンがSafeweyの元社長であることに触れる人はいても、彼が、かつてアメリカの三大投資銀行のひとつとして名を馳せた、かのメリル・リンチの創業者、そして全米屈指のスーパーマーケットSafewayの創業者でもあるチャールズ・メリル (1885-1956)の孫であることに言及する人を見たことがない。
かのメリルリンチの創業者、チャールズ・メリルは、ピーター・マゴワンの母方の祖父にあたる。
ピーターがCEOをつとめたSafewayという会社は、そもそも祖父のチャールズが創業し、育てあげたものだ。才にたけているとも思えないピーター・マゴワンが、パシフィックベルパークを自費で建てるほどの私財を持てた理由は、まぁ簡単にいえば、彼が偉大なるチャールズ・メリルの子孫だったからだ。
チャールズ・メリルは、まだジャイアンツがニューヨークにあった20世紀初頭の1914年に、ニューヨーク・ウォール街でCharles E. Merrill & Co.を創業した。翌年に友人エドモンド・リンチが加わり、社名をMerrill Lynch & Co., Inc.とあらためた。かの「メリルリンチ」の誕生である。メリルリンチは2007年にサブプライムショックで社業が大きく傾いてバンク・オブ・アメリカに吸収されるまで、世界的な投資銀行として名を馳せた。
映画『ドラゴンタトゥーの女』や『レ・ミゼラブル』に出演した女優ルーニー・マーラの曾祖父ティム・マーラは、ロウワー・イーストサイドの新聞売りから身を起こしてNFLニューヨーク・ジャイアンツのオーナーにまでなったが、チャールズ・メリルもティム・マーラと同じく、20世紀初頭に彗星のように現れたアメリカ立志伝中の人物たちのひとりで、非常に傑出した実業家で、大国アメリカの基礎を築いた偉人のひとりである。
Charles E. Merrill - Wikipedia, the free encyclopedia
Safewayは、チャールズが1926年に2つのスーパーマーケットを統合して作った。前身となったは、1915年にアイダホで創業しアメリカ北西部に展開した"Skaggs Stores"と、1912年にロサンゼルスで創業し南カリフォルニア中心に展開していた"Sam Seelig"である。
Safeway創業当時、チャールズがつくったメリルリンチ社自身が、1914年創業からわずか10年ほどしか経っていない。そんな短い期間にメリルリンチは、2つの中堅スーパーマーケットチェーン買収統合をとりまとめられるほどの資金力を持てたわけだから、チャールズの経営手腕がいかに優れたものだったかがわかる。
統合元になった2つのスーパーマーケットチェーンにしても、それぞれの創業からわずか10数年しか経っていない。20世紀初頭のアメリカ社会が、いかに若く旺盛で、はちきれんばかりの経済成長力、巨大なビジネスチャンスに満ち溢れていたか、本当によくわかる。
そうした若い時代のアメリカにあって、企業の成長を助ける投資銀行メリルリンチを創業して成功したチャールズが慧眼でないわけがない。
チャールズは、Safewayにメリルリンチ社の豊富な資金を注ぎ込んで急速な規模拡大をはかり、最盛期の1931年には3,527店舗を展開する全米有数のスーパーマーケットチェーンに育てた(現在は全米1501店、カナダ224店)。
資料:1932年のセーフウェイ州別店舗数
File:Safeway store numbers by state in 1932.gif - Wikipedia, the free encyclopedia
彼は、ただSafewayに投資して外から眺めていただけではなくて、順調なメリルリンチ社を1930年代に人にまかせてまでして、自分自身がSafewayの経営を行っていたらしいから、よほどSafewayの成長が楽しみだったのだろう。
後にチャールズは、このみずから手塩にかけて育てた愛すべき企業SafewayのCEO職を、娘婿であるRobert A. Magowan(=ピーター・マゴワンの父)にまかせた。1978年にそのRobert Magowanが亡くなって、Safeway社長職を継いだのが、サンフランシスコ・ジャイアンツの元オーナー、ピーター・マゴワンというわけだ。
さて、どこかで「マゴワンはジャイアンツを救った救世主としてサンフランシスコのファンに愛されている」なんてのんびりしたことを書いている記事を見たが、とんでもない。そんな単純な話なわけがない(笑)
また、財政危機が続いたかつてのジャイアンツが他都市に流出するのを防いだのは、マゴワンが評判の悪かったキャンドルスティック・パークをパシフィックベルパークに建て替えたからだ、だからマゴワンはジャイアンツの恩人だとか、もっともらしいことを書いているウェブ資料もよくみかけるが、それも嘘というものだ。
寒くて、やたらと強風が吹き付けるキャンドルスティックパークの最悪の環境は、観客数減少とチーム財政悪化をもたらし、1958年にニューヨークからサンフランシスコに移転してきたジャイアンツは、他都市へ流出する危機に常にさらされ続けてきた。
