February 2018
February 26, 2018
カーリング男子日本代表スキップ・両角友佑の五輪を振り返ったインタビューは、読み物としてはなかなか悪くない。
https://pyeongchang.yahoo.co.jp/column/detail/201802250010-spnavi
ただ、カーリングという「日本においては、まだまだ特殊な競技」の、「この20年の歩み」を考えると、彼が語ったことのすべてが全カーラーの意見を代表しているとも思わない。
まず、カーリングというスポーツが「日本においては、まだまだ特殊」ということの意味について書きたい。
もともと「冬季五輪のスポーツ」の選手層は特殊ではある。
というのも、夏季五輪が採用している競技種目が、「1年を通して楽しめるスポーツ」や、「東西南北どんな気候の国でも競技可能な汎用性の高いスポーツ」を中心に構成され、1年を通して練習や競技が可能であることが多いのと比べ、冬スポーツでは「(都市の大規模なスケートリンクを含めて)氷や雪がある場所」と、「寒冷な地域で生まれ育ってきた選手や指導者」が前提になるからだ。
だから、冬スポーツの場合、有力選手の「出身地」が、世界ではカナダやロシア、北欧といった「寒い国」、日本では北海道とか長野といった「特定の都道府県」に片寄るのが普通だし、フィギュアスケートの選手の出身地がスケートリンクや有能な指導者のいる特定都市に片寄ったりするようなことが必然的に起こる。
それでもカーリングの場合、カナダやヨーロッパではテレビのレギュラー番組すらある人気スポーツのひとつと聞くから、けして「特殊なスポーツ」とばかりもいえない。
だが、競技環境が万全でない日本のカーリング環境では、銅メダルのLS北見の選手たち全員の出身地が北海道で、うち3人は「同じ町」に生まれ、中学生時代に「同じチーム(=常呂町ROBINS)」でプレーしていた選手であることからもわかるように、選手層拡大にはもともと大きな制約がある。
そうした競技環境の限界に悩まされてきたカーリングの風向きを変えたのは、北海道常呂町出身で、カーリングでは日本初のスタープレーヤーとなった小野寺歩と林弓枝の登場だった。
2002年ソルトレイク冬季五輪に出場した女子カーリングチーム「シムソンズ」の一員だった小野寺と林は、五輪出場後に日本選手権に出場したが敗退。競技続行のため青森に移住し、新たに「フォルティウス」というチームを結成した。
この小野寺・林コンビを中心とした青森の新チームがトリノ冬季五輪出場を果たしたことで一時的なカーリングブームが起き、カーリングという競技が日本中に知れわたるきっかけを作った。
だが、一時的とはいえ人気を博しながらも、2人は日本選手権終了後に一時的に競技を離れることになり、ブームは一気に終息に向かった。
「トリノ後」、日本におけるカーリングは10数年をかけてたて直し、今回の銅メダルにたどりつくわけだが、紆余曲折を語る上で欠かせないターニングポイントは、おそらくトリノ五輪直後に行われた第23回日本選手権だ。
このイベントは当時の人気コンビである小野寺・林を擁する「青森」で行われ、おまけに五輪直後というタイミングで開催された国内最大の競技大会だったが、にもかかわらず、どういう理由からかはわからないが、「テレビ中継」が無かったのである。
そのため、某巨大掲示板では自主的に「現地情報をネット共有するライブ実況」が行われ、ファンの熱い支持を得たという事実すら残されている。(参考記事:カーリング日本選手権決勝実況スレ)
当時の人気ぶりを考えると、このときテレビ中継が無かったことは、たしかに不思議でならない。
第23回日本選手権は小野寺・林コンビのチーム青森の劇的な優勝で幕を閉じたが、その直後、優勝にもかかわらず(なにか他言できない「オトナの事情」があったのだろうが)小野寺・林コンビの競技休養と青森からの離脱が報じられ、日本におけるカーリングブームはいったん終息することになった。
この第23回日本選手権には、小野寺・林コンビの常呂町の後輩にあたる「常呂町ROBINS」という中学生チームが出場していて、オトナたちのチームを大いに苦しめる活躍を見せ、コアなファンの間で話題となった。
