April 2013

April 29, 2013

写真家ロバート・フランクが1955年から56年にかけてアメリカを旅して撮影した作品集 『アメリカ人』 がアメリカ国内で出たのは、初版が58年にパリで出版された翌年の1959年だが、それを見た当時の若者がインスパイアされ、「自分もあんな風に自由にアメリカを旅してみたい」という思いを抱いたとき、実は、「アメリカにおける放浪」は既に消滅していた、という話を以下に書く。(Copyright © 2013 damejima. All Rights Reserved.)

だから、例えば1968年にサイモン&ガーファンクルが出したアルバム "Bookend" に収められた "America" という曲の "Looking for America" という歌詞について、「アメリカと自分を探す」だのなんだのと、センチメンタルにばかり解釈するのは根本的に間違いなのだ。


アメリカにおける「放浪」は、いつ、どんな形で消滅したのか。
その「放浪の消滅」にとって「1958年」という年は、
なにか意味のある特別な年なのか。


まず比較のために
「3つの異なる時代のアメリカの旅」を挙げる。

以下で3つの旅を比較する目的は、「1958年」という年が、アメリカ社会の質にとって、いかに大きなターニングポイントだったかということを、野球以外の角度から示すことにある。それによって、ドジャースジャイアンツが西海岸に移転した「1958年」という年の「特別さ」を、さらに鮮明に証明できるはずだ。
具体的な作業としては、サイモン&ガーファンクルの "America" という曲に関する従来の弛緩しきった解釈を訂正し、新しく解読しなおす作業が中心になる。

1)1940年代末
ジャック・ケルアックの小説『路上』における旅。主としてアメリカを東から西へと横断する旅が描かれた。
この旅が北米を「東から西へ」という方角で行われたことには、少なからぬ意味がある。日本の江戸時代に、大都市江戸に住む松尾芭蕉が旅したのが「江戸から東北へ」、つまり「都市から田舎へ」という方向であって、その逆ではなかったことにみられるように、放浪生活の奔放さに心奪われるのは、やはり「都市の住人が持ちたがる憧憬」の典型的パターンなのだ。

『路上』の出版自体は1957年だが、作品の元ネタになった放浪そのものは、出版より10年も前、「1940年代末」に行われたもので、1950年代ではない。この「行為の行われた年代と作品発表年代との間の大きなズレ」は非常に重要な意味をもつ。
この「ズレ」はこれまで、その意味をほとんど理解されないまま、「ケルアックが旅をしたのは『路上』が出版された50年代だ」と勝手に思い込んでいる人が少なくない。(ケルアックファンを自称する人ですら、知らない人がいる)

ケルアックは、40年代に行った旅から10年もたってようやく『路上』を世に作品として送り出すことができたのだが、50年代末には、実は「アメリカの荒野を放浪する行為そのものが、不可能になっていた」
ケルアックは1960年に出版された『路上の旅人』という本の中で、「1956年以降、ホーボーをやめざるをえなかった」、「もはや荒野で一人でいることさえ不可能」、「アメリカの森は監視員でいっぱいだ」と、1950年代のアメリカの変質を指摘している。
ケルアックは、『路上』の出版にようやくこぎつけた時には既に、「放浪」という「彼のクリエイティビティの源泉」を失っていたのである。『路上』出版以降のケルアックはほとんどロクに書けない状態だったのは、彼のネタ元である「放浪」がアメリカにおいては不可能になっていたためであり、1960年代はケルアックにとっては余生に過ぎない。

2)1950年代中期
ロバート・フランクが1955年から56年にかけて行ったアメリカ横断撮影旅行は、『路上』と同じく、北米を東から西へ向かって行われた。撮影された写真は、1958年にパリで『アメリカ人』初版として出版され、さらに翌58年、写真集としての体裁でアメリカ版が出版されている。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2013年4月18日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。『ロバート・フランク眼鏡』をかけず、裸眼で見る「モンタナ」。スポーツと家族とクルマのあるアメリカ。
ロバート・フランクがアメリカを旅して自動車に乗る人々を熱心に撮影した1950年代は、「アメリカにおける放浪」が文化として消滅しつつある時代であり、アメリカの交通機関の主力としてかつて隆盛を誇った「鉄道」や「長距離バス」が衰退し始めた時代であり、その一方では「旅客機」と「自動車」の発達が始まっており、アメリカの旅をめぐる環境は大きく変貌しつつあった時代である。

3)1960年代前半
サイモン&ガーファンクルの1968年リリースのアルバム "Bookend" に収録された "America" という曲において、ポール・サイモンが描いた旅は、上の2つのサンプルとは旅の方角が180度違い、ミシガンの田舎から大都市ニューヨークへ、「西から東」という方向で行われた。この「西から東」という方角に、深い意味がある。
『路上』にみられた「ズレ」は、この曲にも存在する。アルバム "Bookend" のリリースが1968年であることで、この"America" という曲を「60年代後半のアメリカの若者の旅を描写した曲」だと思っている人が多い。
だが、実際にはこの曲は、1965年にデモテープ化されていたことがわかっていて、さらに曲中に出てくる "Mrs. Wagner pie" という固有名詞が実在の会社で、その会社が1966年に倒産していることから、"America" に描かきこまれた旅のカップルは、60年代末の若者ではなく、60年代前期の若者の姿だ。


1968年にリリースされたサイモン&ガーファンクルの "America" を聞いて、「自分もこんなアンニュイな映画みたいな旅をして、自分というものを心ゆくまで探してみたい」と思った人は、60年代末から70年代にかけて数多くいたかもしれない。さらにもっと後の時代にも、60年代文化への憧れから、カメラ片手にアメリカに旅立った人がいたかもしれない。


だが、次の記事で詳しく書くが、サイモン&ガーファンクルの "Americaはこれまで、まるできちんと解釈されてはこなかった

いいかえると、日米問わず70年代の若者の多くが「アメリカ」を勘違いしたまま成長した
例えばケルアックがやった「40年代のアメリカの放浪」やロバート・フランクの写真集のような「古いアメリカのオリジナリティ」は、「1950年代に発表された作品に収集されていた過去の記録」のであって、50年代には既にアメリカから姿を消しつつあった文化だ。
もちろん60年代末から70年代にかけて育った若者は、それらを直接自分で体験することなどできず、書籍やレコードなどを通じてしか知らなかったが、にもかかわらず、彼らは50年代の作品を通じて知識として知ったに過ぎない「古い時代のアメリカ」を「追体験」しようと必死に試み続けた
いうまでもなく、当時の日本はアメリカ文化が輸入されるのにかなり時間がかかっていたために、日本の若者は、アメリカ国内の若者より、さらに「もうひと時代遅れて」追体験に向かった。


60年代70年代の若者たちは、憧れの映画で見た出来事や、憧れの書籍の中でしか知らないことを、リアルライフで再現してみせようとするかのように、「追体験」に熱心に取り組み続けた。そしてそれが、「オリジナルなアメリカ、ホンモノのアメリカに、少しでも接近し、自らをアメリカそのものにしていくためにどうしても必要不可欠な試みだ」と、思い込もうとした。