ニューヨーク時代から親子3代にわたって長くジャイアンツを所有してきたのはStoneham家だが、好転しないチーム財政からとうとう1970年代にチームを売却せざるをえなくなった。
このときカナダの実業家がかなり具体的な売却先としてあがっており、ジャイアンツはあやうく「トロント・ジャイアンツ」になりかけていた。(ちなみにニューヨーク・ジャイアンツの西海岸移転が実現する前に、Stoneham家が当初考えていた移転先は、実はサンフランシスコではなく、ミネソタだった)
Bob Lurie
カナダへの流出を阻止する形でStoneham家から1976年にジャイアンツを買い取り、その後も勝てない儲からないジャイアンツをなにかと財政が苦しい中でサンフランシスコにとどめ続け、1993年まで20数年間にわたって維持し続けたのは、マゴワンの先代オーナーにあたる地元の実業家、Bob Lurieだ。わずか10年足らずでジャイアンツを手放したニューヨーク生まれのマゴワンではない。
Bob Lurieはステロイダーを使った客寄せなどしていない。
2008年にピーター・マゴワンがジャイアンツのオーナーを辞めたとき、とあるサンフランシスコ地元紙は「かのミッチェル・リポートは、マゴワンを 『ステロイド・イネーブラ』 と呼んだ」という記述を含む記事を書き、マゴワン時代をあらためて冷たくあしらった。「マゴワンは恥ずべきステロイド時代の幕を開けた黒幕のひとり」というわけだ。
San Francisco Sentinel ≫ Blog Archives ≫ PETER MAGOWAN TO STEP DOWN AS SAN FRANCISCO GIANTS MANAGING PARTNER
Magowan had grown weary of criticism over his handling of Bonds and was stung by his unflattering portrayal as a steroid enabler in the Mitchell Report. But he also might have felt pressured by limited partners to abdicate his position.
他の資料:
Magowan: Bonds casts cloud
Baseball Savvy Off Base Archive: A Giant Pain in the Ass
Answer : It's official, Magowan is retiring
Magowan rips Mitchell report - Oakland Tribune | HighBeam Research
もちろんマゴワンが「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれたのには、理由がある。
バリー・ボンズのステロイド使用発覚に繋がる証言をしたのは、今はドジャースのチーフトレーナーになっているStan Conteだ。(ブログ注:ミッチェルレポートが告発したドーピング薬剤の供給元であるBALCO社をつくったVictor Conteとは、まったくの別人で、血縁者でもない)
Conteは、当時ジャイアンツでは新参にあたるトレーナーだったが、チーム内で見かけたいくつかの出来事から確信をもつに至り、当時のジャイアンツGMブライアン・サビーンのもとを訪れて、「バリー・ボンズのトレーナー、グレッグ・アンダーソンが、チーム内にステロイドを流通させている」と告発した。
だが、なんとGMサビーンも、オーナーのマゴワンも、そのことを調査もせず、さらに、MLBに通報もしなかったのである。
かのミッチェル・レポートが、サンフランシスコ・ジャイアンツの首脳陣2人、マゴワンとサビーンのドーピング容認ぶりを酷評したのは、こうした経緯をふまえてのことだ。
Don't blame Sabean for not blowing the whistle - SFGate
2000年以降にStan Conteが、同僚トレーナーやGMサビーンとどういうやりとりをし、ステロイド疑惑を確信に変えていったかという詳しい経緯は、たとえば以下の記事に詳しく書かれている。(どういうものか、英語版WikiにはStan Conteの項目がない)
11-28-07 ? Why Stan Conte Left the Giants | LADodgerTalk.com - Matt Kemp, Clayton Kershaw, Vin Scully, Andre Ethier and the Dodgers
後にStan Conteはサンフランシスコ・ジャイアンツを去り、やがてその優れた手腕をロサンゼルス・ドジャースにかわれて、ドジャースの医療部門シニアディレクター兼チーフトレーナーになっている。
Dodgers hire Stan Conte
