November 2016

November 26, 2016

65歳以上人口と75歳人口の比較

上のグラフは「65歳〜74歳人口」と「75歳以上人口」を比較したものだ。この2つの数字はたいていの場合、積み上げグラフとして「上下に並べて」表示されているために、関係がもうひとつよくわからないので、作り直してみたのである。
(元資料:2050年には1億人割れ…日本の人口推移をグラフ化してみる(高齢社会白書:2016年 - ガベージニュース

こうしてデータを作り直してみて初めてわかることは、
来年以降、2017年から2025年頃にかけて、
日本の高齢者の中身は 「質的」 に大きく変わる
ということだ。

もう少し具体的に書くと、こうなる。
2017年から2018年頃にかけて
「75歳以上人口」が初めて「65歳〜74歳人口」を追い越す。

2025年以降になると、高齢者のコアは、減少傾向に転じる「65歳〜74歳人口」ではなく、なおも横ばい状態が続く「75歳以上人口」に移る。
ということだ。


「なんだ、そんなことか。後期高齢者って言葉、知らないの? わかってるよ、それくらい。」と、思うかもしれない。
(ちなみに、「後期高齢者」という単語に、「この言葉は礼儀を欠いている」と怒ってる人がいるようだが、この単語はもともと人口学や老年学の学術用語らしい。お間違えなきよう)

だが、ブログ主は
「いやアンタ、わかってるつもりになってるだけで、事態の深刻さが全然身にしみてわかってない」と、言わせてもらう。


簡単にいえば、
社会の高齢化自体にも、ヒトと同じように、「前期」と「後期」があるのだ。

いつのまにか「高齢ドライバーがブレーキとアクセルを踏み間違えて、人を轢き殺した」だの、「高齢ドライバーが高速道路を10数キロも逆走した」だのというニュースが毎日のように流れるようになったことは、けして偶然などではないのである。

言いかえると、いまや日本は「想定外の行動をする人間に出くわす危険性を、常に予想していなければならなくなった時代」であり、「ブレーキとアクセルを踏み間違えて、他人を轢いてしまう高齢者が、毎日どこにでも出現する時代」こそ、本当の意味での「衰え」が社会問題となる「後期の高齢化社会」なのだ。
このやっかいな「後期の高齢化社会」に比べれば、「日本が1980年代から2000年代までに経験した高齢化社会」、つまり、「65歳から74歳の人が多かった、前期の高齢化社会」など、まだまだ牧歌的だっただろうと思う。

「本当の意味での『肉体的精神的な衰え』が、社会のあらゆる面に問題として突出する時代」が、この「75歳以上だらけになっていく、後期の高齢化社会」の「意味」なのだ。

この「意味」を、ほとんどの人が甘くみていた。


さて、以降は「おまけ」だ。

高齢化社会の「内部」で起きてきた「質的変化」について、他にもいくつか例を挙げてみる。我々は高齢化社会の「内部」で起きていることについては案外知らないのだ。

以下の図で、赤い点は「高齢単身世帯」と「高齢者夫婦のみで暮らす世帯」を表わす。左が1995年(平成7年)、右が2005年(平成17年)だ。最初に挙げたグラフでいうと、「1995年から2005年までの10年間」は「まだ65歳から74歳までの人口が、75歳以上人口より多かった、『前期の高齢化社会』」にあたる。
図から、高齢世帯の「中身」は、西日本と東日本とで、まったく違うことがわかる。正直、「10年で西日本だけが真っ赤に染まった理由」は、まるで見当がつかないが、すくなくとも「西日本では、東日本、特に関東でまったく想像のつかない『別種の高齢化』が進行した」ことは明らかだ。
平成7年と平成17年の国勢調査における「高齢化」比較


続いて、以下は「持ち家をもっている世帯における、世帯形態と住宅の延べ床面積の関係」をグラフにしたものだ。
この図によれば、「持ち家を所有する65歳以上の高齢単身および高齢夫婦世帯」の「半数以上」が100平方メートル以上の広さの家に住んでいる一方で、「持ち家に4人以上で住んでいる家族」の「約3分の1」が100平方メートル未満の家に住んでいることになる。
このグラフだけを根拠に「高齢者ほど、広い家に住んでいる」と断言することなどもちろんできないが、高齢者と若者で資産格差があることは歴然としていることや、日本の「住環境」と「世帯の平均年齢」がミスマッチを起こしていることは、まぎれもない事実だ。
また2つの図から「子供が家を出て都会に住み着いた結果、両親だけが田舎に残っている」「その傾向は西日本ほど強い」などと想像することくらいはできなくもない。

広大な家に住む高齢者と狭い家に住む家族


高齢者の中身の「質的変化」は、いやおうなく社会に変化を要求する。
では、その「変化を起こすべき、担当者」は誰か。どうみても高齢者自身ではない。思いやりはもちろん永遠に必要だ。だが、だからといって、安易なヒューマニズムに流されていいわけではない。

ここに挙げた程度の頼りない大雑把なデータからでさえ、例えば「日本で『空き家』が、従来の数をはるかに越えた、空前絶後の数で出現しはじめるかもしれない」というようなことは、誰でも想像できる。
以前も書いたことだが、たとえ空き家が増えても、そのうちアパートに建てかわって、地方の税収も増えるから万々歳、なんて夢物語は絵に描いた餅に過ぎない。

参考記事:2014年8月4日、誰もが読めていない「空き家の増加」というニュースの本質〜日本における「文字読み文化」の衰退 | Damejima's HARDBALL

日本の「空き家率」の推移

何を想定し、何を暮らしやビジネスに役立てるかは、それぞれの人の自由だが、少なくとも、「高齢化社会」なんていう雑な考えと安易なヒューマニズムでモノを言っていられる、のんびりした時代は終わるということは、われわれ全員がアタマに入れなければならない。

November 24, 2016

ドナルド・トランプ次期アメリカ大統領がドイツ系移民の子孫で、ペンシルヴェニア大学Wharton School(ウォートン校)出身であることの「意味」をちょっと考えてみた。

州で最も多い人種

州別選挙人数(2016大統領選挙)州別選挙人獲得数(2016アメリカ大統領選挙)


最初に結論というかポイントを指摘しておくと、こういうことだ。
かつて「新参の移民」だったアメリカのユダヤ系移民が20世紀以降に起業したビジネスは、例えばマス・メディア、プロスポーツ、映画、金融などで、それらは現代でこそ影響力が強くなったが、できたばかりの時代には「産業界における傍流ビジネス」にすぎなかった。

ひるがえってドナルド・トランプはどうかというと、彼は実は「古参の移民」が作り上げてきた「アメリカ産業界の本流の流れ」をくむ人物だ。
彼は資産家であるがゆえに、「東部のマスメディアの支持も、ウォール街からの献金もアテにしない選挙を戦いぬくこと」が可能だった。

