February 2020

February 29, 2020

重要なのは、「方法」をみつけることであって
「理由」を探すことではない。

このことは非常に重要な法則だが、なかなか理解されない。

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新型コロナウイルス対策で、急遽、学校を休校措置にしたことについて、どこかの愛媛県知事が「唐突だ」などと、わけのわからない批判をしている。バカはほんと、どうしようもない。結局こういう人は「どんなことにもケチをつけたい、ただそれだけの人種」なのだ。


こういうタイプの人はふだん「日本人の組織の悪いところは、決断の遅さにある」などと鼻高々に言いたがる。

だが、こういう人間に限って、物事をパッと決めると、こんどは、「早く決めすぎ」だのなんだの、ケチをつけだす。ほんとに始末が悪い。


言いかえると、これまでよくいわれてきた「日本人は物事を決定するスピードがあまりに遅い」という指摘は、実は、「決断そのものの遅さが原因」ではないということである。

「誰かが決断した『決断』について、ああだこうだと言いたいだけの外野が『ケチをつける行為』があまりにも多すぎることによって、最初の決断者の「スピード感」が著しく損なわれるのがスピードダウンの真の原因なのだ。


例えば、何事によらずスタートアップを経験するとわかるのは、「できない理由を探す人の存在がスピードをダウンさせる」ということだ。

プロジェクト発案者にしてみれば、欲しいのは「それを可能にする方法を考えてくれる人」であって、「できない理由を探す人」ではない。

だが、「理由をみつけるのに必死な人」は自分の発想の貧しさを意に介さず、「できない理由」ばかり探して、重箱の隅をつつき続ける。言いかえると、自分のプロジェクトに「理由ばかりあげつらう人」がいることがわかったとしたら、その人は「必要のない外野」であり、「はずれてもらうべき人」だと判断すべきだ、ということだ。


例えば、MLBにこんど来た山口俊もそうだ。初登板がうまくいかなかったとき、彼がなんと言ったかというと、「MLBのボールの縫い目がどうたらこうたら」。

これは明らかに「できない理由探し」である。

必要なのは、「うまく投げるための『方法』をみつけること」であって、「うまく投げられない『理由探し』」ではない。

重要なのは「方法」で、「理由」ではないのである。


これから、人と会話するとき、人と仕事をするとき、相手の発言を点検してみるといい。ちょっと気をつけて発言ぶりを聞いていれば、その人が「方法を模索してくれる人」なのか、ただの「できない理由探しマニア」なのかは、すぐにわかる。

相手が語りたがってるのが、「方法」なのか、「理由」なのか。

それによって、その相手がどのくらい「実務的」か、それとも、単なる「センチメンタリスト」なのかが、あっという間にわかるのである。

February 16, 2020

「死刑制度廃止ロジックのまやかし」に関する前の記事同様に、これも以前ツイートした話題だが、あらためてまとめ直して、備忘録として記事化しておいた。
(ちなみに、以下に述べる内容は、トマス・ロバート・マルサスの『人口論』と同じではない。論理のプロセス、時代背景、視野に入れている科学技術など、多くの要素が、マルサスとは異なっている)

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貧富の差」というロジックは、社会批判によく使われるが、決定的な「盲点」がひとつある。

それは、あらゆる国家の成長において「生産量の飛躍的な増大は、人口の爆発的増加をもたらす」という「どこにでもある事実」を視野に入れていない、という点である。

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社会において「生産が量的に増加すると、人口が増えるという法則性」がみられることは、いいかえると
「ひとりあたりでみると、生産というものは、長いスパンでみるなら、常に『一定量』にしかならない」
ことになる。そのことの意味をまず以下に説明する。

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まず、たとえ話をひとつ書く。

もし「人口はまったく増えないという前提で、生産量だけ3倍とか5倍になる」ならば、「ひとりあたり生産」はどうなるか。当然、3倍とか5倍になり、それが維持される、だろうか?