ピーター・マゴワンは、バリー・ボンズへの甘い対応ぶりで「ステロイド・イネーブラ」などという汚名を残したわけだが、それだけでなく、2006年にスコット・ボラスの仲介で、7年126Mという、ありえない高額でバリー・ジトを獲得して大失敗に終わったことにみられるように、球団経営手腕の無さにおいてもジャイアンツ球団史に悪名を残している。
ジトはサンフランシスコ移籍以降、防御率が3点台だったことは一度も無く、58勝69敗。ERA4.47、WHIP1.404という惨憺たる成績に終わっている。
マゴワンがジトに手を出したのは、ミッチェルレポートが発表される2007年の前年、2006年オフだが、このときマゴワンはジト獲得について「1992年のバリー・ボンズ獲得に匹敵する大きな出来事」と自画自賛している。
つまりマゴワンは、まだミッチェルレポートが発表されていない2006年段階に、裏では内部告発によってバリー・ボンズがステロイダーであることを既に知っていたにもかかわらず、ボンズ獲得を自分の勲章と公言し、ジト獲得を得意満面で自画自賛していたのだから、「ステロイド・イネーブラ」と呼ばれてもしかたがない。
ちなみにSafewayはいまも全米屈指のスーパーチェーンだが、「80年代に入ると世間のライフスタイルの変化に対応できず、客離れによる売上減が深刻化して、敵対的M&Aを仕掛けられるなど、危機的状態にあった」といわれている。この危機の脱出のためにSafewayは、北米以外に展開していた店舗を売り払わなければならなかった。
この一時期な危機的経営状態にあった80年代のSafewayのCEOは、ほかならぬ、ピーター・マゴワンだ。
Safewayは、現時点でも、ライバル企業、ウォルマートとの2000年以降続いている競合で収益が悪化して、不採算店の整理に追われる状況が続いているともいわれており、最近もチャールズ・メリル時代からずっと維持してきたカナダの200数十の店舗をカナダ企業に売却するという噂もある。
「メトロ」セーフウェイ・カナダを買収?、「マクドナルド」第4四半期の既存店売上+0.1% - 若林哲史のアメリカ流通最新情報
カナダのSafeway店舗は、チャールズ・メリルが手塩にかけてSafewayを育てていた20世紀初頭から既にあっただけに、もし売り払うようなことになれば、たとえ現在の経営状態を良化させ株主を喜ばせるプラス要因ではあるにしても、草葉の陰のチャールズは、けして喜ばないだろう。
稀代の投資家チャールズなら、ピーター・マゴワンがサンフランシスコ・ジャイアンツのスタジアムを自腹で建てたにもかかわらず、オーナーから退くようなことになった顛末についても、「なんで自腹を切るようなマネをした? 投資するなら、少しは知恵を使え。それに、せっかく身銭を切ってまでして作ったスタジアムなら、たった10年でオーナーシップから手を引くような馬鹿なこと、するんじゃない!」と、まなじり釣り上げて怒ったに違いない、と思う。
1958年に西海岸に移転したサンフランシスコ・ジャイアンツは、当初は臨時の本拠地としてサンフランシスコ・シールズのホームグラウンドだったシールズ・スタジアムを使っていたが、1960年に新しいキャンドルスティック・パークに移った。
キャンドルスティック・パークは、ジャイアンツ移転を熱烈に招致したサンフランシスコ市側が用意したボールパークで、日本では大映の永田雅一オーナーが夢を描いて東京南千住に私財を投じて建設した東京スタジアムのモデルになったことでも知られている。
Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (2)ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアムの一時使用と、チェニー・スタジアムの建設
Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場
Damejima's HARDBALL:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (4)夢の東京スタジアムの誕生
Damejima's HARDBALL:2012年3月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (5)番外編 元祖「安打製造機」 榎本喜八にとっての『故郷』、東京スタジアム。
キャンドルスティック・パークは、1960年から1999年までの約40年間もの長きにわたってサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地だったわけだが、寒さや強風などで評判は良くなかった。ジャイアンツは2000年にようやくセーフウェイ社長ピーター・マゴワンが自費で建設したパシフィックベル・パーク(現在のAT&Tパーク)に移ることができた。