トランプ氏の出身母体でもあるドイツ系アメリカ人は、アメリカの北半分の地域において常に「最大の人種派閥」である。だが、その「数の優位性」はこれまでアメリカ政治にそれほど強く反映されてはこなかった。
参考記事:2012年7月16日、『父親とベースボール』 (4)アメリカにおけるドイツ系移民の増大。18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヴィンケルマンが欧米文化のルーツとして捏造した「白いギリシア」。 | Damejima's HARDBALL

トランプ氏が「アピールしようとした相手」は、「世論操作ばかりしたがる東海岸のマスメディア」でも、「献金で政治を動かすウォール街」でも、「選挙権のない西海岸のヒスパニックの不法移民」でもなく、アメリカ中部の中産階級、ドイツ系住民を代表例に、アメリカ産業界の本流ビジネスの流れにある「ごく普通のアメリカ人」であったとすれば、少なくとも「大統領選挙において数的優位を作ること」は、アイデアとしては最初から可能だった。


さて、トランプ氏の出身校、Wharton School だが、これは1881年にフィラデルフィアのQuaker (「クエーカー」=17世紀イギリスで発生したキリスト教の宗派のひとつ)の実業家Joseph Wharton(ジョセフ・ウォートン)の寄付によって設立された全米最初のビジネススクールだ。
Joseph WhartonJoseph Wharton
(1826-1909)

「クエーカー」といえば、フィラデルフィア・フィリーズが1883年に球団発足した当時の名称が Philadelphia Quakers (フィラデルフィア・クエーカーズ)だった。
この例からもわかるように、ペンシルヴェニア州にはもともとドイツ系移民やクエーカーが多い。これには次のような歴史的背景がある。

ペンシルヴェニアは、1681年にイギリス人ウィリアム・ペンが、ペンの父親に多額の借金をしていたイギリス国王チャールズ2世から「借金のカタ」として拝領した土地だ。
このウィリアム・ペンはクエーカーで、ヨーロッパで宗教的迫害を受けた経験があったため、自分の領地ペンシルヴェニアでは「信教の自由」を認めた。また、そのことを宣伝材料にヨーロッパからの移民をペンシルヴェニアに集めた。その結果、ヨーロッパのクエーカー(あるいはドイツのプロテスタントのルター派)がペンシルヴェニアに押し寄せる結果となった。


Wharton Schoolの卒業生リストはとにかく圧倒的だ。この100年のアメリカ経済の流れを作った企業、例えば20世紀初頭の製鉄業から、近年のコンピューター産業やIT産業に至るまで、まさにありとあらゆる業種のCEOが勢ぞろいしている。
ウォートン校出身の経営者は、業界それぞれの黎明期にフロンティアを開拓した「創業社長」が多いことも特徴のひとつだ。
List of Wharton School alumni - Wikipedia


Wharton Schoolを創立したJoseph Whartonも、20世紀アメリカの発展を根底から支えたアメリカ製鉄業のパイオニアのひとりで、彼は20世紀初頭にCharles M. SchwabとともにBethlehem Steelを創立し、カーネギーのUSスチールにつぐ全米第二位の製鉄会社に押し上げた。

このBethlehem Steelの前身は、やはり「ペンシルヴェニアのクエーカー」だったAlfred Huntという人物が19世紀中盤に創業した製鉄会社だったが、このことからもわかる通り、19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカの製鉄業には「ペンシルヴェニアのクエーカーが創業した会社」がとても多い
クエーカーの実業家の間には「独特の横のつながり」があるといわれ、ペンシルヴェニアの製鉄業には「クエーカーの横の連携」から生まれた部分が少なくないらしい。(資料:最新日本政財界地図(14)クエーカーと資本主義


ちょっと話が脱線する。

産業革命の原動力を、蒸気機関車の発明や、その燃料として石炭が大量使用されるようになったことだと「勘違い」している人が多い。それは原因と結果、目的と方法をとりちがえている。

そもそも蒸気機関そのものは、ジェームズ・ワット以前に既にあった。ワットの業績はその「改良」であって、発明ではない。
また、蒸気機関改良の「目的」にしても、最初から蒸気機関車や蒸気船などの「交通機関への応用」が目的だったわけではなくて、当初の目的は「石炭鉱山での大量採掘の実現を長年阻んできた『湧き水』を排水するための動力を得ること」だった。

そもそも人類にとって「製鉄」という行為そのものは、なにも産業革命で初めて得た技術ではない。例えば、アフリカには製鉄を行った形跡のある古代遺跡が多数あって、製鉄技術のアフリカ起源説もあるくらいで、表土に露出している鉄や隕石などを原料にした製鉄技法は古代からあった。

それでも長い間、鉄が貴重品とみなされた理由は、鉄がまったく作れなかったからではなく、「鉄を、高品質かつ大量に生産する手法」がなかなか確立できなかったからだ。それは「鉄の効率的な精錬技術」の発明に時間がかかったことや、大量の鉄鉱石を高温で熱し続けるための「エネルギー源」の確保ができなかったことなどによる。

それが蒸気機関の「改良」で、「石炭鉱山での大規模排水」が実現できるようになった。その結果、湧き水がたまりやすい地中の深い場所での石炭の大量採掘が可能になり、その結果、石炭コークスが大量かつ安価に手に入れられるようになったことで、ついに製鉄業が大規模化される時代が訪れたのである。(その結果、世界中の鉄鉱石と石炭の争奪戦が始まった)

鉄の品質が上がり、価格が下落したことで、20世紀初頭の製鉄業者は、「大量生産で価格が下がった鉄の利用方法」を、顧客の事業拡大にまかせるばかりでなく、みずからも模索する必要が生じた。
その結果、製鉄業者自身が、鉱山、製鉄、造船、鉄道などの「多角経営」に乗り出して、「鉄を、掘りだし、精錬し、利用する」までの一連の流れにある事業をトータル経営するようになった。(古い時代のアメリカの「財閥」が生みだされた理由は、この「価格の下がった鉄の利用方法の模索」だった。この例のように、財閥というシステムはもともと「必要に迫られて」形成されるのであり、企業規模拡大にともなって理由もなく勝手にできあがるわけではない)
例えば、第二次大戦時、Bethlehem Steelの造船部門は4000隻を越える膨大な数の輸送用船舶liberty ship(リバティ船)を製造したが、それが可能になったのは背後に「ペンシルヴェニアの製鉄業」があったからだ。
(第二次大戦後、不要になったリバティ船はギリシアなど特定の国に大量に売却され、海運王オナシスに代表されるギリシア海運業の母体となった)