そういうことは「長期的にみれば」起きない。起きるわけがない。
それはなぜか。

生産増加にともなって、人口増加が自然発生的に起きる
からだ。

たしかに生産の急激な増加は「ひとりあたりの生産」を急激に増加させる。だが、生産増加につられて起こる人口の増加はひとりあたり生産を下降させ、やがて変化は元の状態に押し戻されていく。

「人口がまったく増えないまま、生産量だけが劇的に増加する」などというような事態は、単なる机上の空論であり、長期的にみれば、そんな事態など起きない。

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たとえば日本の戦後の高度経済成長もそうだが、国家の経済がテイクオフ(離陸)する発展初期には、まず最初に、ひとりあたり所得が爆発的に伸びる時期が訪れる。

だがそれは「一時的な現象」で、生産があまりに爆発的な成長初期には人口増加がまだ追いつけないというだけの意味でしかない。やがて、高度経済成長期にベビーブームが起きたように、人口の爆発的増加が起きるから、事態はほどなく一変する。

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やがて社会は落ち着いてくる。
どうなるか。

人口増加が生産量増に追いつくようになると、生産の伸びは人口の急激な増加に吸収されてしまう。当然ながら、個人所得の急激な伸びもどこかで止まる。遅れて、人口の爆発的増加も止まり、社会は次の波が来るを待つことになる。

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生産の爆発と、その後の人口の爆発が終わった後、
どういう「世界」が待っているか。

人口プラミッドはさかさまに倒立した、歪(いびつ)な形になって、「数の少ない若い世代」が「あまりにもたくさんの老人の世話」に悩まされるという絶望的な事態がひき起こされる。

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世界のあらゆる例をみればわかることだが、こうした「生産と人口のサイクル」は「あらゆる国で自動的に起こる、わかりきったサイクル」だ。

それは「社会の歪み」などではない。むしろ「社会という集団のシステムにもともと備わっている、システム上の調整」で、どんな社会でも起こりうる。たとえ資本主義だろうが、社会主義だろうが、まったく関係ない

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かつて2013年に、以下の記事群を書いた。
カテゴリー:『1958年の西海岸』 アメリカにおける放浪の消滅 │ Damejima's HARDBALL

これらの記事で指摘したかったことを短く言えば、社会には爆発的な成長期のあとに必ずやってくる「安定期」があり、そこでは若者にありがちな無軌道な跳躍や飛躍は必要とされない、ということだ。芸術面に限定していえば、成長期にもてはやされがちな自分探し小説だのなんだのは、もはや必要とされなくなる。

かつての記事では、サイモン&ガーファンクルの "America" という曲が、昔の日本の熱心なファンが思っていたような「若さ礼賛」などではまったくなく、むしろ逆で、「若さというエネルギー」をもはや必要としなくなった1960年代アメリカの非常に痛々しい現実を容赦なく指摘した曲であること、また日本でも、明治という激動のあとの時代が安定期を迎えると、「若さ」はまったく必要とされなくなり、若さになんの意味もなくなっていく時代にあって、石川啄木が『我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなった』と嘆いた例を引用して、当時の日本の若者が時代に置き去りにされる姿を指摘した。

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では「貧富の差」は、なぜ、どこに、生まれるか。

ここまでの記述で明らかなように、「有利な成長期に蓄財したベビーブーマー」と、「不利な安定期に生まれ育ってしまった若者」との間には明白な「資産格差」が生じる。

この格差は、共産主義者やリベラルがいうような意味での「資本主義ゆえの貧富の差」ではない。それは、たとえ資本主義だろうが社会主義だろうが、離陸した国家経済がやがて安定する段階で生じる世代間のタイムラグだ。


ただ、問題は資産格差だけにとどまらない。制度疲労を起こしているアホらしい古い社会のしくみが老人や外国人を甘やかすことで、格差はさらに助長される。安易で根本的に間違ったヒューマニズムが横行する過度の福祉社会では、少数である若者が多数である老人を養う異常さを放置する異常な仕組みが、いつまでたっても改善されないからである。

