東日本大震災などの災害

2018年9月4日、計算上あと10年で海面下に没する関西国際空港。
2012年3月26日、ありがとう、シアトルのビートライターたち。
2012年3月3日、日本人はなぜ後ろを振り返って、確かめようとしなくなったのか。なぜ、自分だけは追い抜かれないと、タカをくくっているのか。
2011年4月8日、意味不明の微笑みを浮かべたまま大失敗するタイプの「オトナ」を見分ける。
2011年4月5日、「家族写真」に眠る芸術。写真関連メーカーさんへ、「日本の家族写真」世界ツアーのススメ。
2011年3月29日、「被災地」という言葉で東北だけをイメージさせようとするプロパガンダ。 そして、都市生活バッシング。
2011年3月20日、極論に惑わされず、きちんと議論すべき日本の球場の電力消費。
2011年3月19日、「救助を求めている側が、どこにも連絡できない」こと。 これが、災害救助を阻害する最大要因なのだと、思い知らされた。
2011年3月18日、いま野球選手だって、ストレスまみれ。だからこそ、イノチの野球を晴れたグラウンドでやるんだ。
2011年3月17日、震災のいまこそ再認識されるべき歌うたい、「坂本九」。坂本九ソングの、この、あまりの素晴らしさ。
2011年3月16日、「災害伝言システム」「募金窓口」「支援物資ルート」の「乱立」などに関する意見、および「モノの供給より、ヒトの移動を基本に」という意見。
2011年3月11日、「神戸スタジアムから東北に向けて笑顔で歌うシンディ・ローパー」を見たい。
がんばるぜ、ニッポン。(災害用伝言板リンクあり)

September 05, 2018

世界初の本格的な海上埋め立て空港である関空が水没した。

「海上空港」だからこそ、アクセスに「」が必要であり、その橋が壊れたことは、「空港へのアクセス方法そのものが喪失した」ことを意味している。それは当然ながら、空港にたくさんの人が「取り残される」こと、そして同時に、救助も「遅れる」ことを意味する。
これは、福島の原発事故において、電源が喪失し、原子炉を冷却する方法が喪失したことでメルトダウンが引き起こされたのと、意味はまったく同じだ。


水没の理由は、以下のブログが非常に明快に指摘してくれている。
関西空港の水没は起こるべくして起きた。〜地盤沈下が招いた標高1.4mの滑走路〜 - イケてる航空総合研究所
とある別サイトでは、関空の工法について、「海底の軟弱地盤を強化して護岸工事を行い、土砂で埋め立てるといった順で進められました。現在でも地盤沈下は止まってはいませんが、一部だけでなく均一に沈下するよう設計されているため、トラブルとは無縁です」とあるが、先のブログによれば、今回の滑走路水没の理由は「地盤沈下」にある。こういう「ちゃんと数字を示した上で、はっきりモノを言う態度」は非常にいい。


1994年開港以来、2018年までの平均沈下量は「3.43m」だという。ならば関空のA滑走路は「これまでもずっと年平均14センチ程度、沈下し続けてきた」ことになる。

なので、最も低い位置の標高が「たった1.4m」しかないA滑走路は、理屈の上では、あと10年で「海面下」になる計算になる。そうなると、関西国際空港のA滑走路は、海面より低い、いわゆる「ゼロメートル地帯」ならぬ「ゼロメートル滑走路」になることになる。


もちろん、こうした事態が管理会社によって今後も放置されるわけではない。なんらかの対策が講じられることだろう。

だが、問題なのは、「5年くらいのサイクルで護岸を高くし続ける、とか、地盤を上げ続けるといった地盤沈下対策が、それも定期的に、必要になる」ということだ。

そのコストはたぶん、けして少なくない金額になる。


ちなみに、関空の管理会社は「関西エアポート株式会社」という企業であり、筆頭株主は、オリックス株式会社が40%、フランスの空港運営会社であるヴァンシ・エアポート40%である。(なぜまたフランスの会社が日本の空港の、と、当然思うわけだが、航空業界に詳しくないのでよくわからない)


それにしても、これまで地盤沈下がわかっていなかった、2017年に一気に3メートル地盤沈下してしまいました、というのならともかく、関空が年々地盤沈下していることに多くの関係者は気づいていたはずだ。(ちなみに、ブログ主はこの事件が起きるまで知らなかった)

ならば、今回の高潮のような被害が発生する可能性はあらかじめ予測されていなければならないし、対策もとられていなければならない。


自分は関西国際空港になんの利害もない第三者であり、今回の高潮被害についてもなんの利害もない第三者だが、もし自分が今回の高潮でなんらか大きな被害を受けた立場だったなら、迷うことなく空港の管理のずさんさを批判し、必要なら損害賠償を求めて訴える。


いずれにせよ、地盤沈下が止まらないというのは、「その場所の地盤そのものが定常的に流出するか、沈下する状態にある」という意味だ。
もちろん、地震による液状化が起きれば沈下スピードはさらに上がる。近畿圏では近年いくつかの大地震が起きているのだから、関空でも液状化が起きていた可能性がないとはいえない。

関空はおそらくは今後とも地盤沈下から逃れることはできない空港だ。本来なら、空港の再開を安易に急ぐより、根本的なところでA滑走路の地盤そのものを改修すべきだろうが、関係者がどういう判断を下すのか、ちょっと見ものである。

damejima at 16:28

March 27, 2012

Mariner Moose


日本で地震のあった2011年の翌月の4月、アメリカで竜巻の酷い被害が出て、MLBも支援を行った。
April 25–28, 2011 tornado outbreak - Wikipedia, the free encyclopedia

MLB, MLBPA team up for $200,000 in tornado relief | MLB.com: News

このブログでも、以下のリンクつきバナーを制作して、しばらくブログのトップに貼っておいた。
Tornado Relief

あのとき、日本のスポーツ新聞の記者さんたちが被害の現場まで行って取材して記事を書いた、という話は、残念ながら、ついぞ聞かなかった。あの竜巻の起こったのは、2011年3月11日の日本の津波被害による原発事故のほんのすぐ後のことで、この竜巻によって、アラバマにあるブラウンズフェリー原子力発電所外部電源を喪失し、ディーゼル発電機により冷温停止した、というのに、だ。
この事故のことは、日本ではほとんど記憶されていない。

ついでの取材なのかもしれない。だが、たとえそうであってとしても、シアトルのビートライターたちが、東北の津波被害の現地にわざわざ出向いて取材してくれていることについて、日頃いくら彼らのことを時にきつい表現で非難することがないではないブログ主とはいえ、心からの感謝を述べないわけにはいかない気持ちにさせられる。野球の上での批評や非難というものは、単に野球の上だけでの意見の相違の意味しかない。

2011年アメリカの竜巻被害
2011年アメリカの竜巻被害


ありがとう。ビートライターたち。
ありがとう。シアトル。
オークランドの選手たちも、ありがとう。


マリナー・ムース!




右はアレックス・リディ


damejima at 12:51

March 04, 2012

もうすぐ「3月11日」がやってくる。
あの震災から、もう1年が経とうとしている。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:東日本大震災および「やじろべえ、ニッポン」

本当は、こういうことは、もっと考えがまとまってから書きたいとは思うのだ。

だが、時間というものは待ってくれない。歴史も同じだ。時間は、ジッと佇んだまま、人が動きだすのを待っていてなどくれない。
だからどんどん書いて、書きなぐって、時間を追い越していかなければ、やがては自分自身の内側にだけ存在する「スピンする何か」に対して遅れが出てきてしまう。そして、やがては、その「内側でスピンする何か」は、みずからスピンを止めてしまう。だから、まとまりがなくとも書くしかないときがある。


去年の10月に、アップルのスティーブ・ジョブズが他界したときに追悼文みたいなものを書いた。(この話の続きも、とっくに出来あがっているのだが、ブログにはまだアップしてない)
やれアップル製品は本当はオリジナリティが無いだのなんだの、ずっとケチばかりつけ続けてきたクセに、その一方では、アップルのパクリ製品ばかり作り続けてきた日本の電気屋さんには、もういちど自分たち本来の良さ、世界最高峰の技術力を思い起こして、本気で「オリジナリティ」を追求する姿勢を取り戻してほしい。アップルのやることなすことを、声すら直接届かないほど遠くから小馬鹿にする、まさにイヌの遠吠えでケチくさい満足感を得るような、そんな下卑た考えは捨ててもらいたいのである。
そしてジョブズは結局のところ、亡くなるまでずっと、2位を大きく引き離した先頭ランナーであり続けたとブログ主は考える。彼の突拍子の無いアイデアに追いつけた人など、世界のどこにもいなかった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年10月9日、「iPodの原型は『パソコン』であって、ウォークマンではない」ことが瞬時にわかるのが、「パソコン以降の文化的視点」。


かたや日本で半導体を作っていたエルピーダメモリーが破綻した。
エルピーダは、半導体で遅れをとった日本の電機メーカーが、起死回生のために共同で設立した半導体メーカーだった。かつて半導体は日本のお家芸のひとつだったわけだが、いつしかアジアのライバルに追い抜かれ、追撃のためにこさえた組織すら落日の時を迎えてしまったわけだ。


ついさきほど、ロンドンオリンピックのマラソン日本代表選考レースのひとつ、「びわ湖毎日マラソン」が終わったのだが、ゴールまで2キロという地点まで日本人トップを走っていた実業団の招待選手が、ゴール直前のトラックで一般参加のランナーに追い抜かれてしまった。
日本人2位に終わってしまった彼が言うには、「後ろから(別の選手が自分に迫って)来ているのに気がつかなかった」らしい。
これで、代表選考レースで日本人トップになったのは、「公務員、無職、一般人」。実業団の招待選手は結局、(世界陸上を除いて)国内の選考レースをひとつも日本人トップで通過できなかった。

いまや、素人ランナーですら、「駅伝」と「マラソン」が、トレーニング手法から走るプロセス、ドリンクの中身に至るまで、あらゆる点で異なるスポーツであることを知っている。
というのも、イチローのコマーシャルしているCW-Xの大ヒットでもわかるように、盛り上がりまくっている日本のマラソンブームは、いつのまにかアマチュアのレベルを何段階も押し上げてしまい、いまや素人でもマラソンを3時間台でを走り切ってしまう選手は珍しくなく、うっかりすると2時間台(いわゆるサブ3)のタイムを持ったランナーが素人にもゾロゾロいる、そういう時代だからだ。

昔は、テレビで見ている人は、マラソンを走ることの本当の過酷さを「カラダ」ではわかってなかった。
だが、今は違う。多くの人が、42キロもの長距離を自転車並みのスピードで生身の人間が走り切ることの異常さ、特に、決着がつく35キロ以降の激しい消耗の意味を、「カラダ」でわかった上でテレビを見ている。
20キロ走の消耗と、体の中のエネルギーが一度すべて消耗して以降に勝負が始まるマラソンの違いを「カラダ」で知っている人たちには、「マラソンも、駅伝も、同じトレーニングで勝てる」なんていうゴマカシなど通用しない。

なのに、どういうものか、走ることのプロであるはずの実業団チームは「日頃は実業団駅伝への参加を目的にトレーニングしていても、我々は優れた選手ばかりを集めた専門家集団なのだから、いざとなったらマラソンでオリンピック選手を輩出することができる」とか、タカをくくっているように見える。
「先頭ランナーのつもりでいる実業団ランナーたちの意識や実力」、そして「実業団チームの指導者たちのコーチング能力やトレーニング理論」は、彼らが後ろからびっくりするほど多数の素人たちが激しく追い上げてきていたのをロクに確かめもせず、チンタラ、チンタラ練習している間に、素人の「意識」に追いつかれてしまったのである。



なぜ、われわれは
自分だけは抜かれない」と、
タカをくくるようになったのだろう。

なぜ、「誰かが追い付いてきているかもしれない」と、
後ろを振り向いて確かめようとしなくなったのか。



ブログ主は、知っての通り、性格がけして良くはない(笑)
たとえ街でプラプラ歩いているときも、性別も年齢も関係なく、高齢者、被災者、誰であろうと、容赦なく追い抜く、それを信条にしている。
歩いていて誰かを追い抜くと面白いのは、中に決まって、「あれ?」と、意外そうな反応を示す人が少なからずいることだ(笑)ブログ主は、そういうタイプの人が、追い抜かれた瞬間、わずかにうろたえて、慌てて足を速めだす姿を眺めるのが、なんともいえず好きだ。こたえられない(笑)
たとえば、自転車でメッセンジャーを追い越すときも、そうだ。決まって「あれ?」という反応をみせる(笑)なぜなら、彼らには「自分は追い越されない」という思い込みがあるからだ。

今年、日本ハムにソフトボール出身の大島匠君が入団したが、彼などもおそらく、周囲からたくさんの「あれ?」という反応を受けたはずだ。なぜって、周囲の野球出身の選手たちは、誰も彼もが「自転車で追い越されたメッセンジャー」なのだから。(彼は2軍スタートになったとのことだが、絶対に諦めずに1軍に昇格して、野球人としてのキャリアにアグラをかいている選手たちを片っ端からゴボウ抜きにして、競争というものの本当の意味をイヤというほどわからせてやってもらいたい)


また、ブログ主は「高齢化社会」という言葉が、死ぬほど嫌いだ。
「高齢化社会」という言葉をやたら使いたがる人が脳裏に描いている社会のイメージが、「年をとって、足の弱った人を、優先し、先に行かせてもやり、誰も追い抜かない優しい社会」なんてヤワなイメージのような気がしてならない。そんなことをしていては社会全体の速度が遅くなって衰退していくのが、わかりきっている。(「速度を維持する」というのは、なにも全てを経済優先にしろ、という意味ではない。また、道を譲る価値のない相手にまで道を譲る必要はない)
むしろ、いま必要なことは、「先に道を進んでいく能力があり、これからの社会を牽引してもらわなければならない、足の速い人、若い人に、むしろ年老いた人の側が道を譲ってあげること」だと思わない日は、一日たりともない。


油断している人は、追い抜いていいし、追い抜くべきだ。
ノロノロ歩いている人は、道を譲るべき。
追い抜かれたくない人は、油断せず、常に早く歩くべし。
そしてなにより、
先頭を走っている自覚がある人こそ、常に後ろを確かめること。