しかし、彼らの試みのほとんどは、サイモン&ガーファンクルの "America" の歌詞に出てくるカップルがそうであるように、「放浪の旅を気取って、あてどない自分探しの旅に出るが、苦労の多いヒッチハイクに疲れたら、金にモノをいわせてグレイハウンド(=長距離バス)に乗って、楽をして移動して都会に行く」というような、「夢見がちな若者の、弱腰な試み」に過ぎなかった。彼らの試みの大半は失敗に終わり、多くの人は失望を味わった。
しかし、彼らの多くは、そうしたケルアックの放浪の追体験の挫折について、「出発点からして間違っていた」と気づくことよりも、むしろ、「失敗することそのものが、若さを実感できる素晴らしい体験だと思い込むこと」のほうを選んだし、「オリジナリティ溢れたアメリカ探しとは、むしろ、失敗することそのものを指すのではないか」、「失敗した自分の若さこそ、むしろカッコいい」と自分を慰めることのほうを選んだ。


だが、若者がどう誤解しようと、実際には、ケルアックが1940年代に体験した「放浪」という名の文化は、「1950年代中頃には消滅しつつあった」と、ケルアック自身が証言している。
50年代文化にとって、「放浪」とは「クリエイティビティの源」のひとつだったわけだが、『路上』が大流行して、世間に放浪旅の流行すら引き起こした50年代末には、既に「水源は枯渇していた」。

1960年に出ている『孤独な旅人』という書籍で、ケルアックは「ジェット機時代はホーボーを十字架にかけつつある」と言っている。(ホーボー=放浪者。いわゆる浮浪者ではない)
これは、以前「ニューヨークにあった2球団、ドジャースとジャイアンツの西海岸移転を可能にした社会背景に「旅客機の発達」があった、と書いたことにピタリと一致する。
Damejima's HARDBALL:2012年3月6日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。
1000キロ単位離れた西海岸での試合に東海岸の野球チームが疲労困憊せずに移動して試合をするには、北米大陸を短い時間で横断できる旅客機の発達が必要不可欠だったが、その一方で、1950年代に始まったボーイング707やDC-8の開発に始まる旅客機の発達は、まさに「放浪」を消滅させた。

グレイハウンドが並ぶ1940年代のミシガン州のバスターミナル
グレイハウンドが並ぶ1940年代ミシガン州のバスターミナル


ジェット機は、ホーボーを十字架にかけたが、そのかわり、ドジャースを西海岸に運んできた」というわけだが、さらに重要なこととして、この「旅客機の発達」は、「40年代文化である『放浪』を消滅させ」「東海岸の文化だったMLBを、西海岸に拡張させた」だけでなく、それまで繁栄していた「長距離鉄道」や「グレイハウンドのような長距離バス」を衰退させ、さらに、それらの交通手段に代わる新しいモビリティとして、「自動車」を急激に発達させる契機を作った

1950年代のグレイハウンド
1950年代のグレイハウンド



ロバート・フランクがアメリカを横断した1950年代中期は、「放浪」が消滅し、「鉄道やグレイハウンド」が衰退し、「旅客機」と「自動車」が発達しつつあった時代なのだ。
だからこそ、グッゲンハイム財団から資金援助を受けてロバート・フランクが1955年から56年にかけて行ったアメリカ旅行では、「多くの人々が『とても自慢げな表情で』クルマに乗って」いるのである。


ロバート・フランクが、写真家として「50年代のクルマに乗った人ばかり熱心に撮っていること」の意味は、けして小さくない。

もしロバート・フランクが、ケルアックのように「放浪者たちの間に混じって旅をした」なら、たとえ彼が旅した時代が「アメリカから放浪が消滅し、鉄道とグレイハウンドが衰退し、旅客機と自動車が発達していく1950年代中期」だったとしても、「自動車に乗った人々にばかり熱心にレンズを向けてシャッターを切った」とは思えない。
ロバート・フランクの作品には、ヒッチハイカーという単語を含んだタイトルの作品もあるにはあるのだが、ロバート・フランクは「車に乗った人々」を「観察する者」としてフィルムに記録しだだけだ。撮影者ロバート・フランクの位置は、ケルアックとは違って、あくまで「観察者」「傍観者」にすぎないのであり、「自らの意思で放浪を日々の暮らしとする者」の視線ではない。
ロバート・フランクがやったことは、放浪でも、鉄道でもグレイハウンドでもない、アメリカの新しい移動手段である『自動車』に乗った人々を「観察」することであって、「ロバート・フランク自身がヒッチハイク旅をしながら撮影した」わけではない。

もしロバート・フランクのような「観察者としての写真家」が、「『放浪』がまだ文化として生存していた1940年代のアメリカ」を旅していたとしても、彼が選びそうな撮影ターゲットと撮影スタイルは、自分自身も一緒に放浪しながら放浪者たちを撮る、というスタイルではなく、むしろライカ片手に、当時のメインの交通手段である鉄道の駅やグレイハウンドのバス停で待ち構えて、「鉄道やグレイハウンドに乗りこむアメリカ人」を撮るという「観察者として」の撮影スタイルを選んだだろう、と思う。

ちなみに、1940年代にグレイハウンド・ステーションやグレイハウンドを待つ人々を数多く撮影した写真家に、Esther Bubley(1921-1998)という素晴らしい写真家がいる。彼女の作品が持つ「やわらかな日常の目線」を、単なる「観察」だとは全く思わない。個人的に、ロバート・フランクの「ゲージュツ家が他人から金をもらって旅して行った、遠回しなモノ言いのような距離を置いた観察」より、ずっと作品レベルは高いと思う。なぜまた日本でこれまで、いまの時代に見てもけして古さを感じないEsther Bubleyの柔軟さより、古式蒼然としたロバート・フランクの硬さばかりが持ち上げられてきたのか、それがわからない。
Esther Bubleyの描く「アメリカ」は、ロバート・フランクの「アメリカ」より「はるかにアメリカくさい」し、なにより、アメリカのさりげない日常性を撮影するというコンセプトでEsther Bubleyが優れた作品をカメラに収め続けた「時期」は、ロバート・フランクの『アメリカ人』よりも10年以上も早いのである。 Esther Bubley - Wikipedia, the free encyclopedia

Greyhound Bus Station, 1943. Photograph by Esther BubleyGreyhound Bus Station, 1943.
Photograph by Esther Bubley



以上に書いてきた意味から、ロバート・フランクの『アメリカ人』と、ケルアックの『路上』が、同じ1950年代後期に出版されているからといって、ロバート・フランクの写真を、40年代の放浪文化やビートジェネレーションに連なるものとみなすのは、間違っているし、馬鹿げている。ロバート・フランクの『アメリカ人』は、60年代以降の旅客機・自動車時代の幕開けに連なるものだ。


ケルアックが40年代に体験した放浪を、ごく普通の人々までもが書籍を通じて文化として知ったのは、旅からすでに10年近くが経過した1950年代末のことで、作品『路上』は彼をベストセラー作家に押し上げただけではなく、普通の人々に「アメリカを旅する自由さ」や「旅を通したアメリカらしさの発見」に熱狂的ともいえる憧れを抱かせ、アメリカの交通機関の発達もあって、人々をアメリカ捜しの旅に駆り立てた。
だが、何度も言うように、実際にはそのとき既に「40年代の放浪という文化は、すでに死に絶えていた」。

