MLBの応援スタイル、球場でのファンサービス

2016年6月28日、間違いだらけの「ホットドッグのネーミングの起源」。「情報という強い酒」に酔うことを初めて覚えた20世紀初頭の若きアメリカ。
2013年8月13日、イチメーターさんのヤンキースタジアム観戦チケット入手にひと肌脱いでいるらしいBleacher Creaturesの"Bald" Vinnyの漢気。
2012年4月27日、1908年の試合告知ポスターにインスピレーションを得て作られたといわれる "Take Me Out To The Ball Game" の「元になったゲーム」を探り当てる。
2012年3月28日、Take me out To the ball game. 歌詞をドームに連れてって。
2011年5月8日、ちょっとビミョーすぎる(笑)イチロー応援ダジャレ軍団登場(笑) Ichiro’s Bleacheros!
2010年6月19日、 90年代ロックの熱を運んだroot、「インターステイト5号線」 〜 パール・ジャム、ガンズ・アンド・ローゼズ

June 28, 2016

「ネット検索して出てくる情報」が正しいとは、限らない。たとえそれがもっともらしく「Q&A形式」になっているとしても、だ。

そういう例のひとつとして、ボールパーク名物のひとつ、「ホットドッグのネーミングの起源に関する話を出発点に、いろいろと書いてみる。

「1908年ポロ・グラウンズで行われる野球の試合の告知ポスターが、"Take Me Out to the Ball Game"の作詞をてがけたJack Norworth (1879-1959)のインスピレーションの源だった」ことを2012年に記事に書いた。
2012年4月27日、1908年の試合告知ポスターにインスピレーションを得て作られたといわれる "Take Me Out To The Ball Game" の「元になったゲーム」を探り当てる。 | Damejima's HARDBALL

1908年にできた"Take Me Out to the Ball Game"の歌詞に、"Buy me some peanuts and Cracker Jack" とあることからして、20世紀初頭のMLBのでは既に「観戦中に観客が楽しむ食べ物」がボールパーク内で販売されていたことがわかる。もちろん「ホットドッグ」もそのひとつで、1900年代初頭には既に販売されていた。


STEP 1) 初歩的間違い

「ホットドッグ」というネーミングの起源に関して、よくある「間違った説明」は例えば以下のようなものだ。
1901年4月ニューヨークのポロ競技場にて。  
熱々のソーセージをパンに挟んだ「ダックスフント・ソーセージ」が売れに売れており、それを見たニューヨークジャーナル誌のスポーツ漫画家が,「Hot dachshund!」と声高に売られていた「パンに挟まれて湯気を立てているソーセージ」の漫画を描いて紹介した。だが、その漫画家は「dachshund」の綴りがわからず、その漫画の中で「Hot dog」としてこれを紹介した

もっともらしく書かれているが、「ポロ競技場」などという書き方で、そのいい加減さがわかる。「ポロ・グラウンズ」という言葉の意味もわからない人間がアメリカのスポーツ文化についてマトモな話ができるわけもない。おそらく「自分で何が書いてあるのかわからないまま、どこかのサイトから引用」して、下手するとそれを「機械翻訳した」だけだろう。

この説明文のいう「漫画家」とは、1900年代にニューヨーク・ジャーナル紙の漫画家だったTad Dorgan (Thomas Aloysius Dorgan 1877-1929)のことで、実在の人物ではある。

だが、Tad Dorganの経歴からわかることだが、「Tad Dorganが1901年にニューヨーク・ジャーナル紙にホットドッグの漫画を描く」ことなど、ありえない。
Dorganは1902年まで西海岸のサンフランシスコ・クロニクル所属であり、彼がニューヨークに転居するのが1903年(資料: "Word Myths: Debunking Linguistic Urban Legends" by David Wilton, 2008)、New York Journalで働きだすのはもっと遅れて1905年だ。

ハッキリした経歴との矛盾から「Tad Dorganがホットドックの命名者ではない」ことは、かなり前からアメリカの数多くのサイトと書籍に明記され、否定されてきた。加えて、現在にいたるまで「Tad Dorganが野球場のホットドッグを題材に書いた1901年の漫画」そのものがこれまでまったく発見されていない。
No one has found a copy of the cartoon said to have given the hot dog its name. Maybe the cartoon never existed.
Hot Dog History | NHDSC

ちなみに、日本のウェブ上には、この誤った「Tad Dorgan1901年命名説」をいまだに記載しているサイトが多数あるわけだが、その「元ネタ」をきちんと明示しているサイトはほとんど存在しない。ということは、そうしたサイトのほとんど全部が「Tad Dorgan1901年命名説」をまったく検証もせず載せているということだ。


書籍 "The Cooperstown Symposium on Baseball and American Culture, 2013-2014" (William M. Simons, 2015)によれば、「Tad Dorgan1901年命名説」のオリジナルは、1935年にCollier's誌に掲載されたジャーナリストQuenthin Reynoldsの記事だそうだ。

Collier'sはアイリッシュ移民だったPeter F. Collierが1888年に創刊した雑誌で、1892年には25万部を売り、当時アメリカで最も売れている雑誌のひとつだった。
Collier'sの売りは、記者が「埋もれている事実」を発掘してきて記事にするという独特の執筆スタイルにあった。Collier'sや、1893年創刊のMcClure'sなど、20世紀初頭の「追及型の記事スタイルの雑誌」を、アメリカのジャーナリズム史においてMuckraker(マックレイカー)と呼ぶ。
Collier'sやMcClure'sの一時的な成功は、1906年の演説で大統領セオドア・ルーズベルトが "muckraking journalism" と苦々しく呼んだように、第一次大戦前までのアメリカで多くの追従雑誌を生んだ。(Muckrakerは後年名称が変わり、Investigative journalism(=調査報道)などと呼ばれるようになった)

