『1958年の西海岸』 アメリカにおける放浪の消滅

2013年5月11日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(4) 「若さを必要としない時代」
2013年5月4日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。アメリカにおける「放浪」の消滅(3) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜ニュージャージー・ターンパイクの渋滞の中で気づく「若者を必要としないアメリカ」
2013年4月30日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。 アメリカにおける「放浪」の消滅(2) サイモン&ガーファンクルの "America"の解読〜60年代の「ピント外れな自分さがし」
2013年4月28日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。 アメリカにおける「放浪」の消滅(1) 「アメリカの放浪の消滅」を示唆する3つの旅

May 12, 2013

Simon And Garfunkel

parkbench

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アメリカにおける「放浪」の消滅地点を確定する作業に始まったサイモン&ガーファンクルの "America" の解読は、旅客機の発達やMLBの西海岸進出を含む1950年代末のアメリカ社会の大きな変化を確かめる作業でもあるが、このシリーズのエンディングとして、どうしても「社会というものは『若さを常に必要としている』とは限らない」と "America" という曲の主張を、日本の近代にあてはめずにいられない気持ちになった。


今のように老成してしまう前の「若かりし日本」では、制度や経済のしくみを学ぶこととはまた別に、文化や生活としての「アメリカ」を十分すぎるくらい学ぶことで、暮らしを豊かにしていっていた面があった。

だが、このサイモン&ガーファンクルの割とよく知られた "America" という曲ですら、肝心の中身があまりよく理解されないまま、現在に至ってしまっている。
この例などみても、日本のこれまでのアメリカについての理解には、おそらく、とてつもない量の「勘違い」が含まれている。

例えば "America" という曲は、従来いわれてきたような、アメリカを探すとか、自分を探すとか、恋愛のはかなさとか、そういう何か70年代風のバラ色なことが歌われているわけではない。
"America" は、「1940年代までは「放浪」を文化として黙認してきたアメリカ社会が、50年代に放浪を消滅させ、やがて安定してきた60年代になると、もはや若者の無軌道な青さを必要としなくなりつつあったこと」に気づかないまま、若さを謳歌することばかり考えて行動し、没落しつつあった60年代当時の若者の無感覚さ、無神経さをシニカルなトーンで歌っている。

だが、アメリカの文化のうち、若さを謳歌する術を学ぶことにばかり熱中してきたかつての日本の若者たちは、そういう「アメリカ文化に確実に内在する苦さを表現として残しておこうとする "America" の、シニカルではあるが、ジャーナリスティックな音楽性」は、ほとんど理解しないまま年老いて、彼らはいまや、若さにはほとんど何の可能性も残さない時代を作り上げている。
そうなった責任が誰にあるのかについては意見がさまざまに分かれるだろうが、少なくとも、「昔の人間の物事の読み方」を、やすやすと信用する時代は終わりにしなければならない。
むしろ、これからは「古い読み方を捨てて、あらためて読み直し」、「自分なりの理解に変更していく」必要が生まれているように思えてならない。
例えば、新聞のような旧式なメディアがすぐに使いたがるのは、あらゆる事を「左・右」に分類するカビの生えた手法だが、いま問題なのは、そんな古びたイデオロギーでラベリングすることなどではなく、例えば、全てを後生大事に抱え込んだまま年老いていく人々と、なにも持たない若者、この「上・下」の関係のほうがよほど課題として大きいことくらい、誰でもわかっていなくてはならない。


「我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなった。強権の勢力は普く(あまねく)国内に行亙ってゐる。現代社会組織は其隅々まで発達してゐる。」

これは、『一握の砂』『哀しき玩具』で有名な石川啄木という歌人の1910年の発言で(明治43年 『時代閉塞の現状』)、「時代の閉塞感」を主張しようとする人によく引用される。特に「今という時代が、若い世代に十分チャンスが与えられていない」と批判する文章を書くときに重宝され、引用されるようだ。
(例えばジャック・ケルアックの『孤独な旅人』を翻訳された中上哲夫氏も、文庫版あとがきで引用なさっている。ただ、以下の拙文は氏のしたためた文章と何の関連も持たない。批判でも、感想でも、賛意でもない)
啄木の生涯を知るための資料例:1148夜『一握の砂・悲しき玩具』石川啄木|松岡正剛の千夜千冊


だが、幕末から現在まで100数十年が経過した日本の近代を俯瞰してみると、実は「『いついかなる時代にも、若い人間が必要とされている』とは限らない」ということがわかる。


例えば、幕末から明治初期にかけての維新の時期に「新しい才気」が必要とされたのは、武士の作った時代が終わりつつあり、価値のスタンダードそのものが流動化しはじめた一方で、欧米各国のアジア進出が足下に迫り、日本の社会が「新しさ」を緊急に必要とした時代だったからだ。
だからこそ、江戸の身分制度の下では活躍の場が限定されていた層、例えば下級武士などに時代の前面に躍り出るチャンスが生まれた。彼らは、江戸の繁栄期なら「地方で孤立したまま埋もれていくしかなかったはずの人材」だが、幕末の動乱期ならではのチャンスを生かして、お互いの間に新しい繋がりを作り、最終的には社会への強い影響力を持つことに成功した。(もちろんこの現象は、コンピューターとインターネットの時代が始まったことで、新たなタイプの人と人の繋がり、新しいタイプの富豪が続々と生まれたことに多少似ている)


江戸の次の時代、明治のある時期に、「小説」(あるいは詩歌)は、出版不況の今からは想像できないほど、かなり圧倒的な社会的影響力を持っていたらしい。
その背景には、「個人にとって明治という新時代、つまり近代が、どう生きたらいいのか、経験がないだけに、よくわからない世界だった」ということがある。

明治という時代が始まって、国の制度の改善については、政府に属する秀才たちが欧米留学などによって他国の優れた制度を吸収しながら日本を近代化していくわけだが、ひるがえって個人の暮らしについては、制度の近代化とはまた違った「壁」があった。
それは、例えば「個人個人の暮らしや、一般家庭のありようが近代的になるとは、そもそもどういう意味なのか」という漠然とした謎であり、一般人は、その謎の解を誰からも教えてもらえないまま、明治という新時代を迎えてしまった。
つまり、明治の日本人は、正直に言うなら、輸入モノである『近代』とやらの中で、突然「自由にしていいよ」などと言われ、喜んではみたものの、さてはて、人と人は、どういう関係をもち、どういうスタイルの家庭を築いて、どう幸せを追求していけば『近代らしくなる』のか」、誰にも具体的なことはわからなかったのである。

そういう「それまで手にできなかった自由を与えられたが、それをどういうふうに消費したものやら、さっぱりわからなかった時代」に、「小説」は、それを読む人にとって、立志、就職、恋愛から、憎悪、破滅に至るまで、「近代生活のありとあらゆるスタイルとディテールを学ぶ教科書」として機能した。
それは例えば、かつて昭和の時代に人々が、テレビアニメ「サザエさん」を見て、家庭で最初に風呂に入るのは誰か、どう子供におやつを与えたらいいか、次に買うべき耐久消費財はどれか、隣近所とのつきあい方など、暮らし、それも電化製品に囲まれた新しい暮らしのスタイルについてのトリビアを学んだのと、同じ現象だった。
まだテレビのない明治の人々は、「小説」や「詩歌」を熱心に読みふけることで、職業、恋愛、プライド、自由、あらゆる近代生活のディテールや概念を学んだ。だから、当時の小説や詩歌の役割は、後の映画や雑誌や音楽とまったく変わらない。
(つけ加えると、かつて人々が「テレビのサザエさんの家庭」を見て学んだように、1970年代以降しばらく、若者は「雑誌」から「アメリカ」を学んだ)