ましてポール・サイモンが "America" という曲を書いたときには、『路上』の出版から10年、ケルアックの40年代の旅からは20年が過ぎていた。"America" に描かれたカップルの旅は、「かっこよさげな、自分探し」でもなんでもない。
そこに描かれて詳しい情景は、次の記事で詳しく示すことにしたいが、「40年代にあったと聞く放浪というものを、50年代に出された書籍を通じて知っている」ような60年代の田舎に住む若者が、「田舎から都会に向かおうとして、本で読んだことのあるヒッチハイクってやつを試みてみたものの、あえなく失敗して、しかたなく財布の金を使って乗りこんだ値段の安い長距離バスの中で、関係が冷えていくカップルの内輪もめ話」である。

「60年代カップルの知識」の根底にある「50年代に出版された書籍に書かれていた放浪」とは、もちろん実際には「40年代の放浪」で、とっくにアメリカから消滅しているのだ。
ケルアック自身すら50年代に「自分自身は純粋なホーボーとはいえない」と謙遜しているというのに、この「ちょっとつらいことがあると、バスに乗ってしまうような軟弱な60年代の田舎のカップル」が、都会を捨てて田舎に向かう放浪者になれるわけもない。(ここが「東から西への旅」と、「西から東への旅」の違いだ)


ただし、ことわっておきたいと思うのは、「放浪者の精神」がアメリカのあらゆる場所から消滅したわけではない、ということだ。
たしかに、「荒野を放浪という形式で旅する」という意味の「放浪」はアメリカの表面から消滅している。だが「精神」としては、例えばスティーブ・ジョブズのような特別な人の心の中に受け継がれ、現代に伝わっている。例えばiPodやiPhoneが、ただの電化製品ではなくて、「放浪者」としてのスティーブ・ジョブズがさまざまな「心の放浪」の果てに、「自分の場所といえる場所にようやく辿り着き、そこで実らせた果実」であることは、言葉にしなくても、わかる人にはわかると思う。


さて、長い前置きだったが、サイモン&ガーファンクルの "America" という曲の歌詞の解読にとりかかろう。

この歌詞の解釈はこれまで、例えば「グレイハウンドの衰退と旅客機の発達の関係」のような、アメリカ社会のインフラの変貌と文化の関係をきちんと考慮して解読されないまま、表面的なセンチメンタルな解釈しかされずに現在に至っている、と思う。
ポール・サイモンは歌詞に、このカップルを取り巻く社会をちゃんと描きこんいる。だが、たいていの文学作品が読む者の解読を要求するように、 "America" の歌詞も、読む側に読み込みを要求する形で書かれており、さらっと読んだだけでは意味が伝わらないようにできている。

これから試みる解読の結果、これまでやたらと「ケルアックのような50年代のワイルドな文化の正当な継承者を、やけに自称したがってきた」1960年代とか70年代を経験した人たちが自画自賛したがってきた「60年代以降のアメリカの旅」、あるいはそういう旅への憧憬が、実は「ビート・ジェネレーションの放浪」とまるで無縁なものに過ぎない面がある、ということを明らかにできたら幸いだ。


以下、サイモン&ガーファンクルの1968年のアルバム "Bookends" に収められた "America" という曲の歌詞だ。このブログの独自解読を目にする前に、まず自分自身の目で読んでみることを、是非おすすめしたい。
フォントサイズがあまりにも小さいのが恐縮だが、改行箇所をできるだけ減らすために止むをなかった。ご容赦願いたい。

"Let us be lovers we'll marry our fortunes together"
"I've got some real estate here in my bag"
So we bought a pack of cigarettes and cs
And we walked off to look for America

"Kathy," I said as we boarded a Greyhound in Pittsburgh
"Michigan seems like a dream to me now"
It took me four days to hitchhike from Saginaw
I've gone to look for America

Laughing on the bus
Playing games with the faces
She said the man in the gabardine suit was a spy
I said "Be careful his bowtie is really a camera"

"Toss me a cigarette, I think there's one in my raincoat"
"We smoked the last one an hour ago"
So I looked at the scenery, she read her magazine
And the moon rose over an open field

"Kathy, I'm lost," I said, though I knew she was sleeping
I'm empty and aching and I don't know why
Counting the cars on the New Jersey Turnpike
They've all gone to look for America
All gone to look for America
All gone to look for America




April 24, 2013



フロリダでのタンパベイ第2戦、2-2で迎えた同点の9回表、2死満塁のチャンスに、イチローが、タンパベイの右腕クローザー、フェルナンド・ロドニーの初球、アウトコースの99マイルの2シームを、センター前にライナーで弾き返し、決勝点となる2点タイムリー。
今シーズン、ヤンキースは3連敗を一度も喫していないわけだが、このゲームを前に2連敗してしまい、このゲームも、1-2と、1点リードされて、タンパベイ先発デビッド・プライスが8回表になってもまだ投げているという劣勢にあった。
ちなみに8回表に同点にした場面も、1死ランナー無しからイチローがライト前ヒットで出塁し、次のニックスとのエンドランで、当たりの弱いレフト前ヒットで思い切ってサードに進塁したイチローの好走塁からきている。(ガードナーのクレバーな内野ゴロで生還)

今日の活躍は、イチローの動向にやきもきしているファンの胸をスカッとさせたことだろう。(もちろん、このブログは何も心配してない(笑) たぶんイチローはいま「右足のつきかた」を変えようとフォームをいじっている最中(あるいは不調でフォームがバラついている最中)だろうと思うからだ。数年前なら、スイングを始動するとき、投手にイチローの背番号がハッキリ見えていた。つまり、当時は右足を今よりずっと「クローズ」というか、サード側に向けたまま踏み出していた。今は、昔よりずっと「オープン」というか、セカンド方向に向けて踏み出している。2点タイムリーのシーンで、右足の爪先がマウンド方向を向いているのが、その証拠)
New York Yankees at Tampa Bay Rays - April 23, 2013 | MLB.com Gameday


8回表のヒットは、左腕デビッド・プライスから。左投手からのヒットだから余計に意味がある。
また、9回の2点タイムリーは、ドミニカをWBC初優勝に導いたMLB屈指のクローザーのひとり、フェルナンド・ロドニーの「典型的なクローザー配球」を打ったタイムリーだから、これも価値がある。


クローザーと対戦するイチローが早いカウントから打って出るときは、たいてい相手投手の配球の読みに自信のあるときだ。
いつぞやマリアーノ・リベラから打ったサヨナラ2ランも、「初球」を打った。あのときのリベラの初球カットボールは、2球目に全く同じコースに4シームを投げて、イチローに内野ポップフライでも打たせようとする布石だったはず。
マリアーノ・リベラの場合は、いままで何度も書いたことだが、打者に打球を外野に飛ばされたくないケースで、きわどいコース(例えば左打者のインコース)に、カットボールと4シーム(あるいはその逆、4シーム、カットボールの順に)続けて投げることで、打ち損じを誘ってくる。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2011年5月28日、アダム・ケネディのサヨナラタイムリーを生んだマリアーノ・リベラ特有の「リベラ・左打者パターン」配球を読み解きつつ、イチローが初球サヨナラホームランできた理由に至る。