だが、Collier'sの創刊初期の宣伝文句は "fiction, fact, sensation, wit, humor, news" というものであり、Collier's自身が必ずしも「事実のみを報道する」とは言っていないのである。日本のジャーナリズムにありがちなことだが、Muckrakerが事実のみを追求した純粋な報道だったというのは、単なる思い込みに過ぎない。この点を忘れずに、ここから先を読み進めてもらいたい。

The Baseball Player by Norman Rockwell, Collier's June 28, 1919.Collier's 1919年6月号
イラストはノーマン・ロックウェル


STEP 2) 少しこみいった話

Madison Square Garden (1890)二代目Madison Square Garden
今では否定されている「Tad Dorgan1901年ポロ・グラウンズ説」にかわる説として、「Tad Dorgan1906年マジソン・スクエア・ガーデン説」というのもある。
これはTad Dorganが1906年にマジソン・スクエア・ガーデン(=1889年移設された二代目MSG)で開催されたいわゆる「6日間レース」でホットドッグに出会い、それをネタに漫画を描いたという説で、こちらのほうは書いた漫画も実在しているらしい。

だが、この説も残念ながら間違いだ。
イェール大学の学生の出版物などの資料によって、Hot Dogという表記が1900年より前からあったことがわかっている。たとえTad Dorganが1906年にホットドッグの漫画を描いたのが事実であっても、その時点では「ホットドッグ」という名称は「既にあった」わけだから、Tad Dorganの命名ではない。


ただ、1906年MSG説がちょっと面白いのは、なぜ話が「ポロ・グラウンズの野球」から突然「MSGの自転車レース」にすりかわったのか、という点だ。

ブログ主が思うには、 Tad Dorgan の2歳年下の弟、John L. DorganがMSGのPR責任者だったからではないかと思う。

Six-day racingというのは、1878年ロンドン北部イズリントンという町で開催された「2人組で6日間走りぬく耐久的な自転車レース」のことで、1891年にニューヨークのMSGで開催されるようになった。2人組の自転車レースに今でも「マディソン (Madison)」というレース方式があるが、そのネーミングは、100年ほど前に「Six-day racing」がMSGで開催されはじめたことに由来している。

Six-day racingはしばらくしてからアメリカで人気となって、逆輸出もされてヨーロッパ各地でも開催されたが、当初はあまり人気がなかったらしい。

と、なると、当時MSGのPR担当者だったTad Dorgan の弟、John L. Dorganが、ニューヨークメディアの漫画家である自分の兄に「なぁ、兄ちゃんよぉ、ちょっと人気がイマイチで困ってるんや。MSGの自転車レースをネタに、漫画をひとつ書いてもらえへんか?」と「頼んだ」のではないかと、ブログ主は考えた。

これが事実かどうかについては、これまで誰も追及していない。
ホットドッグのネーミングの起源をいい加減に書きつらねてきた人々は、Tad Dorganの弟がMSG関係者だったことにも、「1906年の自転車レース」というのが、ただの普通名詞ではなくて、「スポーツの殿堂でもあるMSG発祥の、歴史的なイベントのひとつだった」ことにも、まるで気づかないまま書いているのだから、当然だ。


STEP 3) 少しこみいった蛇足

1906年マジソン・スクエア・ガーデン」という話でどうしても書きくわえておきたいのは、同じ年、同じ場所で起きた実在の大スキャンダル、スタンフォード・ホワイト事件だ。

二代目MSGは、20世紀初頭のアメリカを代表するボザール出身の3人の建築家の設計事務所、McKim, Mead & Whiteの、スタンフォード・ホワイト(Stanford White, 1853-1906)が設計したものだ。

100年ほど経った今も数多く現存している彼らの作品群は、彼らがアメリカ建築史に永遠に名前を刻まれたレジェンド、いわば殿堂入り選手であることを物語っている。
1993年シカゴ万博の有名な白い建築群。イタリア産大理石に包まれたBoston Public Library(旧館)。荘厳なコロンビア大学のLow Memorial Library。Washington Square Arch。とても書ききれない。壮麗なアーチの美しさに時を忘れてみとれてしまう作品が多数ある。

Agriculture Building, Columbian Exposition, Chicago, 1893
Boston Public Library(旧館)
Low Memorial Library, Columbia University


その有名人が、自分が設計したMSGでミュージカルを観劇していて、不倫相手イヴリン・ネズビット(Evelyn Nesbit, 1884-1967)の夫、富豪ハリー・ソーに射殺されるという悲惨な事件が、スタンフォード・ホワイト事件だ。
1906年6月25日、色男でオンナ遊びに忙しいスタンフォード・ホワイトと、ハリー・ソー夫妻は、昼間レストランで、そして夜遅くにMSGのミュージカルで、二度顔を合わせた。曲が演奏される中、いきなり立ちあがったハリー・ソーはホワイトの顔面に鉛の弾を3発も撃ち込んだ。おそらく二度も顔を合わせたことでブチ切れたのだろう、