その後、キャンドルスティックはNFLサンフランシスコ49ersのホームスタジアムとして使われた。そのサンフランシスコ49ersも、2014年8月にはサンフランシスコから南へ70キロほど行ったシリコンバレーに近いサンタクララに開場する予定の新スタジアムに移ることになっている。
49ersがサンタクララに移転した後は、キャンドルスティック・パークは取り壊しになる。ドジャースとジャイアンツが切り開いたMLBの西海岸進出を支えてきたキャンドルスティック・パークの長い役目は、もうすぐ終わりを迎えるのである。 今年のスーパーボールにサンフランシスコ49ersが進出したのも、何かの縁というものだろう。
キャンドルスティック・パークの座席表
当然ながら、グラウンドが円形に出来ている野球や陸上競技では、観客席は「グラウンドを丸く取り囲むような形」で作られている。
対して、グラウンド自体が四角いアメリカン・フットボールやバスケットでは、観客席も「四角形」になっている。
キャンドルスティック・パークは、もともと野球専用として建設されたボールパークがフットボールに流用されていただけに、フットボールのグラウンドとして使われる場合でも、座席配置は野球場時代の痕跡がありありと残った独特の並びになっていた。
角度Aから見た
フットボール開催時のキャンドルスティック・パーク
写真左側に見える弓なりに曲がった部分は、野球でいう「バックネット」にあたる円形部分だ。フットボール場として設計されたスタジアムなら、選手がプレーする四角いフィールドに沿って、直線で設計されているところだが、元・野球場のキャンドルスティック・パークでは「円形」なのだ。
右側に目を向けると「張り出した感じの観客席」が見える。ここは野球場だった時代には「ライト側の外野」にあたる。フットボール場として使うにあたって、「ライト側の外野」を覆い隠すような形で新設されたシートなわけだ。
それにしても、この「新設の張り出しスタンド」は、フットボールのグラウンドと平行にできていないのが、なんとも不思議だ。まぁ、たぶん構造か強度か、なにか建築上の理由でもあって、やむをえない配置になっているのだろうが、それにしてもなんとも収まりの悪い座席配置ではある。
角度Bから見た
フットボール開催時のキャンドルスティック・パーク
写真右端に、ほんのわずかだが、アンツーカー部分が見える。これはもちろん、キャンドルスティックが野球場だった時代、バックネット手前にあったウォーニングゾーンの名残りだろう。
右側の観客席は、野球場だった時代の内野席をそのまま使っているために、スタンド全体が大きく弧を描いた丸い形になっている。
ちなみに、サンフランシスコ49ersのサンタクララの新スタジアムの完成予想図を挙げておこう。みてのとおり、四角いフットボールのフィールドを取り囲むように、「四角い観客席」がつくられた、非常に常識的なスタジアムになっている。
キャンドルスティック・パークは、ジャイアンツ移転を熱烈に招致したサンフランシスコ市側が用意したボールパークで、日本では大映の永田雅一オーナーが夢を描いて東京南千住に私財を投じて建設した東京スタジアムのモデルになったことでも知られている。
Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (2)ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、シールズ・スタジアムの一時使用と、チェニー・スタジアムの建設
Damejima's HARDBALL:2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (3)キャンドルスティック・パーク、ドジャー・スタジアム、シェイ・スタジアムの開場
Damejima's HARDBALL:2012年3月23日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (4)夢の東京スタジアムの誕生
Damejima's HARDBALL:2012年3月30日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」 (5)番外編 元祖「安打製造機」 榎本喜八にとっての『故郷』、東京スタジアム。
キャンドルスティック・パークは、1960年から1999年までの約40年間もの長きにわたってサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地だったわけだが、寒さや強風などで評判は良くなかった。ジャイアンツは2000年にようやくセーフウェイ社長ピーター・マゴワンが自費で建設したパシフィックベル・パーク(現在のAT&Tパーク)に移ることができた。
その後、キャンドルスティックはNFLサンフランシスコ49ersのホームスタジアムとして使われた。そのサンフランシスコ49ersも、2014年8月にはサンフランシスコから南へ70キロほど行ったシリコンバレーに近いサンタクララに開場する予定の新スタジアムに移ることになっている。