ロドニーは、イチローの前で1死満塁で打席に入ったクリス・スチュアートに、「初球インハイの2シーム」に続けて「同じコースの4シーム」を投げることで、ファーストへの小飛球と言う「満塁のケースでの理想的な凡打のひとつ」を打たせることに成功している。

そもそもクローザーの配球パターンは多くない
例えばパペルボンやバルベルデ、藤川球児なら、ストレートで追い込んでスプリットか高めの釣り球。リベラならカットボールとストレート。ロドニーなら2シームと4シームだ。

そして、一度打者をうちとることに成功したクローザーは、次打者でも同じ配球を使ってくることも少なくない。


「同じコースに、カットボールのような、ほんの少し変化する速球系と、4シームを続けて投げることで、バッターに『打ち損じ』させる配球」というのは「クローザー特有の典型的な配球パターン」のひとつだが、こうした「クローザー特有の配球パターン」を早いカウントで打ちのめすのは、昔からイチローの得意技だ。
たぶん、イチローは、自分の前に打席に入ったスチュアートにロドニーが投げた球がどれもシュート回転していることを脳裏に焼き付けて打席に入ったことだろう。

April 21, 2013

イチローのバントで前進するサード

トロントでの第2戦は、延長11回の無死1,2塁、イチローがサード、ブレット・ローリーの前に絶妙のバント。ピッチャーの左腕アーロン・ループが最初から間に合わないサードに投げ、これが悪送球になって2点が入り、ヤンキースがこのカード連勝したわけだが、このバントの記録が「犠牲バント」になっているのが納得いかない。
2得点はピッチャーの悪送球の結果として扱われるとしても、バントそのもの記録についてヤンキースは即刻「ヒット」に訂正するよう申し入れるべきだろう。
動画(MLB公式):Baseball Video Highlights & Clips | NYY@TOR: Suzuki hits a sacrifice bunt to drive in two - Video | yankees.com: Multimedia

このバント、たとえピッチャーの送球が悪送球でなくても、サードは間に合わない。

なぜなら、バントの瞬間、「三塁手が反射的に飛び出しているから」だ。だからこそ、記録は「ヒット」であるべきだ。上の動画の50秒過ぎあたりを見れば、イチローのバントの効果で三塁手が数歩勢いよく前進してしまい、そこから慌てて反転し、投手に背中を向けてサードベースに戻ろうとしていることがハッキリわかる。
前に飛び出した三塁手ローリーが、ベースカバーに間に合うようサードに戻るのは、最初から無理なのだ。

投手に背中を向けて三塁に戻る三塁手ピッチャーはまだ背中を向けている三塁手ローリーに送球しようとしている。三塁手のベースカバーは最初から間に合うわけがなかった。三塁での封殺は最初から無理なのだ。

態勢の整っていない三塁手に送球しようとする投手
態勢の整っていない三塁手に送球してしまう投手
三塁手はまだベースについてないのに送球がそれる
悪送球で決勝点が入る



上の最後の1枚で、三塁手があとずさりしながら、送球を捕球しようとしているわけだが、もし三塁手がかろうじて捕球したとしても、サードにスライディングした2塁走者バーノン・ウェルズに簡単にタッチにいけるわけではない。
なぜなら、三塁手の立ち位置は、見た目よりもずっとサードベースから離れた位置だからだ。たとえテレビ画面で見ると、まるで三塁手がサードのすぐ手前のように見える、としても、それはカメラアングルによる視覚的な錯覚だ。

マラソンのテレビ中継で、見た目には2位のランナーがトップのランナーの真後ろを走っているように見えるとしても、実際には「10メートル離れている」なんてことは、よくある。

そしてもちろん、「人間があとずさりする速度」なんてものは、「全力速力で走ってきたランナーが滑り込む速度」よりも、はるかに遅い。

2塁走者バーノン・ウェルズの位置


April 19, 2013

アメリカはあらゆる場所、あらゆる街に、プロスポーツとファーストフード店がてんこ盛りになっていて、どこもかしこも騒々しい。と、思う人もいるが、アメリカにも「何もない」と感じる場所はある。


夜の地球

衛星写真で夜のアメリカをみると、「西半分」は、煌々と明るい「東半分」よりも、はるかに暗い。地勢が山がちな西には、平地の多い東よりも人家が少ない、というわけだ。それは、MLBがまず東海岸で生まれ、それから西に向かって拡張されていった理由のひとつでもあるだろう。1958年のドジャースとジャイアンツの西海岸移転は、ひとつの「西部劇」、ひとつの「ゴールドラッシュ」だったのだ。

たとえば、北西の山がちなモンタナ州には、MLBを含め、プロスポーツの本拠地がない。MLBでいうと、本拠地どころか、モンタナ出身プレーヤー自体が片手で数えられるほどしかいない。(例えばロブ・ジョンソン)

州別のMLB球団所在地、モンタナ州


宇宙では、物質と物質は密集して存在しているわけではなくて、むしろモノ同士が、たがいにはるか遠く離れあい、微妙な均衡を維持しあいながら、「疎なる空間に浮かぶ点と点」として、互いを遠く凝視しあっている。アメリカという賑やかに思える大地も、実は宇宙と同じくらい孤独にできている。

ワシントン州タコマ出身のリチャード・ブローティガンは、若くして華やかな都市サンフランシスコに移り住んだが、最後はモンタナで寂しくピストル自殺している。
Damejima's HARDBALL:2012年3月6日、リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。 「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。


だが、そんな何もないモンタナにも、
スポーツと、家族と、道路がある。


このことに気づくと、やがて人は、この3つ、「スポーツと家族とクルマ」こそが、実は「アメリカそのもの」なのかもしれない、と、思い始める。

その意味で、何もないように思えるモンタナこそ、「アメリカがそもそも、どういう場所なのか」を教えてくれる教科書のような場所なのだ。

Class C

"Class C"は、エミー賞を獲ったドキュメンタリー作品だ。舞台は、楽しみといえばバスケットくらいしかない、そういう街。バスケットを除けば、あとは山と道路くらいしかない。
Class C Documentary Home Page
(この作品、日本のgoogleで検索してもリンクがスピーディーに出てこない。というのも、『乙女のシュート!』なんていう邦題が邪魔しているからだ。いったい誰がこういうくだらない邦題をつけるのだろう。オリジナルを作ったクリエイターに謝れと言いたくなる。何が「乙女」だ)

"Class C"は、「なにもないモンタナ」でバスケットボールをやっている、ごく普通の女の子たちを追いかけた、とても優れた作品だ。the only game in townというサブタイトルが、モンタナという土地のやるせない風土をよく表している。


女の子たちは、辺鄙なモンタナで、バスケットに夢中になっている。
というか、もっと正確に言えば、彼女たちは「若くて、いくらでも可能性に溢れている」というのに、現実には「バスケットをやるくらいしか、行き場がない」。そして将来にわたって、狭い道を歩み続けなければならない。
そんな若い女の子たちが抱え込んだ「家族間の軋轢」や「やり場のない情熱」。そして、バスケットへの情熱の裏にある「隠し通すことのできない、やりきれない寂しさ」。
そんな、人があまり言葉にしたがらないものを、"Class C"は、容赦なく、しかし暖かい視線で描きだそうとする。