Evelyn NesbitEvelyn Nesbit

この事件の裁判では、ネズビットがハリー・ソーの母親にカネをちらつかされ、夫ハリー・ソーに有利な証言をしたこともあり、なんとハリー・ソーは「一時的な狂気」として罪を逃れた。ちなみに、ハリー・ソーの母親は結局ネズビットにカネを払わなかったというから、したたかすぎる。

この事件は何度も映画化されていているが、リチャード・フライシャー監督『夢去りぬ』(The Girl in the Red Velvet Swing)では、イヴリン・ネズビット本人が監修しているため史実に近いらしい。
なお、原題のRed Velvet Swing(赤いベルベットのブランコ)とは、スタンフォード・ホワイトが24丁目に持っていたアパートの「隠し部屋」の天井からぶら下がっていたブランコのことで、ネズビットが裸に近い恰好でブランコをブラブラさせて遊んだという実話が由来になっている。

こうした突拍子もない事件に「1900年代のスキャンダルが死ぬほど好きなメディア」が飛びつかないわけはない。ウィリアム・ランドルフ・ハースト系列の新聞メディアなどは、この裁判を「世紀の裁判」(Trial of the century)などと謳って、連日記事にして儲けたらしい。


STEP 4) 単純で、あまり面白くもない「真実」

さて、話をhot dogに戻して英語辞書をウェブ上でひくと、こんな結果が出てくる。
hot dog (n.)
also hotdog, "sausage on a split roll," c. 1890, American English, from hot (adj.) + dog (n.). Many early references are in college student publications; later popularized, but probably not coined, by cartoonist T.A. "Tad" Dorgan (1877-1929).

Meaning "someone particularly skilled or excellent" (with overtones of showing off) is from 1896. Connection between the two senses, if any, is unclear. Hot dog! as an exclamation of approval was in use by 1906.

hot-dog, n.
1. One very proficient in certain things. 2. A hot sausage. 3. A hard student. 4. A conceited person. ["College Words and Phrases," in "Dialect Notes," 1900]
The Online Etymology Dictionary

どうやらアメリカの19世紀末の英語では「ソーセージ」のことを dog と表記する表現があったり、あるいは、傑出した人物、勤勉な学生のことを hot dog などと呼ぶ表現もあったらしい。

実際、前述のWord Myths: Debunking Linguistic Urban Legendsによれば、1884年のイェール大学の学内新聞Yale Recordに、 "dog" という単語を「ソーセージ」という意味で使っていたという記述例らしきものが複数みつかっているらしい。このことから、同書は「ホットドッグのネーミングの起源」として、「19世紀末の大学では、dogはソーセージと同義語として使われていた」という、味もそっけもない拍子抜けな結論(笑)を導きだした。(なお「大学内のスラングがなぜ世間に広まったか」は説明されていない)
Yale Recordにおける1985年の使用例
But I delight to bite the dog
When placed inside the bun
Word Myths: Debunking Linguistic Urban Legends - David Wilton - Google Books


STEP 5) Tad Dorganのための、蛇足の蛇足

これはジャズ・スタンダードのひとつ、But Not for Meという曲の歌詞だ。(曲はジョージ・ガーシュイン、作詞はその弟で作詞家のアイラ・ガーシュイン)
Old man sunshine listen you
Don't tell me dreams come true
Just try it and I'll start a riot
Beatrice Fairfax don't you dare
Ever tell me he will care
I'm certain it's the final curtain
I never want to hear from any cheerful Polly-Anna's
Who tell you fate supplies a mate - it's all bananas



この歌詞に it's all bananasという不思議な表現がある。これはTad Dorganが作った「気が変になる」という意味の造語 go bananas からきているらしい。
他にも、"cheaters"、"drugstore cowboy"、"hard-boiled" などがスラングづくりの天才といわれたDorganの作といわれていて、たとえHot DogがDorganの創作でないとしても、Dorganが多彩な才人だったことには疑いない。(ただ「ハードボイルド」に関して「ブロードウェイでビリヤードの教習所を開いていたJack Doyleという人物が発明者だ」なんて説もあるくらいで、Dorganのオリジナリティは常に霧の中に包まれている)



ここまで長々と書いたが、以上の事象のすべてに共通していることは、Tad Dorganの活躍した19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカが、新しい言葉、新しいメディア、新しいビジネスが次から次へと生まれた「若さあふれる時代」、「アメリカが本当に若かった時代」だったということだ。


この時期に生まれた初期のマス・メディアを「アメリカでジャーナリズムがまだ飼いならされていない、アメリカが正義感に溢れた時代」と、やたらと称揚したがる人が多い。

だが、Collier'sに掲載された「hot dogのネーミングの語源に関する記事」が実は根拠のない間違ったものだったにもかかわらず、Tad Dorgan起源説が長く信じられてきた。
記事が間違いであることは当時のTad Dorganの経歴を調べれば誰でも簡単に指摘することができるわけだが、それが長年行われてこなかったのは、「Collier'sのジャーナリズムは高級だから、間違ったりはしないだろう」という先入観によるものだったのではないだろうか。


ブログ主にいわせれば、19世紀末から20世紀初頭の非常に若さに溢れていた時代のアメリカの人々が、日々起こるニュース、新製品、新しいスポーツ、新しい言葉、新しい食べ物、企業や有名人のスキャンダルなど、さまざまな「新しさ」に飛びつくことが、3度のメシより好きだった理由は、けして「真実を貴ぶ気持ちから」ではなく、むしろ単純に、それらが情報として強い刺激に満ち満ちた「スキャンダラスなまでの赤裸々さ、なまなましさ」に溢れていたことが理由だろうと考える。