その早熟な「常呂町ROBINS」のメンバーのうち、3人、吉田知那美、吉田夕梨花、鈴木夕湖が、今回の日本初の銅メダルメンバーである。
だから結果的にいえば、シムソンズから出発した小野寺・林コンビが築いたのが第一次カーリングブームだったとすれば、そのチーム青森のトリノ五輪出場メンバーだった本橋麻里(=常呂町出身)が、こんどはオーガナイザーとして、後輩である常呂町ROBINSの骨組みを元に構成したLS北見を10年かけて銅メダルチームへと育てた結果が、第二のムーブメントということになる。
長々と「常呂町出身の女子カーリング選手たちがつないできたリング」について書いたが、それは日本のカーリングが「いかにほんのひとにぎりの、限られた人たちが細々と支え続けたスポーツだったか」を伝えたかったからだ。
今回の銅メダルという偉業は、その「ほんの限られた選手たち」の人生をかけた20年にもわたる長い戦いによってたどりついた高みなのである。
だから今回のメダルは「後継者が育って、競技する地域や競技人口が広がった結果、メダルをとった」という話では、まったくない。
むしろ、「『1990年代の終わりに、ジュニアですでに名声を得ていた北海道の子供たち』が、20年、ふたつの世代にまたがって頑張ってきた結果、とうとう銅メダルという栄誉にたどりついた」というのが事実であって、後継者が育ったといえるほどカーリングの裾野はまだ広がっていないし、むしろ「常呂町の20年」を引き継げるような、有力な後継者、選手層は、まったくといっていいほど育っていないのである。
冒頭にあげた両角君の談話に戻る。
彼は「この10年、何も変わってない」と、競技環境の変化の遅れを嘆く。だがその「何をやっても変わってくれない世界」を相手に、しつこく20年もかけてアプローチし続けてきた女子カーリングは、ほんのわずかな限られた選手層の中から、ついに世界で銅メダルを得る快挙に辿り着いたのである。
これまで、女子選手たちそれぞれがどれほどの数の紆余曲折を味わったことだろう。おそらく選手たちは、カーリングの故郷である常呂町を離れ、スポンサーを得ては失い、チームやパートナーを変え、住む場所すら転々としながら、右往左往する暮らしに耐え、人生を賭けて、今回のメダルという偉業に到達したのである。
五輪と日本選手権の順番が違うと怒る気持ちもわからないではない。だが、かつてのカーリングブームにおいては、両角君が主張する「五輪後に日本選手権」という開催順序だったにもかかわらず、「ブームは去った」のである。事は単純ではない。ことにマスメディアの気まぐれすぎる対応ぶりは、今も昔も変わってはいない。
彼の正論を否定しようとはまったく思わないが、正論を吐くことも時には大事であるにしても、10年と言わず、20年、30年と、10年単位で自分を信じて頑張り続けてみること。それが最も大事なことなんじゃないか。そう思う。
今回のメダルは、ほんの少数の人たちが、実に20年もの歳月をかけて「10年にひとつだけしか上がらせてもらえないような階段」を上がる努力をしたことの結実だ。
これまで女子チームの後塵を拝し続けてきた男子カーリングには、最低あと10年、現実的にはあと20年くらいは努力し続けてもらうとして、それ以外の人たちは、「10年にひとつだけしか階段を上がらせてもらえないような、あまりにもノロいペース」を作り出してきた責任が、いったい「誰に」あるのか、いい機会だからゆっくり考えてみるといい。
https://pyeongchang.yahoo.co.jp/column/detail/201802250010-spnavi
ただ、カーリングという「日本においては、まだまだ特殊な競技」の、「この20年の歩み」を考えると、彼が語ったことのすべてが全カーラーの意見を代表しているとも思わない。
まず、カーリングというスポーツが「日本においては、まだまだ特殊」ということの意味について書きたい。
もともと「冬季五輪のスポーツ」の選手層は特殊ではある。