このタイムラグが発生することはあらかじめわかっていたが、その有効な対処はほとんど何もされなかった。高齢化社会なのだから老人は大事にされるべきだ、などと、間違った、上から目線の甘えた考えを抱いている人に限って、「社会を、若者を厚く扱う社会にあらかじめ変えておき、その後に高齢化を迎えることこそが、本来の高齢化社会の『迎撃方法』だった」にもかかわらず、「誰もそうしようとしなかった不手際」をまるで理解しないまま、老人になって、社会を飴玉のようにしゃぶりつくしているのである。

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こうしたことをきちんと把握し、理解させていかないと、わけのわからない社会批判に耳を貸す馬鹿な若者が増えて困ることになる。

実際、放浪という行為が意味を失い、サイモン&ガーファンクルの " America " が指摘したような若者を必要としないアメリカが出現した戦後のアメリカには、フラワーチルドレン、ドロップアウトなど、さまざまな「社会からの逸脱」が流行し、若者は無軌道な社会批判に熱を上げた。日本でも、明治の安定期以降、大正期などには、社会に置き去りにされた若者の一部が社会主義にかぶれるという困った現象があった。

若者の不満を利用したいだけの老人は、資本主義社会の矛盾だのなんだのと、あらんかぎりの大声で叫び、共産主義の宣伝と選挙戦術に使おうとする。そうした「若者を利用したいだけの老人」が、実はその裏で「国家の経済の成長にすがって甘い汁をすすってきた老人」でもあることを忘れてもらっては困る。

アメリカの大統領選挙が近づいているが、アメリカの若者が誤った選択をしないことを切に願う次第である。

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February 15, 2020

2019年8月に「死刑廃止論ロジックがまやかしであること」を証明するツイートを書いた。140文字では書き足りなかった点を加え、備忘録としてブログにも残しておく。

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社会には「鉄則」がある。
「掟」といいかえてもいい。

集団に統率ルールが存在するのは、なにも人間社会だけと限らない。動物にも掟はある。だが、人間の場合、そのルールができる動機、モーメントは、生物学的な意味での本能とは必ずしも一致しない。むしろ、人間の社会の鉄則は、もっと別の、人為的あるいは歴史的な経緯の中で作られ、また、時代とともにそれは変化していく。

だが、だからといって、「鉄則に背く者が罰せられる」という「罰則」というルールが無くなることがあったか、といえば、そういうことは起こらない。

古来から罰則は存在した。
人間社会において、鉄則は常に罰則とともにある。

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さて、ここに
「人間には、その誰もにも生きる権利がある」という鉄則がある、とする。

では、
「重大な犯罪を犯した者にも、生きる権利があるから、その権利を奪う死刑制度は無くすべき」といえるだろうか。

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もうひとつ。
たとえば、ここに
「人間は、他の人間を殺してはならない」という鉄則がある、とする。

では、
「重大な犯罪を犯した者であっても、人間であり、社会がその人間を殺してはならない。だから死刑制度は無くすべき」といえるだろうか。

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いずれも答えは、
言うまでもなく、No
である。

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かつてツイートしたことを反復しておく。


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死刑廃止論のどこに「ロジックによる、ごまかし」があるか。

簡単である。
鉄則を罰則にまで適用しようとしているから
である。

もういちど書く。
その鉄則が、人を保護するものであれ、規制するものであれ、鉄則を破った人間は、適用の対象から除外され、罰則を受ける義務が生じる。理由は単純かつ明快だ。「その人間が、鉄則に背いたから」である。鉄則による保護が適用されるのは、「鉄則を遵守する、鉄則の対象者だけ」である。

罰則は、その鉄則の「『外部』に存在している」のであり、鉄則による制約を受けない。
罪を犯した者は「鉄則による保護」を外され、当然ながら「鉄則によって保護される権利を失う」のである。それが「罰」という「鉄則の外部の世界」だ。

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こんな単純なことがまだわからない人のために、
もうひとつ、「自由」を例に、たとえ話を書く。

鉄則「人間には、誰にでも自由がある」
罰則「刑務所に収監されると自由はなくなる」

ここで試しに、死刑廃止論と同じロジックをわざと使ってみよう。

人間には自由がある、だから、たとえそれが犯罪者であろうと、社会がその犯罪者を刑務所に収監して自由を奪うことは、断じて許されない。

さて。
この話はロジックとして正しいといえるか。

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答え

いえない」。

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いえるわけがない。
「人間には、誰にでも自由がある」という「鉄則」を盾に、社会が犯罪人を刑務所に収監するという「罰則」を人権侵害だなどと主張する根拠にすることなど、できるわけがない。