「安価な鉄の登場」はこうして、造船、鉄道、さらには自動車産業などを生み出していき、他方では、鉄を大量に使った高層建築も可能にした。それまで木材やレンガが主流だった都市建築は一変し、都市に高層ビル群が出現することになった。
MLBのボールパークも、19世紀末の創成期にはまだ「木造」ばかりで、たびたび火災で焼失していたが、20世紀以降は「鉄骨」を使った堅牢な建築になった。その背景にはアメリカ製鉄業の発展がある。


話を元に戻そう。
19世紀から20世紀初頭にかけての時代は、アメリカに新しい産業が次々と生まれていった「アメリカが本当の意味で若かった時代」だった。
「ペンシルヴェニアのクエーカー」たちが製鉄業の経営に挑んだのは19世紀中ごろ以降であり、一方、MLBのようなプロスポーツ、映画、マスメディアなどが少しずつカタチになりはじめるのが19世紀末から20世紀初頭にかけてで、両者の間に半世紀ほどのタイムラグがある。
例えば、20世紀初頭、1887年生まれのNFLニューヨーク・ジャイアンツの創始者ティム・マーラはまだ貧民街から成り上がろうともがいているところだったが、ペンシルヴェニアでは既に有力な製鉄会社が産声をあげ、鉄の大量生産時代に入ろうとしていた。
参考記事:2012年12月21日、ニューヨークまみれのクリスマス・キャロル(2) NFLニューヨーク・ジャイアンツとティム・マーラとポロ・グラウンズ | Damejima's HARDBALL


かつて書いたように、たとえ同じ白人移民であっても、「古参の移民」と「新参の移民」とでは、「参入する業種」がまったく異なる
1920年代当時のアメリカでは、映画、プロスポーツなどの娯楽産業やマスメディアは「まだ海のものとも山のものともわからないヴェンチャービジネス」というポジショニングでしかなく、だからこそ、これらの新しい産業でならばこそ、「新参の白人移民」であってもオーナーや経営者になれた。
たとえニューヨークの貧民街から成り上がったような移民でも、頑張ればMLBやNFLのオーナーになれた1920年代は、ある意味、牧歌的な時代でもあった。
対して、古参の白人移民がかねてから牛耳ってきたのは、銀行、重化学工業、自動車、石油、鉱業、運送業、保険など、いわゆる経済のメインストリームを担うビッグビジネスばかりであって、新参の白人移民がそうしたメインストリームのビジネスに簡単に参入することなど、できるわけもない。
だからこそ、新参の白人移民は、プロスポーツ、エンターテイメント、マスメディアなどの新しい産業で自分たちの生きる道を開拓し、発達させていこうとしていたわけだが、古参の移民の視点からみれば、たとえそれが自分たちの専門外の分野であっても、スタジアムの外野席でベーブ・ルースのホームランに浮かれ騒ぐ彼らの自由なふるまいが横行する事態は、次第次第に「目ざわりきわまりないもの」と映るようになっていったに違いない。
2013年11月28日、『父親とベースボール』 (9)1920年代における古参の白人移民と新参の白人移民との間の軋轢 ヘンリー・フォード所有のThe Dearborn Independent紙によるレッドソックスオーナーHarry Frazeeへの攻撃の新解釈 | Damejima's HARDBALL


例えばニューヨーク港の港湾労働は、19世紀末にはアイルランド系移民が独占していた。20世紀以降にイタリア系が入って新たな棲み分けが行われると、ブルックリンだけはイタリア系になったが、特定の人種が独占(あるいは寡占)する状況には変わりがなかった。
この例が示すように、アメリカの産業、特に創成期の産業では、「人種による棲み分け」が行われることがある。つまり、特定の産業全体、あるいは特定地域の特定の産業が、特定の人種集団と不可分に結合して、その人種特有の「既得権」となることが少なからずあったわけだ。

Eric Hoffer沖仲仕として働きながら思索に没頭した独学の哲学者Eric Hoffer。ブロンクス生まれ。
ドイツ系の彼が沖仲仕になったのはサンフランシスコだが、もしアイリッシュやイタリア系がハバをきかすニューヨーク港だったら、もしかすると沖仲仕になれなかったのかもしれない。


かつて隆盛を誇ったペンシルヴェニアの製鉄業の創業者に「クエーカーのドイツ系移民」が多かったことも、そうした「特定業種と特定人種の結びつき」の例のひとつだ。
かつてアメリカ経済のメインストリームだった重厚長大産業では、概して「古参の移民」が多い傾向にある。

一方で、マス・メディア、スポーツ、映画といった「歴史が浅い産業」の創成期には、創業者、選手、制作者、観客にユダヤ系移民が多かったことに代表されるように、歴史の浅い産業においては、「新参の移民」が多い傾向が強い。

例えばMLBの「観客」も、かつて書いたように(参考記事:2014年3月29日、『父親とベースボール』 (11)「外野席の発明」 〜20世紀初頭の「新参の白人移民の急増」と「ホームラン賞賛時代」の始まり。 | Damejima's HARDBALL)、当初は「古参の移民」が多かったが、やがてユダヤ系など「新参の移民」がボールパークにやって来るようになったために、そうした新参の観客たちのための「隔離された席」として、『外野席』が作られた。ヤンキースタジアムの外野席に陣取るBleacher Creaturesはそうした時代の「名残り」である。(同じヤンキースファンでありながら外野席の客が内野席の客にヤジを飛ばす習慣が残っているのは、かつて内野席と外野席の「観客の人種」がまったく異なっていたからだ)


時代が下っていくと、内陸部の製鉄業のような「かつて経済の本流」であった重厚長大産業が衰退しはじめる一方で、スポーツやメディア、IT、コンピューターといった「傍流とみなされていた業種」が沿岸部で繁栄するようになってくる。
こうした「産業のいれかわり」は、「産業と人種が密接に結びつく」ことも少なくなかった移民の国アメリカにおいては、「それぞれの産業に強く結びついた人種ごとの浮沈」を意味する場合も多い。(もちろん実際には、それぞれの業界に多種多様な人種が存在しているわけだから、必ずしもこういう紋切り型な観点で全てを分析できるわけではない)


今となって想像すると、トラッシュトークを繰り返したトランプ氏の選挙で「最も重要だったこと」は、おそらく「主張が正しいかどうか」ではなかったはずだ。(理解しようとしない人がいるかもしれないが、それはけして「間違ったことをあえて主張する」とか「なんでもかんでも言って、迎合する」とかいう意味ではない)