しかし、この「時代が必要とする『何か』」は、
永遠に続くものではない。

幕末に大きく「流動」の側に振れた「社会という時計の振子」が、やがて「安定」の側に戻ったとき、社会は「時代の先駆者としての若者」をもう必要としなかった。
石川啄木が「青年をとり囲む空気が流動しなくなった」と嘆いた時代は、「社会がもう新しさをそれほど必要としなくなったこと」を示しているのであって、啄木は、ある意味サイモン&ガーファンクルの "America" に出てくる能天気な若者と同じ、「既に過ぎ去りつつある激動の時代の高揚感を追体験し続けようとして、時代の変化についていけなかった若者」に過ぎない面がある。
だから、啄木がいくら嘆いたとしても、また、後世の人が、この啄木の有名な「嘆き」を借りて自分の時代の閉塞を嘆いてみせても、それらの嘆息にはそもそも、当人たちが期待するほどの有効性は感じられないのである。

啄木の嘆きにみられる「明治という時代が安定してきて、若者というものが必要なくなっていく現象」と似た現象は、これまで何度も繰り返し起きている。
日本の近代においては、時代が安定してきたことによって、「近代らしい人間像や、あらまほしき家庭像、さらには、それらからの逸脱さえ教えてくれた文学や詩歌」が必要なくなっていき、さらに後の時代には、家庭に電化製品や自動車がゆきわたったことで「豊かさをテレビを通じて教えてくれたサザエさん」がいらなくなり、またアメリカ文化を十分吸収し終えたとき、それまで「アメリカの流行を、ことこまかに教えてくれた雑誌」が必要なくなった



「我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなった」と石川啄木が時代を嘆いた言葉を引用することで、自分のロジックの強化をはかりたがる人(あるいはメディア)というのは、「未来をひらく立場にある若者は、あらゆる時代において重要だ。その重要な存在をないがしろにするような時代は、批判されてもしかたがない」という論法をバックグラウンドに持っていることが多い。
だが、繰り返しになるが、啄木がああした発言をせざるをえなかった時代は、明治維新で「衣替え」した日本が制度を整え、やっと落ち着いてきて、放っておいても自動的に回転できるシステムとして完成に近づいたことで、「先駆者としての若者」や「近代の教科書としての文学」が必要なくなり、「若者」や「文学」の必要度が暴落していく、そういう「維新の志士&文学青年バブル」がはじけた時代だった。
同じように、第二次大戦後、暮らしが安定してきて、あらゆる耐久消費財が珍しくなくなった頃、日本の家庭にとって「サザエさん」は必需品でなくなり、誰もがAmazonでいつでも「アメリカ」を直接発注できるような時代になって、若者に流行を紹介して金をとる「雑誌」を毎週買って読みふける必要は全くなくなっている。(かわりに、いま人はネット上の他人の評価を参考にモノを買い、雑誌を買う理由は「おまけが欲しいから」になった)


時代によって、「必要なものは変わっていく」のだ。
「若者」とて、例外ではない。「若者だけは例外」という考え方は、通用しない。


なのに、誰が、どうはきちがえるのか知らないが、「いつの時代にも若者は必要だ」とか、そういう、歴史に即さない、まことしやかなロジックというか、ゆるんゆるんのヒューマニズムみたいなものがまかり通ってしまい、かえって現実に立ち向かえない人々を増やしてしまっている。

「いつの時代にも若者は必要だ」などという甘ったるいロジックは、あくまで、「そうであってほしい」という「願望」であって、「歴史」ではない。
今の時代の突破口を発見できずに机に座ったまま脳が固まって、役に立たないロジックばかりまき散らしている新聞のコラムニストのように、時代の閉塞なんてことをやたら声高に言いたがる人たちがいくら嘆いてみせたところで、時代に置いていかれたメディアなんか復活できっこないし、そんな緩いセンチメンタリズムで時代の突破口が見つかるわけでもない。


「若さを必要としない時代」は確実に存在する。
そこから目をそらしても、しょうがない。

「自分は若者だから、必要とされているはずだ。だから、今のままでいいはずだ。なのに、どういうわけか、必要とされないまま、自分はほっておかれ、腐り始めている。なぜなんだ・・・」とか、そういうループした思考から抜け出さないと、誰もが思考のループの内側に閉じ込められてしまう。石川啄木は最初の発言者のひとりだったからまだ価値があったが、彼の追体験者には、何の価値もない。

若さを必要としない時代に「人から必要とされる理由」なんてものを、グダグダ嘆きながらいくら考えても、もはや世界は広くはならない。だから、前の時代を真似て、ヒッチハイクなんかしたりしないことだ。渋滞に巻き込まれたグレイハウンドの中で、追い越される車の数を数えてたって、なんにも生まれてこない。


やるべきことは、(自分のやるべきことが、よほど明確にわかっている人は除いて)「他人がいま、何を必要としているのか」、考えてみること。そしてその「人が必要としていることを、やってみる」ことだ。

こういうことをしてくれる人がいればいいのに。ああいうことがあればいいのに。
人が必要としていることって、思いのほか多いものだ。

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"Old Friends" という曲の冒頭でポール・サイモンが「ブックエンド」のほかに、「シューズ」も登場させているのには、もちろん意味がある。なぜなら、これらはどちらも「2つ揃っていてはじめて成り立つ道具で、片方だけでは意味をなさないモノ」だからだ。
なのに、ポール・サイモンがベンチに腰掛けた老境の二人の絆を「2つ揃っていて初めて意味があるブックエンド」にたとえた言葉の妙技だけ発見して喜んで、そこで終わってしまう人があまりに多い。もう少しきちんと読むべきだ。
同じような例は、"America" にもある。この歌詞には、カップルが冷笑する「ギャバジンのスーツを着た男」と、カップルのかたわれの「レインコートを着た若い男」、2人の男が出てくるわけだが、「ギャバジン」とは防水加工された布地のことだから、この2人の男を並列させたことにも意味がある。「違うタイプに見える2人の男の服装の間には、実は根本的な差はない。若いレインコートを着た男は、やがてスーツ姿の男のような人間になっていく」ことを暗示しているのである。

詩という言葉の海淵は思いのほか深い。いにしえのパールダイバーのように奥深く潜りもしないで解釈できたつもりになってもらっては困る。哀しいことである。

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damejima at 02:03

May 05, 2013

前記事で、1960年代前期の若者を描いたサイモン&ガーファンクルの "America" という曲の歌詞の前半部分に隠されたドラマを解読してみた。

こんどは後半部をひもといてみる。


思い出してみてほしい。この曲に登場する60年代カップルの
「旅の目的」は何だったか。

それは、歌詞で何度もリフレインされている。
自分の足と目でアメリカを探すこと」だ。
we walked off to look for America(中略)
ぼくらはアメリカを探して歩き出した。
I've gone to look for America
僕はアメリカを探しにいく
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カップルは一定の決意を胸に旅立った。

だが、旅の目的であるはずの「アメリカ探し」の「主語」は、曲の最後の最後になって、それまでのWe(自分たち)や I(自分) ではなく、TheyAllに変更されてしまっている。いったいこれはどうしたことか。
They've all gone to look for America
All gone to look for America
All gone to look for America
彼らはみんなアメリカを探しにいく
誰もがアメリカを探しにいく