つまり、当時の彼らにとっては、Tad Dorganが作ったスラングも、スタンフォード・ホワイト事件も、ウィリアム・ランドルフ・ハーストのイエロー・ジャーナリズムも、Collier'sのInvestigative journalismも、「赤裸々さ」、「リアルタイムさ」、「なまなましさ」という点で、たいした差はないのである。


いいかえるなら、「情報」という「強い酒」に酔うことを初めて覚えた、それが、「20世紀初頭の若きアメリカ」だったのだろうと思うのだ。

damejima at 07:47

August 14, 2013



New York Yankees Logo日米通算4000本まであと「6本」と迫ったイチローだが、日本で「イチメーターさん」として知られているAmy Franzさんが、イチローの日米通算4000本安打達成を東海岸で応援しようと、ニューヨークにかけつけるにあたって、どうもチケット入手に手こずっているらしいことはツイートを垣間見てわかっていたのだが、どうやら、ヤンキースタジアムの外野席からゲーム開始時にBleacher CreaturesRoll Callをやっている"Bald" Vinnyこと、Vinny Milanoさんが、彼女のヘルプをかってでて、チケット入手に奔走しているらしい。

漢気ですな。
鳥肌たったわ。

Born Awesome, you. @baldvinny #FansHelpingFans

Bald Vinny インタビュー:Talking Baseball With Die-Hard Yankee Fan & Bleacher Creature Bald Vinny | Bleacher Report



エイミーさんがいつニューヨークで観戦する予定なのかは知らないけども、ヤンキースのスケジュールは、エンゼルス4連戦はホーム、その後のボストン3連戦はビジター、そのあとのトロント4連戦はホーム
シアトル時代のイチローはけっこう色んな記録をビジターで達成してた気もするけども(苦笑)、できればここはひとつ、ヤンキースタジアムでの記録達成でファンに気持ちよくオベーションされてほしいものだ(笑)


もちろん、イチローは今はシアトルではなくヤンキースのプレーヤーなのだから、エイミーさんとの交流よりも、まず第一義としては、ヤンキースファン全体と、ヤンキースのために日頃からいろいろと世話を焼いてくれているBleacher Creaturesとその団長である "Bald" Vinny への感謝を忘れずにパフォーマンスしてくれたら、それこそclassy、最高だと思う。(もちろん彼は義理堅い男なのだし、そんなことを外から言うまでもないが)

Ali Ramirez and his Cowbellなにせ、カウベルがトレードマークだったBleacher Creature創立者Ali Ramirez(左の写真)の代からヤンキースを見守ってきたBleacher Creaturesとの関係を深めるいい機会なのだ。これを逃がす手はない。
イチローの先日のグリフィーへのビデオレターは非常に多くのMLBファンから広く賞賛を集めた。プレーヤーは、成績を積み重ねたら、あとはclassyでタイムリーな行為を積み重ねることで、ひとつひとつレジェンドへの階段を上がっていくべきだ、と思う。また、そうした振る舞いは、ひとつの「古き良きヤンキースらしさ」でもある。

ヤンキースタジアム初めてのロールコールに脱帽して応えるイチロー
ヤンキース移籍後、ヤンキースタジアムで初めて受けた「ロールコール」に脱帽して応えるイチロー。(2012年7月27日ボストン戦 8番ライト 4打数1安打2得点)

bleacher""bleacher"

元の意味では、左のイラストのごとく単なる「外野席」という意味だ。だが、こと「ヤンキースタジアムの外野席」でいう "Bleacher Creature" は、直訳すると「外野席の生物」、もっと正確に書く「ヤンキースの試合を価格の安い外野席からしか観戦できないような階層の人たち」という社会のクラスターを示す意味が含まれており、話は単純にはいかない。
MLBにおいて「外野席」が「どういった経緯で誕生した」かという経緯は、以下の記事に既に書いたことでもあるが、とても短くまとめられる話ではない。
2014年3月29日、『父親とベースボール』 (11)「外野席の発明」 〜20世紀初頭の「新参の白人移民の急増」と「ホームラン賞賛時代」の始まり。 | Damejima's HARDBALL
「外野席の誕生」は、移民の国アメリカの歴史の構造そのものにまつわる話でもあり、少なくとも、ヤンキースタジアムの "Bleacher Creature" は、そうした「約100年前のボールパークで起きたこと」を現代に引き継いでいるのである。


damejima at 02:19

April 28, 2012

名曲「野球小僧」を歌った灰田勝彦さん(以下敬称略)の持ち歌に、『真赤な封筒』という曲がある。

この歌の原曲というのは、インディアナポリス出身のAlbert Von Tilzer (1878-1956) の作った「Oh By Jingo!」という歌らしい。(資料:NAKACO'S CRAFT'S WEBLOG

Albert Von Tilzerという人物は、なんと、あの"Take Me Out to the Ball Game" (邦題『私を野球に連れてって』)を作曲した人物。ラプソディ・イン・ブルーなどで知られるジョージ・ガーシュウィンなどと同様、19世紀末のニューヨークのいわゆるティン・パン・アレーTin Pan Alley)で、シアター産業に供給する音楽が量産されていた時代の作曲家のひとりだ。