もういちど書いておこう。

鉄則を犯した者は、鉄則によって保護される権利を失って、罰則という「鉄則の外部」に追いやられる。つまり、罰則は、「鉄則による制約」を受けない。

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証明が終わった。あまりにあっけない。

あらためて言う。
「死刑」という罰則の制度は、「人を殺めてはならない」という、いわば平時の社会が維持している鉄則による制約を「受けない」のである。


考えれば子供でもわかることだが、要は、死刑に反対するロジック自体がもともと矛盾の固まりである。

そもそも「人を殺してはならないという基本ルールを犯し、他人を殺した人間が、殺されてはならない」と考えること自体、論理矛盾である。人を殺してはならないというルールに背いた者が、人を殺してはならないというルールの絶対性を盾に保護されるべきだ、などと、「矛盾した論理」を振り回すこと自体が異常である。

逆に考えても、矛盾は明確だ。もし、鉄則を犯した人間にふさわしい罰が適用されないなら、鉄則は鉄則でなくなる。ならば、人間社会の鉄則そのものが存在しなくなり、殺人者が死刑になるのを阻止するロジック自体の存立根拠が消えてなくなる。

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死刑廃止論のこうしたまやかしのロジックは、クジラ漁批判や、ヴィーガン的な肉食の拒絶などと、どこかで通底している。それはある種の「度を越した潔癖症」であり、一歩すすめば強迫性障害のようなものであると自分は考える。

February 12, 2020

2018年11月に以下のツイートをもとに記事を書いた。

野球ファンにとって、「データ」といえば、「個人データ」、つまり、選手のプレーを分析したデータに過ぎず、それはゲームを決めているすべての要素ではまったくない。

引用元:2018年11月3日、現状でいうデータとは「個人のチカラ」であり、「チームのチカラ」ではない。 〜 「チームのチカラ論」 序説 | Damejima's HARDBALL


また、同じ2018年10月には「チームのチカラ」について書いた。

いま思うに、ジム・リーランド時代のデトロイトがシャーザー、バーランダー、ポーセロと、3人ものサイ・ヤング級投手を揃え、ミゲル・カブレラやビクター・マルチネスなど強打者をそろえても、ワールドシリーズを勝てなかったのは、たとえ個人それぞれに類まれな才能があっても、「チームの強さ」がそれを支えなければ、ワールドシリーズを勝てないという、単純な理屈だった。

2018年10月10日、2018年MLBの「チーム三振数」概況 〜 もはや時間の問題の「1600三振」。 | Damejima's HARDBALL

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そもそもチームとは、どんな「存在」だろう。
そもそも何を目的に存在しているのか。

チームは「ひとつの生き物」と、よくいわれる。チームが、単なる「個人の能力の合算」であるなら、集合体としてのチームが存在する意味がない。

それは、言い換えれば、チームには、「選手個人の能力とは別種のチカラ」が備わっていなければならない、という意味になる。


だが、その「チームに求められるチカラ」は、これまで明確な言葉で語られてきたか。まったくそうは思えない。むしろ、曖昧な勘だけに基づいた、曖昧な世間話だけが幅をきかせてきたとしか思えない。

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その曖昧な話を、この際、ハッキリさせていきたい。

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まず、「チームの仕事」とは、何か。

チームを、選手個人それぞれがもつ能力値の合算を超え、
プラスアルファ」を生みだせる組織にすること、だ。

野球というスポーツではよく、「ポストシーズンの戦い方は、レギュラーシーズンと同じではいけない」といわれるが、この点についても、これまでは具体性を欠く経験論しか語られてこなかったし、多くの指導者がレギュラーシーズンと同じ戦い方をして敗れ去ってきた。