あれほど勢いこんで始めた「アメリカ探し」。
なのに、「主語」がいつしかAllに変わってしまったことは、この旅を始めた動機そのものが失われた(あるいは変質した)ことを意味する。
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なぜ、「アメリカを探す」という行為の主語が、自発性を意味するWeI から、まるで他人事のようなThey、あるいは、主体性も個性も感じられないALLに変わってしまうのか。この60年代カップルは、「自分らしい自分」、「自分の目で発見したアメリカ」を探したいから、無謀で気ままな旅を開始したのではなかったのか。
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この「主語の変更」にはもちろん意味がある。
それをこの記事で解読していく。
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歌詞の前半部分について、こんな風に解読した。
カップルでヒッチハイクをすると成功率が低くなることも知らないまま、無謀にチャレンジし続けた4日間のヒッチハイクで、カップルはようやくピッツバーグまで辿り着いた。
だが、ここで疲れ切った2人は、ヒッチハイクだけでニューヨークを目指すのはさすがに諦め、グレイハウンドに乗ることにした。雨が降り続く中、カップルは残り少ないタバコを吸い続けながら、グレイハウンドを待った。
バスにようやく乗ることができたとき、2人の関係は、ふとした会話をきっかけに冷めていく。女は、男が「探しているつもりになっている何か」が、実は「ありもしない」ことに気づいてしまう。

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歌詞の後半部分で、男は、ニュージャージー・ターンパイクにさしかかったとき、グレイハウンドの座席で眠りこける女を見ながら、こんなことをつぶやく。
"Kathy, I'm lost," I said, though I knew she was sleeping
I'm empty and aching and I don't know why
Counting the cars on the New Jersey Turnpike

「キャシー、僕は何かを見失っちゃったみたいだ。」
彼女が寝てるのは知ってたけど、言ってみた。
虚しくて、心がつらい。なのに僕は、わけもわからないまま
ニュージャージー・ターンパイクで車の数を数えてるんだ。
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なぜ、男は脱力感にまみれながら、「バスから外に見える車の数を数えている」のか。曲を作ったポール・サイモンは、この無気力な行為を描くにあたって、なぜ「ニュージャージー・ターンパイク」という固有名詞を使う必要があったのか。
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男がグレイハウンドから外を見て、車の数を数えている。
それはグレイハウンドの周囲に、たくさんの車がひしめきあっていることを意味する。

おそらく、小回りのきかない大型バスであるグレイハウンドは、アメリカ東海岸の「有料の高速道路」特有の「渋滞」に巻き込まれている、のである。

渋滞でグレイハウンドが立ち往生していることは、男と女の関係、「アメリカ探し」の両方が両方とも行き詰っていることを、比喩的に表現している。
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ターンパイク(turnpike)」とは、元は、通行料金を徴収するために故意に道路をふさぐように置かれた障害物やゲートを指したが、後に「有料」の高速道路そのものを「ターンパイク」と呼ぶようになった。(有料高速道路には他にParkwayなんて言い方もある)

ニュージャージー・ターンパイクは、ワシントンDCとニューヨークをつなぐ東海岸の大動脈で、西海岸に多いフリーウェイとは違い、日本の高速道路のと似た「料金所」があるため(コインやトークンを投入する)、ひどく渋滞する。また交通事故が日常茶飯事であることでも悪名が高い。
New Jersey TurnpikeNew Jersey Turnpike

ちなみに、現在アメリカには日本のETCの元祖ともいうべきE-ZPassという料金収受システムがある。最近のE-ZPassは改良によって時速15マイル以下に減速する必要がない。

E-ZPass
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ニュージャージー・ターンパイクが作られたのは1951年。
New Jersey Turnpikeのロゴ
50年代とは、アメリカで「放浪」が消滅した時代であり、「アメリカにおける交通の主役交代が始まった時代」でもある。
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アメリカの高速道路網インターステイト・ハイウェイの建設が本格化するのは、アイゼンハワー大統領が推進した道路整備計画の一環として、1956年に連邦補助高速道路法(Federal-Aid Highway Act of 1956)が成立してからのこと。この法律の制定により、道路利用者が払う連邦税の全額を道路整備に振り向けることが定められ、高速道路網建設のための財源が確保された。

だが、アメリカ東海岸の諸州では、アイゼンハワー時代より前からターンパイクが盛んに建設されていた。

19世紀初めのアメリカでは、既に1万数千キロものターンパイクが建設され、馬車による交通の発展を後押しした。しかし鉄道の時代が始まると、馬車とターンパイクは一度衰退する。
1940年代になると、アメリカで再びターンパイク建設が盛んになる。ターンパイク利用者は馬車から自動車に変わった。1950年代の旅客機の発達は、かつて馬車を衰退に追いやった鉄道や、グレイハウンドのような公共交通機関の衰退に拍車をかけつつ、自動車時代の進展を加速させた。こうして、馬車にエンジンをつける形で始まった自動車の発展は、鉄道の発達で一時衰退したターンパイクを、復活に導いた。
参照先:Damejima's HARDBALL:2013年4月28日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。 アメリカにおける「放浪」の消滅(1) 「アメリカの放浪の消滅」を示唆する3つの旅
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アメリカの高速道路事情は、西海岸と東海岸とでまったく異なる

アメリカの高速道路は全体の90数パーセントが無料だが、西海岸では無料の高速道路が多いのに対して、ターンパイクの歴史の長い東海岸では有料比率が高い。例えばニューヨーク州では40%が有料、マサチューセッツやニュージャージーでも20数%が有料の高速道路だ。

トンネルについても、西海岸では一部の例外を除くと無料であることが多いが、東海岸では有料の橋やトンネルが少なくない。例えばニューヨーク、ペンシルベニア、ニュージャージー、デラウェアの各州境を流れるデラウェア川にかかる橋の大半は有料だし、リンカーン・トンネルやジョージ・ワシントン・ブリッジなどの「ニュージャージー側からハドソン川を渡ってニューヨークに入る橋やトンネル」も有料だ。(つまり「ニュージャージーから出る」には料金が必要ということ)

東海岸のターンパイク、橋、トンネルでは、料金所(toll gate)が数多くあるため、困ったことに、金を払わないと通れない道路であるがゆえに、かえって渋滞に巻き込まれるという、納得しにくい現象が日常化している。
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歌詞解読に戻る。

ニューヨークを前にして男はおそらく、渋滞に巻き込まれたグレイハウンドの車窓から外を見ながら、「あと20台・・・あと19台・・・」などと、自分の乗ったグレイハウンドを邪魔している自動車の台数でも数えているのだろう。(もしくは単純に、渋滞の暇つぶしにぼんやり車の数を目で数えている)

歌詞のみによって男のいる場所を明らかにするのは難しい。もしニュージャージー・ターンパイクの終点付近にいるとしたら、ハドソン川にかかるジョージ・ワシントン・ブリッジの手前かもしれない。

こうした「ニュージャージとニューヨークを結ぶ橋を、東方向に行く行為」は「有料」だ(逆は無料)。「西から東へ向かって」旅をする行為が「東から西への旅」と意味が180度異なることは、ここでも示されている。
New Jersey Turnpikeの終点付近

料金所手前の車列はなかなか短くならない。

ターンパイクの料金所では、身軽で小回りのきく自家用車のドライバーは我さきに列に割り込んで料金ゲートに殺到する。その一方で、図体が大き過ぎるグレイハウンドは小回りがきかないため、他の車に割り込まれ続けて料金所になかなか近づけない。
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グレイハウンドのような大型バスは、鉄道とともに、かつてのアメリカの長距離移動手段の花形として栄えた。

だが、旅客機の発達と自家用車の増加でグレイハウンドは交通の主役の座から引きずり降ろされ、やがて衰退していく。市場回復をめざして、乗車料金を値下げするなど、さまざまな対策が講じられたが、後にグレイハウンド社は2度の倒産という苦渋を舐めさせられた。