その青白いトーンは、音楽にたとえるなら、心を病んでピアノが弾けなくなったジャズピアニスト、キース・ジャレットが、ようやく立ち直った後の1999年に作った、"The Melody At Night, With You" というアルバムの底に響く、暗い蒼月のような音色に近い。
"Class C" が描く色彩は、日本のスポーツマンガの「楽天的で、予定調和な不幸」とはわけが違う。「モンタナ」という場所がもつ独特の寂寥感が描かれるのはもちろんだが、その不幸さの感覚には、うっかりするとビョーク主演のあのヘビー過ぎる映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が描いた「アメリカの田舎がもつ、独特のあやうさ」につながっていきかねない「寒さ」がある。(ちなみにこの「あやうさ」は、やっかいなことに、アメリカのあらゆる場所の空気に含まれてもいる)

The Melody at Night, With YouThe Melody At Night, With You

Keith Jarrett(1998)


スイス生まれでニューヨークに移り住んだ写真家ロバート・フランクは、まだドジャースジャイアンツがニューヨークにあった1955年から56年にかけてアメリカを東から西へ旅して、これら2球団が西海岸に移転するちょうど同じ1958年に、かの有名な 『アメリカ人』 という作品集の初版を、まずパリで出版している。
この旅でロバート・フランクは、モンタナでたくさんの「自動車に乗った人々」をフィルムに収めたことで、「アメリカという国とクルマが、いかに深い部分で繋がっているか」を映像で表現することに成功した。

Hitchhikers leaving Blackfoot, Idaho towards Butte, Montana 1956
Hitchhikers leaving Blackfoot, Idaho towards Butte, Montana, 1956

woman in car
Butte, Montana, 1955/56

パリで出版された『アメリカ人』の初版タイトルは、 "The Americans" という英語ではなく、"Les Americains" というフランス語で、また内容も純然たる写真集ではなくて、文章に写真が添えられるというようなスタイルをとっていた。それが写真集という体裁に変わったのは、翌1959年にジャック・ケルアックが序文を書いて出版されたアメリカ版からだ。
(まだ東海岸中心の娯楽だったMLBが西海岸に進出していったこと、そして東海岸出身者が西海岸に、さらに南下してメキシコにまで旅して、アメリカを再発見したこと、この2つのイベントが同時代に起きていることは、けして偶然の一致ではないわけだが、日本のスポーツサイトでも、写真のサイトでも、2つのイベントを関連づけて語られたことは、ほとんどない。このことは、また項をあらためて記事にする。また、リチャード・ブローティガンが詩作品の中にフランスの大詩人ボードレールを繰り返し登場させているように、第二次大戦中から1950年代にかけてのアメリカ文化にとって「フランス」はエキゾチックな場所として特別な位置を占めていたわけで、『アメリカ人』という作品が最初アメリカでなくフランスで出版されたことの意味は、あらためて整理しなおす必要がある。さらに、ロバート・フランクが『アメリカ人』出版する素材を得るにあたって行った撮影旅行は、アメリカを東から西に向かって大きく弧を描くように行われているが、この旅路の航跡は、ケルアックが1957年に出した『路上』で辿った旅の航跡と非常に似ている。このことにも、機会があればいつか触れてみたい)


ロバート・フランクの『アメリカ人』は、出版直後はあまり評価されなかったが、一定の時を隔てて後に「写真集として」名声が確立されている。そのことから、1958年に出された「純然たる写真集ではないフランス版」は「あまり意味の無いもの」として扱われることが多い。ロバート・フランク写真展を開催するような写真専門ギャラリーのサイトですら、フランス版に重い意味を与えてないように見える。

だが、フランス版 "Les Americains" の文章部分は、アースキン・コールドウェル、ウィリアム・フォークナー、ヘンリー・ミラー、ジョン・スタインベックといった近代アメリカ文学の錚々たる作家たちと、フランス人作家シモーヌ・ド・ボーヴォワールの手による寄稿で、単に写真がどこでどういう風に撮られたとかいう安っぽい解説文ではない。

フォークナーやスタインベックなどが作品の素材として取り上げた「アメリカ」は "poor white" のアメリカだ。華麗なるギャツビー的なゴージャスなアメリカでもなければ、風とともに去りぬ的なアメリカ建国期の勇壮な人間ドラマでもない。
彼らがタイプライターで証明してみせたのは、なにも近世ロシアの大作家がやったように壮大な歴史ドラマを大河のように長々と描かなくても、「どこにでもあるアメリカ」を描くことでもノーベル賞作家になれる、ということだ。フォークナーやスタインベックは、アメリカには、中世ヨーロッパの王朝の栄枯盛衰の重厚な歴史や欧州伝統文化のゴージャスさとはまるで無縁の、「別の何か」が「文化」として存在していること、つまり、「アメリカらしさ」を発見した。
こうした「アメリカ文学による、アメリカらしさの発見」は、明らかに世界におけるアメリカ文化の地位を押し上げることに貢献した。

こうしたことからわかるのは、「アメリカの素顔を、ありのまま、クールに観るという視点」というものは、なにも、写真誌ライフだけの専売特許でもなければ、ロバート・フランクのような写真家の「ゲージュツ的モノクロ写真」が登場して初めて発見された文化的視点でもない、ということだ。

LIFE Magazine - April 7, 1952
LIFE Magazine - April 7, 1952


にもかかわらず、今日ではいつのまにか、「アメリカらしさ」を発見したのは他の何をさしおいてもロバート・フランクの "The Americans" という写真集の功績である、と考えるのが通説であるかのように思われている。そして、当初文章が添えられてフランスで出版された『アメリカ人』の評価は、いつのまにか「おしゃれな写真集」としての評価に固まってしまい、カメラ片手にアメリカを旅して写真を撮りまくる「ロバート・フランク・フォロアー」を大量に生み出した。


そういう意味ではロバート・フランクの "The Americans" は、ある意味、とても「罪つくりな写真集」だと思う。

たしかに、ロバート・フランクのおかげで多くの人が、ライカ片手に、モンタナのような何も無いアメリカの片田舎に行ってブルージーなモノクロ写真を撮れば、「アメリカっぽさ」を簡単に映像に残せることに気がついた。
だが、そうして撮られた「アメリカ」のほとんどすべては、「ロバート・フランクの旅体験の二次的な追体験」に過ぎない、といっていい。そうした追体験行為は、けして「裸眼でアメリカを見た」ことにはならない。(もしかするとロバート・フランク自身が、必ずしも写真家とは限らない誰かの視点に学んだ結果、アメリカをああいう風に写真に撮っただけだ、という可能性もある。だが、それについては研究不足で、なんともいえない)

