スティーブ・ジョブズ、Apple

2012年3月3日、日本人はなぜ後ろを振り返って、確かめようとしなくなったのか。なぜ、自分だけは追い抜かれないと、タカをくくっているのか。
2011年10月9日、「iPodの原型は『パソコン』であって、ウォークマンではない」ことが瞬時にわかるのが、「パソコン以降の文化的視点」。
2011年10月5日、アップル元CEOスティーブ・ジョブズ、死去。56歳。
2011年8月24日、スティーブ・ジョブズ、アップルのCEOを辞任。彼の2005年の言葉を、イチローに贈る。

March 04, 2012

もうすぐ「3月11日」がやってくる。
あの震災から、もう1年が経とうとしている。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:東日本大震災および「やじろべえ、ニッポン」

本当は、こういうことは、もっと考えがまとまってから書きたいとは思うのだ。

だが、時間というものは待ってくれない。歴史も同じだ。時間は、ジッと佇んだまま、人が動きだすのを待っていてなどくれない。
だからどんどん書いて、書きなぐって、時間を追い越していかなければ、やがては自分自身の内側にだけ存在する「スピンする何か」に対して遅れが出てきてしまう。そして、やがては、その「内側でスピンする何か」は、みずからスピンを止めてしまう。だから、まとまりがなくとも書くしかないときがある。


去年の10月に、アップルのスティーブ・ジョブズが他界したときに追悼文みたいなものを書いた。(この話の続きも、とっくに出来あがっているのだが、ブログにはまだアップしてない)
やれアップル製品は本当はオリジナリティが無いだのなんだの、ずっとケチばかりつけ続けてきたクセに、その一方では、アップルのパクリ製品ばかり作り続けてきた日本の電気屋さんには、もういちど自分たち本来の良さ、世界最高峰の技術力を思い起こして、本気で「オリジナリティ」を追求する姿勢を取り戻してほしい。アップルのやることなすことを、声すら直接届かないほど遠くから小馬鹿にする、まさにイヌの遠吠えでケチくさい満足感を得るような、そんな下卑た考えは捨ててもらいたいのである。
そしてジョブズは結局のところ、亡くなるまでずっと、2位を大きく引き離した先頭ランナーであり続けたとブログ主は考える。彼の突拍子の無いアイデアに追いつけた人など、世界のどこにもいなかった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年10月9日、「iPodの原型は『パソコン』であって、ウォークマンではない」ことが瞬時にわかるのが、「パソコン以降の文化的視点」。


かたや日本で半導体を作っていたエルピーダメモリーが破綻した。
エルピーダは、半導体で遅れをとった日本の電機メーカーが、起死回生のために共同で設立した半導体メーカーだった。かつて半導体は日本のお家芸のひとつだったわけだが、いつしかアジアのライバルに追い抜かれ、追撃のためにこさえた組織すら落日の時を迎えてしまったわけだ。


ついさきほど、ロンドンオリンピックのマラソン日本代表選考レースのひとつ、「びわ湖毎日マラソン」が終わったのだが、ゴールまで2キロという地点まで日本人トップを走っていた実業団の招待選手が、ゴール直前のトラックで一般参加のランナーに追い抜かれてしまった。
日本人2位に終わってしまった彼が言うには、「後ろから(別の選手が自分に迫って)来ているのに気がつかなかった」らしい。
これで、代表選考レースで日本人トップになったのは、「公務員、無職、一般人」。実業団の招待選手は結局、(世界陸上を除いて)国内の選考レースをひとつも日本人トップで通過できなかった。

いまや、素人ランナーですら、「駅伝」と「マラソン」が、トレーニング手法から走るプロセス、ドリンクの中身に至るまで、あらゆる点で異なるスポーツであることを知っている。
というのも、イチローのコマーシャルしているCW-Xの大ヒットでもわかるように、盛り上がりまくっている日本のマラソンブームは、いつのまにかアマチュアのレベルを何段階も押し上げてしまい、いまや素人でもマラソンを3時間台でを走り切ってしまう選手は珍しくなく、うっかりすると2時間台(いわゆるサブ3)のタイムを持ったランナーが素人にもゾロゾロいる、そういう時代だからだ。