なぜなら、こと「アメリカ大統領選」において大事なことは、「『どのくらいの数』の人間に向かってアピールできたか」だからだ。
アメリカは非常に広い。しかも多様な国だ。自分の狭い信念を細々と語り続けたくらいでは、とても最大の支持など集めきれない。最初から「十分に人数の多い層」を狙い撃ちしていかないかぎり、勝てない。

「最多の票を集めるのが、勝利」だ。
であるなら、「最も厚い層」にアピールすべきだ。

別の言い方をすれば、「アピール対象が『想定どおりの数、実在した』なら当選するし、『想定に反して、それほど多くなかった』なら落選する」という言い方もできる。

では、その「最も厚い層」は、「どこ」に眠っていたのか

もしトランプ氏がアピールしようと決めた「対象」が、「古き良き時代のアメリカにおいて、メインストリームの産業を担っていた中産階級」、あるいは「アメリカ最大の人種派閥であるドイツ系」、あるいは「内陸部の住民」だったとすると、そうした「ターゲット」はもともと「アメリカを構成するさまざまな集団のうちの、最大の集団」だったはずであり、その「最大の集団」に対して、「あなたの利益は本当に守られていますか?」と問いかけたのが、今回の選挙手法の「骨子」だ。
(2016年ワールドシリーズが奇しくも「東でも西でもなく、内陸部のチーム同士の対戦」になったことも、出来すぎなくらいの偶然ではある)

言いかえると、今回の大統領選は、ヒラリー・クリントンやバラク・オバマ、ニューヨーク・タイムズが「顔を向けていた層」は、本当に「『大多数を占める、ごく普通のアメリカ人』だったのか」が問われた選挙、という意味もある。
そしてヒラリー・クリントンが敗れたという事実は、彼らが顔を向けていた層が実は「アメリカの大多数ではなかった」ことを意味する。
参考記事:2015年2月7日、「陰謀論愛好家」を公言してしまい、ちょっと火傷してしまったチッパー・ジョーンズ。 | Damejima's HARDBALL


トランプという人の「選挙マーケティング」は、実業家出身なだけに予想屋ネイト・シルバーより正確で、なおかつ、キンシャサでロープを背にサンドバックのように打たれ続けながらジョージ・フォアマンをKOで葬った1974年のモハメド・アリのトラッシュトークのように、したたか、なのだ。

エリック・ホッファーは「知識や情報を持った個人が社会の中で行き場を失ったり、挫折したりすると、そこに芸術・思想・哲学などの重要な成果が生まれる」と言っているらしいが、過去の繁栄の彼方に置き去りになっていた中産階級の場合は、長い間行き場を失ったまま「言葉」を求め焦がれていたのである。

ジョージ・フォアマン vs モハメド・アリ「キンシャサの奇跡」


November 20, 2016

ニューヨーク(もちろん民主党の地盤のひとつ)のブロードウェイで人気ミュージカルを観るためにとある劇場を訪れていた共和党次期副大統領マイク・ペンス氏に、出演者がカーテンコールでペンス氏を名指しして政治的メッセージを読み上げるという「事件」が起きた。

次期大統領ドナルド・トランプ氏がスピーディーに「謝罪せよ」と非難したが、自分とトランプ氏の「謝罪を求める理由」が同じであるかどうかは別にして、ブログ主もそのミュージカル出演者は謝罪すべきだと考える。また、もしその人物が謝罪しなければ、劇場側が舞台から降ろすことも考慮すべきだとも考える。
かつてリンカーンは劇場で観劇中に射殺されたわけだが、たとえそれが「言葉という銃弾」であったとしても、「不意打ち」を食らわせるような行為が許されるとは、自分は思わない。


理由は2つある。

ひとつは、オリンピックにおいて、「五輪を政治主張に利用してはならない」と五輪憲章に定められているのと、まったく同じ理由だ。

2つ目は、「オフで劇場に来ている人に対して、無礼きわまりない行為」だからだ。


2012年ロンドン五輪の男子サッカーで、韓国の選手が竹島の領有権に関するプラカードを掲げた五輪憲章違反プラカード事件があった。
五輪憲章は明確にオリンピックの政治利用を禁止している。この事件は、五輪憲章違反そのものであり、また、スポーツの政治利用でもあった。

2012年ロンドン五輪における韓国の五輪憲章違反

中国は、この韓国の五輪憲章違反プラカード事件と同時に、日本の領土である尖閣諸島に不法上陸を強行する事件を起こし、これら2国はその後も「連携」して意図的に日本を挑発し続けた。
韓国と中国がこうした無礼な態度をあらわにした後、これらの国に対する日本人における好感度はゼロになり、外交関係が冷え切ることになったわけだが、それは連携して無礼な行為を強行し続けているこれら2国の責任にほかならない。


第二次大戦後、長年にわたって日本固有の領土である竹島を不法に占拠している韓国の人間が、あえて竹島の領有権を主張したいならば、それはそれで、さまざまな手段がある。
韓国政府が国際機関での領土調停を行うよう求める運動を始めようが、韓国国内でチラシをまこうが、自国の新聞に意見広告を出そうが、ブログを書いて国内の民意に同調を求めようが、サッカー選手から政治家に転身しようが、大統領選挙に立候補しようが、好きにすればいい。それは「自由」だ。
そして、他の人間には、そういう行為を無視する権利や、批判する権利が確保される。(ただし、「第三国での世論操作」、例えばアメリカ国内での新聞広告や銅像の建立などは、モラルの欠片もない無礼きわまりない行為だ)

だが、オリンピックを政治的に利用する「自由」は、地球上の誰にもない。オリンピックのスポーツを見ようと思っているだけの人に、自分の政治主張を無理矢理押し付ける権利は、誰にもない。


それと同じことで、ペンス氏のオフタイムを台無しにしたミュージカル出演者がもし政治的な主張をしたいのならば、アメリカの街頭でチラシまこうが、ニューヨークタイムズに意見広告を出そうが、ブログ書こうが、政治家に転身しようが、アメリカ大統領に立候補しようが、どれもこれも可能だから、好きなようにすればいい。

だが、劇場という場所は、違う。
そういうことをするための場所ではない。

もしミュージカル出演者が、政治的な主張をアーティストとして作品を通じて行いたいというのなら、他に方法はいくらでもある。
演出家にでもなるか、自分で脚本でも書いて、売り込んで、スポンサーを説得して、そういう主張をするミュージカルでも、芝居でも、映画でも、好きなようにやればいいのである。
他の人間には、そういう作品を酷評する自由と権利、そういう作品を見ないで無視する自由と権利が確保される。
だから作る側、見る側、お互いが自由でいられる。