例えば日本の「第一次ロバート・フランク世代」ともいえる団塊世代の文化人には、アメリカを旅して、アメリカについて記述したり、写真に撮ったりした人がたくさんいたわけだが、彼らの残してきた「アメリカ」には、どこか、彼ら自身が裸眼で見たアメリカというよりも、「ロバート・フランクというサングラスをかけて見たアメリカ」を語っているような、独特の「ロバート・フランク臭」がある。
つまり、ロバート・フランクの『アメリカ人』は、残念なことに、「アメリカはこう読み、こう見ろ、というハウツー本の決定版」になってしまいやすいのである。それは例えば、世界的にヒットしたサーフィン映画を見た日本の団塊世代がサーフボードを我さきに買いに走り、海に行きたがったのに似ている。
この世代の人々は競って西海岸文化を日本に持ち込みたがったが、多くの人が「ビート」と「ビートニクス」の意味の違いすら知らなかった。
Damejima's HARDBALL:2012年3月20日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。サンフランシスコの名コラムニスト、ハーブ・ケインによって発明された「ビートニクス」という言葉と、「ビート」との根本的な違いを正す。
「走り始めると、走る事そのものの快楽がむくむくと、頭をもたげ、車と自分が一体になる。つまり、自分はどこに行くのか、何をしようとするのかということなど、どうでもよくなり、走る事そのものが、目的になってくるのである。」

〜中上健次 『アメリカアメリカ』


だが、もう「『アメリカの見方』を教えてくれる教科書」を追体験してうっとりするのはやめて、自分の眼で見たらどうだろう。

ロバート・フランクの『アメリカ人』そのものは、確かに素晴らしい作品だ。カメラを手にすることの面白さはもとより、日常生活にひそむ多大なシャッターチャンス、日常の中にあるさりげない美を発見する楽しみ、さまざまなことを教えてくれる。
ライカを頂点にしたアナログカメラ時代から、現在のデジタル一眼レフに至るまで、あらゆる時代に高級カメラが売れ続けてきたことの遠因には、この作品の多大な影響もあるだろう。

だが、本当に自分の「裸眼」でなにか見ようと願うなら、ロバート・フランク風の写真を自分で撮ってみることで味わえる「ロバート・フランク風アメリカ体験」に酔ってばかりでは困る。
この際、これまで「ロバート・フランク追体験」が日本で生産してきたのは、せいぜいアメリカ風のコマーシャル表現くらいでしかない、と、多少乱暴でも言い切ってしまうことにする。


いい作品というのは、往々にして見た人に強い影響力をもつものだ。ピカソの絵を見た人の中には、ピカソみたいな絵を自分でも描きたいと思う人が数多く出現するのはもちろん、果ては「もしかすると自分はピカソなのではないか」とまで思い始める人まで、さまざまな強い影響が現れる。(ただし、残念ながら誰もピカソにはなれない)
モンタナで撮られたロバート・フランクのゲージュツ写真を見て、「ああ、自分もロバート・フランクみたいな写真を撮りたいっっっ!!!!」と血圧が上がって、カメラを買いにヨドバシカメラに走りたくなるのも無理はない。
だが、そんなことをするよりも、"Class C" で描かれたモンタナの荒涼とした人間関係を観て、他人の余計なフィルター抜きに「なにもないモンタナ」、「裸のアメリカ」を見ることのほうが、よほど「裸眼で、じかにアメリカの素顔を見る経験」ができる。


モンタナにバスケットと家族と道路しかないからといって、
では、どこに行けば「なにか」があるというのだ。
人は誰でも心に空白の大地を抱えこんでいる。
----damejima


April 13, 2013

迷えるヤンキースはいつまで「クラシックなアメ車みたいな野球」が通用すると思っているのだろう。アメリカ人のクルマの好みや需要がいつまでも変わらないと思っているとしたら大間違いなのは、数年前にアメリカの自動車市場の重要部分を占めるピックアップ・トラックやSUVの中古価格が急落したことなど、消費者の考え方の根本的変化を示す近年のマーケティング調査の結果を見るまでもない。


2012年に、夏までは地区優勝間違いなしと思われていたヤンキースが、夏を過ぎて主軸打者の攻撃力不足(特にAロッドグランダーソン)と、投手陣崩壊(特にセットアッパー)というダブルパンチにみまわれながらも、新GMダン・デュケットがチーム再生に成功した2位ボルチモアに優勝をかっさらわれずに済んだのは、ひとえにラウル・イバニェスと途中加入のイチローの奇跡的な活躍があったからだが、逆にいうと、2012年に「ついうっかり優勝できてしまった」ことで、ヤンキースは古い体質を変えていくチャンスを逸してしまった、とも言える。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2012年9月20日、『イチロー・ミラクル・セプテンバー』全記録(1)トロント戦全ヒット 東海岸が初体験する「ゲップが出るほどのイチロー体験」のはじまり、はじまり。

参考記事:Damejima's HARDBALL:2012年9月28日、『イチロー・ミラクル・セプテンバー』全記録(2)オークランド戦以降の「魔法」 〜イチローがアメリカで「ウィザード」と呼ばれる理由。

Aロッドとグランダーソンは、2012ポストシーズンについにスタメンをはずされるところまで打撃成績が急降下したわけだが、原因は、既にブログにも書いたように、単なる「一時的な不調」ではなく、彼らのバッティング上の根本的な弱点や、打席で常に狙っている球種やコースが、他チーム(特に今まで大味な野球をやってきた同地区のチーム)に十分すぎるほど知れ渡ったためだ。
打席で常に弱点を徹底的に突かれるようになっている彼らの攻撃力低下は、半ば永続的なものであり、もう伸びしろなど、あるわけはない。ヤンキースのゲームをきちんと見ている人なら、つべこべ言わなくてもわかるはずだ。突然グランダーソンがインコースの縦に落ちる変化球を打てるようになるとは、(ドーピングでもしない限り)まったく思わない。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2012年11月2日、2012オクトーバー・ブック 「スカウティング格差」が決め手だった2012ポストシーズン。グランダーソンをホームランバッターに押し上げた「極端なストレート狙い」が通用しなくなった理由。

もっと言えば、ア・リーグ東地区は、ついこの間まで大味ないわゆる「大砲野球」でも十分やってこれた。
というのは、なんせ、同地区に毎年下位に甘んじてくれるチームがたくさんあり、そういう大味なチームが隙だらけの野球をやり続け、負け続けてくれてきたからだ。
ヤンキースやボストンなど本拠地の狭い上位チームは、金にモノを言わせて(たとえそれがステロイダーのゲイリー・シェフィールドやAロッド、ジェイソン・ジオンビーなどなどであっても)ホームランバッターを並べておきさえすれば、優勝争いを独占し続けることができた。

他方、例えばかつてのボルチモアは、早打ちの淡泊すぎるバッティング、酷い守備の大雑把な野球が特徴だったから、ヤンキースやボストンにとっては「いいカモ」であり、勝ち数を簡単に増やしてくれる「同地区の、対戦数の多い、おいしい対戦相手」、いわゆる「お客さん」だった。