昔は、テレビで見ている人は、マラソンを走ることの本当の過酷さを「カラダ」ではわかってなかった。
だが、今は違う。多くの人が、42キロもの長距離を自転車並みのスピードで生身の人間が走り切ることの異常さ、特に、決着がつく35キロ以降の激しい消耗の意味を、「カラダ」でわかった上でテレビを見ている。
20キロ走の消耗と、体の中のエネルギーが一度すべて消耗して以降に勝負が始まるマラソンの違いを「カラダ」で知っている人たちには、「マラソンも、駅伝も、同じトレーニングで勝てる」なんていうゴマカシなど通用しない。

なのに、どういうものか、走ることのプロであるはずの実業団チームは「日頃は実業団駅伝への参加を目的にトレーニングしていても、我々は優れた選手ばかりを集めた専門家集団なのだから、いざとなったらマラソンでオリンピック選手を輩出することができる」とか、タカをくくっているように見える。
「先頭ランナーのつもりでいる実業団ランナーたちの意識や実力」、そして「実業団チームの指導者たちのコーチング能力やトレーニング理論」は、彼らが後ろからびっくりするほど多数の素人たちが激しく追い上げてきていたのをロクに確かめもせず、チンタラ、チンタラ練習している間に、素人の「意識」に追いつかれてしまったのである。



なぜ、われわれは
自分だけは抜かれない」と、
タカをくくるようになったのだろう。

なぜ、「誰かが追い付いてきているかもしれない」と、
後ろを振り向いて確かめようとしなくなったのか。



ブログ主は、知っての通り、性格がけして良くはない(笑)
たとえ街でプラプラ歩いているときも、性別も年齢も関係なく、高齢者、被災者、誰であろうと、容赦なく追い抜く、それを信条にしている。
歩いていて誰かを追い抜くと面白いのは、中に決まって、「あれ?」と、意外そうな反応を示す人が少なからずいることだ(笑)ブログ主は、そういうタイプの人が、追い抜かれた瞬間、わずかにうろたえて、慌てて足を速めだす姿を眺めるのが、なんともいえず好きだ。こたえられない(笑)
たとえば、自転車でメッセンジャーを追い越すときも、そうだ。決まって「あれ?」という反応をみせる(笑)なぜなら、彼らには「自分は追い越されない」という思い込みがあるからだ。

今年、日本ハムにソフトボール出身の大島匠君が入団したが、彼などもおそらく、周囲からたくさんの「あれ?」という反応を受けたはずだ。なぜって、周囲の野球出身の選手たちは、誰も彼もが「自転車で追い越されたメッセンジャー」なのだから。(彼は2軍スタートになったとのことだが、絶対に諦めずに1軍に昇格して、野球人としてのキャリアにアグラをかいている選手たちを片っ端からゴボウ抜きにして、競争というものの本当の意味をイヤというほどわからせてやってもらいたい)


また、ブログ主は「高齢化社会」という言葉が、死ぬほど嫌いだ。
「高齢化社会」という言葉をやたら使いたがる人が脳裏に描いている社会のイメージが、「年をとって、足の弱った人を、優先し、先に行かせてもやり、誰も追い抜かない優しい社会」なんてヤワなイメージのような気がしてならない。そんなことをしていては社会全体の速度が遅くなって衰退していくのが、わかりきっている。(「速度を維持する」というのは、なにも全てを経済優先にしろ、という意味ではない。また、道を譲る価値のない相手にまで道を譲る必要はない)
むしろ、いま必要なことは、「先に道を進んでいく能力があり、これからの社会を牽引してもらわなければならない、足の速い人、若い人に、むしろ年老いた人の側が道を譲ってあげること」だと思わない日は、一日たりともない。