だが、劇場は違う
そういうことをするための場所ではない。

劇場は「密閉された空間」なのであり、演目は「特定の目的」を持っている。そして劇場に来る観客は、カネを払って「特定の目的のために」来場している。

観客には、演目を楽しむ権利、そして、その余韻にひたりながら気分よく帰る権利がある。また一方で、演目にまったく関係のない余計な宣伝行為を耳にして不愉快な気分にさせられるのを拒絶する自由も権利もある。
逆にいえば、演目にまったく関係のない宣伝行為によって観客を不快にさせる自由も権利も、劇場側にはないし、まして出演者にそういう権利が存在するわけがない。

劇場、あるいはスポーツスタジアムに座っていても、いつ「言葉という銃弾」が飛んでくるのかわからない不穏な状態では、マトモな劇場、マトモな娯楽とはいえない。


これまでも何度となくブログにも、ツイッターにも書いてきたことだが、何度でも書こう。
目的は手段を正当化しない
のである。


「目的が正しければ、手段の是非は問われない」という発想こそは、テロという階段の第一歩だ。

「テロ」という言葉の定義は、なかなか難しいところだが、ブログ主に言わせればそれは、「行動の一撃のみによって、自分の存在を世間に示そうとする強引きわまりない示威行動」が「テロ」であって、必ずしも銃や爆弾といった「武器を用いた暴力」とは限らない。


行動の一撃に依存する者たちは、自説の理解者を時間をかけて増やす努力を重ねることもせず、ただただ「行動という一撃」によって、世の中やその時代の多数者に「論理的な一撃」を加え、そのことによって、自己の主張や存在感を誇示しようとする
これが「武器による暴力」と「言葉という銃弾」に共通の、「行動の一撃主義」の発想であり、近代の暴力に普遍的にみられる論理構造そのものだ。

だから、もし「行動による一撃」が「物理的な危害をまったくともなわない、言葉という銃弾」だとしても、その「行動による一撃」をよしとする論理そのものが「ある種の論理的テロリズム」なのである。


近代社会において「自分の意見と、多数者の意見とを、一致させる」ためにできることは、主に「2つ」しかない。

ひとつは、「自分の立場や考え方を、時間をかけて懇切丁寧に説明し、理解者、同調者を少しずつ増やし、自分の側の意見がむしろ多数者となるよう、努力を重ねること」。もうひとつは、「自分の論理の誤りや未熟さを認め、多数者に従うこと」だ。

だが、人が「行動による一撃」にいたる場合、例えば以下のような変遷を経て、「自分は被害者だ」というわけのわからない発想に至ることがある。こうした人間は「地道に理解者を増やす」という基本的な努力をしないくせに、正義の味方ぶりたがる

1)多数者に対する不満がある
2)自分が少数者であり、「被害者」でもあるという「自覚」がある
3)被害者が救済されることが、社会正義だと「確信」している
3)自分の「主張」が絶対的に正しいという「自負」がある
4)自分が「劣勢」に立っているという「苛立ち」がある
5)正しいはずの自分の主張が認められず、ますます肩身が狭くなっているのは、世の中のほうがおかしいからだ、という「怒り」がある
6)大多数の人が間違った方向に進んでいていることで、世の中が非常に危険な状態になってきていると「警告」を発したい気持ちが昂る
7)警告のためにも、せめて行動によって「一撃」を加える必要があると感じはじめる
8)実際に「行動」して、世間に自分の存在を「行動の一撃」という形で示す
9)その「行動」が「加害者」として扱われたら、自分は「むしろ被害者だ」と、逆ギレした説明をして、被害者ぶる


ひどく乱暴で自己中心的なヒロイズムにすぎないこうした論理展開には、自分を正当化するヘリクツが散りばめられている。

「近代国家において多数者になるための方法」は、こういうヒロイズムに浸りながら「行動の一撃」を実行することではなく、自分の主張を他人に説明し、広く理解を得て、理解者を増やしていくこと以外にない。
「多数者が間違っていて、自分が正しい」、「世の中を正しい方向に引き戻したい」、ゆえに、「行動によって一撃を加える」、「目的が正しいのだから、手段は何であろうと、結果は正当化される」などと、自分の内部だけで妄念を次々と飛躍させていく行為は、まったくもって間違っている。


政治的な主張をしたければ、今の時代、いくらでも方法がある。スポーツスタジアムや劇場を政治利用すべきではない。劇場を利用した俳優は、自分の身勝手な行為が「劇場という場所が長年努力して築きあげてきた自由」をむしろ損なった、と考えるべきだ。

ブログ主は、もし仮にMLBのゲームで、投手がマウンドで自分の政治的主張を主張するプラカードとかを広げた、なんて事件が起きたら、その選手を出場停止処分にすべき、と考える。観客が同様の行為をテレビカメラに向かってやった場合も同じだ。スタジアム出入り禁止にすべきである。

娯楽の場所は、討論のための場所ではない。政治は別の場所でやればいい。

スタジアムであれ劇場であれ、場所には場所のモラルやポリシーがある。その程度の簡単なルールすら守ろうとしない無礼さは、場所の威厳や統一性を著しく壊し、無意味な賛否の議論こそが人を分断に導く。

無頓着に「場所のモラル」の破壊を行う人間に「分断」を語る資格などない。分断を招くのは、たいていの場合、意見の相違ではない。意見の相違なんてものは、いつの時代にもある。
むしろ分断の責任は、ロンドン五輪の男子サッカーがそうであったように、あえて挑発に出て「行動の一撃」を強行する側にある。ひとつの国の内部に無法状態や冷えきった対立をまねきいれる行為に重い責任が問われるのは当然のことだ。

November 17, 2016




上のツイートから続く一連のツイート群は、自分にとっては野球(というか、ベースボール)を見る上でけっこう重要な視点なので、改めてブログに記事としてまとめておくことにした。もちろんツイート時とは表現が変わったり、表記の誤りを正したりしている。

日本的なフォームで投げる投手にとって必要なのは「しなる腕」だが、MLB的なフォームの投手にとって「太い腕」は大事だ。その背景には野球文化の違いがある。

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人間のカラダの動作は基本的に「回転」でできている。

shoulder rotation「自転」にrotation、「公転」にrevolutionという単語を使う慣習からすると、例えば肩関節の回転は、軸が「自分側」にあるから、rotation だろう。

手足の根元には、とか股関節といった、「回転するようにできたジョイント」があって、そこに「長い棒」、つまり、「足」や「手」がついて、大きくグルグル、グルグル回せるようにできている

背骨を含む体幹は手足ほどダイナミックに動けない。だが、そのかわり手足よりも複雑な制御ができる。だから複雑な動作の精密な統御は、手足だけに依存するのではなく、「体幹メインで操作」したほうが、「より正確」になる。
例えば内野手がゴロ捕球を「小手先」でやろうとするとハンブルの原因になりやすい。これは、「腕というパーツの構造」が「人が思っているより不自由にできていて、細かい制御に実は向いてない」ことを意味している。