つくづく、灰田勝彦さんという人は野球に縁があるらしい。


1950年代の日本では『歌う野球小僧』などのミュージカル映画が非常に数多く生産されているのだが、そのルーツはアメリカのミュージカル(舞台や映画)に行きつく。
(このへんの詳しい事情についてはもちろん、小林信彦さんの一連の著作を読んで、フレッド・アステアの『イースター・パレード』(1948)とか『バンドワゴン』(1953)、ジュディ・ガーランドの『The Wizard of Oz(オズの魔法使い)』(1939)などの名作映画を観るなりしたほうが間違いがない)


灰田勝彦さんが育ったハワイのミュージシャン、IZ (Israel Kamakawiwoʻole 1970-1997)バージョンの
"Over the Rainbow"


かつて野球と、映画や音楽との関わりは、非常に親密なものだった。

日本の映画産業は1950年代にたいへんな繁栄期を迎えていたが、その時代は同時に、プロ野球が黎明期を終わって、英語でいうnational passtime、国民的娯楽になりつつあった時代でもあった。
つまり、野球が国民的娯楽になってきた時代は、同時に映画産業の最初の興隆期でもあるのであって、50年代に日本の大映松竹東映など、当時の景気がよかった大手映画会社がこぞってプロ野球チームを持ち、さらに野球映画も数多く製作しているのには、ちゃんと理由がある。
「ミュージカル」は、「ベースボール」や「ジャズ」と並んで、アメリカで発明された最もアメリカらしい文化のひとつだが、日本で野球をテーマにしたミュージカル映画が作られたことは、当時として自然な流れだった。


さて、"Take Me Out to the Ball Game"の作詞をてがけたのは、Jack Norworth (1879-1959)である。


この曲の歌詞が出来た経緯については、「1908年に彼がニューヨークの地下鉄に乗っていて、あるポスターを見て、この歌詞を思いついた」というのは非常に有名な話だ。(だが、どういうわけか知らないが、日本のWikiにはこの部分に関する記述が欠けている)

そのポスターは「野球の試合の告知ポスター」で、
こう書かかれていた。
"Baseball Today ― Polo Grounds"

もちろん Polo Grounds というのは、1958年にサンフランシスコに移転する前までニューヨークにあったジャイアンツの本拠地球場のことだ。
参考記事:カテゴリー:『1958年の西海岸』 特別な年、特別な場所。 1/12ページ目 │ Damejima's HARDBALL


非常に興味深いのは、作詞者 Jack Norworthがニューヨークの地下鉄の車内で見た野球の試合のポスター」というのが、いったい、「何月何日の、どんなカードのゲームだったのか?という点だ。


以前、一度書いたように、ニューヨーク時代のジャイアンツは、本拠地ポロ・グラウンズを他球団に貸し出していた
2010年8月25日、セーフコ、カムデンヤーズと、ヤンキースタジアムを比較して、1920年代のポロ・グラウンズとベーブ・ルースに始まり、新旧2つのヤンキースタジアムにも継承された「ポール際のホームランの伝統」を考える。 | Damejima's HARDBALL

2012年3月21日、1958年ドジャース、ジャイアンツ西海岸移転に始まる「ボールパーク・ドミノ」  (1)エベッツ・フィールド、ポロ・グラウンズの閉場 | Damejima's HARDBALL


だが、ポロ・グラウンズが、例えばヤンキースの前身であるニューヨーク・ハイランダーズのような他球団、あるいはフットボールの試合のために「貸し出された」のは、「1913年以降」の話だ。

したがって、「1908年にニューヨークの地下鉄の中で、Jack Norworthが見た『ポロ・グラウンズで開催される野球の試合』の告知ポスター」とは、「ポロ・グラウンズを借用していたチーム」のゲームではなく、明らかに、1908年当時にポロ・グラウンズを本拠地にしていた唯一の球団である、ニューヨーク・ジャイアンツのホームゲームを告知するポスターであることが確定できる。


アメリカ野球に関する優秀なリサーチサイトBaseball Researcherの調査によると、"Take Me Out to the Ball Game" が楽曲として著作権事務所に申請された日付が「1908年の5月2日」であることがわかっている。
On May 2, 1908, "Take Me Out to the Ball Game" was submitted to the United States Copyright Office.

Baseball Researcher: Take Me Out to the Ball Game Polo Grounds

ならば「Jack Norworthが見た試合告知ポスター」の「日付」をさらに絞りこむことが可能になる。


1908年当時のゲームログを、Baseball Referenceで調べてみると、"Take Me Out to the Ball Game" が著作権事務所に申請された5月2日までのニューヨーク・ジャイアンツのホームゲームの日程と対戦相手は、以下の通りであることがわかる。

4月22日〜25日 ブルックリン・ドジャース戦
5月2日〜4日 フィラデルフィア・フィリーズ戦

1908 New York Giants Schedule, Box Scores and Splits - Baseball-Reference.com


もし、「Jack Norworthが、ポスターを見て詞を書いて、その直後に著作権事務所に行った」と仮定すると、可能性があるのは、5月3日、5月4日の試合会場はポロ・グラウンズではないことから、「4月22日から25日えまでの対ブルックリン・ドジャース4連戦」か、もしくは「5月2日フィリーズ戦」の「2つの可能性」しかない。

著作権事務所に出すための書類や楽譜などをそろえるための手間などを考えると、常識的に考えてJack Norworthが見たポスターは、どうみても「4月末のポロ・グラウンズで行われたドジャース4連戦を告知するポスター」だっただろう、ということにはなるが、「5月2日フィリーズ戦」である可能性も、けしてゼロではない。(もちろん、詞と曲が揃っていたか、という問題はある)