こういうことを言うと、すぐに「それは乱暴だ」とか、「優しくない」とか、決めつけたがる人がいるものだが、ここでいう「追い抜く」とは、植物でいうなら、「芽吹き」だ。悪いことなんかではない。(別に追い抜くためなら突き飛ばしていいとは言っていない)

ひとつの街がまるごと更地になるほどの大災害の跡には、やがては芽が出て、家が建ち、新しい子供が生まれいく。平らな場所に出現する凹凸、陰影、それこそが生まれてくる暮らしの新芽であり、何も無い平原に立ちのぼる炊事の煙こそ、人の暮らしの証である。


(誰もが歓迎する子供の誕生や家の新築はともかくとして)自分が追い抜かれていくのを感じさせられる新芽の存在を認めることは、最初はなかなか難しい。
だが、新芽の存在に気づかない人、新芽の存在を認めようとしない人は、どんどん追い抜いていい。待っていては、街も人も蘇らない。自分がランナーだと自覚する人なら、なおさらだ。どんどん追い抜いていくべきだ。


古代ギリシャ時代のマラソンの起源を考えれば、マラソンという競技の意味は「死ぬ気で走る」という意味だが、死ぬ気で走ってみることの意味を、もう長いこと我々は忘れている。
だが、2時間10分が切れない、なんて思われていた日本人マラソンランナーも、ラビットを入れ、レースのペースを上げてやることで、ジャカスカ10分を切れるランナーが現れた。


やれば、できる。
できるから、
遠慮なんかせず、敬意をもって追い抜け。

これがブログ主から
新しいエネルギッシュな「3月11日」に向けてのメッセージだ。













damejima at 16:44

April 09, 2011

ジェイソン・バルガスの投球フォームの安定感について、今シーズンの初登板を終えたばかりの松坂と比較しながらじっくり書こうと思っていたら、フェリックス・ヘルナンデスの登板ゲームでジャック・ウィルソンの2つのタイムリーエラーと怪我による懲罰交代、もともと使えるわけがないアダム・ムーアのDL入り(→ムーアは60日間のDL入り。タコマからクリス・ギメネスが昇格)、ミネソタの西岡の骨折、さまざまな事件がたて続けに起き、さらには、日本のプロ野球で巨人が電源車を使ってドーム開催をするとか言い出して、ブログ記事をしっかりまとめられる時間も限られているというのに、もう、どこから手をつけてよいやらわからない(笑)
【東日本大震災】巨人が東京ドームで自家発電 夏場のナイター実施へ - MSN産経ニュース


いろいろ書きたいことはたまっている。
シアトルの野球。日本の野球。大震災。予想どおりの坂本九ブーム。野球叩きをベースにした「首都圏は自粛せよプロパガンダ」の哀れすぎる失敗。あらゆること。

ベースになることは、
おまえら、正直に言え。馬鹿なんだろ?(笑)
ということ。相変わらずクチが悪い(笑)


さて、どこから手をつけよう。

最初にシアトル・マリナーズ。
何度も何度も書いてきたが、何度でも書く。

無能GMのズレンシックは、「守備で世界を制覇する」とかいうルーニー・テューンズの間抜けなコヨーテみたいな自分の無謀なアイデアのために、セカンドにショーン・フィギンズを入れ、ショートに高給取りで、しかもスペランカーのジャック・ウィルソンを入れ、プレーは粗いが打てるユニスキー・ベタンコートはカンザスシティに、打率はあまりたいしたことはないが40万ドルで使えたロニー・セデーニョはピッツバーグにくれてやり、セカンドのホセ・ロペスはサードにコンバートした。
だが、フィギンズもジャックも、2人とも打てず、フィギンズのセカンド守備は最低ランクときた。さらに打順降格させたフィギンズがゴネるのは許し、打順降格させた能力はあまりないがスジは守った監督のほうを首にし、フィギンズにセカンドを譲ったロペスはコロラドにくれてやり、結局、生え抜きのロペスは、セカンドからも、サードからも追い出された挙句に、フィギンズにチームを追い出された形になった。
スペランカーであることが判明したジャック・ウィルソンはどうするのかと思えば、首にするどころか、そして、ロペスをセカンドに戻すこともなく、まるっきり同タイプである「ショートが本職で、打てない守備の名手」ブレンダン・ライアンを意味もなく獲ってきて、なんと、ショートが本職のはずのジャック・ウィルソンを、念願のサードに回ったフィギンズの穴を埋めるためにセカンドをやらせることにした。

その結果は、どうだ。
(アダム・ムーアなどは問題外の外)

移籍先でもう5番打者、ホセ・ロペス
コロラドのスタメンのセカンド。開幕から19打数6安打、打率.316。(四球ゼロで、出塁率が打率とまったく同じなのは、ロペスらしい(笑)まぁ、ご愛嬌ということで)チームは4勝1敗で首位。
2011 Colorado Rockies Batting, Pitching, & Fielding Statistics - Baseball-Reference.com

今年もスタメンの、ロニー・セデーニョ
ピッツバーグのスタメンのショート。19打数5安打、打率.263、出塁率.333。OPSが冴えないが、長打が案外打てるので、そのうちに上がってくるだろう。チームは、万年地区最下位のはずが、なんと4勝3敗。地区2位と健闘中。
Ronny Cedeno Statistics and History - Baseball-Reference.com

打てないどころの騒ぎではない、ショーン・フィギンズ
シアトルのスタメンのサード。25打数3安打。打率.120。出塁率.115。OPS.395。惨憺たる打撃は今年も変わらず。チームはテキサスにスイープされて、2勝4敗と既に地区最下位。
Chone Figgins Statistics and History - Baseball-Reference.com

既にスタメンにいない、ジャック・ウィルソン
打率.333と、去年の.249が嘘のように、打撃好調。と、思いきや、あっさりフェリックス・ヘルナンデスの登板ゲームでタイムリーエラーを2つ続けてやり、挙句に怪我をしてしまった。
Jack Wilson Statistics and History - Baseball-Reference.com

予想どおり打てない、ブレンダン・ライアン
19打数2安打。打率.133。もともと打てないのはわかっていた選手だ。「ジャック・ウィルソンは実は双子で、ライアンが弟だ」とでも思うしかない。
Brendan Ryan Statistics and History - Baseball-Reference.com



次は日本の野球。

大震災発生直後の「野球バッシング」「東京バッシング」はあまりにも出来の悪いプロパガンダだったが、「なにしろ首都圏では自粛しろ。節電しろ。買いだめはするな」とかいう「節約自粛プロパガンダ」の、この哀れすぎる失敗ぶりはどうだ
あれだけプロ野球叩きをベースネタにしたプロパガンダをぶちあげていたクセに、こんどは「自粛しすぎで経済がダメになる、どうしよう?」とか言いだす。馬鹿馬鹿しいにも程がある。

そして野球を叩く側の惨めな失敗の一方、野球をやる側にしても、「電源車を使ってドーム球場でナイターやります」とか言い出すのだから、困ったものだ。
電源車でナイターをやるという程度のアイデアくらい、ブログ主も含め、誰だって思いつくことだし、また、もしスタジアムの外に電源車を並べてナイターができるのなら、なぜ世間にセ・リーグの開幕問題についてとやかく糾弾される前に、最初から先手を打って「セ・リーグでは既に節電について十分に目配りしており、低電力でナイター開催できます。だから、ご安心ください。被災地のためにも、われわれ野球人一同は全力プレーします」と、毅然とした態度で宣言しておかないのだ。



どう行動をすると、どういう反応を招くのか。
これからどういう事態が起こりそうだから、
いま、どう行動しておくのが適切か。

そういうことについてピカッとひらめくチカラをブログ主はよく
先読み」とか言っているのだが、
この「先読み」するチカラは、実は、ひとつの特殊能力であって、できない人が大半であることは案外知られていない。

いま世の中では、原子炉から水が減っているのを隠していて初動が遅れ、あわてて先を読まないで原子炉に塩水をぶちこみ、水が蒸発したら塩がたまり、さらには塩水が分解されて出来た水素がたまって爆発を起こし、水を大量にぶちこんだら水が漏れ、どうしようもないので海に捨て、こんどは海が放射能で汚染された、なんてことが平気で起きる。

ベースボールという小さい世界でも、打てない内野手が問題なのに、まったく同じポジションのまったく打てそうにない内野手を獲得してきて、同じ過ちを繰り返してしまう、なんてくだらないことが平気で起きる。

いわゆる「城島問題」でもそうだ。
先発投手にダメ捕手城島への不満が爆発するくらいにたまってますよ、失点が増えるばかりで打てないチームはどうやっても勝てませんよ、この選手はまったくMLBに適応できていませんよ、と、いくらクチを酸っぱくして言っても、わからない人には、まるでわからなかった。

その結果が、今日という日だ。



こういう先の読めない人たちは、いくら自分の判断の結果が失敗に終わることがわかっていても、その原因が「自分に、もともと判断力が無いせいだ」ということは、残念ながら、最後まで認めようとしない。
外からみれば、どういう悲惨な結果が出るか、わかりきっている場合でも、こういう判断力の伴わない人たちは、自分自身が、自分自身の手で、何度でも何度でも失敗し、どうしても何をやってもダメだという惨憺たる結果が徹底的に出て、それから後でないと、自分の失敗を渋々認めようとすらしない。
そして、彼らがようやく失敗を認める頃にはもう、事態は手のつけようがないところに追い込まれているものだ。



こういうタイプの「オトナ」に特徴的なことのひとつは、「イザ」というときがきていても、無表情だったり、微笑を浮かべていたりしていて、見た目では、あたかも「落ち着いているように見える」ことだ。

だが、「無表情だから、心にゆとりがあるのだろう」とか、「微笑んでいるから、リラックスできているのだろう」とか、こういう人を「顔」で信用してしまってはダメだ。

大昔のカンフーブームを作ったブルース・リーが格闘シーンでよくみせた表情のように、本当に集中している人の顔というものは、どこか「悲しげな表情」に見えるものだが、無表情でクールな顔つき、あるいは、妙にゆるんだ意味のよくわからない微笑みを浮かべたまま、誰でもわかる原則論を繰り返し言葉にしつつ、たいへんな失敗をやらかす人間が、大勢いる。
それが、今のテンションの高い時代だ。


どこかの電力会社の人たちの会見も、Youtubeなどで見ると、どこをどうし
たものか、微笑んでいる人がいる。あれもそういう「ゆるんだ微笑み」であって、けして心理的な余裕だなどと思ってはいけない。
そもそも、どういうものか、われわれ日本人は時に「どうしていいか、まったくわからなくなっているとき」にかぎって、微笑んだりすることがある。

緩んだ微笑みはときとして信用できない。こういうことを肝に命じてないと、共倒れになってしまう。
そして、共倒れになってしまってから後悔しても遅いのである。

人を信用してはいけない、というのでは、けしてない。
イザというときに信用していい相手を探すために、ヒトをよく観察しておくべきだ、と、言いたいのである。






damejima at 04:16

April 06, 2011

マン・レイの墓碑

Unconcerned, but not indifferent

と、自分の墓碑銘に記したのは、フィラデルフィアで生まれ、ブルックリンで育ち、パリで活躍した写真家、マン・レイだ。(画家、彫刻家でもあるマン・レイの名はたくさんの人が知っているが、アメリカ生まれであることは案外知られていない)

この言葉を、「無頓着、しかし無関心ではなく」と訳したマン・レイの展覧会があったようだが、翻訳にちょっと無理がある。そもそもマン・レイの意図が伝わると思えない。
というのも、unconcernedも、indifferentも、「無頓着」「無関心」と訳すことができる意味の共通性、意味の共有部分があるからだ。どちらかを無頓着、どちらかを無関心と分けて呼ぶだけでは、結局なんのことやらわからなくなる。

unconcernedという言葉のいう「無頓着」「無関心」は「対象を静観して、距離をおく」とでもいうような意味だけれど、indifferentの「無頓着」「無関心」はもっとネガティブな感情を含んでいて「対象のことを、どうでもいいと思っている」含んでいるとすると、ブログ主なら、こんな風に訳す。


静かなる心。だが、冷めた心ではなく。


通常、アート、特に写真は、対象のもつ美を描写するもの、と考える人が多い。
だが、マン・レイの作品では、宮沢賢治の詩「春と修羅などがそうであるように、対象の形状の美しさばかりではなくて、むしろ、「モノを見る自分の内面にある独特な心のさま、それ自体」に重きを置いて表現されている。
別の言い方でいえば、マン・レイが表現しているのは、「彼自身の心の内部であり、彼が心の中にみつけた静かなる凪いだ海」なのだ。

彼は、オブジェに対する興味の強さ、熱狂を表現するのではなく、対象に興味は十分にもつが、必ずしも熱くならず、いたずらに対象との距離を詰めずに、距離をおいて愛でる楽しむ。そういう「距離のある態度」は一見すると「冷たい無関心」にみえがちだ。だが、そうではないのですよ、と、マン・レイの墓碑銘は言いたかったのではないのかと思う。



アンセル・アダムス、スティーグリッツ、ハーブ・リッツ、ダイアン・アーバス、ロバート・メイプルソープ、リチャード・アヴェドン、アメリカだけでもたくさんの優れた写真家がいる。
マン・レイに限らないが、芸術や音楽に溺れる時期、というのは誰にでも訪れる。ブログ主にもあった。その頃の自分は「芸術って素晴らしい。家族のスナップなんか、なんの意味もない」とか思いこんで、やたらと展覧会やコンサートに通っていた。たぶん、その頃の自分は家族との距離も離れていったのだと思う。


だが、人が、故郷を津波に飲まれ、家財の何もかも失ったとき、これだけは取り戻したいと思うもののひとつが「家族の写真」だ。

そのことの意味が、今は、自分にもわかる。東日本大震災と関係なく、地震のずっと前からだが、家族の写真をUSBメモリに入れて常に持ち歩くようになっていた。


もしマン・レイが生きていたら、どう言っただろう。

「だから言ったじゃないか。
静かにモノを見ろ、とは言った。だけど、冷めた心で、とは言ってない。家族写真のスナップは駄目だ、価値がない、なんて誰か言ったのかい? 自分の心をそういう風に、狭くて寒いものにしていたのは、実は、君自身じゃないのか。
写真はアートかどうか?
どうでもいいじゃないか。君の心を素晴らしい状態にキープして、大事なものに向かって心の中でシャッターを切れ。それでいい。」