人はよく、「日本人の指先の器用さ」と「腕全体の動きの制御」が「まったく別次元の話であること」を忘れてモノを考えてしまうのだが、「腕も、指先と同じレベルの精密さで動かせる」などと勘違いしてはいけないのである。
手の指先が精密に動かせるのは、「関節と関節の距離が非常に短い」からだ。もちろん視点を変えればそれは、関節が密集しているという言い方もできるわけだが、指の旋回が容易になるのに最も本質的な要因は、「ジョイントの多さ」ではなくて、「ブラケットが短い」ことだ。


ただ、「回転」とはいうものの、人間の手足は、自動車のタイヤのように、「軸を中心に、ただひたすらグルグル回転する」わけではない。

例えば、人間の「走る」という動作では、関節と足は「弧を描いて、動いては、元に戻る」を「繰り返し」ている。「円の一部を反復トレースしている」といってもいい。
この反復によって、人間は「回転という動作」を「身体全体を直線的に移動させる」という動作に「変換」しているわけだ。描く弧の大きさによって、その人のストライドが決まる。


この、「関節を中心にした回転運動を、直線的なパワーに変換する動作システム」は、スポーツにおいて非常に多く使われている。
(蛇足だが、こうした「回転運動を直線的な動きに変える仕組み」は、自転車や自動車、電車など、人間がこれまで作り出してきた「人体を遠くに移動させる装置」においても、非常に多く用いられてきた)

例えば、野球の投手は腕を回してボールを投げるが、この動作の「目的」は、ボールを「狙い通りの方向に」「まっすぐ」「高速に」移動させることにある。
他にも野球のバット、卓球やバドミントンのラケット、ゴルフのクラブなど、どれも回転させて振りまわす動作をともなうわけだが、大事なのは、その動作の「目的」が、ボールやシャトルに「直線的なスピード」「飛距離」「方向のコントロール」などを与えることであって、身体の回転動作そのものが目的ではない

いいかえれば、「スポーツにおける人体の手足の回転動作」それ自体は、「人体の有限な動作から直進モーメントを取り出すための方法論のひとつにすぎない」のであり、「目的」ではない。野球は、身体の柔軟性それ自体の維持・向上を目的とするラジオ体操とは、目的が違う。

また、スポーツにおける「ミス」は、かなりの数が、この「回転運動を直線運動に変えるときの誤動作」に起因している。
投手が肘や肩に故障を抱えやすい原因も、この「回転」という話をもとに考えると、なにも「酷使」だけが原因ではなく、「回転運動を直線運動に変換するメカニズム自体のパワーを、過度に上げようとしたときに起こる、靭帯や間接の破損」だと思えばいい、という部分がある。


話をもう少し絞る。
投げて打って走る野球というスポーツでの「回転動作」で代表的なのは、投手なら腕の振り、野手でいえばバットスイングだろう。


まず投手の腕の回転運動について。

投手の腕の動きについて、日本には「できるだけ高速で腕を回転させてこそ、ボールに加速がつく」という考えがある。だからこそ、「腕の振り」という言葉が重くみられることになる。

例えば、かつて松阪大輔の昔のフォームについて書いたことだが、彼はサード側に足を蹴り出しながら、ボールを持った手をいちど「右腰の下まで降ろして」それから投げていた。

横にステップする松坂投手参考記事:2011年3月24日、「やじろべえ」の面白さにハマる。 | Damejima's HARDBALL

参考記事:2010年10月26日、クリフ・リーの投球フォームが打ちづらい理由。「構えてから投げるまでが早くできている」メジャーの投球フォーム。メジャー移籍後のイチローが日本とはバッティングフォームを変えた理由。 | Damejima's HARDBALL

これは、球威を「腕を振る」ことに大きく依存しようとする、つまり、腕をできるだけ高速に、しかも長時間回転させ続けることで生じる『はず』の加速度を最大限に利用しようとする」ことからきている。だから、「ボールは、非常に長い距離を、円を描くように移動して、それからリリースされる」ことになる。

こういうフォームの意味は、アメリカのアーム式の投手と比べてみると、発想の根本的な違いがわかる。

例えばデレク・ホランドのようなアーム式フォームでは、腕は、松坂大輔のように「腕を、肩関節を中心に1周させる」のではなく、「手を腰の下に下げる時間帯を持たず、腕を高くキープしたまま後ろに引いて、そこから直線的に投げだす」。ボールは「より短い距離を直線的に移動してリリースされる」ことになる。
ゆえに、当然ながら両者の「投球リズム」も大きく異なる。松阪のように「肩を中心に腕が一周する」場合は、「1、2、の、3」というリズムになり、アーム式では「もっと早いリズム」になる。

バッターにとってタイミングを合わせやすいのがどちらのタイプかは、バッターごとのタイプにもよるから一概に言えないだろうが、少なくとも、大半の投手が短いタイミングで投げてくるMLBでは、小笠原道大のように悠長にバットをこねくりまわすフォームで打つのは難しい。


もし、投手が球威の大半を「腕の回転による加速」に依存するなら、「腕の回転スピード」、つまり「腕の振り」が重要だろう。

だが、腕の回転にあまり依存しないなら、腕という「半回転アーム」の「強度を上げる」こと自体にも重要な意味がでてくる。「MLBのピッチャーの腕が太い」のには意味がある。


バットの回転運動

王貞治のバッティングは、バットがミートポイントに向かって「ものすごく直線的に向かうダウンスイング」だ、だから凄いんだと、思い込んでいる人が数多くいる。「一本足打法」というネーミングの直線的なイメージから、バットも「スイングの開始時点では、直立したまま」でスイングしていると思われているわけだ。
だが、いちど動画で確認してもらうとわかるが、この人のバットは「いちど大きく寝て」、それからカラダの後ろを回りこむような軌道でスイングが始まっている。「ドアスイング系のスイングをする落合や張本は、バットを一度寝かせてから振っているけれど、王のバットは一度も寝ないダウンスイングだ」と思い込んでいる人は非常に多いわけだが、もう一度、自分の目で確かめるといい。


日本の投手が「腕の回転による加速」に依存して投げるのと同じで、日本の打者はおしなべて「バットの回転速度」で遠くに打とうとする。そのためか、投手の能力を「腕の振りだけ」で語ろうとする人が多いのと同じで、バッティングを「スイングスピードのみ」で語ろうとする人が、はなはだ多い(笑)