ここでちょっと、Jack Norworthの書いた"Take Me Out to the Ball Game"のオリジナル原稿を見てほしい。5か所の単語が入れ替られていることを除けば、「ほぼ修正されていない」。
出典:Larry Stone | "Take Me Out to the Ball Game" turns 100 years old | Seattle Times Newspaper


"Take Me Out to the Ball Gameのオリジナル原稿"
(クーパーズタウンのMLB野球殿堂所蔵)

オリジナル原稿で見ると、たった5つ程度の単語の入れ替えを除けば、大きな修正はほとんど無く、この詞が最初からほとんど完成レベルにあったことがわかる。
このことからして、"Take Me Out to the Ball Game"の詞は、地下鉄車内でほぼ完全な形に書き上げられていた可能性が高い
、と見ることができる。


事実、2009年4月8日のTimeの記事(ライター:Frances Romero)にによれば、「Jack Norworthは、ポロ・グラウンズでの野球の試合告知ポスターにインスピレーションを得て、地下鉄車内で、持っていた封筒の裏に15分以内に書きとめた」とある。
One day while riding a New York subway, Norworth saw a sign that read "Baseball Today ― Polo Grounds." And in 15 minutes, he had scribbled the words of his fun-time anthem on the back of an envelope
'Take Me Out to the Ball Game' - TIME

「語句の修正の少なさ」、そして、「地下鉄に乗ったとき、たまたま持っていた封筒の裏に書きつけるような慌ただしさ」から推察して、この詞が「非常に短時間で完成レベルに達した」ことは、資料的にも裏付けられている。


これだけ完成度の高いレベル作品、ほぼ瞬時に書き切ることのできた作詞者Jack Norworthが、ただ著作権を出願する、それだけのために、1週間から10日間も手元に置いておくとは、当時のティン・パン・アレーの状況からして、到底思えない
むしろ、「書いたその日のうちに著作権事務所に向かう」ということだって十分ありえるのが、当時のティン・パン・アレーという場所独特の「スピード感」なのだ。


楽譜出版社や演奏者のエージェントが集まったティン・パン・アレーはとにかくスピードが命の町で、この忙しい街に「ティン・パン・アレー」という「鍋や釜」を意味する名前がつけられたのも、ラジオもテレビもまだなく、また、レコード自体がまだ高価だった時代に、楽譜を買いにくる客のために目の前でその曲をピアノで弾いてみせて楽譜を買ってもらう商売のやり方が流行し、また、楽譜出版社が曲の宣伝の為にピアニストに試演させたりもしたため、町中がなにか「鍋や釜を叩いているような賑やかさ」に満ちていただったからだ。(ブルックリン生まれのジョージ・ガーシュインも、元はそうした試演ピアニストのひとりだった)

音楽を大量に作って、即座に売り、ヒットしそうならすぐに舞台や映画にもする、そういうスピード感で生きていた作詞家が生みだしたのが、この "Take Me Out to the Ball Game"なのだ。


だから、Jack Norworthにインスピレーションを与えた告知ポスターが示していた「試合の日付」は、「1908年4月22日〜25日のポロ・グラウンズにおけるニューヨーク・ジャイアンツ対ブルックリン・ドジャース戦」である可能性が高いが、「同年5月2日ポロ・グラウンズのニューヨーク・ジャイアンツ対フィリーズ戦」のポスターを見て、たった15分で詞を書きあげ、その日のうちに曲がついて著作権事務所で登録したという可能性も完全には否定できないのである。

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Take me out to the ballgame,
Take me out with the crowd.
Buy me some peanuts and Cracker Jack,
I don't care if I ever get back, 'cause it's root, root, root for the home team,
if they don't win it's a shame.
For it's one , two, three strikes you're out,
at the old ballgame.


Tin Pan Alley
Tin Pan Alley

damejima at 09:01

March 28, 2012

Seattle Mariners日本開幕ロゴ

今夜、東京ドームにいる人で、Take Me Out to the Ball Gameの歌詞を覚えてない人のために、あらかじめ歌詞をアップしてみた(笑)
seventh inning stretchに、携帯でこのサイトを表示して、見ながら歌うといいと思う。

Take me out
To the ball game
Take me out
With the crowd
Buy me some peanuts
And Crackerjack
I don't care if
I never never get back

Let me root, root root
For the home team
If they don't win
It's a shame
For it's one, two,
Three strikes you're out
At the old ball game!


Take Me Out to the Ballgame
Written By: Jack Norworth & Albert Von Tilzer



root for:熱狂的に応援する
Crackerjack
Sailor Jackと愛犬のBingoをマスコットにしたアメリカのお菓子

Cracker Jack

Cracker Jack

Cracker Jack




damejima at 09:10

May 09, 2011

MLBの観客では、時々だが、特定の選手を応援するために仮装してスタジアムにやってくる「ダジャレ仮装応援団」が発生することがある。

彼らの特徴は
1)選手名にひっかけたダジャレをチーム名にする
2)仮装する
3)外野席で大騒ぎ(笑)

だいたい、これだけ(笑)
特に大事なのは、ダジャレだ。

ぶっちゃけ、こういうことをやるのに、たぶん深い意味は無い(笑)
楽しいからやるのだ。誰にかまうことがあるか、てな感じ(笑)