油断している人は、追い抜いていいし、追い抜くべきだ。
ノロノロ歩いている人は、道を譲るべき。
追い抜かれたくない人は、油断せず、常に早く歩くべし。
そしてなにより、
先頭を走っている自覚がある人こそ、常に後ろを確かめること。



こういうことを言うと、すぐに「それは乱暴だ」とか、「優しくない」とか、決めつけたがる人がいるものだが、ここでいう「追い抜く」とは、植物でいうなら、「芽吹き」だ。悪いことなんかではない。(別に追い抜くためなら突き飛ばしていいとは言っていない)

ひとつの街がまるごと更地になるほどの大災害の跡には、やがては芽が出て、家が建ち、新しい子供が生まれいく。平らな場所に出現する凹凸、陰影、それこそが生まれてくる暮らしの新芽であり、何も無い平原に立ちのぼる炊事の煙こそ、人の暮らしの証である。


(誰もが歓迎する子供の誕生や家の新築はともかくとして)自分が追い抜かれていくのを感じさせられる新芽の存在を認めることは、最初はなかなか難しい。
だが、新芽の存在に気づかない人、新芽の存在を認めようとしない人は、どんどん追い抜いていい。待っていては、街も人も蘇らない。自分がランナーだと自覚する人なら、なおさらだ。どんどん追い抜いていくべきだ。


古代ギリシャ時代のマラソンの起源を考えれば、マラソンという競技の意味は「死ぬ気で走る」という意味だが、死ぬ気で走ってみることの意味を、もう長いこと我々は忘れている。
だが、2時間10分が切れない、なんて思われていた日本人マラソンランナーも、ラビットを入れ、レースのペースを上げてやることで、ジャカスカ10分を切れるランナーが現れた。


やれば、できる。
できるから、
遠慮なんかせず、敬意をもって追い抜け。

これがブログ主から
新しいエネルギッシュな「3月11日」に向けてのメッセージだ。













damejima at 16:44

October 10, 2011

スティーブ・ジョブズが亡くなる直前にほとんど書き終えかけていた文章がある。冒頭部分は次のような感じの書き出しになっている。今から思うと、あのときはまだ内容が中途半端であり、未成熟な内容のまま公開しなくて本当によかったと、今では思う。
最近、ある記事の一節をネットでみかけて、驚いた。
iPodの原形は、ソニーのウォークマンだ」とメディアで主張する人が、いまだにいるのだ。


iPodの原形は、ウォークマンではない」と、ハッキリ断言できる理由は簡単だ。
iPodの原型は『パソコン』であって、ウォークマンではない」からだ。同じように、スマートフォンの源流も、『パソコン』であって、携帯電話ではない。
iPodやiPhoneは、「音楽プレーヤー」でも「電話機」でもなく、元をただせば「キーボードの無いパソコン」だ。キーボードというインターフェイスを無くし、そのかわりにタッチパネルになっているから、見た目がパソコンに見えないだけの話だ。

スティーブ・ジョブス自身も、iPadのようなデバイスのことを「post-PC devices(=ポストPC端末)」、あるいは「the next PC(=次世代PC)」と呼んでいる。
このことからも、最近のアップルの製品戦略が「『パソコン時代』を、さらにまた越えた、ポスト・パソコン時代のデバイスの創造」であったことは明らかであり、また、逆に言えば、アップルの製品群がどんなに進化しようと、それらは常に「パソコン」をルーツに持つことは、このジョブスの言葉に明確に示されている。



ジョブズが亡くなる前、偶然にも数日かけて「iPodの原形は、ウォークマンではない」ことを説明するために、冒頭の文章の続きを長々と書いていたのだが、書いている途中でジョブズが亡くなったことを知り、あらためて根本的に書き直すことになった。彼の「生」と同様、「死」にも大きなインスピレーションを受けた。