というのも、夏季五輪が採用している競技種目が、「1年を通して楽しめるスポーツ」や、「東西南北どんな気候の国でも競技可能な汎用性の高いスポーツ」を中心に構成され、1年を通して練習や競技が可能であることが多いのと比べ、冬スポーツでは「(都市の大規模なスケートリンクを含めて)氷や雪がある場所」と、「寒冷な地域で生まれ育ってきた選手や指導者」が前提になるからだ。
だから、冬スポーツの場合、有力選手の「出身地」が、世界ではカナダやロシア、北欧といった「寒い国」、日本では北海道とか長野といった「特定の都道府県」に片寄るのが普通だし、フィギュアスケートの選手の出身地がスケートリンクや有能な指導者のいる特定都市に片寄ったりするようなことが必然的に起こる。
それでもカーリングの場合、カナダやヨーロッパではテレビのレギュラー番組すらある人気スポーツのひとつと聞くから、けして「特殊なスポーツ」とばかりもいえない。
だが、競技環境が万全でない日本のカーリング環境では、銅メダルのLS北見の選手たち全員の出身地が北海道で、うち3人は「同じ町」に生まれ、中学生時代に「同じチーム(=常呂町ROBINS)」でプレーしていた選手であることからもわかるように、選手層拡大にはもともと大きな制約がある。
そうした競技環境の限界に悩まされてきたカーリングの風向きを変えたのは、北海道常呂町出身で、カーリングでは日本初のスタープレーヤーとなった小野寺歩と林弓枝の登場だった。
2002年ソルトレイク冬季五輪に出場した女子カーリングチーム「シムソンズ」の一員だった小野寺と林は、五輪出場後に日本選手権に出場したが敗退。競技続行のため青森に移住し、新たに「フォルティウス」というチームを結成した。
この小野寺・林コンビを中心とした青森の新チームがトリノ冬季五輪出場を果たしたことで一時的なカーリングブームが起き、カーリングという競技が日本中に知れわたるきっかけを作った。
だが、一時的とはいえ人気を博しながらも、2人は日本選手権終了後に一時的に競技を離れることになり、ブームは一気に終息に向かった。
「トリノ後」、日本におけるカーリングは10数年をかけてたて直し、今回の銅メダルにたどりつくわけだが、紆余曲折を語る上で欠かせないターニングポイントは、おそらくトリノ五輪直後に行われた第23回日本選手権だ。
このイベントは当時の人気コンビである小野寺・林を擁する「青森」で行われ、おまけに五輪直後というタイミングで開催された国内最大の競技大会だったが、にもかかわらず、どういう理由からかはわからないが、「テレビ中継」が無かったのである。
そのため、某巨大掲示板では自主的に「現地情報をネット共有するライブ実況」が行われ、ファンの熱い支持を得たという事実すら残されている。(参考記事:カーリング日本選手権決勝実況スレ)
当時の人気ぶりを考えると、このときテレビ中継が無かったことは、たしかに不思議でならない。
第23回日本選手権は小野寺・林コンビのチーム青森の劇的な優勝で幕を閉じたが、その直後、優勝にもかかわらず(なにか他言できない「オトナの事情」があったのだろうが)小野寺・林コンビの競技休養と青森からの離脱が報じられ、日本におけるカーリングブームはいったん終息することになった。
この第23回日本選手権には、小野寺・林コンビの常呂町の後輩にあたる「常呂町ROBINS」という中学生チームが出場していて、オトナたちのチームを大いに苦しめる活躍を見せ、コアなファンの間で話題となった。
その早熟な「常呂町ROBINS」のメンバーのうち、3人、吉田知那美、吉田夕梨花、鈴木夕湖が、今回の日本初の銅メダルメンバーである。
だから結果的にいえば、シムソンズから出発した小野寺・林コンビが築いたのが第一次カーリングブームだったとすれば、そのチーム青森のトリノ五輪出場メンバーだった本橋麻里(=常呂町出身)が、こんどはオーガナイザーとして、後輩である常呂町ROBINSの骨組みを元に構成したLS北見を10年かけて銅メダルチームへと育てた結果が、第二のムーブメントということになる。
長々と「常呂町出身の女子カーリング選手たちがつないできたリング」について書いたが、それは日本のカーリングが「いかにほんのひとにぎりの、限られた人たちが細々と支え続けたスポーツだったか」を伝えたかったからだ。
今回の銅メダルという偉業は、その「ほんの限られた選手たち」の人生をかけた20年にもわたる長い戦いによってたどりついた高みなのである。