レギュラーシーズンと同じではダメなら、では、どうあるべきなのか。
それについても(多少の極論を覚悟して)自分流に定義しておく。

レギュラーシーズンを「選手それぞれの能力の優劣によって行われる戦い」であるとするなら、ポストシーズンは、チームが創出する「プラスアルファのチカラ」の優劣が問われる戦いである。

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このように「チーム」「ポストシーズン」という2つを、「プラスアルファ」という単語でくくってみると、かつてデトロイトでジム・リーランドが、テキサスでロン・ワシントンが、ロサンゼルスでデーブ・ロバーツが、ワールドシリーズ優勝に手が届かなかったことに一定の説明がつく。

選手層の厚さにはまったく問題なかったが、
「チームとしてのプラスアルファを生み出す能力」が足りなかったのである。

プラスアルファの源泉がないままワールドシリーズに臨んだ彼らは、ロン・ワシントンやデーブ・ロバーツの継投ミスに代表される「マイナスアルファ」を表面化させ、大一番に負けた。

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では、チームが「プラスアルファを生み出せる場所」であるためには、何が必要なのか。言いかえると、チームがプラスアルファを生み出せない場所になっているとしたら、原因はどこにあるか。

2010年代後半の金満ドジャースを例にみてみる。
以下に近年のドジャースが「2012年以降あたりに獲得した有名選手と、その引退年度」を、引退年度順に示してみた。

ジョシュ・ベケット(2014年引退)
ダン・ヘイレン(2015年引退)
カール・クロフォード(2016年引退)
スコット・カズミアー(2016年引退)
アレックス・ゲレーロ(2016年自由契約)
エイドリアン・ゴンザレス(2018年引退)
ブランドン・マッカーシー(2018年引退)
チェイス・アトリー(2018年引退)
ハンリー・ラミレス(2019年時点で実質引退)
ジミー・ロリンズ(2019年引退)
マット・ケンプ(2019年実質引退)
カーティス・グランダーソン(2020年引退)

まったく酷いものだ。よくも、まぁ、「引退間際の有名選手」をこれだけかき集めたものだ。どれだけ多くの選手がキャリアの最後にドジャースから大金をせしめたことか。感心するしかない。

だが、このリストすら、「つぎはぎドジャースのすべて」ではない。他にも、シーズンが終わればいなくなるのがわかりきっている選手、マニー・マチャドやジョシュ・レディック、ダルビッシュなどに手を出し、ヤシエル・プイグなどのキューバ系に手を焼き、セイバー系のファーハン・ザイディをGMにしたかと思えば、あっという間にいなくなり、こんどはムーキー・ベッツ獲得に必死になっている。

ヤンキースと同じ、この金満チームがどれほど「つぎはぎだらけの、統一性のない、趣味の悪い豪邸」か、よくわかる。

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少なくとも言えることは、「つぎはぎだらけの家」でプラスアルファは生まれない、ということだ。

たとえば、ヒューストンがワールドシリーズを勝てたのはサイン盗みをしていたからだ、という説明は当たっていない。それだけが「理由」ではないからだ。
彼らのプラスアルファの一部がたとえ「インチキなサイン盗み」であったとしても、彼らには少なくとも、ドラフトの成功とその育成の成功、トレードの成功によって、チームの土台となる選手層の厚さと一体感があった。

ドジャースがワールドシリーズを勝てないのはサイン盗みされていたせいだ、という説明も当たっていない。彼らがポストシーズンを最後まで勝ち抜けないのは、それだけが「理由」ではない。
これほど右往左往し続けているドジャースがポストシーズンに毎年顔を出せるのは、単に「カネがあるから」でしかない。「つぎはぎだらけ」の家に住む成金の彼らには、「育ちの良さ」と「知恵」、つまり、「チームとしてのプラスアルファを常に生み出せる体質」がない。カネだけでワールドシリーズが買えるなら、カンザスシティが勝てたりはしない。

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もちろん、この程度の言葉を連ねたからといって、ポストシーズンの真髄を垣間見ることができるわけはないのだが、少なくとも「チームのチカラ」の真髄にちょっとずつ近づいて言語化していく上で、自分として大事な最初の一歩と考える。


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