と、いうのは、
「iPodの原形が、ウォークマンか、どうか」という議論を突き詰めていけば、必然的に、「iPodとウォークマンの、何が同じで、何が違うのか?」などと、「カブトムシとクワガタの違いを、角(つの)の形だけで見分けて喜んでいる夏休みの子供」のような低レベルの観察で終わるわけにはいかず、「今という時代と前の時代を決定的に分割した、根本的な技術や製品は何か?」という設問に行き着くことに気づいたからだ。
そして、その解答は「ジョブズが後世に残した功績とは何か?」という設問にダイレクトにつながっていく。



最初に記事を書きはじめてからだいぶ時間が経ったが、
今ならもっと正確に書きなおすことができる。

「今という時代と前の時代とを決定的に分割した技術、製品は何か?を考えると、最重要なもののひとつが『パソコン』だ。(他に『インターネット』を挙げてもいいが、話がこんがらがるので置いておく)
そして『パソコン』の発展形のひとつがiPodやiPhoneである。
だからiPodの生みの親は『パソコン』であり、パソコン以前の「ディスクに依存する時代」、もっと言うと「ソースとディスクと再生装置の『1対1の対応関係』が世界の脳を縛っていた、パソコン以前の文化」に属するウォークマンではない。

当然のことだが、「ウォークマンはたいした技術でもなければ、立派な製品でもない」と言いたいのでは、まったくない。
そうではなく、「どっちも音の出る、持ち運べる箱だろ?」だのと、両者のわずかな、しかも重要ではない共通点を子供じみた論法で強調するより、多すぎるくらいたくさんある「両者の相違点」のほうを明確に認識し、意識していかない限り、今のポスト・パソコン時代なんて見えてこないんだぜ、という意味だ。
いつまでたっても「iPodはウォークマンと基本的に同じだ」などという視点でしかモノを考えられない、古くさい構図に縛られた脳では、とてもじゃないが、今という時代にあった製品など生み出せるわけもない。
「iPodとウォークマンの根本的な違い」の認識は、まさに「パソコン以前と、パソコン以降で、技術や製品、人の生活がどう変化したか」についてきちんと認識できているか?という試金石なのであって、この程度の判断くらい瞬時に切り分けられなくて、どうして日本でiPodやiPhoneを越える「パソコン時代らしい製品」を独自に作れるようになるか、という話だ。
(と、いうか、その程度の切り分けができなかったからこそ、いくつかの企業の残念な「今」がある、とも言える。「ウォークマンをいくら発展させてみたところで、結局のところ、パソコンにはなりえない」という言い方をしたら、もっとわかりやすいかもしれない。この点はゲーム機も実は同じだ。ゲーム機は、いくら機能を付加していっても、パソコンにはなれない。ゲーム機は「パソコン以前の時代」に属する文化とみなすのが正しい判断だと思う)


そして「今という時代と前の時代とを決定的に分割した技術、製品は何か?」を考える作業は、「スティーブ・ジョブズの偉業とは何か?」を考え、特定する作業にも行き着く。
なぜなら、「パソコンという、世界を変えた製品」の基本フォーマットを完成させたのは、ジョブズとウォズニアックの「アップルのパソコン」の功績だと思うからだ。


判断を間違える原因はいくつもある。
例えば、「アナログ、デジタル」という二分法がそうだ。
「ソフトとハード」という二分法と同じで、誰もがその「思考方法の陳腐化」に気がつかずに今でも使っている。「パソコン全盛の時代なのだから、『デジタル』という基準でモノを見てさえいれば、何事を判断するにしても間違えることはありえない」などと、勝手に思い込んでいる輩(やから)が大勢いる。

だが、それは間違いだ。

ゲーム機もそうだが、デジタル技術をたくさん使っているからといって、その製品が必ずしも「パソコン以降の文化」に属しているとは限らない。 「デジタル技術を使ったすべての製品が現代的だ」、などと考えていたら、あらゆる判断に過ちを犯すことになる。
「アナログとデジタル」という二分法は、「アナログ時代に作られた論法」であって、実はあまり役に立たないのだ。
「アナログ、デジタル」という二分法は、「どの技術、どの商品が、今という時代を前の時代と決定的に隔てたのか?」という設問に、決定的な解を与えることができない。