だから今回のメダルは「後継者が育って、競技する地域や競技人口が広がった結果、メダルをとった」という話では、まったくない。
むしろ、「『1990年代の終わりに、ジュニアですでに名声を得ていた北海道の子供たち』が、20年、ふたつの世代にまたがって頑張ってきた結果、とうとう銅メダルという栄誉にたどりついた」というのが事実であって、後継者が育ったといえるほどカーリングの裾野はまだ広がっていないし、むしろ「常呂町の20年」を引き継げるような、有力な後継者、選手層は、まったくといっていいほど育っていないのである。
冒頭にあげた両角君の談話に戻る。
彼は「この10年、何も変わってない」と、競技環境の変化の遅れを嘆く。だがその「何をやっても変わってくれない世界」を相手に、しつこく20年もかけてアプローチし続けてきた女子カーリングは、ほんのわずかな限られた選手層の中から、ついに世界で銅メダルを得る快挙に辿り着いたのである。
これまで、女子選手たちそれぞれがどれほどの数の紆余曲折を味わったことだろう。おそらく選手たちは、カーリングの故郷である常呂町を離れ、スポンサーを得ては失い、チームやパートナーを変え、住む場所すら転々としながら、右往左往する暮らしに耐え、人生を賭けて、今回のメダルという偉業に到達したのである。
五輪と日本選手権の順番が違うと怒る気持ちもわからないではない。だが、かつてのカーリングブームにおいては、両角君が主張する「五輪後に日本選手権」という開催順序だったにもかかわらず、「ブームは去った」のである。事は単純ではない。ことにマスメディアの気まぐれすぎる対応ぶりは、今も昔も変わってはいない。
彼の正論を否定しようとはまったく思わないが、正論を吐くことも時には大事であるにしても、10年と言わず、20年、30年と、10年単位で自分を信じて頑張り続けてみること。それが最も大事なことなんじゃないか。そう思う。
今回のメダルは、ほんの少数の人たちが、実に20年もの歳月をかけて「10年にひとつだけしか上がらせてもらえないような階段」を上がる努力をしたことの結実だ。
これまで女子チームの後塵を拝し続けてきた男子カーリングには、最低あと10年、現実的にはあと20年くらいは努力し続けてもらうとして、それ以外の人たちは、「10年にひとつだけしか階段を上がらせてもらえないような、あまりにもノロいペース」を作り出してきた責任が、いったい「誰に」あるのか、いい機会だからゆっくり考えてみるといい。
February 16, 2018
史上最悪の大会になること間違いないどこかの国の五輪なんか何の関心もないが、このインタビュアーはなかなか優秀なのでツイート。「変換」っていう「相手の心の中にずっとあった重要単語」を引き出すことに成功してる。
— damejima (@damejima) 2018年2月15日
「何の足跡もないところを目指している」〜平野歩夢https://t.co/QdFJnkQo1M
あまり、というか、
ほとんど日本人スポーツライターを褒めた記憶がない。
だが珍しく、このインタビュアーはなかなかいいと思う。いろいろと考えさせられるものを引き出すことに成功している。
スポーツではよく、「気持ちの切り替えが大事だ」などという。
だが、その言葉がどれだけ無意味か、このインタビューを読んでわかった。
わかったことの最も大事な要点は、こうだ。
実は、人は「感情」を切り替えることができない。
なぜなら
一度発生した「強い感情」は、簡単には消去できないからだ。(だからこそ「クール」という価値がある)
多くの感情、特に、怒りや悲しみ、極度の欲求や緊張といった、「ヘビーな重さをもつ感情」は心に溜まりやすい。人の心という「泉」の底には、そうした「残渣」や「澱(おり)」が日々たまっていく。「ストレス」とは、心に溜まった「ゴミの重さ」のことだ。
ことにトップアスリートは「他人と競うこと、果てしない緊張の場面に晒され続けることが当たり前にあるような、特殊な生活を強いられる人種」なので、よけいに心のゴミがたまりやすい。
多くの人は、激しすぎる怒りや、強すぎる悲しみなど、「鉛のように重い感情」に晒されると、カラダ全体が泉の底に沈んでしまう。