僕の中のマン・レイはいまそんな風に言っている。
僕は結局、マン・レイも家族も好きなんだ。


(追記)
地震の被害で汚れた写真を復活させる無償のボランティアサービスがいくつか発足しつつあるようだ。クチの悪いブログ主の印象としては、写真の修復を必要とする人の数の多さに追いつかないときがくるのでは、と危惧する。
ブログ主は、写真修復ボランティアとは無関係の立場だから自由にいわせてもらうと、日本の写真関連産業は、デジタルカメラ、フィルム、プリンターなどの写真関連の分野で世界的な高いシェアをお持ちなわけだから、単に情報を提供するだけでなく、機材や材料を無償提供していただきたいものだと感じる。

さらには、その写真修復の成果を写真展にするなりして、(たとえば「ニッポンの家族展」とか、そういうコンセプト)、全世界を巡回するツアーにでも仕立てたら、その入場料収益と募金がまた被災地の復興に使えるのではないか、とか思うのだが、いかがだろう。
多少の泥にまみれていても、色がちょっと褪せていても、最高のノン・フィクションだと思う。


宮沢賢治 春と修羅・序

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

(以下 略)

ブログ注:宮沢賢治の生誕地、岩手県花巻も被災地のひとつ。花巻から釜石を結ぶJR釜石線は、銀河鉄道の夜のモデルになった鉄道だが、3月28日に運転を再開している。






damejima at 20:24

March 30, 2011

このブログはじまって以来のまとまりのない記事だ。指摘したいポイントが多すぎるため、しかたない。地震関連の記事はここまでにして、これからは野球の話に戻ろうと思う。(1行抹消:好きなようにやるさ 笑)


素朴な話だが、あなたは
被災地」という言葉が、いったい「どこの場所」のことを指すと思っているだろうか。

「被災地」を「東北3県のみ」に限定する感覚というか、プロパガンダがある。ブログ主は、これにまったく同意しない。
「がんばれ東北」というスローガンを押し付けてくる公共CMやイベント、誰がいつどこで作ったのかわからない「がんばれ東北」のフラッグ、芸能人やスポーツ選手の「がんばれ東北」発言、すべてに賛成しないし、同意もしない。

「がんばれ」という言い方そのものの精神的副作用を問題視しているせいもあるが、もし百歩譲って「がんばろう」という言い方を使うにしても、納得して受け入れることができるのは「がんばろう日本」であって、「がんばれ東北」ではない。

これが、この長くてまとまりのない記事の前提だ。


ようやく決着したセ・リーグの開幕問題だが、批判がはじまった発端そのものは、ひどく簡単だ。精神的な焦りからか、ドーム球場の使用やナイターにこだわった一部の野球人が、世論の反応を読まずに行ったミスリードである。
あらかじめ、首都圏以外の球場、あるいはデーゲームへの変更を手配しつつ、リーグあるいは野球界全体として取り組む寄付と節電に関して決め事を世間に大々的に発表しておいて、あとはプレーヤーから被災者に届けるメッセージCMでも流しておけば、何も問題はなかった。だから、ミスリードに批判があったこと自体は、いたしかたない。

だが、その初動のミスにつけこんで、執拗に批判をくりかえし、批判の輪を執拗に拡大させ、野球そのもののバッシングにまで広げていこうとした行為は、ドームのナイター開催批判とはまったく別次元の話である。度を過ぎた野球のバッシングは、そもそも、ある種の悪質なプロパガンダを含んで、野球を節電スケープゴートに仕立て上げようとする世論誘導行為である。(もちろん都市のバッシングも同じ)

ああいうアンフェアな批判の根底にある独特の感覚には、いくつか特徴がある。
1)「都市」と「田舎」の対立図式
2)「首都圏」と「東北」の立場の違いを強調した煽り
3)「東北」こそ真の被災地であり、「首都圏」は被災地ではない、とする意識誘導
4)「首都圏」は寄付や節電に励み、被災地=東北を助けろという、負担の一方的な押し付け

福島にある某スポーツのトレーニング施設は、福島に原発をつくる見返りに東京電力が出した金でつくられ、その建設費は最終的に首都圏の消費者の電気料金に上乗せされたという話を、最近ネットでみかけた。某スポーツにまったく関係ない世帯も含めて、首都圏の消費者に、その特殊なトレーニング施設の建設費を負担させたわけで、理不尽きわまりない。
関係ない人にまでコスト負担させておきながら、一方で、「身銭」はまったく切らない人たちの、こういうゴリ押し感覚の底辺にあるのは、たぶん「福島原発の生産する電力は首都圏で使い果たすのだから、原発建設の見返りとして福島に作るスポーツ施設の建設費くらい、首都圏で負担するのが当然」という歪みまくった発想だろう。馬鹿馬鹿しすぎて言葉にならない。
「被災地」をイメージ的に「東北の津波被害」に限定するロジックを繰り返し繰り返しテレビでプロパガンダしながら、首都圏に負担を押し付けるスキームは、かつて首都圏の電気料金に原発の見返りのスポーツ施設の建設費を上乗せした感覚にそっくりだ。


首都圏だって十分被災地だという単純な理由で、ブログ主は、「被災地」という言葉で「東北3県」だけをさす、そういう感覚を否定している。
また今回の地震のネーミングは「東日本大震災」で問題ないにもかかわらず、いつまでたってもメディアによって表記が確定されないのも、根底には「東日本全体を被災地としてしまうと、なにかと不都合なこともある」というおかしな発想が邪魔をしている、と考える。

また、「首都圏」の住人は「募金すべき人」なのであって、募金を「もらう」のが「被災地」、そういう人、つまり被災者は首都圏にはいない、などと決め付ける、馬鹿げたメンタリティも否定する。
どこをどう間違うと、募金を「する」か「もらう」かで、その場所が被災地かどうか「仕分け」できるのか。
首都圏は、「目に見えやすい被害」があまりなく募金能力が温存できているから、首都圏で募金を集める行為自体は、やればいい。だが、だからといって「首都圏が被災地でない」ことにはならない。そこが、いつのまにか、はきちがえられている。
首都圏は、「募金すらできない被災地ではない」のは確かだが、あくまで「募金可能だが、被災地でもある」、ただそれだけのことだ。


「首都圏を被災地として見ない偏った発想」。
これが、野球の開幕時期についてのバッシングの背景にある、と思う。

公共CMや大臣が、「買占めはやめよう」「節電しよう」と発言する場合、あきらかに、「首都圏」が名指しされている。また、有名人の誰かが「被災地のことを思え」とか発言する場合の「被災地」は、逆に、首都圏をさしていない。
つまり、彼らの言う「首都圏」は、「買占めをして、電力を大量消費して水を買い占めている、ワルモノの巣窟」(笑)であって、「被災地」ではないのだろう(笑)

こういう「都市」と「田舎」、「首都圏」と「被災地」を故意に分離し、被災地のひとつであるはずの都市に負担だけを求める歪んだ感覚が、彼らの野暮ったい表現や、悪質な仕分け感覚にあからさまに現れている。


そもそも今回の地震の被害と影響は、いくつかの次元に分かれている。
「被害」と「影響」は分けて考えるべきだが、いずれにしても災害は日本中、世界中に被害と影響を広げつつあることくらい、誰でもわかりそうなものだが、なのに、どういうわけで「被災地は東北3県、首都圏は節電もしないで買占めばかりしている」などという印象操作をするのだろう。よほど、被害を津波などの狭い定義の範囲におしとどめておきたい人がいるとしか思えない。原発から放射能が漏れていることが確定している現在、それは悪あがきにすぎない。

地震
→津波被害(人、家屋、企業、家財、他)
→避難所でのモノ不足(水、食料、医薬品、灯油、ガソリン、衣料、他)
→→原発事故
→→→放射線被害
→→→→環境被害(土壌、水、海、空気、生態系、他)
→→→→首都圏でのモノ不足(水など)
→→→計画停電
→→→→停電による被害(個人、企業、自治体、他)
→→→→個人のあらゆる面での消費減退
→国内企業の経済的被害(製造業、農業、漁業などの生産性低下や操業停止、水田の塩害、他)
→→外国人の国外退避、外国人観光客の減少
→→外国の産業への影響(自動車部品、農産物、他)
→→外国のエネルギー政策への影響(ドイツ、アメリカ、タイ、中国、オーストラリア、フランス、スイス、他)
→→→→→避難所関連コスト(物資供給、避難所維持、仮設住宅建設、他)
→→→→→国の財政的被害(復興の財源問題、財政の不健全さの拡大)
→→→→→個人、企業の経済的被害(増税)

資料:3月の新車販売37%減=震災響き、大きく落ち込む―自販連 (時事通信) - Yahoo!ニュース

<日銀>景気判断引き下げ検討へ 大震災被害、原発深刻化で (毎日新聞) - Yahoo!ニュース


今回の地震被害を大雑把に箇条書きしてみた。
被害は、直接の被害、つまり地震と津波による人命・家屋の被害に留まらず、「派生する災害が大きい」のが最大の特徴。近未来にこれから発生すると予想される被害も含め、けして小さいものではない。環境、経済、被害の及ぶ範囲も、種類も、これまでになく多い。国内の被害レベル、被害が今後継続する時間、復興にかかるコスト、どれもが第二次大戦を除けば、たぶん日本人がこれまで経験したことのない未曾有の規模の災害になるのは間違いない。
こうした被害のさまざまな種類がある中で、

首都圏は被災地でない、のか。
首都圏だけで負担しきれる被害なのか。
首都圏の停電した工場や店舗は、スイッチさえ戻せばすぐに生産力、収入が復活できるとでも思っているのか。
首都圏にある2000万世帯で、毎日使う飲み水を多少なりともミネラルウォーターでまかないだしたとしても、ミネラルウォーターの流通在庫は永遠に無くならないとでも思っているのか。
首都圏に、日本の子供の半数が住んでいるが、自分の子供に飲ませられる安全な水が蛇口から出ていると、すべての親を納得させられる説明を東京電力や自治体ができていると、本気で思っているのか。


ようやく決着をみたセ・リーグの開幕時期の問題そのものの中身についても、納得などいかない。
経済観念ないまま野球批判に便乗した大臣たちの安っぽい批判。毅然としてないだけのに正義感ぶっている選手会。世論対策を最初のステップからして間違えたオーナー。そして、4月12日開幕という曖昧な着地点。ほとんどわけがわからない。
なぜ「3月末」はダメで、「4月12日」ならOKなのだ。
ひとりで行くのが怖い低学年の小学生がトイレに行くのに友達を誘うごとくに、セ・パが同時開幕したほうがいいとかいう理由は何だ。
ホウレンソウの出荷停止に補償金を出すというのなら、なぜ野球に補償という話を出して自粛を求めないのか。


納得がいかない理由をどう説明したらいいか迷ったが、一番いいのは、
「首都圏」という単語を、「野球」という単語におきかえてみることだと思ったわけだ。(あるいは「被災地」という単語を、「田舎」という単語におきかえてみてもいい)

いいたいことが伝わるように、わざと物議をかもしそうな書き方をしてみる。「こんなこと、誰も書かないだろう」と思って書くくらいだから、読んで不快に思ったら謝ることにする。だが、野球と都市を重ねあわせて執拗に批判するロジックの歪みとズルさを指摘するためには、このくらい書かないとわからないと思う。

「首都圏は被災地でない。同じような意味で、野球はこの災害の被害者ではなく、むしろ加害者」
「田舎だけが、今回の真の被災地。都市は、節約もしながら、募金やモノを援助すべき」
「本当の意味の被災地は田舎だけ。そこでは、いま電気が通じていない。だから、首都圏はとにかく節電して、似たような生活を体験すべき。電気を無駄使いする野球を楽しむなど、もってのほか。当分やめておけ」
「福島のたくさんの原発は、もともと首都圏の生活を支えるために作られた。それが壊れて田舎の被害が甚大な以上、首都圏はこんどの災害の被災者ではありえない。都市民は節電して当たり前だし、電気料金もたくさん払え」


どうだろう。
「都市」と「野球」をイメージ的に故意にダブらせ、「田舎」を唯一の被災地に仕立てあげ、都市や野球に責任と道徳をなすりつけていく、こういうロジックのあくどさ。都市バッシング。野球バッシング。

節電は都市経済の健全さを阻害するのでやめておけ、節電など必要ない、などと、馬鹿げたことを言いたいわけではない。電力需要が急増する真夏が来てしまう前に、首都圏全域で節電生活の基本スタイルをあらかじめスタンバイしておくことは絶対達成しなくてはならないことくらい、いうまでもない。
だが、あえて言うと、野球をやろうと、やらまいと、都市の節電は達成しておかなくてはならないメトロポリスの使命であって、野球だけを「節電スケープゴート」にして「節電の義務感」を都市住民のマインドに無理矢理植えつけようとするあからさまなプロパガンダは醜悪としかいいようがない。都市民はそもそも災害の被害者であって、加害者でもなんでもない。これもいうまでもない。


プロの野球は、仕事だ。仕事としてトマトや米やホウレンソウを作るのと、まるで変わりない。野球を仕事にすることを、野球では「プロ」になるというわけだが、家庭菜園とプロの農家の違いのように、なにかを仕事にしたプロの大変さは、どんな仕事でもかわりはない。

こういうことを言うと、テレビが板のように薄くなった現代になってさえ、「農業と娯楽は、同等の業種なわけがない」などと、旧石器時代のような古い発想でモノを考える人がいる。今回の地震はどこからどこまでが被災地か?という基本的なことについて、よくわかってもいないクセに、他人様の節電意識や寄付行為に横からクチをはさんで憤る人も、大勢いる。
そういう「都市」と「田舎」を対比的に考えた上で、「偉いのは、お米を作る田舎のヒトだけ」みたいな古くさい発想が、いまだに日本人の脳内の片隅にこびりついていることには、本当に驚く。