パソコン以前と、パソコン以降。
こうスッパリと切り分けることが、今の時代(=「ポスト・パソコン時代」)を理解するのには最もわかりやすい切り分けだ。

(続く)

damejima at 01:21

October 06, 2011

この人から何かを学んだ、と、
ハッキリ断言できる人を持てたことに感謝したいと、
最近強く思うようになった。


そのひとり、スティーブ・ジョブズが56歳の若さで亡くなった。

今シーズンもさまざまな「ノイズ」に悩まされたイチローに、2005年6月12日 スタンフォード大学卒業式でのスティーブ・ジョブスのスピーチの一節を贈ったばかり。
ジョブスの生命の灯がもう長くないことを予感してはいた。ちょうど、アップルに関する独立した記事を用意して書き直しているところだった。
わずかに間に合わなかった。
ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2011年8月24日、スティーブ・ジョブズ、アップルのCEOを辞任。彼の2005年の言葉を、イチローに贈る。

アップル ロゴ




英語原文
Text of Steve Jobs' Commencement address (2005)
日本語訳(例)
バックナンバー
日本語字幕付き(他にもいくつもの字幕付き動画がある)
http://youtu.be/DE8HrWmnLwA

http://youtu.be/54pPcsDEc6M



Stay Hungry. Stay Foolish. と、
ジョブズはくりかえし言った。

心のハングリーさに自信を失ったことは一度もないが、Stay Foolish、これがなかなか難しい。実行できもしないことを思い悩んでもしょうがないので、実行などしない。


「どうにも馬鹿になりきれないタチなんで、Think Diffrent.くらいは、とか思ってアタマのすみに置いて、暮らしてきたんですよ。あはははは。」

と、
そんな無理におどけた言い方で彼に直接話しかけて、
これまでなんとか角ばった生き方でやってこれたことへの感謝の気持ちを、こっそり表現してみたかった。

合掌。




米アップル、豪での特許訴訟でサムスン電子の和解提案退ける | Reuters
パクっておいて、妥協を図ろうとする厚顔無恥なサムスンをはねつけたアップルの矜持に、拍手。



damejima at 18:54

August 25, 2011

 
アップル ロゴ

The rainbow "bitten" logo, used from late 1976 to 1998.Designed by Rob Janoff

Think Different.
これは1997年にApple社が行ったキャンペーンで使われたスローガンだ。何度読んでも、深い含蓄と、アップルらしいクリエイティビティを感じさせる。
「他社との差別化」は広告手法の基本中の基本なわけだが、このスローガンにはビジネスにおける差別化程度のレベルを越えた深遠なメッセージがある。迷いに迷って道を進んだ挙句に、90年代末に会社が無くなる瀬戸際までいって踏みとどまり、やっと創業時の原点である「創造性」にたち帰る決心のついたアップルの世界観、文化論が、これでもかとばかりに詰め込まれている。

90年代末、MLBがまだステロイド・ホームランまみれだった頃に、アップルは一度、決定的に衰退しかかった。まだiPodも、iPadも、iPhoneもないどころか、iMacすら無く、互換機ビジネスにも失敗。96年にはやる気のない取締役が自社の売却先を求めて右往左往しているような最悪の状態だった。
97年2月になってアップルは、85年にアップル自身の手でクビにした創業者スティーブ・ジョブズを12年ぶりに復帰させ、同年11月に伝説の“Think Different.”キャンペーンが行われた。
翌98年アップルは、黒を基調とするデザインのPowerBook G3を発表すると同時に、1976年から使われ、熱狂的ファン層から常に支持されてきたレインボーカラーのカラフルなロゴを捨て、新しい単色のロゴを採用し、アップルは2001年以降の新たな輝きに向かって歩き出したため、Think Different.キャンペーンはレインボーカラーのロゴでの最後の大規模キャンペーンとなった。