"America" という曲で、ターンパイク特有の渋滞に巻き込まれて、自由を奪われ、行き詰ったグレイハウンドの姿は、アメリカ社会の変化を象徴してもいる。
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東へ東へと向かう「ちょっとピント外れのミシガンのカップル」は、なぜまた、当時、時代に追い抜かれつつあったグレイハウンドに乗ることを選択したのか。
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もし彼らが普段ニューヨークに暮らしている人間なら、ターンパイクで渋滞することは想定できる。

だが、ミシガンの田舎からニューヨークに出てきたばかりの「お上りさんカップル」は、スムーズなはずの高速道路が有料で、しかも渋滞している、なんていうややこしい事態は想定できない。

もしカップルが、「西から東へ」と旅行するのではなく、ジャック・ケルアックやロバート・フランクのように「東から西へ」旅行していたなら、どうだったか。
西海岸の高速道路の多くは無料だから、料金所がない。東から西へ旅していたら、渋滞に巻き込まれず、イライラせずに済んだかもしれない。

だが、東海岸のターンパイクの渋滞を経験したことがないミシガン出身のカップルは、慣れないヒッチハイク、雨、タバコを切らしたこと、ターンパイク特有の渋滞、気ままな旅のあらゆる選択においてミスを犯し続けてしまう。
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1950年代に始まった「旅客機と自動車の発達」は、それまでアメリカの交通の花形だった鉄道やグレイハウンドを、徐々に主役の座から引きずりおろしていった。

1958年にニューヨークのドジャースとジャイアンツが西海岸移転を決行したが、その英断の背景にも旅客機の発達があった。MLBの選手たちが北米の東西をスピーディーに行き来できるようになるには、旅客機の発達が不可欠だった。
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そうした「アメリカの変化を記録に残すこと」を最初に思い立ったのは、小説家、写真家といったアーティストだった。

Esther Bubleyは1940年代に、グレイハウンドを利用する人々など、当時のアメリカ人のリアルな暮らしの息吹をフィルムに収めた。ジャック・ケルアックは、1940年代に「東から西へ」放浪して、そのアンダーグラウンドな経験を1950年代に小説として発表し、一躍ベストセラー作家になった。ロバート・フランクは、1950年代にグッゲンハイム財団の資金援助で「東から西へ」撮影旅行をして、「自動車に乗る人々」を撮影して人気を博した。
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ボブ・ディランの名曲 The Times They Are A-Changin' 『時代は変わる』がリリースされたのは1964年。サイモン&ガーファンクルの "America" が作られたのと、時代はほぼ同じだ。("America"が収められた"Bookend" というアルバムのリリースは68年だが、曲自体が作られたのは60年代初期)
だが、ごく普通の人々(とりわけ田舎に住む人々)にしれみれば、「時代が変わりつつあること」、例えば「将来グレイハウンド社が倒産する」なんてことを想像することは、おそらく難しかった。(グレイハウンド社の2度の倒産は1990年代と2001年)

なにせ、アメリカでは、「グレイハウンドこそが、アメリカ」という時代が長く続いたのだ。いたしかたない。

だが1950年代に「放浪」がアメリカから消滅しただけでなく、「アメリカそのものだったはずのグレイハウンド」ですら、アメリカの主役ではなくなりつつあった

これは何を意味するのか。
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まとめよう。

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ミシガン州サギノーに住むカップルは、書籍や雑誌で見聞きしたことしかないビートジェネレーションの奔放さや破天荒な自由さに憧れて、いわゆる「アメリカ探しの旅」に出た。(それは「ビートジェネレーションが発見した『アメリカ』の追体験ツアーのようなものだった)

彼らは最初、慣れないヒッチハイクに挑戦したが、カップルであるために成功率が低く、4日もかかってようやく400マイルほど移動して、ピッツバーグに着く。疲労困憊した上に、雨にもたたられた2人はヒッチハイクを諦め、グレイハウンドでニューヨークを目指すことにした。

バス旅行は最初は楽しかった。だが単調なバスの長旅は、2人の関係を冷めたものに変えていく。グレイハウンドがあと少しでニューヨークというニュージャージーにさしかかったとき、そこには東海岸特有の有料高速道路の渋滞が待ち構えていて、カップルの行く手をさえぎった。遅々として進まないグレイハウンドを尻目に、追い抜いていく沢山の自動車。

たくさんの自動車に追い抜かれながら、男は「沢山の都会のオトナたちが、とうの昔に自分のもつ『若さというメリット』を追い越していたこと」、つまり「自分の探したアメリカは、前の時代の若者たちである今のオトナたちが発見し尽くしていて、しかも、かつての古いアメリカが終わって、新しいアメリカになりつつあり、さらには、自分がその変化についていけていないこと」に気づく。
かつて若者だった多くの人々は、ミシガンから来たカップルよりずっと早く「アメリカ探し」を終え、今は「オトナ」として都市に住んでいる。「オトナ」たちは、アメリカにかろうじて放浪が存在していた1950年代までの時代に、東のニューヨーク、あるいは西のサンフランシスコなどの都市にやってきた。彼らは既に都会での自分の居場所を探しあてており、都市に暮らす「オトナ」として、自動車という新しい交通手段を駆使して都市の一部になって暮らしている。

ターンパイクでクルマを運転していたのは、
そういう「アメリカのオトナ」だった。
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ニューヨークを前にしてミシガン州サギノー出身の男は、ようやく、気づく。

放浪も、アメリカ探しも、ヒッチハイクも、グレイハウンドも、自分たちがいままで、「これこそアメリカ」、「これぞアメリカの若者らしさ」と固く信じこんでいたものの大半が、実は「古いアメリカ」であり、それらは既に衰退、あるいは、消滅しつつあること。
さらに、自分たちがいま熱中している「アメリカ探し」「自分探し」も、かつて若者だった「オトナ」たちが、「とっくに経験した文化、とっくにやりつくした文化」であること。
They've all gone to look for America
All gone to look for America
All gone to look for America
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サイモン&ガーファンクル、というと、60年代の若者と、それ以降の「若さがもてはやされた時代」にとって、「若さをもてはやす側」の代弁者のように思われがちだ。

だが、彼らの作った "America" という曲は、1960年代のアメリカが、実は「若さというエネルギー」をもはや必要としなくなりつつあったという、非常に痛々しい事実を、容赦なく指摘しているのであって、別に「若さの礼賛」などしていない。

ある意味、若いということ以外、たいした取り柄が無いことが「若さ」というものの痛々しいメリットだとすれば、この曲は60年代、70年代以降の若者にとって「耳にするのもつらい曲」と受け止められてもよかったはずなのだが、当時の若者はおそらく、原曲の歌詞の意図などほとんどおかまいなしに、耳ざわりのいいメロディだけ聞き流して過ごしてしまったに違いないと、思えてならない。
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「放浪」が50年代に消滅し、かつて「アメリカそのもの」だったグレイハウンドが渋滞にまみれつつ交通の主役でなくなる日が近づいていた。

「若者」という存在は、古代から現代にいたるまで、いついかなる時代においても「主役」であると思いこまれがち(そして、そう教えこまれがち)だが、実は、「若者をそれほど必要としない時代」もあるということ。
これが、かつて「ティーンエイジャー」を発明したアメリカという社会が、老成していく時代に初めて発見した冷徹な事実だったのかもしれない。


だが、それでも人はエネルギッシュに生き抜きたいと願うものだ。ならば、どうすれば時代に立ち向かえるのか。

(次の記事に続く。次回がこのシリーズの最後の記事)
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damejima at 16:12