そうならないよう、周囲の人は「気持ちを切り替えろ」などと言葉を発したがるわけだが、繰り返しになるが、そのアドバイスは実は無意味だ。感情を消去しようと思えば思うほど、その感情はむしろアタマをもたげてきてしまうことが少なくない。
だが、「感情の消去」を目指すのではなく、
「別の形に変換して、放置してしまう」のなら、
どうだろう。
よほど、やりやすい。
できもしない「消去」を目指して、かえって疲れるのではなく、「変換」すること。そのほうが簡単なのだ。
これが、誰かが平野君の言葉を引き出してくれたことで「わかったこと」だ。ありがとう。メンタルに傷を負っている社会人や学生にも、この記事を贈りたい。
February 01, 2018
オックスフォードが2014年に発表した「あと10年で無くなる職業」のひとつが「スポーツの審判」。
— damejima (@damejima) 2018年1月31日
では、2024年に「MLBのアンパイア」は無くなっているか。
考えるまでもない。
答え:「無くならない」
野球というスポーツの「面白さ」の根底は実は「トラッド」にあると、最近確信するようになった。
オックスフォード大学が2014年に「10年後に無くなっている職業」を列挙した。「スポーツの審判」もそのひとつだが、「MLBアンパイアという職業の消滅」について本気で考えたことなど一度もない。そんな予想はドナルド・トランプ当選が予測できなかったNate Silverのデジタル予想とたいした違いはない。
理由はハッキリしている。
MLBにおけるアンパイアは、良くも悪くもだからだ。
「野球というシステムの一部」
10年後、「プレーの判定における主導権が人間から機械に移行すること」くらいはありそうだが、だからといって、スポーツ全体で「審判そのものが消滅する可能性」はまるで無い。
特に、MLBアンパイアの場合は、ありえない。
MLBアンパイアの仕事は、なにも「正確なジャッジ」だけではないからだ。彼らは「パフォーマー」であり、「オーガナイザー」でもある。
テニスとか卓球、バレーボールなど、他スポーツの審判と、MLBアンパイアとでは、立ち位置が違いすぎる。(逆にいえば、アンパイアが文化の一部として機能してきたことは、MLBの他スポーツにない面白さでもあった)
アンパイアの役割のユニークさから、もうひとつわかることは
MLB野球という料理の味の決め手はということだ。
「トラディショナル風味」だ
そもそも、アンパイア、ボールパーク、ユニフォームなど、MLBを彩っている「トラディショナル風味」は、このスポーツを、プロスポーツとして他のスポーツに無い存在として支えてきた重要ファクターであり、そのことはMLBのデジタル化が進んでいる今も、まったく矛盾しない。
最近、MLBがオールスターの延長戦を「11回以降はランナー2塁から始めるタイブレーク方式」にすることを検討するなどと言い始めたが、それは施策として間違っているとブログ主は考える。
オールスターは、ワールドシリーズ初日の開催権がかかっているにしても、別に「勝ち負けを決める、ただそれだけのため」にやっているわけではない。むしろオールスターは、MLBファンが、野球本来のトラディッショナル風味を満喫するフェスティバルであることを忘れてもらっては困る。
「MLBにトラッドな味わいを残すこと」という観点からみて、オールスターゲームの延長戦にサドンデス方式を導入することは馬鹿げてる。そんなくだらないことするくらいなら、延長を12回で打ち切るほうが、はるかにマシ。
— damejima (@damejima) 2018年1月31日
敬遠の申告制にしても、ゲームは別にスピードアップしなかった。一刻も早く元に戻すべきだ。MLBは、自らのストロングポイントである「トラディッショナルなフレーバー」を損なうような「誤った施策」に手を染めるべきではない。
「MLBという料理の決め手のスパイスは、何か」、そんな基本的なことすらわかっていない、数字だけの人間が、MLBのスピーディー化とか言い出して、「やってはみるものの、ほとんど目的どおりに動かない愚策」ばかり連発するのは、ほんと、勘弁してもらいたい。