もうそんな時代ではない。

「コメだけは特別」「野球だけは特別」なんて単細胞な発想で世の中を渡っていけた昭和の時代がとっくに終わった。だから、野球のオーナー企業だって、かつての鉄道や新聞が中心の時代から、IT・通信業などの新興産業にシフトしていったのだ。サラリーマンだって、農家だって、漁師だって、ウェブ・デザイナーだって、なんだって、お金を稼ぐのはたいへんだ。


被災地の定義を大きく拡大せざるをえないのは、もちろん原発事故の存在があるからだ。

今回の災害は、地震だけの被害だけだったら、被害はもっとびっくりするほど小さかったはずだ。だが、津波が原発事故を生んだことで、すべての様相が変わった。電力不足による計画停電、放射能汚染と、立て続けに被害の種類とエリアが拡大して、被害の規模と、被害の継続時間は、ありえないレベルに拡大している。
逆にいえば、「被災地の定義をなんとしても東北限定、津波限定におしとどめよう」というプロパガンダは、ある意味で、「原発事故によるさまざまな影響は、たいした被災ではないし、直視すべき現実ではない。そのうち消えるから心配するな」とまやかしを言っているのと変わらない部分がある。

そんなこと、ありえない。

東北の被害は「タテに深い」が、首都圏の被害は「ヨコに広い」。だからわかりにくいだけだ。
首都圏をはじめとする住民は、さまざまな脅威に怯えながら、外出を控えたり、ミネラルウォーターを買いこんだりしている。24時間フル生産しているミネラルウォーターを作る会社は儲かるかもしれないが、トータルでみれば日本全体の消費は減退しているだろう。
現に、飲食業やタクシーなど、都市の夜を支えてきた業種では収入が減少しているらしい。都市でヨーグルトが食べられないのは、計画停電でヨーグルト工場の生産が安定しないためらしい。東日本のあらゆる観光地では観光客が減少していることだろう。
漁業なども影響は必至だ。たとえ東北以北の港が修理され、出漁できるようになったとしても、消費地の首都圏で魚が敬遠されるようになっていれば、長期的な打撃を受ける。事実そうなりつつある。

これは誰もが言いづらいことだと思うが、「東北」の、それも「農家や漁師」だけが、この大震災と原発事故の被害にあったわけではない。「東北以外」、「農家や漁師以外」だって、もし誰かに金銭的補償を受けられるものなら、どれだけ生活あるいは経営が助かるか、と思っている人が大勢いる。
だが、こんな時代にお互い無理は言えないのはわかっている。だから、みんな我慢をしている。それだけだ。



首都圏だけでなく、各地に飛び火してもいるらしい買占めについても一言いいたい。

ミネラルウォーターはなくなるのが当たり前だ、と思う。

「買占めはやめよう」というお題目で戒めたり、批判だけする行為には、まったく賛成しない。それは「節電」というお題目で野球をバッシングしたのと、図式としてまったく同じだ。指摘するだけなら誰でもできる。その程度のことを指摘したくらいで安っぽいヒーロー気分に浸るのは滑稽だ。

思わず水のペットボトルを見るたびに買ってしまう家庭の奥さんたちは、もともと別に、ミネラルウォーターを買いおきしておきたいわけじゃない。むしろ無駄な出費など、したくもないだろう。だが、自分の子供や暮らしを守るためになら、買わないわけにはいかない。当然の話だ。

問題なのは「首都圏に住む人口の多さ、あるいは子供の集中度」だ。都市の現実を理解もせず、ズレたテンポで腰くだけの道徳ばかりを書きつらねている東北在住の作家がいるが、都市の現実をわかっていない人間の批判は的はずれもいいところだ。

たしか記憶では、
子供の2人に1人は、首都圏に住んでいる」。
だとしたら、子供のいる世帯が毎日必要な量だけ、つつしみ深くミネラルウォーターを買うだけでも、毎日、万という単位のペットボトルが売れていくことになる。
放射能の心配から、店頭からあっさりミネラルウォーターが消えてなくなってしまうのは、むしろ当たり前なのだ。
買占め? そりゃ一部にはあるかもしれない。だが、そんなのは全体から見たら、たいした量ではない。コンテナ単位で買っているわけじゃない。また、店側が店頭で1人1本とか、きちんとルールを決めないようなルーズな店で、箱単位で買っていくのを黙認していてはどうしようもない。そういうケースでの問題は店側のモラルと知恵にあるのであって、消費者の責任ではない。

買わざるをえない理由がある消費者が首都圏に大勢いる。
それが「現実の都市」だ。

首都圏の消費規模は大きい。人口の集中し、情報も早い首都圏で、日用品のどれかが足りなくなるとわかれば、その商品はあっという間に店頭から消えてしまうのが当たり前だ。

批判の前に、水の量が足りないのなら、首都圏の乳児、子供たちにもっと潤沢に水を供給するように、なぜあらかじめ手を打っておかないのか。「この放射線量では、ただちに健康に、どうのこうの」とモグモグ言っているだけで、水の供給問題に手を打たないのでは、人が水道水を信用しなくなる速度は加速していくだけだ。
道徳の押し付けより、必要なのは対策であり、工夫だ。対策が被災拡大の速度に追いつけないところに問題がある。

そもそも首都圏の水不足は、単なる道徳違反なのではなくて、一種の「被災」だ。なのに「こういう見えにくいタイプの被災者」に対する対策は何も手を打たず、「買占めはやめよう」だの、「戒め」だけを押し付けるのか。「戒め」だけでは、なんの解決にもならない。


よく外国メディアの人の記事で「日本人は政府を信用しすぎている」なんていう記事がある。だが、首都圏の消費者はおそらく、水、魚、野菜、そういう、いままで当たり前にあったモノを信用しなくなりつつあると思う。
非情なように聞こえるかもしれないが、いま東北で魚を獲るより、たくさんの東北の漁師さんに臨時で西日本で漁ができるように政府や自治体が話をつけて、安全な西日本から首都圏に魚を供給できるようにでもしたらどうか、とか思う。
「首都圏で魚が売れないのは、風評被害が原因だ」と主張しつつ、その一方で、魚は無理矢理獲って、廃棄処分にせざるをえない結果を招くけれども、金銭の補償はしてほしい、では、誰も浮かばれない。資源も無駄になる。
魚だって命がある。無駄にしていいわけはない。
まぁ、こういうアイデアは極端な思いつきにすぎないわけだが、いま獲っても消費されにくい海域で無理矢理に魚を獲っては、含まれる放射能を測定して一喜一憂するより、なにか東北の漁師さんの生計をたてながら、首都圏の消費者の魚の消費も復活できる方法論を、誰か頭のいい人が考えるべきだ。
でないと節電フリークのイカレた人間が、首都圏の消費者は東北の魚を食え、とか、馬鹿馬鹿しいことを言い出しかねない。


災害による支出の増加、収入の減少は、個人にもあり、企業にもあるわけだが、補償の一線はどこで引かれるのか。

プロの野球はビジネスだ。停電で仕事ができなくなって収入が減る床屋さんと同じように、プロ野球も、れっきとしたビジネスで、停電で収入面で被害を受けていることを忘れて話をする節電フリークがたくさんいる。首都圏の話と同じで、野球はこの震災の被害者であって、あたかも加害者のようにウダウダとバッシングされ続けたこと自体、そもそもおかしい。

では、なぜ首都圏の野球がなぜ被害者としてきちんと扱われなかったのか。
一部の野球人が「ドーム球場でナイターを開催したい」などと世論への初期対応を間違えたことで、ちょうど節電アピールのためのスケープゴートを探していた行政に「つけこまれた」感は否めない。

「つけこまれた」とは、ちょっと穏やかな言い方ではないように聞こえるかもしれない。

だが、いま日本は非常にセンシティブになっている。もっといえば、「静かなるパニック」の真っ最中だ。そのことを読まなければいけなかった。
被災地におけるちょっとした善意が非常に賞賛される空気は「やはり日本はいい国だ」という感慨を生むけれども、それは逆に言えば、ちょっとした失言、わずかなミスが針小棒大に扱われ、大きな失地を招くナーバスな時代だ、という意味でもある。困ったことに、善意を自分のモノサシで測定して、それが十分だと感じない相手はひどくバッシングするような悪質なロジックが、大手を振ってネット上を闊歩している。

本来なら被害者のひとりである「野球」というビジネスに携わり、牽引している方々は、こういうデリケートな時期に、どうすれば穏便にコトが進んで開幕にこぎつけることができるか、それをもっとよく考えて行動していなければならなかった。4月の開幕前にチャリティゲームを開催するくらいのことは素人でも考えつくのだから、ナーバスな世論環境のもとで何を、どういうタイミングでアピールしていくべきか、十分考慮すべきだった。
なのに、「プロ球界は、災害に配慮して、これこれ、これだけの寄付をし、節電の工夫もこういう風にしていく予定でいますよ」と好印象を与えおくことも、「野球も大きな被害を受けているのですよ。ご理解ください」とさりげなくアピールしておくこともせず、「無理やり開幕を強行しようとしている」という第一印象だけを与えれば、そりゃ批判をまねくに決まっている。
「たとえばなし」として言うなら、災害直後、今シーズンのスタートを1ヶ月か2ヶ月、まとまった期間遅らせます、シーズン全体の試合数も減るかもしれません。しかし、そのかわり、東京電力にゲーム開催で得られたはずの金銭の補償を求めていきますよ?、とでもいうようなスタンスを毅然とした態度でいちおう表明しておいて、その後、世の中の推移によって臨機応変に対応していっていたら話は違っていた。



風邪を引いて、出た症状ごとに薬を飲んでいくようなやり方を「対症療法」という。頭が痛くなったら頭痛薬、熱が出たら解熱剤、特効がないだけに、症状の数だけ、たくさんの薬が処方される。
今回の地震でも、ホウレンソウに放射能が検出されたら、ホウレンソウを出荷停止にして、そのかわり補償を約束し、ブロッコリーが出荷停止になったらブロッコリーに補償を約束し、被害が出た作物と地域の順序にそって、いちいち「補償する」などと耳ざわりのいいことを言う大臣がいるが、そんな場当たり的なことを続けていては、最終的にどうみても莫大になるはずの震災被害への対策費が、各産業、各地域に、しかも「先着順」にばらまかれてしまい、復興をみないうちに予算の破綻をまねきかねない。文句を先に言った者勝ち、先着順ではダメだ。

なにも困っているのは「ホウレンソウ」だけではないし、東北だけでもない。津波で家が流された地域だけが被災地ではなく、首都圏のサラリーマン家庭だって、企業だって、地盤の流動化で苦しむ断水継続中の浦安市だって、被災地であり、困っている。
こと「福島」「ホウレンソウ」にかぎって表立って補償とか言い出したのは、ある意味、単に「原発問題によるパニック」を避けたいだけ、それだけの「対症療法」だった。

「ホウレンソウ作り」が「営利によって暮らしを支える仕事」で、出荷自粛を求めるかわりに政府が収入を補償するのだとしたら、かたや「野球」という、基盤の弱い小さいビジネスに対しても、もし「節電」というお題目で自粛を求めるのなら、同時に、日程の変更やゲームの中止などで発生する損害の金銭的補償も頭に入れつつ発言するのが、スジであり礼儀というものだろう、というのが、ブログ主の発想である。
野球の経済被害をまるで考慮せず、節電だけしろ、は、ない。

先手を打つ才が無く、毎日起きる予想外の事態に、コトが起きた順番に対症療法だけしか策が打ち出せない、そんな余裕の無い人たちに、「つけいるスキ」を与えてはいけないのである。






damejima at 19:35

March 21, 2011

プロ野球の開催問題に関して、こんなデータが出回っている。各球場での1試合あたりの消費電力である。
このデータをどう読むかだが、日本の球場の電力消費について、いくつか捻じ曲げた理解が広まっていると思う。

別にブログ主は、明らかに電力を食うドーム球場を擁護したいわけではない。だが、「野球は、ナイター照明が大量に電力を食うから、当分の間、やるべきではない」とかいう、「もっともらしくみえる」だけで、実際には何の根拠もない批判で、野球というスポーツをいわば「吊るし上げる」行為は、まるで感心しない。
こういうかなり曲がった理解をした人につられて、弱気になっている野球人も、世間にはいらっしゃるようだから、ひとこと言いたい。
ナイター照明だけをネタに野球そのものを批判できた気になるような世間やメディアは、総じて言えば、球場というものの仕組みへの理解が低く、災害に感傷的になっているか、ヒロイズムに酔っているだけの場合が多い、と思うのだ。

マツダスタジアム  4000〜5000kw/時
神宮球場      7000〜8000kw/時
千葉マリン     ナイター 16000kw/時
             デーゲーム 11000kw/時
横浜スタジアム   21000kw/時
東京ドーム      50000〜60000kw/時
             (40000kw/時というデータもある)
資料;asahi.com(朝日新聞社):東京ドーム消費電力、一般家庭の6千世帯分「対策検討」 - 東日本大震災
資料;時事ドットコム:節電難しいドーム=プロ野球


最初に指摘しておくと、
「オープンエアの球場の電力消費は、ドーム球場より小さい。悪いのはドーム球場だ」というのは、球場の現状を知らない人の思い込みであり、単なる「決め付け」だ。必ずしも正しくない。
むしろ、表現として正確なのは
ドームであれ、オープンエアであれ、消費電力の非常に大きい球場と、そうでない球場がある
球場の電力消費量は、照明だけで決まるのではない。照明、大型スクリーン、空調など、さまざまな要因から球場ごとに決まる
というのが正しいと思っている。
エネルギー効率のいい電化製品もあれば、そうでない電化製品もある。燃費のいいクルマもあれば、悪い車もある。球場も同じだ。
燃費規制はわかるとしても、「車は燃費が悪いから、車全体が当分走るのを自粛しろ」などという論理が暴論なことくらい、わからないのか。

また最近、マス・メディアは「野球1試合の開催に必要な電力は、家庭6000世帯分にあたる」などと書きたがるが、その割りには頭を使いたがらない。
野球を見に来た人は、家を出るときに、部屋の照明をつけっぱなしにし、テレビをつけっぱなしにし、エアコンをつけっぱなしにしたまま、家を出るわけではないのである。


このごろ、こんな無根拠なことを平気で言う人もいる。
「屋根がない球場であればデーゲーム(昼間の試合)はライトをつけない分だけ節電になるかもしれないが、東京ドームはもともと室内なのでデーゲームもナイターもライトをつけなくてはならない。確かに、消費電力は変わらない……
石原「ナイター野球じゃなく日中にやるべき」/ 球場「日中も消費電力は同じです」 ? ロケットニュース24(β)

一見もっともらしいが、実はあまり球場のことがわかってない人だろう。印象操作でもしたいのだろうか?
「ナイター照明」だけを根拠に野球に反対してみよう、批判しようなどと、浅はかなことをするから、人に失笑される議論になる。言っていることに正しい部分がないこともないが、基本的には最初から結論ありきで、「野球はやるな」と決め付けたいだけで議論を開始したにすぎないとしか思えない。

例えば甲子園球場のようなオープンエアの球場でも、照明以外の消費電力があまりにも大きいことで、電力消費量に問題を抱えた球場もある。また、東京ドームのように、そもそも電力消費の大きいドーム球場の節電の課題は「照明」だけにあるわけではない。
球場の使う電力の問題を「照明」だけに矮小化しては、球場の節電について十分な議論ができるわけがない。


甲子園については、こんなデータがある。誰でも手に入るネット上の資料である。
「年間計画発電量の193Mwhは、1年間のナイター照明の電力をまかなう量ですが、阪神甲子園球場の年間使用電力の約4%とのことで、ナイター以外にも結構電力を使う
甲子園球場の太陽光発電量がナイター照明の電力量を超えた 太陽光発電の徹底検討

甲子園球場はもちろんオープンエアの球場である。そのオープンエア球場で、「ナイター照明が消費する電力が、年間総消費電力のわずか約4%」だと、この資料はいうのだ。この意味がわかるだろうか?