May 01, 2013

前記事では挙げた3つの旅のうち、ここでは1960年代に作られたサイモン&ガーファンクルの "America" という曲の歌詞を解読することで、アメリカの旅の変貌ぶりを確かめてみたい。
歌詞全文は前記事を参照:Damejima's HARDBALL:2013年4月28日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。 アメリカにおける「放浪」の消滅(1) 「アメリカの放浪の消滅」を示唆する3つの旅


この歌詞は、「トーンのまったく異なる2幕」から構成されている。愛し合うカップルが「旅立ちからグレイハウンドに乗るまで」を描いたハッピーな前半部分。そして、「冷えていく2人の関係」を描写した陰鬱な後半部分。

そして幕間にあるのが、脚本や小説の基本パターンである「起承転結」でいうところの『』」にあたる問題のシーンだ。
男が「タバコをとってくれないか」となにげなく発した、その言葉に、「1時間前に吸っちゃったから、そんなの、もう無いわよ」と女(名前はキャシー)がそっけなく応答するシーンである。

この曲を作ったポール・サイモンは、カップルの関係が一変してしまう原因かきっかけを、この「転」にあたる繋ぎ部分の「タバコを巡るやりとり」で表現しているはずだ。

"Toss me a cigarette,
I think there's one in my raincoat"
"We smoked the last one an hour ago"
So I looked at the scenery,
she read her magazine
And the moon rose over an open field.

「タバコとってくれないか。
 たぶんレインコートの中に1本あるはず。」
「最後のは1時間前、2人で吸っちゃったでしょ。」
そんなわけで僕は外の風景を眺めることにした。
彼女は彼女で雑誌を読みふけり
開けた風景に月が昇るのが見えた。

なにげないやりとりだ。それほど問題がある会話には見えない。だが、この短いやりとりを境にして、2人の関係は決定的に冷えんでしまう。

なぜだろう。
----------------------------------------------
男は、レインコートにタバコがある、と思った。一方、女はタバコがもう無いことを知っていた。

タバコは無いと断定した女は記憶力のよさそうな人物だが、レインコートにタバコを入れていたことそのものを否定しているわけではない。だから、男がレインコートにタバコを入れていたこと、そのものは、おそらく男の記憶違いではない。

問題は、いまタバコが「ある」のか、「ない」のか、だ。
----------------------------------------------
タバコを吸う人は普通、レインコートのポケットにタバコを入れたりはしない。理由は単純だ。濡れたタバコは吸えなくなる。濡れたタバコが乾くのを待つ人なぞ、まずいない。

それでも男は、「レインコートを着たまま、タバコを吸う」という「普段ならやりそうにない行為」をあえて実行したらしい。
----------------------------------------------
「外に月が見えた」、と男はいう。だから、男が座っているのはバスの窓側の席だ。男はタバコは「レインコートに入れたままになっている」と思ったわけだが、そのレインコートはどこにあるのか。正確に推測することはできないが、たぶん女のほうがとりやすい場所にあるのだろう。男は「レインコートからタバコをとって」と、女に甘えた。
----------------------------------------------
なぜ男はレインコートを着たままタバコを吸ったりしたのだろう。

雨具を着たまま吸うわけだから、長距離バスの中ではない。バスの中でレインコートを着ている必要などない。

男がレインコートを着たままタバコを吸ったのは
明らかに「屋外」だ。
----------------------------------------------
もういちど考えてみる。

なぜ「屋外で、レインコートを着たまま、タバコを吸う」という、普通しない行為をあえてしなければならない必要があったのか。
----------------------------------------------
レインコートを着ていたわけだから、
タバコを吸ったとき、天気は雨だったはずだ。

タバコを最後に吸った時間を、女は確信をもって「1時間前」と断言している。

そう。
カップルは約1時間前、雨が降りしきる屋外で、2人でタバコを吸っていたのだ。そのとき男はレインコートをはおっており、タバコはレインコートから取り出しては、しまわれていた。
----------------------------------------------
なぜカップルは1時間前、雨の降る屋外なんかでレインコートなんか着てタバコを吸っていなければならなかったのか。

2つ可能性がある。

可能性その1
1時間前、2人はまだグレイハウンドに乗ってなかった
可能性その2
2人はかなり前からグレイハウンドに乗っていた。長距離を走るグレイハウンドがサービスエリアのような休憩地点に着いた。気ばらしに2人はバスの外に出て、雨の降る中、タバコを吸った

正解は明らかに前者だろう。後者のような描写するのにまだるっこしい場所をポール・サイモンが歌にするわけがない。
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ここで歌詞全体をあらためで眺めながら
歌詞に隠された情報を掘り起こしてみる。
1時間前、2人は、まだグレイハウンドに乗っていなかった。雨が降りしきるピッツバーグのグレイハウンド・ステーションで2人は、ニューヨーク行きの長距離バスを待ちながら、繰り返し繰り返しタバコを吸った。男は取り出しやすいように、タバコを着ているレインコートに入れていた。
ようやく到着したニュージャージーを通過してニューヨークに向かうグレイハウンドに2人は乗った。男は再びタバコを吸おうと思い立って、女に「タバコをとってくれないか」と頼んだが、既に手持ちのタバコは吸いつくされて無くなっていた。

男はそのことに気づかず、女は覚えていた。

「あるとばかり思ったタバコが、実は全部吸い尽くされていたこと」は、雨のピッツバーグ(もしくはその周辺)でグレイハウンドを待ちながら吸ったタバコの本数が、ほんの1、2本ではなく、吸った本数を数えていられないほど多かったことを示している。
つまり、「雨に降られる最悪のコンディションの中でカップルがグレイハウンドが来るのを待ち続けた時間の長さは、けして短いものではなかった」のである。
----------------------------------------------

ここがひとつの重要な点だが、ヒッチハイクで旅していたはずのカップルなのに、なぜ急にグレイハウンドに乗ることにしたのか

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答えはポール・サイモンが書いた歌詞にある。

It took me four days to hitchhike from Saginaw

「ミシガン州サギノーから(ピッツバーグまで)ヒッチハイクで来るのに4日間かかった」

いくら自動車の性能が今よりも低くて、交通機関も今より未発達の60年代の話とはいえ、ミシガン州サギノーからピッツバーグまでは、約400マイル(約640キロ)だ。クルマで移動するのに「4日間」もかからない。

サギノーからピッツバーグまでの400マイル

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カップルは400マイルを移動するのに4日間かかった。それはつまり彼らのヒッチハイクがうまくいかなかったことを意味している。

4日間もかかってようやく辿り着いたピッツバーグ。
そこで彼らは雨に降られた。
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なぜ彼らのヒッチハイクはうまくいかなかったのか。

歌詞からその正確な理由を推測する証拠を探すことは難しいが、考えられるのは、彼らが単独ではなく「カップル」だったから、ではないか。

ヒッチハイクをしてみればわかることだが、カップルでのヒッチハイクは成功しにくい。なぜって、乗せる側にしてみれば、いちゃついているカップルなど、乗せてやる気にならないからだ。なんせ、カップルでヒッチハイクしたいなら男は木の陰にでも隠れてろ、とまでいわれるほどだ。

さらに考えるべきことがある。例えば1940年代の放浪者が、カップルでヒッチハイクしただろうか、ということだ。そもそも40年代の放浪は荒野で味わう孤独に耐えられる人たちの文化である。カップルで長距離バスに乗る行為は、40年代の放浪のワイルドさとは無縁のファミリーライクな旅でしかない
60年代のヒッチハイカーの意識が、実はこれほどまでに放浪と無縁のものだったことを、この歌は容赦なく描いている。