だが今は違う。
ボルチモアはGMと監督を入れ替え、チーム体質を変えていく過程にあって、昔のような行き当たりばったりにスイングしまくる野球スタイルを止め、隙のない野球もできる体質に少しずつ変化し始めている。
2012年にチームの内部事情から大崩壊したボストンにしても、2013年を前に投手陣再建にうってつけてのジョン・ファレルをトロントから引き抜いて新監督に迎え、また、データをあらためてチームにしっかり注入し直して、データ主義野球を従来よりさらに前面に押し出し、早くもチーム再生に成功しつつある。ボストンはもともとMLBで最も待球型の打線だが、今シーズンはおそらくこれまで以上にバッターに徹底的に待球指示を出しているように見えるし、守備位置の決定にすら打者データが徹底活用され始めている。
またタンパベイは、OPS重視の古くさい打線構成があいかわらず機能しておらず、その点は馬鹿としか言いようがないが、なんといっても投手陣がいい。上位チームにたとえ打ち負けることがあっても、投手の違いで勝ちを拾っていける可能性がある。

トータルに見れば、打てるか打てないかわからないホームランだけに頼ってヤンキースが勝てるような時代ではなくなった、ということだ。
古くからのヤンキースファンや、ニューヨークのMLBメディアがどう考えようと、どう書こうと、現実の野球は変わりつつある。(ドーピングを摘発するための血液検査もそのひとつの例)ヤンキースが狭い球場でホームランだけ狙って強振し続けるドーピングスラッガーを並べておけば楽にワールドシリーズ優勝できたような「雑な時代」は、とっくに過去のものになりつつある。
そりゃそうだ。2012ワールドシリーズ優勝のサンフランシスコの強さ、分析力の高さをみてもわかることだ。ドーピングしまくっている主軸打者が、早いカウントのストレートだけ狙い打ちしてフルスイングしているだけで、ワールドシリーズに優勝できた雑な時代なんてものは、とっくに終わっていると考えるのが当たり前というものだ。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2012年11月10日 2012オクトーバー・ブック 投げたい球を投げて決勝タイムリーを打たれたフィル・コーク、三冠王の裏をかく配球で見事に見逃し三振にしとめたセルジオ・ロモ。配球に滲むスカウティングの差。


では2012年にかろうじて地区優勝を拾ったヤンキースは、オフに、昨シーズン終了間際のチーム編成の不備、つまり、「投打両面でのチカラ不足」という課題を解決できたのか。

言うまでもなく、解決などされてない。

ヤンキースの2012年オフの補強ぶりを簡単にまとめるなら、「『足りないもの』はほとんど補強されず、『既に足りていたもの』ばかり慌てて衝動買いしただけ」なのだから、チームバランスが修正できているわけがない。
ヤンキースの投打の戦力不足のうち、短期的課題はなんといっても「投手補強」だったわけだが、これがほとんど手がつけられていない。
また、去年のポストシーズンにあれだけ打てなくて問題になった野手についても、内野のスタメンのほとんど(テシェイラ、ジーター、Aロッド)が怪我で開幕を欠場しているにもかかわらず、GMキャッシュマンが補強したのは、その足りない内野手ではなくて、外野手ばかりを、それも手当たり次第に買ってくるという、わけのわからない補強ぶりだったわけだから、当然ロスターのバランスは著しく片寄ってしまい、さらに当然のことながら、選手起用は非常に歪(いびつ)なものになってしまった。


ヤンキースは、長期契約している大物先発投手が少ない。つまり投資の重点は、投手ではなく、打者だということだ。当然ながら、ペイロール(=選手に払うサラリーの年間予算)の大半を占めるのは、「高額サラリーの野手」という予算構造になっている。
怪我で、内野のレギュラーのほとんど(1塁テシェイラ、遊撃手ジーター、三塁手Aロッド)と、オフに契約を結び直した外野の中心選手グランダーソンが不在という異常事態のままシーズン開幕を迎えそうになってしまい、慌てたGMキャッシュマンは2013シーズンの開幕直前になって、つまり、もう移籍市場に選手がろくに出回ってない状態になって慌てて補強をした(つまりは、高い買い物をつかまされた)わけだが、その目的は当面の攻撃力不足を体面的に取り繕うためだけに過ぎなかった。

結果的に、「攻撃のヤンキース」という体面を取り繕ろってはみたものの、移籍市場に商品が並んでいない状態でのなりふり構わない一時的な補強は、結果的に外野手と内野手のバランスを悪くして、予算削減にも結局失敗してしまい、内野手は足りず、外野手は余っている。(例えば、ジーター不在の穴を埋めているショートのヌニェスがちょっと怪我をして欠場するだけで、内野の控えがいなくなってしまうという事態が起きるのも、そのせい)


MLBチームの編成は、ロスターが25人と、ベンチ入りできる選手数がもともと限られているだけに、ちょっとでもバランスを欠く選手構成になれば、すぐ弊害がハッキリ出る。特に、今のような「投打のバランスが強く求められる時代」には余計にそうなる。
例えば、下に挙げたグラフでわかる通り、かつてア・リーグ西地区で最も弱かった時代のテキサス・レンジャーズは、メジャーで最も失点するチームのひとつだった。当時のテキサスは、打線がいくら点を入れても入れても、キリがないくらいに投手が失点して、その結果、ひたすら負け続ける、そういう「バランスの悪い、ザルみたいなチーム」だった。

テキサスのホームラン率・被ホームラン率の変遷
テキサスのチームホームラン率・被ホームラン率の変遷


野球ではスタメンの選手が、攻撃面で9人分働き、守備でも9人分の働きをする、というのがとりあえずの理想ではある。だが、スタメンの中には、守備的な選手、攻撃オンリーの選手が入ることもよくあることなわけだから、「ひとつのチームで、9人分の攻撃力と9人分の守備力を実現すること」は、実際には至難の業だ。
ところが、馬鹿なことに、中には「超守備的」だの、馬鹿馬鹿しい目標を立てて大失敗している頭の悪いシアトルの例でわかるように、たとえ守備面で9人分以上の働きができても、攻撃面では2人分くらいの働きしかできないような「偏向したチーム」を作ってしまうアホなチームがある。もちろん、それではチームはマトモに機能しない。
それと同じように、やたらと攻撃だけに徹したチームを作ろうとして、同タイプのフリースインガーばかり集めて打線に並べてしまう頭のイカれたチームもバランスを欠いている。(これもかつてシアトルでやった馬鹿げた施策のひとつ)

今の時代は、投打にしても、内外野にしても、バランスを著しく欠いたチームがワールドシリーズを勝てるような、もう、そんな時代ではない。(もっといえばチーム内の人種構成にもバランスが必要になっている)
第3回WBC優勝のドミニカ代表にしても、かつてのような打撃オンリーのチームカラーではなくなっているからこそ優勝できたといえる。カリビアン・ベースボールは、もうかつてのようなスラッガーとキャッチャーだけが突出した、偏った野球などしていない。中米の野球が、優れた打者を輩出するだけでなく、しっかりした投手も生産できるバランスのとれた選手育成ができるように変化してきたからこそ、ドミニカはどんなタイプのチームと対戦しても、揺るがずに自分の野球ができる。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2013年3月16日、カリビアン・ベースボールの音色。