Think Different - Wikipedia, the free encyclopedia

マリア・カラス in Think Different

ジミ・ヘンドリックス in Think Different


テクノロジーで世界を変えてきたアップルのロゴデザインはこれまで何度か変更されている。ロゴ変更は、それぞれの時代においてアップルが世界に提案するテクノロジーや製品すべてについてにかかわる戦略変更宣言を意味していた。
アップルのロゴの変遷
2001年は、イチローにとってはMLBへのデビュー・イヤーだが、アップルにとっては、Linux互換のMac OS Xを発売して、古き良きOS9までのテクノロジーと決別すると同時に、iTunesとiPodを投入して音楽事業に参入した年だ。
2001年からの10年はイチローにとって、ステロイド時代の余韻の残るMLBに独自のプレースタイルを持ち込み、追随を許さないキャリアを築き上げた輝かしいディケイドだが、アップルもこの10年、iPodから、iPad、iPhoneに至る創造的で活発な企業活動を経て、2011年8月10日にニューヨーク株式市場の終値で初めての時価総額世界一になるなど、輝かしいディケイドを過ごした。21歳の若者2人がガレージで始めた会社が、世界一の会社になったのである。


今シーズンのイチローについて、最近アメリカメディアの「ノイズ」が多い。
彼らの記事はどれも似たり寄ったりで、タイトルを読めば中身まで読めてしまうような、そんなレベルの低い記事ばかりで、オリジナリティはまったく無い。単なる「ノイズ」といって、さしつかえない。
例にあげた下記の記事なども、見た目のタイトルと、ページソースに埋め込まれているタイトルが違っている。オリジナリティへの敬意に欠ける創造性の無い人間は、こんな細かい、卑怯な芸当を使ってまでして他人を非難するのだから、哀れなものだ。
記事の例:Ichiro still follows own beat, but out of rhythm | MLB.com: News


2000年にアップル社CEOに復帰し、この10年間アップルを牽引して世界一に引きずりあげたスティーブ・ジョブズが、CEOを辞任するという。
ほとんどの人はジョブズの健康を心配するのだろうが、彼はなんせ名前に「ジョブ」なんてつく超仕事好き男だ、健康を考えて仕事をやめたりするような男ではないと、ブログ主は思う(笑)。おおかた、いつぞやNextでやっていたように、21世紀に入っていつのまにか大企業になってしまったアップルでは成し遂げられない特殊なアイデアでも思いついたに違いない。


2004年に膵臓ガンと診断されたジョブズが、2005年のスタンフォード大学の卒業式に招かれて行った有名なスピーチの一節を、イチローに贈ろう。

死を自覚するということは、
人生の岐路に立っている自分が道を選択するときに、
もっとも重要なツールになる。

なぜなら 
周囲からの期待、プライド、失態や失敗への恐怖
こういったほとんどの事柄は
死を前にすればすべて消え去ってしまって
本当に重要なことだけが残るからだ。

僕たちは裸だ。
だから、自分の気持ちに素直に従わない理由なんて、ない。

他人からのノイズに耳を傾けるな。
自分自身の内なる声に耳を傾けろ。

もっとも大切なことは
自分の心と直観を信じる勇気を持つことだ。
心と直感はすでに君たちが何になりたいかを知っている。
他のことなど、二の次でいい。


何がクリエイティブで、誰がただの猿真似なのか、ひと目で見抜く訓練すら積んでこなかった企業や人間が世の中の表舞台にしゃしゃり出てきたことで、価値観の錯綜してしまった今の時代には、メディアでも、インターネットでも、無価値で無様な意見を堂々と述べ続けている哀れな人間が、掃いて捨てるほどいる。
そういう人間には、誰の仕事かすら区別できない「ノイズ」を生産する仕事がお似合いだ。

そういう「ノイズ」に耳を貸す必要は、まるでない。





damejima at 15:04

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