つまり、こういうことだ。
マリンスタジアムのナイターとデーゲームの電力消費量の差が「5000kw/時」であるから推定すると、(もちろん球場ごとに違うだろうが)照明点灯に必要な電力は数千kw/時なのではないか、と思われる。
そして、千葉マリンがナイターをデーゲームにすると電力消費を3分の2に抑えることができるにもかかわらず、甲子園球場では「照明が消費する電力は、年間消費電力のわずか数%にすぎない」というのなら、甲子園での「1試合あたり」の消費電力量は、明らかに「数万kw/時の単位」と推定されることになる。
この数字は神宮や千葉マリンなど、エネルギー消費の少ないオープンエアの球場と比べて、はるかに大きい
オープンエアの甲子園の、いったいどこで、そんな大量の電力を消費する必要があるのか。理解しかねるが、少なくとも、ちょっとばかり太陽電池を設置したからといって甲子園球場をベタ褒めする必要などない、のである。(ドーム球場については、後で書く。そもそもが消費電力が大きくなりがちな構造物なのは確かだが、その原因は「照明」だけにあるわけではない)

甲子園をホームにする阪神の新井選手会会長が野球開催に及び腰だからといって、彼をあたかもヒーローのように扱いたがる人がいるが、オープンエアの甲子園球場で、なぜこんなに照明目的以外の電力を大量消費しているのか? そこを選手会でもきちんと把握し、甲子園のエネルギー効率の酷さを意識しつつ発言してもらわないと、野球開催の是非を議論するようにみせかけつつ、その実、暗にドーム球場での野球開催を批判するようなことでは困る。そういう報道や議論は、それを公平ということはできない。(ドーム球場での開催に問題がない、という意味ではない)

ちなみに、太陽光発電の採用は、甲子園だけだと思っている人もいるようだが、それも違う。なにも甲子園だけの専売特許ではない。
広島の本拠地マツダスタジアムでも、年間10万4,800kWの発電能力を持つ太陽光発電システが導入され、すでに甲子園球場と同時期の2010年春に稼動している。
そのマツダスタジアムでのナイターの消費電力は4000〜5000kw/時と非常に小さいわけで、もし仮に甲子園の1試合あたりの電力消費が「数万kw/時」だとしたら、マツダスタジアムに比べ、照明以外に使う電力消費量があまりにも大きすぎる甲子園球場は、たとえナイターをデーゲームに振り替えても大量に電力を浪費するから、一切の試合を開催すべきでないという計算になる。

ドーム球場だけを槍玉に挙げて野球開催を批判するのはお門違いである、くらいのことは理解しなければ、本当の意味で節電をベースにした野球開催の是非を議論することなど、できるわけがない。



メディアはいま、災害時にありがちな一時の正義感をふりかざしてヒロイズムに酔いたいのか何か知らないが、根の浅い正義感だけであれこれ言うのは、ある種の言葉の暴力でしかない。
こんなときだからこそ、感情や感傷に流されず、きちんと整理した話をすべきだ。

もういちど言うと、
プロ野球がゲームをやるときの電力消費の課題は、「照明」だけが問題なのではない。このことがきちんと把握されていなさ過ぎる。
球場の電力消費に大きな割合を占めるのは、「照明」以外に、「大型スクリーン」、「ドーム球場特有の空調」などいろいろあって、電力をあまり消費しない試合の開催を実現するには、それらの課題を総合的に議論すべきだし、しかも球場ごとに条件が大きく違うことを頭にいれ、スタジアムごとに課題を切り分けて考えないとダメなのだ。
ドーム球場の、それも「ナイター照明」だけを槍玉にあげて批判するだけの報道は、単なる悪意ととられてもしかたがない。


ちなみに野球のスタジアムでは、照明以外のどんな設備に電力を大量消費しているのだろう。
ひとつは、「大型スクリーン」だ。

千葉ロッテ関係者は「大型スクリーンが毎時4000〜5000キロワットを消費する」と言っている。わかりやすい。
ならば、大型スクリーンを使わずに試合すればいい、それだけのことだ。それだけで、たぶんどこの球場でも、数千kw/時を節電できることになり、試合開催にまた一歩近づける。必要なのは工夫だ。まなじり釣り上げた議論じゃない。
ロッテ、西武は開幕ナイターやらない - プロ野球ニュース : nikkansports.com


次に、「ドーム球場の空調」。

前にこのブログで、 MLBの「クッキー・カッター・スタジアム」について記事を書いたことがある。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年8月21日、ボルチモアのカムデンヤーズは、セーフコのお手本になった「新古典主義建築のボールパーク」。80年代のクッキーカッター・スタジアムさながらの問題を抱える「日本のスタジアム」。

「クッキー・カッター・スタジアム」というのは、MLBで、1960年代中盤から80年代にかけて野球の黎明期からある古い球場の老朽化が問題になりMLBで、マーケティング上の理由もあって、ボールパーク(野球場)に「多目的スタジアム Multi-purpose stadium」、特にアメリカンフットボール用のスタジアムとの兼用化を求める時代が来て、全米各地に数多く作られたドーム球場のことだ。
東京ドームがお手本にしたミネソタ州ミネアポリスのメトロドームも、その「クッキー・カッター・スタジアム」のひとつで、総重量が340トンもある屋根を、内部の空気圧で押し上げる方式になっている。(空気圧で押し上げるエアドーム式を採用するメリットは、柱を作る必要がないために、工期が短く、建設費も安上がりにすむため)
2010年12月には、このドーム屋根が雪の重さで崩壊してしまい、屋根に積もっていた大量の雪がドーム内に落下する映像が有名になったが、エアドームは常に内圧が必要な構造だ。

メトロドームをお手本にした東京ドームも、総重量400トンもある屋根を空気圧で押し上げている。だから東京ドームは「野球のゲームがない日でも、空調を動かしてドーム内部の圧力を保ち、屋根を押し上げておく必要がある」のである。
野球開催派であれ、野球延期派であれ、「デーゲームにすれば、照明を使わないから、なんとかなる」などと、トンチンカンな議論をする人がわかっていないのは、こういう点だ。
東京ドーム関連の記事で、「東京ドームのナイターでは、試合がない日の3、4倍の電力を消費する」という記述があるが、これは、逆にいうなら、「ナイターがない日」でも、試合の日の3分の1か、4分の1、つまりナイター時には数万千kw/時の電力を消費する東京ドームの場合、試合のない日でも数千kw/時の電力を消費している、という意味だ。それは、こうしたドーム球場特有の柔構造の屋根に原因があるのである。

現在のMLBでは、さまざまな理由からこうしたエアドーム式で人工芝の「クッキー・カッター・スタジアム」が絶滅しつつあるが、ドーム式球場そのものがなくなったわけではない。
例えばシアトル・マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドは開閉式ドームだが、セーフコの屋根の構造はエアドームではなく、フィールドも人工芝ではなく天然芝だ。鉄骨による硬い構造の屋根を、レールの上を移動させて開閉する。ドームの構造も進化しているのだ。
だが、日本のスタジアムは、野球においては、いまだに人工芝エアドーム全盛であり、サッカーにおいても、陸上競技とサッカーの兼用スタジアムが大半なのであって、日本のスポーツスタジアム環境はかなり遅れたままであることは、すでに何度も指摘してある。


個人が通常の生活で消費する電力量との比較

最後に、これはブログ主の発見でもなんでもないが、ネット上での指摘を読んでうなづくものがあったので、書いておく。
「人は家にいても、電力を消費する。彼らが家庭にいて消費する電力量は、明らかに球場で野球見に来ていて消費される電力量より、大きい。」という指摘だが、ブログ主もそれに賛成したい。

あるネット上の指摘では「大人1人が、1時間に消費する電力量は、1kw強」らしい。
野球のゲームがはじまって終わるまでの約2〜3時間、そして球場への往復の2時間程度を合わせると、野球を球場で見るのには、観客1人当たり4〜5時間ほどの時間を取られている。
入場者数を2万人と仮定すると、もしも彼らが球場に来ずに家にいた場合の電力消費の総量は、1kw/時×20000人×4時間=8万kw/時、あるいは、1kw/時×20000人×5時間=10万kw/時、ということになる。入場者数1万人なら4〜5万kw/時、入場者数3万人なら12〜15万kw/時の電力が家庭で消費される。
一方、球場でナイター1試合に使う電力量は、球場によって違い、4000kw/時から60000kw/時のレンジだから、球場ごとの平均入場者数の違いを考慮すると、それぞれの球場の消費電力は、そこに来る観客が家で消費する電力量に見合うか、下回ったものになっている。
さらには、ナイトゲームがデーゲームになり、大型スクリーンを使わず、売店なども照明に配慮するなどすれば、「大多数の人にとって、野球の試合に見に来ることは、家庭で消費するはずの電力消費を、球場で消費するだけの意味だ」そう言い切れる可能性だって、計算上は出てくる。

「野球1試合の開催に必要な電力は、家庭6000世帯分にあたる」などと書きたがる人が多いが、頭は生きている間に使えとはよくいったものだ。
もういちど書こう。
野球を見に来た人は、家を出るときに照明をつけっぱなしにし、テレビをつけっぱなしにし、エアコンをつけっぱなしにしたまま、家を出るわけではない

人は、野球場以外では電気を使わない、なんてことはありえない。生きているかぎり、どこにいても、なにかしら電気を使う。それが電気で生きる現代人である。だから、節電の問題は、球場にだけ発生するわけではない。これからのライフスタイルの問題だ。
野球の開催だけを問題視する人に、ブログ主は、「そこまで反対したいのなら、夜、節電のためにまったく電気をつけずにジッとしていろ」と言えるとは思わない。そういう間違ったニセモノの道徳は、ある種の暴力だ。だが、その反面で「野球開催には絶対反対だが、自分は家で、エアコンをつけて、パソコンをしながら、冷えたビールを飲んで、テレビを見ていたい。車で近所に買い物にも行きたい」などという人とは、議論にならないし、友人にもなれない。
3万人の人間が集まった場所を一挙に照明するための1人あたりの電力が、1人の人間、あるいは家族が過ごす部屋を、暖房し、明るくし、テレビを見て泣いてみるための電力と、どれほど違うのか。同じなのか。ちょっとは考えてみた上で、発言すべきだし、記事を書くべきだと思う。

球場だけが電力を消費している悪者なわけはない。そういう、球場だけを悪者にしたヒステリックでニセモノの道徳風レトリックは、よく見れば、静かなパニックであり、自分勝手なギミックの押し付けに過ぎない。
非常時、災害時には、感傷だけでモノを言い、それを他人にもニセ道徳として押し付けようとする人が出てくる。くれぐれも流言に惑わされないことだ。


今のわれわれは、electrical creature、電気がないと生きられない生物、だ。
原発事故が提起しているのは、これからの100年をどう生きるかのライフスタイルの問題であって、チマチマした節電道徳などではない。






damejima at 14:36

March 20, 2011

当初から今回の地震で亡くなった方の数は、たぶん最終的に2万人を越えてしまうだろうとみていた。
その理由はもちろん、「誰が避難できていて、誰が行方不明なのか。どこで、誰が、救助を求めているのか」という確認作業が、かなりの部分で滞ったままだったからで、どうみても、死亡者数も行方不明者数も、日ごと増えていくのは目に見えていた。

短くいえば、
「どこに、誰がいるか、わからない」上に、
「誰がいなくなったのかが、そもそも、わからない」
2つの問題が、同時に起きているのである。



阪神淡路大震災のような都市直下型地震における「緊急の人命救助」は、主に「家の倒壊で、その場所の、目の前のガレキの下敷きになっている人を助けること」がコンセプトであり、そうした「定位置」での救助を行うための装置が、あの災害を教訓に日本ではさまざまな形で開発されたと思われ、その装置群が日本の災害救助システムを世界的のトップランクの評価に押し上げているのだろうと思う。

だが、今回のような「広域の津波被害」、「放射能汚染の危機」においては、「初期の救助のコンセプト」が違ってくる。

地震直後の津波では、高いビルの最上階に取り残された人もいれば、船や漂流物につかまったまま沖に流される人、倒壊した家屋の下で動けない人、車の中にいる人、様々な人が広い「不特定の場所に分散」する。そして広域を襲う津波では、海水が人とモノを広い地域に押し流す。そのため、緊急救助(あるいは災害後の救援)を待つ被災者が不特定エリアに分散して存在することが、救助活動を大きく妨げる。