そしてもうひとつ、考えなければならないのは、このカップルが「田舎から都市に向かって旅している」ことだ。
ミシガンからニューヨークに向かう道路がたくさんあるにしても、都市に向かってクルマを走らせる人々は「なんらかの用件を抱えて急いでいる人たち」だったりする。けしてヒッチハイカーに優しくはない。
旅するならむしろ、都市の人間が田舎へ旅するほうが、なにかと「人の優しさに甘えることができる」だろう。ここが「アメリカを東から西へ旅する」ことと、逆に「アメリカを西から東に旅する」ことの差でもある。もしジャック・ケルアックの放浪がモンタナの田舎から東部の都市に向かうものだったら、もしかすると彼も旅を続けられなかったかもしれない。
----------------------------------------------
なぜ、この男女は、「ヒッチハイクが成功しにくいカップル」だというのに、4日間もヒッチハイクに挑んだのか。

歌詞に直接推定する証拠が見あたらないが、おそらくこの2人は、「カップルのヒッチハイクが成功しにくいことを、そもそも知らなかった」のだろう。たぶんヒッチハイク経験がなく、知り合いにそういうことをしている人もいなかったに違いない。
----------------------------------------------
なぜ彼らはグレイハウンドに乗れたのか。

単純な話だが、「もし困ったら、いつでも長距離バスに乗れるくらいのお金を持って旅行している」からだ。

そう。彼らは旅先で働きながら放浪を続ける放浪者ではないのだ。
----------------------------------------------
では、なぜ、実はバスに乗れるだけの金を持っているなら、成功しにくいカップルでのヒッチハイク、慣れないヒッチハイクなど試みずに、最初からグレイハウンドに乗らなかったのか。

これも歌詞から推測することはできないが、全体のトーンから察するに、ヒッチハイクみたいな小さな冒険をしたかったのだろう。

「4日間ものヒッチハイクの疲労」、そして「雨」。この2つの壁が、疲れ切った彼らの足をグレイハウンド・ステーションに向かわせた。
----------------------------------------------
もういちどまとめてみよう。
カップルでのヒッチハイクは成功率が低いことも知らないまま、無謀にチャレンジし続けた4日間のヒッチハイクで、カップルはようやくピッツバーグまで辿り着いた。
だが、ここで疲れ切った2人は、ヒッチハイクでニューヨークを目指すのはさすがに諦め、グレイハウンドバスに乗ることにした。雨が降り続く中、残ったタバコを吸い続けながら、グレイハウンドを待つカップル。
バスにようやく乗ることができたとき、2人の関係は、ふとした会話をきっかけにして冷めてしまうく。
----------------------------------------------

女は、自分が「ありもしない」とわかっているタバコを、男に「とってくれ」と言われ、イラついた。女はその後、黙りこくって雑誌を読みふけり始め、2人の会話は途絶えてしまう。

おそらく、女は、男が「探しているつもり」になっている「何か」が、実は「ありもしない」ことに気づいてしまったのだ。(比較すると、忌野清志郎の "Day Dream Believer" という曲に出てくる「夢みて生きてきた男」が、いかに女の優しさに支えられているかがわかる)

----------------------------------------------
男は、何かを探しているつもりになっていた。

横で眠りこける女を見ながら、
男はこんなことをつぶやく。

"Kathy, I'm lost," I said, though I knew she was sleeping
I'm empty and aching and I don't know why
Counting the cars on the New Jersey Turnpike

「キャシー、僕は何かを見失っちゃったらしい。」
彼女が寝てるのは知ってたけど、言ってみた。
虚しくて、心がつらい。なのに僕は、わけもわからないまま
ニュージャージー・ターンパイクで車の数を数えてるんだ。

----------------------------------------------
実は、若者たちが自分とアメリカを探しはじめるより、はるかずっと昔に、アメリカの放浪は消滅していた。だが、田舎育ちの若者たちはそれに気づかないまま、カップルで、それなりの金を持って、のほほんと都会に向かうという「ピント外れな旅」に出かけてしまったのである。

彼らは、無一文の放浪の詩人ほど孤独ではなかったが、
だからといって、幸せというわけでもなかった。

(次の記事へと続く)
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damejima at 19:40

April 29, 2013

写真家ロバート・フランクが1955年から56年にかけてアメリカを旅して撮影した作品集 『アメリカ人』 がアメリカ国内で出たのは、初版が58年にパリで出版された翌年の1959年だが、それを見た当時の若者がインスパイアされ、「自分もあんな風に自由にアメリカを旅してみたい」という思いを抱いたとき、実は、「アメリカにおける放浪」は既に消滅していた、という話を以下に書く。(Copyright © 2013 damejima. All Rights Reserved.)

だから、例えば1968年にサイモン&ガーファンクルが出したアルバム "Bookend" に収められた "America" という曲の "Looking for America" という歌詞について、「アメリカと自分を探す」だのなんだのと、センチメンタルにばかり解釈するのは根本的に間違いなのだ。


アメリカにおける「放浪」は、いつ、どんな形で消滅したのか。
その「放浪の消滅」にとって「1958年」という年は、
なにか意味のある特別な年なのか。


まず比較のために
「3つの異なる時代のアメリカの旅」を挙げる。

以下で3つの旅を比較する目的は、「1958年」という年が、アメリカ社会の質にとって、いかに大きなターニングポイントだったかということを、野球以外の角度から示すことにある。それによって、ドジャースジャイアンツが西海岸に移転した「1958年」という年の「特別さ」を、さらに鮮明に証明できるはずだ。
具体的な作業としては、サイモン&ガーファンクルの "America" という曲に関する従来の弛緩しきった解釈を訂正し、新しく解読しなおす作業が中心になる。

1)1940年代末
ジャック・ケルアックの小説『路上』における旅。主としてアメリカを東から西へと横断する旅が描かれた。
この旅が北米を「東から西へ」という方角で行われたことには、少なからぬ意味がある。日本の江戸時代に、大都市江戸に住む松尾芭蕉が旅したのが「江戸から東北へ」、つまり「都市から田舎へ」という方向であって、その逆ではなかったことにみられるように、放浪生活の奔放さに心奪われるのは、やはり「都市の住人が持ちたがる憧憬」の典型的パターンなのだ。

『路上』の出版自体は1957年だが、作品の元ネタになった放浪そのものは、出版より10年も前、「1940年代末」に行われたもので、1950年代ではない。この「行為の行われた年代と作品発表年代との間の大きなズレ」は非常に重要な意味をもつ。
この「ズレ」はこれまで、その意味をほとんど理解されないまま、「ケルアックが旅をしたのは『路上』が出版された50年代だ」と勝手に思い込んでいる人が少なくない。(ケルアックファンを自称する人ですら、知らない人がいる)

ケルアックは、40年代に行った旅から10年もたってようやく『路上』を世に作品として送り出すことができたのだが、50年代末には、実は「アメリカの荒野を放浪する行為そのものが、不可能になっていた」
ケルアックは1960年に出版された『路上の旅人』という本の中で、「1956年以降、ホーボーをやめざるをえなかった」、「もはや荒野で一人でいることさえ不可能」、「アメリカの森は監視員でいっぱいだ」と、1950年代のアメリカの変質を指摘している。
ケルアックは、『路上』の出版にようやくこぎつけた時には既に、「放浪」という「彼のクリエイティビティの源泉」を失っていたのである。『路上』出版以降のケルアックはほとんどロクに書けない状態だったのは、彼のネタ元である「放浪」がアメリカにおいては不可能になっていたためであり、1960年代はケルアックにとっては余生に過ぎない。