だが、まぁ、あえて言うなら、その選手が、ここまでして応援してもらえるほど、地元の熱心なファンから熱狂的支持を集めているという証拠、とはいえる。



デービッド・コーン David Cone 応援団
とうもろこし頭軍団「コーンズ・コーンナー」

デービッド・コーン応援団「コーンズ・コーンナー」1988年シェイ・スタジアムで、デービッド・コーンを応援する「コーンズ・コーンナー」の皆さんたち(笑)

なんというか、こう・・・「コーンって言いたいだけやろ、おまえ!」みたいな、愛すべきお馬鹿な人たち(笑)が、外野席のコーナー、つまり隅っこ、というか、ドハズレに陣取って応援しているのは、サイ・ヤング賞投手で完全試合も達成したデービッド・コーン

コーンは、(あらためて説明する必要もないだろうが)サイ・ヤング賞(1994年)、1999年7月18日の完全試合達成、リーグ最多勝4回(1988、94、95、98年)、最多奪三振2回(90年〜91年)など多数の大記録と、5回のワールドシリーズ優勝(トロント1回、ヤンキース4回)によって、近年のMLBファンに強烈な印象を残して2003年5月に引退した素晴らしい右腕。
David Cone Statistics and History - Baseball-Reference.com
これほどの成績のデービッド・コーンだが、2009年リッキー・ヘンダーソンが野球殿堂入りした時の投票で、得票率が5%以下しかなく、すでに殿堂入り候補者リストから脱落している。殿堂は20勝を何回も達成した選手でも無理な、厳しい世界なのだ。

以下に他の例をいくつか挙げてみる。ちょっと見ただけで、「ああ、本当にダジャレだけなのね・・」とわかってもらえるはず(笑)けしてむつかしく考えてはいけない(笑)

ゲイリー・シェフィールド Gary Sheffield 応援団
「シェフィールズ・シェフ」

ゲイリー・シェフィールドを応援する「シェフィールズ・シェフ」たぶん・・応援というより・・・
シェフ」って言いたかっただけ。みたいな(笑)


ブライアン・マッキャン Brian McCann 応援団
「マッキャンズ・カン」

ブライアン・マッキャンを応援する「マッキャンズ・カン」(笑)これも・・たぶん
カン=缶」って言いたかっただけだろうな(笑)


今年、11年連続200本安打などの大記録を目指すイチローにも、5月のホワイトソックス戦で、とうとう(笑)こうしたダジャレ応援軍団がついた。
その名も、
イチローズ・ブリーチェロズ!
Ichiro’s Bleacheros


Ichiro’s Bleacheros! Fanboys go blond for Mariners’ star - Big League Stew - MLB Blog - Yahoo! Sports

Ichiro’s Bleacheros


ううむ・・・金髪のウィッグ(かつら)が正装らしい・・・。
これ、喜んでいいのか?(笑)迷うぞ(笑)なんで金髪のウィッグ・・・。


bleacherというのはそもそも、こういう「外野席」のことだ。
アメリカの学校とかの小さなスタジアムにはたいていある。
bleacher

bleacher reportという、アメリカのスポーツファンのための有名サイトがあるが、あのbleacherは、日本語でいう「外野からモノを言う」というときの「外野」、すなわち、なにかにつけてクチうるさい観客を意味している。

シアトルのイチローファンが、チーム名をつけるにあたって「ブリーチェロス」bleacherosと、「外野席」を意味する「ブリーチャー」bleacherに、アルファベットを2文字くっつけたのは、もちろん、イチローの「ロー」にひっかけたかったからだ。・・・・と、いちいち説明を加えないと理解できないような苦しすぎるダジャレをチーム名にするあたり、このオジサンたち(というか、おじいちゃんたち)は、タダモノではない(笑)
たはははは(笑)

金髪軍団の正体は、セーフコのシーズンシートのチケットを持っているシアトルのおじいちゃんたちである。詳細はリンク先記事参照。






damejima at 04:35

June 20, 2010

セーフコとLondon Bridge Studio

ニルヴァーナと並ぶシアトル出身のオルタナティブ系バンドの雄、パール・ジャムのデビューアルバム「 Ten 」がレコーディングされたのは、London Bridge Studioだ。マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドから、Interstate Highway 5 (インターステイト・ハイウェイ5号線)を真北に約16マイルのところにある。

シアトルで録音されたパール・ジャムのデビューアルバム TenTen

Recorded March 27 – April 26, 1991 at London Bridge Studios, Seattle, Washington

インターステイト・ハイウェイの「番号」は、「奇数」はアメリカ大陸を「南北」に走る道路、「偶数」は「東西」に走る道路、というふうになっていて、また、「5の倍数」は特に重要な道路につけられている。

だから、「5号線」といえば、「アメリカを南北に走る重要な高速道路のひとつ」という意味になる。(下の地図の赤線部分)
Interstate Highway 5>


Interstate Highway 5の標識トランスカナダ・ハイウェイ British Columbia Highway 1

インターステイト5号線は、南はメキシコ国境から、パドレスの本拠地カリフォルニア州サンディエゴ、エンゼルスのあるアナハイム、ドジャースのあるロサンゼルスを通り、さらに北上して、パドレスのマイナーのあるオレゴン州ポートランドやマリナーズのマイナーがあるタコマを通って、シアトル、さらにはカナダ国境にまで達する総全長1381.29マイル=約2200キロもの長い長い高速道路だ。