被災者が「不特定位置」に分散している大規模津波災害の初期は、車両による地上からの救助には頼れない。
そのため「ヘリコプターでの空中からの救助」が、初期の唯一の救助手段であることが今回わかったが、残念ながらすぐに稼動できるヘリコプターの数は無限ではないし、そもそもヘリコプターは一度に救助できる人数に制約がある。

ヘリコプターに限らず、災害救助の救命率アップや救助作業の効率化には、「緊急の救助を求めている人が、いま、どこにいるのか?」を確認することが第一歩だろうと思うが、もちろん津波災害で救助する側には「この、だだっ広い地域の、どこに被災者がいるのか、最初はまるでわからない」のが当たり前だ。

こうしたことから、津波に限らず、災害の緊急救助の弱点は、使う器具の使いやすさや重機の規模、救助技術の洗練など「救助する側」ではなくて、むしろ、単純に「救助を求める側から、救助する側に対して連絡する手段が失われること」なのではないか? と思うようになった。

「救助を求めている側」は、往々にして、自分の位置すら、どこにも連絡できない。
連絡がない以上、救助する側は、例えばヘリコプターで被災地を飛び回りながら、空中から被災者を発見する必要に迫られる。それ自体はもちろん意味のある作業だが、反面で、けして効率のいい作業とはいえない。こうした限られた条件下で、「運の良かった人」から順に救助されている現実がないとはいえない。


携帯電話および携帯メールそのものの便利さは、もちろん日常生活になくてはならないものだ。
だが携帯電話は、東北の被災地周辺ですぐに機能が止まったのはもちろん、物理的な被害のほとんどなかった東京周辺で「帰宅難民」が出たときも機能していない。たとえば「メールは、送信できても、受信できない」というような状態が長く続くことで、都市住民も、いざというときには携帯は使えない、ということを思い知った。
資料:東日本大震災 もろかった通信 携帯基地局が機能停止 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
「地震と津波で、携帯電話大手3社の東北や関東地方の基地局は最大で▽NTTドコモ6720カ所▽ソフトバンクモバイル3900カ所▽au3680カ所−−が機能を停止。固定電話もNTT東日本の中継局が被害を受け、約136万回線が不通になった。」

また、被災後すぐに必要になる安否確認においても、「救助を求めている側が、どこにも連絡できない」状況が、救援活動の遅れ、地域格差を生み、人々の不安感、不信感、パニックを増幅させ、救援する側にも救援される側にも、ひどくストレスを生む原因になる。


救助する側の方は言いづらいことだろうが、津波で亡くなった方全員が救助できる可能性があったわけではない。救助する側の技術や経験がいくら日夜研鑽されているとしても、大規模な津波で救助できるのは、とてつもない大波の内部に飲まれたしまった人ではなく、どこかの構造物の上か内部、または漂流物の上で、助けを待つ限られた人だけだ。
その「限られた救助の可能性をもっている人たち」ですら、「自分の存在を誰かに連絡できる手段が何もない」ことが、救助を阻む大きな要因になっている。


ごく当たり前ではあるが、
自分の生存と居場所を発信するための方法論がなにか整備されれば、救われる命をもっと増やし、また災害後の救援の遅れ、救援のバラつきなどをもっと減らすことができる。


具体的には、救助を待つ人が救助をする人に自分の場所を教えるために、どんな方策、どんな機器が可能だろう?
よくはわからない。

携帯電話に、通常の通話とは別に、緊急救助要請信号のみを自動的に長時間発信できる特殊な機能を装備するのか。
あるいは、市販品として、救助要請信号を発するGPSチップでも発売し、災害時には居場所が一斉にマッピングされるようにでもするのか。
そういうモノを発明するのにはたぶん時間も金もかかるだろうが、期待はしたい。

マス・メディアを、ニュースを垂れ流すだけの「発信場所」として使うのは、メディアの古いの活用スタイルだ。
そうではなく、もっと「被災した側」の情報を「受信するためだけの場所」「アンテナ」として機能すべきだと考えはじめて、それを実際に実行しはじめている局も、番組もある。それはいろいろ限界をもつにせよ、ものすごく価値のある試みだ。

なんにせよ、
生死にかかわる災害時の一方通行のコミュニケーションの問題を解決するため、新しい技術を開発し、またメディアの活用コンセプトを変えてほしいと、切に願う。

もういい加減に一方通行の時代は終わってほしい。






damejima at 00:08

March 19, 2011

音楽がなくても死にはしないなら、じゃあ、いったいなんのために音楽家や画家が存在しているのか。
なんとなくはわかっていても、そんなこと、ひとことで言えるくらいなら、ブログ主は寺の坊主にでもなれるかもしれないが、そんな才能はないので、いつものように長々と書くしかない(笑)


日本のプロ野球を開催すべきかどうか、について、非常にトゲトゲしい議論が交わされている。
ある者は「節電しなければならないこんなときに、ナイターなど、とんでもない!」と怒り、ある者は「経済が沈没してしまったら、日本全体が沈没してしまう。そんなことにならないためにも、野球を開催しろ!」と主張する。また、ある者は「故郷が災害にやられ、知人の消息もわからない今、とてもプレーする気分になどなれない・・・」と肩を落とす。

どれも、ちょっとみると、真っ当な意見っぽく見えないこともない。
だが、真っ当っぽいが、どれもこれもそれぞれの立場にそって感想を言っているだけで、まなじりが釣り上がり、肩に思い切りチカラが入っている割りには、中身はない。
発言している誰もが、大きな震災のストレスによる緊張に満ちて発言しているのが、よくわかる。


それではダメだ。


東京では「余震で揺れているわけでもないのに、カラダが揺れている」と感じながら毎日を送っている人が、非常にたくさんいる。
公衆道徳を説くCMが繰り返されるだけのテレビを見て、いつ止まるかわからない電車で出かけ、マトモに動いていない会社で仕事して、いつ計画停電に出くわすかもしれない家に帰り、次にいつ買えるかわからないコメを食べる。クチには出さなくても原発に恐怖を感じ、そして日本の行く末にも多少の不安を感じている。

これでストレスを感じないわけがない。

被災しているのは東北の被災地の人だけではない。
日本の誰もが、ストレスを感じている。
このストレスは十分に災害だ。



ブログ主は2つ、言いたいことがある。

ひとつは、
いつまで心が折れたままでいるんだ、気分を切り替ろ、
ということ。
2つめは、
「平凡でない人生を送る道を選ぶ」にあたって必要な心構え。


野球選手、野球関係者、官庁の人。いまストレスのたまりきった状態の人たちが「絶対にやるべきでない」「いや、絶対にやるべき」と、堅苦しい議論をしている。

ブログ主は、両方とも、どうでもいい。
どうしたらできるか? 考えて、可能にすればいい。それだけだ。
なにもナイターの公式戦を毎晩やれ、なんて思わない。デーゲームでいい。ホームグラウンドでなくてもいい(ホームでないほうが、地方の人を元気にできるし、野球の啓蒙にもなるしで、そのほうがいいくらいだ)もしデーゲームですらできないのなら、晴れた日に、晴れたグラウンドに集まって、チャリティー・ゲームをやったっていい。別になんの問題ない。


大事なのは、「こういう不安定な日本が当分の間、続く」ことに、腹をくくらないとダメだ、ということだと思う。
「地震の恐怖心と、故郷が壊れた悲しみで心が折れて、いつまでたっても気持ちが沈んだまま、気持ちが切り替わっていかない人間」同士が、まなじり釣り上げて必死に議論しても、野球も人生もリスタート、再開できない。なんでもかんでも節約するべきだ、なんて極端で、貧しくて、暗い、工夫のない意見に、ブログ主は賛成しない。



昔から、歌舞伎役者、碁打ちなど、特定の職業では「親の死に目に会えない」と言われてきた。
その言葉が比喩かどうか、それはわからない。人を楽しませるような特殊な仕事についたことで、普通の人と同じ穏やかな人生を全うすることは難しいのか、それも知らない。
だが、ブログ主は「コメを作るのでもなく、魚を獲るのでもなく、野球選手のような、特殊な形で他人様から大金を頂戴して生きていける道を選んだ人は、自分は親の死に目には会えない、それくらい腹をくくって、振り返らずに自分の仕事にあたるべきだ」と、これまで思ってきた。

芥川龍之介は、『杜子春』という作品で、痛めつけられる親の姿を見て、思わず「お母さん」と叫んで現実に引き戻される男を描いたわけだが、「親の死に目にも会えないような仕事」においては、自分の天職を中断して「お母さん」と叫びながら病院に駆け込むことが許されない、そんなふうに思うのである。

たしかに、ダルビッシュの言うように、今回のような大災害は、「ボールを投げ、バットを振り回している場合じゃない」と思えるほどの緊急事態である。
だが、ブログ主が思うのは、こういう未曾有の事態のときにさえ、ボールを投げ、バットを振り回して、人に勇気を与えなければならない、そういうキツい立場なのが、プロの野球選手だ、ということである。

もちろん、シンディ・ローパーのようなミュージシャンも、何も薬のない荒野で診療を続ける医師や、放射能に満ちた現場に向かうレスキューや自衛隊員のような特殊な仕事でも、同じだ。彼らは、程度の差こそあれ、非常時には、進むか退くか、腹をくくらねばならない。臆病なことを言っていては、日本は壊れてしまう。


平凡には生きられない、特別な道を選ぶ人がいる。
そういう人は、平凡な人にとっての支えになることもある。また、邪魔になることもある。
いずれにしても、平凡でない道を選ぶ以上、腹をくくらなければ、平凡でない人生を生きる人間に「道」はない。
平凡な道を歩む人と、そうでない人、その両方がいて、世界ははじめて、まがりくねった困難な道、ビートルズの言うロング・アンド・ワインディング・ロードを前に進むことができる。



いまテレビで、詩人金子みすゞ(かねこ みすず)さんの書いた詩の一片が、災害時の道徳教育でもするかのように、一日に何百回と流されている。
だが、この「金子みすゞさん」が、26歳という短い一生を、どれほど過酷で、どれほどどうしようもない状況の人生を送らなければならなかった人だったか、まったくメディアは知らせていない。知らせもせずに、メディアは彼女の珠玉の詩から勝手に、こういう災害時に耳ざわりのいい道徳的教訓だけを勝手に引き出して、のほほんと流し続けている。詩人など普段は無視しているくせに、都合のいいときだけ作品をもってきているのである。
やはり詩人も、平凡でない道を歩むしかない孤高な仕事である。
リンク:金子みすゞ記念館

金子みすず金子みすゞ
1903年(明治36年)4月11日生
1930年(昭和5年)3月10日没
26歳



野球を、やるべきだ、やるべきでない。両方の意見がある。
でも、それは単なる「べき論」、単なる「意見」にすぎない。覚悟をともなった「工夫」ではない。

工夫すれば、原発の暴走は止まる。
ならば、だ。
工夫すれば、野球くらい、できる。
野球くらいできる工夫ができなくて、この難局をどうする。


悲観的になるばかりでは、何も乗り越えられっこない、というのがブログ主の意見だ。
悲しい気持ちになって、心が折れるのは、わかる。
だが、ストレスに負けている意見など聞きたくない。

なぜ工夫しようと思わないのか。
ストレスで、頭が固くなっているだけではないのか。


いま、最も野球が必要なのは、心をひどく痛めつけられた野球選手そのものかもしれない。ある種の腹のくくれない野球関係者が、いま最も感じているストレスは「いったいなんのために野球なんてものがあるんだろう?」という弱々しい疑問なのかもしれない。
時代が平穏なら考えないような疑問を突きつきられ、考えさせられるのが、非常時というものだが、自分がきちんと解答を示せないでストレスばかりがたまるのは、自分が腹をくくれてないからだ。



こんなときだからこそ、野球選手は
目をつぶって深呼吸するべきだ。

そして目をあけたら考えてほしい。
自分が、誰のために野球という場所を保証され、生きているのか。
寄付さえすれば、野球選手なのか。

寄付するのは、お金さえあれば誰でもできる。
だが、野球で人間を充電できるのは、プロの野球選手だけだ。


コメをつくってくれ、魚を獲ってくれ、とは誰も言わない。、
畑も、漁船も、ほっといてくれていいから、火の出るような熱いボールを投げ、ボールをたたきつぶすようなスイングでバットをうならせて、ぼくらに、ちょっとだけ現実を忘れて、おかしな体の揺れをとるお手伝いをしてくれれば、ぼくらにはまた、荒れた大地を耕しなおすチカラが湧いてくる。


野球がなぜ存在しているのか、
そんなことをデスクの前で考えているのは、
野球選手らしくない。
グラウンドに出ず、家にひきこもっていてはダメだ。

グラウンドで汗を流して、君らの給料のもとになっているファンと触れ合ってもないのに、その答えが自分の頭の中にみつかる、なんて思うのは、
不遜な考えもいいところだ。


グラウンドに出ろ。
汗を流せ。


野球の仕事は、グラウンドにある。

damejima at 18:23

March 18, 2011

SUKIYAKI

先日シンディ・ローパーのことを記事にしたが、日本人で、いまの日本を勇気づけられるシンガーがいるとしたら、この人以外、思いつかない。


坂本九さん。


坂本九さんは、1985年8月12日、あの日本航空123便墜落事故に巻きこまれて亡くなられている。(この事故、野球関係者では、阪神タイガース社長中埜肇氏も亡くなられている。遺体の身元確認が難航する中、中埜氏の遺体が確認できたのは、決定的遺留品として、この1985年に阪神タイガース球団が創立50周年を迎えたことを記念して作られた虎のロゴマーク入りのネクタイピンだった。同1985年10月16日、阪神タイガースは1964年以来となる21年ぶりのセ・リーグ優勝を遂げ、そのウイニングボールは中埜氏の霊前にたむけられた)
奇しくも、この1985年はシンディ・ローパーも参加したWe Are The Worldがレコーディングされた年でもある。