2)1950年代中期
ロバート・フランクが1955年から56年にかけて行ったアメリカ横断撮影旅行は、『路上』と同じく、北米を東から西へ向かって行われた。撮影された写真は、1958年にパリで『アメリカ人』初版として出版され、さらに翌58年、写真集としての体裁でアメリカ版が出版されている。
参考記事:Damejima's HARDBALL:2013年4月18日、「1958年の西海岸」 特別な年、特別な場所。『ロバート・フランク眼鏡』をかけず、裸眼で見る「モンタナ」。スポーツと家族とクルマのあるアメリカ。
ロバート・フランクがアメリカを旅して自動車に乗る人々を熱心に撮影した1950年代は、「アメリカにおける放浪」が文化として消滅しつつある時代であり、アメリカの交通機関の主力としてかつて隆盛を誇った「鉄道」や「長距離バス」が衰退し始めた時代であり、その一方では「旅客機」と「自動車」の発達が始まっており、アメリカの旅をめぐる環境は大きく変貌しつつあった時代である。

3)1960年代前半
サイモン&ガーファンクルの1968年リリースのアルバム "Bookend" に収録された "America" という曲において、ポール・サイモンが描いた旅は、上の2つのサンプルとは旅の方角が180度違い、ミシガンの田舎から大都市ニューヨークへ、「西から東」という方向で行われた。この「西から東」という方角に、深い意味がある。
『路上』にみられた「ズレ」は、この曲にも存在する。アルバム "Bookend" のリリースが1968年であることで、この"America" という曲を「60年代後半のアメリカの若者の旅を描写した曲」だと思っている人が多い。
だが、実際にはこの曲は、1965年にデモテープ化されていたことがわかっていて、さらに曲中に出てくる "Mrs. Wagner pie" という固有名詞が実在の会社で、その会社が1966年に倒産していることから、"America" に描かきこまれた旅のカップルは、60年代末の若者ではなく、60年代前期の若者の姿だ。


1968年にリリースされたサイモン&ガーファンクルの "America" を聞いて、「自分もこんなアンニュイな映画みたいな旅をして、自分というものを心ゆくまで探してみたい」と思った人は、60年代末から70年代にかけて数多くいたかもしれない。さらにもっと後の時代にも、60年代文化への憧れから、カメラ片手にアメリカに旅立った人がいたかもしれない。


だが、次の記事で詳しく書くが、サイモン&ガーファンクルの "Americaはこれまで、まるできちんと解釈されてはこなかった

いいかえると、日米問わず70年代の若者の多くが「アメリカ」を勘違いしたまま成長した
例えばケルアックがやった「40年代のアメリカの放浪」やロバート・フランクの写真集のような「古いアメリカのオリジナリティ」は、「1950年代に発表された作品に収集されていた過去の記録」のであって、50年代には既にアメリカから姿を消しつつあった文化だ。
もちろん60年代末から70年代にかけて育った若者は、それらを直接自分で体験することなどできず、書籍やレコードなどを通じてしか知らなかったが、にもかかわらず、彼らは50年代の作品を通じて知識として知ったに過ぎない「古い時代のアメリカ」を「追体験」しようと必死に試み続けた
いうまでもなく、当時の日本はアメリカ文化が輸入されるのにかなり時間がかかっていたために、日本の若者は、アメリカ国内の若者より、さらに「もうひと時代遅れて」追体験に向かった。


60年代70年代の若者たちは、憧れの映画で見た出来事や、憧れの書籍の中でしか知らないことを、リアルライフで再現してみせようとするかのように、「追体験」に熱心に取り組み続けた。そしてそれが、「オリジナルなアメリカ、ホンモノのアメリカに、少しでも接近し、自らをアメリカそのものにしていくためにどうしても必要不可欠な試みだ」と、思い込もうとした。

しかし、彼らの試みのほとんどは、サイモン&ガーファンクルの "America" の歌詞に出てくるカップルがそうであるように、「放浪の旅を気取って、あてどない自分探しの旅に出るが、苦労の多いヒッチハイクに疲れたら、金にモノをいわせてグレイハウンド(=長距離バス)に乗って、楽をして移動して都会に行く」というような、「夢見がちな若者の、弱腰な試み」に過ぎなかった。彼らの試みの大半は失敗に終わり、多くの人は失望を味わった。
しかし、彼らの多くは、そうしたケルアックの放浪の追体験の挫折について、「出発点からして間違っていた」と気づくことよりも、むしろ、「失敗することそのものが、若さを実感できる素晴らしい体験だと思い込むこと」のほうを選んだし、「オリジナリティ溢れたアメリカ探しとは、むしろ、失敗することそのものを指すのではないか」、「失敗した自分の若さこそ、むしろカッコいい」と自分を慰めることのほうを選んだ。


だが、若者がどう誤解しようと、実際には、ケルアックが1940年代に体験した「放浪」という名の文化は、「1950年代中頃には消滅しつつあった」と、ケルアック自身が証言している。
50年代文化にとって、「放浪」とは「クリエイティビティの源」のひとつだったわけだが、『路上』が大流行して、世間に放浪旅の流行すら引き起こした50年代末には、既に「水源は枯渇していた」。

1960年に出ている『孤独な旅人』という書籍で、ケルアックは「ジェット機時代はホーボーを十字架にかけつつある」と言っている。(ホーボー=放浪者。いわゆる浮浪者ではない)
これは、以前「ニューヨークにあった2球団、ドジャースとジャイアンツの西海岸移転を可能にした社会背景に「旅客機の発達」があった、と書いたことにピタリと一致する。
Damejima's HARDBALL:2012年3月6日、「1958年の西海岸」という特別な年、特別な場所。リチャード・ブローティガン 『A Baseball Game』の野球史的解釈。
1000キロ単位離れた西海岸での試合に東海岸の野球チームが疲労困憊せずに移動して試合をするには、北米大陸を短い時間で横断できる旅客機の発達が必要不可欠だったが、その一方で、1950年代に始まったボーイング707やDC-8の開発に始まる旅客機の発達は、まさに「放浪」を消滅させた。

グレイハウンドが並ぶ1940年代のミシガン州のバスターミナル
グレイハウンドが並ぶ1940年代ミシガン州のバスターミナル


ジェット機は、ホーボーを十字架にかけたが、そのかわり、ドジャースを西海岸に運んできた」というわけだが、さらに重要なこととして、この「旅客機の発達」は、「40年代文化である『放浪』を消滅させ」「東海岸の文化だったMLBを、西海岸に拡張させた」だけでなく、それまで繁栄していた「長距離鉄道」や「グレイハウンドのような長距離バス」を衰退させ、さらに、それらの交通手段に代わる新しいモビリティとして、「自動車」を急激に発達させる契機を作った

1950年代のグレイハウンド
1950年代のグレイハウンド



ロバート・フランクがアメリカを横断した1950年代中期は、「放浪」が消滅し、「鉄道やグレイハウンド」が衰退し、「旅客機」と「自動車」が発達しつつあった時代なのだ。
だからこそ、グッゲンハイム財団から資金援助を受けてロバート・フランクが1955年から56年にかけて行ったアメリカ旅行では、「多くの人々が『とても自慢げな表情で』クルマに乗って」いるのである。


ロバート・フランクが、写真家として「50年代のクルマに乗った人ばかり熱心に撮っていること」の意味は、けして小さくない。

もしロバート・フランクが、ケルアックのように「放浪者たちの間に混じって旅をした」なら、たとえ彼が旅した時代が「アメリカから放浪が消滅し、鉄道とグレイハウンドが衰退し、旅客機と自動車が発達していく1950年代中期」だったとしても、「自動車に乗った人々にばかり熱心にレンズを向けてシャッターを切った」とは思えない。
ロバート・フランクの作品には、ヒッチハイカーという単語を含んだタイトルの作品もあるにはあるのだが、ロバート・フランクは「車に乗った人々」を「観察する者」としてフィルムに記録しだだけだ。撮影者ロバート・フランクの位置は、ケルアックとは違って、あくまで「観察者」「傍観者」にすぎないのであり、「自らの意思で放浪を日々の暮らしとする者」の視線ではない。
ロバート・フランクがやったことは、放浪でも、鉄道でもグレイハウンドでもない、アメリカの新しい移動手段である『自動車』に乗った人々を「観察」することであって、「ロバート・フランク自身がヒッチハイク旅をしながら撮影した」わけではない。