49ersがサンタクララに移転した後は、キャンドルスティック・パークは取り壊しになる。ドジャースとジャイアンツが切り開いたMLBの西海岸進出を支えてきたキャンドルスティック・パークの長い役目は、もうすぐ終わりを迎えるのである。 今年のスーパーボールにサンフランシスコ49ersが進出したのも、何かの縁というものだろう。
キャンドルスティック・パークの座席表
当然ながら、グラウンドが円形に出来ている野球や陸上競技では、観客席は「グラウンドを丸く取り囲むような形」で作られている。
対して、グラウンド自体が四角いアメリカン・フットボールやバスケットでは、観客席も「四角形」になっている。
キャンドルスティック・パークは、もともと野球専用として建設されたボールパークがフットボールに流用されていただけに、フットボールのグラウンドとして使われる場合でも、座席配置は野球場時代の痕跡がありありと残った独特の並びになっていた。
角度Aから見た
フットボール開催時のキャンドルスティック・パーク
写真左側に見える弓なりに曲がった部分は、野球でいう「バックネット」にあたる円形部分だ。フットボール場として設計されたスタジアムなら、選手がプレーする四角いフィールドに沿って、直線で設計されているところだが、元・野球場のキャンドルスティック・パークでは「円形」なのだ。
右側に目を向けると「張り出した感じの観客席」が見える。ここは野球場だった時代には「ライト側の外野」にあたる。フットボール場として使うにあたって、「ライト側の外野」を覆い隠すような形で新設されたシートなわけだ。
それにしても、この「新設の張り出しスタンド」は、フットボールのグラウンドと平行にできていないのが、なんとも不思議だ。まぁ、たぶん構造か強度か、なにか建築上の理由でもあって、やむをえない配置になっているのだろうが、それにしてもなんとも収まりの悪い座席配置ではある。
角度Bから見た
フットボール開催時のキャンドルスティック・パーク
写真右端に、ほんのわずかだが、アンツーカー部分が見える。これはもちろん、キャンドルスティックが野球場だった時代、バックネット手前にあったウォーニングゾーンの名残りだろう。
右側の観客席は、野球場だった時代の内野席をそのまま使っているために、スタンド全体が大きく弧を描いた丸い形になっている。
ちなみに、サンフランシスコ49ersのサンタクララの新スタジアムの完成予想図を挙げておこう。みてのとおり、四角いフットボールのフィールドを取り囲むように、「四角い観客席」がつくられた、非常に常識的なスタジアムになっている。
February 05, 2013
「道を極め、自分の型をもつに至る」、ということと、
「型にはまる」「型にとらわれる」ということの違いは、
よく勘違いされ、混同されてもいる。
型にはまらないことは、型を持たない、という意味にはならない。むしろ、往々にして、道を極めた達人は、その人しか持ちえない独特の型を持つに至っていることが多い。
血気さかんな若いとき、「型にとらわれたくない」「個性を大事にしたい」と考えることは、よくある。
では、若いから型にはまらないのか、個性的なのか、というと、そんなことはない。というのも、若さはとかく型に流されやすいからだ。若く青臭い芸は、型にとらわれ、型苦しい。若さとは、他人と同じであることに安住し、群れて泳ぎたがる雑魚である、という意味でもある。若さを安易に可能性や個性に結びつける考え方そのものは、「年寄りじみた、型にはまった思考」でしかない。
気ままにやっていさえすれば、自分というものにたどりつけるわけではない。かえって、昔からある型を丹念になぞり続けるような、ひどく単調で、面白くもなんともない修練を淡々と積み重ねることでしか、自分の型に至る道が開けないこともある。
つまるところ、「型に学びながらも、埋没することなく、さらに自分だけの型をもつに至る」というちょっと矛盾した行為を、どうしたら実現できるか、という問いは、「自由」というものをいかにしたら獲得できるか、という問いに、とてもよく似ている。
日本の文化にとって、型というものがもつ様式美は非常に重要なものだ。そして、それは同時に「日本には独特の自由の様式がある」という意味でもある。
日本の文化に携わる人たちは最初、単調な修練の連続によって意図的に型にとらわれることからコトを始めるわけだが、その後、型の奴隷のまま終わるか、それとも、自分の型や自由をもち、モノになるかは、誰にもわからない。
自分の型をもつことができた人を、何人見ることができるか。これは、自分が生きて死ぬまでの、長いような、それでいて短いような暮らしがどれだけ潤いのあるものになるか、という点で、非常に重要だと思う。
自分だけの限られた世紀において、自分だけの型を持つに至った存在、Legendを目にすることができたなら、それは無上の喜びというものだし、出現してくれてありがとうと言いたくなる。
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