この震災にみまわれた2011年に、九さんの歌をYoutubeで聞いてみた。

昭和の歌だが、リクツ抜きにカラダに歌のチカラがしみわたってくる。
なぜ日本人坂本九さんの「上を向いて歩こう」が、「スキヤキ」として全米を席捲し、かのエド・サリバンショーにまで招かれたのか、その理由が、嫌というほどわかる。(ちなみに、たいへん残念なことだが、九さんは当時スケジュールがあわないという理由で、オファーがあったにもかかわらず、エド・サリバンショーに出演していない)

他のどの曲も、どうしてこんなに「せつな明るく」、素晴らしいのだろう。


   「二人なら 苦しくなんかないさ」


もう言葉にならない。


日本のミュージシャンはつまらないレコード会社の枠など越えて、日本版We Are The Worldプロジェクトとして、「上を向いて歩こう」をレコーディングし、世界に向けて発売すべきだと思う。(ただし泉谷しげるを除外)

ブログ主のどうでもいいリクツより、動画をクリックして曲を聴いて歌を胸に刻み、今日という、二度と来ない1日を、精一杯頑張ってほしい。



上を向いて歩こう

1961年4月からNHKで放送されていたテレビ番組「夢であいましょう」の10月、11月の「今月のうた」として発表され、同年10月にレコードが発売された。作詞永六輔、作曲中村八大。
春のセンバツ高校野球大会の入場行進曲に、日本国内で流行した曲が使われるようになったのは1962年の第34回大会からだが、その第1号の曲が、この「上を向いて歩こう」である。
坂本九さんは、67年70年と2度行進曲に選ばれている競作の「世界の国からこんにちは」を除いても、単独で発売した曲が、「明日があるさ」を含め4曲もセンバツの入場行進曲に選ばれており、この最多記録は今も誰にも破られていない。

下記のYoutubeのクリップの冒頭、英字新聞のカットで、この曲のタイトルを、SUKIYAKIではなく、SUKIYAKAと表記しているのは、間違いではない。むしろ、これがある意味、正しい。
なぜなら、アメリカで最初にこの曲を紹介したのは、ワシントン州パスコのラジオDJリッチ・オズボーンで、前年にイギリスでSUKIYAKIというタイトルで発売されていた「上を向いて歩こう」をオズボーンがラジオ番組内で紹介して評判になり、レコードとして発売されることになった経緯があるのだが、このときSUKIYAKAと、最後の一文字が誤記されたまま発売された、という歴史があるからだ。

ちなみに、2009年5月に亡くなった忌野清志郎は、1979年に「上を向いて歩こう」をカバーしている。
忌野清志郎がユニットを組んだことのある坂本龍一が畏敬する70年代の天才サックスプレーヤー阿部薫は、坂本九さんの甥(坂本さんの姉の息子が阿部薫)にあたり、坂本さんと阿部薫は、ともに神奈川県川崎市の出身なのだ。
また、R&Bの聖地テネシー州メンフィスは、リズム&ブルースに傾倒していた忌野清志郎の憧れの地で、2006年にレコーディングも行っているが、震災のなか来日して公演中のシンディ・ローパーもニューアルバムをメンフィスでレコーディングしており、さらには、「上を向いて歩こう」をカバーしようとしていたらしいエルビス・プレスリーが育ったのも、この街だ。

上を向いて歩こう - Wikipedia
Sukiyaki (song) - Wikipedia, the free encyclopedia

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 思い出す春の日 一人ぼっちの夜

 上を向いて歩こう
 にじんだ星をかぞえて
 思い出す夏の日 一人ぼっちの夜

 幸せは 雲の上に
 幸せは 空の上に

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜

 思い出す秋の日 一人ぼっちの夜

 悲しみは 星のかげに
 悲しみは 月のかげに

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜

 一人ぼっちの夜
 一人ぼっちの夜





見上げてごらん夜の星を

大阪労音が1960年に制作・公演した同名のミュージカル『見上げてごらん夜の星を』の劇中主題歌。作詞永六輔、作曲いずみたく。
見上げてごらん夜の星を (曲) - Wikipedia

 見上げてごらん 夜の星を
 小さな星の 小さな光りが
 ささやかな幸せを うたってる

 見上げてごらん 夜の星を
 ぼくらのように 名もない星が
 ささやかな幸せを 祈ってる

 手をつなごう ぼくと
 追いかけよう 夢を
 二人なら 苦しくなんかないさ

 見上げてごらん 夜の星を
 小さな星の 小さな光りが
 ささやかな幸せを うたってる

 見上げてごらん 夜の星を
 ぼくらのように 名もない星が
 ささやかな幸せを 祈ってる




明日があるさ

日本テレビのテレビドラマ『教授と次男坊』主題歌。作詞青島幸男、作曲中村八大。
明日があるさ - Wikipedia

 いつもの駅でいつも逢う
 セーラー服のお下げ髪
 もうくる頃もうくる頃
 今日も待ちぼうけ
 明日がある明日がある
 明日があるさ

 ぬれてるあの娘コウモリへ
 さそってあげよと待っている
 声かけよう声かけよう
 だまって見てる僕
 明日がある明日がある
 明日があるさ

 今日こそはと待ちうけて
 うしろ姿をつけて行く
 あの角まであの角まで
 今日はもうヤメタ
 明日がある明日がある
 明日があるさ

 思いきってダイヤルを
 ふるえる指で回したよ
 ベルがなるよベルがなるよ
 出るまで待てぬ僕
 明日がある明日がある
 明日があるさ

 はじめて行った喫茶店
 たった一言好きですと
 ここまで出てここまで出て
 とうとう言えぬ僕
 明日がある明日がある
 明日があるさ

 明日があるさ明日がある
 若い僕には夢がある
 いつかきっといつかきっと
 わかってくれるだろ
 明日がある明日がある
 明日があるさ




damejima at 09:35

March 17, 2011

このブログの本来の持ち味といえば、「歯に衣を着せぬモノ言い」とでもいうことになる(苦笑)
歯に衣を着せぬ、といっても、言いたい放題でやってきた、というつもりはまったくない。むしろ主張の根拠としてデータやロジックを常に示しながら主張してきたつもりだが、いずれにしても、いらぬ遠慮などしていては、物事がクリアにならない、という立場であることには変わりない。


この地震については、勉強不足も多々あるし、災害時に一定の慎みは求められるわけだから、どうしても、きつい物言いはしにくい。
だが、そんな生ぬるいことでは、こういうスタイルのブログをやってきた意味もない。今回の地震の対策ぶりで気になる点があるので、このブログらしいクチの悪さ、遠慮の無さを久しぶりに発揮して、発言してみたい。



問題にしたいのは
伝言、募金、支援物資の乱立と、それによる無駄な災害情報の氾濫である。
災害の規模があまりにも巨大すぎるだけに、震災関連情報も膨大になる。それはそれでやむをえないのだが、膨大すぎる情報は利用しにくい。
いま、本当に必要な人のもとに「情報」と「モノ」が届いていない。いくつか例を挙げてみたい。


数が多いわりに機能してない災害用伝言システム

災害用の伝言システムは、NTT東日本、携帯電話各社、Yahooなどのインターネットのポータルサイトだけでなく、ツイッターなどを見るかぎり、それ以外にも、さまざまな場所に用意されているらしい。
だが、被災者側から見て、これだけ乱立した伝言システムの状態は本当に利用しやすい状態だろうか?
こういう状態は、被災者に対して、たくさんの伝言システムを全てチェックでもしないかぎり、自分の探している人と連絡がとれない、という状況を強制していないだろうか?
(もちろん、もしこの指摘が単にブログ主の勉強不足、理解不足が原因なら、平身低頭して謝る。以下の記述についても同様である)
伝言システムを用意した側の好意は、好意として素晴らしい。だが、被災者には、全ての伝言システムを見て回ることができるだけの電源は無い。それどころか、通信手段そのものも用意されていない。移動基地局も少なすぎる。結果、あまりにたくさんの伝言システムが乱立しても、被災者はそのメリットを十分に活用できわけがない。
また、たとえば、ひとつの家族で、家族全員がドコモを利用しているわけではなく、「父親はau、母親はドコモ、子供はソフトバンク」というような場合だってあるだろう。そういう場合、どうするのか。

参考資料:報道発表資料 : 携帯電話事業者間における「災害用伝言板横断検索機能」の導入について | お知らせ | NTTドコモ
上記プレスリリースによれば、携帯会社の違いを越えたシステムを構築しようという動きはあるにはあるらしいのだが、それが実現できているというソースがどうもみつからない。


募金の乱立

募金も乱立している。これについては、伝言システムの乱立よりさらに強く疑問を感じる。
日本赤十字社をはじめ、マス・メディア、芸能人、スポーツ関連、街角の募金を自主的にすすめる人たち、NGO、NPO、さまざまな立場の人たちが、さまざまな場所で募金窓口を開設なさっているようだ。素晴らしいことである。
だが、募金(それも、特にマス・メディアの主催する募金)について思うのは、これだけたくさんの「窓口」が必要だとは思えない、ということ。また、数多くの募金システムを通じて集められる現金なりは、どういう経路で、誰に向かって使われるか、という疑念もある。被災地ごとに、募金の配布のバラつきが生じないものなのだろうか。

もしも、それぞれの募金の大半が、いったん全額が日本赤十字社にでも集められて、赤十字社なり政府が、被害を受けた地域ごとに、被害の程度に応じて配分するシステムにでもなっているのなら問題はない。
だが、もしもそうでないのなら、配布する人たちそれぞれの配布先がバラつくことによって、支援が地域によってバラついてしまうのではないのか。こんな混乱した状況だし、多少の混乱やバラつきはやむをえないが、募金による支援にあまりにも不公平感が出るのでは、いいわけがない。


被災者数と支援物資のアンバランス
避難所ごとの格差


高速道路を物資支援のトラックが走れるようになって、食料や、毛布、水など、さまざまな支援物資が現地に送られはじめているようだ。これについても、募金の乱立と似たような心配がある。

さまざまな自治体、企業、芸能人、スポーツ関連、NGO、NPO、さまざまなシステムを通じて集まった支援物資は、どういう経路で、どこに向かっっているのだろう。
自衛隊が、いちどどこかの拠点に集約して、行き先と届ける量を管理しているのなら、まだいい。
しかし、テレビで中継されている避難所や、特定の自治体が「特定の、仲のいい自治体」に向けてモノを送る、というような送り主の都合に左右されるようなバラバラな取り組みがあまりにも数多く起きてしまっているようだと、避難所ごとに届けられる物資に大きな格差ができてしまう。
簡単にいえば、ものすごく恵まれた避難所がある一方で、何もモノが届かない避難所がある、というような状態だ。これを避ける工夫が必要になりつつある、と思う。

自衛隊、被災地への物資輸送一元化・迅速化 (読売新聞) - Yahoo!ニュース


上に書いたような屁理屈はいい、じゃあ、おまえ、どうすればいいと思うのか?と、言われそうだから、思いつきで書いておく。


アナログな災害伝言システム

(今回は無理なのかもしれないが)各人が利用できるメディアは、避難者、避難所によって違う。各人が使っている携帯電話の会社の違いなど、差異に左右されることなく、被災者の伝言などを、なんらかの方法で集約し、整理し、届けるシステムが必要だ。現状の伝言ダイヤルは明らかに不十分だ。その結果、沢山の人が貴重なガソリンを使って、避難所全てを回って、壁の紙に書かれた伝言を見て回ったりして、家族や親族、友人を探そうとする。気持ちはよくわかる。
こうした伝言システムの不備に業を煮やしたテレビ局が、避難所を取材してほんの数人の伝言を中継しても、それはテレビ局の取材スタッフの自己満足にしかならない。それではせっかくのテレビという広域メディアを使う意味がない。

ブログ主がなにか作業をするときいつも心がけていることのひとつは、「これまでの経験の積み重ねから、ひと目見て、パッと段取りが頭に浮かぶのが普通だが、もし迷うようなことがあれば、そのときは、段取りをウジウジ考えて時間を無駄にしてはいけない。どんな段取りでもいいから、まず取り掛かる。そのほうが、結局早く作業が終わる」という法則がある。

この伝言システムの場合も、結局は「紙とマジック」で、現地で被災者に手で「自分の名前と住所、探したい人」を書いてもらい、「誰が、どこにいるのか」「誰を探しているのか」を集約する、なんていうアナログな方法こそ、確実という気もするのだ。
どんなシステムがいいのかを考えこむくらいなら、紙とマジックを自衛隊の方にでも全部の避難所に配って、お年寄りに書きこんでもらい、それを回収したほうが結局早い、と思えてならない部分があるのである。


募金窓口を減らす

全部の募金を一本化する必要はない。自由度は必要だ。
だが、せめて、日本国内の地上波のテレビ局や新聞社といった、マス・メディアの募金システムくらい、全部のテレビ局をとりまとめている民放連か、新聞連盟か、総務省かどこかが、とりまとめて「ひとつの募金名、ひとつの口座」にできないものか、と思う。
非常にたくさんの募金先があって、たくさんの銀行の口座番号が乱立していては、口座名情報が膨大になるばかりで、なんの意味もない。
加えて、募金の窓口をできるだけ減らすことには、怪しげな募金、募金詐欺を防ぐ、という意味もある。


モノを供給するより、
「ヒトを、被災地から遠い、インフラの完備した場所」に
移動することを基本にする


多くの被災者が食べているものは、いまだに「1食で、1個のパン」などというケースも多いらしく、とても栄養が足りているとは言えない。暖房も無い。
そうでありながら、被災者を救援する側は、応急処置として毎日毎日パンや水を大量に被災地に運ばなくてはならないのは言うまでもない。

だが、しかし。

何10万人もの人間の食事を確保しつづけることを前提にした救済システムには、そもそも無理がある
「他県に移動できる健康状態の被災者」は、政府で大型バスを大量に借り上げてでも、可能なら原発から遠い西日本へ、西日本が無理なら最低限関東以西の安全な場所に移送するシステムを作動させる必要がある、と思う。
また、放射能の脅威から身を守るために高速バスや飛行機などを利用して自主的に西に逃れる人が増えることにも意味があると思う。