もしロバート・フランクのような「観察者としての写真家」が、「『放浪』がまだ文化として生存していた1940年代のアメリカ」を旅していたとしても、彼が選びそうな撮影ターゲットと撮影スタイルは、自分自身も一緒に放浪しながら放浪者たちを撮る、というスタイルではなく、むしろライカ片手に、当時のメインの交通手段である鉄道の駅やグレイハウンドのバス停で待ち構えて、「鉄道やグレイハウンドに乗りこむアメリカ人」を撮るという「観察者として」の撮影スタイルを選んだだろう、と思う。

ちなみに、1940年代にグレイハウンド・ステーションやグレイハウンドを待つ人々を数多く撮影した写真家に、Esther Bubley(1921-1998)という素晴らしい写真家がいる。彼女の作品が持つ「やわらかな日常の目線」を、単なる「観察」だとは全く思わない。個人的に、ロバート・フランクの「ゲージュツ家が他人から金をもらって旅して行った、遠回しなモノ言いのような距離を置いた観察」より、ずっと作品レベルは高いと思う。なぜまた日本でこれまで、いまの時代に見てもけして古さを感じないEsther Bubleyの柔軟さより、古式蒼然としたロバート・フランクの硬さばかりが持ち上げられてきたのか、それがわからない。
Esther Bubleyの描く「アメリカ」は、ロバート・フランクの「アメリカ」より「はるかにアメリカくさい」し、なにより、アメリカのさりげない日常性を撮影するというコンセプトでEsther Bubleyが優れた作品をカメラに収め続けた「時期」は、ロバート・フランクの『アメリカ人』よりも10年以上も早いのである。 Esther Bubley - Wikipedia, the free encyclopedia

Greyhound Bus Station, 1943. Photograph by Esther BubleyGreyhound Bus Station, 1943.
Photograph by Esther Bubley



以上に書いてきた意味から、ロバート・フランクの『アメリカ人』と、ケルアックの『路上』が、同じ1950年代後期に出版されているからといって、ロバート・フランクの写真を、40年代の放浪文化やビートジェネレーションに連なるものとみなすのは、間違っているし、馬鹿げている。ロバート・フランクの『アメリカ人』は、60年代以降の旅客機・自動車時代の幕開けに連なるものだ。


ケルアックが40年代に体験した放浪を、ごく普通の人々までもが書籍を通じて文化として知ったのは、旅からすでに10年近くが経過した1950年代末のことで、作品『路上』は彼をベストセラー作家に押し上げただけではなく、普通の人々に「アメリカを旅する自由さ」や「旅を通したアメリカらしさの発見」に熱狂的ともいえる憧れを抱かせ、アメリカの交通機関の発達もあって、人々をアメリカ捜しの旅に駆り立てた。
だが、何度も言うように、実際にはそのとき既に「40年代の放浪という文化は、すでに死に絶えていた」。

ましてポール・サイモンが "America" という曲を書いたときには、『路上』の出版から10年、ケルアックの40年代の旅からは20年が過ぎていた。"America" に描かれたカップルの旅は、「かっこよさげな、自分探し」でもなんでもない。
そこに描かれて詳しい情景は、次の記事で詳しく示すことにしたいが、「40年代にあったと聞く放浪というものを、50年代に出された書籍を通じて知っている」ような60年代の田舎に住む若者が、「田舎から都会に向かおうとして、本で読んだことのあるヒッチハイクってやつを試みてみたものの、あえなく失敗して、しかたなく財布の金を使って乗りこんだ値段の安い長距離バスの中で、関係が冷えていくカップルの内輪もめ話」である。

「60年代カップルの知識」の根底にある「50年代に出版された書籍に書かれていた放浪」とは、もちろん実際には「40年代の放浪」で、とっくにアメリカから消滅しているのだ。
ケルアック自身すら50年代に「自分自身は純粋なホーボーとはいえない」と謙遜しているというのに、この「ちょっとつらいことがあると、バスに乗ってしまうような軟弱な60年代の田舎のカップル」が、都会を捨てて田舎に向かう放浪者になれるわけもない。(ここが「東から西への旅」と、「西から東への旅」の違いだ)


ただし、ことわっておきたいと思うのは、「放浪者の精神」がアメリカのあらゆる場所から消滅したわけではない、ということだ。
たしかに、「荒野を放浪という形式で旅する」という意味の「放浪」はアメリカの表面から消滅している。だが「精神」としては、例えばスティーブ・ジョブズのような特別な人の心の中に受け継がれ、現代に伝わっている。例えばiPodやiPhoneが、ただの電化製品ではなくて、「放浪者」としてのスティーブ・ジョブズがさまざまな「心の放浪」の果てに、「自分の場所といえる場所にようやく辿り着き、そこで実らせた果実」であることは、言葉にしなくても、わかる人にはわかると思う。


さて、長い前置きだったが、サイモン&ガーファンクルの "America" という曲の歌詞の解読にとりかかろう。

この歌詞の解釈はこれまで、例えば「グレイハウンドの衰退と旅客機の発達の関係」のような、アメリカ社会のインフラの変貌と文化の関係をきちんと考慮して解読されないまま、表面的なセンチメンタルな解釈しかされずに現在に至っている、と思う。
ポール・サイモンは歌詞に、このカップルを取り巻く社会をちゃんと描きこんいる。だが、たいていの文学作品が読む者の解読を要求するように、 "America" の歌詞も、読む側に読み込みを要求する形で書かれており、さらっと読んだだけでは意味が伝わらないようにできている。

これから試みる解読の結果、これまでやたらと「ケルアックのような50年代のワイルドな文化の正当な継承者を、やけに自称したがってきた」1960年代とか70年代を経験した人たちが自画自賛したがってきた「60年代以降のアメリカの旅」、あるいはそういう旅への憧憬が、実は「ビート・ジェネレーションの放浪」とまるで無縁なものに過ぎない面がある、ということを明らかにできたら幸いだ。


以下、サイモン&ガーファンクルの1968年のアルバム "Bookends" に収められた "America" という曲の歌詞だ。このブログの独自解読を目にする前に、まず自分自身の目で読んでみることを、是非おすすめしたい。
フォントサイズがあまりにも小さいのが恐縮だが、改行箇所をできるだけ減らすために止むをなかった。ご容赦願いたい。

"Let us be lovers we'll marry our fortunes together"
"I've got some real estate here in my bag"
So we bought a pack of cigarettes and cs
And we walked off to look for America

"Kathy," I said as we boarded a Greyhound in Pittsburgh
"Michigan seems like a dream to me now"
It took me four days to hitchhike from Saginaw
I've gone to look for America

Laughing on the bus
Playing games with the faces
She said the man in the gabardine suit was a spy
I said "Be careful his bowtie is really a camera"

"Toss me a cigarette, I think there's one in my raincoat"
"We smoked the last one an hour ago"
So I looked at the scenery, she read her magazine
And the moon rose over an open field

"Kathy, I'm lost," I said, though I knew she was sleeping
I'm empty and aching and I don't know why
Counting the cars on the New Jersey Turnpike
They've all gone to look for America
All gone to look for America
All gone to look for America




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