たぶんヤンキースの野手は7月のフラッグシップ・ディールまでに何人かが他チームに放出されることになるだろうが、たとえAロッドやグランダーソンがスタメン復帰して「本来のヤンキース打線」に戻ったとしても、それで打線が向上するとは限らない。
むしろ、対戦相手(特に対戦数の多い同地区のライバルチーム)に十分過ぎるほど研究され尽くされているこの2人の主軸打者がスタメンと打順を占領したまま打撃不調を続けることになったら、彼らをスタメンからはずしたくてもはずせないまま負け続けた2012年終盤の貧打が、単に再現されることにしかならないだろう。

好調なバッターを日替わりで使えばいい、と考える人もいるだろうが、毎日のように変わる「日替わりスタメン」「日替わり打順」というような流動的なチーム方針は、伸び盛りの若いチームならともかく、ヤンキースのような「高齢チーム」には明らかに向いてない

とかく管理者というものは「高額サラリーの選手はスタメンからはずせない」と思いこみがちだし(本当は遠慮なく外せばいいだけのことだが)、そういう不良債権の復調を待ってスタメンで使い続けている間に、せっかく好調だったバッターも調子を落としていき、その一方でなかなかAロッドやグランダーソンが復調しないというパターンは、2012年秋に既に経験していることだが、「変われないヤンキース」はたぶんこの夏に2012年ポストシーズンと同じような失敗を経験することになるだろう。
Aロッドやグランダーソンの高額サラリーを考えれば、ヤンキースは彼らをスタメンで使わないわけにはいかない、と考えて使い続けることだろうが、彼らが不調のせいでなく、他チームのスカウティングで恒常的に打てなくなっていることが明確になるまでの数ヶ月を我慢している間に、シーズンなどあっという間に終わってしまう。
そして、その「我慢」の間に、GMキャッシュマンが開幕直前になりふりかまわず補強した選手たちは、ポジションを交代交代で使われているうちに調子を落としてしまうのは目に見えている。
そうなれば、ファンは、2012年秋にチームがAロッドとグランダーソンをスタメンからはずす決断ができるまで躊躇し続けたムダな時間に経験したのと全く同じイライラを、またもや経験させられるハメになる。


まぁ、ハッキリ言わせてもらうと、
今のヤンキースは、ホームランを打とうが、打たまいが、ホームランでスカッとする、なんていう「抜けのいいチームカラー」ではない。やることなすことがそもそもチーム方針がハッキリせず、施策は後手後手に回るから、なにをしても抜けが悪いし、見ているほうがイライラする。 そういうチームだ。

ヤンキースGMにしても、ニューヨークメディアにしても、古くさいステレオタイプの「ホームラン量産 攻撃型ヤンキース」だけをどうしても見ていたい、というのなら、それはそれで構わない。(ただ、言っておくと、実際のヤンキースが、ずっとそういう「ステレオタイプなヤンキース」だったわけではない。そんなのは単に都市伝説に過ぎない)
古くて燃費も悪いアメ車にどうしても乗り続けたい、これに乗ってないとクルマに乗っている気がしない、というのなら、それはそれで好きにすればいいだけのことだし、チームが方針としてハッキリ打ちだせば、それですむことだ。ジョシュ・ハミルトンだろうが、ジャンカルロ・スタントンブライス・ハーパーだろうが、好きなだけ金を使って他チームの看板スラッガーをかっさらってきて、さっさと打線に並べればいい。(もちろん、ことわっておくと、他チームに弱点の知れ渡ったハミルトンはもう打てないから大金をかける価値はもうない)
参考記事:Damejima's HARDBALL:2012年10月6日、2012オクトーバー・ブック 「平凡と非凡の新定義」。 「苦手球種や苦手コースでも手を出してしまう」 ジョシュ・ハミルトンと、「苦手に手を出さず、四球を選べる」 三冠王ミゲル・カブレラ。

古いアメリカ野球で今のワールドシリーズに勝てる、と、本当に思うのなら、そうすればいい。


なのに、今は「躊躇する曖昧なヤンキース」なんてハンパなものを見せられ続けられているのだ。なんとも不愉快きわまりない。
ニューヨークの野球ファンは馬鹿じゃない。いまのヤンキースのチームプランの中途ハンパさ、抜けの悪さは、なにもアメリカの大手メディアのライターに言葉で指摘されなくても、最初から誰でもわかっている。客席の空席の多さを見れば、馬鹿でもわかる。
このブログとしても、不愉快きわまりない中途半端なチーム方針の下で右往左往させられるイチローを観ているのがあまりに不愉快だから、ブログを書こうとする手すら、ついつい止まってしまう。

本当にいい迷惑だ。


どこの誰が、いまのいま、どんな野球を見たがっているのか。
どんな野球をすれば、いまの時代に、最後まで勝ち続けられるのか。

そういう、ハッキリした時代に向けたメッセージがまるでアピールできてない「躊躇し続けるヤンキース」なんてものは、本当につまらない。

よく、ヤンキースは勝利至上主義だ、なんてことをいいたがる人がいるわけだが、いまのヤンキースは到底そんな厳格なチームではない。単に、いろいろな人の、いろんな契約の、いろんな都合を、ただ配慮しているだけの、抜けの悪い、八方美人の、後手後手のチーム。それが今のヤンキースだ。


イチローの処遇にしても、彼が「強いチーム」でスタメン争いに苦労するのを見るのなら、別に何も問題はない。なぜって、それが「競争というものの本質」だからだ。
しかし、「チーム自体が躊躇しまくりで、大型契約と不良債権の制約でがんじがらめになっている、弱いヤンキース」で右往左往、なんてのは、「競争」でもなんでもない。スポーツでもない。
そんなのは、ただの「ご都合」だ。テレビの前で「他人の都合」なんか見せられても、なにも面白くない。当然のことだ。

だいたい、2012年秋に一度死にかけたチームをポストシーズンに導く活躍をして、アンドリュー・ジョーンズやイバニェスといったスラッガー系のライバルを押しのけて外野のレギュラーポジションをもぎとり、さらに年齢を考えると破格ともいえる2年契約を得て、さぁ、今年は春からやるゾ、という肝心なときになって、トラブルを抱えまくったチームサイドがわけのわからない補強をじゃんじゃんやりました、また最初からやり直してください、じゃ、さすがのイチローだって、モチベーションが上がるわけがない。チーム運営が滅茶苦茶なシアトルで失わさせられた貴重なモチベーションを、もう一度上げるためにヤンキースに移籍したというのに、この中途半端な状態では何のために移籍したのかわからない。
「モチベーション」というやつは、誰でも同じではなく、ヴェテランになればなるほど、一度落ちたら、再度上げていくのに時間も手間もかかる、そういうものだ。ヴェテランの多いチームなのだから、そんなことくらい、理解しないとダメだろう。(まぁ、理解しているからこそ、多少不調でも6番に固定している、といえなくもないが、そんな中途半端な配慮で中途半端な打順に置くくらいなら、いっそ「9番」、つまり「裏の1番」とかのほうが、打線の繋がりとして、よほど面白い)


そしてあとひとつ。言うまでもないことだが、今の時代に求められる「強さ」は、「ドーピングスラッガーを並べたヤンキース」でもなければ、「中古の大砲を並べただけの、古いヤンキース」でもない。


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