被災地の人数が減ることは、被災地の避難所に供給しなければならない物資の総量が減ることを意味し、さらに、被災者ひとりあたりに配ることのできる物資の量が増えることを意味する。
簡単にいえば、避難所の人数が減れば「ひとり1日にパン1個」だったのが、「2個」食べられるようになるかもしれない。「ひとりあたり毛布1枚」だったのが、「ひとりあたり毛布2枚」にできるかもしれないということだ。

放射能を避ける意味で他県に行く人で、西日本などの他県には身寄りの無い人もいるだろう。そういう場合も、各県の官舎や公営住宅を開放するなり、各家庭が臨時のホームステイ先になるなりの方法で、日本中で分散して被災者を受け入れて、受け入れ側の負担を共有していく必要がある。

これだけの人数の人が同時に被災した天災は、日本でほとんどなかった。だから、これまでの災害のように、被災者に一時的に避難所の生活を続けてもらいながら、一方で仮設住宅の建設を待つ、という手法はまったく通用しないと考えるべきだと思う。
そんな手法では、とてもとても40万人もの人たちのために、暖房、暖かい食事、水、暖かいお風呂などを短期に確保することはできない、と思う。

「受け入れ」関連ニュース
「少しでも遠くへ」福島から6000人、県外へ (読売新聞) - Yahoo!ニュース

asahi.com(朝日新聞社):被災した透析患者受け入れ支援、都道府県に要請 厚労省 - 社会

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【東日本大震災】都立学校に被災生徒2万人受け入れ 東京都 - MSN産経ニュース

埼玉が5千人受け入れ スーパーアリーナに - 47NEWS(よんななニュース)

asahi.com : 被災者、公営住宅に受け入れへ 県や17市町が1千人 - マイタウン和歌山

東日本大震災:秋田県が被災者2万4000人受け入れ - 毎日jp(毎日新聞)

一時避難、10万7000人に対応可=自治体に広がる支援の輪―東日本大震災 (時事通信) - Yahoo!ニュース

東日本大震災:横手市が被災死者の火葬を受け入れへ 岩手県知事要請で /秋田 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース


最悪の状況に置かれても「我慢」のできる日本人の国民性はたしかに素晴らしいし、他国から賞賛されれば面映い(おもはゆい)し、誇りにも思う。
だが、決断の遅い人を待っていることを、「我慢」と呼んではならないと強く思う。そんなのは我慢じゃない。

「考えてから走る」のでは遅い。
こういうとき必要なのは、
「走りながら考える」ことだ。






March 13, 2011

1985年の「USAフォー・アフリカ」として集結したミュージシャンたちが歌った名曲 We Are The Worldの最初の歌いだしは、マイケル・ジャクソンとともにこの曲の作詞・作曲をしたライオネル・リッチー

There comes a time
when we heed a certain call
When the world must come together as one


と、静かに歌い出すところから始まる。
(heed:他動詞 〜に気を付ける、〜を気に掛ける、注意{ちゅうい}を払う、〜を心に留める、留意{りゅうい}する)



ライオネル・リッチーが口を開いて歌い出すその瞬間、瞬時に鳥肌が立つ。声を張り上げるわけでもない。なのに、正確だし、なによりハートが熱くなる。
これが、いわゆる「歌のチカラ」というやつだ。聞く人は、彼が「本当のなにかをもって生まれてきた歌手」のひとり、であることがわかる。そして、この曲に参加している天才シンガーたち全員が、空間に解き放つ「声」は、世の中には、天性ならぬ「天声」とでもいうべきものが存在していることを、まざまざと教えてくれる。
ウィ・アー・ザ・ワールド - Wikipedia

この曲のメイキングでは、狭いスタジオに一同に会したミュージシャンたちが、深夜どころか朝になるまでレコーディングを繰り返したことが記録されているが、数ある有名なシーンの中に、シンディ・ローパーがジャラジャラつけていたアクセサリーについて、エンジニアか誰かに「録音にジャラジャラ音が入る」と言われて、シンディが笑顔でアクセサリーをはずしてOKテイクを歌う、というシーンがある。

当時のシンディは、前年84年にソロ歌手としてGirls Just Want to Have Funでメジャーデビューを果たして大ヒットをぶっ飛ばしたばかりの新人だったわけだが、We Are The Worldの録音においては、アメリカの名だたる大御所だらけの中、遠慮なく自分のスタイルで堂々とシャウトしまくり、名録音を残した。
(大ヒット曲Girls Just Want to Have Funは当初、日本での曲名は『ハイスクールはダンステリア』とかいう、わけのわからないタイトルだったが、後にガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファンと、原曲名どおりのカタカナ表記に訂正された)


シンディ・ローパーは、新幹線の中でビール片手にスルメ(笑)をかじるほどの親日家として知られている。
彼女が親日家になった理由については、彼女が1989年に日本の番組に出演した際に、以下のエピソードを披露した。
なんでも、シンディが定職もなくブラブラしていた時、ニューヨークで『ミホ』というジャパニーズレストランを経営しつつ、売れないアーティストの支援もしている鈴木サクエさんという日本人女性から、「それじゃ駄目だから自分の店で働きなさい」と誘われ、鈴木さんは常にシンディに、「いつか売れる日が来るから頑張りなさい」と激励した。この出会いがシンディを日本贔屓にさせるきっかけとなった、らしい。

その後シンディは、We Are The Worldから10年たった1995年の阪神淡路大震災の折にも、寄付を行ったのみならず、1996年2月3日に震災チャリティーとして行われた生田神社震災復興節分祭の「豆まき神事」に、「この豆まきに参加する、ただそれだけのためだけ」に来日している。

いかに、シンディの親日家としてのパフォーマンスがホンモノであるかがよくわかる。
シンディ・ローパー - Wikipedia


さて、日本の東北地方での大震災が起きる約1週間前、2011年3月4日にシンディはブエノスアイレスの空港にいた。そのとき空港ではフライト遅延や欠航が続出、怒りに燃える乗客から空港側に抗議が殺到して、非常に殺伐とした雰囲気に満たされていたらしい。

たまたまその場にいたシンディがとった行動は、なんと、「空港のアナウンス用マイク」をひっつかんで、『Girls Just Wanna Have Fun』を歌い出す、というものだった。

世界的ミュージシャンの突然の「空港ライヴ」が始まったことで、乗客や乗務員が大合唱。みんなの表情は一変して歓喜の笑顔になったという。
このときのシンディの雄姿は、たまたまその場に居合わせた幸運な人々が家庭用ビデオカメラで撮った映像として、何種類もYoutubeにアップされている。
興が乗ったのか、シンディは、Girls Just Wanna Have Funだけで終わらず、名曲True Colorsまで歌ってみせた(笑)
Cyndi Lauper : シンディ・ローパー、怒りを一瞬で笑顔に / BARKS ニュース




「さすがシンディ」と思わせたブエノスアイレス空港での心温まるエピソードが某巨大掲示板などで紹介され、大きな話題になったのは、つい先週の、それも、東北で巨大地震が起きる前のことだ。
ブログ主も先週の時点ですでにこのニュースを知っていて、これをどうにかMLBと関連づけて記事にできないものか考えていたのだが、まだ記事にしないうちに、この巨大地震が起きたのだ。


そのシンディ、今の今、いる場所は
どこだろう。

日本、である。


どこまで日本に縁のある人なのだろう。
15年前、あの神戸の地震において、あれほど日本を気にかけてくれたシンディが、ブエノスアイレスのハプニングの後、どうやら日本でコンサートのために来日していて、偶然この東日本大震災に遭遇したらしいのだ。

この人、ほんとうに
「なにかもっている」。


こんな状況のもとだし、多数の人数を集めてコンサートを開くことは簡単ではないだろうし、もしかしたらコンサートは中止になるのかもしれない。

だが、ばかばかしい妄想とのそしりを承知、無理も承知でブログ主は妄想したいと思う。
15年前に大地震にみまわれた、あの神戸のスタジアムで、テレビカメラを前に、あの笑顔で、日本の「さくら」を、日本全国に向けて歌うシンディの姿を見てみたい。
余震も多いことだし、安全を考えれば無観客なのはやむをえない。また、ブログ主の好みからいうと、本当はシンディのヒットソング、たとえばTime After Timeなんかを聞きたいところだが、残念なことに、日本のお年寄りの方にはおわかりにならないだろう(苦笑)。神戸スタジアムが無理なら、シアトル・マリナーズの開幕戦で歌うのも、可、である(笑)


シンディが口を開いて、
さくら」と、
歌いだした瞬間に、
1985年にWe Are The Worldの最初の歌いだしをライオネル・リッチーが歌い出したときと同じように、「歌のもつチカラ」は、人々の心の奥深くに刻まれるのではないか。そう思うのだ。

さくら さくら
やよいの空は
見わたす限り
かすみか雲か
匂いぞ出ずる
いざや いざや
見にゆかん

さくら さくら
野山も里も
見わたす限り
かすみか雲か
朝日ににおう
さくら さくら
花ざかり


Girls Just Wanna Have Fun

I come home in the morning light
my mother says when you gonna live your life right
oh mother dear we're not the fortunate ones
and girls just want to have fun
oh girls just want to have fun

the phone rings in the middle of the night
my father yells what you gonna do with your life
oh daddy dear you know you're still number one
but girls they want to have fun
oh girls just want to have--

that's all they really want some fun
when the working day is done
girls-- they want to have fun
oh girls just want to have fun

some boys take a beautiful girl
and hide her away from the rest of the world
I want to be the one to walk in the sun
oh girls they want to have fun
oh girls just want to have

that's all they really want
some fun when the working day is done
girls--they want to have fun
oh girls just want to have fun,
they want to have fun,
they want to have fun...






damejima at 15:58

March 12, 2011

いま、まざまざと思い出すのは、15年前の、あの1995年1月17日の阪神淡路大震災の後、「がんばろう神戸」というメッセージを掲げて懸命にプレーし、ついには初のリーグ制覇したたイチローと仰木監督の時代のオリックスである。

第二次大戦後の荒廃した日本で、街頭テレビに映るプロレスの映像は当時のすさんだ人心を非常に勇気づけたと聞くが、阪神淡路大震災の直後は、神戸での試合開催が危ぶまれたが、最終的には神戸での試合開催が決定され、その後のオリックスの快進撃は被災者の傷ついた心を大いに慰めた。

がんばろうKOBE画像をクリックするとッ保存することができます。パソコンの場合は、画像を右クリック。携帯の場合はメニューから「画像保存」に関連するメニューを選択。



WBCへの熱狂を例に引くまでもなく、
ぼくらは、いつも白球を追い、
野球はいつも、ぼくらと、ぼくらの暮らしを勇気づけてくれた。


今回の大きすぎる地震被害は、阪神淡路大震災よりさらに広範囲に及んでいる。

だが、われわれは頑張れる。
かつての神戸がそうであったように、必ず壊れされた街と暮らしを甦らせる。

だが、頑張るには、チカラが必要だ。

だからイチローはじめ、たくさんの野球人が、熱いプレーする姿をみせて、阪神淡路大震災のときと同じように、ヒトを勇気づけるエネルギーを与えてほしい。既にMLBコミッショナーバド・セリグ氏も、MLBによる日本の救援活動を約束してくれている。(もっとも、カリフォルニアやハワイにも2mを越すTSUNAMIが到達して被害が出ているので、アメリカも日本同様にこの地震の被害者でもある)

Bud Selig issues a statement on the earthquake and tsunami in Japan | HardballTalk

Japanese baseball players concerned for family in wake of earthquake | MLB.com: News


がんばるぜニッポン
負けないぜニッポン

がんばるぜニッポン
負けないぜニッポン


災害用伝言板

災害用伝言ダイヤル(NTT東日本)

災害用伝言ダイヤル(171) | NTT東日本

災害用伝言ダイヤルで伝言を残す 171 → 1 → 電話番号
災害用伝言ダイヤルで伝言を再生 171 → 2 → 電話番号

災害用伝言ダイヤルのもっと詳しい使用方法
まず 171 にかける

「録音される方は1(いち)、再生される方は2(に)、暗証番号を利用する録音は3(さん)、暗証番号を利用する再生は4(よん)をダイヤルして下さい。」との案内が流れる

次に
録音は1を押す
再生は2を押す

伝言を録音する場合も、伝言を聞く場合も、ここで
「被災地の方はご自宅の電話番号、または連絡を取りたい被災地の方の電話番号を、市外局番からダイヤルして下さい。被災地以外の方は連絡を取りたい被災地の方の電話番号を、市外局番からダイヤルして下さい。」
とのメッセージが流れる。1(録音)か、2(再生)を選んだ後、電話番号を入力する。

伝言を残す自分の電話番号、または
伝言を聞きたい相手の電話番号を押す

電話番号を押すと、案内が流れる。
伝言を録音する場合に流れる案内は
「○○○○(←電話番号)の伝言を録音します。プッシュ式の電話機をご利用の方は数字の1(いち)のあと#(シャープ)を押して下さい。ダイヤル式の方はそのままお待ち下さい。なお、電話番号が誤りの場合、もう一度おかけ直し下さい。ピッ」
伝言を聞く場合に流れる案内は
「○○○○(←電話番号)の伝言をお伝えします。プッシュ式の電話機をご利用の方は数字の1(いち)のあと#(シャープ)を押して下さい。ダイヤル式の方はそのままお待ち下さい。なお、電話番号が誤りの場合、もう一度おかけ直し下さい。ピッ」

NTT東西「災害用伝言ダイヤル171」のWeb版
「災害用ブロードバンド伝言板」

災害用ブロードバンド伝言板


ドコモ
http://dengon.docomo.ne.jp/top.cgi

KDDI
http://dengon.ezweb.ne.jp/

ソフトバンク
http://dengon.softbank.ne.jp/

ウィルコム
http://dengon.willcom-inc.com/dengon/Top.do

イーモバイル
http://dengon.emnet.ne.jp/

Google Person Finder: 2011
http://japan.person-finder.appspot.com/?lang=ja

気象庁津波情報
気象庁 | 津波警報・注意報、津波情報、津波予報

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ガガさん、大地震チャリティー=米加人気歌手が支援訴え

http://ladygaga.shop.bravadousa.com/Product.aspx?cp=14781_42444&pc=BGAMLG88

日本の為に祈りを。


被災者の無事を祈るツイートをするためのハッシュタグ
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