だが、バリー・ボンズとかハンク・アーロンの分解写真でも見てもらうとわかるが、彼らのスイングは「バットを円を描いて振りまわす」イメージではなく、「ボールがバットに当たってから直線的にグイっと絞り込むような強さ」に特徴がある。だから打球にも、よく日本でホームランバッターを表現するときに使う「弧を描く」という表現が、彼らにはあてはまらない。

例えばもしバットが「中まで詰まった鋼鉄の棒」だとしたら、なにも必死にスイングスピードなんか上げなくても、きちんと当たりさえすれば、ボールはスタンドどころか場外に消えていく。だがそんな重いもの、自由には振れない。

では、木製バットに「中まで詰まった鋼鉄の棒」と同じような効果を与えるにはどうしたらいいか。(「腕力でチカラいっぱい支える」というのは、この場合に限って正解ではない。MLBの投手の球は重いのだ)

例えば、バットに当たった瞬間からバットからボールが離れる、ほんの短い時間帯に「バットがまるで中まで詰まった鋼鉄のように強靭」であるなら、なにも必死にスイングスピードを上げる必要はない。腕力に頼るだけのバッターより、スイングそのものはゆったりなのに打球が遠くへ飛ぶバッターのほうが、楽に長打を打てる。
(ことハンク・アーロンの場合は、ウラジミール・ゲレーロにも感じたことでもあるが、バットにボールが当たった「後」の強さ、特にグリップを絞りこむ手首の強さに秘訣があるように思える)


まとめると、投手、打者、いずれにしても、肩や股関節のような関節を軸に、円を描いて行なわれる「手足の回転を、直線上の加速に変換する」過程の巧拙に野球思想の違いや技術の差が出るし、怪我やミスが出現する。なにもバットスイングや腕の振りといった「回転運動のスピード」だけが野球ではないのである。

最初に内野手のゴロ処理のミスについて書いたように、「関節」と「棒」を交互につないだ形状でできた人間の手足は「思ったほど精密に動きをコントロールすることができない身体パーツ」だ。
ならば、スイングスピードや腕の振りといった「回転運動のスピード」だけに依存するフォームは、思ったほど自由に動かせない手足への深すぎる依存を意味する。
日本人野手の打撃成績低迷やミスの多発、日本人投手の怪我の多さをみると、日本野球における「動作に関する思想」は、もうそろそろ発想を変えないと、どうしようもない時期にきている。

November 12, 2016

トランプが大統領選に勝って慌てふためいている人がたくさんいるわけだが(笑)、ちょっと暇つぶしに「トランプ以前の世界」の「眺め方」について書いてみる。

まず最初に、たくさんの紋切り型の断定を含んだ一般常識的な前置きとして、「安い商品の追求と、雇用や国際競争力の関係」について書こう。
この話を「グローバリズム」という単語だけを使って説明したがる人が数多くいるが、「安い商品の追求」という視点を入れないとメカニズムがハッキリせず、話がわかりにくい。(ゆえに、以下の話は単なる反グローバリズムではない)

ちなみに、2016年6月に書いた以下の参考記事を読んでもらえばわかることだが、以下の話はなにもトランプが大統領になったから思いついたわけでは、まったくない。世界の動きはイギリスがEU離脱を決定するだいぶ前から既に「それまでとは大きく違っていた」のだ。

「グローバル企業というものは『雇用を外部化』する傾向にあるのが普通なのであって、彼らは世間の批判をかわすために正社員を増やす例外的なとき以外には、常に『正社員という、ある種のローカリズムにできるだけ依存しないですむ内部構造をとろう』とする。」

(イギリスの若者は)「よく考えもせずグローバリズムを安易に支持したりする前に、『グローバリズムと国内雇用が果たして両立するものなのかどうか』、じっくり考えておくべきだ。」

2016年6月25日、EU離脱を後から愚痴るイギリスの若者を見て世界中の若者が思い知っておくべき、グローバリズムと雇用の関係。 | Damejima's HARDBALL

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安い商品とは何か。
原価の安い商品だ。

原価を下げる最大の原動力は何か。
安い労働力だ。
(「安価な原材料」という答えもある、と思う人が数多くいるだろうが、原料の安さというのは元をただせば安い労働力が源泉だ。また、労働力の安さには、外食産業でみられる異様なほど長時間のサービス残業なども、もちろん含まれる)

では、安い労働力はどこにあるか。
先進国以外の国にある。

安い商品の調達のために海外生産率と輸入依存を高めることは、安い労働力の調達のために生産拠点を海外に移すということだから、結果的に先進国の雇用を発展途上国に移転することを意味している。
(これが一種の「国際的なワークシェアリング」であるのは確かだが、実際には、雇用だけでなく、生産技術や設備投資も先進国から発展途上国に移転されるのであって、そんな悠長な話をしている場合ではない)


「安い商品」の追求は、
国内経済に2つの結果をもたらす。
国内雇用の減少国内生産商品の国際競争力低下だ。

雇用不安に常に怯える低所得層(あるいは若年層)は生活防衛のために「安い商品」を追い求めることがよくあるわけだが、その安さ追求の姿勢が結果的に国内生産と国内雇用の海外流出をまねき、国内の低所得層の雇用を減少させ、不安定化させるわけだが、そのことはなかなか低所得層自身に理解されない。(ただし、よく誤解している人がいるが、この話とデフレの善悪とは、基本的に関係ない)

また、低価格競争を強いられ続けている企業が、安い商品の調達を海外生産や輸入に依存するようになること、さらには自社技術の海外流出を放置することは、結果的にその企業の国際競争力の大幅な低下をまねくことになるが、シャープがそうであったように、そのことはなかなか企業自身に理解されない。

つまり、自分の身に起きていることの原因が、「自分自身のパフォーマンス」である場合、それはなかなか理解されない、ということだ。


そうした事態をみて政府は、得票維持のために、低所得層の保護とか競争力の低下した産業の保護とかと称して、一時金や補助金の支給、一時的な減税などを行う。いわゆる「再分配」というやつだ。

当然ながらこうした政府の臨時支出は本質的な解決にはならない。
政府収支は悪化するし、国内雇用の質や量、企業の国際競争力がこうした再分配によって向上することは、ほとんどない。

そうこうするうち、やがて、先進国の雇用移転先である海外の発展途上国自身は、先進国の製品と生産手法を「コピー」して自国製品を製造・輸出するようになり、海外に生産拠点を移した先進国企業の国際競争力は完全に失われる。

また、海外の途上国から先進国にたくさんの出稼ぎ観光客犯罪者が来るようになる。雇用は海外に移転できても、モラルは簡単には移転されないのである。
(出稼ぎ者と観光客では国内経済にとっての意味は異なるが、ここではふれない。もちろん出稼ぎ者は「代替品」として国内の雇用をさらに奪うことになるし、また、社会保険料や税金をマトモに納めることもないから、自治体や国の財政悪化の原因にもなる)