さらに、5号線はカナダ国境で終わりだが、道はその先もトランスカナダ・ハイウェイというカナダの大陸横断高速道路British Columbia Highway 1に繋がっていて、シアトルのすぐ北にある冬季オリンピックが開かれたバンクーバーを通る。この道は、はるか彼方の大西洋岸までカナダの大陸を横断する。

2つの高速道路は長大な道路だが、カナダ人はアメリカ人がフリーウェイを作るような熱心さはもたないらしく、トランスカナダ・ハイウェイ1号線は、ところどころが他の国道とダブっていたり、州ごとにナンバリングが変わったりしていて、アメリカのフリーウェイとはまた違う顔をしている。



パール・ジャムのヴォーカリスト、エディ・ヴェダー Eddie Vedderがシアトル・マリナーズの大ファンだ、という人がいるけれども、彼が熱心な野球ファンなのは間違いないにしても、一番お気に入りのチームは、たぶん生まれ故郷のシカゴ・カブスだ。
実際、カブスのための曲を書いたりしているし、リグレー・フィールドで7回裏のお約束の歌「私を野球に連れてって」(Take Me Out To The Ball Game)を熱唱してみせたり、何度もカブス関係の話題になっている。
Eddie Vedder writes song for baseball team | News | NME.COM



シアトルの有名バンドの一員とはいえ、エディ・ヴェダーはそもそもシアトルの生え抜きではないから、しかたない。彼の生まれはイリノイで、それからサンディエゴ、イリノイ、ロサンゼルスと住まいを移りながら、成功のチャンスをうかがっていたところに、シアトルのバンドがヴォーカルを探しているという話が舞い込み、元レッド・ホット・チリ・ペッパーズジャック・アイアンズの紹介でヴォーカリストに抜擢されたという経緯があってパール・ジャムに後から入っている。
いわば、エディ・ヴェダーは「インターハイウェイを北上して」成功をおさめたわけだ。

そこへいくと、同じパール・ジャムでも、ギタリストマイク・マクレディは、セーフコを訪れてユニフォームに袖を通したこともあるくらいで、れっきとしたシアトルファンだ。彼は生まれはフロリダ州ペンサコーラだが、育ったのはサンディエゴで、いまは奥さんと2人の子供とともにシアトルに住んでいる。
そういう意味でマイク・マクレディはいまやシアトルの「ローカル」なわけで、マリナーズに対する熱意だけでいうなら、マクレディのほうがよっぽど熱心だろう。

<b>パール・ジャム</b>のギタリスト マイク・マクレディ パール・ジャムのギタリスト
マイク・マクレディ

Mariners Blog | Mariners will try to "string'' some hits together, starting with Pearl Jam guitarist Mike McCready | Seattle Times Newspaper



とにもかくにも、上に書いたようなさまざまな経緯で集まったパール・ジャムのメンバーたちは、結成にあたって、それぞれの「思惑」を抱えて、車でインターステイト5号線を行ったり来たりしたのだろう。エディ・ヴェダーがヴォーカルのオーディションのために急遽当時住んでいたロサンゼルスからシアトルにやってきたり、パール・ジャム結成後セッションやレコーディングのためにセーフコの北にあるLondon Bridge Studioに通ったり。


逆に、元ガンズ・アンド・ローゼス(現ジェーンズ・アディクション、ヴェルヴェット・リヴォルヴァー)のベーシストダフ・マッケイガンは、シアトルの「生え抜き」だが、エディ・ヴェダーやマイク・マクレディと逆に、シアトルからロサンゼルスに出て成功を収めた。
シアトル出身のマッケイガンは、ダブル・ボブルヘッド・デーにわざわざVIP席ではなく、ごく普通のスタンドに座って観戦に来るくらいだから、マリナーズファンなのは間違いない。
彼は、エディ・ヴェダーと逆に、「インターハイウェイ5号線を南下して」成功を手にしたことになる

ダメ捕手、城島健司。The Johjima Problem.:2010年6月18日、イチローとグリフィーのダブル・ボブルヘッド・デーにふらりとやってきた元ガンズ・アンド・ローゼスのダフ・マッケイガンは「レイカーズが大嫌いなんだ」と言った。


インターステイト5号線、それは
90年代ロックの熱を運んだroot(道、根っこ)でもあるのだ。

damejima at 20:55

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  • 2014年10月31日、PARADE !
  • 2013年11月28日、『父親とベースボール』 (9)1920年代における古参の白人移民と新参の白人移民との間の軋轢 ヘンリー・フォード所有のThe Dearborn Independent紙によるレッドソックスオーナーHarry Frazeeへの攻撃の新解釈
  • 2013年11月8日、『父親とベースボール』 (8)20世紀初頭にアメリカ社会とMLBが経験した「最初の大衆化」を主導した「外野席の白人移民」の影響力 (付録:ユダヤ系移民史)
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  • 2013年6月1日、あまりにも不活性で地味な旧ヤンキースタジアム跡地利用。「スタジアム周辺の駐車場の採算悪化」は、駐車場の供給過剰と料金の高さの問題であり、観客動員の問題ではない。
  • 2012年7月3日、『父親とベースボール』 (2)南北戦争100年後のアフリカ系アメリカ人の「南部回帰」と「父親不在」、そしてベースボールとの距離感。
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  • 2012年6月29日、『父親とベースボール』 (1)星一徹とケン・バーンズに学ぶ 『ベースボールにおける父親の重み』。
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