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ここまで書いたことは、「本来なら」あくまで概論にすぎない。「本来なら」世界のすべてがこれで説明できてしまうわけではない。というのは、上に書いた論理には、さまざまな論理の破綻や弱さ強引な決めつけ誤り数多くの例外があるからだ。

ところが、たいへん問題なことに、こんな「風ふけば桶屋が儲かる式の、シンプルなだけの出来のよくないロジック」によって「この20年ほどの間に世界経済で起きていたことの、かなりの部分」が説明できてしまう。「間違いだらけで単細胞な時代」が、この10年から20年もの間、続いてきたからだ。

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ここまで説明しても、まだ理解できない人がいるかもしれない。さらにわかりやすくするために、「上に書いた論理にそわない例」でも挙げてみる。

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上に書いた国際的な雇用移転サイクルは、必ずしもすべての産業分野、商品分野で起こるわけではない。

例えば、食肉の生産においては、アメリカやオーストラリア、カナダといった先進国で国内生産の優位性が保たれ続けている。
海外の安い労働力に依存する労働集約的生産を行うことによって低価格を実現するのではなく、大規模化や機械化で「ヒトへの依存度を減らす」ことによって国内生産の優位性を維持しているからだ。
(欧米の大規模農業はエコでないと批判する人がよくいるわけだが、では、コメをはじめとして農薬をまきまくって連作しまくっている日本の零細な農業がどれだけエコロジー的かと問いたい。もちろん「エコロジー」という思想自体が胡散臭いことは、いうまでもない)

また、日本においても、裾野が非常に広い産業分野である自動車は、歴史的に非常に多くの国内雇用を維持してきた。
これは、日本の自動車産業において、コスト監視やムダの排除が非常に強い企業文化の伝統になっているためだ。日本の自動車産業では、被雇用者自身が生産現場で行う非常にきめ細かい自助努力によって、作業のムダが徹底的に省かれ、ヒトに依存した低品質の生産ではなく、ヒトにしかできない高品質な生産が実現され続けている。いわば日本の自動車産業における国内雇用は、働く人たち自身の自助努力によって守られてきたのである。(もちろん企業側の管理能力も高い)


こうした事例がある一方、近年倒産を連発してきたアメリカの小売チェーンはどうか。

家電、スポーツ、衣料、書籍など、アメリカの一般庶民の身近にあった専門小売チェーン店が近年バタバタ倒産している。シアーズ、ペニー、タワー・レコード、サーキット・シティ、ボーダーズ、ゴルフスミス、スポーツオーソリティ、レディオシャック、アメリカンアパレル、ダフィーズ。
こうしたチェーンは製品の多くを中国の安い労働力に依存することで、アメリカの国内雇用を中国に「輸出」してきた。反面、こうしたチェーン店の多くは、欧米の食肉生産や日本の自動車にみられるような「安い労働力のみに依存しない強い経営体質」を実現することはなかった。

また、よくアメリカの小売チェーン店の不調ぶりはアマゾンやウォルマートに売り上げを食われたのが原因などと書く人がいるわけだが、では、アマゾンやウォルマートが好調なのか。
そうでもない。

実情は、お互いのパイを奪いあった結果、寡占化が進行しただけの話なのであり、規模拡大競争に勝ちつつあるアマゾンやウォルマートすら、いまだに低価格競争から逃れられてはいない。


視点をちょっと変えてみる。
「海外への雇用移転」「国内競争力の低下」をまねく「安い商品」は、同時に、「遠くの国から先進国に輸送が必要な商品」でもある。
いいかえると、いくら人件費の安い国で生産したからといっても、先進国への輸送コストはゼロにはできない、海外生産商品を国内に輸送するコストは商品代金に上乗せされる、ということだ。
そこに目をつけたのが、先日破綻した韓進海運のような中国韓国の新興の海運業者だ。韓進海運が破綻してコンテナが港で立ち往生したとき、コンテナの荷主がアマゾンやウォルマートであることがわかったのは、当然の成り行きだ。
また、ウォルマートとの蜜月を続けてきたオバマ政権が中国を甘やかし続けてきたのも当然の成り行きだ。
参考記事:2015年2月7日、「陰謀論愛好家」を公言してしまい、ちょっと火傷してしまったチッパー・ジョーンズ。 | Damejima's HARDBALL

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ここに書いたことは、ニュースを読んでいれば誰でも頭に入る、そして頭に入っているべき、初歩的なことばかりのはずだ。

だが上でも書いたように、「自分が日常やってきたことと、自分の身にふりかかっている事態との間に、少なからぬ因果関係が存在すること」が、働く人であれ、企業であれ、当事者たちに「あなたがた自分自身が当事者である」と把握され、意識されだすのに、10数年から20年もかかっているのが実情なのである。

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今回の大統領選は、この数十年に醸成され続けてきた、さまざまな「既得権」の問題を世間にさらすことになる。

国内雇用の減少は主に「若年層」にふりかかる。一方で、雇用が海外に移転されるグローバリズム時代が来る前に、キャリアを終身雇用のもとで終えた老人たちが国内にわんさかいる。老人たちは分不相応な額の年金をもらいながら、あいかわらず自動車で若者を轢き続けているわけだが、その「老人に轢かれる側の若者」が「福祉国家」などというコンセプトにいつまでも期待してくれる、などという発想は、それ自体が、メディアの世論誘導や、既存政治家の幻想にすぎない。

予想屋ネイト・シルバーニューヨーク・タイムズはじめ、既存メディアがトランプ勝利を予測できない原因のひとつは、出口調査自体の信頼性が失われていることよりも、むしろ、「彼らの分析や記事が、データや取材より記者個人、あるいは、メディア側の期待値が大きく反映したものになっていた」ことにある。これは今に始まったことではない。
彼らが「自分の期待値を、そのまま記事にしてしまう」原因は、彼ら自身がトランプ勝利を期待しないクラスターや人種層出身であるケースや、アメリカの既存メディアにおける中国資本支配が進んだこともあるし、また、慰安婦問題において無根拠なデマ記事で長年日本の世論を誤誘導して国益を損なってきた朝日新聞、東京都知事当選後に汚職に手を染めた猪瀬直樹がそうだったように、ジャーナリズムなんてものはとっくに死んでいるということもある。

逆にいえば、ジャーナリズムの死を「読者に気づかせない」ほど、マスメディアは既得権として非常に長い間維持されてきたし、彼らの能力は過大評価されてきたのである。


いずれにしても、「人がうすうす感じてきたこと」は今後、トランプ登場を契機により鮮明なカタチをとって表現されることになる。今後が楽しみだ。


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